明治41年、荷風がロンドンを経て帰朝した年『早稲田文学』の11月号に載せられ、その翌年『ふらんす物語』に収録された「蛇つかい」からは、放浪の生活にたいする若い荷風の共鳴・共感が、痛ましいまでに伝わってくる。彼はこう述べる。
自分はもう里昴に飽きた。も少し違った新しい空が見たい。新しいものは必ず美しく見える。倦んだ心に生気を与える。鈍った神経に微妙な刺激を与える。無宿浮浪の見世物師の境遇を更に詩趣深く思返した。彼等は燕と同じよう冬の来ない中に、暖い明い南の国へ行くのだ。日の照る中は車の中で汚ない毛布か藁につつまれて寝て居る。其の車は痩せた馬に曳かれてゴトゴト礫をきしりながら果てのない街道をゆるゆる行く。夜になると辿りついた見知らぬ村の道ばたで見知らぬ空と星の下で銅鑼鐘を叩いては見知らぬ男女の前に白粉を塗った面を曝す。習慣が「生恥」と名付けた言葉の中には、何と云う現しがたい悲愁の美が含まれて居るであろう。
リヨン特有の、雨と霧に閉ざされる秋の日々を前にした、僅かな夏の名残りを思わせる晴れた一日、荷風は散歩の足をクロワルッスにのばす。そして電車の横腹に「今年のお名残クロワルッスの大縁日ヴォーグ」と書いた、広告の木札の下がっているのに目を止める。
その年の夏、彼はリヨン郊外の小屋を覗いた。「巴里○○○先生作」の道化芝居の、それでも三幕から成り、ピエロの冒険、コロンビーヌの夢想、恋の歓びという構成を持つものが掛かっていた。その隣は見世物小屋で、「南洋の大蛇、亜弗利加の大鰐、印度の大蝙蝠」などがいると木戸番が口上をいっている。木戸番の傍には、芝居小屋ならば天幕の外に一寸出てきて引っ込む客寄せの踊り子に当たる蛇つかいの女が、肉襦袢に金糸の縫い取りのついた黒ビロードのタイツ、紫に緋の裏のガウン、毒々しい化粧という姿で、数匹の蛇を使って見せていた。
こうした夏の思い出があったので、ヴォーグの広告も目についたのであったが、やがて彼は古い寺院の前の広場に、沢山集まっている見世物小屋を見つける。荷車の屋根からは炊煙が立ちのぼり、車の間に張り渡した綱には洗濯物が下げてある。その下では手桶の水で皿小鉢を洗う髪を乱した女が居り、寝ぎたなく午睡している垢じみた男もいる。
土地の人々が機織りに忙しい昼間、見世物小屋のわびしい風景の中に憩うこうした小屋者の一人に、車の入口に腰をかけて針仕事をしている女がいた。それは老けた女房で、肌着一枚の上に、薄汚い毛糸の肩掛けを引っかけている。唯、その見事な髪の結い様を見て、これが夏、カンテラの灯りの下で見た蛇つかいであることを彼は悟る。女房のそばには小さい子供が二人いたが、亭主らしい男の姿は、車の中にも見あたらない。彼はこう思う。
浮浪。無宿。漂泊。嗚呼其の発音はいつもながらどうしてこうも悲しく、又懐しく自分の胸の底深く響くのであろう。浮浪、これが人生の真の声ではあるまいか。あの人たちは親もない。兄弟もない。死ぬ時節が来れば独りで勝手に死んで行けばよい。恩愛だの義理の涙なぞ見る煩いもない。女も男も互いに無知残忍で其の上に嫉妬深く、見世物小屋の車の中で不潔な猥雑な生活を続けている中、万一病気にでもなれば慈悲も情けもなく相手の者を知らぬ他国の路傍に捨てて行く。浮気沙汰の起こった暁は一突き嫉妬の刃で心臓か横腹をえぐってやるばかり……
スペインの詩人ガルシア・ロルカは、ロルカとその好んで主題として扱うボエミアンのイマージュとがあまりにもしばしば結びつけられ、ほとんどその属性のように考えられるところから、書簡のなかで、それはひとつの主題にしか過ぎないのにと、嘆いている。
荷風は銀行員でありながら、自由奔放な、心持ちは私費留学生であるかのような生活をしていた。「蛇つかい」の群に身を投じるようなことはなかったとはいうものの、ボエミアンの生活を、人間の真実の生活、虚飾のない生活と見る気持ちは非常に強かった。これは詩人的な肌合いの人間に共通する当然の要素であり、敢えて取り上げるまでもないことであるとの考えもある。しかしそれ以上に、人間探求を最高の主題と考えるフランスの土壌から生まれた文学を愛する人々には、放浪の生活を間接の体験としてでも味わいたいという嗜癖がある事は否めない。
二十代の若い時に、将来にたいしては漠とした不安を抱きながら、父の思惑に身を委ねてアメリカとフランスで生活した荷風であったからこそ、国家や名誉や抱負や世間や家族などを雑然と背負い込んだ留学生達とは吸収したものが異なるのは当然のことである。荷風が他の留学生からきわ立って、質量ともに大きく吸収したものは自由である。その中のひとつが、放浪の生活にたいする愛着であったといえよう。
帰朝後一年を経た1909年8月から10月にかけて、『すみだ川』を書いた荷風は、第5版の解説を自ら行ってこう述べる。
自分はわが目に映じたる荒廃の風景とわが心を傷むる感激の情とを把ってここに何物かを創作せんと企てた。これが小説すみだ川である。さればこの小説一編は隅田川という 荒廃の風景が作者の視覚を動かしたる象形的幻想を主として構成せられた写実的外面の芸術であると共に又この一編は絶えず荒廃の美を追究せんとする作者の止みがたき主観的傾向が、隅田川なる風景によって其の叙情詩的本能を外発さすべき象徴を捜めた理想的内面の芸術とも云い得よう。さればこの小説中に現わされた幾多の叙景は編中の人物と同じく、否時としては人物より以上に重要なる分子として取扱われている。それと共に編中の人物は実在のモデルによって活ける人間を描写したのではなくて、丁度アンリ・ド・レニヱエがかの「賢き一青年の休暇」に現したる人物と斉しく、隅田川の風景によって偶然にもわが記憶の中に蘇り来った遠い過去の人物の正に消え失せんとする其面影を捉えたに過ぎない。
荷風がこの序文の中でレニエの名を挙げ、『ある青年の休暇』を挙げているところから、『すみだ川』がこの作品の影響によって書かれたと見る向きもあるようであるが、直接的な影響は見あたらない。序文にある「偶然にもわが遠い記憶の中に蘇り来たった遠い過去の人物の正に消え失せんとする其面影を捉えた」ことが、レニエの作品に霊感を得た点で大切なのである。レニエの作品はその適切な一例として、荷風の脳裡に浮かんだものであるに過ぎない。レニエにおいては、作品の背景は、その美が絶対的なものとしていわば凝固してしまっている過去でなければならないことが条件である。荷風がこの点に共鳴したとはいえる。また、レニエが水の都ヴェネチアにたいして、異常なまでの愛慕の情を持っていたことも荷風の思い浮かべたことであろう。
レニエにとっては、過去のヴェネチアについては捨てるべきものは何もなかった。旧い館に住む貴族からゴンドリエまで、過去のヴェネチアの市民はすべて美の具現者である。また日常の必需品から彫像にいたるまで、物は趣深く想像力をかきたてる。暗い中庭で異国風な樹々の葉末の、湿った大気の中に戦ぐ様は、過去からの囁きとも思われたのである。レニエがここに創り上げた美は完璧であった。読者はレニエの作品の世界に入ることはできるが、何と云ってもここに最もふさわしい人物、自分の創り上げた世界の隅々まで闊歩する人物は作者自身である。
『ある青年の休暇』は、ヴェネチアを背景としてはいない作品である。しかし過去の美の世界に耽溺する作者の面影は、充分うかがえるものである。『すみだ川』はこの意味でレニエに通じるものをもっている。荷風に私淑した久保田万太郎はこの作品を解説して「この作の、いたるところに発見できる、美しい、すぐれた自然描写……その描写の対象が、また、わたくしにとって馴染のふかい小梅であり、柳島であり、浜町河岸であり、今戸橋であり、山谷堀であり、公園裏であり、浅草寺の境内であり、宮戸座の立見場でありした、のである」と述べる。また成瀬正勝はこの作品は「ヨーロッパにおける郷土文学の移植を試みたともいう」と暗示している。
主人公長吉は、満たされぬ、不安な、悲しい心を抱いて、川沿いの街を彷徨う。その心は放浪を憧憬する。結局は川に大水が出、それが元で流行病いに罹り、この土地で死ぬかも知れないことになるのではあるが、荷風は結末を書かない。
放浪は純粋に心の中の問題としてのみ考えるべきことであるのか。ちょうどシャルル・ボードレールが21歳から22歳にかけて遠洋航路の汽船に乗った他は、ほとんど生涯パリを離れずに終わりながら、「旅へのいざない」をはじめとして、数多くの詩に放浪の夢を託したように、想像力による放浪は、作家にとって大きな部分を占める問題である。
東洋からやって来た放浪者という意味で、スペイン語からフランス語になった ジタン、流浪の生活を送る者の意のヴァガボンド のふたつの言葉には、限られた規定はないが、広い天地をさすらう、田園や森林、山野にまで漂泊する者の意味合いが強い。リトレの辞書の使用例をみてもこのことは肯ける。
これに対して、おかま帽を被った人間の意のクロシャール 、自由気ままな生活を愛するボヘミヤ人から来た語のボエミヤンは、大都市の産物である。
吟遊詩人の昔から、諸国を遍歴する人々は、遠い地方のニュースを伝え、それに解説を付加し、さらには社会を語り、人生を語る知恵者であった。時を隔てて18世紀に入ってから、スペインのピカレスクの影響の色濃いルサージュの『ジルブラス物語』が出た。ピカレスクの作者が諸国を遍歴する人物に託して語る話は、すべて、主人公は遍歴の生活を送ることによって賢者になったという設定で語られるのである。
また都会の放縦なボエームの生活も、一面では一種の求道の生活に他ならない。フランスの学生の生活がボエームの生活に似ているのは、放縦を求めるためではなく、真の思索を邪魔する市民的な規範から自由でありたいと思うからであろう。
学者や学生が休暇には国境を越えて旅をするのも、目指す国の風土に根ざした文化に直接触れるためである。そこには偏執的なまでの好奇心がある。
一般の人もそうであるが、フランスにいながら絶えず異境を思うのはフランスの学者や学生の常である。先天的な複眼の持ち主と云えよう。
欧米滞在中、荷風は虚構に満ちた随想とでもいうべき数々の短編を、巖谷小波の許に送り続けていた。それは帰朝後『あめりか物語』、『ふらんす物語』として刊行され、自然主義の終焉を告げる著作とまで云われるようになったのである。『ふらんす物語』の中の「おもかげ」には、つぎのようなカルティエ・ラタンのキャフェの描写がある。
されば、欧州各国、遠くはトルコ、エジプトの辺から何れも此の街に集り来る書生の群は万を以て数える程である。毎年幾千人が業を終えて去れば入交って又幾千の青年が入込むので、人は代り時は移り思想は定めなく動いて行っても、此の街にのみ永遠に変らぬものは青春の夢——如何なる煩悶にも絶望にさえも自ずと一種の力と暖みを宿す青春の夢である。
自分は人込の中の空椅子を見付けて腰を下し、近くに居る人達の様子をば一人一人に眺め廻した。何れも皆書生であるらしい。肩幅広く厳めしい容貌に殊更恐しい頬髯や顎髯を生し、已に一角の政治家らしく気取って居る青年もあれば、綺麗に髯を剃ってつやつやした頭髪を額に垂らしフランチェスカの芝居で見るパウロのような優しい目付きをしたものもある。破れかかった天鵞絨の上衣に大黒頭布を冠り無性髯ぼうぼうとして、如何にも不遇の芸術家を以て任ずるらしく見えるのがあれば、白手袋高帽子燕尾服の出立に頻と憂身をやつして居るもある。
「人は代り時は移り思想は定めなく動いて行っても、此の街にのみ永遠に変らぬものは青春の夢――」とあるが、この中に長く止まろうとする人間は、芸術家であり、思想家であろう。
荷風の日誌『断腸亭日乗』1938年4月19日の項には「ミュルジェールの名著貧書生(ヴィードボエーム)をよむ」とある。『ボエームの生活の諸情景』という原題を、貧書生の生活の諸情景と考えたところに、この作品にたいする荷風の解釈もあらわれている。ボエームは、ミュルジェール自身のように、途半ばにしてたおれることもあるが、苦労も生き甲斐である。危機はむしろ彼らのうちの少数の成功者が名をなした後にやって来ることを、ボエームは知っている。 銀行員でありはしたが、荷風の書生生活は、故国日本よりもむしろアメリカとフランスにおいて開花した。生活は絶えず不満と不安をはらんだものであったので、彼はその書生生活の一面を「異郷の恋」に見られるような形に想像する。良家の子女クララと恋仲であるコロンビア大学の学生鈴木は、偶然幼友達の小林に会う。街の女アンニイを愛してしまった小林は彼女と心中する。鈴木は二人の死を悼み、二人を思う。
二人があらゆる世の道徳習慣に反抗したその生涯の亡骸は、しめやかな夏の夜ふけ薄暗いランプの光の陰に、ああ、何とも知れず自分に向かって、深い秘密を囁くような気がする。女は売淫、男は賭博。天も地も、神も人も、人種の発生して以来、許されたる事のない恐しい厭わしい生涯に、二人は最も麗い恋の満足を誇り、勝手に鴉片を服して、勝手に死んでしまった。
鈴木と小林は、同一人物の二面である。ブールジョワが事業にあくせくし、金銭の心配をするのと同じように、ボエームは、自由を獲得するためにあくせくする。それは時に死をもって購われることさえある。ブールジョワの生活を続けながら、半面、ボエームの群に身を投じている人間は、ほんとうのボエームとは云いがたい。もう一度「おもかげ」を繙き、冒頭の部分をみよう。
幾年以来自分は巴里の書生町カルチヱエラタンの生活を夢みて居たであろう。
イブセンが「亡魂」の劇を見た時はオスワルドが牧師に向って巴里に於ける美術家の放縦な生活の楽しさを論ずる一語一句に、自分は只ならぬ胸の轟きを覚えた。プッチニが歌劇 ラ・ヴィ・ド・ボエーム に於ては路地裏の料理屋で酔い騒ぐ書生の歌、雪の朝に恋人と別れる詩人ロドフルフが怨の歌を聞き、わが身もいつか一度はかかる歓楽、かかる悲愁を味わいたいと思った。
元来、ミュルジェールの作品は、ボエーム生活の情景の詳細な報告書ともいうべきものであって、筋を追うものではないかもしれない。こうした地味な作品がオペラ化され、一般的になることは起こりうる。プロスペル・メリメの「カルメン」、アルフォンス・ドーデの「アルルの女」などはその好例であろう。
ミュルジェールの描いたボエームの小グループの中の主人公である詩人ロドルフは、哲学者コリーヌに次ぐ博識の青年である。ロドルフの愛するこの作品の女主人公ミミは、貧しい若い女である。しかも半ば堅気の、半ば街の女めいた女である。
荷風のニューヨーク滞在時代の恋人は、ミミの境遇に似たイディスであった。荷風は若かったアメリカ時代を思い、ボエームであった若者も、三十代になれば、すべて成功という形でか、脱落という形でか、ボエームの群から離れてゆく、あるいは自分でもそれと気づかずに変容するというミュルジェールの見解を肯定する。
オペラ「ラ・ボエーム」には、原作の持つ生真面目な雰囲気はない。荷風の短編「おもかげ」には、ボエームを語る姿勢は明らかに原作から霊感を受けた、ボエームの行く末についての報告ともいうべき一節がある。
自分は思うともなく、強いて厳かな容体を作り、殊更に品位を保とうと力めるらしい博士達の顔を思浮べた。自分がこの年月西洋で知己になり、燈火と音楽の間に女帽の形を論じたり、舞台の稽古談に興を催した人達も一度順めぐりに日本へ帰れば、誰も彼も、皆、あのような渋い苦い顔になって了うのでは有るまいか。
そんな事を思うと、年のたつのも知らず、何時も若い美しい化粧をして、毎夜毎夜、音楽や笑声の中にこうした生活をして居る巴里の女の身上が却って羨ましい。
ボエームの生活が永遠に続くようにと願う人も少なくないであろうが、それは何時かは終止符を打たざるを得ない、あるいは変容させられざるを得ない生活である。ボエームはすべて、何らかの形で「堕落」する。限りあるものであるが故に、ボエームの生活は美しく、この世の別天地である。
荷風の抱く人生観は、ボエームのそれに著しく接近する。また『ふらんす物語』に戻り、その中の「ひとり旅」を引いてみよう。
嗚呼世に寂寥程美しきもの有之候哉。寂寥は無二の詩神に有之候。あらゆる詩あらゆる夢は此の寂寥の泉より湧出るものの如く思われ候。小生は寂寥に堪えざる瞬間に於てのみ自ら大なる芸術家たりとの信念に駆られ申候。
然り寂寞の情孤独の恨ほど尊きものは無之候。小生は劇場に赴きても独り 天井裏なる大向の欄干に身を倚掛る時ならでは、如何に巧みなる名優の技にも何らの感動を催し不申候。余は大勢一組になりてオペラ、殊に音楽会なぞに行く人の心を解する事能わず候。音楽のみにはあらず、詩も小説も、彫刻も絵画も、はた建築の美さえも、それ等作品の真意義は遣る瀬なき心の一人悄然として此に対する時にのみ発見せらるるものに御座候。
「ひとり旅」の主人公である若い画工は、彼のパトロンである貴族の旅の誘いを断るためこのような手紙を出し、貴族はある共感をもってこの断り状を読む。
ボエームが集まって談笑したり、議論したりしている時、彼らに縁のない人間がこの光景を見れば徒党を組んでいるようにも見えるが、決してそうではない。彼らはその才能によって鎬を削り合い、どんな敵についても味方についても、苛酷なまでに才能を評価し合う。しかしそうしたことによって孤独だというのでもない。
ボエームは絶えず自分の心に問いかけている。そして孤独を知っている。ミュルジェールの『ボエーム生活の諸情景』を再び見よう。人生の希望そのもののように大切な、ボエーム達の女友達が、純真な可憐な少女であるのに、ボエーム達の持っていない地位と金とを持った男の許にはしる。しかし少女の心はなお無垢であると彼らは考える。それは冷静な凝視があってはじめて云えることであろう。
ボエームの出没する界隈は、新しい話題を見付けなければならないジャーナリストが云々するほど急速に変わりはしない。カルティエ・ラタンとモンパルナスは非常に近く、前者の知的世界に、後者の情的世界が混淆するのも故のないことではない。サン・ミシェル大通りを下ってセーヌ河畔に出、河岸通りで、あるいはシテ島に入って、旅行者も学生も地元の人も共に仰ぐノートルダム寺院を例にとっても、石のレースで覆われたその姿は、このうえなく非情でありながら、また同時にこのうえなく甘美である。
灰色の石造りのこの街の非情と甘美の二面のうち、若い荷風は好んで甘美な面を描いた。しかし荷風がこの街の非情な面を知らなかったはずはない。『ふらんす物語』のなかの「雲」を見よう。ここにはボエームの生活に魅せられた人間が目的を喪失した悲劇が描かれている。その人物は小山という若い外交官である。彼はこう述懐する。
すぐ家に帰って休もうか知ら。晩餐になるまで何をしよう。散歩しようか。するなら、何処へ行こう。晩餐はどうしよう。何処で何を食おう。最初のうちは此の四辻で、こんな事を考えるのも面倒でなかった。面白かった。巴里でなければ出来ない独身者のこうした浮浪の生活が珍しかった。然し間もなく飽きた。
それは昨夜のことだ。老人がつまらぬ事で死ぬ前兆を感ずるように、彼は例の如く晩近く帰る道すがらセエヌの流に落ちる流星を見て、巴里にも早や三年以上になる。近い中に必ず転任を命ぜられるだろうと思った。
浮浪の生活の中に自由を享楽するには限界がある。小山の持つ地位や身分は、ボエームの生活とは無縁のものである。真の意味でボエームの生活の一端をでも保持しようというには、故国で芸術家としての活動をする以外にはない。画家などは祖国の文化を宿命的に身に帯びながら、パリに生きることも可能である。しかし当初荷風が意図したように、フランス語で創作活動をし、なおかつそれを持続させ、フランスの文壇に名を出すことは、望みのないことであった。
『ふらんす物語』の最後をなす「巴里のわかれ」には、帰国については幾度も迷ったように書かれてはいるが、実は選択の余地の無い一本道であり、故国において文筆活動をする以外になかった。
帰朝後に書かれた作品は、文明批評が生の形ではあらわれず、沈潜して行く。それにつれてパリのボエームの生活の反映は、鈍い光を放ちながら、作品の底流となってくる。
フランシス・カルコの『モンマルトルからカルティエ・ラタンまで』の一章を、『巴里芸術家放浪記』と訳題した井上勇訳で見る。
ああ、われわれの青春時代から、どれだけの水が橋の下を流れたことだろうか。どれほどの色あせた曙、どれほどの日と週と季節が曙、日、週、季節を重ねて過ぎさったことか。
河はわが悩みにも似て
とアポリネールは歌った……
流れ去りながれきたりて尽きる日もなし
ただ、ギヨーム・アポリネールの方が、死んでしまった。ジャン・ペルランも死んだ。グラン・ゾギュスタン河岸に住んでいたアンドレ・デュ・フレノワも死に、クロディアンはカルチエ・ラタンを見棄てた。図々しくも盗んだ牛乳とみか月ぱんで生きていた愉快な仲間たちと、いま路で出会ったところで、相手はきっと私の見分けはつくまい。いまはどこにいるのかしら、どこにいるのか教えてほしい。でも誰がこのような質問に答えることができよう。ヴィヨンもまた、悲しみの夕、町のこだまのひとつひとつに、むなしく同じ問いを投げかけた。可哀そうなヴィヨン。その彼もいまはどこにいるだろう。
ヴィヨンをここに探せども
あらず、ヴェルレーヌまたむなし
そしてまた、われわれが当時うろつきまわっていた居酒屋、バー、めし屋、あの人影もないポン・ヌーフの上、暗い家々の間をとかげのようにまがりくねっている狭い路地を、同じようにうろつきまわっていた、あまたのほかの人間もまたむなしい……夜の風が吹きあげる、さながら渦巻くまぼろしともいいたいほどのはかない思い出の灰……
『断腸亭日乗』によれば、荷風がこの作品を読んだのは、1934年11月8日および14日である。
十一月八日。立冬。快晴。一点の雲なし。山茶花半地に堕つ。此日の新聞に謡曲蝉丸を歌うことその筋より禁止せられ式辞有り。世の中愈々狭苦しくなりてやがて近松の時代浄瑠璃の大半も禁止せらるるに至るべし。午後フランシス・ カルコのモンマルトルと拉典街の追憶記をよむ。晩間夕餉を食せんとて銀座に行く。星影冴えて風漸く寒し。真砂屋に立寄り雑談刻を移して夜半にかえる。
十一月十四日。碧空拭うがごとし。カルコの追憶記を読む。昏暮銀座風月堂に餞して後茶店亜凡に憩う。酒泉高橋萬本安藤歌川の諸子に逢う。東北の風強し。
この8日と14日の間には注目すべき記述がある。この前年あたりから、荷風は、世の中が次第に窮屈になり、文筆活動にも圧迫が加わるのを嘆いているが、11月10日には「武断政治の弊害追々顕著となる。恐るべし恐るべし」と記し、外祖父鷲津毅堂の「書九厄」を長々と引用している。1917年初秋、『断腸亭日乗』を書き始めたころ、加齢によって身体の弱り始めたのをかこっていた荷風であったが、そこには文人の気取りもあった。それから二十年近くを経て、彼は五十代半ばである。「書九厄」を引用した三日後には「皆老境のなすところ。悲しむもせんかたなし」と述べる。
世の中と自分の身と、ふたつながら次第に望みのないものになってゆくと感じた当時の 荷風には、『モンマルトルからカルティエ・ラタンまで』が、青春の余栄の漂う、初々しい著と映った。アルバン・ミシェル版の作品分類では、回想録である。特異なミリューでの生活に耽溺しながらも、ボエームの運命をよく識り、冷静な眼を持つカルコの特質がよく表れている。
この著にみる時は20世紀初頭、カルコがボエームであった頃である。ところはモンマルトルやカルティエ・ラタンで、一時代の文壇・画壇の地図を形作っている。この著の圧巻であるモディリアニの葬儀の情景を、再び井上勇訳で挙げてみる。
たくさんの画家、女、作家がいた。全モンパルナッス、全モンマルトルが、死んで行った、そして、生前は行きあたりばったりな乱脈な生活をして、自分の身体のほかは、なにものもなく、あらゆるものに貧乏をした友人の思い出に、最後の敬意を捧げるためにぴったりと一緒になっていた。
私は不幸だったモヂの友だちの誰彼の顔を見付けた。彼らはずっと昔からすでに自らの路を歩んでいた。みんな年をとって、少しく脂ぶとりしていた。あるものは有名であり、あるものは有名になろうとしていた。ピカソ、サルモン、マクス・ジャコブ、ブレーズ・サンドラル……みんなそこにいた。彼らは過去をなんらかくそうとはしていなかった。まるで逆だった。彼らがいまモヂとともに葬ろうとしているのは、その青春だった。
カルコがこの作品を書き上げたのは1925年であるから、彼の38、9歳の頃であり、回想録を書くにはまだ若すぎる年齢である。しかしこの回想録にしばしば登場するギヨーム・アポリネール、アメディオ・モディリアニは、前者が1918年に、後者が1920年に没している。この著を出した後に活躍の重点があるカルコからみれば、両者は一時代前の芸術家である。この回想録に描かれているのは、成功するまでの、あるいは変容してしまうまでのボエーム群像である。回想は1920年代の入口で止まっている。この著はそれより数年の時を経 、四十代に入ろうとしていたカルコによって著されたわけである。
『モンマルトルからカルティエ・ラタンまで』と『ボエーム生活の諸情景』との決定的な相違は、前者が無数のボエームのなかから、後に成功した人物のみを描いたこと、後者は脱落し、変容したボエームをも描いたことである。
ともあれ、凝縮された時間が堆積したこの街の、非情でありながらこのうえもなく甘美な、もっともコスモポリタンな、もっとも知的な、そして時としてはもっともいかがわしい雰囲気が混淆しているいくつかの界隈の様相を、カルコは描いた。ボエームたちがこれらの界隈で生活し、そこに時間が流れ、それが歴史となる過程を描くカルコの文体は、訥々としたものでありながら、そこに巧みな計算も感じられる。
『断腸亭日乗』にはこの著を読んだと記されている他、感想などは記されていない。荷風が世の窮屈になりゆく様や、五十代半ばという頽齢を嘆く1933、4年頃から、荷風の筆は艶やかさを失いかけるが、しかしこの後に、カルコからも学んだ観察の重視が実を結ぶ。1937年に発表された『濹東綺譚』は、日本近代文学史上の金字塔といえよう。そしてこの作品の最も重要な部分は作中作の「失踪」と終章部の「作後贅言」であろう。そこには、執筆の二年前に繙かれたカルコの面影が、創作の動機にも技法上にも存在する。「作後贅言」の一部分をみよう。
帚葉翁が古帽子をかぶり日光下駄をはいて毎夜かかさず尾張町の三越前に立ち現れたのはその頃からであった。銀座通の裏側に処を択ばず蔓衍したカフエーが最も繁盛し、又最も淫卑に流れたのは、今日から回顧すると、この年昭和七年の夏から翌年にかけてのことであった。
帚葉翁はいつも白足袋に日光下駄をはいていた。其風采を一見しても直に現代人でない事が知られる。それ故、わたくしが現代文士を忌み恐れている理由も説くに及ばずして翁は能く之を察していた。わたくしが表通りのカフエーに行くことを避けている事情をも、翁はこれを知っていた。一夜翁がわたくしを案内して、西銀座の裏通りにあって、殆ど客のいない萬茶亭という喫茶店へつれて行き、当分その処を会合処にしようと言ったのも、わたくしの事情を知っていた故であった。
荷風の知人神代帚葉翁は、いわゆる成功者ではない。「郷里の師範学校を出て、中年にして東京に来り、海軍省文書課、慶應義塾図書館、書肆一誠堂編集部其他に勤務したが、全くその職に居ず」、「閑散の生涯を利用して、震災後市井の風俗を観察して自ら娯しみとしていた」人物である。
金利生活者の多いフランスなどでこそ、このような人物はよく見受けられるが、わが国においては、近代文学に表れた遊民の一典型として辛うじて記されるものであろう。
カルコの『モンマルトルからカルティエ・ラタンまで』に登場する人物が、いずれも成功という形でボエームの生活から去り、「脂ぶとりして」いるのに比し、帚葉翁は慎ましすぎる「現代人でない」人間である。
ボエームはアパッシュ、ジゴロ、マクローなどといった連中と気安く口をきき、ときには友人のような振りもするが、ボエームとこうした男たちとの距離は、ブールジョワとボエームとの距離よりも遙かである。
『ボエーム生活の諸情景』の著者ミュルジェールも、『モンマルトルからカルティエ・ラタンまで』の主要登場人物モディリアニも、その死は悲惨であった。しかし悲劇のボエームを悼むおびただしい会葬者の葬列が、いずれの場合にも、付近の住民を驚かせている。
彼らは栄光と悲惨とを一身にあつめ、劇的な生涯を送り、不朽の名声を得た。芸術家と芸術家を志す者の苦悩は洋の東西を問わず、同一であろう。しかし、荷風が、芸術の成功者としての栄光もなく、またその裏にある恐ろしい苦悩もなく、市井の人として淡々と生きる翁を「作後贅言」の主要人物として登場させたのには、彼のボエームにたいする解釈がここにあるからであるように思われる。「作後贅言」にみられるボエームあるいはボエームの生活は、社会にたいして挑戦的なものではない。一夜にして有名になるような成功も求めず、栄光と悲惨を同時に抱えて斃れるような劇的な人生を求めもしない。淡々と市井に生き、時が来れば、枯木のように朽ちるのみである。
また「わたくし」が書いている作中作「失踪」の主人公種田順平も、荷風型ボエームの一典型であろう。私立中学校の英語教師である順平は、身過ぎのため、主人の子を身ごもっている小間使いの光子と再婚する。戸籍上の長男の下に、二人の間に女の子ができ、生活は苦しく、順平は学校を掛け持ちして働くうちに子供たちも成人する。しかしある時は細君の凝っている日蓮宗の講中に、またある時はスポーツマンの長男の友人に、また別の時は活動女優になった長女の女優仲間にわずらわされ、順平は家内の喧噪に耐えられない。彼はある日、今は浅草で女給をしている元下女のすみ子に出会い、五十一歳の春、学校の退職金を懐に家出をする。そしてすみ子の許に行き、ここで余生を過ごそうとはかるというのが筋である。
作中作の小説には、独立した小説にはない、ある変容作用がおよんでいる。つまり、「失踪」のある部分は非常に詳細に、またある部分は筋書きていどにおおざっぱに書かれている。そのため主人公の心理は「失踪」のなかでだけではとらえられず、この作中作の枠をはみ出して考えられるべきものとなってくる。巷に埋もれて暮らす種田順平は、やはり荷風の代表作である1934年に出された『ひかげの花』の主人公重吉の延長線上にある人物の一人であろう。地位もなく名誉もなく、すみ子と暮らす順平の将来には何の望みもない。これこそ、荷風が好んでつかう云い方の、川の流れのように気ままに生き、時が至れば死んでゆく生活である。
ミュルジェールやカルコの描いたボエームは、青春にあって、二十歳の苦しい戦いを戦い抜き、極めて少数の勝者の一人とならなければ 、ボエームであったことに何の意味もないとみられるのである。また、その戦いがはじまる前、いわばスタートラインにある時にはやくも、才能のないボエーム、市民的モラルを抱きながらこの世界に入ってきたいわば道楽ボエームは、排除されてしまう。
さらには、青春が過ぎ、名をなしてボエームの生活に別れを告げた人々は、ボエームからみても、成功者自身からみても、一種の「堕落した人間」なのである。
このような狭量、偏屈と云ってもよいボエームの概念にたいして、荷風のそれはあきらかにもっと伸びやかである。それは東洋的な隠遁の思想に、放浪の夢を付加したというような安易なものではない。
なおミュルジェールは、ボエームはパリにしか存在しないとも云っている。厳格に定義されたボエームについて識りながら、荷風はそれを超えたものを夢見ていた。
荷風は23歳から28歳までの数年間を、無名の青年として、アメリカ合衆国とフランスで過ごした。父永井禾原の配慮により、名目は銀行員でありはしたものの、放浪の自由を体験した数年間であったといえる。また渡航前には、先にも述べたがパリで生活し、フランス語で作品を書いて生きようと考えた形跡もある。しかし同じ語族系の言語であっても母語以外の言葉を使って文学作品を書く作家は、欧州諸国間においては皆無とはいえないが、きわめて稀である。
荷風はこの意味でも、成功しなければ意義のない、そしてパリだけにしか存在しないボエームになることはなかった。欧米滞在の期間の4年間はアメリカ合衆国、9ケ月はフランスであった。なおフランス滞在の大部分の時間は、銀行員としてリヨンで過ごさざるをえなかった。パリにいることのできたのはフランス到着時の2日と、最後の1ケ月に過ぎない。しかし限られた時間のなかで、彼は全身を目にし耳にして、この地を観察した。彼は真のボエームになることはできなかったが、後に彼が描く作品に登場する、冷厳な傍観者達は、彼の欧米での疑似ボエーム生活の賜であるといえよう。
1931年発表の『つゆのあとさき』の登場人物松崎博士の、銀座尾張町の四つ角に佇んでの述懐をみる。
疑獄事件で収監される時までの幾年間、麹町の屋敷から抱車で通勤した其の当時、毎日目にした銀座通と、震災後も日に日に変って行く今日の光景とを比較すると、唯夢のようだと云うより外はない。夢のようだというのは、今日の羅馬人が羅馬の古都を思うような深刻な心持を云うのではない。寄席の見物人が手品師の技術を見るのと同じような軽い賛称の念を寓するに過ぎない。西洋文明を模倣した都市の光景もここに至れば驚異の極、何となく一種の悲哀を催さしめる。
ついで先に主人公の名を挙げた『ひかげの花』の登場人物である弁護士塚山の、私娼の娘おたみにたいする感慨をみよう。
塚山は其性情と、又その哲学観とから、人生に対して極端な絶望を感じているので、おたみが正しい職業について、或は貧苦に陥り、或は又成功して虚栄の念に齷齪するよりも、溝川を流れる芥のような、無知放埒な生活を送っている方が、却ってその人には幸福であるかも知れない。道徳的干渉をなすよりも、唯些少の金銭を与えて折々の災難を救ってやるのが最もよく其人を理解した方法であると考えていたのである。
松崎や塚山のような荷風作品のなかの知識人は、帰朝間もなく1909年から1910年にかけて書かれた『冷笑』のなかの「八笑人」のいずれからか糸を引いている。銀行の頭取小山は、ふとした契機から小説家を知り、ついで旧劇の劇作家、画家、欧米通の上級船員などを知ったので、滝亭鯉丈の『八笑人』に因み、浮き世を茶にした 「八笑人」の会を作ろうとする。しかしついに八人までにはならなかったし、全員が集まるということも難しかった。だが、小山の試みは八分通り成功したといえようか。彼らはある時は下町で、ある時は山の手で、ある時は純和風の、ある時は純洋風の晩餐をとりながら、果てしなく文明論を戦わす。
これら荷風作品の登場人物達は、もし荷風の欧米体験がなければ、まったく別の人物であったであろう。荷風の体験から得たボエームにたいする理解は深く、その本質を探り得ている。前述したボエームはパリにしかいないというミュルジェールの定義は、徹底的にコスモポリタンの街であるパリにしか真の自由は存在しないという意味である。
ウイーンを好んだが愛するにはいたらなかったフレデリック・ショパンが、パリに来て二日目にパリを愛し、生涯その思いが持続したというのも、芸術家の感性が鋭敏に自由を捉えたことの好例である。
ラテン的気質は、我が国の人々にはもっとも理解しがたいものである。ラテンの文化の一産物であるパリのボエームあるいはボエーム的性向を持った人々の生活は、わが国の人々からみれば、非情、冷酷、怠惰、放埒等の非難の言葉を浴びせるべきかっこうの標的であろう。
ボエームは他人に干渉せず、また他人の干渉を許さずに生きる。『ボエーム生活の諸情景』において「金持ちボエーム」であるバルブミューシュが、ロドルフ等四人の仲間入りをしようとした時、どんなに激しい抵抗に遭ったかを考えればそれが分かる。
『ひかげの花』の弁護士塚山は、わが国においては困難なボエームの生き方を、少なくともその内的生活においては持っている、数少ない知識人の一人である。
塚山の心境は、戦時中から戦後にかけて書かれた『問わず語り』の主人公である画家太田の、義理の娘の身の変遷を思う心境に通じる。義父と道ならぬ関係に陥った雪江は、義父とのつながりを深刻には考えず、歌手の春山に逢うために家を出てしまう。敗戦後、太田は東京には戻らず、疎開先の岡山で老い朽ちたいという気にもなっている。太田の感慨が記される。
兎に角に二十世紀も半になろうとしている此の現代ほど呪うべく憎むべく恐るべき時代はあるまい。平和の基礎は果して確立したのであろうか。ナチとその聯盟国との屈服に依て為された平和は一時の小康に過ぎないのではなかろうか。モネーの絵画、ロダンの彫刻、ドビュッシイの音楽が文化の絶頂を示したような、そういう目覚しい時代はいつになったら還って来るのだろう。人の世の破滅はまさにこれから始まろうとしているのではなかろうか。
執筆から30年が経った今、太田の感慨はその確かさ、鋭さによって、人の胸をうつ。代表作のうちには入れられない『問わず語り』には、荷風がフランス文化に学んだものの精髄がある。
ミュルジェールやカルコの作品の情景を、無名の青年として見聞し、深く共鳴して生きた体験を持ったからこそ、荷風はあの苛烈な生き方を貫くことができたのではなかろうか。