忘れられた女神たち

ヘディ・ラマ―(Hedy Lamarr, 1914-) エクスタシーと呼ばれた女

私の人生がもし不幸だったとしたらそれは私の美貌ゆえだ。

一九三三年、オーストリアの十八歳の新人女優が主演した一本のチェコ映画が世界中に一大センセーションを巻き起こした。プラハに生まれハリウッドで監督修業をしてきたグスタフ・マハティ監督の恋愛映画「春の調べ」である。
 この映画のなかで世界映画史上はじめて本格的に女優がヌードになり、大胆なセックスのエクスタシーをスクリーンにさらしたのだ。年の離れた夫と結婚した若い妻が性的不満にかられ、ある日、森の中の湖に泳ぎに行く。それを近くに住む若い土木技師が覗き見る。カメラは男の視線になり湖畔を全裸で走る彼女の姿をとらえる。映画史上はじめてのオールヌード・シーンといっていい。
 さらに彼女が若い技師に抱かれたときカメラは彼女の恍惚の表情をとらえた。この映画が上映されたパリの映画館では、彼女の官能的な表情に衝撃を受けた観客が「エクスタシー!」と叫んだ。商才のあるグスタフ・マハティ監督は観客の反応に喜び映画の題名をただちに「春の調べ」から「エクスタシー」に変えた。そして「エクスタシー」は主演女優の代名詞になった。
 この「エクスタシー」女優がウィーン生まれの美女ヘディ・ラマーである(当時の名前はヘディ・キースラー。後にハリウッドに行ってからラマーと改名)。「春の調べ」はただちに“公序良俗に反する映画”として世界各国で上映を禁止された。ローマ法皇はすべてのカトリック教徒にこの映画を見ぬよう呼びかけた。政権をとったばかりのヒトラーもドイツの公開にクレームをつけた。アメリカでは彼女の全裸よりも恍惚の表情が「オーバーセクシー」とされ公開が禁止された。結局、満足な形で上映されたのは、フランス、イタリアなどわずかな国しかなかった。
 日本では「たそがれの維納ウィーン」や「未完成交響楽」が公開された一九三五年(昭和十年)に東和が輸入、内務省の検閲で大幅なカットは受けたものの、曲りなりにも筋が通る形でその年の七月に帝国劇場で公開された。親子ほども年の違う老人と結婚した若い女性の性的不満というセンセーショナルな題材と、瞬間的だがヘディ・ラマーの全裸の姿が見えるということで人気を呼び大ヒット。『日本映画発達史』の著者・田中純一郎氏の言葉を借りれば、そのヒットぶりは「突風的」だったという。
 私は残念ながらこの映画を見ていないが、いわれているほどのポルノ映画ではなかったらしい。当時この映画を見た評論家の清水晶氏は「きわめて美しい、巧みな暗示や象徴による芸術的趣向がこらされていて、“性の解放”を生命の讃歌にまでたかめている一種の前衛映画といっていいものである」とまで評価している。監督のグスタフ・マハティはこの映画で一九三四年のヴェネチア映画祭監督賞を受賞している。
 だが大衆ファン・レベルではこの映画はやはりへディ・ラマーのエクスタシーの映画だった。だからこそローマ法皇までやっきとなって公開を禁止しようとした。
 そして映画が非難を浴びれば浴びるほどへディ・ラマーの名前は広く注目された。とくに彼女がアメリカでもフランスでもなくウィーンの女優であったことがミステリアスな印象を与えた。「春の調べ」一本で彼女は「エクスタシー」という形容詞を与えられただけでなく、「ファム・ファタル(運命の女)」という当時の女優に対する最高の讃辞を冠せられた。

ヘディ・ラマーは一九一四年ウィーンの裕福な銀行家の娘として生まれた。名門の令嬢として最高の教育を授けられたが映画・演劇界へ夢を持ち、たまたまウィーンの映画会社の撮影所を見学中にその美貌が監督たちの目にとまりハイティーンのうちに映画界入りした。ヘディ・ラマー自身、後に「私の人生がもし不幸だったとしたらそれは私の美貌ゆえだ」といったように彼女は素晴らしく美しかった。ブルネットの髪、つんと上を向いたアロガントな鼻、官能的な唇、そして少し焦点の定まらない大きな目。後にハリウッドで彼女が出演したミュージカル「ジーグフェルト・ガール」のなかで相手役のトニー・マーチンは彼女の美しさを讃え「君は夢からぬけでた女」と歌ったが、ヘディ・ラマーを見ると誰もがその美しさだけに心を奪われた。だから彼女自身「私の美しさに関心を持つ男はたくさんいるけれど私自身に関心を持つ男は一人もいない」とぜいたくな悩みを訴えたほどである。

ヘディ・ラマーがスイスの寄宿学校にいたころ彼女はリッター・フランツ・フォン・ホーへステッテンという名門の御曹子と婚約した。しかし女優になることを夢見たヘディ・ラマーは彼との婚約を破棄した。純情な名門の御曹子は絶望し、彼女と結婚できないのならと首吊り自殺してしまった。まさに女優になる以前からこの美しすぎるウィーンの女は「運命の女」だったのである。

当然、ウィーンの社交界は彼女を放っておかない。彼女がウィーンの舞台「シシー」でオーストリアの愛らしいプリンセスを演じたとき彼女を見染めたのがフリッツ・マンドルという大金持である。彼はたちまち彼女に花束の贈り物を続け、他の大金持のライバルを蹴落として二十歳も年下のヘディ・ラマーを妻にすることに成功した。一九三三年八月、ヘディ・ラマーが十八歳のときである。時あたかもドイツ、オーストリアではヒトラーのナチズムが台頭していたが若い深窓の美女には外の世界のことはまったく分からなかった。
 ヘディ・ラマーの夫となったフリッツ・マンドルは実は「戦争を始めるのも終らせるのもこの男」といわれたユダヤ人の武器商人だった。ユダヤ人であるため、後にアメリカに亡命を余儀なくされるのだが、当時は、ヴィスコンティの「地獄に堕ちた勇者ども」のモデルになったクルップ財閥と並び権勢をほしいままにしていた。ムッソリーニがエチオピアに侵攻したときの武器を供給したのはこの男といわれている。美女に目がない男でヘディ・ラマーと結婚する前にはドイツの女優エヴァ・メイと付き合っていた。しかし結婚には至らず、エヴァ・メイはそのあと謎の自殺を遂げている。
 自殺といえばヘディの友人で、ヒトラーの愛人だったこともあるレナート・ミューラーがその頃ゲシュタポの監視に耐えられずホテルから飛び降り自殺している。三〇年代のドイツではナチズムが暗い影を落とし始め、女優もまたその美しさゆえに政治と無意識のうちに関わりを持たされるようになっていたのだ。ヒトラーに追われた女優だけでなく囲われた女優もまた悲劇の道をたどるのである。
 武器商人のフリッツ・マンドルは十八歳の花嫁を、召使いが二十人もいるウィーンの大邸宅に住まわせ贅沢三昧の生活に溺れさせた。しかし、嫉妬深い夫は召使いに彼女を監視させ、大邸宅のなかに“軟禁状態”にした。

ヘディ・ラマーは一九六七年に『エクスタシーと私』という回想録を出版するがそのなかで「(そのころ)私は欲しいものすべてを叶えられた。服、宝石、毛皮、七台の車。しかし自由だけがなかった」と書いている。

夫のフリッツ・マンドルは実は「春の調べ」を見たことがなかった。ある日、彼は妻の評判作はどんなものだったのかと屋敷内の映写室で「春の調べ」を上映させた。そしてはじめてそこに全裸の妻を見て仰天した。
 激怒したマンドルは財にまかせて「春の調べ」のプリントをすべて買いあさり妻のヌードを世界じゅうから抹殺しようとやっきになった。マンドルは約二年間、プリントを買いつづけた。しかしこの絶望的な試みは結局あきらめる他なかった。なぜならマンドルがプリントを高値で買っているという情報が広がるや、プリントの数はますます増え、値段はますます上がっていったから。計画を放棄したマンドルは前以上に妻に冷酷になった。
 ヘディ・ラマーは“自由”を求めて夫の屋敷から脱出することを決意した。ある夜、身の回りの宝石とわずかばかりの現金を持って召使いに変装し、彼女はウィーンからパリへと脱出した。一九三七年のことである。ヨーロッパは第二次大戦前夜の騒然とした社会状勢にあった。
 へディ・ラマーはマンドルの追及を逃れるため、また、女優としての活動を再開するため、その年の九月、ハリウッドに渡った。苦境におちいったヘディ・ラマーを助けたのは当時のMGM映画社のタイクーン(絶対君主)、ルイス・B・メイヤーだが、商売人の彼はヘディ・ラマーの足元を見て“安く買いたたいた”。それでも彼女としてはアメリカに渡るため、メイヤーの条件をのむ他なかった。だから回想録のなかで彼女は、自分を侮辱し、「『春の調べ』のような“ダーティ”な映画に出た君の“アス(尻)”を見るような客はアメリカにはいないよ」といったメイヤーを酷評している。
 それでも彼女はメイヤーの条件を受け入れるしかなかった。彼女はグレタ・ガルボやマルレ一ネ・ディートリヒのようにヨーロッパからアメリカへ招かれたのではなく、いわば“難民”としてハリウッドに行かざるを得なかったのだ。いくら「春の調べ」で世界的センセーションを巻き起こしたといっても、ハリウッド映画界から見れば彼女はまさにルイス・B・メイヤーがいったように「“ダーティ”な映画に出た女優」でしかなかったのである。
 その彼女のアメリカでの輝かしいデビュー作となったのが一九三八年にユナイトで作られた「アルジェ」という映画である。題名から容易に想像できるようにこの映画はジャン・ギャバン、ミレーユ・バラン主演、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の「望郷」のリメイクである。製作はハリウッドの名独立プロデューサー、ウォルター・ウェンジャー。監督は当時活躍していたジョン・クロムウェル(映画ファンなら彼がロバート・アルトマン監督の「ウェディング」に老人役として特別出演したのを記憶していよう)。ジャン・ギャバンが演じたペペ・ル・モコには当時フランスからハリウッドに来ていたシャルル・ボワイエが決まっていたが、ヒロインの“パリの香りのする”ギャビーだけはなかなか決まらなかった。ドロレス・デル・リロやシルヴィア・シドニーといった当時の第一線の女優の名前があがったがミステリアスなパリの女には一長一短だった。ところがある夜、シャルル・ボワイエはハリウッドのパーティでギャビーにふさわしい女優を見つけた。ボワイエは彼女が当時のハリウッド女優には珍しいブルネット、いやレイブンと呼んでいいほどの黒い髪をしているのに目を奪われた。そして彼女を製作者のウェンジャーに推薦した。

いうまでもなくこの黒い髪の女優がヘディ・ラマーである。ウェンジャーも監督のクロムウェルも彼女の暗い美しさに圧倒されただちにギャビー役をヘディ・ラマーに決定した。そしてこの作品がヘディ・ラマーのハリウッドでの地位を決定的なものにした。

アルジェのカスバに逃げ込んだ稀代の悪党ペペ・ル・モコがパリからやって来た彼女の美しさに魅了される。そして警察に逮捕されるのが分かっているにもかかわらずパリに去る彼女を見送るためにカスバから外に出る。ここでもヘディ・ラマーは男の運命を狂わせる「ファム・ファタル」だった。
「アルジェ」でヘディ・ラマーが見る者の目を奪ったのはシャルル・ボワイエも注目したその黒髪だった。それまでハリウッドの女優の髪といえばブロンドがもっとも美しいものとされていた。グレタ・ガルボがそうだったし、メイ・ウェストもクララ・ボウもブロンドだった。クララ・ボウなど“ハリウッド女優にはブロンドがふさわしい”というセオリーに従いすぎて金髪に染めすぎてしまい仕方なく“プラチナ・ブロンド”と新しいネーミングをしたほどだった。クラーク・ゲイブルと結婚した人気者のコメディエンヌ、キャロル・ロンバードもブロンドだった。
 そうした“ハリウッド女優はブロンド”という定説を破ってヘディ・ラマーはみごとな漆黒の髪を見せつけたのである。このあとハリウッド映画界はエリザベス・テーラー、エヴァ・ガードナーのような黒髪の美女を持つようになるが、そのはしりがヘディ・ラマーだったということができるだろう。
「アルジェ」のヘディ・ラマーを見て、当時の大女優ジョーン・クロフォードは次回作のために髪を黒く染めた。ジョーン・ベネットも髪を黒に変えた。さらにまた「アルジェ」のヘディ・ラマーは黒い髪を真ん中から左右に分けてみせたが、この“パート・イン・ザ・ミドル”のヘアスタイルを当時の女優たちは競って真似るようになった。マール・オべロン、ドロシー・ラムーア、エレノア・パウエル。そしてもっとも有名なのは一九三九年に作られた「風と共に去りぬ」のヒロインに抜擢されたヴィヴィアン・リーの髪型である。彼女はこの大作のなかで“パート・イン・ザ・ミドル”の黒髪でスカーレット・オハラを演じたが、ヴィヴィアン・リーの髪型こそ「アルジェ」のヘディ・ラマーの髪型の真似だったのである。この髪型は、ヘディ・ラマーのようなノーブルな彫刻的な鼻にしか似合わないものとされている。
「アルジェ」は実はMGM映画ではなくユナイト映画である。“ダーティ”なヘディ・ラマーを低く評価したMGMのタイクーン、ルイス・B・メイヤーが彼女を気安く他社に貸し出してしまったのである。ところがこれが大ヒットしてしまった。あわてたメイヤーはただちにヘディ・ラマーをMGMに呼び戻した。クラーク・ゲイブル、スペンサー・トレイシーと共演した「ブーム・タウン」(四〇年)、ジュディ・ガーランド、ラナ・ターナーと共演した「美人劇場」(四一年)、そしてこれはパラマウント作品だが彼女のハリウッド映画での記念碑となるセシル・B・デミル監督の大作「サムソンとデリラ」(五〇年)といった話題作に彼女が出演していくのはこの「アルジェ」の成功以後である。
 だがハリウッドに行ってからのヘディ・ラマーが有名になるのは実は、その華やかな映画出演歴という以上に、“みだらな”男性遍歴のためである。正式な結婚歴だけでもフリッツ・マンドルをはじめとして六回。そのすべてが離婚。それだけでなく、彼女の回想録『エクスタシーと私』を読むと、自身「私は色情狂といっていい」といっているほどエクスタシー、エクスタシーの連続なのである。この本はあまりにその男性遍歴がすさまじいのでわざわざ彼女のかかりつけの精神科医が「この本は決して異常な本ではなく、一人の女性が率直に性の快楽を告白した本である」と前文を寄せなければならなかったほどのスキャンダラスなものである。
「古典的なインポテンツから、私を縛りつけムチで打ったサディストまで」すべての男を登場させたこの本は、まさにハリウッド・バビロンにふさわしい内容を持っている。エロール・フリンやクラーク・ゲイブルはプレイボーイとして実名で出てくる。チャップリンは「私にはチビすぎた」と捨てられる。三番目の夫、ジョン・ローダー卿は「一晩に八回もしてくれた」と称讃される。あえて“サム”と匿名で出てくるハリウッドのタイクーンの一人(サミュエル・ゴールドウィンか)は、彼女と等身大の“ダッチワイフ”を作らせ彼女の見ている前でそのレプリカとセックスをする。

ヘディ・ラマーの「ファム・ファタル」の妖しい魔的美しさはこうしたハリウッド・バビロンのデカダンスのなかでのみ咲くのが可能だった悪の華の美しさだったのだろう。
「アルジェ」のあとセシル・B・デミルの大作「サムソンとデリラ」(五〇年)の妖艶なデリラ役で彼女は再びそのグラマーぶりを見せつけたが、この時すでに三十七歳。中年になってからも女優が活躍できる状况は当時まだなく、この映画をピークに彼女のところにくる出演依頼は駄作が多く、もう自分の時代でないことを知ったヘディ・ラマーは一九五七年に引退していった。
 ヘディ・ラマーは、“宝石と毛皮と香水”の似合うゴージャスな女優だった。現在のTシャツとジーンズのカジュアル型の女優とはまったく違う。彼女はどんなときでも宝石で身を飾った。
「若い女性が分不相応な宝石を身につけるのはその女に背徳の美しさを与える。なぜなら彼女の背後に高価な宝石を買える男がパトロンとしているという事実を宝石は暗示しているのだから」とはヘディ・ラマーの名言である。女性が意志的に生きるようになった今日、彼女の言葉は時代遅れのものでしかないかもしれないが、こういう背徳の美学を失ったために女優たちが神話性を失い、小粒になっていったのも事実である。
 何年か忘れていたこの女優を思い出したのは三年ほど前、ニューヨークのカードショップでマルレーネ・ディートリヒやグレタ・ガルボにまじって彼女の若い頃のブロマイドをあしらったカードを見つけてからである。ディートリヒやガルボのものは何種類もあるのにヘディ・ラマ―のは一種類しかなかった。私には、その“ひそやかさ”がかえって彼女の美しさを際立たせているように見えた。

イデス・ヘッド(Edith Head, 1897(1907?)-1981) ハリウッドの衣裳デザイナー

私は映画の衣裳デザイナー。ファッション・デザイナーではない。

ユニバーサル映画社の撮影所のなかで殺人事件が起る「刑事コロンボ」の一篇に、ピータ・フォーク扮するコロンボが広い撮影所のなかで迷ってしまい間違ったドアを開けるシーンがある。部屋に入るとなかにはズラリとオスカーの像が飾ってある。コロンボは感心してそれを眺める。と、部屋の奥にいたいかにも女史ふうの女性が、コロンボを見てひとこと「あなた、その汚いレインコート、お捨てになったほうがいいわよ」という。
 これは映画ファンにはうれしい楽屋落ちである。というのもこの女史こそハリウッドの名衣裳デザイナー、イデス・ヘッドだからだ。「刑事コロンボ」に彼女はイデス・ヘッド自身として特別出演し、およそ服装にかまわないコロンボにひとことユーモラスに“小言”をいったのである。

ほうきのような前髪と黒いサングラスがトレードマークのイデス・ヘッドは一九八一年に死去するまで五十八年間にわたってハリウッドで活躍した衣裳デザイナーの第一人者である。セシル・B・デミルが君臨していた一九二〇年代のパラマウント映画社に入社して以来、彼女が衣裳を手がけた女優は、クララ・ボウ、キャロル・ロンバード、マルレーネ・ディートリヒ、グロリア・スワンソン、メイ・ウェスト、ロザリンド・ラッセル、ジンジャー・ロジャース、ザザ・ガボール、べティ・デイヴィス、バーバラ・スタンウィック、エリザベス・テーラー、グレイス・ケリー、オードリー・ヘプバーン、シャーリー・マクレーン、ナタリー・ウッドとそうそうたる顔ぶれである。
 コロンボが彼女の部屋に飾ってあるオスカー像の数にびっくりするのも無理はなく、一九四八年にアカデミー衣裳デザイン賞が設定されて以来、彼女は「女相続人」(四九年)をはじめとして「イヴの総て」(五〇年)、「サムソンとデリラ」(五〇年)、「陽のあたる場所」(五一年)、「ローマの休日」(五三年)、「麗しのサブリナ」(五四年)、「よろめき珍道中」(六〇年)、「スティング」(七三年)と八個もオスカーを受賞している。一九五〇年の二つのオスカーは白黒デザイン賞(「イヴの総て」)と色彩デザイン賞(「サムソンとデリラ」)の同時受賞である。

アカデミー賞の内幕を描いた映画「オスカー」(六六年)で彼女が受賞者として特別出演したのは“マダム・オスカー”ならではである。受賞だけでも八回と多いがノミネートにいたっては三十五回。ほとんど毎年候補にあがっていたといっていい。
 ハリウッドの衣裳デザインの歴史は、一九四八年にようやくアカデミー賞の対象になったのを見てもわかるように決して恵まれたものではない。グレタ・ガルボのデザインならアドリアン、ディートリヒならトラヴィス・バントンと一部にその女優の銀幕イメージを決定してしまうような優れたデザイナーがいたが全体としてはただゴージャスに着飾ればいいという考えが圧倒的で、エレガンスやソフィスティケイトの感覚は皆無だった。
 たとえば若き日のイデス・ヘッドがその下で働いたセシル・B・デミル監督は「十戒」をはじめとするバイブルものを得意とする大仰なスタイルの持主で、のちにイデス・ヘッドは「デミルはともかく派手好きだったのでデザインのアイデアに困ると靴もベルトも金色に塗って持っていった。するとデミルは喜んだ」と回想している。
 草創期のハリウッドではまだ女優は飾りたてれば飾りたてるほどゴージャスになるという考えが強く、女性のイデス・ヘッドがいくら「シンプルに飾ったほうが女優は美しくなる」といってもスタジオの男性重役たちは納得しなかった。だから初期のイデス・ヘッドの仕事は「金色」「ミンク」「ダイアモンド」を使わざるを得なかった。セシル・B・デミルは孔雀がお気に入りで自分の屋敷にも飼っていた。「サムソンとデリラ」の時はその孔雀の羽を使ってドレスを作れといわれ、イデス・ヘッドは労働意欲をなくしたという。もっともその孔雀の衣裳でアカデミー賞を受賞してしまうのだから皮肉ではある。

イデス・ヘッドが自分のデザイン感覚をのびやかに発揮するのはやはり戦後、自分自身がパラマウント社の衣裳デザイン部門のチーフになってから。彼女は従来の大仰な時代ものコスチュームにかわって、町を歩く普通の女性でも少しセンス・アップすれば着こなせる服を次々にデザインしていった。パリのデザイナー・ブランドのように超高級というのでもなければ、誰でも着こなせる庶民的というものでもない。「普通の女の子よりも一歩だけ先に行く」というのがイデス・ヘッドの衣裳哲学だった。

若き日のエリザベス・テーラーが主演した「陽のあたる場所」でイデス・ヘッドは彼女のために白のドレスをデザインした。エリザベス・テーラーは胸は大きかったが残念ながら脚が短かった。そこでイデス・ヘッドは彼女のために大胆に胸の大きさを強調し、逆にスカートの部分は「風と共に去りぬ」のヴィヴィアン・リーが着たような思い切り花が咲いた幅の広いドレスをデザインした。こうすると胸がより大きく見えるだけでなく腰がいっそう細く見えた。それを見てイデス・ヘッドはエリザベス・テーラーのウエスト・ラインが普通の女優以上に美しいことに気がつき、ウエストをさらに細くした。容貌はともかく、身体には自信がなかったエリザベス・テーラーはこのときはじめて自分のウエストの美しさを知りイデスに「ウエストをもっと強く、もっと強く」と頼んだという。
 「陽のあたる場所」でエリザベス・テーラーの着たこの白いドレスは全米のティーンの女の子たちに大人気になり、その年のハイスクールのダンス・パーティは白一色になった。イデス・ヘッドの衣裳デザインがアメリカの普通の女の子に求められるようになった最初である。
 だが「私はファッション・デザイナーではない。あくまでもスタジオの衣裳デザイナー。自分の個性を強く出すよりも女優の美しさをひきだしたい」と裏方に徹するイデス・ヘッドはデパートからのデザインの仕事は断わり続けた。
 イデス・ヘッドはエリザベス・テーラーのウエスト・ラインの美しさだけでなく肩のカーブの美しさにも気がついた最初のデザイナーだった。「リズの肩はハリウッドでいちばん美しい」ことに気がついた彼女は「巨象の道」(五四年)のエリザベス・テーラーに左肩がそっくり見えるドレスをプレゼントした。エリザベス・テーラーは次々に自分の美しさをひきだしてくれるイデスに感謝し、私生活でもしばしば彼女に衣裳デザインを頼んだ。バーバラ・スタンウィック、ドロシー・ラムーアといった往年のスターも映画界を引退してからもなおイデス・ヘッドにプライベート・タイムの衣裳のデザインを依頼した。アカデミー賞の授賞式に出席するほとんどの女優は彼女に式に何を着ていったらいいか相談した。そのために彼女には“ドレス・ドクター”という異名がついた。
「孔雀の羽」や「金色」の時代には女優は、自分が撮影で使った衣裳など映画が終れば着ようとはしなかった。いくら神話的時代とはいえその衣裳はあまりに装飾的だったし、だいいち実用的ではなかったからだ。しかしイデス・へッドの衣裳は女優がみんな、撮影が終ってからも自分のものにしたがった。なかには契約のときに「イデスの衣裳をもらえること」を条件にする女優もいた。
 イングリッド・バーグマンがヒッチコックの「汚名」(四六年)に出演したとき、イデス・ヘッドは彼女にほとんど宝石をつけさせなかった。かわりに彼女の彫りの深い顔とブロンドの髪とアイボリーの肌をひきたてるために黒のベルべットのドレスを着せた。宝石をつけないでも女優はこんなにも美しくなれるのかとスタジオの重役たちは驚いた。イデス・ヘッドの「シンプルであればあるほど美しい」という衣裳哲学の勝利である。ヒッチコックは彼女のエレガントなデザイン感覚を気に入り、「裏窓」(五四年)、「泥棒成金」(五五年)、「知りすぎていた男」(五六年)、「めまい」(五八年)、「鳥」(六三年)とその多くの作品の衣裳をイデス・ヘッドにまかせた。
 イデス・ヘッドもヒッチコックに好感を持ち彼の作品には全力投入した。アカデミー賞は受賞しなかったものの「あなたがいちばん気に入っている映画は?」という質問には彼女はいつも「『泥棒成金』よ。あの映画を見ればそれがわかるわ」と答えた。「泥棒成金」のなかでグレイス・ケリーはフランスのリヴィエラの海岸で遊ぶ金持のアメリカ娘を演じた。ヒッチコックはこのシーンでイデス・ヘッドに「海岸にいる男たちの視線がすべてグレイス・ケリーに行くようにデザインしてくれ」と注文をつけた。考えたあげく彼女はおよそ海岸のファッションとしては場違いな黒と白の、カクテル・パーティに出てもおかしくないようなドレスをデザインした。さらにグレイス・ケリーに大きな帽子をかぶせた。ヒッチコックはそれに満足した。「私は男の視線がすべてグレイス・ケリーに集まるようにといったので、あなたが彼女にビキニを着せるものだと思っていた」とイデス・ヘッドの意表を突くエレガンス作戦を称讃した。
 ちなみに何十人という大スターのなかでイデス・ヘッドがいちばん愛したのはこのグレイス・ケリーだったといわれている。グレイス・ケリーのなかにはイデス・ヘッドが求め続けていた「シンプルなエレガンス」があった。「泥棒成金」の他に「裏窓」「喝采」でイデス・ヘッドはグレイス・ケリーの衣裳を担当した。
 一九五六年四月、グレイス・ケリーがモナコのレーニエ国王と結婚したときイデス・ヘッドは彼女の結婚式のドレスをデザインすることを夢見た。しかしMGMのスターだったグレイス・ケリーの結婚式のドレスはMGM専属のデザイナー、ヘレン・ローズがまかされることになった。そのニュースを聞いたイデス・ヘッドはアカデミー賞を逸したとき以上に悲しんだ。あきらめきれないイデスは、「せめて外出着だけでもデザインさせてくれ」と頼んだ。「もちろん費用はこちらもちで」。そして彼女はグレイス・ケリーのためにグレイのシルクのスーツを作った。彼女はグレイス・ケリーがいつも好んだ長い、白い手袋をつけるのを忘れなかった。そしてハネムーンに立つグレイス・ケリーがその服を着てファンに手を振っているニュースを見たとき、イデス・ヘッドは一人で喜びの涙にくれた。
「シンプルであればあるほど美しい」という衣裳哲学を持つイデス・へッドが愛したもう一人の女優はオードリー・ヘブバーンである。「ローマの休日」(五三年)のなかでイデス・ヘッドはこのオランダからきた妖精にはじめは宝石と王冠のゴージャスなプリンセス・ルックを着せ、そのあと一気に、町のティーンエイジャーが着てもおかしくないサーキュラー・スカートと、プレイン・ブラウスに変えさせた。のっぽのオードリーのために当時としては珍しいフラット・シューズを使った。彼女がブラウスのそでを少しまくるとよりカジュアルに、よりスポーティに見えた。
 この映画を見たハイティーンの女の子たちは競ってオードリーのスタイルを真似た。「ローマの休日」はイデスに五つ目のオスカーをもたらした。

オードリー・ヘプバーンが「麗しのサブリナ」で見せたトレアドール・パンツが“サブリナ・ルック”として一世を風靡したことはよく知られている。だがこれだけ、スクリーンのなかの女優の衣裳が時代のファッションをリードするという光栄に浴しながらもイデス・ヘッドは「私はファッション・デザイナーではなく、スタジオのコスチューム・デザイナー」という謙虚な姿勢を崩さなかった。
「私はその年の流行を作り出したいのではない。ただ女優の美しさをひきだしたいだけなのだ」。
 女優のデザインばかりを強調して書いてきたが晩年、彼女は男優のファッションにも興味を持った。彼女が手がけた男性作品で忘れられないのは「明日に向って撃て!」(六九年)と「スティング」(七三年)である。どちらもおしゃれなジョージ・ロイ・ヒルの監督作品。
「明日に向って撃て!」は従来のガン・プレイ中心のマッチョ的西部劇と違って「徴風の吹き抜けるソフト・ウエスタン」と評されたがそれにはイデス・ヘッドのデザイン感覚が大きく貢献していると思う。キャサリン・ロスのあのひだ飾り、レース、羽飾りのついた“乙女チック”ファッションもさることながら、ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードにソフトな帽子をかぶせたのがなによりも魅力的だった。そのために二人は西部のガンマンというよりアール・ヌ―ボーのボヘミアンのように見えた。ヒル、ニューマン、レッドフォード、そしてイデス・ヘッドのカルテットによる「スティング」はノスタルジックな三〇年代男性ファッションを強調し、“Tシャツとジーンズ”のニューシネマを再び、ファッショナブルな世界に連れ戻した。この映画はアカデミー賞の衣裳デザイン賞を受賞したが、男性映画が同賞の衣裳デザイン賞を受賞したのはハリウッド映画史上はじめてのことである。いかにおしゃれな映画だったかがわかる。

イデス・ヘッドは実は生年不明。一九〇七年生れ説と一八九七年生れ説がある。これは裏方に徹した彼女が自分の私生活のことを多く語らなかったためである。カリフォルニアの大学を出たあと裕福な子女のための高校でフランス語の先生をしていたが一九二〇年代に「教師の給料では生活できない」のでハリウッドの衣裳部門に就職した。デザインの経験はまったくなく就職試験のとき友人たちのスケッチを借りて持っていったというエピソードが残っている。
 結婚歴は二回。フランス語の先生時代に結婚したチャ―ルス・ヘッドとは数年で離婚したが、ハリウッドで知り合った美術デザイナー、ウィアード・イルヘンとは四十年間に及ぶ結婚生活をまっとうした。夫は一九七九年に九十九歳で死去。イデス・ヘッド自身はその二年後に死去した。葬儀にはエリザベス・テーラーはじめロレッタ・ヤング、ジェイン・ワイマン、ジャネット・リー、ジョージ・ペパート、ロディ・マクドウォールらそうそうたるメンバーが参加した。子どもは一人もいなかった。
 イデス・ヘッドの人生は裏方に徹したものだった。身長が五フィート(一五二センチ)しかなく、しかも前歯が出ている(彼女のあだ名は“ビーバー”)ため小さい頃から極端なひっこみ思案で、トレードマークとなったサングラスも自分を隠すためだったといわれている。ハリウッド人種のパ―ティに出ることはほとんどなかった。そして彼女自身は自分を飾ることが下手で、ある年には「ワースト・ドレッサー」に選ばれたこともある。

彼女が晩年もっとも愛した女優はナタリー・ウッド。古いハリウッド映画界の人間としてミニ・スカートを極端に嫌ったイデス・ヘッドは脚の美しいナタリー・ウッドを見て、彼女のためにはじめてミニ・スカートをデサインしたという。

ドロシー・ダンドリッジ(Dorothy Dandridge,1923-1965) 黒いヴィーナスと呼ばれた黒人女優

私はアメリカの素晴らしい黒人女性たちを映画の中で演じたかったのに……

一九五四年のアカデミー賞ははなやかだった。

その年、主演女優賞にノミネートされたのは「スタア誕生」のジュディ・ガーランド、「麗しのサブリナ」のオードリー・ヘプバーン、「喝采」のグレイス・ケリー、「心のともしび」のジェイン・ワイマン(レーガン前大統領の元夫人)、そして唯一人の黒人女優「カルメン」のドロシー・ダンドリッジの五人だった。
 黒人がアカデミー賞を受賞したのは一九四〇年の「風と共に去りぬ」のハティ・マクダウェルの例が唯一で、これが最初にして最後だった。しかも彼女はメイドの役で助演女優賞に選ばれたに過ぎなかった。
 ドロシー・ダンドリッジは違った。彼女はオットー・プレミンジャー監督の意欲的な、黒人だけのミュージカル「カルメン」(五四年)に情熱の女として主演し、堂々と主演女優賞にノミネートされたのだ。アカデミー賞史上、黒人が主演賞候補に選ばれたのははじめてのことである。また黒人がアカデミー賞の授賞式に列席できたのは第二次大戦後これがわずか三回目のケースだった。また黒人が戦後はじめてアカデミー賞に参列したのは一九五〇年。俳優ではなく黒人解放運動の指導者ラルフ・バンチ博士が差別撤廃を訴えるスピーチをした。二人目は一九五二年の歌手ビリー・ダニエルズ。主題歌賞にノミネートされた「ビコーズ・ユー・アー・マイン」を歌った。
 三人目の黒人、最初の黒人女性、ドロシー・ダンドリッジは白人の大スターにまじって緊張しきっていた。下馬評では「スタア誕生」でカムバックしたジュディ・ガーランドが圧倒的に有利だった。「麗しのサプリナ」のオードリー・ヘプバーンもういういしかったし、「心のともしび」のジェイン・ワイマンも素晴らしかった。同じ黒人のエンタテイナー、サミー・デイヴィス・ジュニアはなんとかドロシー・ダンドリッジをと願っていたが、黒人であることのハンディに加えて「ミュージカル映画はアカデミー賞ではめったに評価されない」(S・ディヴィス・ジュニア『ハリウッドをカバンにつめて』)という“伝統”もあった。
 プレゼンターのウィリアム・ホールデンが舞台に受賞者の名前をしるした封筒を手に持って現われた。「ウイナー・イズ・・・・・・(受賞は)」――意外なことにそれは「喝采」のグレイス・ケリーだった。ショックを受けたジュディ・ガーランドはその日から失意の日々をおくり、やがてクスリと酒の果てに死んでいった。しかしそれはまた別のストーリーである。
 受賞は逸したもののドロシー・ダンドリッジは満足していた。ノミネートされただけでも彼女にとっては夢のなかの出来事だった。しかもその席で、「波止場」で主演男優賞を受賞したマーロン・ブランドがわざわざドロシー・ダンドリッジのところに来て、敬意のキスをしたのだ。
 プレミンジャー監督の「カルメン」は全米に一大センセーションを巻き起こした。黒人だけのミュージカルという特異性が話題を呼んだうえに、ホセ役のハリー・べラフォンテとカルメン役のドロシー・ダンドリッジがしなやかなすばらしい踊りを見せつけた。とくにドロシー・ダンドリッジの女豹のような褐色の姿体が素晴らしくエロティックだった。赤いバラの花が彼女の黒い肌と赤いタイトスカートにあざやかに美しかった。
 一九五四年の十一月、アメリカの“国民雑誌”『ライフ』はドロシー・ダンドリッジを表紙にして「世界で一番美しい女性」とたたえた。『ライフ』誌が黒人の女性を表紙にしたのはこれがはじめてのことだった。美貌で知られた黒人歌手レナ・ホーンは時代が十年早かった。黒人版『ライフ』といわれた『エボニー』誌も彼女を表紙にした。『タイム』も「カルメン」とドロシー・ダンドリッジを絶讃した。
 彼女はついにその年、ニューヨークの格調高いホテル(天皇が泊ったという)ウォルドーフ・アストリアのディナー・ショーで歌った。黒人がこのホテルで歌うのはナット・キング・コールとレナ・ホーンにつづいて三番目のことだった。彼女の宿泊用の部屋は、アイゼンハワー大統領の部屋と隣接していた。そのために黒人のなかには「ドロシーは白人のお気に入りになった」と批判する人間もいた。アメリカで成功する黒人にぶつけられる典型的な批判だった。
「アメリカの黒人は二つの人種によって嫌われる。ひとつは白人によって。もうひとつは黒人によって」という古いセオリーがまだ生きていた。彼女は有名になればなるほど、スターになればなるほど、自分が黒人であることに悩まなければならなかった。
 ドロシー・ダンドリッジは一九二三年、オハイオ州のクリーブランドに生まれた。彼女が生まれてすぐ妻子を捨てて家を出た父親は半分は白人の血を持っていたという。とするとドロシーはいわゆるクウォーターということになる。父親に去られたあと母親は肉体労働をしながら三人の娘を育てた。歌のうまい三人の娘は姉妹でチームを作っては教会や黒人のパーティで歌を歌うようになった。当時の黒人の姉妹スター・グループ、アンドリュース・シスターズの向こうを張ってダンドリッジ・シスターズと名乗るようになった。三人姉妹の二番目のティーン・エイジ歌手としてこのころ彼女はマルクス兄弟の映画「マルクス一番乗り」(三七年)に出演している。またコッポラの映画「コットンクラブ」で知られるニュ―ヨークのハーレムにあった、ギャングのオーウェン・マッデンが経営する“白人のエリート客のための黒人のエンタテイナーのナイトクラブ”コットンクラブに出演したこともある。
 人種差別の強い時代だったから彼女もその点では辛酸をなめた。小学生のころ白人の女の子と親友になった。ある日、彼女の家に招待された。スーパーマーケットを経営する父親はドロシーに親切だった。しかし買物から帰ってきた母親は違った。彼女はやさしい笑顔を浮かべてドロシーにいった。「悪いけどもうお家に帰ってね」。
 ティーンエイジャーになったとき彼女の一家はロサンゼルスに移住していた。ある日、彼女はスーパーマーケットに買物にいった。レジのところで並んでいるとうしろから白人の不良少年たちが彼女の身体を触りはじめた。我慢しつづけたドロシーが耐えられなくて「やめて!」と叫ぶと白人の少年たちは野卑な笑顔をうかべて「こいつ、白人に触ってもらっているのに怒っているぜ」といった。こういうことは一九四〇年代には日常茶飯事だった。
 ドロシーがショービジネス界に本格的に入るようになったころ、彼女は「ミート・ザ・ピープル」というショーに出演した。端役だったがショーはヒットし、MGMによって映画化されることになった。しかし一九四〇年代のこと「白人にまじって黒人が口をきくことは許されない」風潮だった。他の白人出演者はみんな映画に出ることができたのに、黒人のドロシー・ダンドリッジだけは出演が許されなかった。十八歳のドロシーは、マスカラが落ち、化粧がくずれるまで泣きに泣いた。
 スターになってからも彼女はいわれない黒人差別を受けなければならなかった。「カルメン」の成功のあと、当時としては珍しく冒険的な“白人と黒人のラブロマンス”をとりあげたロバート・ロッセン監督の「日のあたる島」(五七年)に出演したときは、黒人女性として白人男性のジョン・ジャスティンの相手役をつとめたが、このとき白人のジャスティンは黒人のドロシーに本来なら「アイ・ラブ・ユー」といえばいいところをぼかして「ユー・ノウ・ハウ・アイ・フィール」といいかえなければならなかった。
 マイアミのホテルのディナー・ショーに呼ばれたときは、豪華なホテルで白人のために歌を歌ったあと、夜になるとマイアミ市内の黒人だけのゲットーの粗末なホテルに寝に帰らなければならなかった。
 それでいて成功してからは今度は「白人に魂を売った女」と批判されなければならなかった。死ぬ一年前の一九六四年、彼女は『エブリスィング・アンド・ナッスィング(あらゆるものと無)』という自伝を出版し、そのなかで黒人女優としての成功と挫折、夢と悔恨をストレートに告白したが、黒人たちからは「黒人の解放運動を百年前に戻しただけだ。この本に出てくる黒人の女は、白人の男とべッドを共にし、アルコールとクスリに溺れていく」と批判された。失意のドロシー・ダンドリッジは前以上に酒と睡眠薬におちこんでいった。
 「カルメン」で成功し、“二匹目のドジョウ”、同じオットー・プレミンジャ―監督の「ポギーとベス」(五九年)に出演し、一見はなやかなスター街道を疾走しているように見えながら、その背後では終始「黒人であること」のハンディを負わなければならなかった。ケネディ政権以前の保守的な政治風土のなかでは、いくらオスカーにノミネートされたとはいえ黒人の女優に毎年のように主演作がくるというわけにはいかなかった。黒人としてはじめてオスカーの主演女優賞にノミネートされながら、その後、彼女のところにくる役はアフリカの奴隷娘とかジャングルの女王といった安っぽくエキゾチックなものでしかなかった。彼女は、のちにダイアナ・ロスが演じることになる黒人ジャズ歌手ビリー・ホリデイの伝記を演じたいという夢を持っていたが、スポンサーはつかなかった。
 「アメリカには素晴らしい黒人女性がたくさんいる。私はそれを演じたい。それなのにプロデューサーはどうして私にインディアンとかメキシコ娘しかやらせないの……」と抗議したが白人支配のハリウッドでは彼女の願いを聞くプロデーサーはいなかった。
 だがともかく――彼女は美しかった。『ライフ』誌が「世界で一番美しい女性」とたたえたあと、あらゆる雑誌メディアは彼女の写真を撮りたがった。「私はモデルではなくて女優なのに」と、ときには彼女もぜいたくな悩みをもらすこともあった。
 “黒いヴィーナス”“セピア色のクイーン”“エンジェル・フェイス”――彼女にはいくつもの最高の讃辞が与えられた。いい寄る男たちも無論多かった。ブラジルの百万長者は彼女に宮殿のような家を見せ「君が僕の愛人になるのならこのすべてをあげよう」とプロポーズした。コロムビア映画社のタイクーン、ハリー・コーンは社長室に彼女を呼び、ナイトガウン姿でいきなり「私と寝てくれたら君を大スターにしてやろう」とビジネスライクに切り込んだ。ヨーロッパのある貴族は、先祖代々伝わる屋敷に彼女を連れていき、彼女の見ている前で、下僕の小人たちを相手にアブノーマルなセックス・オージィを展開した。
 彼女もまた「美しすぎることの不幸」というぜいたくな悩みを味わわなければならなかった。彼女は極端に男性恐怖症になった。自分を見るとすぐにベッドに誘いたがる男に嫌悪を感じた。男に食事を誘われると、どうやって逃げ出すかばかりを考えた。普通以上に純潔・貞操にこだわった。
「カルメン」の情熱的な女のイメージが強烈なため、今日、ドロシー・ダンドリッジというと“あの黒いセックス・シンボルか”というイメージが強いが、実生活の彼女はイメージと正反対だった。むしろ彼女の魅力はソフィスティケイテッド・レディぶりにあった。
 「カルメン」の監督プレミンジャーははじめてドロシー・ダンドリッジに会ったとき「君は上品すぎる。とても男を手玉にとるパラシュート工場の女には見えない」と彼女の起用を渋った。仕方なく彼女は黒いかつらをつけ、肩がむきだしになった赤いシャツを着、腰の線があからさまになったタイトスカートをはいて、プレミンジャーの部屋に押しかけた。そしてモンロー・ウォークの真似をしてプレミンジャーのデスクにすわると脚線が輝くように、タイトスカートから美しい足をむきだしにした。プロシア貴族の狷介なプレミンジャーもそれを見て「OK」とうなずく他なかった。
 ドロシー・ダンドリッジは二度、結婚している。最初は無名時代に、黒人のエンタテイナーのハロルド・ニコラスと (一九四二~五一)。このとき彼女は一人娘ハロリンを産んだが、出産のときのトラブルのため、子どもは知恵遅れになってしまった。十七歳になっても四歳の知能しかないこの女の子はドロシーにとって桎梏になった。自分が自分の健康を管理していなかったから不幸な子どもが生まれたのだという罪悪感にさいなまれ続けた。夫のニコラスは妻と障害児を捨てて去った。彼女が一人でハロリンを育てなければならなかった。
 二番目の夫は白人の実業家ジャック・ディニングス(一九五九~六二)。「カルメン」で成功したあと、ドロシー・ダンドリッジは監督のプレミンジャーを慕ったが、二人の関係は、年齢の差、人種の差のため、幸福な結果にならなかった。白人の美男俳優ビーター・ローフォードとも浮名を流したが、結局、長続きしなかった。
 二番目の夫ディニングスは事業に失敗した。事業といっても、妻のドロシーの稼いだ金をつきこんだものだった。レストラン、ホテル、石油。すべてが失敗だった。ディニングスと離婚したときドロシーに残されたのは夫が作った十二万ドルにも及ぶ借金の山だった。
 十二万ドルを支払うにはドロシー・ダンドリッジは疲れはてていた。スターになったとはいえ彼女の望む役はまったくこなかった。知恵遅れの子どもの養育費も大変だった。
 彼女は、成功の頂点にいながら、屈託、悩み、恐れを忘れるために酒と睡眠薬に逃避していった。
 そして一九六五年、四十二歳の若さで、ハリウッドの自室のアパートで孤独に死んでいった。部屋に最初に飛び込んだマネージャーは、バスのかたわらに倒れて死んでいるドロシー・ダンドリッジの死体を見つけた。
 死因は何だったのか。心臓マヒによる自然死という説と、睡眠薬の飲みすぎによる自殺としいう説がいまも二つある。
 一時は年間、十二万ドルも稼ぎだした彼女の銀行には二ドルしか預金残高がなかった。「白人にも憎まれ、そして黒人にも憎まれた」美しすぎる“黒いヴィーナス”の孤独な死だった。

キャサリン・アン・ポーター(Katherine Anne Porter,1890-1980) 寡作のボヘミアン作家

何度も結婚し、恋したが、いつも一人だった。

最近出版されたトルーマン・カポーティのインタビュー集『カポーティとの対話』を読んでいたら、カポーティが初期に影響を受けた作家としてウィリアム・フォークナー、ユードラ・ウェルティ、カーソン・マッカラーズと並んでキャサリン・アン・ポーターをあげていた。
 九十年の長い生涯のうち発表した作品は短篇集が三つ(『花咲くユダの木・その他』『蒼い馬・蒼い騎手』『斜塔・その他』)、長篇が一つ(『愚者の船』)ときわめて寡作な作家であるキャサリン・アン・ポーターの名前をカポーティがあえて影響を受けた作家としてあげたのは、その現実と幻想が溶け合う暗い作品世界の魅力もさることながら、彼女の放浪につぐ放浪の生き方の魅力のためではなかったろうか。
 キャサリン・アン・ポーターはいつも古ぼけたスーツ・ケースを二つ持っていた。一つには書きかけの原稿用紙や未完の短篇がぎっしりと詰まっていた。もう一つのスーツ・ケースにはとりあえずの服や下着が入れてあった。「いつも自分を身軽にしておかなくては」と彼女はこのスーツ・ケース二つで放浪生活をおくった。
 アメリカ国内はもとよりメキシコ、フランス、ドイツと九十年の生涯で彼女が住んだ場所は五十カ所に及んだ。その多くは、安下宿であり、満足な家具などない寒々とした貸間であり、安ホテルだった。晩年、『愚者の船』が彼女の本としてはじめてベストセラーになり、ようやく経済的な安定を得ることができたが、それまではボへミアンの生活が常態だった。
 一九二〇年代、動乱のメキシコに行ったときは革命軍の農民兵士たちと行動をともにしたこともある。当時、西欧人の多くが野蛮な国として目も向けなかったメキシコを彼女はすっかり気に入り、晩年になってからも「メキシコは私の第二の故郷」と愛情を表明した。インタビュアーが「それでは第一の故郷は?」と聞くと「長い人生、あまりにいろいろなところを歩いてきたのでどれが第一の故郷だかわからなくなってしまった」と答えた。
 彼女は立派な仕事部屋で原稿を書く書斎派作家ではなかった。旅の途中の安ホテルで、間借りしていた友人の家で、と転々としながら創作に没頭した。旅ばかりしているのでせっかく書き上げた原稿をなくしてしまうこともあった。「あの原稿がぜんぶ残っていたら私の著作ももう少しふえていたのに」。
 小柄で華奢な女性だったが、見かけ以上に彼女はエネルギッシュで情熱的だった。
 メキシコでは革命軍の英雄パンチョ・ビラになんとか会見しようとした。結局会うことはできなかったが、アメリカの新聞や雑誌にパンチョ・ビラ支持の記事を書いて送った。革命軍の兵士たちと共に移動し、夫や恋人のために移動列車の屋根の上で火を熾し食事を作るメキシコ女たちの生活力に感嘆の声をあげた。
 アン・ポーターの短篇に「マリア・コンセプシオン」という秀作がある(『花咲くユダの木』所載)。メキシコの農村に住むマリアという強い意志を持った女性が主人公である。彼女は十八歳のときファーンという農夫と結婚した。しかし夫はすぐに十五歳の若い愛人を作り、家を出た。やがて二人はもとの村に戻り、マリアの家のそばに住んだ。若い愛人には赤ん坊が生まれた。マリアは何事もなかったように無表情に毎日の仕事に精を出した。しかし、ある日それまでの感情が一気に爆発し、マリアは夫の家にしのびこみ愛人をナイフで刺し殺した。二十数回も刺した。そのあと赤ん坊をひきとった。夫はマリアの家に戻り、赤ん坊と三人の“平凡な”生活が始まった。
 この物語は、アン・ポーターが実際にメキシコで見聞した事件をもとにしているという。アン・ポーターはこういう日常の静穏な風景に潜む狂気に強く惹かれていった。彼女の唯一の長篇『愚者の船』(なんと七十歳のときの作品!)はナチスが政権を獲った一九三三年を舞台にメキシコからドイツに向かう客船に乗り合わせた人々を描いた人生模様だが、そこに描かれるのは、娼婦と間違えられる欲求不満の離婚女性、ナチスの心酔者、落ちぶれた野球選手、麻薬中毒の伯爵夫人――と日常性から逸脱したフリークのような人間たちばかりだった。

ちなみにこの映画はスタンリー・クレイマー監督によって一九六五年に映画化された。情緒不安定の離婚女性を演じたのは、当時ローレンス・オリヴィエと離婚し自身もノイローゼ状態にあったヴィヴィアン・リーで、この映画の彼女は「これがかつてスカーレット・オハラを演じた美女か」と驚くほどやつれ、凄惨な魅力を露出させた。その凄みがキャサリン・アン・ポーターの描くグロテスクな人間模様によく合っていた。

アメリカ文学にはマーク・トウェンからへミングウェイに至る、どちらかといえば子どもっぽい、明るい、人生肯定的な系列がまずある。その隣にそれとは対照的なエドガー・ポーからカポーティに至る、グロテスクで、暗い、幻想的な系列がある。キャサリン・アン・ポーターは当然、後者に属する。
 アン・ポーターは一八九〇年、テキサス州のインディアン・クリークと呼ばれる牧畜地帯に生まれた。西部開拓史上よく知られたパイオ二ア、ダニエル・ブーンを祖先に持つ父親はその土地で牧場を営んでいた。アン・ポーターが生まれた家は丸太小屋だった。当時のテキサスは「男と牛には天国だが、女と馬には地獄」といわれるほどの土地柄で、母親はキャサリン・アン・ポーターを産むとすぐに病死した。それから彼女の、生涯を決定づける転々とした生活が始まった。祖母の家で育てられ、さまざまな修道院の学校をたらいまわしにされた。後年、彼女は自分のことを「テキサス・ジプシー」と呼んだが、それは自分自身の一所不住の少女時代を踏まえてのことだった。
 初期の短篇に登場する、母親のいない少女ミランダ・ゲイは、そのままキャサリン・アン・ポーターの少女時代の自画像である。話し相手になる保護者もなく、友人らしい友人もなく、彼女は本の世界に没頭していった。とりわけエミリー・ブロンテの『嵐が丘』が好きで、毎年一回はあのペシミスティックな悲劇的愛のドラマに我を忘れていった。
 保護者のいない放浪生活の不安からのがれるために彼女が考えた道は、結婚だった。まだ女が自分で仕事をして社会に出るという考えすらなかった二十世紀のはじめである。彼女はただ生活を変えたいというそれだけの理由で三つ年上のジョン・ヘンリー・クーンツという名もない若者と結婚した。この結婚生活は九年間続いたが、今日、キャサリン・アン・ポーターの伝記をよく読んでみてもこのクーンツなる人物がどういう男だったのかはくわしく描かれていない。テキサスのセールスマンらしいが要するに「アン・ポーターの人生の初期に登場した無名の人物」である。
 九年間の結婚生活のあと、キャサリン・アン・ポーターは、男に頼らず自分一人で生きていく決心をした。まだ二十五歳と若かったし、文章を書く仕事に強い関心を持っていた。テキサス州の田舎町の小さな新聞社、コロラド州デンバーの新聞社――と、彼女はローカルの新聞社を転々とした。仕事は主として映画評や演劇評だった。給料は安かった。その時代の働く若い女性は安い給料を、男性とのデ―トで補っていた。つまり年上の男性にデートに誘われ、豪華なタ食にありつくことで栄養のバランスをとっていたのだ。
 しかし誇り高いキャサリン・アン・ポーターは、そういう自衛手段を拒否した。安月給で寒いデンバーの安下宿で一人暮しを続けた。おかげで彼女は身体をこわし長期療養を余儀なくされてしまった。このころ彼女は、デンバーで知り合った陸軍中尉と恋をした。一目惚れの恋だった。しかし第一次大戦後、アメリカ全土を襲ったインフルエンザが二人の恋を悲劇にした。陸軍中尉は病のためあっけなく死んだ。アン・ポーターも危篤状態におちいった。生命だけはとりとめたものの黒いちぢれ毛が全部、白くなっていた。
 一九三九年にアン・ポーターがわずか七日間で書きあげた『蒼い馬・蒼い騎手』はこのときの悲劇的な恋愛をもとにしている。「あの小説をわずか七日間で書きあげることができたのは彼の霊が私を励ましてくれたからです」と彼女はいっている。生まれたときに母親を失っているアン・ポーターは人一倍、スビリチュアルな力に敏感な女性でもあった。
 サレムの魔女たちについての文章を書くため、バミューダの安ホテルに閉じこもったときは、原稿執筆中にふとうしろをふりかえると魔女たちの霊が立っていた、という“経験”もシリアスに語っている。
 一八九〇年に生まれ、一九八〇年、九十歳の誕生日のすこしあとにゆっくりと死んでいったキャサリン・アン・ポーターは、二十世紀の現代史とともに生きた“激しい季節”の女性でもあった。
 開拓時代のテキサス、フラッパーとして生きた二〇年代のジャズ・エイジ、メキシコ革命、二つの世界大戦――と彼女は、現代史の最前線を走り抜けた。
 一九二〇年代にはデンバーからニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジに出てきてボヘミアンの芸術家たちと“グリニッチ・ヴィレッジの青春”を楽しんだ。三〇年代には、“失われた世代”の作家たちが集まったパリに行き、ヘミングウェイや、サロンの中心人物だったガートルード・スタインに会ったりした(しかし放浪癖の強いアン・ポーターは彼らパリの作家たちの中心からは離れたところにいた)。
 メキシコ革命のときは、パンチョ・ビラに惹かれる一方で、二〇年代のフラッパーらしく、メキシコの芸術家たちとマリファナ・パーティを楽しんだり、闘牛に興奮することも忘れなかった。
 一九二七年のサッコとヴァンゼッティの事件――つまり、無政府主義者という理由で不公正な裁判にかけられて死刑に処せられた二人――のためには、寝食を忘れて抗議行動に取り組んだ。毎日のように抗議デモに参加し、そのつど職務に忠実な警官にゴボウ抜きされ逮捕された。留置場で七日間も暮した。ついには警官が「今日はキャサリンはデモに来ていないのか」と寂しがるほどの仲になった。
 ナチス台頭期には彼女はベルリンに流れていった。ナチズムの倒錯的な美学に惹かれるものがあったのかもしれない。そこで彼女はあるパーティでナチスの要人へルマン・ゲーリングと知りあった。ゲーリングは美しく利発なこのアメリカ女性が一目で気に入り、何度もモーションをかけた。しかし、パンチョ・ビラを支持し、サッコとヴァンゼッティのためにデモをする女性が、ユダヤ人や女性を平気で侮蔑する第三帝国の“知性”と折り合うはずもなかった。アン・ポーターはゲーリングの命令調のデートの申込みを振り切ってドイツを去った。
 アン・ポーターは九十年の生涯を流れ、流れ続けた。開拓者ダニエル・ブーンの血をひいているためか、彼女は流れることに心地よく身をまかせた。天性のノマド(流民)であり、巡礼だった。さまざまな職業を転々とした。映画のエキストラ、新聞記者、編集者、ゴーストライター。
 作家といっても晩年の『愚者の船』までは彼女は、まったく一部の仲間うちにだけ知られたごくごくマイナーな存在でしかなかった。一九三五年に出版された最初の短篇集『花咲くユダの木』はわずか六百部の限定出版だった。二ドルの定価がつけられていて、それが全部売れたとしても彼女の手元に入るのはわずか一二〇ドルでしかなかった。経済的にはとても「作家」といえなかった。だから彼女は、ゴーストライターを含めてさまざまな陰の仕事についた。
 そしてまた――キャサリン・アン・ポーターは“恋多き女”でもあった。最初の結婚は「人生以前」として度外視するとしてもその後、一九三三年にジーン・プレスリーというメキシコ在住のアメリカ大使館員と、さらに一九三八年には、ルイジアナ大学の英語教授アルバート・アースキンと、二度結婚している。アースキンは、アン・ポーターの短篇集『蒼い馬・蒼い騎手』を出版した『サザン・レヴュー』誌の編集長だったが、一九三八年に二人が結婚したときは、彼女は四十八歳、彼は二十七歳だった。
 彼女自身、「私は三度、結婚し、四人の恋人と同棲した」といっているように、その他にも彼女はたくさんの恋人がいた。なかでもよく知られているのは、詩人のハート・クレインとの関係である。グリニッチ・ヴィレッジ以来の友人である二人は、メキシコ革命期のメキシコ・シティで再会し、友人以上の関係になった。しかしハート・クレインは当時、アル中と、ホモセクシュアルに悩まされていた。泥酔してはメキシコの街頭の美少年を買い、それに倒錯的な愛撫を繰り返すデカダンスの詩人に、同じ芸術家としての自負を持つアン・ポーターは、有効なアドバイスを与えることはできなかった。むしろ彼女は、堕ちていくハート・クレインに羨望すら感じていたのかもしれない。
 二人の関係は結局、一九三二年、ハート・クレインがハバナ沖で、乗っていた客船から海に飛び込み、入水自殺して果てたことで終わった。
 放浪、漂流、巡礼――キャサリン・アン・ポーターの九十年の生は、乱暴にいってしまえば、得られないものを探し続けた“青い鳥”探しだったといえるかもしれない。ロストジェネレーション(失われた世代)の作家というと、すぐにヘミングウェイやフィッツジェラルドといった男性作家の名前があがるが、キャサリン・アン・ポーターもまたロスト・ジェネレーションの作家といっていいだろう。
 「私は三度結婚して、四人の恋人と同棲しました。それなのに人生のほとんどを、一人で過ごしたのです」という彼女の言葉(『キャサリン・A・ポーター、自己を語る』E・H・ロペズ著、小林田鶴子訳、大阪教育図書)のなかに、失われた世代の作家の、誇り高い孤独を見ることができる。
 先述したようにアン・ポーターの晩年は幸福だった。後輩作家たちは彼女の暗い魅力に称讃を惜しまなかった。『愚者の船』は大ベストセラーになり、映画にもなり、アン・ポーターははじめて経済的な安定を得た。ケネディ大統領主催のパーティに招待されたりもした。

晩年、彼女は、死を覚悟し、アリゾナの家具商から質素な木の棺をメイル・オーダーでとりよせた。それを居間に飾っておき、来客にうれしそうに見せた。ときにはなかに入ってみせたりした。一九八〇年九月、彼女がメリーランド州の自宅でやすらかに死んだとき、友人たちは遺体をその棺のなかに入れた。棺のなかでは無論、彼女はひとりだった。そしてひとりでいることが彼女にはいちばん似合っていた。

マーガレット・バーク-ホワイト(Margaret Bourke-White,1904-1971) 二十世紀を撮り続けた女性カメラマン

自分の目だけでは、悲惨な光景を正視できなかった。

彼女が撮った写真のなかで強烈な印象を与えるのが一枚ある。

一九四五年五月、ナチス・ドイツ崩壊のとき従軍カメランとしてドイツに入った彼女がライプチヒで撮影した生々しい写真だ。戦争が終り、米軍がライプチヒに進軍したその日にライプチヒ市長はピストル自殺した。まず妻を撃ち、娘を撃ち、最後に自分を撃った。ライプチヒ市に入ったマーガレット・バーク-ホワイトは、その自害した市長の死体にカメラを向けた。妻と娘はソファに横たわり、市長は机にうつぶせになっていた。娘は正装していた。卓上のカレンダーは、十三日の金曜日が開かれていた。
「部屋に入るなり私は足がすくんだ。それでも死と対峙するのが私の仕事だと思ってシャッターを押した。敵だというのに大きな悲しみが私を襲った。厳粛な気持になった。そのとき私は自分がこの仕事を選んでよかったと思った」

バーク-ホワイトは『ライフ』の特派カメラマンとして第二次世界大戦に“参戦”した。『ライフ』は『タイム』で成功したヘンリー・ルースによって一九三六年の十一月に創刊された。ルースはこの新しい写真雜誌でアメリカと世界の、豊かで平和な暮しを紹介しようと考えた。創刊号の一ページめには帝王切開によって生まれた赤ん坊の写真を大きく掲げ、「ライフは始まる」という希望にみちた見出しがつけられた。
 しかし新しい雑誌はヘンリー・ルースの願ったようにはいかなかった。一九三六年以降、世界のいたるところで戦争が始まってしまったからだ。平和な市民生活の写真のかわりに、『ライフ』には戦争の写真が載るようになった。のちにルースは「新しいライフを求めて創刊した雑誌が、まるで戦争写真集のようになってしまった」と苦く語った。しかし、そこに戦争がある限り、ジャーナリストとしてはともかく戦場という現場に行かなければならない。
 ヘンリー・ルースから親しく“マギー”と呼ばれたバーク-ホワイトは、女性としてはじめて『ライフ』の“戦争力メラマン”に選ばれ、第二次世界大戦の最前線に送りこまれた。「多分、ルースは、それまで男臭い仕事ばかりをしていた私を女だとは思わなかったのでしょう。私もカメラマンという仕事を選んだ以上、女だからといって後方の仕事を与えられるのは嫌だった」。
 それまでバーク-ホワイトは大恐慌下の南部に行き、貧しい農民たちと生活を共にしたことがあった。スパイ小説『三十九階段』の作者(ジョン・バカン)としても知られるカナダ総督のトウィーズミュア卿と北極探険に出かけたこともあった。馬でコーカサス旅行を試みスターリンの母親の写真を撮ったこともあった。
 一九四二年から四五年までバーク-ホワイトはアメリカ空軍の従軍カメラマンに選ばれた。女性が従軍カメラマンになったのははじめてで、彼女のために特別の制服が仕立てられた。彼女の写真は空軍パイロットのあいだでひっぱりだこのピンナップになった。
 バーク-ホワイトは空軍とともにイギリス、北アフリカ、イタリア、ドイツと前線を転戦した。爆撃機に同乗し、空からドイツの基地を爆撃する写真を撮った。イギリスから北アフリカに船で向かったときは輸送船がドイツの潜水艦に撃沈され、生命を失う寸前までいった。
「戦場では毎日が緊張の連続だった。私はその張りつめた気持が好きだった。若い兵隊たちの顔も緊張のなかで美しかった」
 バーク-ホワイトは一九三九年、三十五歳のとき『タバコ・ロード』や『神の小さな土地』で知られる南部出身の作家アースキン・コールドウェルと結婚した。二人で大恐慌時代の疲弊した南部の農民たちをルポした仕事がきっかけだった。コールドウェルが文章を書き、バーク-ホワイトが写真を撮った。二人のチームワークは完璧で三年後、二人は結婚した。社会派作家と女性カメラマンの結婚は理想的に見えた。しかし、結婚生活は長くつづかなかった。かねがね「作家の生命は長くて十年」といっていたコールドウェルは結婚後、作家活動がその言葉どおり停滞した。活路を求めコールドウェルはハリウッドに行き、映画の仕事に関わるようになった。お金は入るようになったが、何かが失われた。コールドウェルは妻のためにアリゾナに家を買った。しかし、カメラマンの仕事にいよいよ情熱を燃やしているバーク-ホワイトに「家」はかえって負担だった。一九四三年、第二次大戦の最前線を憑かれたように回っているときに、バーク-ホワイトはコールドウェルと離婚した。ただ、知的な彼女は「コールドウェルとの五年間は、二人にとって実に豊かで生産的だった」と付け加えることは忘れなかった。
 離婚に先立つ一九四一年、バーク-ホワイトは独ソ戦開戦後のソ連に入った。ソ連には以前にも一度、一九三〇年に第一次五カ年計画遂行中に行ったことがあった。彼女が革命後のソ連に入ることのできた最初のカメラマンだった。アメリカの労働者や農民の写真を臆することなく撮っていたバーク-ホワイトには、彼女自身の写真が「最高のパスポート」になった。その実績が認められてバーク-ホワイトは一九四一年に再度、ソ連入りに成功した。当時はまたドイツという共同の敵を迎えて、米ソが連帯を深めていた蜜月時代だったことも幸いした。
 そしてバーク-ホワイトはスターリンの撮影が許可された。「その日、私は通訳に連れられてクレムリン宮に入った。角ごとに兵隊がいて私たちをチェックした。部屋に通されて二時間も待たされた。こんなに緊張したことはかってなかった」。
 当時はソ連国内でスターリンが神格化され始めた時代だった。バーク-ホワイトが最初にソ連に行ったときは町じゅうにマルクスとレーニンの写真をかかげられていたが、今度はそれがレーニンとスターリンに変っていた。二時間待たせて現われたスターリンは、予想していたよりもずっと小さい男だった。そしてにこりともしない男だった。「これは本当に本物のスターリンなのだろうか」とバーク-ホワイトは思った。彼女はスターリンを少し大きく見せるためひざまずいて下からあおるようにして写真を撮ろうとした。そしてひざまずきながらわざとポケットのフラッシュ・バルブを床にまきちらした。床の上に這うようにして彼女はフラッシュ・バルブを拾い集めた。その姿を見てスターリンがかすかに笑った。その瞬間をバーク-ホワイトは逃がさなかった。
 たしかにバーク-ホワイトの撮ったスターリンの顔は、ソ連の公式発表の写真に比べると、ほんのかすかだが笑顏を読み取ることができる。有能なカメラマンというより、陽気なアメリカ女性としての“マギー”の勝利である。
 モスクワで彼女はドイツ軍による夜間爆撃を目撃し、シャッターを押した。戦争の写真であるにもかかわらずそれは夜空に打ち上げられた花火のように美しい写真になった。美は悲惨のなかにもあるのだ、とバーク-ホワイトは初めて写真のアンチ・ヒューマンな魔力を知った。
 しかし、バーク-ホワイトは有能なジャーナリストにも、美意識を持った芸術写真家にもなりきれなかった。戦場で死んでいく兵士にカメラを向けるたびに、自分だけが安全地帯にいて他人の不幸を客観的に撮影するカメラマンの仕事に良心の可責を感じ続けた。
 一九四五年、バーク-ホワイトはパットン大戦車軍団とともにドイツに侵攻した。そしてそこで想像を絶するユダヤ人の強制収容所を見た。骨と皮になった人間、意志も感情もなくなった目、穴のなかに捨てられた死体。男まさりの仕事をしてきたバーク-ホワイトにも正視できない光景の連続だった。あの鬼将軍といわれたパットン将車ですら衝撃を受け、収容所近くのドイツ市民に収容所内部の惨状を見せ、「これが君たちの指導者のしたことだ」と事実でナチス・ドイツの“美学”を示したほどだった。ドイツ市民はだれもが「私たちはこんなことが行なわれているとは知らなかった」と弁明した。そのことがバーク-ホワイトに二重の衝撃を与えた。
 しかし、報道カメラマンという仕事についている以上、「衝撃」のなかに座りこむことはできない。バーク-ホワイトは震える手でレンズを死体とやせさらばえたユダヤ人に向けた。「このときほど私はカメラを持っていることを有難いと思ったことはない。なぜってどの光景も私は自分の目で正視できなかったからだ。私がカメラを向けたのは、彼らの写真を撮ろうとしたからではない。むしろ逆で、目をそむけたかったからだ。カメラのレンズが私の目をかろうじておおってくれたのだ。カメラという“第三者”がいなかったら私はあの場所に一分もいることはできなかっただろう」と、バーク-ホワイトはナイーブに“カメラマンに徹しきれなかった”弱さを語っている。この弱さがあるからこそバーク-ホワイトの写真は見る者をとらえるのだと思う。
 収容所でシャッターを押しているうちに、彼女はついにファインダーをのぞくこともできなくなった。ただもう無意識にシャッターを押した。それは彼女にとってはただ泣くかわりの行為だったのだろう。当然なことに収容所で撮った写真には“いい作品”はなかった。「あの悲劇を前にしたら“いい写真”を撮ろうという気力はなくなってしまう。ジャーナリストとしては失格なのだろうけれど私は本当にあの時、“いい写真”は撮れなかった」
 マーガレット・バーク-ホワイトは一九〇四年ニューヨークに生まれた。奇しくもアメリカの独立記念日と同じ七月四日だった。父親は印刷技師で豊かとはいえないが中流の生活を送ることができた。コロンビア大学、コーネル大学など五つの大学で学び、コロンビア大学で当時の写真家のパイオニアのひとり、クラレンス・H・ホワイトに写真の手ほどきを受けた。父親が技師ということもあり、彼女は子どものときから機械をいじることが好きだった。そしてカメラという玩具のような機械に魅入られた。
 学生時代に一度、技術系の学生と結婚したが、それはままごとのような結婚で一年とつづかなかった。一九二七年、コーネル大学を卒業すると、彼女はカメラマンとして自活していく道を選んだ。
 女性の職業が現在のように広く開かれていないうえに、カメラマンというまだ当時職業的に確立していない仕事を選んだ彼女は、はじめのうちは食うや食わずの生活だった。しかし“まだ誰もしたことのない仕事”というのは逆にいえば、彼女が自由に創作意欲を発揮できる場所でもあった。

若く無名な、しかし新しい意欲に燃えたバーク-ホワイトが選んだ対象は「工業」だった。つまり、彼女は二十世紀に入って急速に発展をとげているアメリカの工業の現場に「美」を見つけ出したのである。
 ダム、鉄鋼所、造船所、橋、港、高速道路、鉄道。誰もが敬遠していた“鉄とコンクリートの造形”のなかに、バーク-ホワイトは美しさを発見した。それはまったく新しい発見だった。彼女は鉄鋼所に行っては溶接作業の火花にカメラを向けた。ステンレス・スチールの金属片に美しさを見つけた。ミシンの工場に出かけて行っては出来たての製品の美しさに目を奪われた。自然の美しさではなく工業の美しさをバーク-ホワイトは発見した。この工業の美しさこそ実は二十世紀アメリカのシンボリックな美しさだったのである。
 「工業ってなんて美しいんだろうと私は思った。造船所、橋、ビル、鉄工所。工業は自然と違って自分の美しさを隠している。誰かがそれを探しにいかなければならない。私は工場が私を待っていると思うようになった」。
 彼女が工業のなかに美を見つけたのは、彼女が生活の拠点にしたクリーブランドが当時の新興工業都市だったためでもあるし、父親が印刷技師で小さいころから機械に囲まれて育ったためでもあるだろう。バーク-ホワイトはカメラという新しいメカ・メディアで、それにふさわしい工業という巨大なメカニズムに美しさを見つけ出したのである。
 一九二九年、まだ三十歳にならない若き日の出版王ヘンリー・ルースは『タイム』を成功させ、次に『フォーチュン』という経済誌を創刊しようとしていた。ルースもまた新しいアメリカの象徴は工業にあると考えていた。そして工業の写真を撮っているバーク-ホワイトを発見した。クリーブランドという一地方都市で仕事していたマイナーな彼女が、ヘンリー・ルースに発見されることで一気にメジャーになっていった。
 前述したようにルースは一九三六年に『タイム』『フォーチュン』に続いて写真雑誌『ライフ』を創刊したが、その創刊号を飾ったのはマーガレット・バーク-ホワイトの写真である。今日、彼女は『ライフ』創刊号の表紙を飾ったカメラマンとしてだけでも写真史にその名前を残している。このとき彼女が撮った写真は、ルーズベルト大統領の大恐慌克服事業の一環としてモンタナ州に造られていたフォート・ペック・ダムを撮ったものだった。ダムの写真が『ライフ』の表紙になったところに『ライフ』の、そして、バーク-ホワイトの工業への愛を見ることができる。
 彼女はまた当時ニューヨークに続々と建ちはじめたスカイスクレイパー、摩天楼の美しさに心を奪われた。当時の世界最高のビルは一九一三年に出来たウールワース百貨店のビルだったが、これを抜いたのが一九三〇年に完成したクライスラー・ビルだった。バーク-ホワイトはこのビルのアール・デコの機械美にひきつけられ建設中からここに通い、骨組みだけのビルとそこから見下ろすことのできるニューヨークの街並みをカメラにおさめた。ついにはこの高さの魅力に負けて、クライスラー・ビルの六十一階に自分のスタジオを設けたほどだった。世界一高いところにあるスタジオだった。
 バーク-ホワイトは前述したように一九三〇年代、大恐慌の時代にコールドウェルとともにアメリカ南部を旅した。そして疲弊した農民たちを見た。「それまで工業の輝かしいところばかり見ていた私は、南部に行ってはじめて生きた人間を見た。飢え、疲れ切った農民たちにカメラを向けることは本当につらかったけれど、そこではじめて私はカメラマンからジャーナリストになったのだと思う」。
 南部体験を背景にして、バーク-ホワイトは、第二次大戦の写真を撮っていくようになる。第二次大戦後も彼女はインド、パキスタン、朝鮮と、戦争の現場に足を向けた。一九五二年、朝鮮戦争に従軍したときは日本にも立ち寄り、“血のメーデー”の写真も撮っている。
 戦後の彼女の写真のなかでもとくに知られているのは、ガンジーを撮ったものだ。イギリスに対して非暴力の連動を続けているこの“聖人”にひきつけられたバーク-ホワイトはインドまで行き、糸車をまわすガンジーの写真を撮った。「私は暗殺される寸前のガンジーに会った。彼は非暴力運動の理想の限界を知っていて、とてもつらそうだった。そのときはもう原爆もできていた。ガンジーは『私は世界に対してもう何もすることができない』と悲しそうだった。ガンジーと別れた数時間後、彼は暗殺された」。
 ちなみに映画「ガンジー」のなかではキャンディス・バーゲンが、バーク-ホワイトを演じている。

バーク-ホワイトは「世界を見た」。カメラを通して二十世紀の最前線を「見た」。そしてその重さに耐えかねたように彼女は一九五二年、四十八歳の若さでパーキンソン氏病にかかってしまった。もうカメラを持つことはできなかった。そしてジャーナリズムの第一線から退き、一九七一年、六十七歳で死去した。

アニタ・ルース(Anita Loos, 1893-1981) ジャズ・エイジの女流作家

子供のころ、万年筆が私の一番好きな玩具だった。

アニタ・ルースが一九二六年、三十三歳のときに書きあげた小説『紳士は金髪がお好き』は、発表されるや当時のジャズ・エイジを華やかに生きるフラッパーを描いた風俗ロマンスとして大人気になった。
 初刷はわずか千五百部だったがたちまち売り切れになり、二刷は六万部にはねあがった。もともと男性ファッション誌『ハーパーズ・バザー』にラルフ・バートンのさし絵入りで連載されたもので、連載中から頭は少し弱いがコケティッシュで可愛いヒロイン、ローレライ・リーの男性読者の人気は高く、同誌のニュース・スタンドでの売上げは通常の二倍、三倍になった。
『ユリシーズ』で知られる作家ジェイムズ・ジョイスは視力が落ちてからも『紳士は金髪がお好き』だけは読むのを欠かさなかった。政治家のチャーチルはいつもベッドの脇のテーブルにこの本を置いておき、心地よい“ナイト・キャップ”がわりにした。哲字者のジョージ・サンタヤナは、アメリカの最良の哲学書は何かと聞かれ、『紳士は金髪がお好き』をあげた。
 一九二八年には作者のアニタ・ルース自身が脚本を書いて映画化された。主演は二〇年代のブロンド女優ルース・テイラー。一九五三年にはハワード・ホークス監督によって再度映画化された。この時、ローレライ・リーを演じたのはご存知のようにマリリン・モンロー。ローレライの親友ドロシィはジェーン・ラッセルが演じた。
 映画だけでなく『紳士は金髪がお好き』はキャロル・チャニング主演でブロードウェイで上演されてもいる。ともかくアニタ・ルースといえば『紳士は金髪がお好き』の作家としてアメリカ文化にその名前を残している。
 当時、中国やソ連でもこの小説が翻訳されたというから、その人気のほどがうかがえる。
 映画の中でマリリン・モンローは「ダイヤモンドは女のいちばんのお友達」という歌を歌うが、その曲名によくあらわれているように『紳士は金髪がお好き』は、ゴールドディッガー(Golddigger)つまり「お金目当てに金持の男に近づく女の子」のお話である。ヒロインのローレライ・リーはお金持に目がなく、そのことを少しも隠さない。かつての禁欲的モラルの時代の女性とはまるで違う。お金持のパトロンに宝石を買ってもらったり、豪華な食事に誘われたりする。それをテンシンランマンに楽しんでしまう。「お金持のおじさま」から見ると実に可愛い女の子なのである。
 しかもいつも「教養を高めなくては」というのが口癖なのも無邪気でいい。聞違っても難しい討論など吹っかけてきそうにない。なにしろローレライ・リーはウィーンでフロイト博士にどんな夢を見ますかと聞かれ「わたし夢なんか、一度も見たことがない」と答えてしまうほど無邪気な女の子なのだ。そのうえ彼女は、はじめて夢を見ない女の子に会って仰天しているフロイト博士を見て「だって、わたしは、昼間は頭をうんと使うので、夜になると、わたしの頭は何もしないで、ただ休むわけ」と呟いてしまうのだ。
 ローレライ・リーはこんなふうにリャズ・エイジを浮草のようにただよいながら楽しみ、なおかつあれよあれよという間に幸福になってしまう幸福なフラッパーだったが、しかし、作者のアニタ・ルース自身は実はローレライ・リーとはまったくタイプを異にする、キャリア・ウーマンのはしりのような女性だった。
「私が『紳士は金髪がお好き』を書いたために私のことをローレライ・リーのような“努力しないで幸福になった女の子”と考える人が多いけれど、私は十三歳のときから働いてたのよ!結婚してからは私の収入で生活を支えたことだってあるわ。それになにより私がローレライ・リーと違うところは私が金髪ではなくブルネットなこと。金髪だったらもっと男性にもてたかもしれないわね」
 ローレライ・リーはマリリン・モンローが演じることが出来たが、アニタ・ルースはモンローでは無理かもしれない。
『紳士は金髪がお好き』を書くまではアニタ・ルースは草創期のハリウッドの重要な脚本家のひとりだった。アメリカ映画の父といわれるD・W・グリフィスのもとで働き、グリフィスが「国民の創生」(一九一五年)に続いて発表したサイレント映画「イントレランス」(一九一六年)では字幕を担当した。当時、女性が、それもニ十代の若い女性が映画製作の現場で重要な役割を果すとは異例の抜擢だった。グリフィスはアニタ・ルースの才能を見込んで大作「イントレランス」の字幕製作を彼女にまかせた。
 その後、彼女はダグラス・フェアバンクス、コンスタンス・タルマッジら草創期のハリウッドの人気スターの脚本を書いた。
 ブルネットで背が小さく、しかも「文章を書く女」ということでアニタ・ルースは男性たちからどことなく煙たがられていた。あるときアニタ・ルースは汽車でニューヨークからロサンゼルスに向かっていた。映画会社の仲間たちと一緒だった。一行のなかに一人新人女優がいた。彼女は充分にグラマーであり、そしてブロンドだった。彼女が読みかけの本を落としたりすると、男性どもは争って彼女のためにそれを拾おうとした。しかし背が低くブルネットのアニタ・ルースが網棚から重いスーツケースを取ろうとしても、誰一人それを手伝おうとする者はいなかった。アニタ・ルースはこのときはじめて“紳士は金髪がお好き”なことを知った。

アニタ・ルースの憧れの男性にH・L・メンケンがいた。メンケンは、一九二〇年代の名編集者であり『スマート・セット』や『アメリカン・マーキュリー』、あるいは『ブラック・マスク』といった雑誌を編集していた。『紳士は金髪がお好き』の“おばかさんのブロンド”ローレライ・リーにいわせれば「写真が一枚ものってないような、青くさい雑誌を印刷しているだけの人」だが、文章を書く人間にとっては、メンケンに認められメンケンの編集する雑誌に原稿が載ることは名誉だった。アニタ・ルースはハリウッドからニューヨークに出てきてメンケンに会った。メンケンを相談相手にした。しかしこの知的男性すらも、心のなかでは文章を書く女よりも“おばかさんのブロンド”を好んでいることを知って失望してしまった。
『紳士は金髪がお好き」はだから、二〇年代のフラッパーが活躍する小説であると同時に、とかく“おばかさんのブロンド”をちやほやしたがる“紳士”たちへの痛烈な皮肉の書でもあるわけだ。しかし、知的で、ユーモアのセンスあふれるアニタ・ルースは決して正面から“紳士”たちを批判したりはしなかった。先述したようにローレライ・リーから見れば知的男性ナンバー1のメンケンですら「写真が一枚ものってないような、青くさい雑誌を印刷しているだけの人」にしか見えないとやんわりと“紳士”や“教養”をからかった。
『紳士は金髪がお好き』はかなりきわどいセックスのセリフがやりとりされるが、アニタ・ルースのユーモアに包まれると決していやらしいものにはならなかった。メンケンはこの本は「セックスをはじめて笑いの対象にした本だ」と評した。
 常盤新平氏は『紳士は金髪がお好き』を訳したとき、その訳文を宇能鴻一郎の文体模倣で統一するという翻訳の冒険を試みている。これもアニタ・ルースのユーモアの感覚を踏まえてのうえだろう。セックスは、「自由」に語れば語るほど下品になるから、笑いで包まなければならない、という鉄則をアニタ・ルースは守っているのである。

アニタ・ルースは一八九三年にサンフランシスコで生まれた。父親はこの北カリフォルニアの中心地でさまざまな新聞を発行している小さな新聞王だった。そのなかに演劇専門紙もあり、その関係でアニタ・ルースは子どものころからサンフランシスコの劇場街に出入りしていた。子役として舞台に立ったこともあった。またサンフランシスコは港町だったので、子どものころからさまざまな国から来る船乗りたちの荒唐無稽な話を聞く機会に恵まれた。
 劇場街と港町――この二つの祝祭的な場所を遊び場所にしたアニタ・ルースは早くから“お話”を作り上げることに興味を持った。彼女のいちばん好きな玩具は万年筆だった。父親からもらった万年筆で、彼女はひとりになると紙の上にさまざまな“町の話題”を書いた。劇場に出入りする俳優たちの話、遠くアジアからやってくる水夫たちの話。やがてアニタ・ルースはそうした小さなコラムをニューヨークの『モーニング・テレグラフ』という新聞の原稿コンテストに送った。彼女のコラムはみごと優勝し、やがて彼女は同紙の定期寄稿者になった。わずか十三歳のときである。前述したように彼女が「私は十三歳のときから働いている」と自負しているのはこの事実をさしている。
 父親はやがてサンディエゴ市に劇場を持つようになった。この劇場では芝居と芝居の合間に当時誕生したばかりの映画を上映するようになった。まだ短篇だったが、小さなアニタ・ルースはこの新しい“動く絵”に魅せられた。やがて何本も映画を見ているうちに映画にはストーリーが、つまり、脚本が必要だと気がついた。
 そして彼女は“大好きな遊び友達”である万年筆を手に取ると、誰に教わったわけでもないのに脚本なるものを書き始めた。やってみると楽しかった。次から次へと書けた。そこで彼女は、出来上がった一本を映画会社に送ってみようと思いたった。父親の経営する劇場に行き、フィルムの缶に張ってあるラベルを見るとニューヨークのバイオグラフ社の住所が書いてあった。そこに彼女は万年筆で書いた脚本を送った。何本か送ったあと、「あなたの脚本を採用したい」という返事があった。一九一四年にバイオグラフ社で作られた一巻もの「プレインデイルへの道」という映画が彼女の脚本第一作である(ただ正式の彼女の第一作は同じ年にバイオグラフ社で作られた、メアリー・ピックフォード、リリアン・ギッシュ、ライオネル・バリモア主演の「ニューヨーク・ハット」とされている。「プレインデイルへの道」は彼女のアイデアだけが買われ、クレジットはされていないのだろう)。脚本料は当時のお金で二十五ドル(現在に換算すると約五倍ほど)。
“万年筆の好きな女の子”アニタ・ルースはこれに自信を持ち、次々に脚本を書いてはニューヨークのD・W・グリフィスのところに送った。やがてグリフィスは会社をニューヨークからロサンゼルスのハリウッドに移した。そして自分のところにかねがねタイプではなく万年筆で書いた脚本を送ってくるアニタ・ルースに「ぜひ一度面談したい」と手紙を出した。
 喜んだアニタ・ルースは保護者である母親とハリウッドにD・W・グリフィスを訪ねた。グリフィスは当然アニタ・ルースは大人の母親のほうだと思って母親相手に話をはじめた。ところが二十歳そこそこの小さな女の子のほうがアニタ・ルースだと知ってグリフィスは仰天した。そして契約をためらった。アニタ・ルースは傷ついて家に帰った。
 父親は娘が仕事をするなど大反対だった。大人しく結婚して主婦になれば、と思っていた。ましてや「文章を書く!」とは。父親はなんとか娘をまっとうに“立直らせよう”と娘のムコ探しをはじめた。そして大人しい堅実な青年を見つけると娘と結婚するように仕組んだ。彼女自身も、まだ当時の風潮として“女が仕事を持って生きていく”ことに自分自身で自信が持てなかったので、この結婚を承諾した。最終的には彼女自身がボーイフレンドの一人から夫を選んだ。
 しかし――「仕事をしたい!」という彼女の気持はいかんともしがたかった。ハネムーンの次の日、彼女は両親に「私はやはり仕事をしたい」と手紙を書き、新夫を捨ててハリウッドに行った。そしてグリフィスに会った。「映画の仕事をしたいから、私は夫を捨ててここに来ました」というアニタ・ルースの熱意に負けて、グリフィスはこの“逃げ出した花嫁”を採用することにした。ハリウッドが正式に雇用した脚本家の第一号である。ちなみにこのとき彼女に捨てられた“一日だけの夫”の名前は、アニタ・ルース自身も「フレディなんとかという名前だったとしか憶えていない」といっている。お気の毒である。英語ではこういう可哀そうな夫のことを“Straw Husband”(ワラ人形の夫)というそうだ。

D・W・グリフィスの会社に脚本家として雇われてから彼女は精力的に仕事をした。一九一六年には十九本もの映画の脚本を書いている。
 一九一六年には彼女は先述したようにグリフィスの大作「イントレランス」の字幕を製作することになるが、この映画が完成したあとニューヨークに宣伝キャンペーンに同行した。そしてニューヨークの文士のホテル、アルゴンクィンの一室に泊っているとき“歴史に残る行動”を起した。長髪をハサミでばっさりと切ってしまったのである。
 つまり、一九二〇年代のフラッパ―の形容詞ともいえるボブ・ヘアのはじまりである。私の手元にある石山彰編の『服飾辞典』(ダヴィッド社)によると、「ボブ・ヘアは第一次大戦の直前にイギリスのダンサー、アイリーン・キャッスルによって始められた」とあるが、アニタ・ルースによれば「私とアイリーン・キャッスルが断髪にしたのはほとんど同時期」である。そしておそらくはアニタの断髪のほうが一般への響影力は大きかったと思う。
「私が髪を切ったのは、べつに私がチャールストンを踊ったり男と遊んだりしたかったためではない。ただそのほうが仕事がしやすかったからだ」といっているのはいかにもキャリア・ウーマンのはしりのアニタ・ルースらしい。
 彼女は一九二〇年代に、俳優で脚本家で監督のジョン・エマーソンと結婚したが、自分のほうがつねに売れっ子であることに気を使わなければならなかった。『紳士は金髪がお好き』は夫のジョン・エマーソンに献辞が捧げられているが、それはあくまでも夫の顔をたてるためだったという。
「いまの若い人は考えられないだろうが、一九二〇年代には『文章を書く女』はマイナスのイメージでしかなかった。だからパーティやクラブに招ばれていっても私は自分が『アニタ・ルース』であることを隠さなければならなかった。そんなことがわかったら男性は誰も私に話しかけてこなかった」と後年アニタ・ルースは語っている。
『紳士は金髪がお好き』はブルネットの賢い女が“ブロンドのおばかさん”に身をやつして書いた、早すぎたキャリア・ウーマンの諷刺小説なのかもしれない。
 アニタ・ルースは一九八一年八月十八日、ニューヨークの病院で死去した。八十八歳だった。夫の姓を名乗らず最後までアニタ・ルースで通した。

ドロシー・パーカー(Dorothy Parker, 1893-1967) プリンセス・チャーミングと呼ばれた毒舌家

お金は雪みたい。掌ですぐ、とけてなくなる。

ニューヨークの文学仲間のあいだで彼女は毒舌で知られていた。

パーティで男たちがある女優のことを賞めそやしていると「彼女は十八カ国語も話せるけれど、どの言葉でも『ノー』といえないの」と皮肉をとばした。
 当時、ブロードウェイでキャサリン・ヘプバーンの演技が評判になると、彼女はこんなふうに“激賞”した。
「キャサリン・ヘプバーンはすべての役を演じわけられるわ。ただしAからBまでのあいだの」
 あるとき自分よりも若い女性作家と劇場の入り口で鉢合わせになった。これも毒舌で知られるその若い女性作家は「このドアは美女より年寄り優先ね」(Age before beauty)と皮肉たっぷりで先を譲った。すかさずドロシー・パーカーは「ブタより真珠が先きに行くわ」(Pearls before swine)とやりかえした。
 パーティで、レストランで、あるいは雑誌のコラムでドロシー・パーカーは、痛烈な皮肉とジョークをとばした。ついには「今日はドロシー・パーカーはどんな悪口をいった?」が一九二〇年代のニューヨークの文学仲間の挨拶がわりになった。
 ドロシー・パーカーは背が低かった。‟小さい女ほど気が強い”というセオリ―があるが彼女もいつも戦闘精神旺盛だった。一九二〇年代のパリでヘミングウェイに会ったとき、この孤高の作家は、ニューヨークの文学サロンで“プリンセス・チャーミング”とちやほやされているドロシー・パーカーに冷淡な態度をとった。それに腹を立てたドロシー・パーカーは「あんたなんかひとりでタイプを叩いていればいいのよ!」とヘミングウェイにタイプライターを投げつけた。
 酒に酔うといたずらも楽しんだ。三〇年代のはじめ、ニューヨークのあるパーティでダシール・ハメットにはじめて紹介されたドロシー・パーカーは、ハメットの前に跪きその手をとって接吻した。それを見て怒ったのはハメットと一緒に暮していたリリアン・ヘルマンである。パーティから帰ったリリアン・ヘルマンはハメットに「女が跪いて讃嘆の意を表するのを許すような男とは一緒に暮さない」となじった。二人はドロシー・パーカーのキスをめぐって大ゲンカをした。
 ドロシー・パーカーは自分自身に皮肉やジョークをいうのも好きだった。一九一七年、二十四歳のとき、彼女はエドウィン・ポンド・パーカーという若い、ウォール街の株式仲買人と結婚した。文学仲間は「あのドロシーが結婚?」と驚き、彼女に「どうして?」と聞いた。彼女は「ただ名前を変えたかったからよ」とだけ答えた(ちなみに旧姓はロスチャイルド)。

毒舌家だったので敵も多かった。男性からは好かれるが同性からは嫌われるというタイプだった。自分でもそのことに気づいていたのだろう、リリアン・ヘルマンに「わたしの墓石には『これを読めるなら、あなた、あまりに私に近寄りすぎだわ』とだけ刻んで」と頼んだほどだった。
 ドロシー・パーカーは詩人で作家で批評家だったがその著作は驚くほど少ない。短篇集が二冊、詩集が三冊、それにエッセー集。七十三年の生涯で残したのはそれだけだった。その数少ない著作のうち、一九二六年に出版された詩集『勝手気まま』が詩集としては異例のベストセラーとなり、彼女は女性作家としてだけでなく、その一挙一動が新聞や雑誌のニュースになるという新しい女の一人になった。
 彼女のまわりには、ユーモア作家のロバート・ベンチリー(『ジョーズ』のピーター・ベンチリーの祖父)や、雑誌『ニューヨーカー』のハロルド・ロスらが集まり、アルゴンクィン・ホテルのラウンド・テーブルに集まっては文学談議やジョークを楽しんだ。マンハッタンの四四丁目にいまも健在のアルゴンクィン・ホテルが文士のホテルとして有名になるのは、彼らがこのホテルを溜まり場所として使うようになってからである。
 ドロシー・パーカーは精神不安定なところのある女性だった。朝からウイスキー・サワーを飲むほど酒が好きだった。彼女が酒好きというと友人たちは不思議そうに言った。「変ね、あなたがパーティでお酒を飲んでいるの見たことないわ」。ドロシー・パーカーはこう答えた。「家で飲んでいるからパーティに行くときはもう酔っているの。あと一杯飲めば倒れるくらいに。だからパーティでは飲まないのよ」
 タバコも好きでチェーン・スモーカーだった。そして物書きなのに書くことが大嫌いだった。原稿は遅く、いつも締切りを破った。行方不明になってしまうこともあった。「ドロシーには危なくて仕事を頼めない」という風評が編集者のあいだに立った。
 若いときに流産と堕胎の経験をしたためか子どもが大嫌いだった。友達の家に遊びに行っても子どもがいると途中で帰ってきてしまった。そのかわり、猫と犬が好きだった。とくに犬が好きでいちばん多いときは、四十三匹も飼っていた。晩年はマンハッタンの安アパートで犬と一緒に孤独な生活をおくった。ある編集者が訪ねていってみると、部屋のなかは犬と、犬の食事の残りでまるでゴミ箱のように汚れていたという。
 金にはほとんど無頓着だった。一九三〇年代にはハリウッドに行き、脚本家として働いたから金には不自由しなかった筈だが、貯えというものをほとんど残さなかった。コネチカットに別荘を買ったが、やがて人手に渡してしまった。「ハリウッドには金がたくさん落ちているけれど、それはまるで雪みたい。手にするとすぐに溶けてなくなる」。
 ドロシー・パーカーは一八九三年、ニューヨークに生まれた。父親は繊維関係の裕福なユダヤ人の実業家だった。母親はドロシーが生まれてすぐに死んだ。父親は再婚した。ドロシーは義母とあわず、十八歳のときに家を出てマンハッタンに安アパートを借りて自活を始めた。『ヴォーグ』誌に詩を投稿し、それが掲載されたのがきっかけで彼女は文章を書くようになった。『ヴォーグ』の編集長クラウニン・シールドが彼女をスタッフとして採用した。彼女はそこでキャプション書きから始め、編集の仕事にかかわるようになった。一九一四年に姉妹誌『ヴァニティ・フェア』が創刊されるとそちらに移った。『ヴァニティ・フェア』にはやがてハーバード出身のロバート・ベンチリーやロバート・シャーウッドという才能あふれる青年たちがスタッフとして入ってきた。ドロシーは彼らと働き、酒を飲み、文学談議を楽しみ、青春を謳歌した。まだ女性が社会に出て働くことは珍しい時代だったので、ドロシーはたちまち男たちの人気者になった。そして毒舌ぶりでサロンのプリンセスになった。
 しかしあまりに毒舌が過ぎたのでついに『ヴァニティ・フェア』誌をクビになってしまった。彼女は同誌の演劇欄にコラムを持っていてそこで毎回、劇評を担当していた。そしてブロードウェイの芝居を次から次へと酷評していった。ついにブロードウェイの興行主から「あの劇評はなんだ」とクレームがついた。当時は雑誌の力も弱く、外部からの強い抗議に抵抗することができなかった。『ヴァニティ・フェア』誌はやむなくドロシー・パーカーをクビにしてしまった。「彼女がやめるのなら」と友人のロバート・ベンチリーも一緒に会社をやめてしまった。一九二〇年のことである。ちょうどジャズ・エイジと呼ばれる陽気な、新しい時代が始まろうとしていた。二人にとってはむしろ会社勤めをしているよりも、フリーになったほうが時代の波長にも合った。
 ドロシー・パーカーは以前にもまして活発に執筆活動を開始した。パーティやサロンにもひんぱんに顔を出した。毒舌をとばした。パリに行き、フィッツジェラルドやヘミングウェイと親交を持った。社会活動も活発になり、サッコとヴァンゼッティが処刑されることになったときはその反対運動のためにロバート・ベンチリーらと立ち上がった。スペイン内乱が始まったときは、共和派を支持してスペインにまで行き、そのレポートを書いた。民主党の大統領ルーズベルトを熱烈に支持した。ヒットラーのドイツがソ連に進攻したときは「私はコミュニストよ!」とソ連を支援した。あまりに彼女が“過激”になっていくのでユーモア作家のロバート・ベンチリーは「ドロシー、君は『コミュニスト』がなんたるかを知っているのかね?」と苦言を呈するほどだった。ロバート・ベンチリーは、彼女が“過激”になっていくのは、政治的な信条からというよりも、時代の空気に流されてのことだということを見抜いていた。事実、第二次大戦が終ってからは、彼女の社会的情熱も急速に冷えていった。
 ドロシー・パーカーは二度、結婚している。最初は前述したように「名前を変えたいため」に一九一七年、若い株式仲買人、エドウィン・パーカーと。しかしこの結婚は二年しか続かなかった。結婚直後に第一次世界大戦が始まり、エドウィンがヨーロッパ戦線に従軍し、二人の関係が途絶えてしまったためである。ドロシーは“銃後の守り”として夫を大人しく待つ妻の役割を果たすことはできなかった。
 二度目はブロードウェイの新人俳優アラン・キャンベルと。一九三三年に二人が結婚したときドロシー・パーカーは四十歳、アランは二十九歳だった。二人は途中、何度かケンカ別れをしたりしたが最終的に一九六三年、キャンベルが死ぬまで共同生活を続けた。二人の関係が長続きしたのは、気性の激しいドロシー・パーカーに対して、アラン・キャンベルが“有名人の妻にかしずく夫”という役割に徹した、大人しい男だったからだ。

アラン・キャンベルは十一歳も年上の妻のために食事を作り、部屋を片づけ、犬の世話をし、皿を洗い、ベッドをととのえ、酒を作ってやった。完全に主夫に徹した。おかげでアラン・キャンベルは俳優としてはまったく大成しなかった。仕事としてはドロシー・パーカーとハリウッドに行き、一緒に映画の脚本を書いたくらいだった。
 ドロシー・パーカーはこの年下の夫に甘えきりだった。生活の現実はアラン・キャンベルにまかせきりだった。それでも彼女は「もっと」何かを要求した。友人が「これ以上アランに何を望むの?」と聞くと、彼女は「プレゼントが欲しいの!」と答えた。
 彼女は若い美男子に弱かった。彼女の名声を利用しようと近寄ってくる年下の男たちといくつか関係を持った。なかにはセワード・コリンズという全米にタバコ店のチェーンを持つ大金持の息子もいたし、彼女にセックスだけで近づいてくるジゴロのような男もいた。そのジゴロのような男に捨てられたときは彼女は半狂乱になり、睡眠薬を飲んで自殺を図ろうとさえした。男は、四十歳に近いドロシー・パーカーが「しつこく電話してきて、オレを片時も自由にしない」と公言した。
 ドロシー・パーカーの短篇に『ビッグ・ブロンド』という、一九二九年のオー・ヘンリー賞受賞の好篇がある。マンハッタンの安アパートに住む一人暮しの女が、男と酒に溺れていき、ついに自殺を図るという暗い話である。自殺未遂に終ったヒロインが最後にまた「お酒をちょうだい」とグラスに手をかけるところで終っている。
 酒、男、そして自殺。この短篇はある時期のドロシー・パーカー自身をモデルにしているといっていいだろう。一九二〇年代、ジャズ・エイジの文学サロンの中心にいたはなやかなドロシー・パーカーが、こんなにも暗く、救いがない短篇を書くのは一見、意外だが、そこに文学の持つ魔力があるのだろう。
 第二次大戦後はドロシー・パーカーはもう完全に過去の、忘れられた人になった。文学シーンは変ってしまっていて五十歳を過ぎた二〇年代の作家に原稿を依頼する雑誌はなくなってしまった。四〇年代に積極的に政治活動をしたため、五〇年代の赤狩りの時代にはブラック・リストに載せられてしまい、ほとんどハリウッドの仕事がなくなってしまった。ブロードウェイの芝居を二本書いたが、どちらも世評はよくなかった。かつて彼女自身が劇評で他人の芝居を酷評したように、こんどは彼女の全盛期を知らないような若い批評家が彼女の芝居を酷評した。

彼女は、イーストサイドの七四丁目の安ホテルで、もう若くはなくなったアラン・キャンベルと共に、世捨て人のような生活をおくった。そのキャンベルは一九六三年に、彼女の隣で眠るように死んでいった。彼女にはもう犬しか友人は残されていなかった。数少ない友人が「何かしてあけられることがある?」と聞くと、七十歳の被女は「新しい夫を探してちょうだい」と答えた。昔の皮肉屋の面目がわずかに残っていた。
 晩年、彼女は収入の道がまったく途絶えてしまった。二〇年代を代表する作家がこれではあまりに気の毒と、『エスクワイア』誌は被女を書評欄のライターに起用し、原稿を書いても書かなくても原稿料を払い、先輩作家に敬意を表した。このときの『エスクワイア』の編集長は、ゲイ・タリースやトム・ウルフといったニュージャーナリズムのライターを育てた名伯楽ハロルド・ヘイズである。
 ただドロシー・パーカー本人は、そうした金のない生活を気にしていなかった。“ダラー・エイジ”とも呼ばれた一九二〇年代に青春を送った人間だから、お金はいつかなんとかなると恬淡としていた。
 いよいよなくなるとリリアン・ヘルマンのところに借金を頼んだ。リリアン・ヘルマンは若いころにドロシー・パーカーからもらっていたピカソの小品を売って一万ドル作るとその小切手を送った。ところがその二日後、またドロシーから電話があって、病院に入院したけれど金がないという。「あの一万ドルは?」と聞くと、彼女は「知らない」という。
 一九六七年六月七日、ドロシー・パーカーは安ホテルの一室で死体となって発見された。七十三歳だった。死後、知人が彼女の部屋を探したら、現金化されていない小切手がたくさん見つかった。そのなかにリリアン・ヘルマンが送った一万ドルの小切手もあった。なかには七年前の小切手もあった。
 彼女は最後までお金に無頓着だったのである。その意味では、彼女は、ぜいたくで気まぐれで移ろいやすい一九二〇年代という時代を最後までおおらかに生きたといっていいだろう。
 晩年、彼女がいちばん気にしていたことは「ヘミングウェイは本当に私のことを嫌っていたの?」だったという。男性から嫌われるということはこの“プリンセス・チャーミング”にはいちばんつらかったのかもしれない。

ジーン・リイス(Jean Rhys, 1894-1979) 三〇年代の女流作家

パリのカオスのなかで私は、はじめて自由になった。

一九六六年、イギリスで無名の女性作家が書いた一冊の小説がセンセーショナルな話題になった。
『広い藻の海』(Wide Sargasso Sea)と題されたその小説は西インドの島に生まれた狂女の数奇な運命を描いたもので、この狂女はシャーロッテ・ブロンテの『ジェイン・エア』のロチェスターの最初の妻バーサということになっている。つまり、『広い藻の海』は、『ジェイン・エア』の後日談ならぬ、前日談という形をとっている。
 そして小説以上に注目を集めたのがこれを書いた作者だった。ジーン・リイスというその作者はロンドン郊外に一人で住んでいる七十二歳の女性だった。マスコミは彼女の家に押しかけ、老新人はインタビューを嫌った。「これまで静かに暮していたのだからこれからも静かにしておいて」と丁重に記者を断った。写真を撮られるのも極端に嫌った(そのため彼女の写真はほとんど残っていない)。
「無名」と書いたが実はジーン・リイスは新人作家ではなかった。彼女は以前、一九二〇年代から三〇年代にかけて美しい女流作家としていくつかの小説を出版していた。しかし作風は地味だったし、世間から見捨てられた孤独な少女というヒロインの物語は一般受けはしなかった。短篇集が一冊、長篇が四冊出版されたが、ほとんど一般に知られることなく、ジーン・リイスは忘れられていった。というより正確には一度も発見されないままに埋もれていた。
 最後の長篇『真夜中にお早うを』(Good Morning Midnight)を出版したのが一九三九年。一九六六年にはじめて『広い藻の海』で発見されるまで実に三十年近い空白期間があった。一九三〇年代にジーン・リイスの小説を読んだことのある数少ない読者ですら、「ジーン・リイスは死んだ」と思っていた。もちろん著作はどれもとっくに絶版になっていた。

戦後、一度だけ彼女が生きていることが確認されたことがあった。一九五七年、セルマ・ヴァズ・ディアスという女優がラジオで『真夜中にお早うを』の一節を朗読することになった。ジーン・リイスというほとんど知られていない作者に興味を持ったディアスは、ある新聞に「ジーン・リイスさん、もし生きているのなら連絡して」と尋ね人の広告を出した。ジーン・リイスは偶然それを見てディアスに連絡してきた。それで彼女がいまもなお生きていることが確認された。当時、ジーン・リイスはすでに六十歳を超えていた。
『広い藻の海』で発見されてからは『左岸』(Left Bank)、『カルテット』(Quartet)、『マッケンジー氏と別れたあとで』(After Leaving Mr. Mackenzie)、『闇の中の航海』(Voyage in the Dark)といった一九二〇年代から三〇年代にかけて書かれた彼女の作品が次々に再版され、ジーン・リイスの名前は広く知られるようになった。現在ではその大半がペンギン・ブックスに入っているからわれわれでも容易に読むことが出来る。
 ジーン・リイスは一八九四年八月二十四日、ドミニカのロソーという町に生まれた。父親はイギリス人で植民地ドミニ力に医師として赴任していた。そして現地のクレオール、つまりフランス系植民者の娘と結婚してジーン・リイス(本名はエラ・グウェン・リイス・ウィリアムス)が生まれた。
 ジーン・リイスは少女時代をドミニカでおくった。植民地という特殊な環境は少女の心を二つに引き裂いていった。近代と野性、白人と黒人、キリスト教と原始的なヴードー。しかも父親はイギリス人だったが母親はクレオールと、彼女の血も二つに裂かれていた。そうした特殊環境のためだろうか、小さいときから彼女は、孤独癖が強く、修道院の尼僧に逃避することを夢みていた。彼女の目にはカリブ海の原色のタ焼けの風景は「最後の審判」のイメージに重なって見えた。しかし同時に彼女は西インド諸島の原始宗教ヴードーのまがまがしい魔力にも心ひかれた。
 一九一〇年、十六歳のジーン・リイスははじめて故国イギリスにやってきた。植民地の多くの子女がそうするように本国の正規の教育を受けるためであるし、カリブ海の異様な風土にひきずりこまれてパラノイアになっていく娘を両親が心配したからである。ロンドンでジーン・リイスはRADAの愛称で知られる王立演劇学校に入学した。
 しかしロンドンでジーン・リイスはドミニカで以上に孤立感に脳まされることになった。暗く陰気な気候、植民地から来た人間を低く見る本国人の差別意識。ジーン・リイスは異国にまぎれこんだ違和感を強く意識させられた。今日、ジーン・リイスの文学を評するとき「isolate」(孤立した)、「abandoned」(見捨てられた)と並んで「dis-place」という言葉が使われる。「場所」の「プレイス」に「非・・・」「無・・・」「不・・・」をあらわす接頭語「ディス」がついたもので「そこにいない」という意味になる。「帰るべき場所がない」とも「どこにいてもそこが自分のいるべきところではない」ともとれる。ジーン・リイスの青春時代は終始この「ディスプレイス」の感覚にさいなまれた。
 イギリスに暮し始めてすぐ被女はドミニカで父が客死したことを知らされた。もともと豊かではなかったところに父親の死が加わって十六歳の少女は孤独と貧困の二重の重荷を受けることになった。「私の心は冬のロンドンの空よりももっと重苦しくて暗かった」。孤独と貧困はやがて生涯ジーン・リイスにつきまとう二重の不幸になった。
 植民地からやってきた十六歳の少女にまともな職はなかった。彼女は演劇学校で紹介してもらったコーラス・ガールの仕事をすることになった。酒場や場末の劇場が仕事場だった。
 ジーン・リイスは美しい少女だった。やせて背が低く、妖精のようだった。皮膚は青白く透き通っていた。そして何よりも緑の目がエキゾチックで魅力的だった。ジーン・リイスは三〇年代にパリに流れていく。その時代のことを描いた『カルテット』はジーン・リイスの死後、ジェイムズ・アイヴォリイ監督によって映画化された。そのときヒロインを演じたのはイザベル・アジャーニだった——と書けば、ジーン・リイスのイメージがつかめよう。
 コーラス・ガールになった彼女はサーカスの一座とともにイギリス各地を旅したこともあった。それは決して楽しい旅ではなかった。ホテルに泊まる金はない。寝泊りは安下宿のジンの匂いのする湿った部屋。食事はオニオン・スープ。一九三四年に出版された『闇の中の航海』はこの時代の、青白い少女の寂しい青春物語である。
 孤独感と貧困に加えて被女を苦しめたのは男たちの存在だった。コーラス・ガールのような一見派手な女たちには男たちが下心をもって近づいてくる。経済的に自立することが困難だった時代の女たちは、そういう男たちを軽蔑しながらも、最後は男たちのいうことを聞かざるを得ない。『闇の中の航海』にはそうした、粗野な男たちの愛人になったり、あるいは娼婦に落ちていくコーラス・ガールがたくさん描かれている。「教育もなく、弱く、そしてナイーブな女たちにとって他に生きる道はなかった」。やがて彼女たちを弄ぶ男たちへの憎しみはジーン・リイスの小説の主題のひとつになった。「言い寄ってくる軽蔑すべき男たちから身をかわすのが毎日の闘いだった」。
 イギリスの沈鬱な風土はジーン・リイスにはまったく合わなかった。もともと孤独癖の強かった被女はいよいよ内向的になり、人間嫌いになった。美しい彼女にはモデルの仕事も多かった。画家のアドリアン・アドソンのモデルになったこともあったし、ある大きな石けん会社の広告モデルになったこともあった。「被女がもう少し外向的たったら、あんなにシャイでなかったら、きっと彼女は女優として成功しただろう」といわれた。そのころ一度熱烈な恋をして破れたことも彼女の孤立感を強める結果になった。
 ジーン・リイスはほとんど笑わない女の子になった。彼女は晩年、自伝を書き始めた(それは彼女の死によって未完に終るが)がその自伝のタイトルは『お願い、笑って』(Smile Please)だった。笑わない女の子だった彼女はスマイルに憧れたのだろう。

第一次大戦の終りのころジーン・リイスはイギリスを捨て、思い切ってパリに渡った。戦争があったにもかかわらずパリの町は活気にみちていた。とくに東ヨーロッパや、革命後のソ連から難民や亡命者がやってきてカオスのような状態だった。一人ぐらい人間嫌いの少女がいても誰も気にとめなかった。「パリのカオスのなかで私ははじめて自由に息ができるようになった」
 パリでジーン・リイスは、ジーン・ラングレという男と知り合った。ラングレはフランス人とオランダ人の間に生まれた男で詩を書いたりシャンソンの作詞をしたりしたかと思うと外人部隊に入ってアフリカで戦ったりするといういかにもベル・エポック的なロマンチックな人物だった。第一次大戦のさなかには対独防諜作戦にも加わっていた。ジーン・リイスはこの不思議な男と結婚した。
 しかし、結婚生活は幸福なものとはいえなかった。夫がなんの仕事をしているのかジーン・リイスにはよくわからなかった。いつも家をあけた。「結婚して、ようやく長いあいだの孤独からのがれられると思っていたのに、私は前以上の孤独におちこんでしまった」。一九一九年、ジーン・リイスははじめての子どもを産んだ。オーウェンと名づけられたその男の子は生まれて三週間で死んだ。ジーン・リイスははじめて酒を飲むようになった。夫の「仕事」についてウィーン、ブタペスト、プラハと転々とした。どの町でも「ディスプレイス」の違和感に悩まされた。一九二二年、彼女は二人目の子どもを産んだ。女の子だった。夫はほとんど金を家に入れなかったので生活は苦しかった。彼女は子どもをかかえて働きに出なければならなかった。マヌカンをしたり、洋服屋の店員になった。第一次大戦後のパリはヘミングウェイやジョイスといった作家たちがはなやかにつどっていたが、ジーン・リイスはそんな中心的な文学シーンとはほとんど無縁だった。ただこのころから彼女は自らの孤独をいやすかのように憑かれたように文章を書き始めた。
 そして決定的な出会いがきた。そのころパリに来ていた編集者フォード・マドックス・フォードに出会ったのである。D・H・ロレンスを発見し育てた名編集者である。マドックスは彼女の文才を認め、小説を書くように強くすすめた。初歩的な小説の書き方を手ほどきした。二人の関係は編集者と書き手、教師と生徒、というものを超えてよりパーソナルなものになった。そのころマドックスは、ステラ・ボウエンというオーストラリア人の画家と一緒に暮していたが、ステラ・ボウエンは二人の関係が深まるのを知ってジーン・リイスをなじった。「男はいつだって“不幸なお姫さま”が好きになるものよ。ジーン・リイスはそれを知っているから現実以上に“かわいそうなヒロイン”を演じているのよ」と批判した。
 当時、ジーン・リイスは三十歳を超えていたがその繊細な美しさは少しも衰えることはなかった。マドックスはジーン・リイスと一緒にいる時間が多くなった。ジーン・リイスの夫はそのころ戦後の混乱に乗じ、絵画の密売といういかがわしい商売をはじめていたがそれが発覚し、逮捕され、刑務所に送られた。生活がますます苦しくなったジーン・リイスは、うしろめたさと負い目を強く意識しながらもマドックスに頼るようになった。そういう自分を、彼女はかってロンドンで見た、生活のために嫌な男たちに“降伏”せざるを得なかったコーラス・ガールたちと同じだと考えるようになった。
 イザベル・アジャーニの主演で映画化された『カルテット』はこのころのジーン・リイスの揺れ動く苦しい心を主題にしている。「四重奏」とはジーン・リイスと夫ジーン・ラングレ、フォード・マドックス・フォードと愛人ステラ・ボウエンの四角関係をさしている。
 マドックスの尽力の甲斐あってジーン・リイスの処女作、短篇集『左岸』は一九二七年に出版された。ジーン・リイス自身をモデルにしたものが多かった。マドックスは「ジーン・リイスの新しさは“負け犬”の女性たちを描いたことだ」と評した。コーラス・ガール、場末の女優、パントマイムのアーチスト、画家のモデル、マヌカン。ジーン・リイスの小説に出てくる女たちは、どれも女性の職業が広く開かれていなかった時代に都市の下層に生きた“ミス・ロンリー・ハート”だった。そして彼女たちは、男たちの支配するブルジョア社会のなかで敗退していった哀しい“負け犬”だった。
『左岸』が出版されたあと夫のラングレが出所してきた。夫は自分が刑務所に入っているあいだにマドックス・フォードの庇護を受けた妻を許さなかった。二人は離婚し、子どもはラングレが引き取った。家庭という桎梏がなくなったジーン・リイスはマドックスの保護のもとに次次に新作を発表していった。一九二八年の『カルテット』、一九三〇年の『マッケンジー氏と別れたあとで』、一九三四年の『闇の中の航海』、一九三九年の『真夜中にお早うを』。どれも一部の読者には愛されたが、広い読者を獲得するには至らなかった。社会の底辺で生き、敗れていく女たちの話はあまりに暗かったし、「女性」が主人公になる小説は当時はまだ珍しかった。第二次大戦後はジーン・リイスは文学シーンから姿を消し、まったく忘れられた存在になっていった。
 その間、ジーン・リイスは文学者のエージェントの仕事をしていたレスリー・ティルデン・スミスと、レスリーが一九四五年に病死したあとは彼のいとこの軍人マックス・ハマーと二度結婚した。子どもはいなかった。マックスに先立たれたあとはずっと一人暮しをしていた。
 前述したように一九六六年に『広い藻の海』で発見されてからはジーン・リイスははじめて作家らしい生活を享受することが出来た。ロンドンと郊外に家を二軒持ち執筆は郊外の家ですることが多かった。世間によく知られる作家になったとはいえ、ジーン・リイスの生活はつつましいものだった。友人らしい友人もなく、パーティに出ることもなかった。そして一九七九年五月十四日の午後、八十四歳で安らかに死んでいった。病院に救急車で運ばれる途中、彼女は外から人にのぞかれないように「窓をおおって」と頼んだ。それが最後の言葉になった。死んでいく老いた顔は人に見られたくない・・・小さな虚栄といえば虚栄だが、この虚栄の心がシャイな女性にとっては、粗野な社会に対する唯一の自己防衛の手段だったに違いない。

 

ジーン・リイスは小説のなかに好んで三つのSを使った。「海(Sea)」と「眠り(Sleep)」と、そして「静寂(Silence)」だった。