赤い空 わかれ
はじめに
これは、いろいろありはしたけれど。家族とともに人生を歩んだひとりの女の物語である。「あのねえ。あたし。今、とっても悲しくって寂しい。けれど。幸せだった。なぜかしら。だって。もう泣かない。あたし。こちら(彼岸)にきてから。新しい希望の光り、神さまの世にチャレンジしようと。そう思っているの。そちらで暮らしていた間、あなたや子どもたち、友だちと一緒に居られて楽しかった。充実していたよ。みなさん。ありがとうございました。ホントに、ほんとうにありがとう。愛は神。神は愛かもね。」(女)
「目には見えない。けれど、その大気。かぜ。音のなかに。時には涙の滴のなかにさえも、だ。おまえの魂はいつだって俺のなかで生きている。だから、俺たち。これから先、どこに連れられて行くかはわからないが、どこまでも一緒だ。」(男)
1
ごろ。ごろ、ごろ。
ドン ピッシャ~ン。
ばり。バリ、バリ。バリィっ。
雷鳴も稲光もゲリラ豪雨も強い風も。何もかもがおまえのせいに思えてくる。おまえは、まだまだ元気でいたのだ。よかった。ほんとうに。よかった。
☆
心して我から捨てし恋なれど 堰きくる涙堪えかね
憂さを忘れん盃の 酒の味さえほろ苦く
=鶴次郎(心して)より
目はかすみ、足はよれよれ。声もしゃがれ。一歩を踏み出す足元さえおぼつかない。腰は痛く。両の腕ともくずおれそうな男が首に使い慣れた、紅白のさまざまな猫のイラスト入り愛用の、それでも希望のようなものが感じられるタオルを巻いて道をゆらゆら、よれよれと蜻蛉のように歩いてゆく。かつて女と何度も共に歩いてきた道を、だ。男は最近、妻を失った。
赤い空。その上に白い雲たちが、覆いかぶさるようにたなびいて浮かんでいる。一直線の飛行機雲が鮮やかだ。空と風、大気という大気は、おまえそのもの、すなわち妻のたつ江(伊神舞子)で、雲はおまえと人生を共に歩んできた世にも不思議な【三千世界の鴉を殺し主と朝寝がしてみたい(幕末の志士・高杉晋作)】を地で行き、人間世界のことならなんでも知っている俳句猫シロちゃん=俳号は「白」。舞が生前、こうつけた=も含めた俺たち家族、それにおまえが何かとお世話になった多くの方々である。
そして。そんな雲たちはきょうも風に流され、かすかに自らの強い意志で動いているようでもある。皆、どこか夢というか、それぞれの目的地に向かって歩いていこうとしている。そんな地上を眼下に天の川では天女になったおまえが、ほほ笑む。
二〇二二年七月二十八日。
令和四年の真夏。前夜から未明にかけ。とうとう男が愛するその女、舞が変身し空からなんの前ぶれもなく、かつての愛しい家族や仲間たちが住む人間社会を襲ってきた。地響きのような、雨粒の一つひとつがパラパラ、パラパラと張り裂けんばかりの音だ。そればかりか、時折、破裂するような大爆音を伴う光りという光りの夥しい乱射である。
「こちらはK市です。K市です」とのマイク音が尾張名古屋の、この地方独特の風に乗ってかなたの市の警報を兼ねた広報マイクから風に乗ってこちらに聴こえてくる。
「K市です。K市です。K市です」。緊迫感に満ち、半分震えているようなこの女の声は、地上のありとあらゆるものを爆音と光りの海でのみ込んでしまおうという、そんな自然の恐ろしさを命がけで伝えようとしている。このままだと、木曽川が氾濫するかもしれない。真夜中。布団に身を横たえていた男は窓越しに遠慮会釈もなしにズカズカ入ってくる轟音と光りの洪水に身を震わせ、縮まらせた。なんという恐ろしいことなのだ。一方で、男は自然の脅威におびえる自分自身を感じていた。
恐ろしさに身を横たえたまま男は思う。舞はやはり、どこまでも今も俺の心のなかで確かに生き続けている。生きているのだ、と。その証拠に光りという光りが暗闇のなかで猛り狂わんばかりにフラッシュバックしてくる様子がよく分かる。大地をたたきつける豪雨も混じり、もはや、怖さなどというものはとおり越している。恐怖だ。自然社会には、こんなにも怖くて恐ろしいものがあるというのに、だ。人間どもはいまだにウクライナなどで戦争というおちゃめ尽くしをしているのだ。自然という破壊者たちはそうした人間たちの愚かさを知っていて、笑い続けているに違いない。恐ろしさとか。そういったものは、とっくに超えているだろう。
どこからか、生前の舞が、台風が日本列島に接近するつど男に向かってよく口ずさんだ言葉「なんで人間という生きもの、科学者たちは台風を電気に変えることができないの。台風をみな電気にしてしまえば。そうすれば、すべてが解決し、一挙両得じゃないのよ」と。
そのつど、あの鈴を鳴らしたような甘い微かな声が耳に大きく迫るのだった。
その日は深夜から未明にかけて。地球をカーテンの如く覆う海という海に、夥しい数の光りの砲撃がドーン、ゴロゴロゴロ、ピシャア~、バリバリバリという轟音とともに続いた。ただでさえ、有史以来の新型コロナウイルスによるコロナ禍が、爆発的拡大、すなわちパンデミックのさなかにあるというのに、だ。一体全体、ニンゲンたちが何をしでかしたというのだ。男には、それが分からない。でも、この稲光、大雨、雷、強風と何かが一緒に弾け飛ぶような爆音、猛烈な自然の数々は明らかに人間というニンゲン、三千世界を徹底的に懲らしめようとしている。そのことだけは、確かだ。
男は窓という窓を光りで照らし、映し出す恐怖の閃光に怯えたまま思わず、よれよれとしながらも、二階寝室の寝床からなんとか立ち上がり、右手を出し、見えない女、光りに向かって口を開いた。
「さあ。行こう。いこうよ。いくのだ。手を出して! 舞」
昨夜から、きょうの未明にかけ天も割れんばかりの夥しい雷鳴が「これでもか。これでもか」と何度も何度も轟き、そのつど我を競うような夥しいほどの閃光が闇夜を白く瞬間的に走って光るなか、男はそう声をかけながら、姿こそ見えないものの仁王立ちとなって立ちはだかる女の手を強く握りしめた。
そして思わず、口からこぼれ出たのが「行こう。いこうよ。いくのだ。いつまでもここにいたのでは危ない。このままここ、この地上にいたのではダメだ。危険だ。ダメなのだから」という言葉だった。だが、そう促しはしたものの、ふたりはこの先、一体全体どこへ逃げたらよいのか。どこへ行け、というのだ。それが分からない。ただ男に言えることは、女を助け、できればふたりともこの窮地から逃れること。ただ、それだけだ。
男はなんとしても妻を救いたい。そう思うと矢も楯もたまらず頭は混乱し、今は「たとえ舞ひとりだけでも、この世から、どこかに逃亡させなければ」と。そのことしか頭にはなかった。長年ともに歩んできた、かわいい相棒を助け出さなければならない。この轟音と豪雨、強風とともにピカ、ピカ、ピカッ。ドンドン。ピカリと幾筋もの光りの筋を放射してくる、荒れ狂うこの世の地獄。なんとしても地上から愛する彼女を助け出し、避難させなければ。というわけで、女への思いが強ければ強いほど男の脳の思考回路はズタズタに切り裂かれ、おかしくなっていくのだった。
一体、どうすればよいのだ。かわいい舞がひとつひとつ苦労し詠んだ俳句、短歌、そして一行詩の数々は一体全体どこへ流れ、消えていってしまうのか。このまま彼女の生きた証し、すべてが水の泡と化してしまうのか。いやいや、そうはさせまい。かまわないから。さあ~、とにかく。歩こう。行くのだ。前に向かって。いこう。いくのだ。逃げろよ、逃げろ。逃げるのだ 舞!
男は、その夜。夢のなかでひとり、焦っていた。
この世はこの先、どうなってしまうのか。人間たちの存在は。どこへゆくのだ。地球という天体、星が温暖化やら何かで、このままほんとに破壊され尽くし、そのあげくに消滅してしまうのか。いつ終わるともしれない新型コロナウイルスによる感染急拡大。高齢者も若者世代、幼児、子どもたちも関係なく、際限のない感染者に増える一方の死者。医療の逼迫。増え続ける在宅療養。連日のように三五度を超す炎熱地獄とこれに伴う熱中症の続出。パンク寸前といっていい救急出動の危機。いやいや、すでにパンクしているかもしれぬ。ほかにも大雨に台風、予期せぬ大地震と大津波の発生。火山の爆発。富士山が大爆発し、木曽川が氾濫しても不思議でない。さらには、あの独りよがりなロシア大統領・プーチンの戦争、すなわちロシアのウクライナへの軍事侵攻に伴うウクライナ危機、ウクライナ南部ザボロジエ原発への砲撃など容赦なき原発攻撃。広島、長崎以来の浅はかな核戦争に対する不安と恐怖も増している……。
そして、だ。このところ地球規模で進む温暖化による悲劇、新型コロナウイルスによるコロナ禍は、もはや常態化してしまっており、今では世界中でマスク姿の人々が行き交い、かつての非日常が日常と化している。このままだと地球を取り巻く宇宙そのものの存在さえが危ぶまれる。当然ながら人間社会は変容してしまう。いや、すでにかつての面影などないに等しくなってきた。ならば俺たち人間は一体全体どうすれば良いのだ。どこに行ったらよいのだ。
2
女は生前、リサイクルショップを営む傍ら、俳句をつくり、詩や一行詩にもこだわり、短歌を詠い続けた。が、そんな女も昨年(二〇二一年)の十月十五日未明、周囲の願いもむなしく子宮がんで黄泉の国に旅立った。壮絶な死であった。男と子どもたち、そして愛猫でこの世でただ一匹の、彼女命名の俳句猫・シロちゃん=俳号は「白」=を残してである。
女は【秋一日 絨毯と飛べ 我が部屋ごと】と詠んだ辞世の句を残し、この世を旅立ったが、さぞや無念であったに違いない。つらかっただろう。
男は女を前に横笛で〈さくら さくら〉を吹いたり、自らの声で【どうした拍子か あなたという人 憎うて憎うて たまらないほど好きなのよ】とか【雪のだるまに 炭団の目鼻 融けて流るる墨衣】などとよく冗談めかして唄ったものだが、その女、舞が、である。いとも簡単に。あれほどまでに、あっさりとこの世を去ってしまった。最愛の人がいなければ、生きていたところでなんの意味があろう。女の死後、喪失感に襲われた男はいつもそう思い、そのつど涙が満面にあふれ出るのである。のに、だ。あいにくにも男はまだ辛うじてこの世に未練があるのか。こうして生きている。いや、何かに生かされているのだ。
ところで、死んでもいない男に死んだ女の気持ちは分からない、分かるはずもないだろう。いやいや。男の妻に限って言えば、男には舞の今の気持ちが分かるかもしれない。そんなことを繰り返し思いながら男は、きょうも何かを求めて半ば放心状態で街をさまよい歩き、こうして生きていく。
ある日。男は夢を見た。
――どこまでも続く一本の道。その道をかつて病んだ女は男から買い与えられた愛用の自転車のハンドルを手に、これをからだの支えに、ふらつきながら両足で歩いて一歩、また一歩と前進し、自ら営むリサイクルショップ「ミヌエット」へ、と向かった。お店に着くと女が店長さんと崇める、ひと抱えもある熊さん人形の縫いぐるみをヨイコラショと店先に出すのが彼女にとっての一日の始まりで、晩年はそんな日々の積み重ねだった。あれから、どれほどの月日がたったか。男が、かつての女のお店「ミヌエット」に面して走るいつもの道を、ハンドルを手にマイカーを運転したりしていると、過ぎし日々の、あの妻、女の笑顔が大写しとなって眼前に浮かんでは消えるのだった。
「あたし、いいよ。だって。大丈夫。大丈夫だから」
何がよいのか。大丈夫なのか、が分からない。【だいじょうぶよ】は、女の口癖だった。
時に私の耳に囁きかけるように「だ~め。だめなの」と甘えたような声で言うことがしばしばあった。亡くなる前、まだ病院の緩和病棟に入院する前、自宅一階ベッドで療養していたころには、だ。
「二階(寝室)に来たら」との男の誘いに、
「だあ~め。だめ。体力がないの。あたし。そこまで行けないのよ」と言いつつ、手すりを使って二階に何度も必死の思いでこようとした。
男はそんな女を前に、そのつど「ヨシッ、よく来た」と言いながらリンパ浮腫で腫れ上がった両足に包帯を巻く作業を毎日繰り返したのだった。
だが、しかし。女はそのかいもなく永遠のかなたへと旅立ってしまったのである。「あたし。
この世になんか、なんのみれんもないのだから」とでも言いたげに、だ。ふたりで過ごしてきた日々の苦しいことを女が全部自分ひとりで背負ってこの世を潔く去っていった。
「それでは。元気で、ね。さようなら」と自分だけ大空に飛び立って逝ってしまったような。そんな気がしてならない。
3
女がこの世を去ったのは、昨年の秋、令和三年十月十五日の未明だった。夜が明けると、空はどこまでも晴れわたり、彼女自身が以前に詠み、新聞の俳壇にも掲載された【秋空に 未来永劫と 書いてみし】の俳句そのものの澄みきった世界が大空高くどこまでも広がり、朝の陽がさわやかな弧を描いていた。病床のベッドを終の棲家に苦闘の日々を過ごしたあげくの死でもあった。
そして。あの旅立ちの日から一年近い。この世にはいろんなことが次から次に。まるで速射砲のように起きた。南太平洋の島・トンガの大噴火と大地震に伴う砂礫の日本の海岸への到達に始まり、コロナ禍に新たに加わったオミクロン株の派生型「BA –5」などの出現、作家瀬戸内寂聴さんの死、最近では、あのバイオリニスト佐藤陽子さん、ファッションデザイナーの三宅一生さん、尾張一宮とも縁が深かった世界的服飾デザイナー森英恵さんも亡くなった。舞が生きていれば満七十歳になったはずのことし二月にはロシアはプーチン大統領によるウクライナへの一方的かつ非人道限りない軍事侵攻が始まり、かつてふたりで足を運んだ能登半島突端珠洲での度重なる群発地震にも似た地震、北海道では知床遊覧船の沈没事故、いったんは治まるかに思えたコロナ禍の第六波に続く第七波・パンデミックとも言っていい爆発的蔓延、参院選の街頭演説中に起きた安倍晋三元首相の銃撃殺害死、KDDI(au)が七月上旬に起こした過去最大、九十時間以上に及ぶ大規模な通信障害……と、とどまるところをしらない。
それだけではない。まだある。イギリスでは記録的な猛暑となり、熱波の影響による火災などが続出。ロンドンのカーン市長は通常は一日に三百五十件ほどのロンドン消防当局への通報が二千六百件と普段の約七倍となり「第二次大戦以来、最も忙しい日々だった」との認識まで示した。熱波はイギリスに限らず米国も襲い、自らもコロナに二度感染したバイデン大統領は「これは非常事態だ。米国内で一億人が高温警報の下で生活をしている」との危機感を示した。事実、米国立気象局によると、七月十九日から南部を中心に最高気温が四〇度を超す日が続き、森林火災や干ばつの危険が高まり、バイデン氏は「ことしに入って全米の九十カ所で観測史上の最高気温が更新され、この危機は日々の生活のあらゆる面に影響している」とも強調した。
ほかに世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長が「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態に相当する」と宣言した動物由来のウイルス感染症「サル痘」。その「サル痘」の日本国内での感染……と様々な出来事が次から次へと、めまぐるしく起き人間の不幸はとどまるところをしらない。
そして。男は、この世の中にこうした新しい事案が起きるたびごとに「あの世に旅立った彼女、舞はこれら死後に起きた数々の事件を何ひとつ知らないのだな」とつくづく不思議に思う。男はどうしたわけか。【どうした拍子か あなたという人 憎うて憎うて たまらないほど好きなのよ】とか。【ゆきの達磨に 炭団の目鼻 とけて流るる墨衣】といった小唄を口ずさむ自分をあらためて感じるのである。これは、かつて男と女が尾張一宮で暮らしていたころ、男が仕事の合間に足を運んだ三味線の女師匠から教えてもらった最も短い小唄で、何かのたびごとにフワリと口をついて出るのである。まさか、最愛の女が世を去ったあとに、この唄が男の口から流れ出る、だなんて。つゆほども思いはしなかった。のに、だ。
あのころ、女師匠はすでに八十歳近かったが、男のことをかわいい弟子として、ほかにも〈縁かいな〉や〈鶴次郎(心して)〉などを、アレヤコレヤと教えてくれた。男はそうした楽しい思い出の一方でこれら地上の事件のすべてが、女が死んだせいで起きたに違いない、とそんな錯覚にまでかられ、今では自分のいるこの世が一体全体どんなものであるか、が分からないのである。
男は、そんなことを思いつつ、半分まどろみながらも「いやいや、このところの事件のすべてを妻のせいにしてはいけない。そんなはずはない。これから先もこの地球と人間社会がある限り、思いがけないことが連続して相次いで起きるだろう。いや、起きるに違いない。だから「妻が生きてくれてさえいたのなら、こんな悲惨な数々の災害や事件など起きるはずもなかったのだ」と思うことは間違いなのだ、と。そう自らに言い聞かせ、自重の鐘を鳴らすのだった。
その日も、男は女に去られた喪失感を胸に車を運転していた。いつもなら日曜日の買い出しなどで決まって助手席に黙って座っていた妻はすでにこの世の人ではない。男はハンドルを手にいつものようにスマホから流れ出るユーチューブで舞が好きだった【エーデルワイス】と【みかんの花咲く丘】に耳を傾ける。外は焼けつくような暑さだ。男はいつものように駐車場に車を止める。と、ドアを開けると蝉しぐれが束となってワッと耳に飛び込んできた。ミンミンミン、みぃーん、みいーん。弾けそうな強烈な蝉しぐれがまるで洪水にでもなったように耳に襲いかかってきたのである。と同時に男はこの泣き声、蝉しぐれという時雨、大合唱を今は亡き妻に思う存分聴かせたい、聴かせてやりたいと思うのであった。
舞の口のなかで鈴をリンリンと転がしたような、あの声が、かぜの流れのなか、微かな波動とともに聴こえてくる。
「あのねえ。あたし。ドラゴンズが優勝したとき、ナゴヤドームでブランコさんに会えてうれ しかった。あなたと一緒になってまもないころ。そう、志摩にいたころもドラは優勝して強かったけれど。落合博満さんが監督だったころのドラは滅法強かった。落合信者さんもたくさんいたよね。あたしも負けないで毎日、応援していたのだから。ドラといえば、あたしが社会人になってまもなく、エージェンシーに勤めていたころ、ナゴヤ球場のナイターにもよく駆り出された。やっぱりドラとは縁があったのだよね。ナイター、懐かしかった」
「あたし。あなたの車の助手席に座り、いつも思うことがあった。毎日、通りすがりにすれ違う方々は、その瞬間こそが最初にして最後なのだナ、って。だから、あたしとあなた。子どもたちの存在は何にも代えがたい、と。もちろん、お店を訪れてくださるお客さま。そして日ごろお世話になっているすべての人が宝物に見えてしまって。ありがたいなっ、て。そう思っていた。だから。あなたも含め、お世話になった方々はぜ~んぶ、あたしにとっては感謝の人。だから、あなた。これからもなんの因果か、運命的に出会った奇跡の人お一人ひとりを大切にしてよね」
「それから。あなた、あたしがこの世を去る前に、よく言っていたじゃないの。この世は【無】 【無】【無】なのだ、と。偉そうに言っていたけれど。ほんとだよね。本当だと思う。でも【無】ではあるけれど。俺とおまえは永遠だから。永遠不滅で、どこまでも、いつまでも一緒なのだから。ナっ、て。あたしうれしかったよ」
「振り返れば、いろいろあったよね。一宮にいたとき、駆け落ち記者妻の罪を償おうと三十年 ぶりに、私のおかあさんと会ったとき、涙がとめどなくあふれ、それこそ三〇分ほど抱き合ったままだった。離れなかった。離れられなかった。家を捨て、あなたに走ったあたしのことを、あなたのご両親は最初から最後まで温かく見守り気遣ってくださった。よくしていただき、心の底から感謝しています。でもね。あたしの、おかあさん。辛かっただろうね」
「ほかにわが子のこととなったら、それこそ数えしれない。小牧では長男にバイオリンを習わ せたこと。ある日、当時開店してまもなかったコンビニ「サークルK」に夢中だった二男が階段を転げ落ちてしまい、救急車で病院に運ばれたときは、ほんとにヒヤリとした。能登では三男が大病と突然の大やけどに二度も襲われ、それこそ振り返れば涙、涙の洪水。連続。でも、おそらく、この世に住むすべての人びとが同じような艱難辛苦に耐え忍んで、生きているのだよね。それはそうと、あたし。あなたや子どもたちの【翼】になれていたかしら。そのつもりでは生きていたのだけれど。何はともあれ、コロナ、早く収束するように。いつも祈っています」
女のひとりごとはなおも川の流れの如く続く。話しても、話しても、まだ足りない。いつ途切れるともしれない。男は過去を振り返りながら相棒の奇跡の声に耳を傾けていた。そういえば、女は行く先々で見る夕焼け空が大好きだった。志摩の海に能登の岬、カイツブリが舞う琵琶湖。はるか、かなたの水平線、そして湖面から見る夕焼けは、表現のしようもないほどの美しさだった。そればかりでない。男とふたりで一緒に草引きをしたあとに、自分たちの畑「エデンの東」から遠くに望み見る地平線。その上に赤い夕陽を包み込んで広がる夕映え。真っ赤に染まったその姿は、とても美しく、女はそのつど「わあ~、きれい。ステキだわ」と言って男の手を自らの手で握りしめてきたことは数えしれない。そして。いつの日だったか。「あの空のなか、どうなっているのだろうね。いっぺん行ってみたいな」と話しかけてきた日がついきのうのようでもある。あの声が今となっては忘れられない。
赤い空といえば、男が高校三年生のとき、青春映画【高校三年生】のロケ地にもなったわが母校から夕方のぞむ空もまた赤く染まって、とても美しかった。♪赤い夕日が校舎をそめて ニレの木陰に弾む声 ああ高校三年生 ぼくら離れ離れになろうとも クラス仲間はいつまでも……。この歌を若いころ、舞に何度歌って聞かせたことか。
こんどは男が何やら独り言を話し始めた。
「ホントに、いろいろあったよな。でも、おまえが俺の傍にずっといてくれたおかげで俺たち家族の今がある。志摩では真珠の海・英虞湾を見下ろす横山の鄙びた温泉をふたりでよく訪れた。忘れもしない。岐阜県庁汚職事件と長良川決壊豪雨。名古屋では愛知医大をめぐるキャッスルホテルを舞台とした三億円強奪事件の犯人である戦災孤児のドングリ少年、コンドウタダオを追って駅周辺のラーメン店をしらみつぶしに探し回ったあげく、とうとう新幹線ガード下の居酒屋での対面にまでこぎつけた。担当デカや検事宅を連日、夜討ち朝駆けして深夜未明の帰宅が続いた。日航ジャンボが御巣鷹山の尾根に墜落したときには連日、取材ヘリやジェット機に乗り空からのルポや航空評論家との同乗取材に追われたが、その間、おまえは出産直前で入院中だった。こんな、おまえ泣かせの話しは、もうきりがない。それでも、おまえはイヤな顔ひとつせず、俺の帰りを毎日、辛抱強く黙って待っていてくれた。ありがたかった。感謝している。
そればかりでない。新聞社を卒業したときは三カ月半に及ぶ地球一周のピースボートに乗船する機会をそれまで自分でためていた貯金をはたいてまでして準備し、与えてくれた。俺は言われたとおりオーシャンドリーム号の船内生活で社交ダンスのレッスンを始め、これがきっかけとなり、ダンスのレッスンは今も続けている。それと。数年前、がんセンターで俺が右肺の摘出手術を受けたときには、寒い朝なのに。毎日、遠いところを名鉄犬山線と名古屋市営地下鉄線で名古屋のがんセンターまで通ってくれ、おかげで無事完治。退院後もおまえは決まって毎朝、俺の弁当をつくってから、ミヌエットに向かった。本当においしかった。
ほかにまだまだ思い出は尽きない。元気なころには、ふたりで早朝に俺たちの自宅から五、六キロ離れた畑〈エデンの東〉を訪れ、茄子やタマネギ、時にはスイカも育てたよな。おまえはチューリップやヒマワリを育てるのが好きで、よく挑戦。立派に育つつど、ふたりで拍手した。柿畑でたわわになった柿を俺が収穫し、ミヌエット店頭に並べ、ただ同然でお客さんに振る舞うおまえの姿は何にも増して神々しく、美しかった。お店ではほかに、皆さんの応援協力で月に一度のミニコンサートも実現させ、そうした努力は、俺が知っている。ミヌエットでは週に一度、野菜の朝市まで開き、みんなに喜ばれた。まだまだきりがない。ありがとう。おまえには礼のしようがない。もうこれ以上話すのは、よそう。でも、感謝している。心の底から」
女が再び話し始めた。
「まだあるわ。【海の詩(うた)】作品公募では七尾青年会議所のスタッフの皆さんはじめ、〈みかんの花咲く丘〉〈かわいい魚屋さん〉など数々の作詞で知られた加藤省吾さん、【能登の夢】の作詞者森繁久彌さん、和倉は加賀屋の小田さん、金波の大井さんらにも和倉花火【三尺玉】などの件で随分とお世話になったわよね。ミス和倉温泉の清美さんにはあなたの出版記念会で司会までして頂き、感謝しているわ。ほかに着物着つけのヤマハラ先生……。今はどうしておいでかしら。あの人にもこの方にも。お世話になりどおしでした。
話は前後しちゃうけれど。わが子を連れ、あなたと一緒にリュックをかついで北アルプスの上高地から明神を経て、涸沢まで行ったよね。ほかにも任地の先々で真珠の海・英虞湾、御座白浜海水浴場、安乗、浜島、波切はもとより、能登半島の輪島、門前の鳴き砂の浜、能登島ガラス美術館、水族館にも行った。今から思えば、事件事故は多かったけれど。それなりに平和な時代だった。おそらく、この世に住むすべての人々が、きょうも、きのうも。あしたも同じような艱難辛苦に耐え忍んで、生きているのだよね。それはそうと、コロナ、早く収束するように。願っています。あなたと私が小説と短歌などで大変お世話になった大垣の雅子さん、そして私の俳句集【ひとりあやとり】の出版記念の祝賀会まで開いてくださった今は亡き貞さん、ほかにあなたをいつも何かと助けて下さった「文芸きなり」の好子さまにも感謝の気持ち。伝えてくださいな」
女のひとりごとはなおも川の流れの如く続く。話しても、話しても、まだ足りない。いつ途切れる、尽きるともしれない。男は過去を振り返りながら相棒の奇跡の声に耳を傾けた。
4
ここで女の歩んだ道にふれておこう。
昭和四十七年(一九七二年)
この年の二月~三月にかけ群馬、長野両県にまたがる連合赤軍リンチ殺人・あさま山荘事件が起きた。新聞社の松本支局のサツ回り記者として駆け出しだった男は、雪山を駆ける松本支局専用のジープで長野支局に長期出張。連日、逮捕され、鬼の形相で長野中央署にしょっぴかれてきた男とは同世代だった連合赤軍の若き男女兵士たちの取材に追われた。
そして、この年の十一月、「あたし。あなたがいい。あなたが好きなの。だから。これから行くから。志摩に」と転任まもない男の元に駆け込んだ。女は、沖縄が日本に返還されたその年に両方の家が猛反対するなか、当時、阿児町鵜方=志摩市=にあった新聞社の志摩通信部にいる男の元に駆け込んだ。森進一の【襟裳岬】が大ヒット。山崎豊子の小説【華麗なる一族】が人気を集めていたころの話である。
いろいろ、いきさつはあったが、とにもかくにも女にとっては破れかぶれと言ってもいい男との人生がここから始まる。女は、勤め始めてまだまもない広告会社を潔く辞めて男の元に走った。当時流行っていたツイッギーのミニスカートが似合う白い八重歯がキラリ光る、まだまだ幼さが残り、両の目がどこまでも澄んでいて長い髪は腰にまで達していた。男には「あのねえ~ あたし」とカラコロと、甘えたような鈴を転がすような声が印象的で頭に残っている。
昭和五十一年(一九七六年)
男と女は志摩から岐阜にやってきた。七月二十七日。東京地検が田中角栄前首相を収賄容疑で逮捕。九月十二日。長良川が安八町で決壊。十月十五日には岐阜県警と岐阜地検が岐阜県の日中友好の翼訪中団が大阪国際空港を飛び立つ直前、平野三郎岐阜県知事に同行するはずだった知事の懐刀で県参事の和田達男を収賄容疑で逮捕。岐阜県警に任意出頭をかけられた和田が大阪国際ホテルから急遽、新幹線岐阜羽島駅に戻ってきたところを大阪国際ホテルから尾行してきた男とカメラマンが、和田を新幹線のプラットホームでキャッチして独占インタビューに至った世紀のスクープが世間をアッと驚かせ、騒然とさせた。これを端緒に以降、岐阜県庁汚職の実態が暴かれたのである。
昭和五十六年~六十年(一九八一年~一九八五年)
男は〝空飛ぶ記者〟として岐阜の栃尾温泉の崩落をはじめ、長崎大水害、中部日本海地震、王滝地震、三宅島噴火、大韓航空機の007便がソ連戦闘機からのミサイル発射で撃墜され乗員乗客二百六十九人が宗谷岬沖の北の海・オホーツクに散った大韓航空機撃墜、日福大のスキーバス転落事故、三重県嬉野豪雨、赤いフェアレディ―Zに乗った女宮崎知子による富山・長野連続女性誘拐殺人、さらには同じ長野県で起きた地附山の大規模地すべりに伴う老人ホーム「松寿荘」と湯谷団地の崩落、日航ジャンボの御巣鷹山墜落など数多くの事件現場に急行。取材に出発するつど女は、ラジオで吸収した事件に関して知る範囲内のメモを手渡し、取材が少しでもしやすいように、と懸命に夫を助け続けた。
そればかりか、取材で夫が不在の間、通信局を訪れる来訪者への応対はむろん、留守を預かりつつ、読者から届けられた「みんなのスポーツ」欄へのスポーツの成績を書き続けるなどした。幼い子らを抱え、それこそすさまじい日々が過ぎていったのである。
昭和六十一年~平成五年(一九八六年~一九九三年)
男は女と能登七尾へ。横綱を引退してまもない輪島大士が出身地のふるさと・七尾総合市立体育館でプロレスのデビュー戦を実現させた。平成三年には七尾に市民が待ち望んだフィッシャーマンズワーフ・能登食祭市場が誕生し、開場式があった。平成五年二月七日夜には能登半島沖地震が発生。男は雪道をマイカーで半島突端の珠洲へ。前線基地を設け、現地キャップとして約一週間にわたって取材の指揮を取ったのである。同年三月二十二日、七尾マリンシティー推進協議会が過去七年に及ぶ地域づくりへの貢献が認められ、港の町づくりで平成四年度の国土庁長官賞に輝いた。七尾在任中は毎年、和倉温泉の三尺玉花火はじめ、七尾のデカ山花火など数々の事業に携わったほか、男の提唱で新聞社と地元七尾青年会議所共催による海の詩(うた)大賞公募事業も実現させ、こうした港の町づくりキャンペーンは、能登食祭市場(フィッシャーマンズワーフ)の誕生となって開花。女は青年会場所のJCメンバーらとともに国内外から寄せられた一万通を超す応募作の下読みや整理に駆り出されることもしばしばだった。
この間、一九八九年一月には男が【泣かんとこ 風記者ごん!】を出版。丸善でベスト10入りが続くベストセラーになり、経済界の要請もあって名古屋で記念講演会をする場面も。七尾市内で開かれた地元七尾青年会議所提唱による男の出版記念会では席上、女は新聞社の北陸本社代表から内助の功賞まで渡されたのである。
平成六年~令和三年(一九九四年~二〇二一年)
男は、その後も地方記者として大垣、大津、尾張一宮を経て本社へ。編集局の特報・サンデー版のデスク長としての記者生活を過ごし、三〇〇文字小説欄を設けるなどした。そして。この間、男の本社への異動を境に女は地方記者の妻としての呪縛から、やっと解き放たれ、俳句・一行詩・短歌づくりにそれまで以上に打ち込んだ。一方で、好きなフォークダンスや社交ダンスのレッスンにも励むなどした。特にフォークダンスとなると、世界中のダンスを仲間の女性たちと楽しく踊りこなし、郡上踊りにも親しんだ。二〇〇一年になり、ふるさとの江南市に本人の夢でもあったボランティアのリサイクルショップ「ミヌエット」を開業。以降は、ボランティア奉仕を兼ねて細々と続け、千羽鶴を手に男とともに広島の平和記念式典に参列するなどした。
二〇二一年秋、二〇周年を迎えると同時に、子宮頸がんで命の扉を自ら閉めるように静かにとじた。享年六十九歳。金婚式を目前にしての旅立ちだった。
☆
というわけで、いろいろあったが、ここで女から男への別れのことばを記し、この物語を終えたい。
【赤い風車のムーラン・ルージュでもないけれど。あなたの私から私のあなたへ。あなた。げんきでいますか。長い間、ありがとう。あなたと歩んできたこの道。楽しかった。うれしかった。志摩のあなたのもとに飛び込んだ日のことは忘れません。森進一さんの〈襟裳岬〉がはやっていたよね。あなたは〈高校三年生〉や〈絶唱〉など舟木一夫さんの歌を何度も何度もあたしの耳元で唄ってくれた。まるでメロドラマの主人公みたいに。【ある愛の詩(うた)】や【ゴッドファーザー】も一緒に、よく聞いた。
次に訪れた岐阜の長良川決壊豪雨のときには、段ボール箱に四、五杯分の私たち家族の衣類のぜ~んぶを何日もかかって乾かして穂積町のトモさん(当時、全国最多選の女性町長だった松野友さん)のところにお役にたてば、と持っていったよね。トモさん、喜んでくれて。あのころは淡墨桜のことで宇野千代さんにも随分良くして頂いて。あたし、ほんとにうれしかった。それから。新聞社の格納庫(航空部)のある小牧にいたころ、あなたが空飛ぶ記者だったころには大事件や大災害が発生するつど、現場に取材ヘリや双発ジェット機で派遣され、あなたを送り出すのに記者の妻としてホントに慌ただしくて大変だった。和倉の三尺玉で知られる能登では末っ子が煮えたぎったヤカンにはしゃいで突進しおおやけどを負い、大垣では可児の花フェスタオープンに併せ、支局長だったあなた自身がアムステルダムの花市場まで飛んで、カーネーションとアルストロメリア各一万本を確保。花フェスタ会場を訪れた全員に一本づつをプレゼントする【オランダ花物語】という大事業までやってのけた。おかげで花フェスタ実行委員会から感謝状まで届き、感激しちゃった。あれもこれも、平野学園の生徒さんがボランティア奉仕してくださり、順ちゃん(平野学園代表)の応援協力があればこそ、だったよね。
そして。初の単身赴任となった大津へは月に一度は必ず行って比叡山延暦寺や三井寺、石山寺、長浜、【三方良し】で知られる近江商人の五個荘町などあちこち一緒に見て回った。後年、あたしがボランティアで始めたリサイクルショップ〈ミヌエット〉では七夕祭などで、あなたは決まってハモニカで【みかんの花咲く丘】や【ふるさと】を演奏してくれ、どんなに嬉しかったことか。ありがとう。
東日本大震災直後にはなんの因果か。あたし、脳腫瘍に冒されてしまい。大手術を体験、手術は奇跡と言ってもよい成功に恵まれ、おかげで〈ミヌエット〉を続けることができました。ほかに、能登と大垣で一緒に過ごした愛猫てまりはじめ、大垣猫のこすも・ここ、初代シロら先代の猫ちゃんたちとも楽しい毎日だったよね。いろいろお世話になった能登の女傑販売店主テルさん(笹谷輝子さん)はじめ、詩人の最匠展子さん、龍生さん(長谷川龍生さん)、あたしが作ったてこね寿司を「うまい」「うまい」と食べて下さった納棺夫日記の新門さん(青木新門さん)。ほかに小牧の勝野さん(元小牧市善意銀行理事長、同社会福祉協議会長)、一宮でお世話になった小太郎さんの大女将も。今では、あなたを助けてくれた大勢の方々が、み~んな亡くなってしまった。長男の嫁の祖父母で、三鬼陽之助さん・たかさんご夫妻にも随分とお世話になり、感謝しています。あなた。みんないなくなっちゃって。寂しいでしょう。でも、子どもたちとあたしの分まで生きるのですよ。生きてください。
社交ダンスの方、健康のためにも、これからも続けてください。若原さん(社交ダンスの先生)は、あたしも以前に教えて頂いた先生で〝若さん〟の教えに従えば心配ないのだから。いいね、しっかりと続けてくださいね。
最後に。もういちど。あたしからあなたへ。あたしをいつも助けてくださった太田治子さま
はじめ、能登七尾の短歌雑誌「澪」の山崎国枝子さん、江南俳句同好会のみなさま、「草樹」の方々、ほかに【恋の犬山】など数々の作曲で知られ今や琴伝流大正琴・弦洲会大師範(倉知弦洲会主)としても大きくなられた牧すすむさま・かよこさまご夫妻、それから一緒になってまもなくわざわざ志摩まで励ましにきてくれたクラスメートのショウジさん、あのときは嬉しかったよ。
ほかにも学生時代からあなたを何かと助けてくださったユズルさん、マサルさん、クリちゃん。小牧で知り合い【ミヌエット】の看板までこしらえてくださった永遠の演劇青年タツヒコさん ……。この街の作家で、あたしをかわいがってくださった〝そのこ先生〟、ずっと歌のお姉さんだった〝としこさん〟、〝八重姉さん〟〝いくよさん〟〝よ~すけさん〟をはじめとしたピースボートの皆みなさま。ほかにも数多くの方々に助けられ、本当にありがとうございました。
それはそうと、みんな。あたしの分まで元気でいてよね。生きて抜いてください。あなた。バローや平和堂、ピアゴにアピタ、お店近くのドラッグストアにもヨチヨチ歩きになってしまったあたしを。よくぞ、文句ひとつ言わないで連れていってくれたよね。うれしかったよ。
思い返せば、能登七尾・和倉温泉の三尺玉花火とニッポンイチ大きい七尾の青柏祭デカ山、祭り半島能登ならでは、の石崎奉灯祭、あばれ祭り、くじり祭り。ほかに、あなたの発想で七尾青年会議所の努力もあって実現した「海の詩(うた)」の国内外への公募事業、全国の詩人が能登に集結し実現した〈のとじまパフォーマンス〉、みんな楽しかったわ。それから。内緒、内緒の話だけれど。あなた。浮気も随分あったわよね。あたし、ぜ~んぶ、知っていたのだから。でも、許すわ。
今度は女性たち一人ひとりの努力を。女の旅路として書いてみたら。それでは、ね。
―終わりに―
NHKラジオの音楽の泉と山カフェ、深夜便にブラタモリ。いつも一緒に聴いたよね。名古屋の顔と言ってもいいお天気兄さん。ほかに内藤アナなど。みなさま。元気でおいでかしら。あたしはフランク永井さんの【公園の手品師】と一緒に、あなたの心の中で、これからもいつだって生きています。だから。これまであなたが歌うつど、あたしが嫌いよ、と言っていた【星影のワルツ】。それから【能登の海鳥】【おまえに】【黒い花びら】。もう歌っていいからね。それから、どんなときにでもおかあさん思いで、いつもあたしのことを大切にしてくれたシロちゃん。ニィーニたち。そして恭子さまにも。心からよろしく。ね。これからも。元気で楽しくいこうよ。
みなさま。ありがとうございました。あたしを抱きしめて。
グッバイ。さようなら
曼殊沙華人恋うごとに 朱深し
れもんかみつつ思う事平和
赤とんぼすいと曲がりて曲がりけり
月の夜は菜の花の海で魚になる
もぎたてのさくらんぼ口に放りこむ瞬新しい命もらえり
=伊神 舞子
花一輪残りて咲ける朝顔に露しきりなり君の逝きたり
打寄せて七尾の日程ひろげたりかたえの闇にももうひとり置く
=山崎国枝子(短歌雑誌「澪」代表)
(完)
*女は昭和二十七年二月二十九日に、この世に生を受けた。十代後半に信州は松本で男を知り、はたちのころ、新聞記者だった男を追って転任地の三重県志摩半島の鵜方に。一度流産したあと、四十九年二月、長男に恵まれ以降、岐阜、名古屋、小牧、七尾、大垣、大津、一宮…と各地を転々。夫が新聞社の編集局サンデー版と特報面のデスク長として名古屋本社に落ち着き、地方記者夫人の呪縛からやっと解放されたころ、ふるさとの江南市で社会奉仕への願いを込めボランティア同然のリサイクルショップ【ミヌエット】を開業した。
あたし帰った かえったわよ
舞がお盆にやってきた。そして。八月十六日朝、舞の魂は能登半島沿いに大空へと飛び立っていった。
☆
二〇二三年八月八日。立秋。青い空に白い雲が浮かぶ。その雲から一羽の鳥がチュチュチュ、チュと声を上げ、大空高く翼を広げて飛び立った。この鳥は、一体全体どこに行くのだろうか。近年にないのろのろ台風六号が再び沖縄から九州に向け、近づいている。そんな日の濃尾平野上空でのひとコマである。
たつ江、たつ江。舞、マイ。……
きょうも私は一日に何度、この言葉を空に向かって矢の如く放ったことだろう。これでは狂人も同然である。
グリーンの愛車・パッソのハンドルを手に、半ば放心状態となって、ただ繰り返し、呼びかける。
「あのねえ~、何を言っているのよ。あたしがいるこちらの世界には、もう言葉なんて存在しないのだから。あなたに呼びかけられたって。残念ながら、分からないと思う」
そんな返事もよそに私はハンドルを手に、空高く浮かぶ雲たちに向かって何度も何度も恥も外聞もなくさらけ出し、わが妻の名前を呼びかける。さっそうと自転車に乗ったすれ違いざまの女を目の前に、そう言えば、たつ江の自転車に乗る姿はいつも雄々しく、どこかセクシーでゆったりとしていたな、と今さらながらに思い起こすのである。
あれから二年がたとうとしている。
私は、わがいとしの妻たつ江(伊神舞子)との物語をたとえわずかでも、真剣に読んで頂けるそんな読者一人ひとりに向かって、これからこの物語を書き進めたく思う。何千、何万の読者もいいが、私の場合は、たったひとり真剣に読んで頂け、しかも共感してくださる、そんな読者にめぐり合えれば、それだけで嬉しく、たつ江の霊(静汐院美舞立詠大師)も浮かばれ、幸せなのである。おそらく、私がこの世で無限大に愛し続けた彼女だって同じに違いない。そして。その分だけ、この地上の人々がにこやかに楽しく、かつ幸せな人生を過ごすことができたのなら。私たちにとっても、それ以上に嬉しく望むことはない。
序章
二〇二三年七月十七日。海の日。
「あのね。あたし、あたい。たった今。あの世から帰ってきたのよ。かえったわよ」
「ほんと。ほんとなの。おかえり。でも、おまえのあの懐かしい声は、確かにどこからか。聞こえてはくるのだけれど……、おまえの姿が見えないよ。一体全体、どこにいるのだ。まさか透明人間になってしまったのではないよな」
「何を言っているのよ。あなた。あなたのすぐ隣、目の前でこうして座っているじゃない。なのに、あたいの姿が見えないの。なぜ、なぜ見えないのよ。ほらっ。内輪を手にあたいがいつも着ていたピンクの浴衣、着て座っているじゃないの。それなのに、分からないだなんて。おかしいよ。あたし、あなたとシロちゃん(愛猫)に会いたくて。はるばるやってきたのよ。でも、すぐに帰らなきゃ。時間が決められているのよ」
「いつから、そんなシンデレラ姫みたいになってしまったのだよ。何を言っているのだ。やっと帰ってきてくれたというのに。ここにそのままいたらいい。いつまでも。どこにも行かないでいてほしい。たとえ、オンボロロではあっても。おまえが苦労し、いろいろ考えてつくった俺たちの家じゃないか。きょうは、おまえも覚えているように俺のおふくろが、百歳近くになってなお、自分でこしらえ、自ら車を運転して持ってきてくれた超特大のスイカもある。せっかくだから。たとえ少しでも食べていきなよ。その方が俺と一緒におまえの帰宅を待ち続けていたシロちゃん、オーロラレインボーも喜ぶはずだ。俺だってうれしいよ」
「うん。ありがとう。あなたの言葉、うれしいわ。おかあさんが作ってくれたスイカももちろんだけれど。こうしてあなたとあなたの傍らのシロちゃんの顔を見ることができて、声まで聞けて。それだけで大満足だよ。また来る。きっとくるからね」
わたくし。私には、おまえの気配と声は十分にわかるのだが。一体全体、どこにいるのか、が分からない。ここで、私たちは食卓に切ったままにしておいた、それは見事なスイカを、ひと切れひと切れ食べ始めたのである。
その夜。まさか、わが妻たつ江(伊神舞子)が俺のところに帰って来てくれただなんて。一体全体誰が信じるだろうか。でも、本当なのだ。おまえがこの世を旅立ってから帰宅する日を毎日、首を長くして待ち望んでいただけに、とてもうれしい。
ホントに、おまえが目の前に現れ出るとは。夢にも思わなかった。でも、もはや命を落とし死んでしまったはずの舞がその日は、本当に翼を広げ、チュッチュッ、チュッチュッチュと。かわいい小鳥になって、わが家に飛んで帰宅してくれていた。このことは、事実なのである。 その日、普通では、とても信じられないことだが夢のなかの私と妻の舞、シロちゃんは思ってもいなかった再会を果たしたのである。
でも。そうは言っても、だ。生前、あれほどまでに平和を願っていた舞も昨年二月二十四日のロシアのウクライナへの一方的な侵攻をはじめ、安倍晋三元首相の銃撃死も、朝ドラ「らんまん」の放映、新しいスーパーふたつのこの町への出店も。町が変わり、世の中が一変してしまった事実を何ひとつとして知らない。ただ生前、愛していたシロちゃんのことだけは、知っていた。
「シロ、シロ。シロちゃん。元気でいた? 相変わらず、お美人さんだね。肥満になってないわよね。よかった」と何度も何度も話しかけ、シロがそのつど、あげる「ニャア~ン。ニャア~ン」の甘えた声に満足そうに天下一品の声で「ハイハイ、ハイハイ。元気でいたのだね。おかあさん心配していたのだから。よかった。よかったよ」と頭をさすったりするのであった。
1
七月十三日。海の日。外は雨。雨である。
雨が大気という大気に張りつくようにシンシンと降り注いでいる。私、わたくしの心は雨色に染まっている。私はそんな雨のひと粒ひと粒に何かを訴えようとするのだが。雨は軒先をたたく音の大きさのわりには、何ひとつ応えようとはしてくれない。それでも透明で澄んだ雨粒ひとつひとつのなかに、おまえ、たつ江(伊神舞子)の世界があり、おまえは生きている。舞はこの世に存在しているのだ、と。私はそう確信している。雨粒、いや雨音と時折、大気を蹴って吹き抜ける、さやかな風の流れのなかにもおまえの命は潜んでおり背後には地球、いやいや、もっともっともっと大きな限りなき宇宙のような存在がひしめいている。私は、姿を決して見せないおまえとこの世の素顔をそのように思うのである。
雨が止むと、今度はかぜたちが真正面から吹き込んで流れ、私の全身に突進してきた。かつてはいつも一緒だった私とおまえ。ふたりは、この世の中の一体全体どこにいたのだろう。もしかしたら風のなかにいたのかも知れない。ボブディランの歌のように。【風にふかれて】。私は、おまえをどこまでも抱きかかえ、待ち続ける。そうだ。生前のおまえが、いつも待ち望んでいた平和な世の中を、である。この地上でどんなに見苦しい戦争が存在しようとも、だ。私、すなわち俺も、おまえも、だ。いつも平和な社会を希求してきた。
でも、そうは言っても、だ。現実は違う。たつ江、すなわち舞は「あたし帰ったわよ」と言うが、幻覚に過ぎない。今、おまえが一体全体、この広い空のどこをどのようにして魂となって泳いでいるのか、が私には分からない。この世のどこらあたりにいるのか、を知らない。この世からすでに消えた地上の死者、おまえがどこにいるかは、皆目見当がつかないのである。
けれど。元気で。笑顔でいてくれさえすれば、それで良い。ところで、おまえも十分知っているように、だ。この現世でニンゲンたちが生きていくということ。そのこと自体が、大人から子どもまで、とても大変なことである。そのことはすべてのニンゲンに言えることであって、それこそひとつひとつの生が、奇跡そのものなのだ。生前、俺がおまえに何度も言ったように。ニンゲンの存在そのものが、だ。無。無。無の連続である気がしてならない。このことはおまえが生きていたころ、共に自宅からリサイクルショップ「ミヌエット」まで。約三〇〇~四〇〇メートルはあろうか、おまえの店に続く。そう、その桃源ロード(私たちは、この道をふたりでいつも勝手に【幸せなマイロード】と呼んでいたのだが)を歩きながらいつも言っていた。生きていくってことは。だれだって。本当に大変だよな、と。俺たちは奇跡の海のなかを生きているようなものだナ、とも。当たり前のことではあるが、人間たちは誰だって、いつも奇跡のなかを泳いでいるのだ、と。
それでも、この星に住む地上では、そうした大変さを十分に知り尽くしているはずの女や男たちが、きょうも明日もあさっても、だ。それぞれの夢や希望、思いを胸に、どこに行くともしれず、それぞれに定められた地球、いや宇宙の片隅を歩いている。さまよっている。大半があてのない旅を、だ。最近ではインターネット社会がますます深化し、ネット三昧で余生を過ごす人びとが限りなく増えつつある、とも聞く。そんなわけで今では高齢とはいえ、ネット社会の存在が心の支えになっている人びとも結構多いみたいである。
私、すなわち〈わたくし〉。かつてのおまえ、たつ江の夫であった相棒の私はこのところ少しだけ肥満気味とはいえ相も変わらず、腰をヨッサヨッサとゆすって堂々と歩いて見せる、あの百獣の王にも似た〝ライオン歩き〟が見事と言っていいほど十分に似合う白い貴婦人ぶりを発揮している愛猫シロ、すなわちオーロラレインボーを傍らにきょうも見えない空気、大気に向かって、こう問いかける。
「たつ江。舞よ、マイ。おまえの姿は今では俺の目にはまったく見えない。でも、元気でいるか。楽しい日々を過ごしているか。おまえの自慢でもあったシロちゃん。彼女は元気でいるからナ。心配しないで」と。
そして。その瞬間。見えない風がそれこそ、何かに吹かれて、だ。大気のなかをそよぎ、いたずらでも楽しむように、頬をふんわりフワリとなでて通り過ぎ去っていく。私の上半身に触れて何かを楽しんでいるようにも感じられる。そこで。私は。風のなかのおまえ、舞に向かってこうも付け加えた。
「オレたちのことならなんでも知っているシロ。こよなく美しい白い貴婦人、オーロラレインボーちゃんなら、元気でいるから。心配ない。安心してよいからな。彼女、きょうも雷がきたときは、しばらくどこかに姿をくらましてしまったけれど。やんだら、いつのまにか室内に出てきていた」と。彼女は、舞とベッドを共にしていたころから、雷が大嫌いで一体全体どこに隠れていたのやら。おまえが生きていたころと同じで、それが分からない。とはいえ、雷が去れば、シロちゃんはどこからか、また、八頭身の見事な姿を現すのである。おまえがいたころと同じだ。
それはそうと、毎日毎日、何度も何度も俺と舞が一緒に歩いた桃源通りに福寿交差点。あのころ、舞のからだは蝕まれ、すでに相当弱っていて一歩一歩あるくこと、そのこと自体が大変だったのだが舞は、それでも毎朝自転車を杖代わりに引いて私に見守られながら、自身の足を一歩一歩前に踏み出し、ミヌエットまでの道のりを懸命に歩いたのである。私たちふたりはこの町でも、誰が名付けたのか。とびっきりいい名前の桃源通りを歩きながら、この世には本当に夥しく多くの人たちが皆、生真面目な顔をして生きている。いや、生きていくのだなあ、と。妙につくづく感心したりもしたものである。
そして。この、ちいさな町中にあっても日々、すれ違う人びとの大半がこの世でその瞬間、瞬間に初めてすれ違う、そんな未知の人たちばかりだ。一体全体、これらの人びとはこれから先、この地球上のどこに吸い込まれていってしまうのだろう。などと、そんな妙なことに頭を泳がせながら「この世の中って。とても変で神秘的だよね。おかしいよな」と互いに話し合いながら、時折、笑顔で道を歩く人びとに視線を注いで会釈し、この人もあの人も奇跡のめぐり逢いだな、と。そう自らに言い聞かせながら、歩いたりもしたのである。
そのこととは別に、このところ、俺が毎日風呂上がりの夕涼みでベランダに立つと、シロもどこから現れるのか。決まって私の傍に駆け込んできて、ベランダのもう一方の側に立つ。吹くかぜが、とてもからだにしなやかで、われながら気持ちがいい。おそらくシロもそのかぜがからだに合うと見える。そして。これらのかぜたちは十かぞえる間に決まって一度は私とシロの頬をなで、いたわるように、さあ~っと傍らを吹き抜けてゆくのである。なぜか、その瞬間に合わせでもするように、決まって一羽の鳥が目の前に急に現れ、まるで「見てよ。見ていてよね」といったふうに空高く弧を描いて舞い上がり、チュッ、チュッ、チュ、チュといった声を大空高くあげ、やがて視界から消え去っていく。その姿がなんとも優美かつ爽快で俺とシロは思わず大空を見あげたまま、「あぁ。すごい。すごいな」と、またしてもその鳥の行き先に視線を泳がせるのである。
風呂から出てベランダに立ち、夕涼みに立つ私。そして一緒にいつだって、さも当然のようにベランダ片隅に座って夕方の気持ちの良い風に当たる愛猫シロ。彼女、シロことオーロラレインボーもその一羽の鳥に気付いているようだ。あの鳥はおかあさんだ。おかあさんに決まっている。おかあさんに違いない。おかあさんがやって来た。おかあさんだ、と。私の方を振り返り、視線でそう訴えかけてもくる。
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自宅の電話が鳴る。そうかと思えば、今度は俺のスマホがピコピコピコ、ピコピコと音を立てる。俺はそのつど、愛猫シロと一緒に両耳をそばだて、「あっ。もしかしたら。たつ江、舞、おかあさんからではないか」と思う。そして。受話器を耳に当てれば、いつだって、あの落ち着いた調子の「あのねえ」といった艶のある声が天空を破って耳元まで聴こえてくる。「あのねえ、あの」と切り出すのがたつ江の常だったのだが。このところ鳴る電話の相手は、そのすべてが彼女とは別のものである。
たつ江がこの世を去って、早や二年になろうとしている。
私とシロは毎日、風呂上がりの夕方、そろって二階ベランダに一緒に立ち、風になったたつ江に会うことにしている。そんな彼女は、日によってさわやかだったり、ともすれば空高くポッカリ浮かぶ三日月の影星になったり、時には空からその部分だけが今にも落ちてきそうな、どす黒い雲であったりしたが、それでもいつの時にも鳥になってチュチュ、チュの声をあげて私とシロをいたわるように近づき、見守り続けてくれるのである。そして。こうしてベランダでシロと立ち、この初夏の季節にしてはとても心地よい夜の風が流れ、ほほをなでるなか、見えない空気、大気に向かって、こう問いかけるのである。
「たつ江。舞。マイ。元気でいるか」と。
私は、あえてそう声をかけてみる。声をかけながら「もはや、俺は生きていたところで仕方ないな」と思ったりする。すると、空気が膨らみ、どこからか、またあのチュチュチュ、チュチュといった甘い声が聞こえてくる。おまえは鳥になってしまったのか。
と、一羽の鳥が目の前を水平飛行したかと思うと大きな円を描き、どこかに飛び立った。チュ、チュ、チュ、チュ、チュと小鳥はさもうれしそう、かつ得意げでもある。
いつのまにか、場面は一変。こんどはひとりの女性が日傘なのか。中央部分にピンクの大きなハートがあしらわれた傘をさし、わが家の前を、とぼとぼ、ヨロヨロと玄関先に懐かしそうな視線を泳がせながら、一歩一歩、足を踏みしめるようにして通り過ぎていった。それにしても、この女性は一体全体、何者なのだろう。確かに後ろ姿は、どこかで見た記憶はある。もしかしたら、たつ江、舞かもしれない。いやいや、そうであるに違いない。
私には、なぜかその女性がつい先日まで私と共に暮らしていた舞の〝人仏〟すなわち亡くなりはしたが、まだまだずっと、ずっと傍で生きていてくれる妖怪のふ・ん・が・も。〝ふんがもさん〟みたいな気がしてならない。そういえば、昨年もことしも春先になると浴室ガラス窓に、あのヤモリが吸い付くようにベッタリと這いつくばっており、しばらくすると白い跡だけを浴室ガラス窓にくっきり残し、いつのまにか、どこかに消え去った、あのヤモリかもしれない。その私の愛しい彼女がこんどはヤモリから〝ふんがも〟となって住み慣れたわが家を懐かしんで家の前をトボトボと歩いていったのだろうか。
それはそうと、一昨年十月に【秋一日絨毯と飛べ我が部屋ごと】【赤とんぼすいと曲がりて曲がりけり】などの俳句をはじめ、多くの短歌に一行詩、詩を遺してこの世を去って逝った、妻のたつ江(舞)。彼女は今、一体全体この宇宙のどこでどうして生きているのだろうか。私はそう思うだけで胸が熱く、涙が出てくる。長年連れ添って共に生きてきた亡き妻を自分で言うのもおかしいのだが。純情可憐、全身無垢な女とは、彼女のことをいうに違いない。
「ところで一体全体、おまえ。おまえは、どこに行っていたのだ。これまで何度も見た夢のなかでも随分と日本中をあちらこちら歩き回り、捜しまわったのだが。おまえは一向に姿を見せてはくれなかった」
「あのねえ。それはひ・み・つ。秘密なの」「それより、あんた(彼女は晩年になり、なぜか夫の私に〝あんた〟と意識して呼ぶことがあった)。元気でいた? あたし。いや、あたい。あんたのことが、とても心配で。心配でたまらなかったのだから。ほんとよ」「ということは、やはり、あたいはあんたを好きだった、ということなのかな」
「うん。俺はなんとか。こうして生きてはいるよ。だけど、おまえがいない世の中だなんて。どんなにおいしいものがいっぱいあったとしても、だ。面白くもなんともない。第一、せっかくのおいしいものを、おまえに食べてもらえんじゃないか。やっぱり、おまえ。おまえがいてくれてこそ、この世は面白い。生きがいがある。だから、これからもいつだって俺のそばにいてほしい。ひと言もしゃべらない。それこそ、路傍の石のような存在だったとしても、だ。傍にいてくれさえしたら、それだけでうれしい。おまえがこの世にいないのでは。第一、生きている気がしないよ」
「さあどうかしら。ほんとかね。路傍の石だなんて。あたいを石にしちまうの。そんなこと、とても無理だよ。あたいを喜ばせるため、そう言っているだけじゃないの。昔から女性をくどく。口説き文句は天下一品。だれよりも上手だったのだから。あたし。み~んな。知っているのだから。あんたのことは。そのことはシロ、そうオーロラレインボーちゃんだって、あたいに教えられて知っているよ。だって。あたいとシロちゃんは、女同士だもの。あたいたち、運命共同体的な存在だと言ってもいいんだから。
いずれにせよ、あたし。あたいは、もうあんたが住む世の中、あんたたちの世の中にはいないのだから。あなたって。相変わらず、口がうまいのだから。これまで一体何人の女性を騙してきたの。泣かせてきたのよ。あたい。わたしはねえ。あんたの女たち。ぜ~んぶ、知っている。知っているよ。イチ、ニィ、サン、シー……。確かに、みんな素敵な方ばかりだったわよね。あんた。それはそうと。デ、どう。あたいのいない世界。そろそろなれたかしら。面白い? 楽しい? あたいのこと、心配してくれてる? 今でも」「新聞記者は、殺しやサンズイ(汚職)など。どんな薄情きわまる事件はむろん災害、事故現場にも遭遇するか知れたものでない。だから、だれよりもホットな半面、だれよりも非情でなければ務まらない、だなんて。名文句をそのたびに聞かされたわよね。そう言って、それこそ多くの女性を泣かせてきたことだって知っているのだから。あなたって。ほんとに悪い人よね」
彼女はそう言って、私を覗き込んできた。
「何を言っているのだよ。面白いはずなんか。あるはずないじゃないか。何度も言うが、おまえのいない世の中だなんて。面白くもなんともない。おまえが俺と一緒にいる。だからこそ、楽しくてスリルがあって面白かったのだよ」
「ところで何かいい話はないの。楽しい話があったら洗いざらい教えてよ。ステキな女性ができたとか。あたい、ホントに気になるのだから。あなたのこと。教えてよ。ネ!」
ここで彼女はあらためて首をかしげる。
そして。疑問符でも投げかけるように、いつもの調子で俺に向かって、もう一度こう言った。 「ねえ。教えてよ」と。
(ここからは女と男の独り話になる)
──ところで。あたい。今になってあらためて、この世で生きている、すべての人に敬意を表したい。善とか悪とかは別に。どの人もこの人も、にです。みなさん。み~んな。だれもが、です。それこそ、花も嵐も乗り越えて。よくぞ、毎日を、けなげにも生きておいでだな、と。極端なこと言えば、どの赤ちゃんだって、よ。毎日を一生懸命に生きているのだから。そう思うの。
そういうあたいは最近、大好きだった人間社会から足を抜け、はや二年になろうとしています。こちらの世界では涙とか、悲しみだとか。そういうものを知らない、あたいの晩年にあなたが言っていたとおり、それこそ今は無の世界で無の存在、大気の一部となって風たちと一緒に戯れながら生きている。世は無情で、いや、もしかしたら〈かぜ〉そのものになってしまったかもしれない。
そして。生きていたころ、それは晩年でしたが一階ベッドからあなたのいる二階寝室にまで上がることができなくて。よく言ったわよね。「あたし、体力がなくて。階段を上がれないのよーって」。そしたらあなたったら、そのたびにこう言ったわ。『ホントに。おかしいな』だって。わたしは階段の手すりに全身を支えながら上に行こう、行こうとして一歩一歩上にあるいていきながら、そう言ったのに。あなたって。本当に冷たい人だったわ……」
「そうか。そうだったのか。今さら謝ったところで仕方ないのだが。ホントだった、だなんて。俺は迂闊な男だった。そして。俺はおまえが逝ってしまってから、おまえに会いたくて仕方ないことにあらためて気がついた。でも、ほんとに良く来てくれた、心底うれしい。今では、おまえが死んでしまってから、なぜ、顔はおろか、声さえ聴くことができなくなってしまうのか。それが、悲しくて悔しくて。残念で仕方ない。やるせないのだ。あの甘い口のなかでいつも鈴を転がして鳴らすような、そんなおまえ独特の金色に光る生の声を聴いてみたい。のに、だ。
ところで、鈴虫といえば、だ。志摩半島阿児のお寺さんに毎年夏になると、鈴虫リンリン会に一緒に行ったよな。どの鈴虫の声が一番良いかを競うコンテストで、思えばとても楽しい会だった。しかし、今の俺は、おまえのあの甘えたような声ひとつ、聴くことができない。なぜ。なぜなのだと大声で叫んでみたところで、おまえの声はもはや、この地上からは消えてしまった。AI(人工知能)で復元できないものか。真剣に思う」
──私は、ハンドルを手に亡き妻の顔を何度も何度も思い浮かべ、運転席の窓を開け、大気に向かって、見苦しいほどに「たつ江。舞。マイよ、マイ、元気でいるか」と叫んでみる。そして、生きている。生きていくってことは、おまえの言うとおり、どの人にとっても大変なことだな、とつくづく思うのである。そして。わたくし、私は舞が発しそうなあらゆることばを駆使してこの物語をもう少し進めていこう、と。そのように思う。
話は振り出しに戻る。たつ江が天界から地上に舞い戻ってきたところに戻ろう。
「あのねえ。あたし帰ってきたよ。どこからだって。家の外、外よ。天からなの。あなたが昔、取材でよく乗ったヘリコプターとか飛行機とか。何もなくたって、だよ。いったん死んで旅立った人には全員に、見えない黄金の翼が与えられるの。だから。その翼で大気を漕いで、ここまできたのよ。松本は上高地の北アルプス上空から熊野灘を見下ろす志摩半島、多くの事件、事故、災害現場を思い出させる小牧国際空港(名古屋空港)にあった新聞社の格納庫、それから志摩半島上空から能登半島、琵琶湖を見下ろす大空まで。み~んな、飛んできたわ。あなたも、あたいにとっても、懐かしいところばっかり。最後は、木曽の流れを眼下に見下ろす尾張平野。どこもかしこも忘れられないところばかりよ。もちろん、シロちゃんにも。会いたくて。こうして翼を広げて、最後はお空の空気を両手でかいて、ここまで来たのだから」
「それはそうと。おまえは今、この晴れた空の下の一体全体どこにいるのか。青い空に浮かんで漂う雲のなかにいるのか。海、といえば。御座白浜海岸それとも門前の鳴き砂の浜にいるのか。志摩であれ、能登であれ、一緒によく足を運んだ半島の灯台近くにいるのか。志摩半島の安乗、波切、大王崎……、それとも能登の禄剛崎、舳倉島、能登島か。……あぁ、射光がまばゆい。でも、おまえ、たつ江が今この世界にいることだけは間違いない。俺はいつだって、そう信じている。
【また君に恋している】。おまえは坂本冬美のこの曲が大好きだった。なぜかしら、俺が好きだった石川さゆりの【天城越え】はあまり好まなかった。そうして。暇さえあれば、なぜか。パンダをみたい。パンダに会いたいので和歌山に連れてってよ。それがダメなら、福島のフラガールがいい、と言っていたよな。俺は『わかった。そのうちに必ず行くからな』と答え、その気でいた。
六、七年ほど前だったか。その気になって一緒にJR名古屋駅まで出たまではよかったが。豪雨で名古屋から和歌山行きの列車が運休になってしまい、俺たちは急遽、次におまえが行きたがっていた映画【フラガール】の里で知られる福島県いわき市に行き先を変更し、出向いたことがある。ひと晩を温泉宿で過ごした俺たちは、その町の野口雨情記念館に寄ったあと、スパ・リゾートに向かった。
あのときの、おまえの喜びようときたら、まぶしいほどで、今も瞼に焼き付いて離れない。行って本当によかった。俺たちはついでに俺がすでにたびたび訪れていた東日本大震災で瓦礫の町と化した塩屋埼灯台直下の浜をただふたり、どこまでも黙々と歩いたのである。あの日。大震災と福島第一原発事故による放射能を経験したとみられる一匹の犬が俺たちの歩く砂浜をどこまでも、時折、尾を振りながら、トボトボとぼとぼと追っかけてきた。そして何かを訴えたい、といったそんなまなざしで俺たちのからだに交互に顔とからだを摺り寄せてきた。
俺もおまえも、どうしてよいものか、が分からない。それでも、その犬は俺とおまえの行く方向にピタリと離れないままついてきた。俺たちは立ち止まり、まだまだ若いその犬の顔を何度も何度もさすってやったが、犬はされるがまま何かを思い出すように海を眺め、顔を空に向け、キャンキャン、キャンと悲しそうな声をあげたのである。俺とおまえの目頭をほぼ同時に涙が伝う。私たちはあのとき、わけも分からないままその犬に向かって思わず『強くなろうよな。負けるなよ』とつぶやいたのである。数羽のカモメがパサパサパサッと羽音をたて、大空に飛び立ったのはまさにそのときだった」
あの、けだるくカモメのことを生涯、歌い続けたおまえが大好きだった浅川マキだったら、この風景をどう歌っただろう。♪かもめ かもめ 笑っておくれ あばよ、と歌ったかもしれない。
3
たつ江と俺の物語は、ここで晩年の一時期に大きくプレイバックする。
彼女は、なおも話しかけてくる
「あのねえ。一日にすることは、ひ・と・つ。ひとつなの。ひとつよ。いい、分かった。分かったわよね」
あの懐かしく、かつ厳しく甘い声が暑さとともにジンジンジンジンと耳の奥底から響き、聴こえてくる。
「あれもこれもなんてダ~メ。だめよ。だめだってば。もう齢なのだから。これからは、無理しないで、することはひとつだけにするの。いつまでも現役の記者なんかじゃないのよ。それから。社交ダンス。これだけは続けてよネ。せっかくピースボートに乗ったとき、船内のダンス教室で少しは覚えてきたのだから。いいわよね。約束よ。一日ひとつよ」
そういえば、だ。彼女は、俺が七十歳を超えてから、あれやこれやと面と向かって強く命令口調でもの言うようになった。
俺はその言葉を大切に、きょうも俺なりに「一日ひとつ」を合言葉に人生の新しいページを開こうとしている。たつ江の教えに従い、一日にやることはできるだけ、ひとつだけにしようと思っている。一日にあれこれやってみたところで、今さら、どうにもなるまい。俺はそのことが十分に分かっていながらなおも前に、前に、と歩いて行こうとしている。それは、この先、たつ江とともにふたりの永遠なる文学の道をそろって歩いていきたい。ただ、それだけの願いからである。
話は変わる。前にも触れたが、おまえはロシアのウクライナへの侵攻という事実を何ひとつ知らない。侵攻が、黄泉の国に旅立った翌年二月二十四日に起きたからだ。けれど、おまえはコロナ禍で人間たちが次々と命を落としていった新型コロナウイルスに人間社会が襲われ、翻弄された現実は知っている。だから、テレワークも、ワクチン接種も、テイクアウト、俺たちのオンライン会議……もだ。これらの言葉の大体は知っている。その証拠に自ら営むリサイクルショップ【ミヌエット】では、店頭に早くから消毒剤を置き、マスクを常時、顔につけ、お客さんを前に日々がんばっていた。コロナの時代、いや始まってから三年ほどは、おまえは、まだこの世の中で逞しく生きていたのである。
そして。俺とおまえは一緒に、この町の総合体育館で二度目のワクチン接種を受けたが、おまえの体調がこの接種後、急に悪化したことも忘れられない、そして消すことのできない事実だ。あのとき接種に当たった女医は腕に注射後、舞の腕から出血したことに対して「失敗してしまいました」と素直に謝りはしたが、あの言葉は今も私の脳裏から離れない。女医は「アッ。でも、すぐに良くなります。大丈夫。心配ないですから」とは言ったものの、その言葉とは反対に舞の大腿部の浮腫は、その後肥大化する一方で、とうとう歩けなくなり、緩和病棟に再入院したのも事実である。この注射ミスについてはその後、病院側に子宮がん悪化との因果関係を聞きはしたものの「関係ないと思います」との返事だったが、より追及する必要はあるのでは、と思っている。今さらという考えもあるだろうが、もし因果関係があれば一患者だけの問題ではすまないからである。
こうして。コロナ禍の現状を自らも体感したおまえ、たつ江は、その一方で最近、この世の中に急浮上してきた生成AI(人工知能)のこととなると、知らないまま旅立ってしまった。それと、おまえは向日葵がなぜか、あのハラリと花弁を地上に潔く落とす椿の花と同じように大好きだった。現におまえはおまえの背丈を超すほどの向日葵を俺たちふたりの畑・エデンの園で見事に、信じられないほど大きな大輪の花を咲かせるまでに育て上げた。エデンの園では、ふたりでそろって雑草を刈り、ほかに玉ねぎや茄子、ねぎなどを育て、時にはチューリップの球根を植え見事に開花させたり、スイカもまだまだ小玉ではあったが、立派に育て上げたりした。
柿の木だって、だ。山ほどなった柿をふたりで収穫し、【ミヌエット】の店頭で一個十円でお客さんに大安売りしたりしたよな。柿の山はいつだって、アッというまに、なくなった。どこにどう手配したのか。週に一度の野菜市も店頭で開き、多くのお客さんに喜んでいただいた。
あのとき、俺は心底から思った。リサイクルの衣類はむろんのこと、おまえのやることひとつひとつにかける努力と情熱は、たいしたものだな、と。
今にして振り返れば、月に一回の店内でのミニ音楽会もよくぞ続けた、とあらためて感心している。そして広島原爆の日には、お客さんの応援と協力をえてみんなで折った千羽鶴を手に広島平和記念公園に出向き、白血病で十二歳の若さで命を絶った佐々木禎子さんの像「原爆の子の像」に一緒に手を合わせてきたりもした。
いろいろあったが、俺は、これらのどれもこれもがおまえが生きていたからこそ、の証しだと思っている。わが妻ながら、本当によくやったな、と。つくづく頭が下がりもするのである。
今。黄泉の国から途中下車でもするように降り立ってしまったおまえのことばが聞こえてくる。
「死んだら、終わり。でも、そうじゃない。だれだって。そうじゃないのよ。そこから、また新たな人生、虹みたいな新しい世界、旅立ちが始まるのだから。新たな扉が開くのよ。
だから、あなた。子どもたちも。シロちゃんも。みんな。みんな、よ。夢をあきらめちゃ、ダメ。たとえこの世を去ったとしても、もしかしたら、その夢が現実となって扉を開くことだって。あるかもしれない。だから。だから。何ごとも。あきらめちゃあ。ダメ、だめなの。あたし、いつだって、そう思って生きてきた。ほんとよ。ほんとなのだから。あたい。今だって、夢を持ち続けているのだから。ねえ、シロちゃん」
おまえの、あの声がズンズン、ドンドコと、どこか遠い国から聴こえてくる。
4
ことしの風薫る五月のことだった。
リンとした懐かしいあのたつ江、舞の声が、突然、耳に迫ってきた。
妻のたつ江が、この世を去ってどれほどの月日がたつだろうか。いや、たったのか。五月の風という〈かぜ〉はそれこそ、最初のうちは石礫の大波となって俺の肌を突き刺し、たたくが、やがて心地よい集団となって流れ、どこか潔い。その分、これらは気持ちよくもある。あのとき、たつ江の魂は、今はこの地上のどこを彷徨っているのか、とつくづく思った。
そして。俺の頭にふと、たつ江と生前、よく聞いた歌、岸洋子さんの【希望】の歌が目の前に大きく繰り返し、浮かび蘇ってきた。「希望という名のあなたを尋ねて」「私の旅は終わりのない旅」「遠い国へとまた汽車に乗る」……何度も何度も口ずさんでいたのである。
舞よ、マイ。俺にまた新しい汽車に乗れ、というのか。いやいや。乗らねばならないのか。かつて現役記者のころ、長期に及ぶ殺しやサンズイ(汚職)、災害取材など。事件がひとヤマ超すつどおまえの許しを得て、俺はよく旅に出た。ふと思い立つように。決まって夜行列車に飛び乗って、である。
志摩に始まり、岐阜、小牧、能登、大垣、大津……と、決まって、だ。わずかな休みを利用し、夜行列車に飛び乗って東北へ、伊豆へ、富山へ、関西へと全国各地へのひとり旅を、よくしたものだ。それは、「おわら風の盆」の越中八尾だったり、「天城越え」の天城峠だったり、男鹿半島、花巻温泉や城崎温泉などへであった。おまえは、そのつど文句ひとつ言うことなく家庭や支局、通信局を守ってくれていた。
そして。この夏、電話がかかった。自宅電話は留守電にしてあるので、そのつど、もしかして「おまえからでは」と思い、息をのんで相手の声を待つ。もう二十年近くも前の話だが、わが家の新築に合わせ電話をファックスつき留守電にしてくれたのも、ほかならぬおまえ、たつ江の知恵であった。これまで随分と役立ってきてくれた、その電話が何度も鳴り、私の生活に役立ってくれたことも確かだ。
だが、しかしである。おまえが決まって切り出してきた甘えたような「あのねぇ」の声は、ひとつとしてなかったのである。おまえのあの声を何よりも先に聴きたいが、おまえはすでにこの世にはいない。おまえだったら、まずこう話しかけてくるに違いない。「あのねえ~。シロ。シロちゃん。元気でいる。心配なの」と。
そして。その俺たちの宝物のシロは今、外に出ている。一体全体、どこを。何を考え、彷徨いつつ歩いているのか。「何。なんだよ。シロがどうしたというのだ。シロは元気でいるから。心配ない。安心していい。それより、おまえは今どうしてる? 一体全体どうしたというのだ。もしかして。生き返ったのか」と。私はもしもだ。たつ江の肉声が耳に飛び込んできたとしたなら、受話器を耳に当てて、そう叫んだに違いない。
思えば、新聞社の通信部の電話番に始まり、無線、ポケベル、携帯と俺たちの連絡方法は、その時々で随分と様変わりしてきた。そして。晩年のおまえはデスク端末を終始、手離すことなく、俳句をつくり、短歌を詠み、一行詩や詩などもつくってきた。その姿は、けなげで可愛く、どこまでも美しかった。端末の調子がおかしいの、と言われ、何度も近くのスーパー店内にある端末修理場に一緒にいった。あのとき。俺は、端末がよくなりさえすれば、お前の俳句や短歌、一行詩の創作活動ができるから-と早くよくなってくれることだけを、ただひたすらに願ったものだ。
端末の故障が修理され、直ったときのおまえの喜びに満ちたあの笑顔ときたら、ホントに俺までがそのつど嬉しくなったものである。おまえの命の代わりといってもいい端末が故障したままでは俳句もつくれなければ、歌も詠めない、詩だってつくれない。俺が連日、書き続けている一匹文士そぞろ歩きを読むこともできないからだ(たつ江は何も言わなかったが、私の書く日々のそぞろ歩きを連日、端末で読んでくれていたようである)。
5
「あのねえ、あたし帰ってきたよ。ホントよ。だって。あなたとシロちゃん、あなたをはじめ、子どもたちなど家のことが気になって仕方ないのだもの。帰宅したから。もう大丈夫よ。それで、どうだったの。大阪。同人誌の全国大会、よかった? ほんとを言うとね。あたしも一緒について行きたかった。大会翌日の文芸ツアーで与謝野晶子の文学館に一緒に行ってみたかったのよ。
ほかに通天閣にアベノハルカス。道頓堀にも。いつだったっけ。通天閣の近くのお店で串カツ、一緒に食べたよね。それに織田作之助さんの小説〈夫婦善哉〉ゆかりのお店にも。ホント言うとね。もう一度、あのお店の夫婦ぜんざいが食べたくって。それで、あちらの国(彼岸)に居てもたてもいられなくって。前世のこちらにきてしまったの。ねえ。あたい。ほんとのこと言わせてもらえば、生きていた間に、もう一度、大阪に行きたくて。行きたくって、仕方なかった。フランク永井さんの声、大好きだった。おまえに、大阪ろまん、ウーマン、公園の手品師……。ほんと。ほんとよ。どの曲も大好きだった。嘘を言ったところで何になるのよ。それから。能登で随分とお世話になった長谷川龍生さん。リュウセイさんにも出来れば、もう一度会いたかった。ところでシロちゃん、元気でいつも、お留守番していてくれるかしら」
あの口の中でリンリンと鈴を鳴らすような懐かしい、ちょっと甘えたような声が耳に大きく迫った。そして。数日前のことだった。たつ江、すなわち舞は私の夢枕に突然現れ、こう言ったのだ。
「あのねえ、あたし帰るわよ。これから。あなたたちがいる現世、あなたたちがいる社会に。だから。待っていてよ。これから行くから。もう大丈夫よ。大丈夫なのだから」
何が大丈夫なのか、はよく分からない。でも、あのときたつ江は確かに私に向かって、そう言いきったのである。夢枕に向かってこう言った彼女に向かい私はあの時、確かにこう答えたのである。
「おまえ。たつ江。ほんとに、舞、マイなのか。おまえなのか。いつ帰ってきたのだ。玄関の鍵も締まっているのに。なぜ、家のなかにいるのだ。それも俺の枕元にいるのだなんて。信じられない。でも嬉しい」
私は不思議なものでも見るように女の横顔をみた。たつ江に違いなかった。
☆ ☆ ☆
わが最愛の妻が天国に旅立ったのは平成二十一年十月十五日の未明だった。全てをやり尽くしたような、そんな安らかな寝顔の旅立ちだった。でも、まだまだ彼女なりにしたいことはいっぱいあったに違いない。その妻が「帰ってきた」。実を言うと、俺は彼女の死後、自分で自分を意気地なし、と思いつつ日々泣いていた。ふたりで夢見ていた希望といおうか。願いとでもいったものが全て破れ、一瞬にして瓦解してしまった、そんな気がした俺は明けても暮れても悲しさと寂しさ、に打ちひしがれる日々を過ごしていた。
女、すなわち、かわいい舞が思いがけず、わが家に帰ってきたのは、それから一年と少し経った、そんなある日のことであった。信じられない。でも、舞は確かに帰ってきてくれたのである。
女はロシアがウクライナに侵攻した戦争も、その後の安倍首相の銃撃死も、女が営んでいたリサイクルショップによく通ってくれていた園子さんの肝臓がんによる死亡、それから。この町で大勢の客で知られた喫茶店の閉店も……。その後に起きた何もかもを知らない。これらの事件、病死はその後そのまま女がいる天国に移されていたなら、それはそれで別だが。もしかしたら、もっと多くのことを知っているかも知れない。
きょう、この地上では能登半島七尾市でおまえ、すなわち女と共に暮らしていたころ、誰かは知らないが毎年バレンタインデーが訪れるとはポストに投げ入れられていた男性用の櫛とか新品のボールペンとか、サングラス、ほかに愛あふれるラブレターなど、数々の贈り物の中でも今も忘れられない岡村孝子の【夢をあきらめないで】を久しぶりに聴いた。ラジオから流れてくるあの何度も何度もくちずさんだ夢が目の前にあふれ、現実となって飛び込んできたのである。
そして。その日。目の前をスゥッと人の影のようなものが通り過ぎた。いったい全体何か。だれなのだろう。蜻蛉のようなものは、その後も何回か私の前に現れた。だが、肝心の姿が見えない。気配だけなのである。そして。気配は私に向かって確かにこう話し始めたのである。「あれからねえ。あたし」と。
あたし。今は。彼岸、いやこの世とは違うお空、宇宙にいるの。そこではあたしの大好きな星たちがいっぱいキラキラ、キラキラと輝いている。ほんとよ。ほんとだってば。あたしが生きていた時、あたしが夜空、そう星に詳しかったことはあなたが一番知っていたはずだから。もうそれ以上は、言わないけれど。
そういえば、子どものころ天いっぱいにお星さまが輝いていたころのこと、あなた覚えている? 覚えていますか。楽しかったね。夜。空を眺めると視界いっぱいに星が輝いていた。あの星たちは、その後、いったいどこに行ってしまったのだろう。
最後に俺からおまえへの手紙をここに書き残そう。
おまえのことを。いつも思っている。おまえの好きだった坂本冬美の【能登はいらんかいね】がこの世に現れ出たのが、俺たちが能登半島の七尾にいた当時の一九九〇年だった。なぜか、この歌を聞くと、おまえと穴水でとれたイサザの踊り食いを競ってしたあの日々が懐かしく思い出される。と同時に、美空ひばりさんの♪逢えないつらさ こらえて生きる 私と歌おう 塩屋の灯り……の一節を思い出すのである。
おまえがこの世を去り、やがて二年になる。一緒によく行ったスーパーはじめ、あのころの街は何もかもが消えたり、新しく生まれたりし、まるで寄せては返す波のようだ。スーパー三心が「大阪屋」に変わり、おまえがよく買い物に通ったバローは今や、この街を撤退し影も形もない。晩年におまえがやっとこせ歩いて通ったドラッグストアのコスモスはあるが、おまえがこの世を去って以降、俺はどうしても足を向けることが出来ないままでいる。でも、相変わらず多くの人でにぎわっているようだ。布袋駅近くにはマックスバリューが出来、いつも私の助手席に座り、おまえの見慣れた町の風景ときたら、あのころとは随分と変わってしまった。晩年になって、おまえがよく入り口で転んだ平和堂。ここでは書店が消え、靴屋さんもなくなった。どれもこれもがなくなってしまった。
最終章・おまえに
俺は毎日、午前中、新聞のチェックに続き俺ならでは、の一匹文士の執筆にその後も挑んでいる。そして。毎日、愛猫シロに昼食を与えると、自宅周辺のランチをやっている喫茶店または近くの食堂などを訪れ、ここでお昼を終え、その足でスーパーに出向く。スーパーで俺と息子の夕食を購入して帰るが、気が向けばカラオケ店にも顔を出す。そして歌うのは決まって、おまえとの思い出がしみついた〈能登の海鳥〉や〈襟裳岬〉〈星影のワルツ〉をうたうのである。最近では、おまえもよくして頂いた牧すすむさん作曲による都はるみさんの〈恋の犬山〉も唄ったりして帰るが、よくよく考えるとおまえとは一度もカラオケには一緒に行っていなかった。
そして。昔だったら、何とも思わなかったスーパーの店内を彷徨うが如く歩くたび、ここには桃も梨も蜜柑、レモンにスイカ、キュウリ、ミニトマトもなんだってあるな。おまえも一緒なら、どんなに喜んだことだろう-と、つくづく思う。店内を歩くにつれ、おまえが、この世に現れ、店内を俺と一緒に歩いたらどんなにか、胸を弾ませ、目をキラキラさせて喜んだことだろう。と。そう思うと、またしても滂沱の涙が流れ出てくるのである。そのたつ江、舞は今や、永遠のお星さまになってしまった。どんなに大声で呼ぼうとも、彼女はもはや俺のところに帰ることはないのである。
俺は、おまえが大好きだったフランスのロゼでも飲みながら、たまには共に社交ダンスでも踊りながら、今度はどこに行こうか。どこで会えるかな、と考える。
☆ ☆ ☆
「あのね。あたしネ。まえから言っていたでしょ。あたし新潟は長岡の大花火を見たかった。それであなたには悪いけれど、今月(八月)二、三日とあった長岡京の長岡大花火を見てきました。あなた。あたしたち、能登の七尾にいたとき、和倉温泉の三尺玉見たわよね。毎年、冬になると新聞社の七尾支局長として事業部員と三尺玉の発注にいくのだ、と言って雪に埋まった長岡に和倉のだんな衆と行ったじゃない。料亭で、加賀屋の小田さんが〈おてもやん〉を見事に歌い終えたところで空中三尺と水中三尺の各ひと玉の発注にサインをしてもらい、帰ってきたじゃない。
だから。あたい、あのころのこと思い出し、長岡に行って来た。長いコロナ禍を終えての大花火だっただけに、それはそれは華麗で美しかったよ。日本を代表するロス五輪の花火師、カ・セ・セ・イ・ジさんも。お元気でいらしたわよ。三尺玉、また一緒にみようよね」
俺は思わずスマホを手に握りしめ、長岡大花火の中継を見た。そこでは「復興、感謝、勇気、そして平和 どんな困難も乗り越え」といった字が浮かび、かつては見慣れたスターマイン、蝶の舞に代表される数々の芸術花火、ナイアガラ……が整然と打ち上がったかと思うと、フィナーレにあの三尺玉が水中、空中の順で空高く舞い上がったのである。
舞よ、舞。ほんとうにありがとう。たつ江。いつまでも元気でいろよな
☆ ☆ ☆
この世には、おまえ、すなわちたつ江、舞がいて私、わたくし。すなわち俺がいた。俺は単純にそう思い、志摩と能登の海に思いを馳せる。彼女と俺たち家族がお世話になった全ての人びとにありがとう。そして。ごめんね。たつ江。舞よ、マイ。悲しくとも元気を出して。いつまでも。生きていこうよ、な。これからも。
お盆に未知の星から帰ってきてくれて、ほんとにありがとう。
(了)