はじめに
島尾敏雄の『幼年記』には二種類の刊本がある。昭和四十二年の徳間書店版と四十八年の弓立社版である。どちらも熱烈な理解者である宮下和夫氏の力で世に出たのだが、その原形は昭和十八年九月に七十部印刷されたという私家版『幼年記』である。
九州帝国大学の史学科を繰上げ卒業した島尾敏雄は、それを親しい人々に配ってから海軍予備学生に志願する。いわば彼自らの手で編集された遺稿集であった。しかし、生還してしまった島尾の生の軌跡を示すが如く、刊本の二冊は順次に前の本を包みながら膨らんできた。この自己増殖のしかたにまず注目したい。ちなみに弓立社版は、まるで完璧な遺稿集であるかのように、子供の頃の作文から死を前にした書簡まで収められているのであった。
さて、その冒頭に載っているのは「ボクのナガグツ」という七歳のときの作文である。七歳という年齢ではなく、それを保存しておいたこと、いかに遺稿集とはいえそれを収録したことに瞠目すべきなのである。書くこと、活字にすることへの執着はやはり島尾の特質ではないだろうか。
自作年譜を見ると、小学三年の頃から神戸商業学校時代にかけて一人で定期的に小冊子を作っている。それが発展して、仲間と同人誌『峠』を始めることになる。その間の事情を島尾は次のように語っている。
だれにも頼りようのない不眠の寂寥の歳月の中で、どんな因果からやがて文学の方に片寄っていったかがはっきりわからないとしても、遂に理解することができなかった「天路暦程」の貧しいと見えた想像力の失望の中から或る感情が動いてきて、片仮名のゴム活字や小さな謄写版を買ってもらい、たったひとりで定期的なパンフレットを印刷しはじめたパラドクシカルな経緯のあたりにその端緒を考えてもいいのではないかと思う。(「死について」)
島尾敏雄はこのように幼時から書くこと、記録することに執着してきた。まるでそれが「世間との不適応」(前掲書)の部分を埋める唯一の行為であるかのように、ひたすら書いてきた。書きつつ生を見出してきた。それは彼の体に染み込んで気質にまでなった。そして『こをろ』という同人誌に、次のように書いたのは昭和十五年のことである。
私は生涯に小さくてもいい、しゃれた童話集を一冊持ち度い。岩波文庫に、島尾敏雄童話集★。
島尾敏雄は「震洋」という特攻艇の隊長として、奄美大島に隣接した加計呂麻島に駐留する。(この南島からスタートしたことこそ決定的事態なのだ。彼のその後の生は常にこの南島を軸にして経めぐる)。出発することは死以外の何ものをも意味しない特攻の準備の中で、なおかつ島尾は書くことを止めない。弓立社版の『幼年記』が前の二冊に独立して価値があるのは、いつに大平ミホという島の娘さんとの「戦中往復書簡」の初出にある。次に引用するのは、ミホさんの方からの書簡である。二十年七月二十八日の日付がある。
どんなことを云はれてもミホはいいのですけど。隊長さまの御名誉にかかわります。あなたは「国の神様」みんなから仰がれていらっしゃる御立派なお方なのでございます。どうぞ永遠に国神として島の守護神として美しく仰がれて下さいませ。
ここに表われている島尾隊長の神格化が、生の側に還った二人にどのような影響を与えているかは、島尾を論ずる者の等しく注目するところである。
さて、生涯に一冊の童話を残したいという島尾の願望は、「はまべのうた」となって結実している。それを彼は「基地の木小屋の隊長室で書いた」のである。昭和二十年八月二日の手記(弓立社版『幼年記』)には、次のようにある。
それは祝桂子と呼ぶ初等科三年の女児とその先生である一人の婦人であつた。私は明日をも知れぬ日々のいのちであるのに、奇妙に充実した生命がつけ加えられる思ひをした。私は顛へるやうな悦びのなかで童話を書き綴つて、それに「はまべのうた」といふ名前をつけた。
遺書のつもりでミホさんや友人たちにその清冽な童話を贈り、島尾はひたすら死にゆく時を待つ。そして島尾隊が発進するという日、ミホさんもまた遺書を書いて自決覚悟で浜辺に立つ。しかし幸運にも、出発は遂に訪れないままに八月十五日を迎えたのだった。
「未着の死」を共有した島尾敏雄とミホ夫人のその後はどうなるのか。いまは島尾敏雄が自分の生を、いかに「書くというところに焦点を合わせているか」を強調するに留めて置く。
戦後、記録する人・島尾敏雄は、自らの戦争体験の周辺を童話風に描き、さらにその記録はついに夢の領域にまで及ぶ。
「うつつの時とは別の体験をつかまえた」ところの『単独旅行者』、『格子の眼』を刊行。また「出孤島記」によって第一回戦後文学賞を受賞し、昭和二十七年、神戸外語大助教授という職を捨てて上京。と同時に、島尾における童話の時代は終りを告げる。島尾敏雄はすでに〈マレビト〉でも〈隊長〉でも〈島の守護神〉でもなかった。二人の子供をかかえての市民生活を都会の片隅で送っている。ただ「未着の死」を共有したミホさんとの結婚は、とりもなおさず象徴としての〈島〉と結婚したことになり、運命の糸はいまも南島に繋がれたままなのである。いずれにせよ現象面では、高校に職を求めながら小説を書いている、あまり売れない作家である。そして、ついに「死の棘」の事件が起こる。その辺りを年譜から拾ってみる。
昭和二十七年 小岩に転居、都立向丘高校定時制講師
昭和二十九年 十月、妻ミホ発病
昭和三十年 二月、慶応病院で妻を診て貰う(一時入院) 三月、向丘高校退職 四月、佐倉へ転居 五月、池袋へ転居 六月、子供たちを奄美へやり妻に付き添って市川の国立国府台病院精神病棟へ入院 十月、妻の退院と共に奄美大島名瀬市へ転居
いよいよ二十九年十月から三十年十月までの一年間に、焦点を合わせなければならないようだ。夫人の病気はもはや説明の要もないだろうが、ひとつだけ、若杉慧氏の紹介するミホ夫人の言葉を引いておこう。
この世の中に特別な人間の存在するはずもなく、夫もまた一介の男でしかなかったことを知ったとき、私はかつてない精神のさいなみの地獄に苦悶しなければならなくなりました。(「島尾敏雄への私情」)
先に引用した「戦中往復書簡」のミホ夫人の心情と、実に見事に照合するではないか。これは明らかにもうひとつの戦争体験であり、また象徴としての島体験なのである。死の予約席に向けてただひたむきだった恋愛が、生の場で世俗的な結婚として結実したとき、もう一度真の意味での死を体験しなければならなかったのだ。
島尾敏雄が夫婦の関係を正面から扱った作品は、二十九年四月『文學界』に発表した「帰巣者の憂鬱」である。夫婦喧嘩、妻の発作、家を出ての放蕩、しかし結局は帰宅しなければならない。妻の発作の場面などは、明らかに「死の棘」の先駆をなしている。ただし、まだ深刻な危機意識はない。妻の発作を一時的なものと思っている主人公がいるから、あるいは小説の点景としての効果を考えている作者がいるから、作品全体に甘さが漂っていて、読者を息苦しくさせることもない。現実の破局への予兆はあくまでも予兆であって、やってこないかぎりは破局ではないのである。
鉄橋を渡る電車の中から川を流れる死体を見たという「川流れ」は、ミホ夫人の発病と重なる十月の執筆である。やはり全体を支配しているのは、家を留守にしていての戦きであり、後ろめたさであり、罪悪感である。そしてそれは、危機意識にまで高まる。次の一文などは、きわめて予兆的ではなかろうか。
家を一歩も出ないで、狭い部屋の中で妻や子供たちと朝から晩まで顔を合わせていた方がよいのだという考えを拭い去ることができない。そういう状態が郷愁としてある。自分と妻のそれぞれの痼疾と、子供たちの成長の途上に避けることのできない様々の危険と病気とを見守って、その汗とにおいにまみれていればよいという考え。(中略)
ぼくの不在の間に、重大なこと、うまく言いつくせないが、つまり決定的な変革が(はっきりぼくに理解されているわけではないが)起るかもしれない。ぼくは家をあけていいのか。
「川流れ」と二日より違わない執筆年月日を持つ「肝の小さいままに」にも、同じような不安の表出がある。
まさに願いどおり(?)審判の日がやって来る。妻との緊張の糸が切れる日が徐々に近づいている。そして、決定的にやって来る。
島尾敏雄の現実の時間は、二十九年十月、夫人の発病となり、三十年六月の入院へと進行する。一方、小説として私たちが対面するのは、三十年八月に執筆された「われ深きふちより」においてである。ここでは小説の時間と同じく、現実の時間でも、すでに島尾は夫人に付添って精神病棟に入院しているのである。いわば私たちは、いきなり現場からのメッセージを受けとることになるのだ。(入院中に書いた所謂〈病院記〉は他に二作ある)。そして小説の時間としての「肝の小さいままに」に続くのは、三十一年に発表された「鉄路に近く」である。しかし、その極限状況が私たちの前に曝されるのは、三十四年の「家の中」、そして翌三十五年の「離脱」を第一章とする長編連作『死の棘』によってである。(その間に小説ではないが、それだけに現実の夫人との関係を知る上で貴重な資料となった二編の「妻への祈り」がある。これについては後述することになろう)。この長編たるや、五十一年に終章の「入院まで」を発表するまで、実に十七年という歳月を費やしている。十七年という現実の時間をかけて、ようやく八ヶ月の空白が埋められることになったのだった。その十七年間は、夫妻の奄美での生活とほぼ重なる。まるで夫人の治癒の期間として必要であったかの如く……。いま昭和五十三年、ふたりはおずおずと奄美を離れ、九州の南端にワンクッションを置いて、湘南の茅ヶ崎に移住している。南島を出て南島に還り、そしてまた南島を出た島尾夫妻の軌跡は、死と生の微妙な揺れとして私たちの目に映るのである。
病院記から病妻記へ
島尾敏雄を襲った現実の事件の全貌を明らかにするためには、その時間の順序に従って跡づけてゆくのがよいのかもしれない。「予兆→発病→入院」というように。しかし問題は現実としての病妻体験にあるのではなく、エクリチュールとしての〈病妻記〉にあるのだ。
私たちがその予兆的な作品「川流れ」「肝の小さいままに」の後に出合うことになるのは、その一年後に書かれた「われ深きふちより」「或る精神病者」「のがれ行くこころ」の三編である。これらは島尾夫妻の現場からの報告なのである。そこで私たちはいきなり、夫妻二人きりの、まるで純粋培養室に入れられたような生活に付き合わされることになる。すでに二人の子供は奄美の叔母のもとに預けられ、島尾は家をたたんで夫人に付添って入院している。そこで、常識の側からの疑問が出る。「なぜいたいけな子供たちの心と生活とを犠牲にしたのか」と。しかし、それは個々の生活の次元の問題であって、他者の批判は全く無効であると思う。寧ろ私たちは純粋に作品の中に入ることによって、島尾文学のエクリチュールに迫ることのほうが本筋だろう。その中でこの疑問も氷解することを、実はかすかに念じてもいるのだ。ともかく、主人公はためらわず妻に付添って入院する。そこで世間から隔絶した病院の環境に順応すべく努力する。
「われ深きふちより」において、島尾は入院までの経過は走り書きに留め、「私はも早、病棟の外から遠巻きにするのではなしに、その内部にはいり込み、格子に手をつかまらせて、窓の外の世界を眺める側に廻ったのだ」と、すぐに内側からの報告に入る。精神病者たちを観察する眼は、むしろ冷静ですらある。
「或る精神病者」では、題名の如く焦点を一人の入院患者に絞り、その分らなさの部分を観察しているが、ふと自分を顧みて次のように言ったりする。
汚辱にまみれ疲れ果てた私の魂にとって、精神病院内での生活は保護的に働きかけてくるような所があり、むしろ外部の世間とのつながりが完全に遮断されることが、大きな安堵であった私……。
しかし、こうした感慨はほんの一部を成すのみで、やはり中心は観察者としてのスケッチに留まる。それが「のがれ行くこころ」になると、少年患者の脱走事件から、自分の妻の脱走をクライマックスに持ってきて、より小説的な結構をとるようになる。それに妻の発作の描写が増えてくる。だが、現実の時間は、逆に退院の見通しがついているのである。病院での生活はそれなりに安定してきており、「外界から閉ざされた病棟の中では発作の妻は多少は野放しにしておいても危険は少ないという気安めを持つこともできた」とも書いている。
多少の濃淡はあるにしても、この三作はあとさきの事など考えられぬ最中での産物であることは確かだ。少なくともふつうなら小説など書ける状況ではなかったはずだ。島尾はその頃を回顧して、書くことについては妻の側からのうながしがあったのだ、と語る。(小川国夫との対談集『夢と現実』)しかしそれとて、島尾の側に書くことへの執着がなければ、実際に執筆などできぬはずだ。妻の反応を懼れつつ書いた三編の小説だったのだから。妻が「小説なんてくだらないものはやめろ」と言いつづけていたらやめていた、という状況の中で、妻は「自分は病気になったけれども、そのことであなたが書きたい小説を書けないことがあるのはいやだ」と言う。病むひとであり、作品の対象でもある妻のそうしたうながしによって、島尾は小説を書きつづけることができたのである。こうなると、書くことへの執着ということでは、夫妻は全くひとつの人格である。しかし病院の中で小説を書く以上、作家・島尾にとって素材は、妻と病院内部のこと以外にはなかったのである。この状況において、過去や「外の光に充ちた世界」に目を向けることは、病気の妻をさらに刺激することになる。いま島尾にとって〈存在〉とは妻のほかにはない。
ともかくもこの三編に関しては、作家は書くことをやめなかったのだ、ということだけを指摘しておきたい。あのとき、隊長室の木小屋の中でも書きつづけたように……。
退院した二人はそのまま奄美に渡り、家族四人、傷ついた羽を舐め合うような生活が始まる。そこで三十一年四月、「鉄路に近く」が発表される。入院以前の生活を思い切って書いたことに注目したいが、そこではまだ痛々しい印象を拭いきれない。家に戻ると妻が消えているという夢の描写で始まるが、まさに現実でも妻が家を出ているという局面にぶつかるのだ。妻が鉄道自殺を図るという予感に震えながら、主人公は夜の街を捜し歩く。最後は線路工夫に助けられたという妻が戻ってくるのだが。——この作以後、入院までの時期を素材にする試みは暫らく中断される。
『婦人公論』に「妻への祈り」と題して奄美へ来るまでの経緯を発表した後、小説のほうは〈病院記〉に戻る。一年間で六編の病院記が書かれる。持続睡眠、冬眠療法といった治療の中での、むしろ落着いた日常が描かれている。
私の頭の中で狂気の世界はずしりと手答えがあり、私の生は充実していた。妻の狂気は私の針の先ほどの虚偽も見のがすことはせず、その苛烈さがひりひりと快い。私の生活はその病室の中にだけあった。(「治療」)
狂気の中で生活することが日常になり、少しでも病棟の外へ出てしまうと、外界が敵意と違和感をもって迫ってくるのである。そこでは、島尾はひたすらに病者の夫人を凝視する。狂った妻の正常すぎる尋問に赤裸になる。やがて彼は、その妻を克明に観察し記録する位置を獲得する。他者とのつながりを断念して、人間は妻以外にはないと悟ったとき、はじめてある種の安定を得るのだった。
私はどんなことがあっても妻のかたわらで、彼女の反応のすべてをそして彼女の容態の変化を克明に観察しなければならない。観察は同時に受容であるがそれによってのみ私と妻の現実を動かして行くことができる。(「治療」)
ただこの安定を支えているのは、島尾が幼少期から培ってきた記録者としての資質であるようだ。ここでもなお書くことは救いになりうるのだろうか。奄美での生活では妻を治療させることを至上命令としながらも、なお書くという行為の中で新たな転換を模索する。「観察=受苦=現実をつき動かす力」というものを、彼はこの時期の病院記で自らのものとしたのではないか。ひたすらなる病院内の観察記録と妻の臨床記録とに拘ることによって、主人公はたとえば次のような体験をする。
奇妙なことに私は老いこむことを忘れている。むしろ経験したことのない時間のなかに足をふみ入れ、逆に若やいできたのだろう。身ごなしの軽さが、腰のまわりにただよいはじめた。(「ねむりなき睡眠」)
これに戦争体験を書いた「出孤島記」の、次の部分を重ね合わせてみるがよい。
ただ私にとって歴史の進行は停止して感じられた。私は日に日に若くなっていった。
みごとに合致するではないか。島尾にとって病妻体験は第二の、あるいはほんとうの戦争体験であった。閉ざされた空間の中で、自然や時間が欠落していった後に残るのは、精神の重い緊張が支配する世界である。先の見えない現在は未来のどの部分とも接点を持たない。そこから生まれるのが、言うところの「若やぎ」なのではなかろうか。
さて、病院での日々を書いているうちに、現実の面でも島尾は少しずつ夫人の病が剥がれてきたことを体感していたようだ。若やぎというのも、病が剥がれるというのも、すべてが時の作用であるかのようにひたすらに機の熟するのを待つ。つまり素材として夫人の発病の時期に遡ろうとする試み。病妻体験のひとつのクライマックスに、私たちは立ち会うことになるのだ。しかしそれは一気にはやって来ず、周到に準備される。しばらくはその劇的な時がやって来るようすを、島尾自身のことばによって確認していこうと思う。
ひとりのにんげんを凝視すれば、そこから安らかな均衡の生まれてくることも、この三年間のあいだに覚えた。(「夫から」三十三年一月)
あなたに贖罪行為とみまがうように受け取られました病院記は、実は昨年でその任務を終えたことを御報告申し上げます。短編の数にして十あまりの断片ばかりでしたが、もはやあのかたちでは附け加えるものがなくなってしまったように感じています。(中略)今年は、その新しいしごとにとりかかろうと、いわばふるい立っているところです。(「丹羽正光氏宛書簡」三十三年五月十五日)
「病院記」でいちおう妻の反応の様子がわかったっていうか、ま、大丈夫だということがあったし、それと同時に妻の病状が剥がれて来ましたからね、では、そこに至るまではどうだったのかということを書いてみようという気持がでてきたはずですね。(『夢と現実』)
妻の病状が剥がれ、次はそこへ至るまでの過程を書く準備としての時間が、奄美へ渡ってから「家の中」が発表されるまでの四年間という歳月であったわけだ。
ここで「病状が剥がれる」ということばに焦点を合わせてみよう。それに関しては、どうしても避けて通ることの出来ない文章がある。やや長くなるが次に引用する。『婦人公論』三十三年九月初出の「妻への祈り・補遺」である。
あの題名(『婦人公論』三十一年五月号の「妻への祈り」のこと-引用者注)は私の精神状況を示していた。つまり私は妻のこころをなぐさめることができるなら、どんな文章をも書くことができると考えられた。私はあの文章を、妻が気にいるまで何度も書き改めた。
病める日々はすこやかな日常とあとかたなく交代しようとしている。もう一度どうして雑踏と多弁のなかに入って行く必要があるだろうか。私と妻は今安息の掟を身につけた。私たちにもはや彷徨はない。これはあの精神病院での生活のあとさきをさかい目にして私の内部に起ってきたことだ。
それを発表することをうべなわせたものは、妻のこころを喜ばすということであった。少なくともそれは動機の大きな部分を占めていたと言えると思う。これも不思議なことだが、妻は大へんそれを喜んだ。妻は「婦人公論」に発表されたその切抜きをいつ読んでも頬を紅潮させて感動を示した。私は妻のそのすがたに感動し、しかしその度に言いようのない羞恥におそわれないわけにもいかない。
私の仕事は、妻とそして子供ら二人のこころのなかに私が植えつけたしこりを完全にときほぐすことなのだ。それ以外に私の仕事があろうとは思えない。そのためには、もちろん私は自分自身のこころの内と外とで、私の身にあまるたたかいを、たたかい続けなければならないだろう。
これらは明らかに夫人の病を剥ぐための手段としての、意図的な文章である。読者は唯ひとり、ミホ夫人だけなのだった。それにしても実に蠱惑的で、また不思議な文章でもある。うがった見方をすると、作家である立場を存分に利用して、商業雑誌に全く私的目的のためにのみ発表したことになる。それはまた、『死の棘』を書き継いでゆくための周到な下準備だったと言えなくもない。
それにしても島尾敏雄が、小説の中に一種の治癒機能を見出したのはいつのことだったろうか。『作家』三十五年六月に掲載された「丹羽正光氏への返事」の中で、次のように語っている。
私の病院記は妻がそれを読むことによって、彼女の病を剥いで行くことに、ひとつの力を与えることになったのです。それは結果としてそうなったのですが、そのことに私はおどろき、また作品の限界を感ずると共に、物を書くことをやめないで続けている力をも与えられているのです。
同じ意味のことを上総英郎氏との対談の中ではこう語る。
書いたものを、すみからすみまで知っておきたいという気持ちを家内がどうももっているんですね。自分の知らない世界を、ぼくが、つまり夫が持っていることにたえられなかったようですね。そしてぼくの書くものを読んでいるんですね。読むだけじゃなくて手伝おうという気持ちももっているわけですね。……ぼくの書いたものを清書しながら発作を起こすんですね。……そういうことを繰返しながら……その発作がだんだん静まってきたんです。……結果としてね、ぼくの小説を清書するという行為の中に一種の治癒能力といった働きがあったような気がしてしかたがないんですね。(『現代日本キリスト教文学全集』月報4)
島尾はさかんに「結果として」という語を付加して説明しているが、「結果」が引き出されるためには、偶然だけではなしに、それなりに二人の生活の歴史があったのだ。結婚以来、夫人が積極的に夫の清書を手伝ってきたこと、これを単に夫の仕事の手助けをしたという次元で解するのでは不足である。もっと積極的に解釈する必要がある。夫人の側からの一体願望のあらわれ、つまり「自分の知らない世界を夫が持っていることにたえられない」ので、せめてその作品を清書することによって夫の世界を知ろうとする。書かれた事柄が二人の過去の傷に触れていて、それが発作を誘引することになっても、なお知りたいという自家撞着。一方、島尾は夫人の反応を見ながら少しずつ小説を発表していったのだが、それによって彼女の病が剥げ落ちていった事実に驚き、作品を書き続ける力を与えられたわけである。そして意外にも文章に治癒能力があることを知らされたのだった。
結果として招来した治癒能力を、意図的に夫人の回復に利用しようとしたのが、実は二つの「妻への祈り」ではなかったか。先に引用した「補遺」の文章に戻ると、「妻のこころをなぐさめることができるなら、どんな文章をも書くことができる」というところに、島尾の姿勢が端的に表われていると思う。その姿勢で彼は最初の「妻への祈り」を、「妻を喜ばせるために」、「妻が気にいるまで何度も書き改めた」と語るのである。そしてこの告白は、決して不特定多数の目に見えない読者に向けてのものではないことはもはや言うまでもない。たった一人の読者、つまり夫人に向けてのものである。二つの「祈り」は、妻の治癒のために二重にはりめぐらされた処方なのだった。後の「補遺」もまた、先の「祈り」と同じ動機と目的を持っていること、そして以後の作品と生活もまた妻や子供たちのためにあるということを、公の雑誌を通して妻に表明してみせたのである。
自我を至上のものとする近代の作家からすれば、それはひとつの後退姿勢と感じられるかもしれない。自我を削ぎ落としてなお作品を創造できるはずがないからである。それでもなお書かなければならない、という島尾敏雄の必然性とは何か? ない。夫人の側からのうながしという、これまた自我の剥落した理由よりほかにない。いや、もっと初原的なところにそれを求めるのなら、幼少期からの記録するひととしての資質に求めるべきだろうか。自我を無くする方向にしか生活再建の道はないというとき、それでもなお書き続ける島尾にはどこか常識を超えたところがある。
島尾敏雄は闘いの最中で、妻や子供たちを(ということは間接的に自分をも)生かすためには、生かす方向に生活のすべてを持っていくしかないことに気づいた。だから書くという行為もそれで自立するようなものではなく、生かす方向そのものに包含されてしまう。そこには生活優先とか芸術優先とかいう選択すら許されぬぎりぎりの生存形態がある。生きること、生かすことの日々は、同時に罪のつぐないの意識から逃れられない日々でもあった。だからといって、書くということで罪をつぐなうことができるということでもない。たまたま持続してきた小説を書くという行為によって、妻の病状が剥げ落ちてきたのは、あくまでも結果であって、それが直接罪の贖いに結び付くことは決してありえないのである。そこまでは小説を過信することは出来ない。小説を書くことで許される罪など、とても「罪」と呼ぶことはできない。「贖罪」と「書くということ」とは、全く次元を異にする問題である。島尾が言いたかったことは、たまたま夫人の治癒に役立ったということだけなのだ。小説にはその書き方、あるいは対象によって治癒力を偶然に獲得し得ても、贖罪力(?)を持ち得ない、と言えようか。むしろいくら妻子のために生活を改めても、罪の意識に疼いている間は、贖罪は果されていないということになるからだ。(「贖罪」に関しては丹羽正光氏との公開質疑が、かつて『作家』誌上で展開されていて、それなりに興味深いものがあった)。
ともかくも「妻への祈り」は、「妻と子供に植えつけたしこり」を完全にときほぐすためにのみ「身にあまるたたかい」を闘い続けようという決意表明であった。おそらくミホ夫人はそれを読むことによって、そこに書かれてあるが如く、「病める日々はすこやかな日常とあとかたなく交替」することだろうし、「一層堅固なこころを与えられる」ことであろう。島尾敏雄は以後の小説を、「祈りのような気持で、そしてそれがいくらかでも妻に通うことを願って」書いてゆくことになるだろう。
『死の棘』
奄美での生活で、夫人の病気も少しずつ剥がれていく。島尾一家の生活も、大筋では調和的な方へ向かってゆく。夫人の側からも、小説を書くようにといううながしがある。空白だった病院記以前の素材によって「家の中」を書き、発表したのは三十四年十一月であった。結果として最後の病院記になった「一時期」の後、丸二年が経過している。そこには夫婦の危機を、夫と妻との両方の視点から描くことによって、なんとか事の全体を捉えようとする小説的な試みがある。崩壊寸前の夫婦の間をとりもつのは、迷い込んできて飼われることになった猫の玉である。その前半、夫はまだ優位にある。だから、まだ妻のことばはやさしい。
「あなた、おこらないで下さいね。おこるかしら。おねがいだからおこらないでね。だってあんまり、こどもたちがむちゅうになって喜ぶものだから、ついかわいそうになって……」
「何のことだい、早く結論を言ってくれ」私はすぐ不機嫌になり、こういう調子の返事をする。(中略)しかし、私はその猫を飼うことに同意した。
やがて、猫の玉は病気になる。妻の発作もそれまでは夜だけだったのに、日中でも起きるようになる。主人公ではなしに妻に次のような述懐をさせる。
できるなら玉のいのちをとりとめたい。それは自分の運命とも重なっている。玉が再び元気をとりもどすなら、自分たちの生活もきっと打開される。しかしもしだめなら、あたしたちもだめだ。
しかし、猫は死ぬ。そして予感どおりに決定的な事態が生じる。外から主人公が帰宅すると、家の中は荒れ、妻はウイスキーを飲んでいる。
私の不安はどす黒くなってきた。それで妻のからだを抱きおこした。妻は私の腕をのがれようとした。そのとき妻の顔とからだに精悍な稲妻が走ったと思った。(中略)そして強い語調でこう言ったのだ。「いや。はなして。あたしにさわらないで」私はしんからふるえがきて、からだじゅうが萎えてくるのが分った。
「家の中」はここで終っている。決定的な妻の発作の端緒を、きわめて巧みな結構で描いている。しかしながら、人称や視点の設定の面で揺れがあり、その分だけ手さぐりの感を免れない。「家の中」は結局、長編小説『死の棘』からは外された。
三十五年二月十三日の執筆年月日を持つ「離脱」は、次のような書き出しである。
私たちはその晩からかやをつるのをやめた。どうしてか蚊がいなくなった。妻もぼくも三晩も眠っていない。そんなことが可能かどうか分らない。すこしは気がつかずに眠ったのかもしれないが眠った記憶はない。十一月には家を出て十二月には自殺する。それがあなたの運命だったと妻はへんな確信をもっている。「あなたは必ずそうなりました」と妻は言う。でもそれよりいくらか早く、審きは夏の日の終りにやってきた。
足かけ十七年にわたって蜿蜒と書き続けられることになる長編『死の棘』は、こうして始まってしまったのだった。「ながしには食器がなげ出され」、「机と畳と壁に血のりのようにあびせかけられたインキ。その中にきたなく捨てられている私の日記帳」。かくして、夫と妻の力関係は逆転し、夫は妻の前に被告として立たされ、果てしない尋問が始まる。「遂にその日が来た」のである。例えば次のように――。
「おまえ、ほんとうにどうしても死ぬつもり?」
「おまえ、などと言ってもらいたくない。だれかとまちがえないでください」
「そんなら名前を呼びますか」
「あなたはどこまでも恥知らずなのでしょう。あたしの名前が平気でよべるの、あなたさまと言いなさい」
どのような尋問にも、夫はまともにつき合わなければならない。そこでは、疑いもなく妻こそ絶対者であり、神である。逆に言えば、夫が妻を絶対者として祭り上げたのだ。そうした夫婦の位相をつくり上げていく過程、それこそが長編『死の棘』の時間と空間とのふくらみである。それは妻の病を剥ぐことを第一義として、その長い治癒への旅を想定し、ともかくも書き続ける態勢を整え終えたとき、はじめて『死の棘』は長編として意図されたものであろう。それはいまだに完成されていない戦争体験の連作と同じく、選ばれた者のみの体験を、時の移りゆきの中で捉えてゆくかたちを持っていたのであった。
じぶんの小ささを知らないで、あなたのきたない生活を文学的探求のつもりがきいてあきれるじゃないの。あなたの小説などどれもひとつとしてにんげんの真実を描いていないじゃないの。うすよごれたことばかりに細密描写をしているだけでしょう。(「離脱」)
敗戦のあとのわきたった世の中のざわめきの中で、どんな原因が重なったあとで、妻とのあいだが肉離れして行ったのかわからないが、今足もとにうずくまって嗚咽している妻の小さなからだに、自分が通ってきたひとつのかけがえのない経歴を見ないわけには行かない。(「死の棘」)
これはおそろしい述懐だ。ここでもう一度、島尾敏雄とミホ夫人との結びつきの出発点を見てみよう。南島の守護神であった島尾隊長、そして村の長の娘・ミホ、二人は〈約束された死〉の中でひたむきな恋愛をする。しかし、偶然に生き残って、きわめて世俗的な結婚をし、公約数的な都会生活をし、子をもうける。それは言ってみれば挫折としての出発ではなかったか。存在の根源的な負の部分で結ばれた夫婦は、一方が異常になったからといって、一方が正常なままで突き放していることなど出来ない。(ここで筆者は私小説的な読みをしていることに気づきながら、そのまま進めている)。ましてや世間的な常識である〈子はかすがい〉式の解決法はない。子供を頽廃に追いやっても、夫婦は極限の負を暴き出す行為をやめることは出来ない。
〈私〉はとうとう「きちがいを装うことを覚え」、「助けを求める姿勢」が出てくる。「徐々にではあるが、自殺の方法をあれこれ考えている自分に気づく」のである。(「崖のふち」)
妻と結婚したあとになって、妻に知らせずにさまざまな女とまじわり、なおまじわることがあるかもしれないことをはっきり否定できない状態。それが私をおしつめて行って死ぬことを考えさせる。(「日は日に」)
今度こそ真似ではなく、しおおせそうだ。妻が私を責めるのはいいが、その女の名前で呼んでほしいと言いだしては方法がつかない。「あたし、あいつがうらやましくて仕方がないから、これからあいつの名前で呼んでください。ミホって呼んだって返事をしません」と言いはったとき、私は妻がへんになりはじめたのだと思った。(中略)もし過去を忘れ去ってくれるのでなければ、とてもいっしょにすごしては行けないから、私は自殺するほかはないと言った。(「流棄」)
しかし、自死が不可能なことは、二人ともあの戦争で知らされているはずだった。だからこの自死は、もちろん小説の中でも擬態でしかない。せいぜいそのポーズをとることによって、一方が他方の優位に立とうとする諍いのかたちでしか現れないのである。
妻の発作が続く。そして発作こそが二人の日常になり、妻の責めに鋭さがなくなると、逆に「妙な寂しさ」を感じたりする〈私〉である。だから時に平穏が訪れると、「今目にすることができる安定とおだやかさは私に必要でない。どれほどいやでも妻のあの狂おしい神経の世界に帰りたい」とまで思うのである。それでも、とうとう医師の診断を受けることになる。それは二人きりの世界を初めて他者の前に曝すことでもあった。
「乱暴をしちゃいけない。診察ができやしないじゃないか。落着きなさい。いくらなんでも自分のだんなさんをたたいちゃいかんな。これはどうもひどい」と言いながら、変った物体を見る目つきを医師が示した。それは私をたかぶらせ、今私にとってどれほど堪えがたい妻でもこの世で理解しあえるのは二人のほかにいないのだと思い、いとおしさがふきあがってくる。(「日のちぢまり」)
ここでの医師は当然のことながら日常の側にあり、正常の側にあり、倫理の側にある。しかし、そのことは少しも〈私〉を安心させはしない。〈私〉もまた〈妻〉と一緒に、すでに向こう側に行ってしまっていたのだから。
どんな発作もだまって受けることができれば、このうえなにを望もうという気持も芽生えているが、とてもそれはかなえられそうもなく、自分もいっしょに妻の発作に似せた状態につきおとしてしまう。(「日を繋けて」)
〈私〉はこのように、妻の発作とほとんど同じ位相の体験をする。そこには他者の存在を許容する余裕はない。〈私〉もまた狂気に自らを追いやって、なおかつ狂気を妻と共有するしかない。(その圧巻は妻の発病の引き金になった女が訪ねてきたとき、妻と一緒になって女に乱暴を加える「日を繋けて」の一シーンであろう)。そこまで〈私〉は追いつめられている。もはや他者からの理解を期待するような位置にはいない。
終章の「入院まで」では、妻を入院させ、〈私〉もまた一緒に付添って入院するために荷物を取りに戻る。そこで外界の空気にふと羨望を感じて心揺れるのだが、やはり病棟にいる妻のこと以外に考えることはできない。
この世で頼りきった私にそむかれた果ての寂寥の奈落に落ちこんだ妻のおもかげが、私の魂をしっかりつかみ、飛び去ろうとする私のからだを引きつけて離さない。妻が精神病棟の中で私の帰りを待っているんだ。その妻と共にその病室の中で暮らすことのほかに、私の為すことがあるとも思えなかったのだ。私は病院の外の放縦な自由を感じることにうしろめたさを覚えないわけにはいかなかった。
子供たちはといえば、寂しそうな顔も見せず、父母の入院を納得しているようであった。荷物を取りに戻ると、妻の従妹と二人の子供が本を見ながら菓子を食べている。そこに「嵐のあとの静けさに似た安らぎ」を見、「自分が余計な闖入者」のように見えるのは、すでに主人公は閾の向こうに住んでいるからだ。子供たちのことよりも妻のもとへ早く帰りたくて、大急ぎで寝具を包んで外へ出る。「しばらく妻のそばを離れると不安で胸がざわざわしはじめ」る状態だったから。そして「病棟の中でなら、もしかしたら新しい生活に出発できるのではないか」などと思うのである。
このようにして長編『死の棘』は終るのだが、素材的にはそのまますでに書かれた病院記に繋がって行く。かくして、島尾敏雄の二十二年間に亘る病妻体験は円環の中に閉じ込められ、作品として私たちの前に提示されたのである。
小説を書くと、その先に生活がつながり、また生活の先に小説がつながって行くという形のものですね。だから小説の始まるところはわかっていても、先がどうなって行くのかちょっと見当がつかない。しかし、それと生活とずっとないまぜで書いてゆくというのも面白いんじゃないか。その途中で、あるいは破滅がくるかもしれないけれども、その破滅がきたらしょうがないんで、その時はおそらく小説はそこで終る。そういう根っから単純素朴な形の私小説というものはかなり魅力があったんです。それと救いということとは、どうなっているかわからないけれども、とにかくそういう形で自分の小説を生活とないまぜてゆこうということがある時期あったんですよ。それは途中で消えてしまったというか、違った形で今まで続いているのかもわからないけれども。
これはすでに何度か引用した小川国夫との対談集『夢と現実』の中の発言である。「小説を生活とないまぜ」ながら十七年という歳月が流れてしまったのだ。そして作品を書くことによって夫人の治癒の度を確かめ、また生活の具体の中でさらに治癒を確かめ、そうした繰返しが夫人を治癒に導くことになった。つまり、長編『死の棘』は治癒のための小説だったのだ。創作動機がこれまでの小説とは離れたところにあったがために(もちろん従来の私小説的な発想からは近いようでいて最も遠い)、「救いにならぬことを蜿蜒と書いている」とか、「相手の女性が書かれていない」とかいう純小説的見地(?)からの批判は、すべてこの作家の戸惑うところであったと思う。まして況や「ずいぶん大変な苦労だったろう」という日常的次元の感想に於いてをや。
病院記から『死の棘』へ、少なくともその当初は作家にとって、たとえ小説というかたちを成さなくともよい、妻の治癒に役立つならば、という地点だけに守備範囲を狭めての出発だったに違いない。ただ夫人の病状が安定してくるにつれて、小説として『死の棘』を完成しようとする作家の位相に戻っていったのだ、と想像できる。その相克(つまり作家としての島尾敏雄と夫としてのトシオと)に長すぎた執筆期間の問題があろうかとも思えるのだが……。ともかく島尾夫妻の奄美での二十年間は、まるまるが治療のための時間ではあった。同時にそれは死から生へ、そして日常へと復帰するに要した時間でもあった。いま奄美の生活をたたんで本州の南端・指宿に居を移し、その遠く奄美と対座する位置から「入院まで」の章を書き加え、長編小説『死の棘』を完結させたのである。
『死の棘』が断続的に発表されるたびに、その世にもおそろしい状況の小説は、さまざまの賞賛を浴びてきた。しかし、一方では前述のような批判もあったことは確かだ。それらはすべて読者側の意識の中の現実と小説との混同、または創作動機をあまりに従来の小説観によって考えたがためのものと思える。しかし、それも無理からぬことだ。〈治癒のための小説〉などというのはあまりに常識を超えているのだから。
まず、よく言われているところの三角関係が描かれていない、相手の女性が描かれていない、という通俗的な批判に触れてみる。前述のとおり、妻との一体化、妻の治癒を目的にした作品だから、浮気の相手が描かれていないのは当然のことだろう。とまで素っ気なく言わずとも、長編小説として通読してみると、計算されたきわめて小説的な(ほとんど唯一の他者の)人物が相手の女なのだと見えてくる。事件の進展といえばわずかに〈時の移り行き〉のみ。(「時」を表す章題の多いことも特徴の一つである)。妻の尋問とそれへの返答、自死の試みと断念という執拗な反復構造の中で、わずかに彩りを添えているのは、この女と二人の子供なのだ。そもそも長編の発端からして女とは逢えない状況になっている。〈私〉はすでに女よりも〈妻〉の方に身を寄せているのだから。「離脱」の章では女からの手紙が届く。しかし〈妻〉はそのことをすでに夢告として知っており、〈妻〉に握られた手紙は〈私〉の前で読まれ、厠に捨てられる。(厠はここでは汚辱の象徴でもある)。「死の棘」の章では〈私〉の留守中に〈妻〉が出奔する。〈私〉は、〈妻〉が女のもとへ刃物を持って復讐に行ったにちがいないと思い込み、女の家に行くが何ごともなく、かえって妙な余韻を曳いたまま女と別れてくる。その後の各章は、女やその取巻きからの電報や手紙で脅迫されるばかりで、肝心の女はいっこうに姿を見せない。(磯貝英夫氏の「島尾敏雄」では、この状況を夢の中の脅迫に似ていると指摘している。それはまさに結果としてそうなのだが、そもそも女との来歴から現状までを報告する類の小説とは全く次元が違うのである。夢に似ている、といってもそれは論の本筋にはならない)。〈妻〉の病める合理主義的尋問の中で〈私〉は無防備になる。自らを痛めつけることに快感さえ覚えているようだ。完全に自分を殺して〈妻〉の前に跪く。それでも〈妻〉は容赦しない。いままで来た手紙や写真をすべて出せと迫る。やがてはその姿の見えない脅迫者のために、家族は引越しまですることになる。〈私〉も〈妻〉と一緒に姿なき女に怯えている。かくして女は妻との間に設けた共通の敵となり、その敵によって二人の結合は強まる。いや、それによってしか結び合えないという事態にまで、ことは進展してきたのである。ここまで来ると、女は現実の情事の相手といった相貌を剥落させて、抽象的な〈女〉として小説の中に嵌め込まれる。第十章「日を繋けて」になって、女はようやく二人の前に(正確には「読者の前に」)姿を現す。彼女を二人で地べたに引きずり倒し、〈私〉は〈妻〉の命ずるままに乱暴を働く。そしてこの長編小説は、女に宛てた手紙のすべてを取り戻してくれという〈妻〉の頼みをどのように諦めさせるか、「その方法の考えつかぬことに、暗い危惧が影を落していた」と書くことで終っている。——こうしてみると、長編の中で果す〈女〉の役割の重要さが分るだろう。長編にメリハリをつけるために、島尾と夫人とで巧みに創りあげた人物のようにさえ思えてくるのだ。そして、この〈女〉をも、作者・島尾敏雄とミホ夫人は遂に共有したのだとも言える。
さて次に、現実の生活においては終ったとも思える〈『死の棘』体験〉を、なぜ十七年間にもわたって書き続けてきたのか? ここまで来ると答えは自ずと明らかなことだ。ほんとうに危機は去ったのか? ほんとうに夫人は治癒したのか? 否、である。ことを一歩進めてみると、高田欣一氏の「島尾敏雄論」に指摘されているように、「書きすすむにつれて、癒す方向のちがいに気づいた」のであり、「フィクションとして、関係の回復のために」書かれ始めたのである。発病から入院まで、という過去に素材を求めてはいるが、妻の完全な治癒のためには、あくまでも作家の内部で進行する現在(それを新たなフィクションの創造といってよいだろう)を書かなければならなかったのである。そのフィクションの中で、関係の回復、あるいは新たな関係の創造に賭けたのである。そうなると、治療といってもことは病気の治療という意味にとどまらない。〈治癒〉という語は、人間のきわめて根源的かつ象徴的な意味合いを帯びてくる。存在の根源、存在のあり方、その根底からの治癒でなければならない。十七年間というもの、少なくとも単純に過去の再現に努力しただけではないのだ。島尾にとって(いや、誰にとっても)問題はあくまでも〈現在〉の生なのだから。
「やりきれない救いのなさ」というきわめて主観に根ざした批評についてはどうか。事実わが身にこのような事件が振りかかってきたら、と考えると戦慄を覚えざるを得ない。しかし、これは決して誰にでも振りかかる事件ではない。「出発は遂に訪れず」体験を経たふたりだけの固有の事件なのである。しかし、救いのないやりきれなさ、というだけなら、現実にはこれ以上のやりきれなさはたくさんある。現実のルポルタージュの方がはるかにやりきれない。ほんとうの意味でのやりきれなさとは、決して素材にあるのではなく、小説に定着しようとする島尾敏雄の苦闘そのものにあるのだ。島尾の真の地獄は、現実よりもそれを素材にして夫人と共に治癒しようと意志する、過程としての小説『死の棘』にあるのだ。文章行為のぎりぎりの表現として、妻を治癒させるために小説を奉仕させたのである。だからこそ、あのすべてを剥落させるまでに陥った夫婦の関係から再出発して、『死の棘』を完成させたいま「妻は私にとって神のこころみであった」ということばを発し得るのではないか。それは十七年間『死の棘』の世界に付き合ってきた私たち読者にとってもひとつの曙光ではあった。(特にいま『日の移ろい』を『死の棘』の後日譚として読むときにそう感じるのである)。
日の移ろい
昭和五十一年十一月に刊行された『日の移ろい』は、四十七年四月一日から翌年の三月三十一日までの日録である。その一ヵ年の移ろいを四年以上かけて執筆しているのだ。この時間のかけかたは、私たちが今まで検証してきた『死の棘』のそれを想起せずにはいられない。「あとがき」の次のことばもまた注目される。
気鬱の方は「日の移ろい」と共に年を越し、四十七年の初春のころに、いわばのぼりつめた感じになったのだが、「日の移ろい」が終わったあたりからふしぎにも次第に剥落の傾向をたどり、二年後の五十年春にはほぼ終息するにいたった。私はこの連載を気鬱の治療のための処方に用いたのだったろうか。
時を過ごしやることや、ものを書くという行為は、島尾にとっては治療のためにあったかのようだ。それは病妻体験が、いや、広く戦争体験(厳密には〈特攻待機体験〉)がまだ終っていないことの証しでもある。奄美における二十年はその全体が島尾夫妻の〈戦後〉の治癒期間だったと言えなくもないのだから。あるいは生きていることが即「治癒のための」とも言えそうな作家のありようなのだ。
「島尾隊長にあいたい」妻がしみじみそう言うと私はなんだかへんな気持ちになってしまう。島尾隊長とはいったい誰だったのか。むかし島尾隊長であったことが今の自分とつながらない。「もういっぺんこの世に生まれてきたら」と妻はつづけて言った、「またあなたと夫婦になる」明快な妻の意志が私を圧倒してしまう。「あなたはどうする?」ときかれてすぐに返事ができなかった。(六月二十一日)
島尾隊長とあなたとはちがうひと、妻がはっきり言った。寂寥に襲われ、その島尾隊長という若いひとに私は嫉妬した。夕食後うたた寝をし、目をさますと妻がとてもやさしく見えた。(六月二十二日)
『死の棘』体験の原点であるとも言える「島尾隊長」が、ここではすでに神話になっているということだ。いや、「島尾隊長」なる存在そのものが神話だったと言える。その神話を日常の次元に引き下ろさざるを得なかったがために、島尾の戦後の不幸があったのだ。それは再びもうひとつの神話となって、島尾夫妻の風景として復活した。しかし、もはやそのことで、夫人は錯乱することはない。(彼女はすでに自らの著書『海辺の生と死』で、当時を美しく回想するまでになっている)。それでは、その新しい生活の形態はどうなっているのか。
留守のあいだ妻は庭の畑の手入れと家の中の片づけを、それとわかるほどきちんと形づけていた。そして夜は廊下に坐ってからだを揺すっていたのだという。それは旅に出ている私の身になって船ゆれをまねるおこないだ。それを聞く私はからだも胸もきゅっと病んできた。(六月九日)
もはや夫と妻というよりも、二人で一つの人格としか言いようがない。ふつうの夫(日常的次元の夫婦)なら、こうした妻の存在は重荷になるところだろう。しかし『死の棘』を通過してしまった夫・島尾敏雄には、「からだも胸もきゅっと病んで」という感覚(あるいは表現)よりない。重荷になって逃げ出したいなどとは考えも及ばない。二人は強すぎる世間の刺激から離れて、一心同体となって奄美での時を送っている(そのように読みとれる仕掛けをしているのだ)。
かといって島尾は聖者になったわけではない。この記録全体の主人公は、なんといっても作者自身の〈鬱〉なのだ。すべてを削ぎ落としてもなお執拗にまといつく気鬱、それこそ人間・島尾のありようなのである。
妻が元気を失った。頼りになるのはあなただけ、ふたりきりで無人島に住みたいなどと言う。(中略)元気そうに笑いかけてきたが、元気がよければよいでまた装っているのではないかなどと私はついどきりとやるせない不安におびやかされてしまう。(二月二十八日)
といったように、やはり妻の感情の変化に敏感になり、その度に不安に慄いている作者がいる。妻の完全な治癒など望むほうが虫のよすぎるというもの。『死の棘』のエクリチュールと歳月だけで無罪放免されると考えてはいない。考えてはいけないのだ。自己を無にして妻の変化だけに気を配っていることが、贖罪としての行為なのだ。それには終わりがない。
妻の行動はどれも私の裸の心に突き刺さり、哀れという思いが取り除けず、それをまたお互いが敏感に反射し合うのでいっそう振幅を増し、寂しい不安な場所に吹き寄せられてしまう。(三月二十日)
ひたすらに妻の感情に同化して生きる。近代の文学が躍起になって獲得しようとし、あるいはいくらかは獲得もし得た自我をさらりと棄てて、なおかつ生きていく。生活と文学とをその方向に集約させようとして成ったのが、作品『日の移ろい』なのだ。そこには近代的自我の人としての作家たちの到達し得なかった世界がある。
小説はいかにそれがすぐれた表現を獲得したところで、ぎりぎりのところひとりの人間さえ救うことができない。それならば、まず救うための行為があって、神への祈りもあって、その後におずおずと文章を書く行為があるべきではないか。少なくとも書くということは、そのおずおずの行為なのではないか。しかし、そのおずおずの行為が、結果として、自らと、最も身近な他者とを生かす力になりうること、そのことを知り得たのが、島尾敏雄が苦闘のすえに手に入れた幸福だったのではないか。