地母神の鬱

放浪の父と穏しき母の血と分ちて天秤座の吾が揺れやまず 『吾が揺れやまず』1983

拒むごとき砂の嵐にふぶかれて修羅なす髪が地に影おとす

吹かれつつかたち変えゆく風紋の砂の自在をかなしみて見つ

こころなき言葉の痛みかつて吾も知らず言いしと思い耐うるも

思うこと言わずなりたりまたひとつ胸に象のなき石を積む

北をゆくかなしみひとつ雪原の墓標はわれのはてかも知れぬ

砂浜に打ち上げられし流氷の幾日を石のごとくに乾く

身のひとつ置くべき処なき町をいでて歩めば光る夜の川

宿るあて無くて佇む夜の港凍てつくごとく鉄の船いる

石筍と鐘乳石と伸び競いわずかとどかぬ天と地の間

暁闇に漂う白き木蓮のかなしさ杳きあやまちに似て

白足袋に清水は沁みぬ塔にゆく道の朽葉の厚きをふめば

みずからを灼きつつ放つ炎をまとい曳かるるごとく海に入る陽は

岩床の亀裂の深みに根づく木のおのずからなる彩りに燃ゆ

いつまでか吾が修羅つづく山あいに花火消えたるのちの寂しさ

うたがわず恐れず果てしや軍神という十代の人間魚雷

原爆の悲惨つたえむ語彙あまた失う夏の長崎昏るる

被爆者の少女の写真にかさなりて夕顔白き広島の夏

あどけなき瞳うつろの難民を写して主張の無きルポの記事

いねむれる母が炬燵に開きいしアルバムに若し亡き父と兄

人間の声聞きたくてつけておく吾れに無縁の深夜番組

吾が曳ける影ふくらみて歩み重き霧の夕べを沈丁花匂う

地下駅の支柱を今日は左折してみずからのジンクスひとつ破りぬ

シャッターを上げつつ交わす挨拶に慣れてこの街に棲みつく吾れか

有精卵をパックに詰めるも哀れなり孵らぬものは白磁に似たる

種子無しにされし菜果のたぐい増え人間病みやすき世に出会いたり

極まりて傾きやすき心には釈迦も羅刹も横むき給え

炉となりて町一つ燃ゆ わが心さくらの雲を見つつ思える 『蛹の香』1989

馬のにおい澱める貨車に折れ釘のごと通学のひとりなりしか

むくろまたむくろメコンを浮かびゆくを花散る淵に立てば思わむ

白き花のかこめる君の顔小さく傷つきし右眼閉じ難きかも

鉄橋を過ぎつつ見れば川原には乏しき水の照り返しあり

亡き母が団扇使いているごとく風はきたりて項に触るる

たまさかに閑を得しわれおろおろと歌書をあさるは虫のごときか

宴さなか歌人いちにん危機感をいかがなすやと問うに息のむ

一人の死に捉われて歳晩に活けし臘梅の水涸らしけり

風雨過ぎし野のはてに見ゆ大いなる夕日あかあかと雲を分けゆく

天つ日の光に花の濡れゆくがごとき離反のこころなりけり

這うごとく母登りけむ階段の脇の手すりの手あぶらに照る

胸元の白き肌にしみつきし蛹の香こそ日本の母の香

絹糸を負わされ父と立ち食みし蛹油の天ぷらうどん

桑の葉に鳴りいずる雨に日本の絹の道ゆきし父し思ほゆ

里芋の葉にしろがねの露は揺れ夕べ精霊の遊びのごとし

不意にして滝のごとくに雨の来るこのくらやみの天空の魁

暮れなずむ市場に人らむらがりて虫さえ寄らぬ野菜をあさる 『王者の晩餐』1995

ちいほあきみずほの国の世紀末 農薬の稲雨にしくだ

麦育つために雪降れホームレス思えば降るなこのふたごころ

少量といえども食品添加物すべなく摂りぬ砒素のごときを

飢餓の世を知る身なれども身のために箸をつけざり養殖の魚

信濃路は昏れんとしつつ青白く発光したり山畑の葱

佐久の他の有機づくりのにんじんを洗えばしきりに自己主張はじむ

玄米に稗、粟、黍など混ぜて炊く 豊かなるかな王者の晩餐

夏芋の花から花へ渡りゆくてんとう虫に心なごむも

裏窓にいつしかさがる葛の葉の黄ばむひと葉が光を透す

浄水器の水試し飲む客のいて酸性の雨降りくらむ空

農薬を使わぬ梅の収穫の少なきを言う紀州の訛り

日本の地盤の沈む現象の明らかなれど凪ぐ海美しき

地球という星が在りしと過去形で語らるるなけれ 野に梅ふふむ

排気ガスがもたらす雨についに死すグリム童話の森の木々たち

はてしなく地中を冒しゆくものかもはや戻らぬ野の草いきれ

滅びゆく天球にしてわが生も地を這う虫のごとくさまよう

ふるさとの変わらぬ空にひともとの見棄てられたる桑を寂しむ

傾きし小屋に蚕の籠高く積み残されて風通りたり

屋敷神あさな夕なに祀りたる祠ありけり秋草の中

夕空に枝ひろげたる裸木に祖霊降りくるごとき風花

甲村下黒澤の沢の蟹 われら人類ほろぶとも生きよ

夢の島にいかなる夢を見よと言う人形の首ざんばらの髪

くらやみに香は極まりぬ立ち仰ぐ空の渚に波立つ辛夷

葬りすみ駅の広場の夕闇に佇みいたり鬼になるまで

地下茶房わがユートピアにさくら咲く備前の甕のあかがねの空

さざなみの照るにかげるに美しき海 汚染されたる魚あさる鳥 『冬の蛍』2002

鵜の群れは風をとらえて飛翔せり 発てざる鳥の陸の羽ばたき

大楼閣つらなる闇の湾岸の地底ひそかに潮立ち騒ぐ

世捨小路の念仏橋に立ち嘆く佐渡の嫗は汚れる川を

愛恋の虫の音聴かぬ去年今年 天球の秋深みいるらし

列島に黒き大気の垂れ込めて空気ボトルを売る白日夢

銘酒生む水をそのまま瓶に詰め売る世をなげく酒の蔵元

電源を切りし無韻の闇におれど脳髄を犯す電磁波いかに

うらうらと揚がるひばりの空の鬱 孵らぬ春に地母神の鬱

杉並区わが街ながら瓦斯室のごとき空気に気管くるしむ

いのち賭け商い来たる自然食いま深層の水も危うき

無添加の食品を売るわが自負の無為の嘆きに聴くラヴ・ソング

汚染魚を摂りし母胎に育つ子の統ぶる世紀はいかなる姿

盂蘭盆のコンビニエンス・ストアーに籠を提げたり老人ひとり

平凡が良しと働く人に添いいよよ修羅なすわが短詩形

水中のブナひともとの黄葉の梢を浮かべダム鎮まらず

戦争の世紀の終り もろこしの花粉にまみれ蝶ら悶死す

天つ日も雨も恵みと言いかねつ 日傘雨傘盾のごとしも

含羞のささやきに似て降る雨に仄か心のつのぐむあわれ

雨の鬱 うつの微粒子染み透る 春は菜の花だいこんの花

やわらかき雨の気配に包まれて胎児のごとく眼を閉じる

人間のさびしきこころ言いあてぬ率直なれば演歌は沁みる

母と見し夕焼けこやけの空いずこ寒の茜は宙に錆びつく

まぼろしか水清からぬ川の辺の茅の枯葉に冬蛍ひとつ

ふるさとは寂しきものか行き暮れて諸行無常のきびすを返す

父知らず子識らずの世や 国境の宙を漂う蒲公英の絮

若者の群れいる地下の居酒屋に両性具有の貝の酒蒸し

言ぶれのひと葉に従きて降りしきる巨き公孫樹の金の剥落

後戻りきかぬ齢の細道に花を拾いて散華たのしむ

人の生の成りゆきとして往きつくを白寿と決めて鉛筆削る