婦人解放の道

 婦人の解放という事が唱えられます。一体婦人の解放とはどういうことを意味するものでありましょう。どういう束縛から婦人を解放しようと言うのでありましょうか。どういう自由に婦人を生かそうとするのでありましょうか。一口に婦人の解放と申しましても、差しあたりいろいろな異なった意味に解釈することが出来るでありましょう。たとえば、家庭から婦人を解放するとか、政治上に積極的の自由を与えるとか、経済上の平等権を与えるとか、いうような、種々な問題として考えられるでありましょう。またこれに附随して種々な婦人問題が起ってまいります。たとえば産児制限問題だの、売笑婦問題だの、婦人職業問題だの、婦人参政権問題だの、という風に重大な問題が沢山私達婦人の前に横たわって居ります。併しその中最も重大なのは婦人参政権問題でありましょう。それは婦人が参政権を得れば、従って他の凡ての婦人問題が、婦人自身の力で解決できると思われるからであります。併しこれは甚だ皮相な考えと言わなければなりません。
 太古に於ける母系組織の存在を発見したバホヘンという人や、エンゲルス等は、その母系組織から父系組織に変じたのは、生産手段の変化に伴った自然的進化に基づくものだと言っていますが、新らしい社会学者は、それは誤った観察だと言って居ります。男子が婦人に勝って母系組織が覆えされ、父系組織の社会が出現したのは、全く男子が暴力に依ったのだと言うことであります。即ち男子が暴力に依って家長権を獲得し、強権政治を確立し、近世の国家と社会とを達成したのであります。果してそうであるならば、今日の強権的政治組織が存在する限りは、愛と道徳とに依って存在の意義を認められたる婦人の地位は、依然として服従関係におかれねばなりますまい。たとえ婦人が参政権を得、或は官吏に就職する権利を得、またその他職業上に於ける男子と平等の権利を得たとしても、それには法律上の平等権に過ぎず、文字の上の平等権に過ぎず、或は極めて特殊な婦人にのみ適用される権能に過ぎないでありましょう 。そして一般婦人は依然として哀れむべき奴隷の境涯に苦しみを忍ばなければなりますまい。単なる婦人参政権の獲得、単なる職業上の平等権等は、些か婦人の意気を高め、婦人の自覚を促す助けにはなるでありましょう。それ故これを全然無益な運動だとは申せません。が併し、こうした権能の獲得に依って、従来、同情同感の同性的共同戦線に立って来た婦人同志の間に、新たに階級的差別が生じてまいります。即ち今日の社会に於けるブルジョア階級と、プロレタリア階級との差別と同じ差別が、新たに婦人同志の間に 起ってくるのであります。今日の政治組織は要するに強権を基としたものであります。こ の強権組織に基づいた政治上の権力に、一部の婦人が近づくということは、強権の為に奴隷化されたる一般婦人に裏切って、敵の陣営に降服するということになりはしないでしょうか。宛かも階級闘争を主張する労働党の指導者が労働階級全体をそのままにしておいて、自分だけがブルジョア政府の一人となったのと違いはないでありましょう。
 母系組織の転覆が男子の暴力に依ったとするならば、その暴力を基礎とする強権的政治は、母性にとって仇敵と言うべきでありましょう。強権なしには政治はありません。政治は強権に依ってのみ行われるものであります。その強権に依って行われる政治圏内にはいろうという婦人参政権運動の如きは、私達婦人を甚だ侮辱するものでありますまいか。
 併しまた、若し現代の政治組織を肯定するならば、それは自づから別問題であります。現在の政治組織全体を肯定しないまでも、少なくとも強権政治というものを、人生自然の社会条件と認めますならば、婦人参政権運動には深い意義があると言わなければなりません。併しながら若し強権政治が是認されるならば、たとえ婦人の参政権が男子と完全に平等に認められましても、それは決して婦人全体の解放とはならないでありましょう。それは単に婦人のみではありません、男子も同様に解放されはいたしません。たとえ完全に普通選挙制度が行われましても、強権を基礎とした政治組織、経済組織が存在する限り、男子も女子も決して自由にも、平等にもなることは出来ません。大多数の人は、やはり少数者の踏み台となって生活しなければなりません。
 これ迄、論じてまいりますと、婦人解放ということは、男子の解放と離れることの出来ない問題になってまいります。母系組織がくつがえされて、父系組織が建てられたのは、男子の暴力に依るのだと、社会学者は申しますが、その暴力に依って建てられた社会に於ては、男子は女子を奴隷化したばかりでなく、同時に大多数の男子をも奴隷化したのであります。でありますから、この奴隷生活から私達婦人が解放されようとするに当りまして、当然共同戦線に立つべき多くの男子が見出されるのであります。
 解放ということは全部の上に行われて始めて真の解放となります。一部分の解放ということは、直ちに新たなる階級制度を建てることになります。たとえば、今迄は参政権のなかった婦人同志は平等の味方となって居りましたが、それが代議士になり官吏になる資格を得ました時に、大多数の婦人と、選ばれたる婦人との間に、新たな階級が出来てまいります。選ばれたる婦人は絶大なる強権を背景として、権勢と虚栄とを貪り、大多数の民衆婦人は依然として奴隷生活に呻吟しなければなりません。
 自由は平等に依って始めて獲得するものであります。平等は必然的に自由を条件として存在するのであります。自由のなき処に平等 なく、平等のない処に自由はありません。然るにその平等ということは、社会全体の上に行われてこそ始めて意義があるので、一部分の平等ということは全く意義をなさないものであります。即ち一部分の平等ということは、他に不平等の部分があるということを予想されるものでありまして、実は平等ではないのであります。私が解放は総体のものでなければならないというのはこの理由に基づくものであります。
 以上、述べました処に依って、婦人の解放ということは、同時に人類そのものの解放を伴うものでなければならないことを説いたつもりです。婦人職業問題だの、婦人参政権問題だの、何れも多少の意義はありますけれども、婦人解放への道程に於ては、寧ろ岐路に属するものでありまして、その本道は別に見出されねばなりません。私達はその道を進むべく、単に婦人全体でなく、男子全体をも抱擁し得る自由と平等と相互扶助の精神を体した、連帯生活を打建てて行くことに努力しなければならないと思います。そしてこの進路に横たわる、あらゆる障害と闘って、自由の天地に自分達を進めて行かなければなりません。