歌集『鑑真の眼』ほか

昭和五二年

生まれてきて光を追はず瞳孔の白く濁るは白内障病む

超音波に吸引さるる水晶体の混濁消えて黒く澄みゆく

明るさに視線動かすみどり児の白内障手術のまぶたを閉ざす

白内障術後の患者診つつ思ふ鑑真の御目もかくのごときか

鑑真の残る視力に映りしや秋目海岸雨にけぶるを

全盲か眼前指数弁ぜしか鑑真の書の筆圧つよし

 昭和五四年

無機水銀沈着の反射眼底にあやしき色素とどめて光る

視野測る固視点すでに定まらず点灯指標うつろに探す

 昭和五五年

押してゆく保育器のなかの裸の児大き耳たぶひくひく動かす

若き主治医の顔楽しげに極小児千六百瓦と足裏をはじく

手術終へて酸素吸入とりはづす極小児たちまち無呼吸に見ゆ

見えずと言ふ三歳児の眼澄みとほり光当つれば瞳孔縮む

透明度失はれゆく角膜の石垣状に細胞ふくらむ

希望持たせ診てこし老いが手術後の角膜混濁にもろく潰えし

失明し吾がもと離りゆきたりき病みて呆くるその顔思ふ

 昭和六十年

高度低く飛ぶ機のしたの青き湾パールハーバー小窓に覗く

静かなる真珠湾の日曜日四十四年をへだてて憩ふ

アリゾナのマスト傾く炎上の写真を仰ぐ人らしづけし

真珠湾の水際に近き青芝が足裏にやさし椰子の葉ゆれて

白き雲波に映れる怪しさは彼我の兵らの御霊のゆらぎか

王妃王女美貌の肖像に迎へらるさあらぬ方へ視線混じるを

鏡張る部屋の真中に映りあふ己が虚像に歴史をしのぶ

映さるる吾の姿がどこまでもつづきてゐたり鏡の部屋に

マリアテレサ子多く産みし寝台の広きを囲むビロード赤し

重ねたる屍とそれを祈る人彫りて塔となす思想も知りき

 昭和六二年

キリストの遺体を膝にうつむけるマリアの閉ぢしまなぶた光る

胸に十字切りつつ入りきて少年のマリアに額づく首筋細し

 平成元年

脊髄癆か脳梅毒かゴヤの絵の黒き世界が地下室に並ぶ

晩年のゴヤの絵黒し医師われら視神経萎縮と診たてて巡る

収奪の王冠の玉集めたるケースにかがやく聖体顕示台

おぞましき歴史の盛衰支へたるキリストの像頭垂れゐる

 平成二年

人間の脳の半ばは視覚野と示す分布図に講義の終る

革命のかく平穏に起れるを思はざりしかなカロッサの国

透き徹る冬はま近し壁のなきベルリンに丸き月の押し照る

否みつつ芝生に爪立つみどりごの足裏の皺伸び縮みせり

初誕生迎ふる朝の紙面には重油にべつとり濡るる鵜の鳥

貫禄と至福を持てるイギリスの牛と羊に春の日が差す

蒲公英の咲く草原に風立てり先史宮殿の環状列石

落としたる緑のペンが朽ちてゐむストーンヘンジの蒲公英の中に

(以上、『環状列石』より)

 平成五年

盲目の君が千切りて貼りし文字力にあふれ訴へきたる

鑑真の眼を診たるごとわれ君の失明までの経過を思ふ

治癒せりとの「症例報告」学会の雑誌に残れど君は盲ひぬ

失明に至る道程受け入れて生き来し証ぞ君の書画展

黒猫の長き瞳孔近ぢかと眺めて幼と小声に笑ふ

視野検査のドラマチックに描き出す輪状暗点特異なかたち

虫籠をあけて紫の蝶放つ幼のてのひら満月にむけて

MRI・CT画像はわれの脳バックに蛍光明るき壁面

わが頭蓋脳髄解剖せしごとくモノクロフィルム左右に並ぶ

「理想的に萎縮のきざし無き脳」と若き脳外科医笑顔向けくる

延髄にほのかな白き翳り残す癒えたる麻痺の原因ならむ

大脳より神経線維集まりて延髄過ぐる細くくびれて

先天性視覚障害の四十歳白髪の母の肩に縋り来

筒状の視力僅かに残るのみ骨小体様色素網膜をおほふ

通院をなすとも癒ゆる望みなし胸重くなる言葉を告げぬ

眼底に盛り上がりゐる黒き塊メラニン色素写真に光る

右の目の摘出手術避けがたく宣告なさむ思ひためらふ

フロイトのコンプレックスさながらに襁褓外しし三歳児威張る

姫女苑古代タイルの割れ目よりカラカラ浴場の床になびきぬ

ローマ遺跡オレンジの実ユダの花夜来の雨に濡れて色濃し

暁にメロンのやうな月出でぬ皇太子妃に雅子さん決まる

十三階の目の高さ行く雲ありてその雲の峰一つ明かるむ

 平成六年

静かなる物腰に座し視力低下訴ふる眼の尋常ならず

近視の手術四十年経て角膜の白濁なせる不幸な転帰

「重篤なる肝炎持ちをり失明に至らず死なむ」それもよからむ

世代毎に違ふ術式言ひて映す「超音波吸引手術」のビデオ

混濁せるレンズ砕かれ吸ひ込まれ跡形もなく瞳孔澄みぬ

「思ひ煩ひは神にまかせよ」幼子のペテロの手紙の暗誦聖句

三日月を踏むマリア像キリストを抱きて黒き光まとへり

眼科医の右手大事と守り来し君と最初で最後の握手

仰ぎ見る滝より散るは何ならむ光のなかを微塵が飛びぬ

 平成七年

火に遭ひし壁画囲める空間は炭化の柱のなかに浮き出づ

描かれたる壁画の顔料変化せりにび色となる銅水銀鉄鉛

炭化せる丸き柱の表側避けて触れたる木肌あたたかし

夢殿の開きたる厨子照らす灯に救世観音像正目にいます

パートナー誘ふが如くひと吾にオランウータン手を差し出せり

ひとりなる歌の世界に学ぶこと終りのなきは嬉しきことよ

雨霧らふ池より出でて動かざるスープ皿ほどの亀は首伸ばす

ホームレスと路上に寝る亀見比べて何か安らぐ上野の森に

魔法何時解けたのかしら幼児の生き生きと眸笑みかけて来る

 平成八年

仰ぎ見る原爆ドーム神の手に届くがごとし空行く鳥の影

「広島に特殊爆弾落つ」と聞きし日を思ひ出でドームに祈る

原爆の情報ひそかに伝はりしかの夏の日の防空頭巾

シーボルトのとこしへの愛の色ならむ鉢のあぢさゐ大輪の花

のびやかに小花の群るる紫のあぢさゐの前に諸膝をつく

篠島に若き医として働きし日は遥かなり潮騒の音

かばかりのスペースたりしか天水を受けて洗眼なしし診療所

波の上に線となりゐしゆりかもめ暮るるひかりのなかに飛び立つ

池の水澄みて残んのかきつばた古今和歌集伝授の遺跡

みづすましにならぶ笹舟たゆたへり夏の日差しに傾きながら

 平成九年

太陽と暁の雲棚引ける海の果て見つ露天の岩場に

岩礁の間はげしき黒潮の逆巻く流れ出で湯を抱く

サイパンに暫くとどまる機内にて誰にともなく祈りを捧ぐ

細胞の種類六兆あるなかに遺伝子は十万といふいのちの不思議

生きてゐるものみな誇り持つならむ共通遺伝子かくも多きは

大陸の桂花が若葉となるかたへ鑑真御廟に香?き申す

(以上、『鑑真の眼』より)

 平成十年~十二年

太陽の赤く昇るを知りたるは小二の汝の一輪車の上

進化論に則り眼球出現す実証しゆく論旨の魅力

中心視成立までを支配する共通遺伝子太古に現る

動物の眼は何故にかく似るか君の研究それに答ふる

太陽のはぐくみ太古に現れし光感受細胞の進化の歴史

薦を巻く若き山桜柔らかき葉に添ふ小さきはなびらふるふ

生きもまた痛ましかりし盲と聾の君の訃を聞く春近き日に

肩を撫で背筋たてよと盲聾の痩せゆく君にせめて吾が手を

己が身は己保ちて夫と立つ氷河の彼方氷原ひろがる

主宰なき「詩歌」も古き「アララギ」も消えて重きよ歌詠むものに

行灯のほの暗き光導ける戒壇院は月に明るし

揚州の柳の襖に囲まれて和上に捧ぐる秋の七草

砂浜に泳ぎてはまた象に乗り夕日送りぬ子の誕生日

石塊をこともなく象の踏み行きて背の我らも川に入り行く

昔昔氷河の切りたる地の深く入江となれり船は面舵

バルチック艦隊ここより発ち征きて戦死者の名を教会に掲ぐ

エストニア貧しくはなし世界より集ひ挙りて「わが祖国わが愛」唄ふ

英一が「冬の木曽路」を歩みたる思ひ懐かし木曽川に沿ふ

赤沢の檜の森ゆ赤川の流れ来て鋭角に橋桁赤し

君重ねたり吾の語れる鑑真の盲目の書に千切り絵の書を

鑑真の眼を診たるごと君の目を診て失明を確めし日よ

親指の爪に千切りし「時よ命よ」心眼の書の言葉痛まし

楠の一木造り二千年の歴史まさしく百済観音立たす

霧雨の桑名の寺の薩摩びと宝暦治水の墓石寄り添ふ

封建の世に隠忍の薩摩藩歴史を思ひ維新に及ぶ

 平成十三年~十五年

肝腫瘍術後の夫と窓の日差し受けて感謝す何にともなく

吾の住む笠寺の歴史聞きしのち風に歩めり一里塚まで

千鳥ヶ淵墓苑の道は緩やかに曲りて馬酔木の花咲き続く

花言葉犠牲と言へる馬酔木の花千鳥ヶ淵の墓苑に白し

六十年を隔つる悲しみ持ちながら重慶へ飛ぶ夫と並びて

小舟にて訪ぬる蜀の古桟道岩穿ちたる高さを見上ぐ

夕暮に少し間のある襟裳岬風強きなか灯台白し

道産子十勝の馬は日高へと天馬街道を七騎の渡る

 平成十六年~十八年

大空に星瞬かぬ夜夜に見ゆ赤き火の星妖しき火星

火の星は忌はしき星つづきたる爆発炎上わが夫も病む

火星いま十三夜の月の真下なり雲切れし果ての宇宙の暗さ

肝病巣痛めつけたる治療終へ気力失するを夫の嘆けり

レントゲン透視の部屋の夫に添ふ鉛を縫ひし重き服着て

首の骨一つ侵さるる黒き翳夫の癌転移像黙して見詰む

告知とふ残酷ありやその心如何にか夫よ互に黙す

三年後の映画の中の「9・11」暗黒の館内に爆発轟く

わたり来る霧にふはりと巻かれゐつ一の倉沢大石の上

山霧の流れにまかせ死神の行き交ふ谷に吾もただよふ

立山の霞む海沿ひ青き田を行く高速道ねむの花咲く

研修の女性主治医の初仕事わが頚動脈のエコー造影

日輪も黄砂に白し昼の空散り来る花の風に渦巻く

堂島川見下ろす宿に夕暮れて盲目の歌手テレビに唄ふ

高原を開きし道に従へば鶯一羽の声ほしいまま

元旦の雑煮家族と食む夫よ篤き病の年のはじまり

緩和ケア施設入所を断りて今の今ある夫を看取らむ

(以上、『進化論に則り』より)

 * 最後に夫の死後の歌五首を載せて百五十首とする。

2007年4月1日夫生きて穏やかに咲く花に会ひたり

書見器に三校刷り置き文字を追ふ夫の見せゐる最後の気迫

星一つ曳きて冴えをり三日月終焉近き夫と仰ぎぬ

棺覆ひ夫の一生のゆたかなりトヨタにありて育てし人ら

白き花部屋に並びて薫り立つ白蘭白薔薇白菊白百合

(完)