1 壁とは
与謝野鉄幹を主宰とする「明星」が創刊されたのは一九〇〇年(明33)四月だった。その「明星」は一九○八年(明41)十一月、一〇〇号をもって終刊されるまでのおよそ八年間、ロマンチシズムを掲げ、御歌所派と言われた旧派和歌に対峙しつつ短歌革新に力を尽くした。この斬新な文学運動により、江戸時代以降の近世和歌に新風を吹き込んだのだった。わずか八年ばかりで、三〇〇年近い歳月の中で停滞していった和歌を刷新するために「明星」が果した役割は大きい。
もっとも「明星」はこの一〇〇号で一旦終刊したが、この後、第二次「明星」(一九二一~二七)、「冬柏」(一九三〇~四五その後休刊もあって五二年終刊)、第三次「明星」(一九四七~四九)と、ある時期は誌名を変えたりしながら継承されている。が、最もその力を発揮したのは第一次「明星」一〇〇号までだと考えられる。
「明星」が一〇〇号で終刊した時、鉄幹は数え年三十六歳だった。言いかえれば弱冠二十八歳で「明星」を創刊したことになる。その構成を見るとまず「明星」の清規では、「互いの自我の詩」、古来から続いてきた詩歌の模倣ではなく新しい固有な詩歌を唱え、かつ「新しい国詩」を創造しようとその目論見を述べ人々に呼びかけている。その上に挿画家の一条成美のアール・ヌーヴォー調の挿画を入れ、一条成美が退いたのち洋画家の藤島武二が表紙を描いた。加えて、梅澤和軒訳「アストンの和歌論」の連載、新体詩にページを割くなど西欧的な匂いをふんだんに盛り込んだ企画は、なかでも若い人たちの心に訴える力があった。よく知られている島崎藤村の詩「小諸なる古城のほとり」も「旅情」と題されて創刊号に載せられている。もっともこの詩をおさめた『落梅集』(明34.8刊)を出版したのち藤村は詩を書くことをやめ、散文の世界へ移っていることは、鉄幹と対比してみた時興味深い。ほかに客員作家だけみても落合直文、上田敏、泉鏡花、山田美妙、国木田独歩、田山花袋、小山内薫、井上哲次郎、広津柳浪、蒲原有明などが寄稿している。鉄幹が十全の力を発揮して創刊し、一〇○号までで従来の短歌の動きを大きく変えていった雑誌が「明星」だった。
しかしその鉄幹の評価が当時も、そして今もなぜか低い。弟子の北原白秋や石川啄木、そして妻でもあった与謝野晶子には個人の全集があるが鉄幹にはない。かろうじて一九三三年(昭8)に、還暦を祝って出版された『与謝野寛短歌全集』と、死後出版された『与謝野寛遺稿歌集』(昭10)の二冊がまとまったものとしてあるのみ。歌以外の評論や詩を読むとなると図書館などで原本にあたるか、色々な所に断片的に載せられているものを捜して読むしかない。この状況が彼を再評価させる機会から遠ざけていったものと思われる。不思議な天才である。早熟にすぎたきらいもあるがそれだけではないようだ。
与謝野鉄幹は毀誉褒貶相半ばする人だったらしい。現代でも彼を和歌革新運動を果した作家と見る見方がある一方で、恋多き男で野心家だが文学的には見るべきものが少なく、妻晶子の名伯楽であったとする二様の見方に分れる。ことに後の見方は印象が先行しており曖昧であるにも関わらず、まるで澱のように彼にへばりつきながらこの噂を払拭する機会に今だに恵まれていない。これは直接には鉄幹にとって不幸なことであるが、展げて考えれば現代短歌、ひいては日本の文学にとって不幸なことである。
ところで鉄幹のこの評価の低さは、第一次「明星」時代にすでに定着してしまった気配がある。原因は大きく言って三つあったと思う。鉄幹を遮る三つの壁だ。第一は折から台頭してきた自然主義文学。そしていま一つは文壇照魔鏡事件。最後の一つは与謝野晶子。
第一の璧はそれぞれ後に詳しく述べるが「明星」が掲げた詩と恋を称え奔放な空想と比喩、高らかな理想によって生み出されていく詩歌、いわゆる星菫調は、明治四十年あたりから時代の主流となっていく私小説を中心とする自然主義文学とその方向を異にした。鉄幹の求めたものは時代の主流から次第に遊離し、傍流になっていかざるを得なかった。「明星」一〇〇号終刊は時代の流れの中では止むを得ないものであったと考えるが、鉄幹は挫折感を拭うことはできなっかたようだ。
次の壁の文壇照魔鏡事件は、一九○一年三月に出された怪文書、小冊子「文壇照魔鏡第壱 与謝野鉄幹」が出されてから始まる。内容は鉄幹を誹謗中傷するもので、これが多くの人々に真実の鉄幹像として受け取られてしまった。小冊子の内容は俗悪で野卑、品性を欠くもので、一部の暴露記事などを読みなれている現代から見てもとうてい信じられるものではない。さてその内容は「鉄幹は妻を売れり」「鉄幹は強盗放火の大罪を犯せり」などの罪状を列挙して、それを更に詳しく説明したものだった。発行者は大日本廓清会で代表は田中重太郎となっているがいずれも匿名だった。が、鉄幹を相当よく知っているものが書いたと推定される書き方がされていた。文壇の衝撃はもとより鉄幹のショックはかなり大きかった。それは心情的なものに加えて「明星」の読者や会員が激減するという二重のパンチとなった。この悪意の書を鉄幹は裁判にかけたが証拠不十分で敗訴となった。敗訴となったため、この小冊子が全て人々に信じられたわけではないだろうが、「明星」は女性会員が多かったこともあり、家族の反対などにより会員数の激減にも繋がったようだ。さらに色好みで壮士気取りの衒いの多い男、和歌の新風を代表するという自負で傲慢な男だという印象を拭う機会を失ったことになる。事実彼がどこか壮士気取りの青年だったことは確かで、この噂を今日まで引きずらせてしまうことにもなった。結果、彼の作品を正面から読みかえし評価しようとする人を得る機会を逸してしまった。
そして最後の壁として鉄幹の前に立ちはだかったのは、弟子であり妻であり共に文学を目ざした与謝野晶子。折口信夫が鉄幹を晶子と比べた時、作家として負けていないのに人間として晶子が鉄幹をしのいでしまったと書いているが、晶子は鉄幹の獅子身中の虫だったわけだ。鉄幹は師として晶子に、歌や文章を教えたが、やがて晶子はその人柄で世間に対して鉄幹を越えてしまったと折口はいう。
晶子は鉄幹との間に十三人(うち二人死亡)の子をもうけ、文学の上では互いに研讃に励んだ。そして鉄幹が亡くなった時「筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我れを愛できと」と詠み、二人で越えてきた歳月と互いの心の熱さが伝えられている。当時晶子は五十七歳だったが、その初々しさは『みだれ髪』の頃と遜色がない。が一方で、鉄幹が文壇への起死回生を願って出かけたフランスヘ晶子も半年ほど遅れて同行したが帰国後、彼女は小説「明るみへ」を「東京朝日新聞」に一九一三年(大2)六月から九月まで一〇〇回にわたって連載している。小説ではどう見ても鉄幹と思われる作家が世の中から見捨てられ陰陰滅滅とした半ば奇人のように書かれている。そのかたわらで、晶子とおぼしき作家である妻は健気にもそんな夫を何とかしてフランスヘ旅立だせようとするくだりで書き終えられている。鉄幹と晶子のフランス行きは事実であることから、この小説で作家の夫、鉄幹の奇人ぶりも信じられた。鉄幹のフランス行きの旅費が晶子の百首屏風の頒布の収益などによる、彼女の内助の功の美談によって語られることの多いのもこの小説が信じられたことによろう。但し旅費や滞在費はそれではとても賄えなかった。鉄幹は長兄などから大金を借りたようだ。晶子の自己コマーシャルはなかなかだが、一方、ますます自分のイメージを悪くするこの小説を、晶子すなわち妻が書いていることを鉄幹はどんな気持で読んでいたのだろうか。加えて思うことは自分を善人に仕立てた小説を、大らかに書いた晶子を世の中の人は見過ごしてしまったことだ。こんな所に憎めない晶子の人柄があるいはあるのかもしれない。晶子のこの小説によって、渾身の再起を願ってフランスに出かけ、何とか作家としての立ち場を立て直そうとした鉄幹の願いはその効を発揮する機会を逸してしまった。帰国後ますます活躍したのは晶子だった。鉄幹は最もやさしい最も恐ろしい鬼を内に抱え込んでしまっていた。作家同志の夫と妻の、この壮絶な戦いは鉄幹の死をもっても終わることはなく、晶子が亡くなった後、現在もまだ続いているかに見える。言いかえれば鉄幹は三つの壁、あるいは三匹の鬼によって喰われてしまった作家だった。その中で最も恐ろしかったのは晶子だったのではないか。
2 自然主義文学と鉄幹
鉄幹は一八九六年(明29)七月、第一詩歌集『東西南北』を上梓している。その巻頭歌は次の一首。
野に生ふる、草にも物を、言はせばや。
涙もあらむ。歌もあるらむ。
二行書きのこの一首から鉄幹は歌人として、また文学者として出発したのだった。この歌から私たちは『古今集』の仮名序を思い起す。かの「やまとうたは、人の心を種として、のことの葉とぞなれりける。(中略)花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声をきけば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」というあの序文。和歌は人の心をみなもととして多くの歌となってゆくもの。花に寄って来て鳴く鶯や河鹿の鳴く声を聞いていると、人ばかりでなく全ての生きものがみな、歌を詠みたくなるものだという貫之の和歌への思い入れに共感した鉄幹の心が詠まれている。野の草にも人と同じように涙を流す心があり、熱い感動を表わす心もあるのだと言っている。草木に人の心をなぞらえながら、歌への高い理想の語りかけがあり、それがさわやかなリズムとともに私たちを説得してくる。鉄幹の根本の思想は『古今集』のもつ優美で繊細、そして歌への高い理想を掲げるものだった。
しかし当時、『東西南北』で人口に膾炙していた歌はこの巻頭歌のような歌ではなかった。この歌とは全く違った次の様な歌だった。もっとも集中にこれらの歌もおかれている。
韓にして、いかでか死なむ。われ死なば、
をのこの歌ぞ、また廃れなむ。
韓にして、いかでか死なむ。猶も世に、
見ぬ山おほし、見ぬ書おほし。
韓にして、いかでか死なむ。あだに死なば、
家の宝の、太刀ぞ泣くべき。
韓にして、いかでか死なむ。今死なば、
みやび男とのみ、世は思ふらむ。
韓にして、いかでか死なむ。死ぬべきは、
十とせの後の、いくさ見てこそ。
「韓にして」という初句ではじまる、なかなか勇壮なますらおぶりの歌である。これらの歌から鉄幹は剣の鉄幹、虎の鉄幹とよばれるようになった。言いかえれば『東西南北』は、ますらおぶりと『古今集』を基調にしたたおやめぶり、いわゆる後に明星調、星菫調と言われた二つの可能性を持った詩歌集だったのだ。巻頭歌の次には「花ひとつ、緑の葉より、萌え出でぬ。/恋しりそむる、人に見せばや。」と続いている。しかし世の人々はこれらの歌を見落としてしっまった。そして勇壮なますらおぶりの歌に人々の目は集まってしまった。
これらの歌は一八九五年(明28)、朝鮮京城に出かけた時に詠まれたものであることが詞書に書かれている。それも腸チフスに患ってしまい六十日程入院した時の歌。歌の中で、彼は他国で病気になって死んでしまうわけにはいかないと言う。なぜなら、自分が死んだら日本の「をのこの歌」、ますらおぶりが廃たれてしまうと言うのである。。いかにも壮士気どりで自負心の強い発想だ。さらに、まだ登ったことのない山や読み残した書物が沢山ある上に、このまま死んだら自分のことを世の中の人は歌などを詠んでいるだけの風流な男だと誤解したままになってしまう。そしてそれよりも何よりも十年後に起るはずの戦争を見なくては死ねない……と言っている。彼は自分の将来は「みやび男(を)」だけではないと述べており、未来に何を期待していたのか興味深い。また鉄幹が京城を訪れたのは日清戦争が終ったばかりの時期だった。日本が実質的に朝鮮を支配下におこうとした時代だった。これらの歌は時代に敏感な彼ならではの反応だったと思うが、それにしても十年後の、日露戦争を予測したような歌が詠まれていることには驚いた。
ところで、勇壮なますらおぶりの歌に人々の注目が集ったのは、日清戦争後の国の雰囲気に合う歌だったからではなかったか。平壌、大連などで勝利し下関条約を締結した後の日本人の感情を剌激し酔わせる気分があった。加えて、どこか国士風な雰囲気をもつ鉄幹もこの時運に乗っていこうとした気配がある。彼はある時期から、ますらおぶりの鉄幹を演じていった。但しそれと同時に『古今集』の目ざした高い理想をかかげる歌にも心を尽くしていた。鉄幹は多才な作家だった。具体的な活動としてはまず第一詩歌集『東西南北』(明29)を出版した翌年同じく詩歌集『天地玄黄』(明30)を出した。これは『東西南北』のますらおぶりの延長線上にあるものだった。さらに三年後、一九〇〇年(明33)「明星」を創刊した。「明星」は先述したように多彩な作家を誌面に登場させたが、鉄幹自身も『東西南北』の巻頭歌「野に生ふる、草にも物を、言はせばや。/涙もあらむ、歌もあるらむ。」により近い作品を多く作り始めた。ますらおぶりで名声を得たのち、たおやめぶりへと歩を進めたのだ。その仕事をまとめるように一九○一年(明34)に詩歌文集『鉄幹子』と詩歌集『紫』の二冊の本を出している。鉄幹は自らの明星調、星菫調をより際立たせようとしたのである。その明星調を女性の側から詠み初めたのが当時は鳳晶子だった与謝野晶子。『鉄幹子』『紫』に続いて鳳晶子歌集『みだれ髪』が同年の八月に上梓され、鉄幹は『みだれ髪』を加えて一年に三冊の「明星」の象徴となる著書を出している。自らのよって立つ場所を少しずつ動かしていった。
鉄幹が明星調により意識的になっていた頃、時代は徐々に別のところで動き始めていた。それは自然主義文学の台頭。それは明治二十年代の坪内逍遥らにその萌芽が見られ、理論的な主張としてはっきり形を取ったのは日露戦争以後だったと言われている。自然主義文学とは社会の動きを背景とした時代思潮を主眼とする文学。平たく言えば、時代の変化に添い、あるがままの事実を表現しようとする、短歌で言えば写生を強調していく文学だった。この自然主義文学は日本だけでなく世界中に広がっていった。それが日本の短歌の世界に影響したのも当然のことだっただろう。これが鉄幹の主張していく文学主張と大きく拮抗していくこととなる。浪漫的理想主義は、自然主義文学とは対峙するものだった。自然主義文学は小説では島崎藤村の『破戒』(明39)や田山花袋の『蒲団』(明40)あたりから隆盛となったと考えられているがそれは丁度、日露戦争が終ったあたりで、人々の心は赤裸々な人間観察や現実直視の方向へ、より心が動いていった時代だった。「明星」が志向した浪漫主義とは対極になっていく思潮である。鉄幹の求めた空想性の高い理想主義は時代の中で徐々に遅れていった。
ここで思い起こすのは藤村の明治三十七年に出された『藤村詩集』。この詩集は『若菜集』『一葉集』『夏草』そして『落梅集』の四冊をおさめている。その『藤村詩集』の序は「遂に、新しき詩歌の時は来りぬ」で始まる。さらに「そはうつくしき曙のごとくなりき。あるものは古の預言者の如く叫び、あるものは西の詩人のごとくに呼ばゝり、いづれも明光と新声と空想とに酔へるがごとくなりき。」と続く。これは『東西南北』の自序の中の「小生の詩は、短歌にせよ、新体詩にせよ、誰を崇拝するにあらず、誰の糟粕を嘗むるものにもあらず、言はば、小生の詩は、即ち小生の詩に御座候ふ」に重なるものであり、さらに「明星」の「新詩社清規」(創刊号のものを充実させた六号のもの)の「われらは互いに自我の詩を発輝せんとす。われらの詩は古人の詩を模倣するにあらず、われらの詩なり、否、われら一人一人の発明したる詩なり」に通じるもの。初め鉄幹の詩歌に対する思いと藤村の詩歌で希求していこうとしたものは同じフロアにあった。しかし藤村は『落梅集』を最後として詩から小説へ移行している。『若菜集』で「こゝろなきうたのしらべは/ひとふさのぶだうのごとし/なさけあるてにもつまれて/あたゝかきさけとなるらむ」と浪漫的に詠いあげた詩人藤村は、晶子が『みだれ髪』を出した同じ月に『落梅集』を出したのを区切りとして小説の世界に移り短篇小説「旧主人」(発売禁止)や「藁草履」などを発表し、やがて『破戒』(明39)を書いていく。田山花袋の『蒲団』(明40)などとともに自然主義文学の興隆期の主役となっていった。藤村は現在から見れば至極自然に時代の流れに乗っていった。が「明星」も鉄幹もそうはならなかった。そして極めて象徴的なことは再度記せば『落梅集』におさめた「小諸なる古城のほとり」が「明星」の創刊号に載せられていること。藤村が浪漫性の強い詩に見切りをつけた頃、「明星」はその浪漫性を高々と掲げて出発した。鉄幹の求めた空想性の高い理想主義は当然のように時代の流れの中で徐々に傍らに押しやられていった。
一方、正岡子規が新聞「日本」に「歌よみに与ふる書」の連載を初めたのは一八九八年(明31)からだ。そこで子規は「貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候」と書いて、『万葉集』をよしとする発言をしている。これは「明星」が創刊される二年ほど前だが、『東西南北』が出てから二年近く経ってからのことでもある。『東西南北』は巻頭歌に『古今集』の特徴を掲げており、これに西欧詩の影響を受けた新体詩の浪漫性を加味した時、当時の詩歌の方向は自ずと精神や理想を表立てた抒情性の高いものへ動き始めていた。こうした状況下で子規は、それらの動きとは幾らか違った立場をとろうとしたのかもしれないが、また見方をかえれば、自然主義文学にいち早く気づき共感した発言だったかもしれない。いずれにせよ、人々の現実に即した感動を表現した『万葉集』の世界を称揚し、幻想性や美意識の勝った歌を排した。これが写生を基本としたリアリズム短歌、「アララギ」系短歌の隆盛のさきがけとなっていった。この主張が自然主義文学と相俟って、その後のアララギ派短歌の繁栄へとつながっていくことになる。鉄幹の打ち立てた理想主義に対して子規は、現実主義をもって立ち上ってきた。
「明星」の会員だった窪田空穂、金子薫園、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎らが鉄幹の元を去っていったのも様々の要因があったものと思われるが、最も大きい要因は鉄幹と文学の志向を異にしたからではなかったか。「明星」一〇〇号、終刊まで残った石川啄木もその後、大きく自然主義文学に傾いていくこととなる。もっともこれらの作家の全てが自然主義文学に共感したわけではない。森鴎外を中心に「スバル」によった木下杢太郎、吉井勇、高村光太郎や白樺派の作家たちは独自の立場から自然主義批判を展開した。しかし自然主義批判の人たちも、文学観の根底においてはへだたりは少なかった。人間解放をとなえた白樺派の作家たちも実質的にはそれほどの差異がなかったのではないか。詳しくは触れられないが、白樺派の作家を支えてきた谷崎潤一郎や志賀直哉らの仕事もやがて、反自然主義というよりは個々の個性によって書き継がれていった。そして彼等の作品が自然主義文学の作家、徳田秋声や正宗白鳥らに影響を与え、これが大正期の自然主義文学を成熟期に導いたことはよく知られていることだ。自然主義と反自然主義は反目し合ったというよりは、むしろ互いに補い合うことによって融合していったのだった。
そんな状況下で鉄幹は西欧の近代思想を取り入れ「明星」の若い女性歌人、晶子、山川登美子、増田雅子らを表に立てることによって自然主義文学を越えようとした。そして彼女たちは十分にこれに応えた。女性歌人たちの新鮮な感性とエネルギーの成果は、あるいは鉄幹の予想をはるかに越えていたかもしれない。「明星」時代は女性の歌の時代だった。それほどに「明星」の絢爛とした浪漫性は際立っていた。また鉄幹は「明星」誌上に「反自然主義宣言」を書き、叙事詩「日本を去る歌」や、のちに折口信夫が絶讃した長詩「源九郎義経」を会員とともに連載した。しかしそれでもなお「明星」は一〇○号で終刊した。これはこの時代の動きの中で当然の帰着だった。それより私たちはむしろ「明星」が、そして鉄幹が御歌所派に代表される旧派和歌に新風を吹き込んだことの方を認めるべきではないか。但し、自然主義文学は鉄幹の前に立ちはだかった壁であったことは確か。彼は多くの反自然主義をとなえた作家たちが極めて自然に自然主義と融和していく中で、それをよしとしなかった。そして次第に孤立していった。一〇〇号には次のような歌が見られ、鉄幹は寂しさを率直に隠さずに詠んだ。
衰ふるわが青春か詩の才か夢に見るなり枯れにし葵
わが雛はみな鳥となり飛び去んぬうつろの籠のさびしきかなや
しかし鉄幹は詩歌集『東西南北』や歌集『相聞』、晶子の『みだれ髪』を現代短歌の財産として残した。「明星」にかわって歌壇をリードしていくことになる写実派「アララギ」は一九○八年(明41)十月に創刊された。そしてその翌月十一月には「明星」が一〇〇号で終刊している。「明星」と「アララギ」がまさに入れ替ったということになる。「アララギ」はこののち、一九九七年(平9)まで実に九十年にわたって歌壇の最も大きな勢力として近代短歌から現代短歌まで大きな足跡を残すこととなる。
ところで折口信夫は「明星」終刊後四十三年経った一九五一年(昭26)、評論「女流の歌を閉塞したもの」で「明星」の歌人、山川登美子や増田雅子、与謝野晶子の歌をあげながら「あれほど、奈良以前にも、平安期にも、其から鎌倉初期にも、盛んであつた女流の歌が、なぜ今日のしぼんだ花の様なありさまになつてしまつたか。アララギのせゐだと皆言ふ。私もさう思ふ点ではかはりはない」と書いている。写生を中心にした歌が、女性独特の抒情的でとらえどころのないアンニュイ感を詠んだ歌を認めにくくしたという。具体的には次に掲げる、山川登美子の歌などについて書きながら説明されている。
地にわが影。空にうれへの雲の影。鳩よ。いづくに。秋の日くれぬ
句点は折口が加えたものだが、この歌を、「口から出まかせ」に見える歌で新詩社の女性たちは多くこうした歌を詠んだ。言葉を並べていき「最後に近づいて」、魂が入れられ歌意が伝わって来る歌だと書いている。そして「読んだあとに残るのは、ろまんちつくな霞の様なものに包まれてゐる気分です」とも書く。「明星」が目ざしたものを再び見直そうとしている。写生を中心とする短歌が取り落してしまったものを取りもどそうとしている。そしてこれを「アララギにはいろいろ長所もあり短所もありますが、アララギ第一のしくじりは女の歌を殺して了つた――女歌の伝統を放逐してしまつたやうに見えることです」と書いている。明星調の女性の歌に代表される歌を折口は女歌と言っている。この折口信夫が嘆いた女歌が再び脚光を浴び始めるのは、「明星」が終刊した後およそ四十五年後、戦後一九五四年に出された中城ふみ子の『乳房喪失』(昭29)あたりまで待たなければならなかった。それに続いて安永蕗子、河野愛子、大西民子、富小路禎子、山中智恵子、尾崎左永子、葛原妙子、生方たつゑ、馬場あき子、河野裕子など、「明星」の「ろまんちつくでありせんちめんたる」な歌とは少し違った、理智的でありながら「艶」への美意識の強い女歌が展開されることになる。鉄幹が着手し、その詠風を固持しようとしたいわゆる女歌が、自然主義文学をくぐりぬけて再び登場してきた。鉄幹の目ざしたものがおよそ五十年を経て、ようやく戻ってきたと考えてもよいだろう。
3 文壇照魔鏡事件
一九○一年(明34)三月十日、不可思議な小冊子「文壇照魔鏡第壱――与謝野鉄幹」が発行された。発行所は大日本廓清会で代表者は田中重太郎。住所は横浜市賑町五丁目一九番地とあるが住所も名前もいずれも架空。おまけに「転載を許す」と書かれている。内容は与謝野鉄幹を始めから終りまで誹謗中傷したもの。しかも「鉄幹は妻を売れり」「鉄幹は処女を狂せしめたり」「鉄幹は強姦を働けり」「鉄幹は少女を鉄殺せんとせり」「鉄幹は強盗放火の大罪を犯せり」「鉄幹は明星を舞台として天下の青年を欺罔せり」「鉄幹は詩思の剽窃者なり」「鉄幹は学校を放逐せられたり」「鉄幹は心理上の畸形者なり」というようなセンセーショナルな見出しが二十二ケ条にわたり書かれており、何を根拠にしたか分らない分、かなり程度の低い匿名で無責任な暴露本である。しかしこれによって「明星」の読者は半減し、新詩社の支部の解散が相継ぎ、鉄幹自身も文壇から葬られそうになった。文学に関わる「鉄幹は明星を舞台として天下の青年を欺罔せり」や「鉄幹は詩思の剽窃者なり」などは内容を読む以前に、目次の箇条書を見ただけでひるんでしまい、「明星」から退会していった者もいたかもしれない。
こうしたことを期待してこの冊子は極めて意図的に各方面に配られ、店頭にも並べられた。いつの時代もこうした話題は流布しやすい。結論から先に言うと、この小冊子を鉄幹は告訴したが証拠不十分で敗訴となってしまった。なぜ敗訴になってしまったのか分らないくらい簡単に敗訴している。証拠不十分ということだが、十分に調査されたのかどうか疑いたくなる結果だ。鉄幹も同感だっただろう。
鉄幹が告訴したのは「文壇照魔鏡」の筆者として高須梅渓を、そして雑誌「新声」の発行名義人だった中根駒十郎の二人。梅渓は「新声」の記者であり、「新声」では小冊子が出た直後、これを取りあげ記事としたことで鉄幹は疑った。いま一人同じく「新声」の記者、田口掬汀も加わっていたと目されている。当時新声社は博文館、春陽堂に続く文芸出版社として成長していっていた。これだけみても一介の市井の人、鉄幹の孤立が見える。多勢に無勢、孤立無援の鉄幹だった。
冊子の内容を詳しく見てゆくと、最初にあげた「鉄幹は妻を売れり」では、鉄幹の内妻であった浅田信子と林滝野、この二人の女性とは親から金を引き出す目的で同棲し、これ以上金が出ないと見極めるとあっさり離別してしまったと書いている。当時、この二人の女性との恋愛と離別は周りの多くの人が知っていたことだったので真実味があった。しかしながら鉄幹は、自分が背水の陣を敷いて出版した「明星」の一号から五号までの編集発行人は林滝野としている。入籍こそまだされていなかったが、鉄幹は滝野を妻として、さらに文学の同行者として堂々と世の中に披露したことにならないか。しかし小冊子はそんなことは敢て無視した。「明星」は二人の女性の持参金で創刊したと書いている。これもこじつけで初めの内縁の妻だった浅田信子とは女児をもうけるがわずか四十日余りで亡くなりそれを機に信子の方から別れている。一八九九年(明32)秋のことだった。その後、滝野との生活が始まっている。鉄幹はこのあたりのことを何も書き残していないため後年になっても書きたい放題に書かれたという印象だ。しかし二人の女性はさらわれてきたわけではない。鉄幹を愛しその時点では、女性たちの両親も納得した上での上京だった。結果として別れることになったが至極あたり前に考えて、それは鉄幹一人の責任ではなかったはずだ。が、彼はこのことについても一言も弁明してはいない。この潔さを小冊子は踏みにじった。その上に鉄幹の歌に憧れている青少年が関西に多く、さらに鳳晶子は関西の出身であり、山川登美子も関西に関わりがあるということから、彼は壮士気取りで関西の女性を誘い新派和歌を代表すると自負し、軽薄で鼻持ちならぬ人間であると書いている。その書き方は具体的でかつ針小棒大な書き方をしていることにより、それが却って真実味をおびていた。
また「鉄幹は少女を銃殺せんとせり」や「鉄幹は強盗放火の大罪を犯せり」などは、一八九五年(明28)に起った朝鮮の閔妃事件に関わった容疑で事件後、広島へ護送され、容疑が晴れて釈放されたといういきさつに関係していよう。閔妃事件とは一八九五年(明28)十月八日、朝鮮王朝宮廷において美貌で才智にたけた王妃、閔妃を日本の公使が首諜者となり、日本の軍隊や警察らが乱入して殺害する事件が起った。当時、鉄幹は落合直文の弟、鮎貝槐園とともに朝鮮の日本人学校、乙未義塾の教師として当地にあったため疑われたのだった。この一件をうまくアレンジしながら小冊子では事件が仕立て上げられている。正しくは事件当日は槐園たちと木浦に出かけて事件の起きた京城にはいなかったのだから釈放は当然のことだった。しかし冊子は真相を書かなかった。さらに裁判も彼には味方をしなかった。雑誌「太陽」では大町桂月が一見、鉄幹に同情する口ぶりをしながら「文壇を廓清せむとの宣言、真に著者の肺腑より出でたる言なりとせば、われ著者等の意ある所を諒とせざるを得ず」と、結局冊子を肯定している。否、極めて間接的な物言いをしながら「文壇照魔鏡」を応援しているのだった。
人間は噂が好きな動物だ。現在もテレビや一部の雑誌などでこの種の話が語られない日はない。毎日毎日噂は生み出されている。言葉にレトリックがあると同じく、噂は言葉によって拡大されていく。それに困ったことには、第三者にとって噂は隠微な魅力がある。しかしそれはまた、たちまち忘れられてしまうことが多い。まさに人の噂も七十五日だ。しかし悪意のもとに綿密に創出された噂は、その範疇には入らなかった。相手を貶めるために仕組んだ陰謀は、もう単に噂などというものではない。人の噂好きをうまく使った極めて陰険な行為である。「文壇照魔鏡」はまさにそんな意図で作られた犯罪だと言ってよい。時の勢いでたとえ裁判では勝っても、やはり犯罪である。
では「文壇照魔鏡」の背景は何だったのか。なぜこの様なことが起ったのだろうか。一見ささやかに見えた人間関係の齟齬が、こんな型で噴火してしまったということにまろうか。まずこの事件は一九〇〇年十一月に起った「明星」八号の発売禁止処分が最初の発火点だったと思われる。処分の対象となったのは「明星」八号に掲載された一条成美の二枚のフランス名画の模写による裸体面が風俗壊乱という名目で発売禁止となったのだった。この時鉄幹は成美を「明星」にとどめることをせず退会させてしまった。成美に責任があるとすれば編集発行人として鉄幹にも同様の責任があったはずだ。成美は納得できないまま雑誌「新声」によった。「新声」は一八九六年(明29)七月に、秋田県出身でのちに新潮社の社長となった佐藤義亮、こと佐藤橘香(儀助)を編集長として創刊された。中村春雨、金子薫園、大町桂月、武島羽衣、佐佐木信綱、落合直文、田口掬汀らが執筆し、高須梅渓も編集を助けていた。そこへ梅渓の友人だった一条成美が加っていったことになる。挿絵画家として当時鏑木清方も「新声」に挿絵を描いていた。もちろん成美だけでは「文壇照魔鏡」事件は起らなかった。いま一人、鉄幹に遺恨を持っていた者がいた。高須梅渓。梅渓は「関西文学」時代から鉄幹とは友人だった。「関西文学」は明治三十年四月、高須梅渓、小林天眠など数名が発起人となり、浪華青年文学会を結成し、機関誌「よしあし草」を創刊した。のち三十三年に「わか紫」と合同して、「関西文学」となった。ここに鉄幹の旧来の友人、河野鉄南、河井酔茗らがおり、鉄幹は明治三十二年三月から「よしあし草」の選者となり、明治三十三年正月には同会に出席し交際を深めていた。その深交の過程で「明星」にも当然作品を出していた。ところがこれはかつて鉄幹の内妻でのちに正富汪洋の妻となった滝野の話として汪洋の『明治の青春』(昭30・9刊)で書かれているが、梅渓はある時、山川登美子に手紙を出したことがあったようだ。それを登美子は鉄幹に相談し、鉄幹はまた生真面目に「それとなく」を装いながら梅渓をたしなめたという。ここには鉄幹の「明星」のトップとしてよりはむしろ、男の心がほのかに見える場面だ。その上、梅渓は堺の歌会で晶子を見かけ、以来、親しい相談相手でもあったようだ。晶子の相談相手はよく言われる覚応寺の河野鉄南だけではなかったらしい。こうして見ると鉄幹は「明星」の女性たちを一人占めしようとしていたらしい所があり、「明星」の男性歌人たちの気持を逆なでしていたというか、刺激していたと思われる。梅渓の心を寄せていた女性が次々鉄幹寄りになっていったようだ。「明星」一〇号では登美子の結婚に寄せて詠んだ梅渓と鉄幹の連歌が載っている。
うらぶれ雲に泣く神よべ見たり 梅渓
君があたりを氷雨降らずや 鉄幹
二人とも祝いの歌ではなく別れの寂しさと哀愁が、やや過剰気味に詠まれている。この時期、一九〇一年明治三十四年当時、鉄幹二十八歳、高須梅渓二十一歳、晶子二十三歳、登美子二十二歳、水野葉舟十八歳、窪田空穂二十四歳、高村砕雨(光太郎)十八歳というほどの青年集団だった。ゆえにこそ新しいもの斬新なものに心惹かれる若い心によって、「明星」という雑誌は発展することができた。そんな人間関係の中では当然のことながら、恋愛の一つや二つ、生れたはず。「明星」の「太陽の季節」時代だったのだ。それだけに意想外のところで破れ目が生じたということにもなろうか。「文壇照魔鏡」事件はそんな中で起ったのである。もっとも梅渓は恋の恨みだけでこのような行動を起こしたわけではないだろう。自身が勤めていた「新声」の売れゆきをはるかに越えて、「明星」が評判になったことが一番の理由だったと考える。加えてもう一つ理由があった。それは鉄幹が中山梟庵に出した私信を梟庵が「関西文学」に掲載してしまったことがあった。そこで鉄幹は「梅渓なども評論はよくするが、国詩といえば仮名づかいも知らぬ」と言っている。私信をうっかりかどうか、とにかく雑誌に載せたのは梟庵の責任だったが、それは言いわけにもならなかった。こうしたことは現在では考えられないが、当時は「明星」でも会員や客員作家の手紙が掲載されており、会員相互の親交の場となっていた。従って弊害も生じた。
とにかく梅渓の心は怒りにゆらいでいたはず。そしてそこに「明星」を退会して一条成美がやって来たのだ。忿懣やる方ない成美が酒に酔った勢いで話した、鉄幹の話したことや鉄幹の噂を故意にオーバーに書いたということらしい。梅渓は公判で小冊子の十分の一ほどの関与を認めている。後に金子薫園が、一条成美が話した怒りにまかせた悪口を、新声社の佐藤橘香と田口掬汀が一夜で書きあげたものだったと語ったという(「『文壇照魔鏡』秘聞」小島吉雄)。梅渓が関与をみとめていることも含めて、周りの人々は当時すでに誰の仕業だったかは分っていたことのようだ。それにも関わらず裁判では証拠不十分で被告らを無罪とし、原告の鉄幹に敗訴による控訴費用の負担を宣告した。彼の言い分は公には認められなかったのだ。後味の悪い結末だった。結局この事件はこの後、有耶無耶となり鉄幹の悪いイメージのみが残された。そしてこのイメージは現在も完全に払拭されてはいない。
但し、書かれている内容のある部分はなるほどと思わされるところもあった。
鉄幹が世に持囃さるるに至つたのは、虎と剣とを引張り出して、頻りに豪宕らしく雄壮らしく見せかけた為である。疎放磊落世に容れられず、痛憤のあまり満腔の熱血を吐出したやうに粧つた為である。
(中略)
俳句の方では根岸派(子規)、和歌の方は虎剣派(鉄幹)である。其他にも随分あるのだが、之等は先づ本山といふ資格である。真面目に献身的に、其道の為に尽して居る子規の如きは、真の詩人として予輩の敬重して居る処で、この人に就いては別に月旦する必要はないが、(尤も俳句に就いては意見はあれど)虎剣流の元祖鉄幹に到りては、甚だ云はねばならぬ事がある。彼は今大いに名が売れて来たのに乗じて、大いに勢力の扶植に努め、ますます手を拡げむと焦つてゐるのである。
などとあるところは当らずと言えども遠からずだ。しかしだからと言ってこの様な一冊を出して相手を貶めてよいわけはない。小冊子は「去れ悪魔鉄幹! 速に自殺を遂げて、せめて汝の末路だけでも潔くせよ」と結ばれており、ここまで読めば良識あるものは、この一冊の意図と反対の方に動きそうだがそうはならなかった。
鉄幹は「明星」十二号(明34.5)で「魔書『文壇照魔鏡』に就いて」を書き、その真相を明らかにしている。まず「文壇照魔鏡」が刊行された翌日、十一日に高須梅渓から「貴兄の御名誉に関し明朝田口掬汀兄と共に御訪問申し上ぐべし」というハガキが届いたという。その後、翌日の十二日に今度は封書で田口掬汀が病気のためうかがえないが快復しだい訪問するとあり、「かの廓清会の著書に就ては、公然たる告訴の処分に出られん事を両人勧告する」と書かれてあった。この時点まで鉄幹は「文壇照魔鏡」の存在を知らなかった。彼がそれを知ったのは、十三日になってから「一友からこの小冊子を得て、『奇怪至極なる出版物』が出回っている」ことを知ったというのだ。そして十六日になってから夕方、梅渓と中村春雨が鉄幹宅にやってきたが掬汀は来なかった。春雨、梅渓は先にも書いたが「関西文学」時代からの友人だったが、田口掬汀とは面識がなかった。やって来た二人はこの「言語道断の著書」を告訴すべきだと勧告したが、鉄幹はこの時は拒否した。彼は「自ら騒ぐべきではない」と考え、その由を語ったようだ。その先鉄幹はこの小冊子に書かれているようなことを本当のことだと思うかと梅渓に関くと、彼は即座にこれを否定し、自分だけでなく新声社の佐藤橘香や田口掬汀も大憤慨していると語ったようで、この時は彼らの言葉を信じたという。しかしその後で梅渓が「貴兄は彼書を以て新声社の秘密出版だと云われる相だが夫は冤罪である」とつけ加えたというのだ。しかし鉄幹はこの時までこの冊子が秘密出版であることを知らなかったのだ。それで鉄幹は梅渓にその情報の出所を問うたが、彼の返事は曖昧だった。ここら辺りから鉄幹の考え方は変わり、犯人の目ぼしもついたようだ。小冊子発行後一週間足らずで新声社では、この「魔書」が秘密出版であることが分っていたことはなぜか。さらに新声社の幹部には三冊送られていること、梅渓が持って来たものには朱筆で本の著者の陋劣さを攻撃してあったというがやや演技過剰気味だ。加えて警察署が捜査処分として新声社社員を召喚した時、事件が起ってから五十日余も経っていたにも関らず、田口掬汀は小冊子の包装紙、横浜郵便局消印のあるものを差し出したことも分った。こうなるともう誰の仕業だったのかは分ってきた。まさに上手の手から水は洩れるもの。
改めて見直してみると「新声」に梅渓が「『文壇照魔鏡』を読みて江湖を愬ふ」を書いているが、一見、鉄幹の立場を憂うるもののように装いながら、早々にこの様なものを書き、結果として、「江湖」に鉄幹の罪悪を吹聴することになっている。また裁判では、橘香、梅渓とも鉄幹とは明治三十年頃、「関西文学」を通して知り合いだったにも関らず、前年、明治三十三年六月頃からの知人であったと言っている。公然と嘘の証言をしたことになる。しかしこれでも証拠不十分で敗訴したのである。しかも告訴した相手は友人たちであった。鉄幹の側に立ったのは内海月杖、斎藤緑雨、高村光大郎たちだった。のちに大逆事件で弁護士として活躍した平出修はまだ若く二十二歳で明治法律学校に入学したばかりで、弁護士として実力を発揮するには若年すぎたということになろうか。後年、『与謝野寛短歌全集』の自筆年譜では「寛の如き貧しき一私人の事に冷淡なりしかば中途にして訴を断念せり」と記している。先述したが多勢に無勢の印象だ。人間のもつ妬みのいやらしさが象徴的に出て来たような事件だった。
一方の新声社は鉄幹の訴状却下の好機に乗じて再び鉄幹の攻撃文を「新声」(明34・5)に田口掬汀が「与謝野寛対新声社・誹毀事件」と題して詳細に書いた。他には「日本」(明34・3.25)では、「大方事実」であると書き、「万朝報」(明34・3・17)では「我ら頓と承知不仕、聞いてびつくり見てびつくり」といくらか茶化し気味で結論を避けている。「毎日新聞」(明34・3・21)は「事実の十分の一だけあらば鉄幹彼は確かに文壇の隅にも置けぬ代物」と言い、やはり小冊子をそのまま鵜呑みにしている。新聞が、ジャーナリズムがという方が今では正しいだろうが、世の中に与える影響は大きい。その見方が片寄っていたり表面だけ見て語られることが折々あるが、この時も無批判にこうした機関が動いたことを窺わす。さらにこの状況をうまく使って、時代の寵児となった与謝野鉄幹を追い落そうとした人々が、彼の周辺に多くいたことに驚く。
大町桂月は「太陽」(明34.4.5)の「文芸時評」で、
その説く所、全く架空の漫罵とは見えざるまでに精密也。鉄幹たるもの、苟も、文壇に立つ以上は、かかる攻撃をよそに看過すべきに非ず。照魔鏡の説く所非なる乎。鉄幹の行是なる乎。余は鉄幹の一種の詩才あるを愛するもの、又鉄幹とは文筆上の交際あるも、而してこの書の説く所の果して事実なりや否やを判断し得るまでに深く鉄幹の素行を知らず。斯かる文筆の大手腕を有しながら区々足る鉄幹一輩の徒を打撃するに急なるは、牛刀鶏を割くに類するを免れざれども、社会の制裁極めて微なる今日、正当なる制裁を加えて、文壇を廓清せむと宣言、真に著者等の肺腑より出でたる言なりとせば、われ著者等の意ある所を諒とせざるを得ず。
と書いている。桂月は高知県出身、一高から東大へ進み明治二十九年に卒業している。二十六年、塩井雨江や鉄幹らと落合直文の創立した浅香社に参加している。詩人、評論家として活躍し、博文館に勤め明治三十三年頃より主に「文藝倶楽部」「太陽」「中学世界」に執筆していた。その彼の物言いは鉄幹の「一種の詩才を愛する」「この書の説く所の果して事実なりや否やを判断し得るまで深く鉄幹の素行を知らず」というもの。浅香社の創立に共に参加しているが、日常生活については知らないということもあろう。但し桂月は一八九〇年(明23)頃から落合直文宅で土曜日ごとに開かれた歌会に出席しており、明治二十五年に上京してきた鉄幹ともこの直文の家で出会い、その後、浅香社の創立に加わったのである。鉄幹は落合直文の家に住み込み書生をしていた。そして鉄幹とも交流のあった塩井雨江の妹と桂月は結婚している。これでも「鉄幹の素行を知らず」と言い切れるだろうか。さらに言えば、いかにも素気ない言い方だ。桂月は用心しながらはっきりと「文壇照魔鏡」を肯定している。この反応は桂月の経歴と重ねて見たとき意外である。浅香社を中心とした交流の中で理由、内容は分らないが桂月が鉄幹にもった反感がここに来てはからずも噴出したということか。それにしても鉄幹には敵が多すぎる。一つは彼の歯に衣を着せぬ物言いによったと思われるが、彼には学閥もなく在野の人であった。明治という時代は日本人の知識の向上を目ざし高学歴をうながし、国費の海外留学もしきりに奨励され、学歴社会の先駆けとなった時代だった。そんな時代の趨勢の中で鉄幹の学歴は逆行するものであった。直文と鴎外を除いて、最終的に とことん彼の味方になり支えてくれる人に恵まれなかったと言うべきだろう。そんな中で肩をいからせて生きて見せた。これがさらに人々の反感をかってしまったという悪循環が見えてくる。大町桂月はこの後、晶子の「君死にたまふこと勿れ」の詩に対しては国賊乱臣として激怒した。もっとも晶子の『みだれ髪』(明34.8)出版時には「与謝野晶子女史は、日本の歌壇未曾有の鬼才也。その才力、むしろ鉄幹にまさる」と書き、晶子を認めている。しかしここでも鉄幹にはきびしい。硬派と言われていた桂月にとって鉄幹の文学志向と肌合いが悪かったということだろう。ところでそんな大町桂月も意外にも一時、愛人がいたことがあった。また明治三十六年親友の高山樗牛が亡くなった頃から酒に溺れて勤務が乱れ、出社しても宿直室から寝具を引き出してきて寝ていることもあり、明治三十九年、博文館を馘首になっている。そして以後、雑誌「学生」の主筆になる明治四十三年まで、筆一本で生きることになる。若者たちにいかめしい教訓や道徳を説いてきた桂月の意外な面である。本当は壮士の気質を持っていた桂月と、壮士風を気取りながら酒もほとんど飲めなかった飲幹とは馬が合わなかったのは仕方がないことだったかもしれない。
話を「文壇照魔鏡」事件に戻すと、他には匿名だったが廓清会は余りにも鉄幹を大きく見たり、余りにも重たく見過ぎていると記し、鉄幹はそれほど大袈裟に取り上げることはないというような記事もあった。但しこれが最もきびしい見方かもしれない。ずっと後年、斎藤茂吉は「却って世人をして新派歌人といふものに留目せしめる一動機となった」(『明治大正短歌史』)と書いている。茂吉は逆に鉄幹を宣伝することになったと書いており、これも匿名記事同様にきびしい。しかしながら鉄幹にとってはかなりハードなコマーシャルであった。
さて「文壇照魔鏡」のために「明星」は十一号を二月に発行した後、三月、四月は休刊し十二号は一九〇一年、明治三十四年五月二十五日に出された。この号で鉄幹は東京府豊多摩郡渋谷村字中渋谷に転居したことを知らせている。また「しら梅」こと増田雅子の手紙が載せられていて「人の子のあられもなき詛ひに、みこころなやめさせ給ふが胸いたく悲しく候。まことにあさましく人の世におはし候かな。さはいへ何れはそれうちはたさせ給ふべきおんこと、うれしく候。こころづよく候。」と鉄幹をはげましその心の内を察していたわっている。そして彼女は、
ひかり負ひてうつくしき征矢御手にとり見おろしたまふ黒雲ながき
と詠んでいる。鉄幹には人材不足の感ありと思ってきたが、本当の力は人間の卑劣さに屈しない文学の力かもしれない。この十二号で晶子は直接、小冊子については何も書いていないが「朱絃」と題した歌四十七首を詠んでいる。
鳳 晶子
春みぢかし何の不滅のいのちぞとちからある乳を手にさぐらせぬ
歌にきけな誰れ野の花に紅き否むおもむきあるかな春罪もつ子
清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき
鳥辺野はみおやの御墓あるところ清水坂に歌はなかりき
その中から四首のみあげたが、これらの歌は『みだれ髪』の中心をなす歌群。鉄幹と晶子はお互いに手紙のやり取りもしていたようだが、それよりも何よりも力強い励ましはこの秀れた歌詳だった。晶子は八号の発売禁止処分の時にも直接、事件については何も語っていないが、その分作品を掲載し「明星」を華やかに飾った。そして今回も同様だ。晶子らしい鉄幹への心づくしであり自らの力を恃んでいたことを窺わす。そして六月にはいよいよ転居したばかりの渋谷村に晶子は上京してくる。大混乱をきたしている「明星」と鉄幹の元に急いだ。鉄幹は「魔書『文壇照魔鏡』に就いて」を書き、長詩「赤裸裸歌」を書いた。(初出は総ルビになっているが、読みづらいもののみにルビを入れた。以下本書はこれに従う。同じく傍点、一重丸、二重丸もはずす)
如何に君おもへ
我れ之を童子の居に聞けり
『男の子地に落ちて
自から七人の仇もつ』と
この島国の小なるに似ず
何ぞ此の俚語の壮なるや
(中略)
咄何のさかしらぞ
夕野の木がくれ
ちさき矢に毒ぬり
玩具の弓をしぼつて
笑止や童子我に擬する
(中略)
如何にわが友
手を拍つて更に和せよ
『性は清く円く
形は猛く男々しく
剣を按じて立つに
さながら活ける愛染
人射るべくはいざ射よ
ここに赤裸裸の子われ』
詩は男には世に七人の仇があるなどということわざのある島国日本を言い、それが事実であることを嘆いている。その仇どものやっていることは「ちさき矢に毒ぬり/玩具の弓をしぼって」、何と子どもだましなことをしているのかと笑っている。さらに「人射るべくは射よ」、ここに「赤裸裸」に隠れることなく立っている「われ」をと呼びかけている。来るものはこばまないという強い意志が表わされている。かつて八号の発売禁止処分の折に書いた「日本を去る歌」の時の心とは少し違う。その中の一節を揚げると、
ヴィナスの神
ミューズの神
いざいざわれと共に去り給へ
この国の人みな盲目なり
とどまらば神に禍おはさむ
神のやわ(ママ)肌を以て
盲人の杖に委するに堪へんや
と言い、芸術を理解しない日本に絶望している思いを言葉として、
わが渇仰の古き友業平を生みし国
ああわれ遂に去らざるべからず
さらば、さらば、さらば
とおさめている。しかし彼はこの詩のようには日本を去らなかった。そして今度は「文壇照魔鏡」事件に会うことになる。ところでこの「日本を去る歌」は「文壇照魔鏡」では「身の程知らずのしれ者」の詩だと酷評されている。しかしこの評価からは鉄幹の詩を全く理解していない小冊子の著者たちが見える。すなわち「新声社」の佐藤橘香、田口掬汀、高須梅渓らの文学への無理解のほどを知らせるものになっている。二〇〇一年五月号の「短歌往来」で加藤孝男は「日本を去る歌」の
詩人の行動は天馬空を行く
不道徳や無頼や風俗壊乱や
悪語しきりに父祖の国に誤らる
ああ人間の縄を以てわれに強ふるか
迫害の時代に抗するは愚なり
の一節をあげながら「鉄幹の放った美学は、国家や社会に抵触しつつ、日本人の趣味の範囲を確実に拡げていった」と記している。さらに「鉄幹は国家というものがいかなるタブーを抱えていたかを知り尽した」と重ねている。タブーは身近かな友人たちの中にもあった。彼が独走することを拒み、加えて、鉄幹を文壇から消し去ろうとしたのだ。しかしこの二つの事件、発売禁止処分と「文壇照魔鏡」事件によって、改めて日本を考え時代の動きや人間の心の深部へと思いをおろす機会を得たことになる。彼をより強く深く文学に切りむすばせることとなったが、残念なことにそれをしっかり受けとめる人々の心を取り戻すのにはかなりの時間が必要だった。現在でも十分とは言えないほど、その愚劣さに比してこの事件の壁は厚かった。
「文壇照魔鏡」事件のあと鉄幹の出版した『鉄幹子』と『紫』は無視されてしまったが、『みだれ髪』は賛否両論はあったものの、「明星」を中心にした明星派の歌人たちを改めて世に認識させることとなった。とにかく鉄幹は窮地を脱することができたのだった。「明星」はこののち一九〇五年(明38)あたりまで本当の意味で活動期に入った。この年、鉄幹の号を廃し本名の寛を名のることとなる。(但し、本著は鉄幹名として論をすすめる)
4 与謝野晶子という存在
折口信夫が「与謝野さんのほんたうの敵手といふのは、正岡子規ではなかった。かへつてその側にしじゆうをられたところの、晶子さんその人だつたのです。与謝野さんはだんだん晶子さんを磨いて、そして結局、晶子さんにまかされてしまつたといふ姿を、世間は見てゐる」と書いている。理由としては鉄幹は当時、短歌の第一人者であったため、人々は少々の歌のできばえでは「これは当たり前」だと考えたこと、さらに鉄幹と晶子は常に一対として比べられ「作物においては負けてないのに(中略)詩人としての素質が晶子さんの人間としての素質よりも、比べてみると、太刀打ちのできないところがあつたのではないか知ら」と述べられている。晶子の方が人間として魅力があり、作品の評価を越えてしまったということだ。人の見方のたよりなさであり、いつの時代も同様の曖昧さがあるものだ。
加えて晶子の作家としての感性の鋭さを感じる。鉄幹の詩質をうまく自身に取り入れ消化しきってしまっている。「ますらをぶり」の詩歌集とされている『東西南北』に、明星調の代表と言われている晶子の『みだれ髪』に収められている歌と、混在させてみても違和感のない歌が実は多く見られる。たとえば次の歌がそれだ。
花ひとつ、緑の葉より、萌え出でぬ。
恋しりそむる、人に見せばや。
蝶一つ、きて菜の花に、とまりけり。
誰がうたたねの、夢路なるらむ。
みやこ鳥、みやこのことは見て知らむ。
我には告げよ。国の行すゑ。
表記は二行書きで〈。〉や〈、〉がつけられているが、花や蝶に寄せていく抒情は『みだれ髪』に酷似している。否、『みだれ髪』の方が似ていると言うべきだ。『みだれ髪』が出版される五年も前に出されたのが『東西南北』であることと、当時鉄幹は晶子も晶子の歌も知らなかったことを再度確認したい。「みやこ鳥」の歌の下句「我には告げよ。国の行くすゑ。」はますらおぶり、虎剣調の面影を残すが、前の二首はまさに星菫調と言われる歌だ。
鉄幹、晶子の娘、藤子氏は母晶子は『東西南北』を鉄幹に出会う以前、すでに堺で読んでいたと藤子氏のエッセイ集『みだれ髪』(昭42.9.14発行)に書いている。これはとても大切なことで、晶子は自身の心の琴線に触れてくる同質の感性を鉄幹が持っていることを十分に知った上で「明星」に参加してきたのだった。鉄幹の許容範囲を知った上で自らの作歌に励んだのではなっかったか。そしてその抒情が『みだれ髪』以後は、晶子固有のものと一般には考えられるようになっていった。そんな中で時代に敏感な鉄幹も詩歌集『鉄幹子』や『紫』で自身の方法の一つ、虎剣調を後に引き、いま一つの抒情、星菫調を表立てて詠み始めた。本来、自身にあったもの、詩質だったから鉄幹には異和感はなかったと思われるが、世の人々には異和感があった。世の中の人々が『東西南北』で読み落としてしまった鉄幹の詩質を、本来彼が持っていた詩質であることには気づかず、鉄幹が次第に『みだれ髪』調、星菫調に変化し影響されていったと見てしまった。鉄幹は晶子の詠風を模倣したのではなかったのだ。もちろん晶子にも当初からいわゆる星菫調の抒情はあった。しかも晶子はしっかりと自らの詩質に自覚的であり、作家与謝野鉄幹を選び取り、「明星」を選んだのだった。その間に鉄幹、晶子の恋が介在していたことは言うまでもない。そのために晶子はふるさと堺の実家を出奔して東京の鉄幹のもとに「狂ひの子われに焔の翅かろき百三十里あわただしの旅」と詠み、そして走ったのだった。話があとさきになるが、鉄幹、晶子の二人が文学の上でも恋の上でもお互いに呼応し合ったのは、一九〇一年の初めあたりだったと考える。鉄幹はこの年の一月三日、「明星」の会員とともに鎌倉の由比が浜でかがり火を焚いた後、関西の大会に出かけた。その折の九日、京都の粟田山の辻野旅館で二人は出会ったのではないかと言われている。この栗田山の辻野旅館は前年、一九〇〇年の十一月五日、山川登美子と三人で永観堂へ紅葉狩りに出かけた後、投宿した所である。そのゆかりの地で二人は麗しい共同作業の出発を誓い合ったと思う。しかし次第に『みだれ髪』の評判が高くなり、鉄幹の仕事、『鉄幹子』や『紫』が読まれなくなっていく。この過程で明星調の代表は晶子専有のものだと誤解されていくことになる。折口が言った「作物においては負けていないの」に置き去りになっていくことになってしまった。鉄幹と晶子は同質の抒情を持っていることに加えて、当然のことながら結婚して以後、今まで以上に互いに刺激し合い影響し合った。『恋衣』に載せられた晶子の有名な詩「君死にたまふこと勿れ」と『鉄幹子』の中の詩「血写歌」が、その象徴のようなものだ。「血写歌」は一八九七年(明30)に作詩されているから、日清戦争の時に詠んだもの。一方の「君死にたまふこと勿れ」は日露戦争が対象だ。二詩の発想や言葉の重なっていく部分をそれぞれにあげてみよう。
血写歌
正義とは
悪魔が被ぶる仮面にて
巧名は
死をよろこばす魔術かな
(一連目)
あはれやな
人を殺して涙なく
おそろしや
生血に飽きて懺悔せず
(四連目)
「忠義には猶かへがたし
あつぱれ手柄したぞ」とは
あゝあゝ人を殺せよと
えせ聖人のをしへかな
(七連目)
あはれなるかな
たをやめは
二世のをつとに
わかれつつ
(六連目)
君死にたまふこと勿れ
かたみに人の血を流し
獣の道に死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思おぼされむ
(三連目)
かたみに人の血を流し
獣の道に死ねよとは
死ぬるを人のはまれとは
(三連目)
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや
(一連目)
暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君わするるや思へるや
(五連目)
こうして見ていくと発想と言葉使いも類似が見える。夫婦であり、文学者として共に生きていこうとする二人が影響され合っても否定されることではない。というよりここでは晶子の方がより多く鉄幹に触発され、それを大衆に分りやすく平たく表現しようとしている。ぎりぎり許される範囲の歌謡調でもある。晶子の文学の基底には常に鉄幹の持つ文学と文学への姿勢があった。また「君死にたまふこと勿れ」には当時丁度、日本に紹介されていたトルストイの非戦論の影響も云々されている。これも当然のこと、勉強家の晶子のこと、見落とすはずはない。それからこれから先は想像だが、鉄幹と晶子はこのトルストイの非戦論についてくり返し語り合ったことだろう。その上の「君死にたまふこと勿れ」だった。「血写歌」に対しても遜色のない作品に仕上った。と言うよりはリズム感などを含めた言葉のなめらかさに加えて、素材を弟という、より身近かな場面に設定したことも大衆に理解されやすかったと思われる。「血写歌」にテーマをもらい、言葉はたおやめぶりのやわらかな物言いでしっかりと自身の詩にしている。まるで和歌で言うところの本歌取りの手法のようだ。よく鉄幹について蒲原有明や薄田泣董の影響があるとし、「模倣の才」の人だと言われる。これを折口信夫は「日本人の持つてゐる文学といふものは、常に典型といふものがありまして、典型のない文学なんてないのです」と言って認めている。それにならえば晶子の典型はまず鉄幹であった。その先に与謝蕪村や紫式部、和泉式部があった。ゆえにこれは折口の言うように責められることではない。ところでこの「血写歌」と「君死にたまふこと勿れ」の関係については中村文雄『君死にたまふこと勿れ』(平6.2発行)でわずかに触れられているほかに例を見ない。
それは世の人々は、「君死にたまふこと勿れ」は知っているが、「血写歌」の存在はほとんど知らなかったからだ。理由は先述したが『鉄幹子』がほとんど読まれなかったからである。ところが一方の晶子の『みだれ髪』は賛否両論はげしかったが、とにかく多くの人々に読まれた。さらにその延長線上で『恋衣』の晶子の詩「君死にたまふこと勿れ」も読まれることとなった。鉄幹と晶子は同じ立場にいるようで実は二人は全く違った場面にいたことになる。鉄幹はすでに旧派和歌を鋭く批判した評論「亡国の音」を書き、二冊の詩歌集『東西南北』、『天地玄黄』を上梓し、しかも斬新な雑誌「明星」を刊行した作家だった。一方、晶子は鉄幹を慕って上京し、一子をもうけた内妻、滝野と入れ替って妻の座におさまった女性だった。だからその道徳的な所では大いに問われることとなったが、それにもまして『みだれ髪』はユニークだった。鉄幹との恋愛の過程を放胆に、情熱的に詠み人間の本能を全肯定して見せた。当然のことながら賛否両論相半ばしたが、その浪漫性を大いに喧伝した功績は大きかった。すでに一家を成していた鉄幹には少々のことでは世の中は動じなかったが、晶子はまさに新人だった。この新人性を巧みに使いながら晶子はこのあと歌集『小扇』を出し、詩「君死にたまふこと勿れ」を書いた。その背後にはしっかりとした支柱、鉄幹がいた。言うまでもなく『小扇』、『恋衣』そして「君死にたまふこと勿れ」を世の中に出したのは鉄幹だった。まさに折口が言うように「与謝野さんはだんだん晶子さんを磨いて、そして結局、晶子さんにまかされてしまつた」ということだ。この事態は、晶子が「明星」に登場した時から始まっていた。不思議な夫婦と言うべきか、はたまた作家同志の夫婦の怖しさと言うべきか。但し、ここまで夫婦の一方を喰い尽くしてしまう夫婦作家はそれ程多くはない。幾組かの夫婦作家を思い出してみても、これ程熾烈な例はまれな気がする。晶子は良い意味でなかなかしたたかな作家だった。夫として作家の先輩として鉄幹を尊敬し愛していたのも事実だが、究極のところではたった一人の作家だった。だから鉄幹のきびしい立場を知りすぎる程知っていながら、彼女は小説「明るみへ」を書いてしまった。デフォルメし、夫、鉄幹の日常を身も蓋もなく世間に晒してしまった。ここには妻としてというより作家の野心が露呈してしまっている。鉄幹の方がどこか妻に甘えている様子さえ見て取れるのではないか。晶子はその倚りかかって来る鉄幹を見事にはぐらかし、やり過ごしている。夫であり作家である鉄幹より徐々に独立し、一本立ちして行っている。これをまた折口信夫の言葉を借りればなぜか鉄幹は「作物においては負けてないんだけれど」人間性のところで世間から遅れてしまったということになろうか。鉄幹は評論「亡国の音」で大先輩、高崎正風などに対しても誤った批評をしたわけではないが、かなり直截な物言いをしていることなどでも分るが、人あたりが悪く敵が多かった。それに比べて晶子は堺の和菓子の老舗駿河屋の結界、帳場に十代から座っていた人だった。人情というものを至極自然に分っていた人だったと思われる。ここで習得したものが折口の言う晶子の「人間としての素質」として鉄幹の「詩人としての素質」を越えてしまったものと思われる。しかも晶子はそのことに意識的であったようにも思われる。だからこそ「明るみへ」では、仕事がなく無聊をかこつ鉄幹が、小半日近くもダリアの根元の巣から出てくる蟻を殺していると書いてしまう。もちろん小説の中でのことだが、真実味がある。もっとも恐ろしい壁、鬼を妻として生きた鉄幹の生涯は、静かに静かに自滅していったかに見える。あるいは作家与謝野晶子という鬼に喰われてしまったということである。その鬼は喰ってしまった相手の死を前にして、柩を前にして、
筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我れを愛できと
と詠み、多くの人々の涙を誘った。もちろんこれも嘘ではなかったことは鉄幹がパリから晶子へ送った手紙を見ても分る。ならばなぜ小説「明るみへ」を書いたのか。
以下続く・此処には割愛する