序 説
「パンの会は一面放肆なところもあつたが、畢竟するに一の文藝運動で、因循な封建時代の遺風に反対する欧化主義運動であつた。例の印象派の理論、パルナシャン又サンボリストの詩、一体に欧羅巴のその頃の文藝評論などが之に気勢を添へ、明星又スバル、方寸、屋上庭園、或は自由劇場といふやうなものの起つた時代に適応するものであつた。それ故に小網町とか西河岸とかいふ地域も広重や清親とは別の意味で愛好せられ、パンの会がさう云ふ処に会場を捜すといふのも自然の傾向であつた。当時は皆概して藝術至上主義で、好藝術を作らうといふ欲望に燃えて居り、その為めの竈としてパンの会などが作られたのである。」と木下杢太郎は書いてゐる(註一)。パンの会は明治四十二年から同四十五年に亘つて展開された文藝運動であつたし、而も日本文藝史上に「近代」の名を耀やかした唯一の運動であつた。
木下杢太郎はこのパンの会の発起者であり、北原白秋と共にこの会を絶えず動かし、又爆発させた主導者であつた。初夏の宵に打揚げられた煙火のやうに、その爆発は絢爛たる現代文藝の青春を打ち展いた。それは今日甚だ身近なわれわれの時代の一部分であるために人はあまりにその時代を深く究めようとはしない。然し、既に時代は過ぎつつある。われわれは、われわれ自身を知り、それによつてわれわれの行くべき道を求めねばならぬ地点に立つてゐる。私が自分の菲才を省みずパンの会に筆を染める理由も亦そこにある。
パンの会は一面、杢太郎が書いてゐるやうに放肆なところもあつた。それはやがて頽唐と云はれデカダンと片附けられる理由となつた。何故に放肆でありデカダンの傾向を帯びたのであらうか。それに就て深く考究しなければ、パンの会が文藝運動であると云ふ断定は出来ないであらう。
パンの会の人々は当時二十四五歳を中心とした青年たちであつた。明治四十二年当時の年齢は、後に加つた人たちも入れて、吉井勇、谷崎潤一郎が二十四歳、杢太郎、白秋、長田秀雄、平野萬里が二十五歳、高村光太郎が二十七歳であつた。この他に石井柏亭を中心とする美術家の人々もあり、柏亭は二十八歳であつたが、その他は大体同年輩の青年たちであつた。
彼等が放肆と云はれる理由はその青年性にあつた。つまり、彼等は青春の権利を主張したのであつた。パンの会を文藝運動として成功せしめた力であつたのである。
デカダンの傾向を帯びたのは、その精神の激しさを示すものであつた。デカダンとは謂はば反逆精神である。当時にあつては、杢太郎が書いてゐるやうに、因循な封建思想に対する自由思想の反逆であり、封建固陋の文学に対する欧羅巴精神の移入による世界文学への突進であつた。世界性に向つて眼を開かんとした当時の文学にあつては、異国情調 an exotic mood 又は exoticism が当然起きた。
パンの会は一面エキゾチシズムの運動でもあつた。エキゾチシズムを停滞した形で見るとき、それは頽唐と云ふ言葉にもなるのであらうが、パンの会のエキゾチシズムは不断の流動をみせたエキゾチシズムであつた。又、そのエキゾチシズムを当時の都会情調の文学としてエコオルを造つたのはパンの会であつた。
異国情調と云ふ言葉は明治四十年頃までは使用されなかつた。勿論、異国と云ふ言葉は在つたが、情調と云ふ言葉はなかつた。情調と云ふ言葉を作つたのは木下杢太郎であつた。
今試みに古い漢和大辞典の類をみてもその言葉は無く、漢字熟語としてもない。つまり、パンの会が終つた大正以後の辞典以外には見出せない言葉である。英語の emotion の訳語として情緒と云ふ言葉はあるが、同じ英語の mood に相当する訳語はない。ムウドに相当する言葉として緒の字の代りに調の字をはめて「情調」としたのが木下杢太郎であつた。エキゾチシズムは異国情緒ではなくて、異国情調である。
このやうに、情緒を情調と厳密化する程、パンの会はエキゾチシズムに対する理解と能動性を持つてゐた。決して頽唐趣味と言ひ捨てられるものではなかつた。強ひて云へば西洋文学、ことに仏蘭西十九世紀末のデカダン文学が移入された意味ではデカダンであつたとも云へようが、それは当時の巴里の社会状態と東京の社会状態との差異を厳密に認識してからのみ断言出来る問題である。
パンの会のエキゾチックな現象として、江戸情調と云はれ浮世絵趣味と云はれる一面にも触れねばならない。パンの会が日本橋地域や大川河岸に絶えず催され、情調を求めたと云ふことも、先に杢太郎の一文にもあつたやうに、広重や清親とは違つた意味に於て愛好されたのであつた。日進月歩の東京にあつて廃れゆく江戸の名残りを惜む感傷は、彼等多感な青年の心理に絶えずうごめいてゐた影ではあつたであらう。然し、進歩的な彼等はその反面の新しい欧羅巴化してゆく東京を育てる青年であつた。従つて彼等の江戸情調は、むしろ異国人が珍奇な眼で眺める古い東京と同じ角度でそれを眺めたのであつた。つまり江戸情調も彼等にとつては懐古趣味ではなくて異国情調にすぎなかつたのである。
パンの会はエキゾチシズムの運動でもあつたが、エキゾチシズムのための消極運動ではなかつた。彼等の目標は世界性の文学への行進であり、よりよき美術、よりよき文学の建設にあつた。従つて彼等はひとしく藝術至上主義者たちであつた。パンの会は又、この意味から藝術至上主義運動とも云ふことが出来る。耽美派とも云はれる理由がそこにある。
彼等の青春の力が耽溺的傾向を帯びていつたのも亦当然と云はねばならない。それはバッカスとヴヰナスの方向に走つていつたのである。
「然しその仲間には酒好の人が余りに多く、その文藝運動としての意味が段々稀薄になつた。若しその間に石井君のやうな人が居なかつたらパンの会は早く堕落してしまつたに相違ない」と杢太郎はこの間の事惰を<石井柏亭君>と云ふ文章の中で書いてゐる。柏亭は常に冷静で、杢太郎や白秋のパンの会の運動にはその主宰する雑誌「方寸」をひつさげて協力したとは云へ、決して耽溺者ではなかつた。杢太郎も mood を愛し mood を創つたが決して耽溺はしなかつた。その他、画家の織田一磨なども耽溺しないで、その耽溺振りを傍観する一人であつた。然し、「酒ほがひ」の吉井勇をはじめ、画家の倉田白羊や木版家の伊上凡骨を巨頭とする幾多の酒豪連を仲間に持つパンの会は、日と共にバッカスの領分となつていつたのであつた。その果てには最早文藝運動としては意味をなさない酒宴の会となり、遂には時代の推移と共に自然解消したのである。その解消は又、文藝運動の完遂を告げることでもあつた。世は明治から大正に移り、詩人歌人としての白秋、詩人作家批評家としての杢太郎、詩人作家としての長田秀雄、作家歌人としての吉井勇、詩人としての高村光太郎、歌人としての平野萬里、作家としての谷崎潤一郎、郡虎彦(菅野二十一)、長田幹彦、等々の現代文学の偉才が輩出したのであつた。
又、この間に生じたパンの会若しくはパンの会の刺戟によるものとしては劇壇に於ける小山内薫等の「自由劇場」の出発を忘れてはならないし、美術界に於ては雑誌「方寸」、詩に於ては「屋上庭園」、一般文学雑誌としては「スバル」、「三田文学」、「新思潮」(第二期)、「白樺」、それについで詩誌「朱欒」の出発を忘れてはならない。一方、これらの新しい運動の対照となつた雑誌としては「早稲田文学」などが判然とした主義のもとに所謂早稲田派の城を護つてゐるにすぎなかつた。この早稲田派を日本の自然主義派とすれば、これら若々しい精神はまさしく日本の新しい浪漫主義派の勃興と見ることが出来る。
パンの会が起つたのは普通明治四十二年となつてゐるが厳密には明治四十一年の末であつた。
パンの会の時代を彩色したエキゾチシズムが胚胎したのは、遠く明治三十年代に帰さねばならないが、それがパンの会としての性格を持ちはじめたのは明治四十年夏の、太田正雄(木下杢太郎)、北原隆吉(白秋)、吉井勇、平野萬里が與謝野鐵幹に引率されて行はれた「明星」新詩社の九州旅行からであつた。天草や長崎に残る南蛮文化の跡をたづねた彼等の中から生れたのが南蛮文学であつた。特に杢太郎と白秋とはその文学により多くの寄与をした。白秋は処女詩集「邪宗門」でその実証的な幸先のよい出発をしたのであつた。
その「明星」も明治四十一年十一月第百号を最後として廃刊した。端緒は新詩社の中堅として活躍してゐた北原白秋、太田正雄、長田秀雄、吉井勇、長田幹彦、秋庭俊彦、深川天川に依る脱退事件であつた。鐵幹を「明星」の親鳥とすれば彼等はその親鳥に育てられた雛鳥であつた。雛鳥は親鳥よりも新しい時代の空気を吸ひ、新鮮な精神と頭脳を持つてゐた。決して親鳥の精神と頭脳とに依る亜流としての生活に甘じなかつた。
「明星」は元来浪漫主義的な旗印の鮮明なエコオルであつた。欧羅巴文学思潮として移入された自然主義が日本の文学に同化されつつあつた時、鐵幹はいたづらに固陋に反自然主義を称へた。新しい時代人としての青年詩人たちは新しい時代の文学思潮としての仏蘭西自然主義文学に対しては深い同意さへ示してゐた。そこに親鳥と雛鳥との時代的なギャップが生じてゐた。然しそれは彼等が自然主義者になると云ふのではなかつた。彼等には彼等としての新しい生き方があつた。その生き方として表れたのが即ちパンの会でもあつたのである。
明治の日本は先づ二十七、八年に文明開化以来初めての対外戦争である日清戦争に勝ち、十年後の三十七、八年には大国旧露西亜との戦ひに勝つた。急に世界の第一線に浮び出た日本は内面まことに慌しいものがあつた。物質的に戦争に勝つたと云ふことは、そのまま日本の世界的国家としての内面的自信力とはならなかつた。むしろ反対に、勝つていよいよ自己の貧しさを知らされたのである。この貧しさを充たすものはすべて欧羅巴文化に他ならなかつた。藝術界はいよいよ賑やかになつていつた。黒田清輝の印象派風の油絵や、アメリカから巴里に渡り黒田と前後して帰朝した西洋美術史家の岩村透や、文学では森鴎外や上田敏の出現がいよいよ決定的な拍車をかけた。
この間のことに就ては杢太郎は「我々の思想の中心を形造つたものは、ゴオチェ、フロオベル等を伝はつて来た『藝術の為めの藝術』の思想であつた。この思想的潮流には本元でもエキゾチシズムが結合した。必然我々の場合にもエキゾチシズムが加つた。欧羅巴文学それ自身が既にそれであつたが、別に『南蛮趣味』が之に合流して、少しく其音色を和らげ且つ複雑にした。浮世絵とか、徳川時代の音曲、演劇といふものが愛されたが、それはこの場合、伝承主義でも古典主義でもなく、国民主義でもなく、エキゾチシズムの一分子であつた。浮世絵は寧ろゴンクゥルやユウリウス・クルトやモネやドガなどの層を通じて始めて味解せられた(註二)。」と、書いてゐる。『藝術の為の藝術』は十九世紀末葉の欧羅巴文学の特質であり、それは一つの欧羅巴主義とも云ふべき思潮となつて明治末葉の東京に於て再び叫ばれたのであつた。欧羅巴主義こそは近代日本の本質であり、当時の東京がその思想状態に於て欧羅巴の十八世紀乃至十九世紀に共通するものがあつたことを指摘してもよいであらう。
このやうな欧羅巴主義の移入を促進せしめたものとして私は岩村透が明治三十六年に上梓した「巴里の美術学生」と云ふ小冊子のあることを忘れない。この本は当時の美術学生に限らず多くのアマトウル青年に多大の影響を与へてゐる。東京に藝術家の集るやうなクラブやサロンが殆どないことを慨いたのも岩村透であつた。そして後に龍土会と称され日本自然主義作家と称される人々の温床ともなつた藝術家の会合をはじめたのも岩村透であつた。彼は初めて巴里に於けるカフヱエの役割を日本にも教へたのであつた。
パンの会はさうした意味の、東京を巴里とし、隅田川をセエヌ河になぞらへ、カフヱエを求めたところの会として出発した。勿論それは無為なことであつたが、その代りに情調を求め三州屋とか永代亭の会となつたのであつた。そこには明治初年のエキゾチシズムの残渣や下町的浮世絵趣味がこびりついた西洋料理屋が発見されて、彼等の能動的な新しい異国情調を幾分満足せしめることとなつたのである。
パンの会は以上に述べたやうに文藝運動であるが、その巣立ちは美術漫画雑誌とも云ふべき「方寸」の会合からであつた。石井柏亭、山本鼎、森田恒友、倉田白羊、小杉未醒、坂本繁二郎、織田一磨等の太平洋画会や白馬会の新進は木下杢太郎、北原白秋の運動に共鳴してパンの会を育てた。そこに当然見過ごすことの出来ないことは詩人と画家とのつながりであり、文学と造形藝術との関係である。ことに詩と云ふ純粋な文学形態に於て、十九世紀以後の特徴は、音楽的な象徴的なものから次第に絵画的な印象的な要素を求めて来たことであつた。現代詩に於て絵画は絶対的な姉妹関係にあることを思ひあはせる時、この問題は非常に重要となる。例へば杢太郎が情調と云ふ言葉を発明した事実も、それが多分に情緒と云ふ言葉には表現出きない感覚的な意味を含むものであることが知られる。
杢太郎は初めて書いたと云ふ詩<楂古聿>について、この詩は外光派(印象画派)の理論によつて作つたと書き印してゐる位である。杢太郎はもともと絵が好きで、高等学校入学時代までは画家として立たうと考へた位であつたから、外光派の理論によつて作つたと云つても何等の矛盾はないのであるが、この外光派の理論と共に入つて来た、文学に於ける象徴主義、自然主義は、お互ひに渾然と交叉し影響しあつたのである。一例を挙げるならば、日本象徴詩を打ち建て杢太郎や白秋にも多大の影響を与へた蒲原有明の詩集「春鳥集」に収められてゐる<朝なり>と云ふ詩は、自然主義的内容を持つ象徴詩として作成されたとまで云はれる位である。又当時自然主義作家が使用した平面描写と云ふ言葉も、これはむしろ印象画派理論上の言葉である。
杢太郎の詩は勿論であるが、白秋の詩や歌の数々にしろ、吉井勇の歌にしろ、その他高村光太郎や長田秀雄の諸作に、不思議に黒に類する色彩の感覚を見ず、むしろ、云ふならば紫をもつて黒に代へたやうな、明るい、例へ頽唐的と云はれても、それなりにきらきらと明るい輝きが見られることは十分注意せねばならぬ問題である。
*
以上は大体パンの会の意義を語つてみたものであるが、本文に入る前に少々当時の関係者の言葉を紹介してみよう。
先づ高村光太郎の文章(註三)を見ると、次ぎのやうな部分がある。
青春の爆発といふものは見さかひの無いものだ。若さといふものの一致だけでどんな違つた人達をも融合せしめる。パンの会の当時の思出はなつかしい。いつでも微笑を以て思ひ出す。本質のまるで別な人間達が集まつて、よくも語りよくも飲んだものだ。自己の青春で何もかも自分のものにしてしまつてゐたのだ。銘々が自己の内から迸る強烈な光で互に照らし合つてゐたのだ。いつ思ひ出しても滑稽なほど無邪気な、燃えさかる性善物語ばかりだ。あの頃、万事遅蒔な私は外国から帰つて来て、はじめて本当の青春の無鉄砲が内に目ざめた。其が時代的に或る契合点を持つてゐた。前からあつたパンの会に引きずり込まれたのは自然の事であつた。細かい事は大抵忘れた。又忘れてもいゝのだ。通り抜けて来た事は私にとつて一つの本能の陶冶になつた。其が貴い。
この文章から知られるやうに、光太郎は外国留学からロダンの体臭を身につけて帰朝し、盛んになりつつあつたパンの会に身を投じた。有為な詩人彫刻家として又新しい美術評論家としてパンの会の希望ともなつたことは論を俟たないことであつた。本質のまるで別な人間達が集まつて、銘々が自己の内から迸る強烈な光で互に照らし合ひながら青春を生きたパンの会は、人生に対して虚無な思想に苦しんでゐた光太郎にとつては大いなる救ひであつた。同文章の終りに光太郎はつづけてゐる。
爆発は爆発だ。爆発してしまふと、あとはもつと真摯な問題が目をさます。人生のもつと奥の大事なものが幾層倍の強さで顫動し始める。パンの会は自然と退屈なものになつてしまつてお仕舞になつた。私を其の情緒から救つて、私の本然に立返らせたのは智惠子との恋愛であつた。私が私になつたのは其れからの事である。
この光太郎と長沼智惠子との恋愛に仲介の役をとつたのは、パンの会に時折顔をみせた洋画家柳啓助と長沼の学友でもあり青鞜の同人でもある夫人八重子であつた。光太郎の激しい恋愛は(註四)、云はばパンの会の時代相の中で営まれた恋愛とも云へるものであつた。以上の光太郎の文章でも察せられるやうに、彼はパンの会を自己の青春の放肆な一時期とし、通り抜けた人生の門としか見てゐないやうである。これはパンの会に対する一つの見方であり、パンの会に対する光太郎の態度を物語るものと理解すべきであらう。即ち、一貫したパンの会の歴史ではなくて後半期にやや近い頃からの傾向のみを指すものであり、光太郎がパンの会の当初よりの文藝運動としての理論的出発に対して余り関心を寄せてゐなかつた事を裏書きするものである。彼はその頃欧米の孤独な旅の途上に在つたのだ。然し、彼の藝術がパンの会から多くの影響をうけてゐることは、この時代を出発点として彼の処女詩集「道程」が書かれはじめてゐることでも証明出来る。
その他、パンの会の追憶と云ふものは、関係者には殆ど漏れなくあるわけであるが、杢太郎の追憶が中でも流石に論理的で冷静で、「わかいと云ふものは好いもので、その頃は皆有頂天になり、而もこの少し放逸な会合に、大に文化的意義などを附して得意がつたものである。」と云ふ具合に、感傷性の微塵もない突つ放しの思ひ出を書いてゐる。ただ、文化的意義を附してゐたことは判然と告白してゐるのである。
最後に美しいこの時代の追想として長田幹彦の文章をひいてみる。
若い藝術家が藝術より他の何ものをも見なかつた時代だ。真のノスタルジアと、空想と詩とに陶酔し、惑溺した時代だ。藝術上の運動が至醇な自覚と才能から出発した時代だ。藝術家の心の扉に、まだ「商売」の札が張られなかつた時代だ。
人生は美しかった。永遠の光に浴してゐた。
*
このやうにして「人生は美しかつた。永遠の光に浴してゐた」パンの会時代は過ぎ去つた。明治四十五年以降、即ち大正時代は、パンの会に培はれた近代文藝精神の大らかな活躍の時代として明けた。——それは爾来今日の文藝に及んでゐる。
(註)
一 昭和七年二月号「冬柏」所載〈石井柏亭君〉
二 昭和九年十月改造社「日本文学講座」所載〈「パンの会」と「屋上庭園」〉
三 昭和二年一月号「近代風景」。以下、木下杢太郎、長田幹彦の引用文も同じ号より再録。
四 高村光太郎と長沼智惠子との結婚は大正三年十二月二十三日であつた。
明星消ゆ
「明星」は鐵幹與謝野寛の才智を示す新時代の詩歌文藝を中心とした藝術雑誌であつた。明治三十三年四月新詩社の機関誌として創刊され、第一号には落合直文の短歌や廣津柳浪の短篇「その俤」梅澤和軒訳の「アストン氏の和歌論」をはじめ、詩人としては島崎藤村の小諸なる古城のほとりではじまる「旅情」、薄田泣菫の「夕の歌」、蒲原有明の「菫の歌」等が発表された。この号は新聞紙型十六頁であつた。
第五号までは二十頁の新聞紙型で、第六号(九月号)は四六倍判六十八頁、以下七八十頁の堂々たる雑誌となり、詩壇、文壇、画壇の巨星たちを網羅した。明治三十五年六月号は絵入月刊文学美術革新雑誌「白百合」と改題されたが、それも一号で終り、七月号から又元の「明星」に復活して、明治四十一年十一月第百号を以て終刊となつた。
これが第一期の「明星」であるが、これを今日では、第一号から第五号までの新聞紙型を「第一明星」と呼び、第六号以下「白百合」の前までを「第二明星」、「白百合」の次号から百号までを「第三明星」と呼んでゐる。
明治三十四年十二月号(第十八号)を見ると鳳晶子が「朝霜」と云ふ美文を発表してゐるが、明治三十五年一月号には鳳は與謝野晶子となり「はたち妻」と云ふ美文を発表してゐる。前年、明治三十四年の鐵幹と晶子の熱情的な結婚を物語る余韻が含まれてゐるやうである。
晶子を得た鐵幹の「明星」はこのあたりからいよいよ世評を巻き起すこととなり、つひに「明星」黄金時代を現出するに至つたことは衆知のことである。
鐵幹と晶子の「明星」はこのやうに一世のロマンチシズムの眼を開いたが、そのバックとなるものとして顧問格の森鴎外と上田敏、その他当時の啓蒙的な作家の存在を忘れることは出来ない。まことに「明星」は後年の「スバル」と同じく一世の大文豪森鴎外の世界をしたふ人々の居城でもあつた。鐵幹も晶子も団子坂の観潮楼に姿をみせたことはしばしばであつたし、これに稿を寄せる人々も皆と云つてよい程、観潮楼にしたひ寄る人々であり、同時に上田敏の訳詩を三読した人々でもあつた。
明治三十九年頃には「明星」に新しい金釦の秀才たちが顔を連ねることになつた。即ち「文庫」に詩を書いてゐた北原白秋、長田秀雄、それに白秋と同学(早稲田大学)の吉井勇、秀雄に紹介されて少し遅れて加入した太田正雄などで、それより先、美術家の石井柏亭その他高村碎雨(光太郎)石川啄木等の才子が肩を並べてゐた。
明治四十年の夏は新詩社の九州旅行であつた。
明治四十一年に入つて「明星」にとつて最大の不幸な事件が起きた。それは北原白秋、太田正雄、吉井勇、長田秀雄、弟幹彦、秋庭俊彦、深川天川、以上七人の青年詩人作家による連続新詩社脱退であつた。
その年の一月号をみると、先づ森林太郎(鴎外)が「アンドレアス・タイマイエルが遺言」(小説)を発表し、詩「鸚鵡」蒲原有明、「小曲二十篇」吉井勇、詩「耽溺外二篇」北原白秋、「悪行」(小説)小山内薫、詩「錆の花」太田正雄、詩「銀鈴外数篇」長田秀雄、詩「温室外数篇」上田敏、詩「かまいたち」薄田泣菫、小説「果実」長田幹彦、詩「海の怪」與謝野寛、その他馬場孤蝶、生田葵山、平塚明子、茅野蕭々、戸川秋骨等が顔を揃へてゐる。それが二月号になると、太田正雄、北原白秋、長田秀雄、吉井勇、長田幹彦等が姿を消し、第百号の終刊号となつた十一月号まではこの人々の姿をみとめることが出来ない。
巷説によるとこの脱退によつてさしもの「明星」も読者が半減したと云ふことである。又鴎外はこの事件について、「與謝野君も若い連中に逃げられてしまつた」と太田正雄に語つたことが伝へられてゐる(註一)。第九十号を最後に有為な青年詩人連を失ひ、其後十号にして廃刊にいたつた理由も、この脱退に由るとする説は信じてよいであらう。
脱退の理由については色々と異説が立てられてゐる。
その一つは主幹の鐵幹に封する脱退青年組の不満の爆発である。
知友として「明星」のはじめから與謝野邸の新詩社にも頻繁に出入し重要な寄稿家でもあつた馬場孤蝶は東京朝日新聞に書いた「與謝野寛君を悼む(註二)」と云ふ文章の中で
與謝野君は操守の固い方であつた。小説と違つて、詩や歌の方では短い形式なので、技巧が細くなる。作者の年齢、知識、気分などがまことに繊細に働くと思ふ。従つて、弟子となつて、師から学び得るところが多いと共に、師の考へとはまるで違つた方向へと走つてしまうことがありがちである。そこが師としてはむづかしいところである。與謝野君は師匠としては、余りに小手が利き過ぎた。不器用な人間を見るのは歯痒くつてし方がなかつたのであらう。
とその性格の一端にもふれ、若い、いはば弟子達とも云ふべき詩人歌人が「師の考へとはまるで違つた方向へ走つてしま」つたことを云ひ「師匠としては、あまりに小手が利き過ぎた」と何かを暗示でもするやうに述べてゐる。要するに與謝野鐵幹に対する不満とは、飽までも新詩社同人は限られた「明星」の方向に定着すべきだとして、新しい異質文才の興るのを好まないやうな気運をつくつたことに対する、青年達の「自由」の主張であつた。
当時は一方は自然主義時代でもあつて、早稲田文学一派も盛んであつた。それに対する浪漫派の旗色をあふり立てて「明星」はその急尖鋒であつたし、與謝野は真向から、自然主義一派を卑俗派として敵対してゐたので、西洋の文学及藝術上の自然主義に対しては理論的に同情をもつてゐた若い人々は、鐵幹の「操守の固」さを頑迷とも感じたであらうことは容易に想像される。それを脱退の理由とする論もある(註三)。
未来を持つ青年がすでに凋落の段階にあつた「明星」の枠の中で不自然に長居をすることを嫌ふのは理由の如何を問はず当然であるし、自分のものだとして卵を抱き温めてゐた「めんどり」が、その卵から自分と同じ姿の「ひなどり」が生れて、自由な振舞ひをすることに驚いたとすれば、それは驚く方が間違ひであるのと同じであらう。要するに大したことではないであらう。大したことではないが、案外大したことにも成り勝ちなので、私は事件の当時関係者について訊ねたことがあつた。それによると、ある人は「青年の自由」のためだつたと云ひ、或人は「鐵幹が我々の作品の一部を自作に利用するやうなことがあつたからだ」と云ひ、又或人は「それは我々の作品が他誌に発表されることを嫌ふやうな態度があつたから」だ、と云ふことであつた。何れも今日からすれば四十年もの昔のことで記憶に自信がなささうだが、その帰するところは「つまらぬ感情問題」でもあつたと云ふことである。
然し私は太田正雄の次の文章にゆきついて何か釈然とするものを感じた(註四)。
明治四十一年から「明星」は「大刷新明星」といふ意装で、一層美々しく現れる事になつた。然るにここに予想外の事が突発した。即ちそれから間もなく、北原、長田兄弟、吉井、秋庭、それに僕がくつついて新詩社を出た事である。その原因の一は、「大刷新明星」(新年号)に、蒲原、上田、薄田の諸氏の新体詩が、四号活字で麗々しく組まれるのに反して、社中のもののは常の如く五号二段組で片付けられた事であつたらう。殊に気を負うてゐた北原は心甚だ不平であつた。
四号活字と五号活字の差別問題は非常に具体的であり、殊に白秋がそのことを不平としたことも、白秋その人の気負つた性格を考へれば真実であることが判るのである。それに常日頃の感情化した問題のことも考へ合せると、尚更真実であると理解される。然し、ただ不満が爆発して脱退したとしても、それを償ふだけの、その裏の理由があるのではないかと云ふ疑問が起る。それを証明するやうにこの文章は続けられてゐる。
瀧田樗陰が是等の人々を焚きつけて、その詩はその歳の四月から数箇月間(註五)「中央公論」に現れるやうになつた。
明治大正の文壇で彼の世話にならぬ作家はゐないと云はれる程、樗陰は文学者の理解者であり当時の「中央公論」を盛り立てた名編輯者と云はれた。彼の眼が老「明星」の生命を見きはめ、未来ある青年達の心情にわだかまる不満を察知したことは想像に難くない。
問題の一月号が出来上つた夜、不平組の一同は飯田町に父が医院をひらく長田秀雄の家へ集つて脱退を協議したのであつた。丁度その夜、樗陰は父の主治医である長田医院に遊びにゆき偶然にそのことを知つて同情を寄せたのであつた。樗陰を同情者にもつた血気の連中の心情は察するにあまりあると云へよう。(長田秀雄氏談)彼等にとつてその夜の樗陰こそは未来を約束する救世主ともみえたであらう。白秋はそれ以前から発表したが正雄や秀雄の作品もやがて中央公論の誌面をかざるやうになつたのである。
このやうにして太田正雄、北原白秋、吉井勇、長田秀雄、長田幹彦、秋庭俊彦等は自由の天地に出て、その才能を、謂はば温室の「明星」から自然な外気の中に晒すことになつた(註六)。何か個性的な制作をしても、それは「明星」と云ふ結社の仕事と云ふ具合に片附けられ勝ちだつた不満は解消した。古く重い殻を脱いだやうに、彼等はさつぱりと心も軽くなつたのであつた。
明治四十一年二月号には鴎外はじめ既往の大家は作品の発表をつづけたが、老「明星」にとつて唯一の希望であり未来であつた青年達の作品を失つたことは、愛児に先立たれた老父母のやうな寂しさを喞たぬ訳けにはゆかないものとなつた。読者は次々に減じて行つた。僅かに脱退の行を共にしなかつた青年詩人達も、よき競争者を失つたあとは、往年の熱意もさめ勝ちとなつたであらう。
與謝野鐵幹も、この運命を認めぬ訳にはゆかなかつた。そして同年十一月、満百号記念として、文学美術雑誌としては稀有とも云ふべき九年の華やかな「明星」時代に終止符を打つこととなつた。
その第百号をみると、明治四十一年十一月八日発行、第百号記念となつてゐる。そして又注目すべきは、
鷲(短歌) 吉井 勇
濃霧(詩) 北原白秋
過ぎし日(詩) 墨国歌(歌) 太田正雄
等の名がみえることである。このことは何を物語るものであらうか。
もしこの脱退が、醜悪な感情問題だけを理由とするのであれば、百号記念であり、名残つきぬ終刊号であらうとも、作品を発表するやうなこともなかつたであらう。そして、もし鐵幹が、自ら育てたこれらの青年達の脱退を忘恩とも激怒し、謀反とも思つたとすれば再びこれを容るることもなかつたらう。
鐵幹は最も愛し未来を託してゐた脱退青年たちに一時は感情の昂奮もあつたであらうが、彼等のために自ら其の首途を祝してやるだけの雅量は示さなかつたとしても、尚彼等の青春の自由を理解し、寛容する態度は持ち得たのである。
同号に発表した鐵幹の
わが雛はみな鳥となり飛び去りぬうつろの籠のさびしきかなや
の歌は、この間の親鳥鐵幹の心情を物語つてゐる。うつろな籠は捨て去るより他はなかつたのである。
それだけに青年達にとつて「明星」は古巣であり、自らも亦「明星派」を以て任ずることに不満はなかつた。乞はれるままに、馳せ参じた彼等の気持ちを思ふ時、私はそこに美しい師弟愛の人情の虹がほのぼのと架かるのを感ずるのである。
白秋は後年「明治の新派は誰が興したか、之に答へて俺だと云ひ得る者は鐵幹の外に一人もあるまい(註七)」と書いた。
正雄は後年「短歌に縁の薄い僕等に取つては、先生は、明治から大正にかけて、日本の文壇に花花しい風雲を捲き起した闘将としての印象が一層強い。人の一生にも少壮時代が有るやうに、日本の現代の文学にも、今から回顧して夢の如き青春が有つた。その時金鞍白馬花下に立つ少壮の騎士として先生の風釆が我々の空想に映ずる(註八)」と書き、又続けて「先生の文壇に於けるやまた無尽蔵の打出しの小槌を執る福神の如きものがあつた。それから振り出された才人には晶子夫人が有り、石川啄木が有り、高村光太郎、北原白秋、平野萬里、吉井勇、茅野蕭々、堀口大學の諸君が有り、なほ其後にも多くの名手才俊が有らう。森鴎外、上田敏等の諸先生も亦この小槌より吹き送る好風を帆に受けて、その船足に勢を附けたこと、何人も既に悉るがごとくである」と鐵幹の近代文学に於ける偉大な功績を讃めたたへてゐる。その中で特に留意すべきことは、若き青年文学の養成と共に、鴎外、敏も亦、鐵幹の「明星」によつて十分なる自己の発現を為し得たと云ふことであらう。
鐵幹は操守固く、一面人をひきつける温情をも兼ね備へた人であつた。晶子は慈母のやうに彼等若き秀才達の藝術を愛した。私はこの明星の消えゆく姿を、一粒の麦の偉大なる死とも観、この死によつて、いよいよ真の「明星」は星のやうに繁殖したと観る。
思へば、明治四十一年は、その偉大なる歴史の「晩輝」の年でもあつた。
尚、與謝野夫妻は明治四十四年に渡欧し、三年の後に帰朝した。大正十一年、麹町富士見町から更新した第二期の「明星」が堂々と約二百頁の華麗豪華な大冊として復活した。大正時代を飾る文学誌の巨星として、さきの脱退の人々も夫々大成してゐたが、こぞつて名品佳什の発表を競つたことは云ふまでもない。
(註)
一 「与謝野寛先生還暦の賀に際して」(昭和八年三月号冬柏)
二 昭和十年三月二十八日東京朝日新聞の求めに応じたもの。
三 吉田精一氏「近代日本浪漫主義研究」(昭和十八年東京修文館刊)
四 「與謝野寛先生還暦の賀に際して」(前出)
五 「中央公論」四月号からとあるのは記憶違ひである。既に二月号に長詩〈晩鐘〉太田正雄、〈悩の龕〉北原白秋、〈黒燈集〉長田秀雄が掲載されてゐる。これに依ると脱退は既に一月以前に用意されてゐたと思はれる。
六 明治四十一年二月号「明星」社中消息欄に「吉井勇、北原白秋、太田正雄、深川天
川、長田秀雄、長田幹彦、秋庭俊彦の諸氏は、各独立して文界に行動するを便なり
とし其旨申出の上退社せられ候」とある。
七 「明治大正詩史概観」(改造文庫)
八 「與謝野寛先生還暦の賀に際して」(前出)
PAN
東京の「二六新報」に岩村透の「巴里の美術学生」が載つたのは、明治三十四年のことであつた。
岩村透は明治二十一年四月にアメリカに渡り、美術修業をなしたのであつたが、二十四年英京ロンドンから巴里に出で、アカデミィ・ジュリアンに入つて、巴里の新精神に触れるに及んで、やうやく本格的な美術の世界に身を没したのであつた。巴里で彼は黒田清輝や久米桂一郎とも識りあつた。帰国したのは明治二十五年であつた。
その間日本の美術界は、明治二十二年二月一日より東京美術学校が上野に開校され、フェノロサなどの尻押もあつてやうやく開花せんとした洋画は、国粋的な日本美術の偏重から、東京美術学校からさへ締め出しを食ふやうな不幸な事件も起り、その官僚独善的な無方針に反抗して明治美術会が設立され、人気を呼ぶなどの事件もあつた。
やがて明治美術会は明治美術教場を本郷龍岡町の同会事務所を改造して開校し、官立の東京美術学校に対して、洋画専門の美術教育に専心することとなつた。その後明治美術教場は小石川伝通院に移り、明治美術学校と改称、やや本式の学校となつた。
帰朝した岩村透は母校青山学院に英語と図案を教授してゐたが、間もなく明治美術会に入り、明治二十六年同会評議員となり、翌年十月には明治美術学校に西洋美術史を講ずるやうになつた。明治二十六年の夏、前後して帰朝してゐた黒田清輝や久米桂一郎も当然明治美術会に入つてゐたので、巴里での友情は再び温められて、相共に新美術の興隆に尽力する仲となつた。
日清戦争の起つた明治二十七年を機として我国はいよいよ外国との接触を積極的に行ふやうな立場となつて来た。それが翌年戦勝によつて結末を告げるに及んで、平和来ると共に、急激にすぐれた西欧文物の移入が頻りとなり、わが国の文学美術の上にも一大変革が来ることとなつた。
明治二十九年東京美術学校は旧弊を棄てて西洋画科を新設し、黒田、久米を教授として迎へた。この新しい洋画グルウプを中心として発会したのが白馬会であり岩村透も当然黒田、久米と共に白馬会の指導者として加り、日本画壇空前の革命的運動となつたのである。
一方、明治美術会は白馬会が設立されると共に、その対抗的立場をとるやうになつた。巴里に於ける印象派の新しい藝術を身につけて故国に帰つた黒田、久米、岩村にとつて、明治美術会は初めより心充たぬ旧派にすぎなかつた。別れてみるといよいよその新旧の相違は判然と人々の眼にさへ映るやうになつた。白馬会は「南派」「新派」「紫派」「正則派」と呼ばれたに対し明治美術会は「北派」「旧派」「脂派」「変則派」と呼ばれて区別された。両者の対立は俄然世間の注目をひいた。この時代程美術が一般の関心を呼んだことはめづらしいことであつた。
白馬会の外光派理論は、美術に限らず文学、殊に詩歌に対して強い影響を与へることとなつた。日本の美術学生にとつて世界の藝術の故郷とも思はれるやうになつた巴里の生活は、つよい憧憬の的であつた。
この憧憬心をそのまま満足せしめるものとして、岩村透の第一著書「巴里の美術学生」はまことに時宜を得た読物であつた。
「美術家が、他の人間社会と別に団体を結んで、他人の事には一切無頓着に、朝から晩まで美術の事ばかり見、聞き、話して一生涯を暮せるといふ、斯様な社会に生活してゐる」巴里の美術生活を紹介し、西洋人と日本人との生活を比較して次ぎのやうに云つてゐる。
学生として、或は商人として西洋に永く住んだことのある人から見ると、日本の人はいかにも交際のしにくい、油断のならぬ、不活発な、底の知れぬ、興味のない人間に見えるだらうが、技藝家として住んで常に西洋の藝術家と交つてをつた人から見たら、日本の藝術家といふ連中はどう見えるだらうか。西洋人のいふ交際といふやうなものが日本に行はれてゐるであらうか。他人の相手になる事の嫌ひな、多勢の前に出る事の厭ひな、人に口を開く事を憚り、人の話を聴く事を好かん、自分の感情を人に打開けて語る事をせぬ、他人の前に威張りたがり、己の実力をなるべく大袈裟に見せたがる、といふ斯様な人間が、交際などいふものが出来るか知らん。
人間が互ひ互ひに一時も長く他人の顔を見てゐたい。一言も多く他人の詞を聴きたい、己の考もなるだけ多く知らせたい、人の考も十分聴きたい、喰ふにも、共に飲むにも同時といふ考で、一人よりも二人、二人よりも三人といふ風に共同の楽しみを感じてこそ団体の生活といふものが出来る。人を見れば、何か役人のやうに威張りたがる。威張りたいから、人の云ふ事は聴きたくない、何事も自分一人といふ考では、すべて共同といふ精神から湧いて来る快楽は味へない。西洋風の倶楽部とか、或は仏蘭西のカッフェのやうなものは真似たくも出来ない。矢張り一体の根性が待合の四畳半に合ふやうに出来てゐる。
この文章は岩村透の悪罵をきくやうな相当酷な直言であるが、当時の封建的な日本にしてみれば、反つて若者をふるひ立たしめる効果があつたのであらう。と云ふよりも、日本人のこの惨めな非文化的な生活感情に比較して、如何に巴里が文化的に高いかを物語るための止み難い言葉でもあつたらう。
「巴里の美術学生」は新聞紙上を賑はして、明治三十六年一月画報社より出版され、当時の美術学生は元より一般文科学生や青年子女の間にも高評を博した。実は、「パンの会」もこの岩村透の著作の中にその萌芽をみることが出来るのである。
「巴里の美術学生」が単行本として出版された翌年より日露戦争がはじまり、明治三十八年終末を告げると共に、岩村透をして徹底的に悪罵せしめた封建日本も、その非文化的な殻はまだ完全に捨て去る暇もなく、遮二無二世界の一等国へと「威張りたがる」本性も手伝つて駆け登らねばならぬ時世を将来したのであつた。
白馬会はいよいよ隆盛を極め、西欧の新藝術思潮は日を遂つて東京に紹介された。当時の東京は東洋の諸国などからみると、まるで西洋の出店のやうなもので、巴里も、ニュヨオクも、ロンドンも、伯林も、東洋の一小島国の主都にゆけば一応知ることが出来るやうな、国際色豊かな都とさへ思はれたであらう。
文学では、独逸と共に仏蘭西の藝術の影響が大きく、小説は自然主義を入れ、詩歌は象徴主義を入れて、いよいよ本格的な藝術的雰囲気が生じつつあつた。清国に勝ち露国に勝つた日本は、経済的にも強力な自由謳歌の時代となり、平和主義はやうやく一般思想と化しつつあつた。
石井柏亭、森田恒友、山本鼎、倉田白羊等を中心とする美術文藝雑誌「方寸」が創刊されたのは、そのやうな藝術の社会的雰囲気が醸されつつあつた明治四十年五月(一九〇七年)であつた。菊倍判表紙共十六頁の月刊で、石版刷スケッチや、当時画家の間に流行してゐた藝術的漫画と文学美術の記事を満載した香気高くたのしい雑誌であつた。
一八九六年、独逸でゲオルグ・ヒルツ(Georgu Hirth)によつて創刊された高級な漫画と文藝の月刊誌「ユウゲント」(Jugend)のやうな雑誌を創らうとして生れたのが、この「方寸」であつた(註一)。日本の近代思潮をなす欧羅巴藝術の自然な移入であつた。
「方寸」の発行所は当時の東京市本郷区駒込千駄木林町百八十三番地の石井柏亭の家(註二)で、前記同人の他、坂本繁二郎、小杉未醒、織田一磨、丸山晩霞、平福百穂等の美術家をはじめ、「明星」新詩肚の詩人、太田正雄、北原白秋、明治四十二年の秋からは高村光太郎も寄稿メムバアとして加はり、長田兄弟なども執筆することとなつた。その他異色としては独逸人フリッツ・ムルブが執筆した。
柏亭は「明星」の同人としても絵画や文章を以て名を知られてゐたので、白秋や正雄等とも親交があつた。当時のヤンガア・ゼネレエションとしての野心や抱負を彼等は「方寸」に注いだ。
「方寸」はさうした抱負と歓びによつて出発したが、世の例に漏れず経営は成り立たなかつた。定価(註三)は十五銭で、部数は三百から五百を前後する程度であつたが、毎月の売行は数十部に過ぎないことが多かつたと云ふ。同人は印刷所である下谷二長町凸版印刷株式会社まで漫画作品等を持つて通ひ、本文中に刷り込む色刷りの石版画を自分で製作しては誌上を飾つた。
いよいよ雑誌が刷り上り、発行所に運ばれると、同人は神田あたりの書店を歩き廻つて委託販売した。一週間もして売行きは如何とばかり見にゆくと、東京堂などでは他の雑誌の下積みにされてゐたことなどもあり、店員に頼んで又上の方へ出してもらふこともあつた。委託した店で一部か二部でも売れてゐようものなら皆有頂天になつたと云ふ。一人でも二人でも、自分達の仕事を理解して買つて呉れる読者があると云ふことは、情熱そのもののやうな彼等にとつて千万の味方を得た気持ちともなつたのである。
太田正雄(木下杢太郎)は当時二十四歳で帝大医科の学生、早稲田の学生であつた北原白秋も同年で、「方寸」の寄稿メムバアとしては最も若年であつた。太田正雄は明治四十一年八月号(第二巻六号)にはじめて「浅草観世音」と云ふ小品をを寄せ、北原隆吉(白秋)は明治四十二年二月の新輯漫画羅馬字号にはじめて小曲を発表した。
明治四十一年一月号を以て「明星」を脱退した同志の吉井勇、長田秀雄、同幹彦と共に、彼等の間には期せずして新藝術の運動の機運が醸されはじめてゐた。その一つとして共通のメエトルである森鴎外を中心に、平出修や石川啄木や吉井勇を編輯スタッフとする「スバル」創刊の計画なども進められてゐた。
明治四十一年十一月、「明星」が百号を以て終刊となり、その年の暮も近づいた頃の或日(註四)、「方寸」の会合で石井柏亭の家に集つた、太田正雄、北原白秋の青年詩人と、柏亭を中心とする山本鼎、倉田白羊、森田恒友等の新鋭画家との間に、新しい藝術運動を起す機関として何かお互ひの会合をつくらうと言ふ話が持ち上つた。それが「パンの会」となつたに就て、何故にこのやうに詩人と画家が相集り、お互ひに意気投合したかを考へねばならない。
太田正雄は大学に入るまでは画家になるつもりであつた程、造形藝術に関心を持つてゐた。石井柏亭と結ばれたのはそのやうな関係も働いてゐた。当時黒田清輝を中心とする白馬会等の画風をなしてゐた仏蘭西の印象派の新しい理論に、彼は非常に傾倒するところがあつた。大学の図書館で彼がリヒアルド・ムウテルの「十九世紀仏蘭西絵画」などを読んだのはこの頃であつた。彼は造形藝術を学びとることによつて自己の詩を生かさうとさへ考へてゐた。明治四十年、彼の書いた詩「楂古聿」は明らかに絵画の影響に依る作で「これわが初めて作る所の詩なり。かのもはら外光を画けりといはれたる印象派画家の風にならひたるなり」と附記してゐる。
楂古聿
真昼の光、煙突の
屋根越え、わかき白楊を
夏のにほひに噎ばしむ。
そは支那店の七色の
玻璃を通し、南洋の
土のかをりの楂古聿
くわつとたぎらす窓にして——
百合咲く国の温泉に
ゆあみしまししを垣間見て
こがれさふらふ鵠の
君をしのぶと文つくる。
一読してすぐに感じられることは、この詩が外光派の光線の理論によつて物の色彩を印象的に描かうとしてゐる態度である。
このやうな仏蘭西印象派の影響は、当時の自然主義的作家の平面描写などの理論にも共鳴しあふものがあつたし、殊に「明星」を母胎として飛び立つた浪漫主義的作家詩人の間には旺盛なる造形藝術への傾向的態度が伺はれる。文学者がその姉妹藝術たる造形藝術を識らぬことは、文学者の無智を示すものであるとさへ彼等は叫んだのである。
一方美術家も亦、文学、ことに詩歌に対する接近を意識的に行つた。「方寸」の同人等はその最も顕著なるもので、彼等の描いた当時の藝術漫画なるものも、注意してみれば絵画の最も文学的な表現であつた。風景にも人物にも皮相的な政治的諷刺と云ふやうなものではなくて、むしろ藝術的ノスタルジヤが漂つてゐた。彼等はそこで新聞紙的或ひは「東京パック」的漫画を意識的に嫌悪して、たのしい人生の機微に触れることを念願した。古い日本と新しい日本のギャップに生ずる哀しくもほほゑましい風俗は一種の「歌」でさへあつた。そこにこの時代の「漫画」の藝術性をみることが出来るし、彼等画家が後日の大成を約束する素地が伺はれる。
太田正雄は同じ医学に志す親友に山崎春雄(註五)をもつてゐた。山崎は中学以来造形藝術を理解する点では太田正雄の尊敬する友でもあり、彩筆に於ては彼をぬきんでるものがあつた。太田正雄が画家になる事を断念するに至つた理由には、山崎が彼よりも画が上手であつたにもかかはらず画家にもならずに医学を志した事がふくまれてゐた程である。山崎は又、北原白秋や吉井勇や長田秀雄等にとつても画才の所有者として多くの影饗を与へたやうである。山崎春雄は彼等詩人のよりよき理解者ではあつたが、文学の同志ではなかつた。従つて「方寸」に加はることもなく、パンの会の創始者にもならなかつた。
明治三十七八年の日露戦争後、一躍世界の第一線に乗り出さんとして西洋文化の流入する渦の中の東京にあつて、「方寸」が欧州で異色ある藝術漫画雑誌「ユウゲント」をそのまま日本流に取り入れたのはその好例と云はねばならない。
当時仏蘭西の新風を身につけて我国の画壇に人気のあつた黒田清輝や、西洋美術史家として、新時代の美術学生を教育指導した岩村透、水彩画に妙味を示した青年学生に人気のあつた三宅克己等の一般に及ぼした影響も大きかつた。岩村透の「巴里の美術学生」が「二六新報」に連載せられ、明治三十六年一月に画報社から単行本として刊行されて、それを渇ける者のやうにむさぼり読んで成長した青年学生の中には太田正雄や山崎春雄等もゐたわけである。当時、巴里が如何にロマンチックな日本の青年に憧憬の都であつたかは想像に難くないのである。
又一方、森鴎外や上田敏等の西洋文学の紹介もあリ、殊に敏の訳詩集「海潮音」による仏蘭西象徴詩派の紹介は、巴里に於けるパルナシャンと新興画家との親交風景をまざまざと彼等の前に展開してみせたのであつた。例へば、巴里には印象画派を誕生せしめたと云ふカフヱエ「ゲルボア」があリ、其処では画家に交つてボオドレエルやヴェルレエヌ等の象徴派詩人が常連であつて、さうした雰囲気から新しい藝術運動が起つたと云ふ事実は、東京をして東洋の巴里たらしめんことを夢見つつあつた彼等藝術の使徒を以て任ずる青年にとつて、羨望そのものでさへあつた(註六)。明治四十一年の晩秋の一日、「方寸」発行所に於て、彼等が企てた運動の端緒は、さうした「東京を巴里となす」夢からはじまつたことに他ならなかつた。
さて、会の名は何と称したらよいか、と云ふことが彼等の議題となつた。それが「パン」に決つた事に就ては色々推理せねばならぬ問題がある。
さきの「ユウゲント」が創刊された一八九六年より二年早く、一八九四年伯林で、ビイルバウムやマイエル・グレエフエ等の藝術家、詩人、評論家を一丸とする藝術運動として「パンの会」と云ふ同名の会が起り、「パン」と云ふ機関誌が発行されてゐた。それは一九〇〇年に解散するまで二十一号を発行し、文学と美術に新方向を開拓したのであつた。勿論この会のことは当時の日本にも紹介されてゐた。その会名をとつて東京の「パンの会」も誕生したのであつた(註七)。
西洋文化と江戸の名残りとが二つ巴となつて渦巻く東京は、時代の流れとして漸時前者が後者を圧倒しつつあつた。「江戸」はただ根強く東京の下町などに靉靆として棚曳く消えがての靄のやうに、切なく物悲しく、多感な詩人達の感情をそそつてゐた。西洋の「近代」の中に身を置かんとしてゐた彼等にとつて、「江戸」はすでに異国であつた。つまり、西洋も江戸も、彼等には新しい異国と古い異国の相違があるにすぎなかつた。封建の、古く磨かれた肉体に珍奇な舶来の新衣裳をつけたやうな東京は、その肉体の細胞に日一日と変化を生じつつあつた。そこに生じた感情が異国情調であつた。彼等藝術家の心に映じた詩は、この浪漫的なエキゾチシズムの中に住む五彩あえかな魚となつて、時代の人々の心から心へと泳ぎまはつたのであつた。
欧羅巴主義に生きようとする彼等は、江戸情調に人間的な感傷をそそられたとは云へ、その感傷の度合に逆比例して、封建の徹底的打破者であつた。自由主義にめざめた若き詩人は、そのまま時代の革命児でもあつた。彼等の異国情調文学は、當時の革命的な文学思潮に他ならなかつた。
世はまさしく、スツルム・ウント・ドラング(Sturm und Drang)の時代であつた(註八)。その時代の藝術を象徴するやうな名として、ギリシャ神話の「パン」を採つたのは、決して故なきことではなかつた。
「パン」はPanである。牧羊神の名である。ギリシャ神語では「パン」は畜群と牧者の神で、その両神については区々異説があるが、普通ではへルメスとニュンフェとの子と云はれてゐる。容貌が山羊に似て額の頂に角があり、髭があり、鉤鼻で毛髪が多く、尾と山羊の足を持つ半獣神である。原因不明な突然の恐怖、所謂 Panic terror を引き起すと考へられ、これに依つてマラトンの戦にアテナイ人を助け、又、デルフォイの神殿を掠奪にきたゴオル人を驚かしたと云はれてゐる。
この神話から「パンの会」の心を汲みとることは容易である。
いよいよ「パンの会」は「方寸」を母胎として生れることに決つた。それを最初持ち出して画家たちの共鳴を得ることによつて実現せしめたのは太田正雄であつた。だから、会場となるべき巴里のカフヱエに相当する場所を捜しはじめたのも太田正雄であつた。「西洋風の倶楽部とか或は仏蘭西のカッフェのやうなものを真似たくとも出来ない」とかつて岩村透をして云はしめた東京だけに、それは中々困難なことであつた。彼は線の大きい、どちらかと云へば渋い顔立の何処かに人なつつこい表情をして、体格もがつちりとした静かな青年だつた。而も内に火のやうな浪漫の色彩をたたへてゐる青年だつた。温暖の伊豆の海辺に生れた彼にふさはしい性格とも云へよう。生来の読書家であると同時に夢想家でもあり独創家でもあつた彼は、自ら「スヰッツルの百姓」と称する服装を身につけて、異国的風景に富んだ築地方面や、大川沿ひの下町に江戸情調の残り香を求めて孤独者のやうに彷徨した。いつもその名に相応しく、破れた学生服に軍靴をはいてゐた。
隅田の大川べりには異国風な鴎が游んでゐた。蒸汽はドウナツのやうな煙の輪を吐いて大川の波を切つて上下してゐた。なかなかカフヱエらしいものはなかつた。
隅田川は巴里のセエヌを思はせた。どうしても、この川べりに、西洋風と江戸風の情調をつきとめて、そこに会場を求めたかつた。
当時の東京には珈琲を出す家と云へば、本郷赤門近くの青木堂と、町に散在するミルクホオルの前身としての新聞縦覧所位しかなかつた。その他は牛屋か、西洋料理屋であつた。
仕方がないのでカフヱエの代りに西洋料理屋と決めて捜し出したのが、両国の橋近くの西洋館まがひの三階建「第一やまと」であつた。牛鍋屋ではあつたが、西洋料理も酒も出た。汚い家だつた。それでも大川端であることが、心のどこかに一沫の満足感を与えた。
明治四十一年の歳の瀬の或日に、このやうにして第一回のパンの会はこの「第一やまと」の三階で開かれることとなつた。
パンの会が新鮮な情熱的な、新時代を象徴する文藝運動として起つた。この明治四十一年の終り頃には、他に文学者の会合が無いわけではなかつた。外国の「サロン」のやうな会合はあちらこちらで催されてゐた。鴎外を中心とする観潮楼の歌会とか、與謝野夫妻を中心とする新詩社とか、松岡國男(柳田國男)の家にあつまつた後の龍土会とかが著名なものであつた。それがパンの会と違ふところは、あくまでも社交的な雰囲気のもとに行はれたサロンの微温的なものにすぎなかったと云ふことである。パンの会の性格は全く違つてゐた。単なる会合ではなく、内に情熱の爆発力を含んだ「運動」であつたことは注目せねばならぬ。
パンの会の他に、当時世に知られ、文学的にも特に記憶せねばならないものは「龍土会」であつた。
龍土会は明治三十六年、岩村透の主唱で琴天会と称して神田の実亭と云ふ西洋料理屋で開らかれたのに端を発する。琴天会と云ふのは琴平社と天神社の縁日を会の日と決めたので如何にも岩村透らしい洒落であつた。それは次に、水天宮と弘法大師の縁日に変更されて「水弘会」となつた。何れも日本にクラブの必要をみとめた岩村透の発案だけに、はじめは美術家のみの集りであつた。そのうちに麻布の龍土軒と云ふ西洋料理屋を岩村透が紹介し、その店の主人が一寸変つた面白い人で、その会合を歓迎して自慢の料理などを出したので、会はそこに落着いて「龍土会」となつて、その頃には文藝家が多く集るやうになつてゐた。文藝家が集つたのは岩村透の性格を現すものでもあつた。その間には麹町の西洋料理店や、牛込の柳田國男の家や後には銀座のプランタンなどを転々として続けられた。
龍土会に集つた主なる文藝家は、國木田獨歩をはじめ、文藝家の柳田國男(当時は松岡)、作家の田山花袋、詩人の蒲原有明、作家の島崎藤村、徳田秋聲、生田葵山、川上眉山、小栗風葉、その他当時の中堅作家の殆どであつた。それは大正二年島崎藤村が渡欧する頃まで続いて解散した。前後十二年間も続いた会合であつた。自然主義の母胎とも云はれ、半獣主義とか神秘主義、象徴主義等の新しい文学の温床とも噂されるほど盛んな会であつた(註九)。
パンの会が新時代の青年によつて、判然と近代藝術の欧羅巴主義の謳歌であつたのに対し、龍土会は飽迄も既成作家の勉強機関であり社交機関であつて、あきらかに「青春」を欠き未来性を持つてゐなかつた。然しそこにはパンの会の人々が先輩として尊敬する藝術家の顔がみえてゐたのである。
龍土会が世間で噂されてゐたやうに、当時の日本文壇に活を入れた自然主義的作家の温床だとすれば、パンの会は新しい浪漫主義的詩人の温床として生れたとも云へる。又、性格的にみても、龍土会は山手の会であつたが、パンの会は大川端の下町の会であつた。パンの会の同志達はその母胎としての「明星」が頗る浪漫的な旗印を鮮明に翻した以上に、当時の所謂日本の自然主義作家に対立した。然しそれは仏蘭西自然主義に反対したのではなく、それには寧ろ同情を持ち、その進歩的な日本への紹介者に対しては尊敬を失はなかつたが、自然主義を日本流に曲解して、味気ない平坦な散文に作り上げた作家の集団とし
て特に早稲田文学に対しては感情的対立さへ持つたのである。それは又「明星」以来の彼等の日本文壇に於ける立場でもあつた。
龍土会の関係者もパンの会に招かれるままに出席した。明治四十一年の暮れに両国橋畔にささやかな会を持つたパンの会が、次第に盛況を呈して、会場を遷るやうになつてからは、その主催者の詩人達の名も次第に世間的に有名になり、交遊の数を増すにつれて、龍土会の人々の心を誘ふほどの文壇の名物となつて行つたのである。
パンの会は謂はば鹿鳴館時代の再現でもあつた。石井柏亭は「如何に巴里に於て遊楽するか」等と云ふ英文の小冊子を持つて来て、パンの会の饗宴で皆に読んできかせたりした。
木下杢太郎の文章(註十)によればパンの会は「黒田清輝が白馬会を挙げて活動し、永井荷風が『仏蘭西物語』を出版し(明治四十二年三月刊)、湯浅一郎がヱラスケスの模写を陳列し、有島生馬が印象派の作品を齎らしたと同じ環境での出来事であつた(註十一)」し、造形美術に封する関心が稀薄であつて、欧羅巴主義ではなく、且つ党派心のつよかつた早稲田派を除いて「文藝——殊に造形美術の方のわかい人々の間にはあまり党派心が強くなかつたから、いろいろの分子が『パンの会』に流れ寄つた(註十二)」のであつた。
かくしてパンの会は、時代の風見のやうに、鋭敏に欧羅巴主義を把握し、藝術的に、「江戸」と「異国」の浪漫的なエキゾチシズムの衣裳を纏ひながら、新時代を切り拓いてゆきつつあつた。それを理論づけ、勇気づけたパイロットとして、私は太田正雄(木下杢太郎)の名を挙げねばならない。最もパンの会の精神と感情を身を以て藝術化した詩人として、北原白秋の名も忘れることは出来ないが、それにもまして、太田正雄の名を忘れることは、パンの会の名を忘れることと同じでさへある。
明治四十一年は終つた。「方寸」を跳躍板として本格的なパンの会の盛宴が張られたのは、明治四十二年であり、四十三年であつた。
(註)
一 石井柏亭氏の談話による。
二 「方寸」の発行所は石井柏亭氏が明治四十三年渡欧するまで同所であったが、その後は小石川区小日向台町三丁目四八の森田恒友氏方に変更され、明治四十四年の終刊号まで続いた。
三 「方寸」の定価は明治四十二年二月羅馬字号から二拾銭となつた。
四 「或日」が果たして何月何日であつたかは全く判つてゐない。普通パンの会は明治四十二年からはじまつたと云ふことになつているが、明治四十二年の正月九日にもパンの会が開かれてゐて、それは既に幾度目かの会であることが判つてゐる限り、明治四十一年の暮れから始まつてゐたことは証明出来る。それを裏書するものは石井柏亭氏その他より著著が直接にきいた談話と、「明星」解散が十一月であることからの、著者の推定である。
五 山崎春雄氏は北海道帝国大学医学部教授として奉職昭和二十一年に停年になつて現存。
六 石井柏亭氏談話。
七 昭和二十年十二月号「文藝」太田博士追悼号に兒島喜久雄氏は「太田君の雑然たる思ひ出」を書きその中に次のやうなところがある。
『パンの会』のことは誰でも知つてゐると思ふがあの名は伯林でマイヤー・グレフエがやつてゐた雑誌の名に因んで太田君がつけたのである。マイヤー・グレフエの 雑誌は文学、美術、政治等の綜合雑誌で表紙にはシユウトィックの描いた大きな牧神の顔がついて居た。美術史家のヴェルフリンなども其主要な寄稿家の一人であつた。夫を出版して居たパウル・カッシーラーは有名な画商で僕もよく知つて居たが後に妻君の恋愛事件の為に気の毒な死に方をして了つた。ブルノー・カッシーラーの弟である。
八 スツルム・ウント・ドラングとこの時代を称したのは、パンの会の連中のうち重に独逸語系の青年達であつた。
九 蒲原有明著「飛雲抄」による。
十 太田正雄がそのペンネエム木下杢太郎をその著書に使用したのは「方寸」明治四十一年十一月号(第二巻第八号)の「公設展覧会の西洋画」と題する展覧会評からであ り、パンの会に於ては当然木下杢太郎と称すべきである。
十一 「パンの会と屋上庭園」(藝林閒歩)。
十二 右に同じ