スクリーン・モードと女優たち

I章 映画で綴るモード史

映画のなかのモード

映画は動くモード誌 ――――――――――

一九三一年、ユナイテッド・アーチスツの当時のパトロン、サミュエル・ゴールドウィンは、フランスのデザイナー、ガプリエル・シャネルと、モンテカルロで会合した。その席上、ゴールドウィンは、シャネルの映画参加を依頼しながらこう言っている。
「これからの映画観客は、女たちである。女性をないがしろにして、映画産業はなりたたない。彼女たちは、ふたつの理由から映画館にやってくるだろう。ひとつはスターをみるために、もうひとつは、最新のモードをみるために」
 映画そのものより、スターやモードに心ひかれるのは、昔も今も女たちの映画のみかたのひとつの特性であるならば、ゴールドウィンの指摘は間違ってはいないだろう。映画をみる側にとっては、このポイントはつねにあったわけだが、映画製作者の側からすると、むしろ、純枠芸術から始まった映画が、コメディや、スペクタクル、メロドラマと、数々のジャンルをへて、産業としての目安がつき、安定して、ようやく黄金時代に人ってきた時点での、あらたな提案であった。
 もっと観客層をひろげるには、どうすればよいか。その宣伝方法のひとつとして、むしろ観客の傾向に刺激されて、映画製作者の目が映画とモードの結びつきに積極的にむけられたのだ。
 ゴールドウィン、シャネル――ふたりの天才の立場はちがうが、だからこそ、未来に対する視点は逆に一致していた。
 もっともゴールドウィンの前にも、直感的にこのモードの影響力を考えていた男がいなかったわけではない。製作者であり、監督であったセシル・B ・デミルは、一九二〇年代に、スターをつくることからこの発想をしている。奇抜な服装をさせること、ごてごて趣味でもいいから、まず目立たせること、豪華にさせることが、スターを世におくる秘密だと断言している。彼の意図でつくりだされたその第一号は、グロリア・スワンソンであった。
 ゴールドウィンは、デミルの直感を、もっと計画的に推しすすめようとしたものだ。撮影所専属の衣装部を強化する一方、映画界以外のデザイナーとの協力のなかで、時代のモードを通じてスターをおくりだし、さらには、新しいモードを映画からつくりだしてゆく。それにはモードの中心地パリから、高名なデザイナーを招くのがいちばん手っ取りばやかった。
 シャネルの方は、もしかしたらゴールドウィンよりもっと先を考えていたかもしれない。将来のモードのあり方は、高級モードから大衆ファッションへと比重が強くなるだろう。―― つまり、プレタ・ポルテ方向だが――それには、映画という宣伝媒体は、格好のマスメディアであった。
 それまでのモードの宣伝方法といえば、高級婦人雑誌に、上流階級の女たちがオート・クチュールの衣装を着て、ポーズをとるのが、常套手段であった。この動かないモデルの写真では、衣装は一方の角度でしかみることができない。
 映画はきせずして、動くモード雑誌とまではゆかないまでも、動く風俗誌である。そこには、 あらゆる階級の女たちが登場し、そのあたえられた状況のなかで、それにふさわしい衣装を着て、ヒロインの心情や、問題を語りかける。
 風にひるがえったスカートのすそに、ヒロインのよろこびが感じられるときもあれば、毛皮をまとったヒロインの、くゆらす一本の煙草のけむりに、なげきをみるかもしれない。
 この動く――生きているモードに、観客はたくさんの夢とヒントをみつけた。それは、もう一部の特権階級だけが享受できるものではなくなっていた。
 とはいっても、正当な映画史のなかで、モードの分野はいつも無視されてきた。モードにまで言及する批評家は、世界中みてもいない。逆にいえば、モード史の立場からみると、映画モードが果たして過去の資料として、どれだけ生かせるかは疑問の余地もある。
 とくに史劇については、そのことが一層いえる。映画のために、アレンジされ誇張され、さらに、現代感覚をまぜるという熊度が、映画の衣装づくりの基本にあるからである。
 それでも、映画はハリウッドを中心として、モードはパリを中心として、世界に流されていった時代は、やはりそこに、一貫した風俗のひとつの傾向を発見することはできよう。
 今日、なぜか昔のモード、昔の映画が、再び脚光をあび、なつかしまれている。過去はできるだけいさぎよく捨てて、前進することばかりを考えた戦後とは、だいぶ事情がちがう。
 外からも内からも、これまでのすべてをぶちこわしている間はまだよかった。 ぶちこわすという最初の意味がうすれてゆくと、そこにはただくずれる、混乱するという状況だけがとりのこされる。そのなかで、人間は方向を失う。その間映画王国ハリウッドの崩壊、パリ中心主義のオート・クチュールの体質改善も、間題になろうが、これはなにも映画やモードだけではなく、芸術一般からモラルまですべての点においていえるし、なによりもそれをのぞんだはずの人間が、混乱し、息切れし、窒息しているのが今日の様相だ。
 方向を見失った人間が、ありし日のよさを積極的に受け入れようとするのか、もしくは、あきらめのうちに過去へ逃れようとするのか。そこはさだかではないが、とにかくもう一度、映画を通したモード、人間の風俗をふりかえってみたい。

ファッションをリードしたスターたち ――――――――――

スターはある時代では、王妃であり、貴族の女たちであった。権力と財力のあるところに、はなやかなモードが生まれたのは、当然のことでもあった。
 ルイ一六世の王妃、マリー・アントワネットに取り入ったのは、衣装係のローズ・ベルタンであった。ベルタンのつくり出す流行が王妃のお気に召すものとなって、たちまちのうちに貴族の女たちに、ひろまっていった。ベルタンのところに、われもわれもと押しかけて、この女は権勢をほしいままにしたが、彼女の名をきくと、夫たちはふところを心配してふるえ上がったという。
 時代が進むにしたがって、このモードを受け入れ、ひろめるこのスターの性質にもいろいろの変化があらわれて、つくり手であるクチュリエの方も、それに応じて多種多様になってくる。
 古い支配階級の崩壊、新しい階級の誕生とともに、スターはブルジョアジーの美しい才気のある女だったり、またはどの階級からもはみ出したドミ・モンドの女たち――椿姫のようなこの妾とも、娼婦ともつかない一九世紀の女の存在は、とくにフランスだけに限られるが、そのなかには、舞台女優になったものも多く、いずれも、パリのその時代のスターであった。モードはすでに、この首都を中心として生まれてきていたから、この特殊な女たちのこともないがしろにはできないだろう――が、上流社会に対抗して、モード界の一方の旗頭になる。
 いずれの場合も、彼女たちのうしろには、金持の男の存在があって、自分の女たちをスターに仕立てるべく、せっせと小切手をきっていたことはたしかである。しかし、彼女たちは自分たちが美しくなるにつれ、単なる従属物から、自覚した女になっていったことも、また特筆していいだろう。
 やがて、スターは、舞台女優へと移行し、彼女たちのまとう舞台衣装がモードの中心となって花ひらく。
そして、映画の誕生とともに、映画産業がスターをつくってゆくスター・システムが生まれ、映画スターが、ファッション・リーダーとして、大きな力を示してゆく。
 女優たちとモードの関係は、それまでの他の社会のスターであった女たちとは、ちがったひとつの意味をもっている。彼女たちが、舞台や映画という、いわばマスコミュニケーションを通して、宣伝の一翼をになったこと、そしてなによりも彼女たちは、自分たちの働いた金で、装うことかできるようになったことだ。
 ファッションをリードするという本来の意味からいうと、女優たちはまずそれにいちばんかなう条件をもっていたし、会社にしばられる数々の条件はあったにせよ、それまでの女たちのように、ただ男のふところをあてにしなくても、一応自由で、独立できる女の可能性をもっていた。それが意図的につくり出され、売り出されたにせよ。
 そして、着かざることをおぼえた女たちのなかには、やがて、装うということが単に衣装の上だけではすまないということにも気づいていったのである。

 マント着てわれ新しき女かな

松井須磨子の矜持は、女ならば女優でなくても一度はもちたい感慨であるが、こうした外見の変貎によって、はじめて内面の改革にゆきつくのが女のさがなのだろう。
 昔と今のスターの略歴のちがいは、まことに単純である。かつては貧しい家庭の子女が、多く女優への道を選んだ。
 女優への道は金持への階段ではあったが、同時に社会的不名誉へのレッテルにもつながっている。そして、そのとおり、彼女たちは栄光と堕落のボーダーラインを行きかえりしつつ、あるいは生きのこり、または脱落していったのだ。
 かつてのスターたちは、映画会社おかかえのスペシャリストに、自分のスタイルを発見させて、その時代のファッション・リーダーとなった。
 グロリア・スワンソン、グレタ・ガルボ、マレーネ・デートリッヒ、そのなかでも最も傑出しているのはガルボである。
 ガルボは衣装にお金をかけることを好まず、ラフなスタイルを好んだ。スクリーンの上であれ、オフ・スクリーンであれ、ひとたびガルボが身につけると、誰もがうっとりし、誰もがまねをした。そしてガルボの存在が、ガルボのまなざしが時代をこえて人々に迫った。
「今も昔も、唯一のスターといえる人はグレタ・ガルボです」。一九七三年のカンヌの映画祭で、審査委員長、イングリッド・バーグマンはさわやかに一言こういった。
 ガルボの場合は特別としても、このデザイナー、またはアドバイザーによって自分を発見し、ファッション・リーダーになっていった例は、戦後ではオードリー・ヘップバーン、ジャンヌ・モロー、ソフィア・ローレン、カトリーヌ・ドヌーヴなどによって継承されよう。しかし一方では、こうした人の手をかりず、自らのスタイルを作った数少ないスターもいる。戦前派では、キャサリン・ヘップバーン、戦後ではブリジット・バルドーである。
 ファッション・リーダーになるには、美しいだけでも駄目。お金があるにまかせても駄目。といって趣味がいいだけでも、これはリーダーにはなりえない。そのひと自体と、その人の着るもの、そしてそのフィーリング全体が、その時代を象徴していなければならない。女として、スターとして中身が充実し、それに対応する衣装が選ばれたとき、はじめて彼女は、真のファッション・リーダーの有資格者となるのだ。

スターとオート・クチュール ――――――――――

スターがどんなふうに、ファッション・リーダーになっていったのか、その過程をもう少し具体的に考えてみると、オート・クチュールとの関係を探ってみる必要があるだろう。
 映画スターのように、経済力と宣伝力があり、そして、何より美しいことによって、その時代のトップを行く存在ともなれば、クチュリエたちにとっては、まさに願ってもないお客さまである。
 あらゆるオート・クチュールが、この美しいお客さまを大切にし、また他の店にとられることをおそれたのも無理からぬ話であろう。
 多くの場合、彼女たちは飛びきり美しかったり、着こなしがうまかったわけではない。ましてしっかりと自分を確立していたわけではないから、名が出るにつれ、より美しくなるには、デザイナーのアドバイスが必要になってくる。 オート・クチュールとまではゆかないまでも、誰もがかかりつけの医者ならぬデザイナーを、まずもちたいと思うのは当然のなりゆきであった。
 オート・クチュールの元祖ともいえる人は、一八〇〇年代に出た、イギリス人、シャルル・フレデリック・ウォルトだが、彼の権力はその時代の大臣もかなわないほどで、このエレガンスの使者は、フランス宮廷を征服してしまった。彼のサロンで日がな一日待って、やっと服をつくっていただくという高貴な女たちが、あとをたたないというほどの力になっていた。
 そのころ、金の声といわれた舞台の名女優サラ・ベルナールは、おかかえのクチュリエの衣装が気に人らなくて、その中の一部をウォルトにつくりかえてほしいと頭を低くして頼んだものだがウォルトは冷たく断わったという。
 全部を彼自身の手でデザインするならまだしものこと、たとえサラ・ベルナールという当時随一のスターでもがまんできることではなかった。誇り高いサラ・ベルナールの方も、二度とウォルトのところへやってこようとはせず、二人の合作――舞台と衣装――は、ついに日の目をみることができなかった。
 そのころのウォルトにとっては最大のお客さまは、フランス皇后ユージェニイをはじめロシア皇帝の妺、貴族の女たちであったから、いまさらサラ・ベルナールの名声も、それほどほしくはなかったのである。
 彼女たちの着用した衣装は、のちのちまでも語り草になったばかりか、資料としても現存しており、服装史に大きな役割をはたしている。自分の国のクチュリエの作品しか着てはいけないというイギリス王室でも、ヴィクトリア女王は、ひそかにフランスにいるウォルトのつくったものを土台として、イギリス人デザイナーにつくらせていたという。
 この天才児ウォルトが、演劇の衣装を担当したのは、一八八一年のこと。ロンドンで、リリー・ラングトリーが、マクベス夫人を演じたときで、演劇批評に、はじめて衣装の批評が登場した。
「リラ色のサテン地に、あわいローズの縁どりのあるデコルテの服は、みるものに抒情的な感動をおこさせ、そのあまりの美しさに、身ぶるいさえおこさせるほどだ。現に、詩人のオスカー・ワイルド氏、感動のあまり失神して、場外に運び出されるほどであった。 シェークスピアは、モードの世界からも拍手喝采されたというべきで、彼の芸術が、いかなる分野においても、素晴らしいということが、 ここに、逆に、実証されたともいえるであろう」
 いささかオーバーな、もってまわった批評だが、それはともかく、こうして演劇とオート・クチュールは結びついてゆく。このあたりから、演劇史とモード史は、意識的に結びあい、おりかさなって発展してゆく。

舞台女優とクチュリエの協力 ――――――――――

そしてこのとき、忘れてはならないのは、モードのつくり手であるクチュリエと担い手のスター、つまりここでは、舞台女優たちが、ともに戯曲の内容を深く理解し、その役柄に、その舞台に、必要な衣装を用意したということである。
 初代ウォルトについで、オート・クチュールのひとりレッドフェルンが舞台衣装のつくり手として登場する。シーズンごとに新しい戯曲が上演きれると、「レッドフェルンこそ、このドラマの創作者だ!」といわれるほどであった。
 この舞台衣装への情熱は、ひとつには、ゾラの自然主義の影響によるところが大きかった。それまでの幻想的なものは影をひそめ、リアリスティックなものが尊重されはじめる。舞台の小道具にも本物の樹木をつかったり、スープは、本当に湯気がたっていなければならなかった。フランスの演劇人アントワーヌの自由劇場は、人生そのものを、そのままに再現しようとした。
 サラ・ベルナールなどは、このナチュラリスム(自然主義)とよばれるものを、彼女流に解釈して、その演技にその衣装に、独自のスタイルを生み出した。コメディ・フランセーズをやめた彼女は、一八八〇年、巡業の旅に上るが、ラフリエールの店 (半世紀の間、流行だったクチュリエ) へ二五着の衣装を注文し、また時代物の衣装は、その道のスペシャリスト、フレッドに注文したという記録がのこっている。
 彼女の舞台で着る衣装とアクセサリーは、たちまちのうちに、巷で流行した。私生活では、男ものの背広を着こんで、葉巻をすいながら町を濶歩するような大胆なサラ・ベルナールに、男子専門のあるクチュリエは、自分の仕立てた背広を着てくだされば、その背広をさし上げるばかりかお金もさし上げたいと申し込んでいる。今いうタイアップのはしりであろうか。
 クチュリエ、ジャック・ドゥーセと女優レジャーヌの場合も特筆していい。単に、クチュリエとしてではなく、芸術愛好家としてもすぐれていたドゥーセは、ウォルトとは、ちがった女の魅力を引き出すのに成功した一人であった。ウォルトがご立派な貴婦人タイプのモードを作るのが得意とすれば、ドゥ―セは、可愛らしい女のためのモードであり、彼のお気に入りは、最もパリジェンヌらしいといわれたレジャーヌであった。彼女の当り役「マダム・サン・ジェーヌ」は、ドゥーセの衣装とともに、モード史そして演劇史にのこる作品だろう。一般の女たちはドゥーセのつくった“レジャーヌの帽子”“レジャースのジャケット” を真似して着たものだった。
 ウォルトの息子、二代目ウォルトはアンヌチオの芝居を演じては一代の名女優といわれたエレオノラ・ドュ―ズを生涯支持し、彼女も服飾に関するだけではなく、精神的にも、また、役の解釈についても、ウォルトの意見を等重した。ウォルトは言う。
「舞台に出る一瞬が勝負なのです。この一瞬で、観客を魅了するかどうかが、決まります。あとはもう、あなたの自由自在です」
 つまり、初登場する瞬間には、クチュリエと女優の絶対的協力が必要だということだ。ドューズにも彼の言わんとする意味はよく理解できた。
「ニューヨークへ発ちます。この舞台が、私にとって、どんなに大切なものかは、わかってくださいますでしょう。ですから、とにかく、わたしを美しくしてくださいまし。そして、あとは、おまかせねがいます。おっしゃるとおり、それからは、わたしの領分です」
 ウォルトは、役を理解すると、それをどうしたら、衣装に再現できるか、しかもあらゆる無駄をとりさって、象徴化することができるかを腐心した。
「あなたは、私に、役づくりの一端を担う名誉をあたえてくださいました。私にできますことは、ヒロインの性格を本質的に尊重しながら、衣装の点で生かすとなると、象徴化、単純化することだと思われます。お互いに遠く離れておりましても(ウォルトはパリに、ドューズは世界各地を歩いていた。そして、二人はいつも電報で交信していた)、意見の一致をみることはできるでしょう。お互いの役目があります。わたしの役目は、衣装の上で止まるべきものと思われます」
 二人の協力と友情は、その一生涯を通じて変わることがなかった。そこには衣装を通じてひとりの人間をつくろうとする情熱と、衣装を通してひとつの美をつくろうとする情熱の、渾然たる一致があっただけでなく、男と女の間に生まれた美しい友情が花咲いて感動を与えずにはおかない。
 この二人の後に、数々のスターとクチュリエの協力はあるにしても、これほどの真からのものは見当たらない。
この時代――一九〇〇年代のオート・クチュール (当時は、グランド・クチュールとよばれていた) は、まず演劇の世界で成功することが、彼らの名声を決める決め手になったのである。ドゥーセ、パキャン、カロ姉妺、レッドフェルン、マギー・ルフ、フェリックス、ジャン・フィリップ・ウォルト、ガストン・ウォルトなどが、グランド・クチュリエのおもなメンバーである。
 ポール・ポワレは、ウォルトの店で働いていたモデリストだが、独立して店をかまえると、まず女からコルセットを解放した。
 コルセットをはずすことによって、新しいラインを生み出し、また、多くの色彩を衣装にあたえた。衣装のデザインにとどまらず、色彩学、装飾一般まで教えたし、香水をつくり出し、またアメリカへ渡った最初のオート・クチュールでもあった。誇りたかかったポワレは、自分の作品がコピーされることを極力きらい  映画に自分の作品を出すことは考えもつかなかったが、そのころ、売り出したばかりの、ジョン・クロフォードのために、テザイン画を描いたという記録がのこっている。

クチュリエ、映画界へ進出 ――――――――――

最初にふれたように、それまでの映画は、世界中どこでも、映画会社おかかえのデザイナーが存在していて、スターのために衣装をつくった。
 当時、最も豪勢をほこったグロリア・スワンソンはアイナ・モルガン、マレーネ・デートリッヒのお気に入りは、トラヴィス・バントンなどだが、彼女たちもスターになる前は、衣装部のお仕着せを着ていたにすぎない。
 しかし、さらに映画史をさかのぼると、――ということは、この場合、映画王国ハリウッドのことであるが、エルテというフランス人が、ハリウッドに住みついている。
 彼は、いわゆるモード画を描くことを得意とし、その画から衣装をつくるデザイナーとして、相当に認められた存在だった。彼は、ハリウッドのスターたちに、エレガンスのなんであるかを教えこもうとした。しかし、サイレントの人気女優、リリアン・ギッシュは、エルテがつくった衣装を、意固地なまでに着るのを、いやがって、結局、彼の試みは失敗におわってしまう。
 もうひとつの例は、MGMの衣装部門の顧問として正式にやとわれた、ジルバート・クラークの場合である。そのころ有名だったフランスのクチュリエ、レディ・ドコッフ・ゴードンの弟子だったクラークは、グレタ・ガルボのけんつくに出会って、これも辞表をたたきつけてしまっている。
 こうした例は、スター・システムができ上がって、法外な週給をとるようになったハリウッドのスターたちが、せめて衣装の部門では自己を主張して、かってきままにふるまったせいもあるし、会社としても、いわゆるおかかえの専属衣装部員が、彼女たちの要求をとり入れながら、ご機嫌をとりむすんでいた方が無難であったということだ。
 そのために、テザイナーの目からすれば、とてつもない悪趣味な代物ができ上がったとしても、あまり問題ではなかった。
 むしろ、奇妙きてれつな衣装が、お客をひきつけ、夢を売るのにふさわしいとさえ考えていた。まして、誇りたかいパリのオート・クチュールは、そんな田舎の女たちにかかわる気持はなく、映画に積極的に働いてゆこうとはしなかった。
 しかしハリウッドのスターたちのなかには、お仕着せや、自分のわがままばかり通しているのでも、あきたらないと思う連中が出てきた。お金もできた、名声もできた、それだけではまだ満足できない。もっともっと美しくなりたい。
 グロリア・スワンソンは1年に1回はパリ、ロンドンに行って、自分の衣装を注文しはじめるし、メエ・ウエストは、等身大のボディをつくらせて、スキャパレリにおくり、そのボディにあわせて、このイタリア出身のクチュリエは、腕をふるった。
 こうした風潮のなかで、プロデューサー、ゴールドウィン・メイヤーは、シャネルとの協力を考えたのも、実は先見の明でもなんでもなく、当然のなりゆきだったのかもしれない。
 この二人の協力はセンセーションをまきおこした。パラマウントの重役たちは、「ライバルのメトロがシャネルならば、こっちは パトゥでも呼びよせましようか」と相談している。
 シャネルは特別仕立ての白い列車に乗ってニューヨークからロサンゼルスに向かった。駅にはグレタ・ガルボをはじめ、数多くのスターがまちかまえていた。
 ポワレとちがって、シャネルは折りあえることには寬大であった。そしてハリウッドの内幕を知るにつけても、彼女は映画以上に、アメリカの市場そのものに興味をもっていったのも本当である。彼女の目的は、はじめからむしろそこにあったのであり、二、三の作品に協力するとハリウッドを引きあげている。
 最初にシャネルの衣装をスクリーンの上で着たのは、グロリア・スワンソンで、「今宵こそは」という作品。ピジャマ・スタイルを着ているが、今日、この資料はのこっていない。
彼女に引き続いて、ハリウッド入りしたのは、フランスのマルセル・ローシャスである。彼は映画の分野に関心をもち、一九三四年、ハリウッドを訪れている。メエ・ウエストは、彼女のお得意の衣装、サテンのオフ・ホワイトの下地に、黒レースをはったデコルテで、このクチュリエを迎えた。
 一五年後、この衣装がローシャスのイマジネーションをかきたてた。有名なローシャスの香水「ファム」の箱を思い出していただきたい。映画好きの彼は、スターの衣装に情熱をもやす以上に、映画そのものを愛し、一九四五年にはジャック・べッケル監督の「偽れる装い」の衣装を担当したばかりか、クチュリエの役で主演した。クチュリエのなかには、美男子が多いから、その後、ジャック・ファットが「巴里の醜聞」で衣装担当と主演をし、最近ではピエール・カルダンまでが映画出演をしている。
 しかし、オート・クチュールが本格的に映画そのものと協力したのは、むしろ戦後で、映画にも、より宣伝が必要になったし、オート・クチュールの方も、いつまでも高嶺の花で、とりすますこともできなくなったからだ。
 またスターにとっても、確固たる映画スターの地位を築いたということは、すなわちオート・クチュールの門をくぐるのと同意語であり、パイオニア、グロリア・スワンソンにならって、次第に世界中のスターは自前の服をつくろうと、オート・クチュールの門をくぐってゆく。
 デートリッヒは、シャネルの渡米に際して、彼女と親しくなり、シャネルの門をくぐったが、パトゥにもルシアン・ルロンにも、グレにも、ディオールにも注文服を頼んでいる。シャネルにはスーツを頼んでも、きらびやかな夜会服を頼まなかったのは、見識だといわれるが、衣装に関して、デートリッヒは決して忠実な女ではないといわれているのも事実だ。
 ジャンヌ・モローが売り出してから間もなくシャネルのお客になったが、のちにビエール・カルダン一辺倒になったとき、シャネルはおこって二度とモローを許さなかった。彼女にとって、戦後派に見かえられるのはがまんできなかったのであろう。
 パリのおひざもとのスターたちも、それぞれに、好みのオート・クチュールを見つけて自前の服をつくるようになる。アルレッティやマドレーヌ・オズレ、そして、マリア・カザレスはジャンヌ・ランバンの服をこよなく愛した。ランバンにとっても、この時期は最盛期だった。
 マギー・ルフには、ガブリエル・ドルジア、アリス・コセア、ルネ・サン・シールといったスターが、おとくいについた。エドウィジ・フィエールは、ピエール・バルマンを選んだ。
 彼女たちが、オフ・スクリーンで着る衣装は、人々の関心事になり、スターというはなやかさを一層かきたてるのに役立つ。
 戦後になって、 クリスチャン・ディオールが登場してくると、それをきっかけに若手がぞくぞく輩出してきた。ピエール・カルダン、ユベル・ド・ジバンシー、ギ・ラロッシュ、イブ・サン・ローラン、ルイ・フェロー、そして、オート・クチュールのリストもさらに大きく変わってゆく。
 スターもまた新しい顔がつぎつぎにあらわれた。
 イングリッド・バーグマンは、ディオール、シャネル、ミッシェル・モルガンは、ピエール・バルマン。そしてなによりのヒットは、ジバンシーとオードリー・ヘップバーンのコンビであろう。 彼女はスクリーンの上でも、また、オフ・スクリーンでもジバンシー1本槍を打ち出すことによって、彼女の不思議な魅力のイメージをより高めるのに成功した。
 戦前はあまり国際的にふるわなかったイタリア女優も、ジーナ・ロロブリジーダ、ソフィア・ローレン、クラウディア・カルディナーレが進出してくる。一流になった彼女たちは、イタリアのデザイナーをすてて、公私ともにパリのオート・クチュールのお客になった。ごく最近では、ロロブリジーダは、ギ・ラロッシュのブティックのひとつを経営するまでになっている。
 ソフィア・ローレンは、ピエール・バルマン、クラウディア・カルディナーレは、ニナ・リッチがお好きのようである。
 サン・ローランがディオールの店から独立すると、ジュリエット・グレコ、ジジ・ジャンメールたちがはせつけ、彼のお得意となって彼の再起に貢献することをおしまなかった。一時不遇だったこの天才児を、気っぷのいい女たちが実質的に手助けしたといっていいだろうし、その目にたがわず、彼は新しいモードを次々に出して成功していった。そして、カトリーヌ・ドヌーヴは、サン・ローランの名とともに、スターのイメージをぐんぐん上げていった。彼女の場合は、オードリー・ヘップバーンとちがって、仕事のときのみの契約である。プライベートには、シャネルを着ることがあっても、それを宣伝として使うことはしない。

映画専属のデザイナー ――――――――――

映画のなかで、モードの部分がいかに忘れられていたかということは、 アカデミー賞に衣装賞が設立されたのが、一九四八年からという例をみてもはっきりする。しかし、オート・クチュールの進出以前にも以後にも、映画専門で活躍し、いい仕事をのこしていったデザイナーのことも忘れてはならないだろう。
 ハリウッドで戦前活躍したのは、ヴェラ・ウエスト、フランク・グロス、シロ・アンダーソン、エルネ・ドライデン、トラヴィス・バントン、戦後ではセシル・ビートン、エディス・ヘッド、 オリイ・ケリー、ヘレン・ローズ、チャールズ・ルメーアなどがいる。
 フランスでは、戦前戦後を通じて、カリスンスカ、ロゼリーヌ・ダラマール、パシュなどが有名。 クリスチャン・ディオールは独り立ちする前に、すでにルネ・クレール監督の「沈黙は金」で衣装を担当している。
 しかし最大の天才児は、やはり、舞台衣装家としても知られたクリスチャン・べラールというべきで、ジャン・コクトーの作品にのこした数々の衣装は、忘れられない傑作というべきである。
 名作といわれた衣装の数々は映画会社に大切に保存されていたものだ。それこそ映画を通じてつくり上げられた、生きのこったモード史でもあった。だが残念なことには最近の映画界の不況で、大部分の衣装はアメリカでもヨーロッパでも、オークションに出されたり、売りに出されてしまった。
 ガルボの「クリスチナ女王」やカルネの「天井桟敷の人々」もその例である。今はいつでもまわしのきく衣装だけがのこっているというのはなんとも悲しい話である。

III章 往年の女優

グレタ・ガルボ Greta Garbo

20年代の理想の女は、その謎めいた生活ゆえに一層永遠の面影をのこす。


グレタ・グスタフソンは、一九〇五年、九月十八日、ストックホルムに生まれた。
 両親は正式な結婚ではなくて、父が死んでしまうとグレタは一四歳から働き出すようになった。デパートの帽子売場の売り子になっているとき、みとめられて、映画界に入った。やがてストックホルムの演劇学校に入学。そして一八歳のとき、監督のモーリス・スティルレルに出会って、映画界へのきっかけをつくった。
 一九二五年、メトロのルイス・B・メイヤーは、ベルリンで彼女の映画をみて、スティルレルと共に、ハリウッドへ呼ぶことにした。二人がニューヨークについたのは、一九二五年六月六日というから、もう一昔前のことだ。そのころの彼女は、まだあどけなくて大柄な泥くさい女でさえあった。
 メトロでカメラテストの結果、ヘア・スタイルや、歯をなおせば、いけそうということになり、芸名もグレタ・ガルボとつけられた。
 ハリウッドでの第一回作品は「イバニエズの激流」。髪を黒く染めボーイッシュにかり上げたヘア・スタイルに、毛皮をまとったガルボの冷たい美しさは、これまでのスターにない不思議さがあった。第二作は「明眸罪あり」。この初日に彼女はスタジオから借りた衣装を着て出席したが、司会者が「こちらが、ミス・ガルボです。一言も英語がしゃべれません」と紹介し、ガルボもスウェーデン語で答えたが、観客はなんとなく笑ってしまった。以来ガルボは決して、初日の招待試写会に出席しなくなってしまう。
 言葉の問題と、生来の社交ぎらいをカバーするためにも、メトロは、彼女に一切のインタビューをさせず、弱点を逆手にとつて宣伝効果をあげた。そのころ、ガルボは、千の顔をもつといわれたロン・チャニーに出会って、彼の生活態度から大きな影響をうけたという。二人は性格も似ているところから、数少ない友だち同士になったが、チャニーはガルボにこういった。「神秘はぼくに役立っている。しかし、きみにはもっと役立つだろう」。ガルボの伝説のはじまりは、実はこうした必然的な言葉がしゃべれない結果と、本来の性格、そしてそれに拍車をかけた外部、つまり宣伝の方法ということからおこったともいえよう。
 彼女自身は、メトロから与えられる役柄には内心不満だった。「あたしには、素直な女の子の役がふさわしいのに」。しかし会社は、第三作目に、「肉体と悪魔」のヒロインをあたえ、ジョン・ギルバートを相于役にして、ラブシーンを売りものにし、さらに二人の恋愛も取沙汰された。これでガルボの人気は決定的になった。ジャーナリストは、「スカンジナビアのスフィンクス」「ひとりで歩く女」「神秘の女」などと名づけた。それ以外は、なんの情報もガルボに関しては得られないというのが本当でもあった。
 彼女は大きい女だったから、着るもので、女らしくみせることに苦心した。スクリーンのうえでは、映画デサイナー、アドリアンが、ほとんど彼女の衣装を手がけているが、彼はけばけばしい宝石やレースはガルボの美しさにそぐわないとして、できるだけ排除した。彼女はその言葉に従って、ヘア・スタイルもできるだけシンプルにし、アドリアンのデザインした帽子をかぶった。
 この帽子はアドリアン・ハットとして、一世を風靡するようになる。オフ・スクリーンでは、スエーター、スラックス、ツィードのカジュアルコートを好んで着た。このかまわない、男っぽい服装は彼女の神秘的な美しさをことさらひきたてて流行になる。世にいうガルボリスム――ガルボ・スタイルは、べレーのような帽子をかぶり、額を出して、カーディガンやレインコートを着るラフスタイル。
 このモードは一九二〇年代、三〇年代の時代の主流モードでもあったが、ガルボによってさらに流行したといっていいだろう。そして七〇年代の今日でも一度はリバイハルするような不思議な効力をもっている。というのも女が一度はやってみたい服装なのかもしれない。
 もっと正確にいうと、こんな服装に似つかわしい心理状態を通過して、女は成長してゆくのだろうか。クラシックでモダンで、男っぽくて、そのなかに女らしいエロティスムが、そこはかとなくあり、孤独っぽいこのスタイル。ガルボのイメージは、この服装にびったりであり、この服装はガルボと共に普遍性をもった。
 トーキー時代が近づいてくると、メトロはガルボのことで頭をかかえた。少し英語か話せるようになったとはいえなまりがある。そこでスウェーデンなまりでもさしつかえのない「アンナ・クリスティ」を主演させた。深く沈んだ第一声は「この声は、全世界をショックにおちいらせる」と宣伝された。以来、彼女に外国もののコスチュームものが多いのは、言葉のせいである。そのおもなデザインを担当したのは、リタ・カバリーニーニ・アドリアンで、ファンは、そのコスチュームからちょっとしたヒントを得て真似をした。ガルボは、首が長かったから、ハイカラーのものを多く着たが、それがたとえ着づらくても流行した。「クリスチナ女王」では再び帽子がはやった。
 一九四二年、「奥様は顔が二つ」を最後に被女は永久にスクリーンから遠ざかってしまう。戦争によってガルボの企画もそうはうまくゆかなかったが、幸いにも、ようやくガルボは、メトロから自由の身になったのだ。第一期の契約のおわったときに、ガルボは映画界から足を洗おうとしたのだが、メトロは彼女の預金銀行をつぶさせてしまったのだと、のちにガルボは語っている。
 女優として上手か下手かをこえて、ガルボの美の前で人々は、一種恍惚の状態におとしいれられてしまう。どんな役を演じても、ガルボは、つねにガルボであった。一九二〇年という年代において、ガルボはその時代の理想の女であったが、その謎めいた生活の ゆえに、彼女は一層、永遠の面影を人々にあたえた。
 最近になってセシル・ビートンが (彼は写真家でありデザイナーでもあった)、彼女の想い出を書いている。もっと正確にいうと、ビートンからいわせればガルボは恋人だったし、彼の他にもう一人の男もいたという。
 ビートンが結婚を申し込むと、彼女はそれに対してこう答えて断わったという。
「もうこれ以上に仲よくすることなんてできないわ。第一、結婚について、そう軽々しく語るものでもないと思うの。それに、はっきりいうと、男がパジャマを着て、朝家にいるのを見るのは、あたしいやなの」
 二人きりで、雪のふるニューヨークを散歩したり食事したりしている情景は、恋している男の筆致のせいもあろうが、ガルボは生き生きとして朗らかでさえある。結婚には一線をひいたガルボも、そこでは、可愛らしい女であった。しかし、人前で、親しげにふるまうのを彼女は異常なほどきらったという。ビートンのことを人前では「ミスター、ビートン」とよんで、そして、こっそりささやいた。「ほかの女の人のことを考えてはいやよ」と。
 いまさら、彼女から強いて神秘のべールをはずす必要もないけれど、こんな一面もあったとすれば、それもまたうれしい話であるまいか。いずれにしても彼女の神秘性を特徴づけたのは、北欧特有の性格からもきているだろう。メランコリックで、孤独で、非社交的で、恥ずかしがり屋で。それが突然にはでなハリウッドの生活に入ったのだから、逆作用してますます閉鎖的になってしまった。
 それを宣伝がさらに拍車をかけたが、彼女自身も、あえてこの孤独な道を選びもした。ガルボ自身はこの現実の生活にはそれほど興味をもっていなかったから、金がたまると、一層スターの生活なんぞには、末練はなかった。倹約家で金銭面ではしっかりしていたし、他のスターのように、あとで困るということもなかった。
 スターに必要な、人に見られることを好むという性格がないゆえに、ますますスターにさせられてしまったのかもしれないが、彼女はひとりぼっちの暮らしや、風や雨の中を歩いてゆくそんな自由だけがほしく、遂にそれをおし通してしまう。スターの座にいたのはわずか一五年間である。二六本の彼女のどの作品よりも、引退後の彼女の生活は、一人の女の像を自ら描いた、最も主体的傑作といえるのではあるまいか。

V章 現代の女優

マリリン・モンロー Marilyn Monroe

あどけない顔とかわいい顔と、やわらかな肉体の線をもった破滅型の天女。誰も彼女の矛盾を理解しささえることはできなかった。

 マリリン・モンローのすべては神話だ。その生いたちから死ぬまで、そして死後一〇年たったいまも、神話はあらたな要素をつけくわえて生きつづける。
 ケネディ大統領の愛人でもあったとか、ふたりの間に子供がいたとか、あの自殺は他殺だったとか、いややつばり自殺だったとか――真相は永遠の謎に秘められたまま続いてゆく。
 マリリン・モンローの死を境に(ケネディの死もいっしょに含めて)、アメリカが頂点から下降線をたどっていったことはたしかで、 この時代をバックにして、マリリン・モンローというスターは、不思議な光彩を放つ。
 スターに不可欠なのが、神話であるとすれば、マリリン・モンローは、スター中のスターであったろう。
 私生児で、孤児院で育てられ、一〇歳にならないうちに乱暴されて、ハイティ―ンで結婚して、ヌードをとらせて生活して――この種のお話は、マリリン・モンローには盛りだくさんにある。この可哀想なお話のヒロインは、そんな逆境にもめげないで、あどけない顔と、かわいい声と、やわらかな肉体の線をもっていたから、たちまち、男たちの心をうばってしまった。
 たしかに映画界に入りたくて、役をつかむためには、苦労もしたろうし、泥水ものんだであろう。けれども、この種のお話は彼女自身の口から語られたものが大部分だから、どこまで本当かはわからない。本能的に、彼女はスターになる方法を知っていた。少しばかりの真実におおわれたお涙や、セックス・ライフは、みんなの好奇心をひくのに充分だったし、第一、あの可愛い声で、訴えるように言われたなら、誰もが本気にしたくなる。ぬけているふりをして、利口なところと、本当に支離滅裂なところが、マリリン・モンローには同居していた。ただそれがのちに、彼女のなかば行ない、なかばつくりあげた神話が、それ自身で、生きはじめて、彼女をがんじがらめにしてしまうことは、本人は予想していなかった。
 こんなにもいわくつきのマリリン・モンローが、なぜあんなに人気があり、いまもあるのだろう。彼女の視線はスクリーンを通して、いつも不特定多数の、男たちをぼんやり見ていた。男たちは、マリリン・モンローの、この視線のさだまらないまなざしと、うっとりとなかばひらいた唇に、自分の女を感じる。かわいい女、自分に都合のいい女を発見する。こんなかわいい女を抱けたらと思う。彼女は、自分のような男でも、抱かれそうなそぶりをするし、よろこんでやってきそうだ。男たちは、コンプレックスなしに、リラックスしてあらゆる性的なイメージを描きながら、彼女を犯そうとする。
 なにをしても、彼女は限りなく許し、受けいれてくれるだろう。これこそ、男たちの夢想した女そのものであり、現実の女では決して充たされない――それどころか、女は、男の願望とはまったく正反対の方向へ突進している――よろこびを充たしてくれる。
 では、女たちにとって、マリリン・モンローはなんだったのだろう。セクシーなこの女の存在は、本来ならば女たちの憎悪の対象ともなりかねない。しかし、大方の女たちは、ひどく寛大であった。女たちは知っていた。逆立ちしてもこのエロティスムには勝てないと。
 しかしこのエロティスムを売り物にするかぎり、マリリン・モンローは、男たちの共有物であり、共有物であるかぎり、モンローという女は、危険でもなく、また决してしあわせにはなりえないと。
 男も女も、マリリン・モンローを讃美したが、本当はひどく勝手で残酷であったのだ。
 だからといって、マリリン・モンローこそハリウッドの映画機構が生んだ犠牲者だと、一気に断言してしまっても、彼女の本当のすがたをつかむことにはならないだろう。
 マリリン・モンローは、人目につきたか った。彼女は自分がもって生まれたエロティックな魅力が、男たちにあたえる効果も知っていた。その誘惑に彼女自身がまず勝てなかった。
「五歳のときからこんな歩きかたをしていたの」と言う名ぜりふをはかせた、あのモンロー・ウォークも、お尻のウィンクも、もって生まれたお尻の格好よさにさらに演出を加えて、実は長いこと練習した結果であった。
 裸でいることの方がずっと自然だと思っていたこのかわいい白い野生動物は、本当にパンティをはくのをいやがり、それをまた利用宣伝した。
 気のいい、かわいい女のイメージ、そんなところもたくさんあったけれども、直感的に人が何をのぞむかを知っているぬけめのなさというか、才能もあった。
 こんな性質で、おまけにとびきりエロティックな女 (そのころの彼女を、美しいというには早いだろう) にふさわしい仕事は、映画女優がぴったりだ。それをいちばん知っていた彼女、ノーマ・ジーンは、自分からこの職業に入り、野心と熱心さで、下積みからはい上がってゆく。そのために、男を利用し、利用されもした。そんなことはあまり驚くことはない。ハリウッドといわず、映画界ではむしろ常識でもあったろうから。ただ彼女の場合、セクシーな面のみが目だちすぎたし、意識的に目だたせもした。 
 けれどもここで大切な点は、性的には放縦な生活をしながら、どこかでばんやりと、セックスと愛を区別していたことだ。下積みのころ、仕事で利用しそのために関係のできた億万長者の求婚をしりぞけたのも、無意識のうちにこれとそれはちがうと判断していたからであろう。
 ではなにがどうちがうかということは、彼女にはわからなかった。マリリン・モンローの特徴は (多くの女の場合もそうかもしれないが) 理屈ではなく、直感的にしかも断片的に何かをつかむことにあった。彼女にとって愛は、具体的に一人の男を通して感じられるものであり、それは、ときには強い頼れる男であり(第一の夫、野球選手のディマジオ)、ときには、知的な教えてくれる男(第二の夫、作家のアーサー・ミラー)であったりした。 
 だが肝心の愛の対象になった彼らには、モンローの断続的で曲折した感情のあり方には理解がおよばなかったようだ。彼らは、マリリン・モンローを占有することにはやぶさかではなかったけれども、結局は、スター、マリリン・モンローのイメージにあやつられて、それをぶちこわすことにのみおわってしまった。極端に女神にまつりあげたり、普通の女にかえそうとしたり、それが失敗すると、娼婦のようにみなしたりしてがっかりした。
 なま身の女モンローを愛したいくせに、彼らはスター、マリリン・モンローの生活に足をいれたばかりに、かえってふりまわされてしまったのかもしれない。マリリン・モンローの方からすれば、これこそはいちばん大切だと信じていた愛が、自分がスターでいるかぎりにおいては、崩れてゆくことには思い至らず、すべてを男のせいにしてしまったのである。
 彼女のドラマは、これらをひっくるめて、精神のバランスがとれなかったことだろう。精神病の血統であるおそれ、生理痛と不眠症からくる鎮静剤と睡眠薬の常用。普通でいるときの方が、ごくまれだったようだ。仕事がしたくて――スターでない自分は考えられなかったし――そのくせ仕事をするのがこわくてできなくて、撮影をさぼってしまう。
 仲間はうんざりしてしまい、てこずらされて、へとへとになる。だが映画ができ上がってみると、誰よりもモンローが光っている。彼女は天女のようにやさしく、自然であった。スクリーン上のマリリン・モンローをみる観客にとっては、天国の美女の再来だった。うまい下手の問題ではない。彼女には人を楽しませる何かがあった。それは誰にも真似のできない不思議な才能と魅力であった。
 だが、この天女は、現実には地獄の沙汰で悪循環のなかでのたうちまわる。成功すればするほど矛盾の差がひどくなる。不特定多数の男を楽しませればするほど、彼女は自分をもてあまし、特定の男は、彼女の矛盾を理解し支え保つことができない。愛がどれだけあっても、この破滅型の天才的天女をしあわせにすることは不可能であった。
 誰にとっても、まったく始末におえない女が、マリリン・モンローの素顔であったろう。スクリーンの上で、あんまりやさしくて、エロティックだった彼女は、その仕返しを実生活では受けなければならなかった。そしてそのはねかえりは、まわりのものまでもまきこんだ。
 始末がわるかったマリリン・モンローは、その始末のわるさを自分で始末したのか、それとも誰かに始末されたのか。
「そんなことどうでもいいじゃあないの、それだけが、あたしのもっている本当で最後の秘密よ。それよりどうお、あたしの体は、まだきれいでしょ」
 天国にいるマリリン・モンローは、そんなふうに答えるかもしれない。のこされた最大の秘密を神話にぬりかえて、彼女は本当の天女になったのだろう。

オードリー・ヘップバーン Audrey Hepburn

妖精のようなエレガンスで、一世を風靡したファッション・リーダー。

「ローマの休日」で、オードリー・ヘップーン扮する王女が、長い髪の毛を思いきりよくきってしまって、ショート・ヘアにすると、あてもなく町のなかへ飛び出してゆく。
 一九五三年ごろ――人々は、ようやくいまわしい過去から解きはなたれて、明日へと、まなざしをむけようとしているときだった。すくなくとも、かすかな希望を抱いてみたかった。だから、この王女にあやかろうと、若い娘は、我も我も、髪の毛をきったのである。おとぎ話にうえていたせいもあったろう。
 理屈ではときあかせないこの時代の要求があったからこそ、オードリー・ヘップバーン・スタイルは、ブームをおこし、同時に、彼女自身を一足とびにスターにしてしまった。デビュー作で、彼女はオスカーまでを手に入れた。
 以来、一年に一作の割合で、彼女は作品を選び、そして、一作ごとに新しいファッションを生み出していった。
 彼女はこれまでにない新しいスターだった。その妖精のようなムードで、現代のシンデレラ姫の役を演じるとき、少女たちは、安心して彼女の描くおとぎ話のなかに身をゆだねたのである。
 現代とはいえ、おとぎ話のお姫さまだから、そこには女くさいいやらしさはない。おまけに彼女は、最新のパリ・ファッションを着て登場してくる。
「ティファニーで朝食を」のヒロインも、実のところをいえば、いかがわしい女なのだけれど、オードリーによって演じられると、なんだかやたらにすてきな、コメディになってしまう。失敗作といえば、最初のメル・ファーラーの作った「緑の館」だけで、どの映画も興行的にも成功し、またたくまに、百万ドル・スターになってしまった。
 彼女がファッション・リーダーになりえたのは、ユベル・ド・ジバンシーを選んだということにも、大きな成功があるだろう。
「私たちは、モードをつくることはできません。けれども、自分にはなにが似合うかということを選択することはできるでしょう。いつもア・ラ・モードで、しかも若々しくいるためには、人々よりもちょっとだけ、流行の先をゆくことです。そのことについて、臆病になってはいけないと思います。そしてみんなが、その流行をとり入れはじめたころは、それをいさぎよく捨ててしまうことです」
 天才的といわれたスペイン出のデザイナー、バレンシアガの最も愛した弟子が、ジバンシーであった。彼はバレンシアガの店から独立すると、ジョルジュ五世街にある先生の店のはす向かいに店をかまえた。ジバンシーもまた、オードリー・ヘップバーンのように、戦後のオート・クチュールにすい星のようにあらわれ、一躍スターになった。
 ディオール以後、数々のラインが出てきたが、ジバンシーの線とカットそしてその技術は、簡潔な美しさでまったく新しい世代の登場を感じさせた。
 この二人は、どちらが選ぶというよりは、出会うべくして、出会ったといったほうがいいだろう。
 オート・クチュールとスターの協力が、いい意味で、見事に結びついた一例で、オードリーは、それ以後迷うことなく、公私ともにジバンシー一辺倒になった。
 ジバンシーにとっても、彼女は理想のモデルであり、理想の宣伝機関であり、最も大切なお客である。彼女が全盛のころは、春秋のコレクションに必ずパリにやって来て注文したし、ジバンシーの店でも、オードリーのために、専用の椅子をつくり、またオードリーのイメージにあわせて、香水までつくった。
「あなたがもしオードリー・ヘップバーンのようなかたでしたら、この香水はぴったりでしょう」
 そんなキャッチフレーズまでが用意されたものである。
 このスターとオート・クチュールの結びつきは、もうひとつ、ピエール・カルダンと、ジャンヌ・モローの例があり、彼らの場合は、よき友だちとしての部分もあるが、ジバンシーとオードリーの場合は、二人の性格からいっても、あくまでデザイナーとよきお客の間柄である。だからこそ素直に、オードリー・ヘップバーン・イコール・ジバンシー・モードの完璧なスタイルが、誕生したともいえるのである。
 こうして、女優としても、ファッション・リーダーとしても一世を風靡し、なおトップをゆくオードリーだが、彼女自体は、むしろ、保守的な女だと私は思う。
 服装はジバンシー、陶器はリモージュ、シーツはどこそこ、毎日の生活もきっちり決められたら、それを変えるということはめったにしないだろう。自分のペースをくずすことのないこの態度は、他のスターにはちょっと見あたらない。
 一九二九年、ベルギーのブリュッセルで生まれた彼女は、四歳でロンドンに渡っているが、戦争の間を、母親の手ひとつで育てられ、決して豊かではない生活をおくらなければならなかった。
 これらの土地と環境と境遇が、彼女の性格を防御的にさせていったことは否めない事実だろう。
 小さいときからバレリーナを志し、やがてコレット女史に見いだされて、「ジジ」の大役を舞台で得、それが映画入りするきっかけになったという。
 アメリカに渡って一躍スターの地位をかため、メル・ファーラーと結婚すると、さっさと、スイスに居をかまえてしまうあたり、彼女が本質的にはハリウッド――すなわち、アメリカには住みきれない本質を示していると同時に、築きあげた自分の生活をおかされまいとする、確固たる信念のあることを示している。
 英語もフランス語も堪能なオードリーにとって、スイスは格好の場所であった (その後、二度目の夫と結婚してローマに移り住んだが)。そのくせ、ヨーロッパ映画に出演するよりは、アメリカ映画のパリ・ロケものに出演するなど、自分の芸質、そして、経済条件などを、明確に計算できる怜悧な人なのである。
 こわれてしまいそうだが、硬質なガラスを思わせるような肉体にやどる精神は、実は現実にしつかりと足をつけて、はがねのように強靭である。だからこそ、現代のシンデレラのおとぎ話をクールに演じられもする。
 ヨーロッパ的雰囲気をもった、オードリーの現代的お姫さまのイメージは、アメリカや日本で絶対な人気を得るが、一方、ヨーロッパではそれほど、評価されないのは、人間として、女としてのあまりにも破たんのなさに、あきたらなさを感じさせるからだろう。

カトリーヌ・ドヌーヴ Catherine Deneuve

嫋々じょうじょうたる美しさの底に強さと激しさを秘めた新しい女。

日本でまだ知られないころ、つまり、デビューしてしばらくの間、カトリーヌ・ドヌーヴは、始末におえないハィティ―ンの代表みたいだった。美しいというだけが取り柄で、それもどちらかといると、美しすぎて、個性の欠けた、ブリジット・バルドーのイミテーションだったし、事実、BBの生みの親ともいうべきヴァディム監督と一緒に、タヒチ旅行に出かけたり、そのあげくに同棲してしまった。
 女優としてうまいならばいざ知らず、それは海のものとも山のものともつかず、そのくせやることは、一人前以上にはみ出している。姉のフランソワーズ・ドルレアックが、個性のある女優だったから、なおのこと比較されて、とかくフランスでの評判はおもわしくなかった。
 事実、彼女はやたらに気が強くて、いうことはいささか青くさすぎた。若さからくるおそれを知らないごうまんさのせいだったのだが、家族までが、それについてはあまり寛大になれなかったのは、ヴァディムに対する非難もあったであろう。
 人気監督の愛人というタイトルに、彼女は有頂天になっていたが、世間はどこまでつづくヴァディムのABC戦線などと悪口を言った。BBは天才的だったとしても、AのアネットもCであるところのカトリーヌもどうもあまりぱっとしなかったせいもある。それに、自分の女をスターに仕立てるというヴァディムのやり方も、もうこのころから鼻についてきていたからであろう。
 カトリーヌを美徳の象徴のようにあつかったジュスティーヌ(「悪徳の栄え」) は、彼女自身も、監督のヴァディムの方も、一向にさえず、そのうちヴァディムは、ジェーン・フォンダという女優にひかれてゆく。
 結婚しないで子供を産むと宣言したカトリーヌも、ウァディムがフォンダにひかれていくのは、予想外のことであり、彼女の意地が許せなかった。しかしヴァディムは結局彼女のもとを去り、彼女は一人で子供を産んだのである。とにかくカトリーヌは、自分のしたことについて、支払わなければならなかった。傷つくなどということを考えてもみなかった若い女にとって、これは大きな支払いだった。
 だが、この支払いは、女優としての彼女を目覚めさせた。今までのようにやる気があるようなないような、小生意気な美少女ではすまなくなっていた。
 ジャック・ドミーの 「シェルブールの雨傘」で、恋人を戦争にとられ、子供を宿してしまった少女の役は、ある面では打ってつけだった。なぜなら実際の彼女の気の強さは、ここではかきけされ、女の心の底にすむ、やさしさや弱さが強調されている。これまでの自分の精神構造とはまったくちがうヒロインを演じて、カトリーヌは女優としての方向を見いだすことができたのだ。
 それは、まるで見事な開花であった。彼女の青くさいエロティスムばかり追いかけていったヴァディムとちがって、ドミーは正統的に、いやむしろ、常識的にすら、彼女をヒロインのなかに押しこめ、そのなかから彼女の眠っている資質を引き出そうとした。
 このいわば普通の少女、原型的な女の愛の姿を描くことのできるのは、年若くして、それなりに屈折をおぼえてしまったカトリーヌだったからこそ、逆に清らかな女の心を演じられたともいえる。
 このギャップがふくらみとなって、彼女をより美しくさせた。下手をすれば安っぽいメロドラマになりかねないかもしれないこのミュージカルに、清冽な美しさがたたえられたのは、もちろん、ドミーの力もあるが、愛するということが、どんなにか支払いをしなければならいかということを、利口な彼女が役を通してあらためて知ったせいもあろう。
 カトリーヌ・ドヌーヴという女優を思うときに、「シェルブールの雨傘」はその出発点ともなるし、また代表作のひとつともなるが、同時に、作品そのものとしても、私はもっと評価されていいと思う。
 その次に出会った重要な監督は、ルイス・ブニュエルである。この鋭い監督は、カトリーヌ・ドヌーヴの本質的にもっているディアボリックな(悪魔のような)さがをえぐり出してみせた。「昼顔」ではブルジョア女にひそむ、淫蕩性、「哀しみのトリスターナ」ではサディスティックなよろこびにふるえる女。またローマン・ポランスキーの「反撥」のカトリーヌによっては、この巨匠の創造力が刺激されたのである。
 彼女自身もこれらの主要な作品を通すことによって、女優として、女としての主体性を獲得していった。彼女の一見嫋々たる美しさの底にひそむ強さや激しさ、冷たさは、新しいエロティスムをよんだ。そしてスターとしての地位もあがり、人気も出たのだ。
 もっともそこへくるまでには、またそれなりの曲折もある。六五年に、イギリスのカメラマン、デーヴィッド・ベイリと結婚して、小休止している。小休止というのはプライベートにおいてだが、私だって結婚くらいしますわといった調子のもので、その実、彼女はひどく退屈げに見えた。大体あんまり面白い女ではない。冷たくかまえていて、もんきり型にしかお話しいたしませんという基本があるからである。いいかえればスクリーンを通して、はじめて花ひらくような、つまり監督に挑発されて匂ってくる、そんな根っからの映画的女優なのである。
 そんな彼女を観察していて、私はこれは大物だし、ひどく現実的な女だなと感心したことがある。馬鹿げたことなのだが、彼女は退屈していて(夫にもなににも)、コンパクトばかりのぞいている。そのコンパクトのパフをご丁寧にも、きっちり半分しか使わないのである。あとの半分は真っさらである。半分を使いきったら、あと半分を使えば、倍使えることになる。
 それが、一体どういうことなのかといわれれば困るけれども、普通どんな女でも、小さな固形状のコンパクトのパフを半分に使うということは、めったにしないだろう。そのくせこの固形状のおしろいは、すぐにパフをよごしてしまうやっかいなものなのだ。きっちりしているというか、しっかりしているというか、つまりこの人は、官能におぼれても、破滅するような女ではないということをあらためて感じたのである。だからこそ、逆に冷たくとりすましていても、一度つつけばくずれてしまいそうな女を演じることもできうるのだろうと。いってみれば、可愛くない、いやな女の面があり、それが魅力であるわけだ。
 溺れないということは、自分をよく知っていて、そんな自分がどんな役にむくかということも計算できる。彼女がベベを追いぬいて、フランス一のスターになったのも、脚本を選ぶということを知っているからだ。ベベのように人情的になって、お取巻きにチヤホヤされたら、なんでも受けてしまうなどということはしない。
 最近は、またイタリアのマストロヤンニとの間に子供を産んだが、大スターになった、カトリーヌ・ドヌーヴのこの行動に、もう世間はなんともいわない。
 愛したという行為のすえに、子供が生まれる。しかしそのことは、相手の男とは、もはやあまりかかわりのあることではないのである。子供はたしかだが、男はたしかではない。かつて子供が生まれれば、男の愛をつなぎとめられると思っていた彼女は、それから見事にしょいなげをくわされた。そうなってヴァディムはむしろ結婚をのぞんだが、彼女にはそのことさえ許すことができなかったのだ。
 男と女の間はそんなものでないことを、痛烈に味わわされた彼女は、それならば、自分が自分であること以外に仕方ないと居直ったのであろう。過去の自分の支払いのために、自らつぐないそしてまた、正当化もしたい。意地の強い女である。それがひとつの新しい女のタイプをつくり上げていったのであろう。


出典:秦早穂子著.『スクリーン・モードと女優たち』文化出版局、1973年。
著者の許諾を得て電子文藝館が、以下の章の一部を抜粋して掲載する。
「I章 映画で綴るモード史 映画のなかのモード論」、「III章 往年の女優 グレタ・ガルボ」、「V章 現代の女優 マリリン・モンロー、オードリー・ヘップバーン、カトリーヌ・ドヌーヴ」