自 序
廿歳頃より詠んだ歌の中から一千首を抜き、一巻に輯めて『別離』と名づけ、今度出版することにした、昨日までの自己に潔く別れ去らうとするこころに外ならぬ。
先に著した『獨り歌へる』の序文に私は、私の歌の一首一首は私の命のあゆみの一歩一歩であると書いておいた、また、一歩あゆんでは小さな墓を一つ築いて来てゐる様なものであるとも書いておいた。それらの歌が背後につづいて居ることは現在の私にとつて、可懐しくもまた少なからぬ苦痛であり負債である、如何かしてそれらと絶縁したいといふ念願からそれを一まとめにして留めておかうとするのである。然うして全然過去から脱却して、自由な、解放せられた身になつて、今まで知らなかつた新たな自己に親しんで行き度いとおもふ。
また、昨年あたりで私の或る一期の生活は殆ど名残なく終りを告げて居る。そして丁度昨年は人生の半ばといふ廿五歳であつた。それやこれや、この春この『別離』を出版しておくのは甚だ適当なことであると私は歓んで居る。
本書の装幀一切は石井柏亭氏を煩はした。写真は一昨年の初夏に撮つたものである、この一巻に収められた歌の時期の中間に位するものなので挿入しておいた。
歌の掲載の順序は歌の出来た時の順序に従うた。
左様なら、過ぎ行くものよ、これを期として我等はもう永久に逢ふまい。
明治四十三年四月六日 著者
上巻
自 明治三十七年四月
至 同 四十一年三月
水の音に似て啼く鳥よ山ざくら松にまじれる深山の昼を
なにとなきさびしさ覚え山ざくら花ちるかげに日を仰ぎ見る
山越えて空わたりゆく遠鳴の風ある日なりやまざくら花
朝地震す空はかすかに嵐して一山白きやまざくらばな
行きつくせば浪青やかにうねりゐぬ山ざくらなど咲きそめし町
朝の室夢のちぎれの落ち散れるさまにちり入る山ざくらかな
阿蘇の街道大津の宿に別れつる役者の髪の山ざくら花
母恋しかかるゆふべのふるさとの櫻咲くらむ山の姿よ
父母よ神にも似たるこしかたに思ひ出ありや山ざくら花
春は来ぬ老いにし父の御ひとみに白ううつらむ山ざくら花
怨みあまり切らむと云ひしくろ髪に白躑躅さすゆく春のひと
忍草雨しづかなりかかる夜はつれなき人をよく泣かせつる
山脈や水あさぎなるあけぼのの空をながるる木の香かな
日向の国むら立つ山のひと山に住む母恋し秋晴の日や
君が背戸や暗よりいでてほの白み月のなかなる花月見草
蛬や寝ものがたりの折り折りに涙もまじるふるさとの家
秋あさし海ゆく雲の夕照りに背戸の竹の葉うす明りする
朝寒や萩に照る日をなつかしみ照らされに出し黒かみのひと
別れ来て船にのぼれば旅人のひとりとなりぬはつ秋の海
秋風は木間に流る一しきり桔梗色してやがて暮るる雲
白桔梗君とあゆみし初秋の林の雲の静けさに似て
思ひ出れば秋咲く木木の花に似てこころ香りぬ別れ来し日や
秋立ちぬわれを泣かせて泣き死なす石とつれなき人恋しけれ
この家は男ばかりの添寝ぞとさやさや風の樹に鳴る夜なり
木の蔭や悲しさに吹く笛の音はさやるものなし野にそらに行く
吾木香すすきかるかや秋くさのさびしききはみ君におくらむ
秋晴や空にはたえず遠白き雲の生れて風ある日なり
秋の雲柿と榛との樹樹の間にうかべるを見て人も語らず
幹に倚り頬をよすればほのかにも頬に脈うつ秋木立かな
机のうへ植木の鉢の黒土に萌えいづる芽あり秋の夜の灯よ
秋の灯や壁にかかれる古帽子袴のさまも身にしむ夜なり
富士よゆるせ今宵は何の故もなう涙はてなし汝を仰ぎて
日が歩むかの弓形のあを空の青ひとすぢのみちのさびしさ
悲しさのあふるるままに秋のそら日のいろに似る笛吹きいでむ
山ざくら花のつぼみの花となる間のいのちの恋もせしかな
淋しとや淋しきかぎりはてもなうあゆませたまへ如何にとかせむ
うらこひしさやかに恋とならぬまに別れて遠きさまざまの人
ぬれ衣のなき名をひとにうたはれて美しう居るうら寂しさよ
春たてば秋さる見ればものごとに驚きやまぬ瞳の若さかな
町はづれきたなき溝の匂ひ出るたそがれ時をみそさざい啼く
植木屋の無口のをとこ常磐樹の青き葉を刈る春の雨の日
船なりき春の夜なりき瀬戸なりき旅の女と酌みしさかづき
春の森青き幹ひくのこぎりの音と木の香と藪うぐひすと
ただひとり小野の樹に倚り深みゆく春のゆふべをなつかしむかな
わだつみのそこひもわかぬわが胸のなやみ知らむと啼くか春の鳥
ゆく春の月のひかりのさみどりの遠をさまよふ悲しき声よ
雲ふたつ合はむとしてはまた遠く分れて消えぬ春の青ぞら
眼とづればこころしづかに音をたてぬ雲遠見ゆる行く春のまど
鶯のふと啼きやめばひとしきり風わたるなり青木が原を
椎の樹の暮れゆく蔭の古軒の柱より見ゆ遠山を焼く
春来ては今年も咲きぬなにといふ名ぞとも知らぬ背戸の山の樹
町はづれ煙筒もるる青煙のにほひ迷へる春木立かな
われはいま暮れなむとする雲を見る街は夕の鐘しきりな
淋しくばかなしき歌のおほからむ見まほしさよと文かへし来ぬ
人どよむ春の街ゆきふとおもふふるさとの海の鷗啼く声
街の声うしろに和むわれらいま潮さす河の春の夜を見る
春の夜や誰ぞまだ寝ぬ厨なる甕に水さす音のしめやかに
春の夜の月のあはきに厨の戸誰が開けすてし灯のながれたる
日は寂し萬樹の落葉はらはらに空の沈黙をうちそそれども
見よ秋の日のもと木草ひそまりていま凋落の黄を浴びむとす
鍬をあげまた鍬おろしこつこつと秋の地を掘る農人どもよ
うすみどりうすき羽根着るささ蟲の身がまへすあはれ鳴きいづるらむ
うつろなる秋のあめつち白日のうつろの光ひたあふれつつ
秋真昼青きひかりにただよへる木立がくれの家に雲見る
落日や街の塔の上金色に光れど鐘はなほ鳴りいでず
啼きもせぬ白羽の鳥よ河口は赤う濁りて時雨晴れし日
さらばとてさと見合せし額髪のかげなる瞳えは忘れめや
別れてしそのたまゆらよ虚なる双のわが眼にうつる秋の日
いま瞑ぢむ寂しき瞳明らかに君は何をかうつしたりけむ
短かりし君がいのちのなかに見ゆきはまり知らぬ清きさびしさ
窓ちかき秋の樹の間に遠白き雲の見え来て寂しき日なり
酒の香の恋しき日なり常磐樹に秋のひかりをうち眺めつつ
見てあれば一葉先づ落ちまた落ちぬ何おもふとや夕日の大樹
をちこちに乱れて汽笛鳴りかはすああ都会よ見よ今日もまた暮れぬ
海の声断えむとしてはまた起る地に人は生れまた人を生む
人といふものあり海の真蒼なる底にくぐりて魚をとりて食む
山茶花は咲きぬこぼれぬ逢ふを欲りまたほりもせず日経ぬ月経ぬ
遠山の峰の上にきゆるゆく春の落日のごと恋ひ死にも得ば
秋の夜やこよひは君の薄化粧さびしきほどに静かなるかな
世のつねのよもやまがたり何にさは涙さしぐむ灯のかげの人
君去にてものの小本のちらばれるうへにしづけき秋の灯よ
いと遠き笛を聴くがにうなだれて秋の灯のまへものをこそおもへ
相見ればあらぬかたのみうちまもり涙たたへしひとの瞳よ
君は知らじ君の馴寄るを忌むごときはかなごころのうらさびしさを
落葉焚くあをきけむりはほそほそと木の間を縫ひて夕空へ行く
静けさや君が裁縫の手をとめて菊見るさまをふと思ふとき
相見ねば見む日をおもひ相見ては見ぬ日を思ふさびしきこころ
ふとしては君を避けつつただ一人泣くがうれしき日もまじるかな
黄に匂ふ悲しきかぎり思ひ倦じ対へる山の秋の日のいろ
一葉だに揺れず大樹は夕ぐれのわが泣く窓に押しせまり立つ
旅ゆきてうたへる歌をつぎにまとめたり、思ひ出にたよりよかれとて
山の雨しばしば軒の椎の樹にふりきてながき夜の灯かな (百草山にて)
立川の駅の古茶屋さくら樹の紅葉のかげに見おくりし子よ
旅人は伏目にすぐる町はづれ白壁ぞひに咲く芙蓉かな (日野にて)
家につづく有明白き萱原に露さはなれや鶉しば啼く
あぶら灯やすすき野はしる雨汽車にほほけし顔の十あまりかな
戸をくれば朝寝の人の黒かみに霧ながれよる松なかの家 (御嶽にて)
霧ふるや細目にあけし障子よりほの白き秋の世の見ゆるかな
霧白ししとしと落つる竹の葉の露ひねもすや月となりにけり
野の坂の春の木立の葉がくれに古き宿見ゆ武藏の青梅
なつかしき春の山かな山すそをわれは旅びと君おもひ行く (五首高尾山にて)
思ひあまり宿の戸押せば和やかに春の山見ゆうち泣かるかな
地ふめど草鞋声なし山ざくら咲きなむとする山の静けさ
山静けし峰の上にのこる春の日の夕かげ淡しあはれ水の声
春の夜の匂へる闇のをちこちによこたはるなり木の芽ふく山
汽車過ぎし小野の停車場春の夜を老いし駅夫のたたずめるあり
日のひかり水のひかりの一いろに濁れるゆふべ大利根わたる
大河よ無限に走れ秋の日の照る国ばらを海に入るなかれ
松の実や楓の花や仁和寺の夏なほわかし山ほととぎす (京都にて)
けふもまたこころの鉦をうち鳴しうち鳴しつつあくがれて行く (九首中国を巡りて)
海見ても雲あふぎてもあはれわがおもひはかへる同じ樹蔭に
幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく
峡縫ひてわが汽車走る梅雨晴の雲さはなれや吉備の山山
青海はにほひぬ宮の古ばしら丹なるが淡う影うつすとき (宮島にて)
はつ夏の山のなかなるふる寺の古塔のもとに立てる旅びと (山口の瑠璃光寺にて)
桃柑子芭蕉の実売る磯街の露店の油煙青海にゆく (下関にて)
あをあをと月無き夜を満ちきたりまたひきてゆく大海の潮 (日本海を見て)
旅ゆけば瞳痩するかゆきずりの女みながら美からぬはなし
安藝の国越えて長門にまたこえて豊の国ゆき杜鵬聴く (二首耶馬渓にて)
ただ恋しうらみ怒りは影もなし暮れて旅籠の欄に倚るとき
白つゆか玉かとも見よわだの原青きうへゆき人恋ふる身を (南日向を巡りて)
潮光る南の夏の海走り日を仰げども愁ひ消やらず
わが涙いま自由なれや雲は照り潮ひかれる帆柱のかげ
檳榔樹の古樹を想へその葉蔭海見て石に似る男をも
山上や目路のかぎりのをちこちの河光るなり落日の国 (日向大隅の界にて)
椰子の実を拾ひつ秋の海黒きなぎさに立ちて日にかざし見る (都井岬にて)
あはれあれかすかに声す拾ひつる椰子のうつろの流れ実吹けば
日向の国都井の岬の青潮に入りゆく端に独り海見る
黄昏の河を渡るや乗合の牛等鳴き出ぬ黄の山の雲
酔ひ痴れて酒袋如すわがむくろ砂に落ち散り青海を見る
船はてて上れる国は満天の星くづのなかに山匂ひ立つ (日向の油津にて)
山聳ゆ海よこたはるその間に狭しま白し夏の砂原
遊君の紅き袖ふり手をかざしをとこ待つらむ港早や来よ
南国の港のほこり遊君の美なるを見よと帆はさんざめく
大うねり風にさからひ青うゆくそのいただきの白玉の波
大隅の海を走るや乗合の少女が髪のよく匂ふかな
船酔のうら若き母の胸に倚り海をよろこぶやよみどり児よ
落日や白く光りて飛魚のとぶ声しげし秋風の海
港口夜の山そびゆわが船のちひさなるかな沖さして行く
帆柱ぞ寂然としてそらをさす風死せし白昼の海の青さよ
かたかたとかたき音して秋更けし沖の青なみ帆のしたにうつ
風ひたと落ちて真鉄の青空ゆ星ふりそめぬつかれし海に
山かげの闇に吸はれてわが船はみなとに入りぬ汽笛長う鳴る
夕さればいつしか雲は降り来て峯に寝るなり日向高千穂
秋の蝉うちみだれ鳴く夕山の樹蔭に立てば雲のゆく見ゆ
樹間くれ見居れば阿蘇の青烟はかすかにきえぬ秋の遠空
(以下七首阿蘇にて)
山鳴に馴れては月の白き夜をやすらに眠る肥の国人よ
ひれ伏して地の底とほき火を見ると人の五つが赤かりし面
麓野の国にすまへる萬人を軒に立たせて阿蘇荒るるかな
風さやさや裾野の秋の樹にたちぬ阿蘇の月夜のその大きさや
むらむらと中ぞら掩ふ阿蘇山のけむりのなかの黄なる秋の日
秋のそらうらぶれ雲は霧のごと阿蘇につどひて凪ぎぬる日なり
海の上の空に風吹き陸の上の山に雲居り日は帆のうへに (六首周防灘にて)
やや赤む暮雲を遠き陸の上にながめて秋の海馳するかな
落日のひかり海去り帆をも去りぬ死せしか風はまた眉に来ず
夕雲のひろさいくばくわだつみの黒きを掩ひ日を包み燃ゆ
雲は燃え日は落つ船の旅びとの代赭の面のその沈黙よ
水に棲み夜光る蟲は青やかにひかりぬ秋の海匂ふかな
津の国は酒の国なり三夜二夜飲みて更らなる旅つづけなむ
杯を口にふくめば千すぢみな髪も匂ふか身はかろらかに
白雲のかからぬはなし津の国の古塔に望む初秋の山 (四天王寺に登りて)
山行けば青の木草に日は照れり何に悲しむわがこころぞも (箕面山にて)
泣真似の上手なりける小女のさすがなりけり忘られもせず
浪華女に恋すまじいぞ旅人よただ見て通れそのながしめを
われ車に友は柱に一語二語酔語かはして別れ去りにけり
酔うて入り酔うて浪華を出でて行く旅びとに降る初秋の雨
昨日飲みけふ飲み酒に死にもせで白痴笑ひしつつなほ旅路ゆく
住吉は青のはちす葉白の砂秋たちそむる松風の声
秋雨の葛城越えて白雲のただよふもとの紀の国を見る
火事の火の光り宿して夜の雲は赤う明りつ空流れゆく (和歌山にて)
町の火事雨雲おほき夜の空にみだれて鷺の啼きかはすかな (紀の国青岸にて)
ちんちろり男ばかりの酒の夜をあれちんちろり鳴きいづるかな
紀の川は海に入るとて千本の松のなかゆくその瑠璃の水
麓には潮ぞさしひく紀三井寺木の間の塔に青し古鐘
一の札所第二の札所紀の国の番の御寺をいざ巡りてむ
粉河寺遍路の衆のうち鳴らす鉦鉦きこゆ秋の樹の間に
鉦鉦のなかにたたずみ旅びとのわれもをろがむ秋の大寺
旅人よ地に臥せ空ゆあふれては秋山河にいま流れ来る (葛城山にて)
鐘おほき古りし町かな折しもあれ旅籠に着きしその黄昏に (奈良にて)
鐘断えず麓におこる嫩草の山にわれ立ち白昼の雲見る
雲やゆくわが地やうごく秋真昼鉦も鳴らざる古寺にして (二首法隆寺にて)
秋真昼ふるき御寺にわれ一人立ちぬあゆみぬ何のにほひぞ
みだれ降る大ぞらの星そのもとの山また山の闇を汽車行く (伊賀を越ゆ)
峡出でて汽車海に添ふ初秋の月のひかりのやや青き海 (駿河を過ぐ)
草ふかき富士の裾野をゆく汽車のその食堂の朝の葡萄酒
晩夏の光しづめる東京を先づ停車場に見たる寂しさ
──旅の歌をはり──
舌つづみうてばあめつちゆるぎ出づをかしや瞳はや酔ひしかも
とろとろと琥珀の清水津の国の銘酒白鶴瓶あふれ出づ
灯ともせばむしろみどりに見ゆる水酒と申すを君断えず酌ぐ
くるくると天地めぐるよき顔も白の瓶子も酔ひ舞へる身も
酌とりの玉のやうなる小むすめをかかへて舞はむ青だたみかな
女ども手うちはやして泣上戸泣上戸とぞわれをめぐれる
こは笑止八重山ざくら幾人の女のなかに酔ひ泣く男
あな可愛ゆわれより早く酔ひはてて手枕のまま彼女ねむるなり
睡れるをこのまま盗みわだつみに帆あげてやがて泣く顔を見む
酔ひはててはただ小をんなの帯に咲く緋の大輪の花のみが見ゆ
酔ひはてては世に憎きもの一も無しほとほとわれもまたありやなし
ああ酔ひぬ月が嬰子生む子守唄うたひくれずやこの膝にねむ
君が唄ふ『十三ななつ』君はいつそれになるかや嬰子うむかやよ
渇きはて咽喉は灰めく酔ざめに前髪の子がむく林檎かな
酒の毒しびれわたりしはらわたにあなここちよや沁む秋の風
石ころを蹴り蹴りありく秋の街落日黄なり酔醒めの眼に
もの見れば焼かむとぞおもふもの見れば消なむとぞ思ふ弱き性かな
黒かみはややみどりにも見ゆるかな灯にそがひ泣く秋の夜のひと
立ちもせばやがて地にひく黒髪を白もとゆひに結ひあげもせで
君泣くか相むかひゐて言もなき春の灯かげのもの静けさに
かりそめに病めばただちに死をおもふはかなごこちのうれしき夕 (四首病床)
死ぬ死なぬおもひ迫る日われと身にはじめて知りしわが命かな
日の御神氷のごとく冷えはてて空に朽ちむ日また生れ来む
夙く窓押し皐月のそらのうす青を見せよ看護婦胸せまり来ぬ
女ありき、われと共に安房の渚に渡りぬ、われその傍らにありて夜も昼も断えず歌ふ、明治四十年早春。
恋ふる子等かなしき旅に出づる日の船をかこみて海鳥の啼く
山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の国を旅ゆく
春や白昼日はうららかに額にさす涙ながして海あふぐ子の
岡を越え眞白き春の海辺のみちをはしれりふたつの人車
海哀し山またかなし酔ひ痴れし恋のひとみにあめつちもなし
海死せりいづくともなき遠き音の空にうごきて更けし春の日
ああ接吻海そのままに日は行かず鳥翔ひながら死せ果てよいま
接吻くるわれらがまへにあをあをと海ながれたり神よいづこに
山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇を君
いつとなうわが肩の上にひとの手のかかれるがあり春の海見ゆ
声あげてわれ泣く海の濃みどりの底に声ゆけつれなき耳に
わだつみの白昼のうしほの濃みどりに額うちひたし君恋ひ泣かむ
忍びかに白鳥啼けりあまりにも凪ぎはてし海を怨ずるがごと
君笑めば海はにほへり春の日の八百潮どもはうちひそみつつ
わがこころ海に吸はれぬ海すひぬそのたたかひに瞳は燃ゆるかな
こころまよふ照る日の海へ中ぞらへうれひねむれる君が乳の邊へ
眼をとぢつ君樹によりて海を聴くその遠き音になにのひそむや
砂濱の丘をくだりて松間ゆくひとのうしろを見て涙しぬ
ともすれば君口無しになりたまふ海な眺めそ海にとられむ
君かりにかのわだつみに思はれて言ひよられなばいかにしたまふ
涙もつ瞳つぶらに見はりつつ君かなしきをなほ語るかな
君さらに笑みてものいふ御頬の上にながるる涙そのままにして
このごろの寂しきひとに強ひむとて葡萄の酒をもとめ来にけり
松透きて海見ゆる窓のまひる日にやすらに睡る人の髪吸ふ
闇冷えぬいやがうへにも砂冷えぬ渚に臥して黒き海聴く
闇の夜の浪うちぎはの明るきにうづくまりゐて蒼海を見る
空の日に浸みかも響く青青と海鳴るあはれ青き海鳴る
海を見て世にみなし児のわが性は涙わりなしほほゑみて泣く
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
夜半の海汝はよく知るや魂一つここに生きゐて汝が声を聴く
かなしげに星は降るなり恋ふる子等こよひはじめて添寝しにける
ものおほく言はずあちゆきこちらゆきふたりは哀し貝をひろへる
渚ちかく白鳥群れて啼ける日の君がかほより寂しきはなし
浪の寄る真黒き巌にひとり居て春のゆふべの暮れゆくを見る
夕海に鳥啼く闇のかなしきにわれら手とりぬあはれまた啼く
鳥行けりしづかに白き羽のしてゆふべ明るき海のあなたへ
夕やみの磯に火を焚く海にまよふかなしみどもよいざよりて来よ
春の海ほのかにふるふ額伏せて泣く夜のさまの誰が髪に似む
ことあらば消なむとやうにわが前にひたすらわれをうかがふ君よ
君はいまわが思ふままよろこびぬ泣きぬあはれや生くとしもなし
君よ汝が若き生命は眼をとぢてかなしう睡るわが掌に
わがまへに海よこたはり日に光るこのかなしみの何にをののく
海岸の松青き村はうらがなし君にすすめむ葡萄酒の無し
わがうたふかなしき歌やきこえけむゆふべ渚に君も出で来ぬ
くちづけの終りしあとのよこ顔にうちむかふ昼の寂しかりけり
いかなれば恋のはじめに斯くばかり寂しきことをおもひたまへる
伏目して君は海見る夕闇のうす青の香に髪のぬれずや
日は海に落ちゆく君よいかなれば斯くは悲しきいざや祷らむ
白昼さびし木の間に海の光る見て真白き君が額のうれひよ
「木の香にや」「いな海ならむ樹間がくれかすかに浪の寄る音きこゆる」
幾千の白羽みだれぬあさ風にみどりの海へ日の大ぞらへ
いづくにか少女泣くらむその眸のうれひ湛へて春の海凪ぐ
海なつかし君等みどりのこのそこにともに來ずやといふに似て凪ぐ
直吸ひに日の光吸ひてまひる日の海の青燃ゆわれ巌にあり
海の声そらにまよへり春の日のその声のなかに白鳥の浮く
海あをし青一しづく日の瞳に点じて春のそら匂はせむ
春のそら白鳥まへり嘴紅しついばみてみよ海のみどりを
燐枝すりぬ海のなぎさに倦み光る昼の日のもと青き魚焼く
春の河うす黄に濁り音もなう潮満つる海の朝凪に入る
暴風雨あとの磯に日は冴ゆなにものに驚かされて犬長う鳴く
白昼の海古びし青き糸のごとたえだえ響く寂しき胸に
月つひに吸はれぬ曉の蒼穹の青きに海の音とほく鳴る
手をとりてわれらは立てり春の日のみどりの海の無限の岸に
春の海のみどりうるみぬあめつちに君が髪の香満ちわたる見ゆ
御ひとみは海にむかへり相むかふわれは夢かも御ひとみを見る
白き鳥ちからなげにも春の日の海をかけれり君よ何おもふ
真昼時青海死にぬ巌かげにちさき貝あり妻とあさり行く
夕ぐれの海の愁ひのしたたりに浸されて瞳は遠き沖見る
蒼ざめし額にせまるわだつみのみどりの針に似たる匂ひよ
海明り天にえ行かず陸に来ず闇のそこひに青うふるへり
ふと袖に見いでし人の落髪を唇にあてつつ朝の海見る
ひもすがら断えなく窓に海ひびく何につかれて君われに倚る
海女の群からすのごときなかにゐて貝を買ふなりわが恋人は
渚なる木の間ゆきゆき摘みためし君とわが手の四五の菜の花
くちつけは永かりしかなあめつちにかへり来てまた黒髪を見る
春の海さして船行く山かげの名もなき港昼の鐘鳴る
──以上──
窓ひとつ朧ろの空へ灯をながす大河沿の春の夜の街
鐘鳴り出づ落日のまへの擾乱のやや沈みゆく街のかたへに
仁和寺の松の木の間をふと思ふうらみつかれし春の夕ぐれ
琴弾くか春ゆくほどにもの言はぬくせつきそめし夕ぐれの人
大ぞらの神よいましがいとし児の二人恋して歌うたふ見よ
君を得ぬいよいよ海の涯なきに白帆を上げぬ何のなみだぞ
みじろがでわが手にねむれあめつちになにごともなし何の事なし
──以下・割愛──