鍼の如く 全

   鍼の如く 其一

白埴の瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり 秋海棠の画に

 

曳き入れて栗毛繋げどわかぬまでくぬぎ林はいろづきにけり りんだうの画に

 

無花果いちじゆくに干したる足袋や忘れけむと心もとなき雨あわただし

 

唐黍たうきびの花の梢にひとつづつ蜻蛉あきつをとめて夕さりにけり

 

うなかぶしひとりし来ればまなかひに我が足袋白き冬の月かも

 

たもとほりはりが林に見し月をそびらに負ひてかへりわれは

 

しめやかに雨過ぎしかばいちの灯はみながら涼し枇杷うづたかし

 

球磨川くまがはの浅瀬をのぼる藁船は燭奴つけぎの如き帆をみなあげて

 

山吹は折ればやさしき枝毎に裂きてもをかし草などのごと

 

西瓜割れば赤きがうれしゆがまへず二つに割ればほこらくもうれし

 

菜豆いんげんはにほひかそけく膝にして白きが落つもさやをしむけば

 

そこらくにあかざをつみてでしかば咽喉こそばゆく春はいにけり

 

おしなべて白膠木ぬるでの木の実塩ふけば土は凍りて霜ふりにけり

 

けんぽなし(=玄甫梨の意)さびしき枝の葉は落ちて骨ばかりなる冬の霜かも

 

芝栗の青きはあましかにかくに一つ二つは口もてぞむく

 

松がにるりがひそかに来て鳴くと庭しめやかに春雨はふり

 

草臥くたびれを母とかたれば肩に乗る子猫もおもき春の宵かも

 

移し植うと折れたる枝の銭菊ぜにぎくは挿すにこちたし棄てまくも惜し

 

藁の火に胡麻をるに似て小雀こがらめの騒ぐ声遠く霧晴れむとす

 

洗ひ米かわきて白きさむしろにひそかに棕櫚の花こぼれ居り

 

ならの木の枯木のなかに幹白き辛夷こぶしはなさき空蒼くひろ

 

落栗は一つもうれし思はぬにあまたもあれば尚更にうれし

 

秋の日は枝々洩りて牛草のまばらまばらは土のへに射す

 

柿の樹に梯子掛けたれば藪越しに隣の庭の柚子ゆずきばみ見ゆ

 

雀鳴くあしたの霜の白きうへに静かに落つる山茶花の花

 

藁掛けし梢に照れる柚子の実のかたへは青く冬さりにけり

 

倒れたる椎の木故に庭に射す冬の日広くなりにけるかも

 

あをぎりの幹の青きに涙なすしづくながれて春さめぞふる

 

冬の日はつれなく入りぬさかさまに空の底ひに落ちつつかあらむ

 

桑の木の低きがうれに尾をゆりてもずも鳴かねば冬さりにけり

 

 病院の生活も既に久しく成りける程に、(大正三年・1914年)四月廿七日、夜おそく手紙つきぬ、女の手なり

春雨にぬれてとどけば見すまじき手紙の糊もはげて居にけり

 

 五月六日、立ふぢ、きんせん、ひめじをん、などくさぐさの花もて来てくれぬ、手紙の主なり、寂しき枕頭にとりもあへず

薬壜さがしもてれば行く春のしどろに草の花活けにけり

 

 草の花はやがて衰へゆけども、せめてはすき透りたる壜の水のあたらしきを欲すと

いささかも濁れる水をかへさせて冷たからむと手も触れて見し

 

 いつの間にか、立ふぢは捨てられきんせんはぞろりとこぼれたるに、夏の草なればにや矢車のみひとりいつまでも心強げに見ゆれば

朝ごとに一つ二つと減り行くになにが残らむ矢ぐるまのはな

 

俛首うなだれてわびしき花のをだまきはしぼみてあせぬ矢車のはな

 

風邪引きて厭ひし窓もあけたればすなはちゆるる矢車の花

 

快き夏来にけりといふがごとまともに向ける矢車の花

 

 五月十日、復た草の花もて来てくれぬ、鉄砲百合とスウヰトピーなり、さきのは皆捨てさせて心もすがすがしきに、いつのまにか大きなる百合の蕾ひそかに綻びたるに

こころぐき鉄砲百合か我が語るかたへに深く耳開き居り

 

 十一日の夜に入り始めて百合の薫りの高きを聞く、此夜物思ふことありけるに明日の疲れ恐ろしければ好まざれども睡眠剤を服す、入院以来之にて二度目なり

うつつなき眠り薬の利きごころ百合の薫りにつつまれにけり

 

 病牀にひとりつれづれを慰めむとまさといふ紙を求めて四方の壁を色どりしが

壁に貼りしいたづら書の赤き紙にほこりも見えて春行かむとす

 

 貧しき人々の住む家なれば 棟にあまた草生ひたれどもかつてとることもなきぞと見ゆるに

窓のは甍ばかりのわびしきに苦菜にがなほうけて春行かむとす

 

 窓の硝子は朝ごとに拭へども、そともは手もとどかねばいささかの曇りなれども晴るることもなし、春暮れむとして空さだまらず

硝子戸の春の埃をあらはむと雨は頻りに打ちそそぎけり

 

 窓を圧して梧桐の木わだかまれり、はじめのほどに

春雨になまめきわたる庭の内に愚かなりける梧桐あをぎりの木か

 

 とよみおきけるが今は梢のさやぎも著しく

窓掛はおほにな引きそ梧桐の嫩葉わかばの雨はしめやかに暮れぬ

 

 藁蒲団のかたへゆがみたるに身を横たふることも余りに日のかさなればその単調なるにたふべくもあらず、まして爽かなる夏の既に行きいたれれば

梧桐あをぎりの夏をすがしみをりをりは畳の上にねまくりすも

 

 熱少したかけれどもたまたま出でありくこともあり

あかしやの花さく陰の草むしろねなむと思ふ疲れごころに

 

   鍼の如く 其二

 

 五月二十二日夜こころに苦悩やみがたきこと起りて

小夜ふけてあいろもわかずもだゆれば明日は疲れてまた眠るらむ

 

おそろしき鏡の中のわが目などおもひうかべぬ眠られぬ夜は

 

よしといへば水には足はひたせどもいたづらにして小夜ふけにけり

 

すべもなく髪をさすればさらさらと響きて耳は冴えにけるかも

 

やはらかきくくり枕の蕎麦殻そばがらも耳にはきしむ身じろぐたびに

 

ゆくりなく手もておもてをおほへればあな煩はし我が手なれども

 

 手紙のはしには必ず癒えよと人のいひこすことのしみじみとうれしけれど

ひたすらに病癒えなとおもへども悲しきときはいひ減りにけり

 

 窓外を行く人を見るに、既に夏の衣にかへたるが多し

咳き入れば苦しかりけり暫くはかさねて居らむ単衣ひとへ欲しけど

 

 藁蒲団に身をいたはることも七十日にあまりたれど、自ら幾何も快きを覚えず

頬のしし落ちぬと人の驚くに落ちけるかもとさすりても見し

 

いぶせきに明日は剃らなと思ひつつ髭の剃杭そりぐひのびにけるかも

 

 物質上の損失はおほくは同情者の手によりて容易に補給せらるべきも、精神上の欠陥は同情者の手によりて凡て直ちに解決せらるべきものなるべからず、如何に深厚の同情と雖も其効果は概ね甚だ僅少なるべきなり、然れども其効果の僅少なるが為めに遂に人間至高の価値を没却すべからず

いささかのことなりながらかゆきとき身にしみて人の爪ぞうれしき

 

 健康者は常に健康者の心を以て心となす、もとより然るべきなり、只羸弱の病者になぐさむ(=草カンムリに、泣)時といへどもいくばくも異る処なきが如きものあるをうらみとすることなきにあらず

すこやかにありける人は心強し病みつつあれば我は泣きけり

 

 病院の一室にこもりける程は心に悩むことおほくいできてまなこの窪むばかりなればいまは只よそに紛らさむことを求むる外にせんすべもなく、五月三十日といふに雨いたく降りてわびしかりけれどもおして帰郷す

垂乳根たらちねの母が釣りたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども

 

小さなる蚊帳かやこそよけれしめやかに雨を聴きつつやがて眠らむ

 

蚊帳の外に蚊の声きかずなりし時けうとく我は眠りたるらむ

 

 三十一日、こよひもはやくいねて

くりやなるながしのもとに二つ居てかはづ鳴く夜を蚊帳釣りにけり

 

鬼灯ほほづきを口にふくみて鳴らすごと蛙はなくも夏の浅夜を

 

なきかはす二つの蛙ひとつ止みひとつまた止みぬも眠くなりぬ

 

短夜みぢかよの浅きがほどになく蛙ちからなくしてやみにけらしも

 

 夜半月冴えて杉の梢にあり

小夜さよふけて厨に立てばものうげに蛙は遠し水足りぬらむ

 

 六月一日、あたりのもの凡ていまさらに目にめづらしければ出でありく

麦刈ればうね間うね間に打ちならびまめは生ひたり皆かがまりて

 

 幼きものの仕業なるべし

垣根なるうつ木の花はめてぞろりと土に棄てられにけり

 

 夕近くして雨意おほし

雨蛙しきりに鳴きて遠方をちかたの茂りほの白くむせびたり見ゆ

 

いささかは花まだみゆる山吹の雨を含みて茂らひにけり

 

 二日、雨戸あくるおとに目さむ

おろそかに蚊帳を透してみえねどもしづくものうく外は雨なりき

 

 やがてしげくふりいづ

つくづくと夏の緑はこころよき杉をみあげて雨の脚ながし

 

 泥のぬかり足駄の歯にわびしけれど心ゆくばかりのながめせんとてまたいでありく

鉈豆なたまめのものものしくももたげたるふた葉ひらきて雨はふりつぐ

 

車前草おほばこは畑のこみちに槍立てて雨のふる日は行きがてぬかも

 

 庭の枇杷今年ばかりは珍らしく果多し

枇杷の木にみじかき梯子かかれどもとるとはかけじいまだ青きに

 

 雨をよろこぶこころを

蕗の葉の雨をよろしみ立ちぬれて聴かなともへど身をいたはりぬ

 

 我が草苺くさいちごを好むこと度を知らずともいひつべし、未だ甚だしく体力の衰へざりし程は一度に五合にのぼらざれば胸の爽かなるを覚えず、然かも日には幾たびとなくこれをくりかへして飽くこともなかりき、さるをことしは家を離れて久しくなりけるに市場に出でたるは嘗て手にだも触れむとせざれば、日頃はさびしくあかしけるが、いまはうれしきは門の畑なり

たらちねはざるもていゆく草苺赤きをつむがおもしろきとて

 

いくたびか雨にもいでていちごつむ母がおよびは爪紅つまべにをせり

 

草いちご洗ひもてれば紅解けて皿の底には水たまりけり

 

 三日微雨、人にあふこといできにたれば車にほろかけて出づ、鬼怒川きぬがはをわたる

みやこぐさ更紗を染めし草むしろかこかにぬれて霧雨ぞふる

 

口をもて霧吹くよりもこまかなる雨にあざみの花はぬれけり

 

鬼怒川の土手の小草をぐさに交りたる木賊とくさの上に雨晴れむとす

 

 四日、晴れて俄に暑し 風邪引くことのおそろしくてためらひ居けるをいまはなかなかに心も落ちゐたれば単衣ひとへになる

とりいでて肌に冷たきたまゆらはひとへの衣つくづくとうれし

 

くつろぐと足をに向けころぶせば裾より涼し唯そよそよと

 

さやげども麦稈むぎわら帽子とばぬ程みんなみ吹きてはすがすがし

 

 暑きころになればいつとても痩せゆくが常ながら、ことしはまして胸のあたり骨あらはなれど、単衣の袂かぜにふくらみてけふは身の衰へをおぼえず、かかることいくばくもえつづくべきにあらざれど猶独り心に快からずしもあらず

単衣ひとへきてこころほがらかになりにけり夏は必ずわれ死なざらむ

 

   鍼の如く 其三

 

 六月九日夜、下関の港にて

うつらうつら髪を刈らせて眠り居る足をつれなく蚊のしにけり

 

鋏刀はさみもつ髪刈人かみかりびとは蚊の居れどおのれ蟄さえねば打たむともせず

 

 四日間の旅を経て十日といふに博多につく、十一日朝、千代の松原をありく

夏帽の堅きがつばに落ちふれて松葉は散りぬこのしづけきに

 

 十二日

かやの中にまなぶたとぢてこやれども蚊に蟄され居し足もすべなく

 

蚊の螫しし足を足もてさすりつつあらぬことなど思ひつづけし

 

 十四日

脱ぎすててしりのあたりがふくだみしちぢみの単衣ひとり畳みぬ

 

 此の夜いまさらに旅の疲れいできにけるかと覚えられて

ちまたには蚤とり粉など売りありく浅夜をはやく蚊帳吊らせけり

 

低く吊るかやのつり手の二隅は我がつりかへぬよひよひ毎に

 

 十七日、日ごろ雨の中を病院へかよひゐけるが此の日は殊にはげしく降りつるに、四日間の汽車の窓より見て到るところおなじく軽快にして目をよろこばせしもの唯夥しき茅花のみなりけるをなつかしく思ひいづることありて

稚松わかまつの群に交りてたはむれし茅花つばなも雨にしをれてあるらむ

 

はろばろに茅花おもほゆ水汲みて笊にまけたる此の雨の中に

 

泣くとては瞼に当つる手のごとく茅花やたわむこのあめのふるに

 

 病室みな塞りたれば入院もなり難く、久保博士の心づくし暫くは空しくて雨にぬれて通ふ

すみやけく人もえよと待つときに夾竹桃はほころびにけり

 

 廿日、漸くいぶせき旅宿をいでて病院の一室に入る、二日三日の程にくさぐさ聞き知りて馴れ行く、病院の規模大なれば白衣の看護婦おびただしく行きかふ、皆かひがひしく立ちはたらくところ服装のためなればか年齢の相違のごときも俄にはわかち難く、すべて男性的に化せられたるが如く見ゆれども

たまたまはかすりのひとへ帯締めてをとめなりけるつつましさあはれ

 

 廿四日夜、また不眠に陥る

いづべゆか雨洩りたゆく聞え来てふけしく夜は沈みけるかも

 

 小松植ゑたる狭き庭をへだてて外科の病棟あり、痛し痛しと呻く声きこゆ

夜もすがらうたへ泣く声遠ぞきて明けづきぬらし雨衰へぬ

 

 廿五日、ベコニヤの花一枝を挿し換ふ、博士の手折られけるなり、白き一輪挿は同夫人のこれもベコニヤの赤きを活けもておくられけるなり、廿六日の朝看護婦のかやを外していにけるあとにおもはぬ花一つ散り居たり

ことごとすがりて垂れしべコニヤは散りての花もうつぶしにけり

 

ちるべくも見えなき花のベコニヤはかやの裾などふりにけらしも

 

べコニヤの白きが一つ落ちにけり土に流れて涼しき朝を

 

 寝台の下のくらきを払ふこともなく看護婦のよひごとに吊りければ蚊帳の中に蚊おほくなりて、此の夜もうつらうつらとしてありけるほどふけゆくままに一しきり襲ひきたれるに驚く

ひそやかに螫さむと止る蚊を打てば手の痺れ居る暫くは安し

 

声掛けて耳のあたりにとまる蚊を血を吸ふ故に打ち殺しけり

 

 七月一日、朝まだきにはじめて草履はきておりたつ、構内に梢ひろき松林あり、近く海をのぞむ

月見草しぼまぬほどとかはづ鳴くこゑをたづねて松のの間を

 

 柵の外には畑ありて南瓜つくることおほし、我はなはだこの花を愛す

ただひとり南瓜畑の花みつつこころなく我は鼻ほりて居つ

 

 前後に人もなければ心もひろき松の林に白き浴衣ゆかたきたりけることのゆゑはなくして唯矜ほこりかにうれしく

朝まだきまだ水つかぬ浴衣だに涼しきおもひ松の間を行く

 

ただ一つ松の木の間に白きものわれを涼しく膝いだき居り

 

ころぶしてみれば梢は遙かなり松かさが動くその雀等は

 

松かげの蚊帳釣草にころぶしていささか痒き足のばしけり

 

かくのごと頬すりつけてうなづけば蚊帳釣草も懐しきかも

 

 窓外

ぽぷらあと夾竹桃とならびけり甍を越えてぽぷらあは高く

 

 四日深更、月すさまじく冴えたり

硝子戸を透してかやに月さしぬあはれといひて起きて見にけり

 

小夜ふけてひそかに蚊帳にさす月をねむれる人は皆知らざらむ

 

さやさやにかやのそよげばゆるやかに月の光はゆれて涼しも

 

 目さめてさまざまのことを思ふ

かかるとき扁蒲畑ゆふがほばたに立ちなばとおもひてもみつ今はに出でず

 

 七日

よひよひに必ずゆがむ白蚊帳に心落ちゐて眠るこのごろ

 

白蚊帳に夾竹桃をおもひ寄せ只こころよくその夜ねむりき

 

 厭はしきはかやの中の蚊なり

はかなくもよひよひごとに蚊の居らぬかやなれかしとおもひ乞ひのむ

 

   鍼の如く 其四

 

 七月十七日、構内の松林をしようよう(逍遙の意の二字)す、煤煙のためなればか、梢のいたく枯燥せるが如きをみる

油蝉乏しく松に鳴く声も暑きが故にれにけらしも

 

 いづれの病棟にもみな看護婦どもの其の詰所といふものの窓の北陰にささやかなる箱庭の如きをつくりてくさぐさの草の花など植ゑおけるが、夕毎に三四人づつおりたちて砂なれば爪こまかなる熊手もて掃き清めなどす、十九日のことなり

水打てば青鬼灯あをほほづきの袋にもしたたりぬらむたそがれにけり

 

 かかる時女どもなればみなみなさざめきあへるが、ひとり我がために撫子の手折りたるをくれたれば

牛の乳をのみてほしたる壜ならで挿すものもなき撫子なでしこの花

 

 此のをみなすべてのものの中に野にあるなでしこを第一に好めるよしいひければ

なでしこの交れる草は悉くやさしからむと我がおもひみし

 

 壜に活けたるままにして

なでしこの花はみながらさきかへて幾日へぬらむ水減りにけり

 

撫子はいまに果敢はかなき花なれど捨つとことにいへばいたましきかも

 

 二十日の夜ひとつには暑さたへがたくして夜もすがら眠らず、明方にいたりて蛙の声を聞く

快くめざめて聴けと鳴くかはづねられぬ夜のあけにのみきく

 

さわやかに鳴くなる蛙たとふれば豆を戸板に転ばすがごと

 

 朝のうち必ず一しきりはげしく咳出づることありて苦しむ

曉の水にひたりて鳴く蛙すずしからむとおもひ汗拭く

 

 蚊帳釣草を折りて

暑き日はこちたき草をいとはしみ蚊帳釣草を活けてみにけり

 

こころよく汗のはだへにすず吹けば蚊帳釣草の髭そよぎけり

 

 夜になれば我がためにのみは必ず看護婦の来てかやをつりてくるるが例なり

かや釣るとかやつり草をに置くが務めなりける我は痩せにき

 

 やくが如き日でりつづけばすべての病室のつきそひの女ども唯洗濯にいそがはし

粥汁かゆしるを袋に入れてのりとると絞るがごとく汗はにじめり

 

 おもひ待てども蝉の声をきかず

板のごと糊つけ衣夕まけて松に乾けど蝉も鳴かぬかも

 

 庭の松の蔭に午後に成れば朝顔の鉢をおくものあり、他の病室の患者の慰めなりといへどもひとの枕のほとり心づかざれば未だみしこともなく

朝まだき涼しき程の朝顔は藍など濃くてあれなとぞおもふ

 

 僅に凌ぎよきは朝まだきのみなり

蚤くひのあとなどみつつ水をもて肌拭くほどは涼しかりけり

 

 夕に汗を流さんと一杯の水を被りて

糊づけし浴衣はうれし蚤くひのこちたき趾も洗はれにけり

 

 涼味漸く加はる

松の木のまばらこぼるる暑き日に草みな硬く秋づきにけり

 

 二十三日久保博士の令妹より一茎の桔梗をおくらる、枕のほとり俄に蘇生せるがごとし

ささやけきかぞの白紙しらかみ爪折つまをりて桔梗の花は包まれにけり

 

桔梗きちかうの花ゆゑ紙はぬれにけり冷たき水のしたたれるごと

 

桶などに活けてありける桔梗きちかうをもたせりしかば紙はぬれけむ

 

 目をつぶりてみれば秋既に近し

白埴しらはにかめに桔梗を活けしかば冴えたる秋は既にふふめり

 

しらはにの瓶にさやけき水吸ひて桔梗の花は引き締りみゆ

 

桔梗きちかうを活けたる水を換へまくは肌は涼しきあけにしあるべし

 

 我は氷を噛むことを好まざれど

暑き日は氷を口にふくみつつ桔梗ききやうは活けてみるべかるらし

 

氷入れしつめたき水に汗拭きて桔梗の花を涼しとぞみし

 

すべもなく汗は衣をとほせどもききやうの花はみるにすがしき

 

 廿四日の夕、偶々柵をいでて濱辺に行く、群れ居る人々と草履ぬぎて浅き波に浸る、空のには暗紫色の霧の如きが棚引きたるに大なる日落ち懸れり、凝視すれどもまぶしからず、近くは雨をみざるきざしなり

抱かばやと没日いりひのあけのゆゆしきに手円たなまどささげ立ちにけるかも

 

 渚を遠く北にあたりて葦茂りて草もおひたれば行きて探りみんと思へどこのあたり嘗て撫子をみずといひにければ

おしなべて撫子なでしこ欲しとみえもせぬ顔は憂へず皆たそがれぬ

 

 構内にレールを敷きたるは濱へゆくみちなり、雑草あまた茂りて月見草ところどころにむらがれり、一夜螽斯きりぎりすをきく

石炭の屑捨つるみちの草むらに秋はまだきのきりぎりすなく

 

きりぎりすきかまく暫ししり据ゑて暮れきとばかり草もぬくめり

 

きりぎりすきこゆる夜の月見草おぼつかなくも只ほのかなり

 

白銀しろがねはり打つごとききりぎりす幾夜はへなば涼しかるらむ

 

月見草けぶるが如くにほへれば松の木の間に月けて低し

 

 八月一日、病棟の陰なる朝顔三日ばかりこのかた漸くに一つ二つとさきいづ

うがひしてすなはちみれば朝顔の藍また殖えて涼しかりけり

 

 三日夕、整形外科の教室の陰に手をたてておびただしく絡ませたるをはじめて知る、余りに日に疎ければ

朝顔の赤はしぼまずむき捨てし瓜の皮など乾く夕日に

 

 四日

あさがほの藍のうすきが唯一つすがりてさびし小雨さへふり

 

 彼の垣根のもとに草履はきておりたつ

朝顔のかきねに立てばひそやかにまつげにほそき雨かかりけり

 

 六日

かつかつも土をひたる朝顔のさきぬといへば只白ばかり

 

   鍼の如く 其五

 

 八月十四日、退院

あさがほはつるもてへれおもはぬに榊の枝に赤き花一つ

 

 十六日朝、博多を立つ、日まだ高きに人吉に下車し林の温泉といふにやどる、暑さのはげしくなりてより身はいたく疲れにたりけるを俄かに長途にのぼりたることなれば只管ひたすらに熱の出でんことをのみ恐れて

手を当てて心もとなき腋草わきくさに冷たき汗はにじみ居にけり

 

 十八日、日向の小林より乗合馬車に身をすぼめてまだ夜のほどに宮崎へ志す

草深き垣根にけぶる烏瓜たまづさにいささか眠き夜は明けにけり

 

霧島は馬のひづめにたててゆく埃のなかに遠ぞきにけり

 

 十九日、宮崎より南の方折生迫おりゅうざこといふにいたる、青島目睫の間に横はりてうるはしけれど、此の日より驟雨いたりてやがて連日の時化に変りたれば、心落ち居る暇もなきに漁村のならはし食料の蓄もなければ

かくしつつ我は痩せむと茶を掛けてこはいひはむあにうまからず

 

酢をかけて咽喉こそばゆき芋殻の乏しき皿に箸つけにけり

 

 二十五日に入りて、雨は更に戸を打つこと劇しくして止むべきけしきもなし

痺れたる手枕たまくら解きてをみれば雨打ち乱し潮の霧飛ぶ

 

噛みさ噛み疾風はやちは潮をいぶくきぬも畳もぬれにけるかも

 

 二十六日、漸くにして晴る、宿は松林のほとりに独離れて建てられたるが、道も庭も松葉散り敷きてあたりは狼藉たり

木に絡む絲瓜へちまの花も此の朝はしなえてさきぬ痛みたるらむ

 

 おなじく松林のほとり、少し隔てて壁くづれ落ちてかつかつも住みなしたるあり、けさは殊に凄じきさまに

しめりたる松葉をくどに焚くけぶり絲瓜の花にまつはりてけぬ

 

 二十七日、宮崎にのがる、明くれば大淀川のほとりをさまよふ

朝まだきすずしくわたる橋の上に霧島ひくく沈みたり見ゆ

 

 三十一日、内海の港より船に乗りて吹毛井といふところにつく、次の日は朝の程に鵜戸のいはやにまうでて其の日ひと日は楼上にいねてやすらふ

手枕たまくらに畳のあとのこちたきに幾ときわれは眠りたるらむ

 

 懶き身をおこしてやがて呆然として遠く目を放つ

うるはしき鵜戸の入江の懐にかへる舟かも沖に帆は満つ

 

 渚にちかくのきを掩ひて一樹の松そばだちたるが、枕のほとりいつしか落葉のこぼれたるをみる

松の葉を吹き込むかぜの涼しきにむせびてわれはさめにけらしも

 

 二日、油津の港へつきて更に飫肥おびにいたる、枕流亭にやどる、欄のもと僅に芋をつくりたるあり心を惹く

ころぶせば枕にひびく浅川に芋洗ふ子もが月白くうけり

 

 四日、油津の港より乗りて外の浦といふところへわたる、漸くにして探しあてたるはわびしき宿なれども静かなる入江もみえたれば、もとより戸は立てしめず、閾の際に枕したれば月はまどかにして蚊帳のうちをうかがふ

かや越しに雨のしぶきの冷たきにふたたびめざめ明けにけるかも

 

 六日、波荒き海上を折生迫おりゅうざこの漁村にもどる、此の夜おもひつづくることありてふくるまで眠らず

草に棄てし西瓜の種がこもりなく松蟲きこゆ海の鳴る夜に

 

 八日、陰晴定めなき季節のならはし、雨をりをりはげしく障子を打つ

横しぶく雨のしげきに戸を立てて今宵は蟲はきこえざるらむ

 

 九日、再び時化になりたればまた宮崎にのがる、人のもとにて梨瓜といふを皿に盛りてすすめらる、此の地方西瓜を産することおびただし

瓜むくと幼き時ゆせしがごとたたさにかばなほうまからむ

 

 十三日、漸く折生迫おりゅうざこにもどれば同人の手紙などとどきて居たるを一つ一つとひらきみてはくりかへしつつ

とこしへに慰もる人もあらなくに枕に潮のおらぶ夜は憂し

 

むらぎもの心はもとな遮莫さもあらばあれをとめのことは暫し語らず

 

 夜は苦しき眠りに落つるまで蟲の声々あはれに懐しく

こほろぎのしめらに鳴けば鬼灯ほほづきの庭のくまみをおもひつつ聴く

 

こほろぎはひたすら物に怖づれどもおのれ健かに草に居て鳴く

 

 十四日

むしばみてほほづき赤き草むらに朝はうがひの水すてにけり

 

 午に近くたまたま海岸をさまよふ

草村にさける南瓜の花共に疲れてたゆきこほろぎの声

 

 海もくまなく晴れたれば、あたりは只一時に目をひらきたるがごとし

鯛とると舟が帆掛けて乱れれば沖は俄かにひろくなりにけり

 

 豊後國へわたる船を待たむと此の日内海にいたりてやどる

此の宵はこほろぎ近しくりやなるざるの菜などに居てか鳴くらむ

 

 十八日、昨日別府の港につきてけふは大分の郊外に石佛を探り汗流して帰れるに、夕近くなりて慌しく肌衣はだぎとりいだす

こころよき刺身の皿の紫蘇の実に秋は俄かに冷えいでにけり

 

 二十二日、博多なる千代の松原にもどりて、また日ごとに病院にかよふ

此のごろは浅蜊浅蜊と呼ぶ声もすずしく朝のうがひせりけり

 

 三十日、雨つめたし、(平福)百穂ひやくすい氏の秋海棠を描きたる葉書とりいだしてみる、庭にはじめてさけりとあり

うなだれし秋海棠にふる雨はいたくはふらず只白くあれな

 

いささかは肌はひゆとも単衣きて秋海棠はみるべかるらし

 

 ゆくりなくも宿のせまき庭なる朝顔の垣を、のぞきみて

秋雨のひねもすふりて夕されば朝顔の花しぼまざりけり

 

 十月一日、庭のあさがほけさは一つも花をつけず

朝顔の垣はむなしき秋雨をわびつつけふもまたいねてあらむ

 

 病院の門を入りて懐しきは、只鶏頭の花のみなり

鶏頭は冷たき秋の日にはえていよいよ赤く冴えにけるかも

 

 十日、再び秋草のたよりいたる、萎えたるこころしばらくは慰む

刈萱かるかやと秋海棠とまじりぬと未だはみねどかなひたるべし

 

わびしくも痩せたる草の刈萱は秋海棠の雨ながらみむ

 

 日ごろは熱たかければ、日ねもす蒲団引き被りてのみ苦しみける程に、もとより入浴することもなかりけるが、たまたま十八日の朝まだき、まださくやらむと朝顔のあはれに小さくふふみたる裏戸をあけていでゆく

ゆあみして手拭てぬぐひひゆる朝寒みまだつぼみなりそのあさがほは

 

 小さき蚊帳のうちに独りさびしく身を横たふるは常のならはしにして、また我が好むところなるに、ましてここは薮蚊のおほきところなれば只いつまでも吊らせてありけるが

幾夜さを蚊帳に別れてながき夜のほのかにかなし雨のふる夜は

 

古蚊帳のひさしく吊りしほころびもなかなかいまは懐しみこそ

 

 吸入室の窓のもとに、一坪ばかり庭の砂掻きよせて苗を挿してありけるが、夏の日にも枯れず、秋もたけて漸く一尺余りになりたればいまは日ごとに目につくやうになりけるを、十一月十一日、折から時雨の空掻きくもりて騒がしきに

はらはらと松葉吹きこぼす狭庭さにはには皆白菊の花さきにけり

 

 次の日、庭は熊手もてくまもなく掻きはらはれたれど

白菊のまばらまばらはおもしろくこぼれ松葉を砂のへに敷く

 

 十四日、夜にいりて雨やまざれど俄に思ひ立つことありて久保博士をおとなふ

しめやかに雨の浅夜を籠ながら山茶花のはなこぼれ居にけり

 

 俄に九度近くのぼりたる熱さむることもなく、三十日ばかりの間は只引きこもりてありければ、常に季節に疎しともおもはざりける身の山茶花の花をみることはじめてなればいま更のごとく驚かれぬるに

吸物にいささかけし柚子ゆずの皮の黄に染みたるも久しかりけり

 

 幾時なるらむ、めざめて雨のはげしきおとをきく

松の葉はたこぼるらし小夜ふけてひさしに雨の当るをきけば

 

 十五日、ふとかの十坪に足らぬ裏の庭を見下すに、そこにも若き木の一本はありて

ひそやかに下枝しづえばかりにひらきたる山茶花白くこぼれたり見ゆ

 

山茶花はさけばすなはちこぼれつつ幾ばく久にあらむとすらむ

 

 十六日、このごろ熱低くなりたれば、始めて人をたづねていづ、空晴れて快し

不知火しらぬひの国のさかひにうるはしき背振せぶりの山は暖かに見ゆ

 

 ひとの垣に添うてゆく

山茶花はあまたも散れば土にして白きをみむに垣内かきつには立つ

 

 雀の好む木なればか必ずさへづりかはすをみる

山茶花に雀はすだくときにだに姿うつくしくあれなとぞおもふ

 

 わかき女のさげもてゆくものを

手に持てる茶の木の枝にくくられて黄にこごりたる草の花何

 

 十九日、たいでありく、朱欒ざぼんの青きがそこここの店に置かれてまだ一つ二つは残りたらむとおもふに、梢に垂れたるは皆既にいろづきたるにおどろく

竿に釣りて朱欒ざぼんのうへの白足袋は乾きたるらし動きつつみゆ

 

 二十二日、観世音寺にまうでんと宰府より間道をつたふ

くとすてたる藁に霜ふりて梢の柿は赤くなりにけり

 

 彼の蒼然たる古鐘をあふぐ、ことしはまだはじめてなり

手を当てて鐘はたふとき冷たさに爪叩つまたたき聴く其のかそけきを

 

 住持は知れる人なり、かりのすまひにひとしき庫裏くりなれども猶ほ且つかの縁のひろきをうら

朱欒ざぼん植ゑて庭暖き冬の日の障子に足らずいまは傾きぬ

 

 二十五日、氣候激変してけさもはげしき北吹きてやまず、ささやかなる店に蔬菜のうれのこりたるも哀れなり

うるほへば只うつくしき人参にんじんの肌さへ寒くかわきけるかも

 

 二十六日、百穂ひやくすい氏の来状に接す、寒雲低く垂れて庭に落葉を焚くなどあり

幾ばくの落葉にかあらむ掃きよせてくどには焚かず庭にして焚く

 

落葉焚きて寒き一夜の曉は灰に霜置かむ庭の土白く

 

 二十九日、筑後国なる松崎といふところに人をたづぬることありてつとめて立つ、おもはぬ霜ふかくおりたるにかくの如きは冬にいりではじめてなりといふ

すすきの穂ほけたれば白しおしなべて霜は小笹にいたくふりにけり

 

 此の日或る禅寺の庭に立ちて

枳椇けんぽなしともしく庭に落ちたるをひらひてあれど咎めても聞かず

 

たまたまはほたくさびをうちこみてもみの板く人もかへりみず

 

 十二月七日、程ちかくせきをおほく植ゑたるあり、けふは塀の外に散り敷ける落葉を掃きて、松葉のまじりたるままに火をつけて焼く

そこらくにこぼれ松葉のかかりゐる枯枝かれえも寒し落葉焚く日は

 

いささかの落葉が焼くるいぶり火にけぶりは白くひろごりにけり

 

 夜にいりて空俄に凄じくなりたれば、戸ははやく立てさせて

時雨れ来るけはひ遥かなり焚き棄てし落葉の灰はかたまりぬべし

 

 八日

松の葉を縄にくくりて売りありく声さへ寒く雨はふりいでぬ

 

朝まだき車ながらにぬれて行く菜は皆白き茎さむく見ゆ

 

 

 大正三年六月八日、山崎をすぎて雨おほいに到る

天霧あまぎらふ吹田すゐた茨木雨しぶき津の国遠く暮れにけるかも

 

 九日、三たび播州を過ぐ

播磨野はりまのあしたすがしき浅霧の松のうへなる白鷺の城

 

 同二年四月十五日夕、空には朝来の雨なごりもなく、汽車はこころよく伯耆の海岸に添うて走る

そがひには伯耆嶺はうきね白く晴れたればはららにける隠岐おきの国見ゆ

 

 十七日、出雲の杵築きづきにいたり大社に賽す、其の本殿の構造、簡易にして素朴なれどもしかもこれを仰ぐに彼の大国主の天の瓊矛たまほこつゑついて草昧の民の上に君臨せるおもかげを只今目前にみるのおもひあり

久方のあめが下にはこと絶えて嘆きたふとび誰かあふがざらむ

 

 十九日、よべはおそく香住かすみといふところにやどりて、応挙の大作をみむとつとめて大乗寺を訪ふ

菜の花をそびらに立てる低山ひくやまくぬぎがしたに雪はだらなり