小日向から音羽へ降りる鼠坂と云ふ坂がある。鼠でなくては上がり降りが出來ないと云ふ意味で附けた名ださうだ。臺町の方から坂の上までは人力車が通ふが、左側に近頃刈り込んだ事のなささうな生垣を見て右側に廣い邸跡を大きい松が一本我物顔に占めてゐる赤土の地盤を見ながら、ここからが坂だと思ふ邊まで來ると、突然勾配の強い、狹い、曲りくねつた小道になる。人力車に乘つて降りられないのは勿論、空車にして挽かせて降りることも出來ない。車を降りて徒歩で降りることさへ、雨上がりなんぞにはむづかしい。鼠坂の名、眞に虛しからずである。
その松の木の生えてゐる明屋敷が久しく子供の遊場になつてゐたところが、去年の暮からそこへ大きい材木や、御蔭石を運びはじめた。音羽の通まで牛車で運んで來て、鼠坂の傍へ足場を掛けたり、汽船に荷物を載せるcraneと云ふものに似た器械を据ゑ附けたりして、吊り上げるのである。職人が大勢這入る。大工は木を削る。石屋は石を切る。二箇月立つか立たないうちに、和洋折衷とか云ふやうな、二階家が建築せられる。黑塗の高塀が繞らされる。とうとう立派な邸宅が出來上がつた。
近所の人は驚いてゐる。材木が運び始められる頃から、誰が建築をするのだらうと云つて、ひどく氣にして問ひ合せると、深淵さんだと云ふ。深淵さんと云ふ人は大きい官員にはない。實業家にもまだ聞かない。どんな身の上の人だらうと凝つてゐる。そのうち誰やらがどこからか聞き出して來て、あれは戰爭の時滿州で金を儲けた人ださうだと云ふ。それで物珍らしがる人達が安心した。
建築の出來上がつた時、高塀と同じ黑塗にした門を見ると、なる程深淵と云ふ、俗な隷書で書いた陶器の札が、電話番號の札と並べて掛けてある。いかにも立派な邸ではあるが、なんとなく樣式離れのした、趣味の無い、そして陰氣な構造のやうに感ぜられる。番町の阿久澤とか云ふ家に似てゐる。一歩進めて言へば、古風な人には、西遊記の怪物の住みさうな家とも見え、現代的な人には、マアテルリンクの戲曲にありさうな家とも思はれるだらう。
二月十七日の晩であつた。奥の八疊の座敷に、二人の客があつて、酒酣になつてゐる。座敷は極めて殺風景に出來てゐて、床の間にはいかがはしい文晃の大幅が掛けてある。肥滿した、赤ら顏の、八字髭の濃い主人を始として、客の傍にも一々毒々しい綠色の切れを張つた脇息が置いてある。杯盤の世話を燒いてゐるのは、色の蒼い、髪の薄い、目が好く働いて、しかも不愛相な年增で、これが主人の女房らしい。座敷から人物まで、總て新開地の料理店で見るやうな光景を呈してゐる。
「なんにしろ、大勢行つてゐたのだが、本當に財産を拵へた人は、晨星寥々さ。戰爭が始まつてからは丸一年になる、旅順は落ちると云ふ時期に、身上の有る丈を酒にして、漁師仲間を大連へ送る舟の底積にして乘り出すと云ふのは、着眼が好かつたよ。肝心の漁師の宰領は、爲事は當つたが、金は大して儲けなかつたのに、内では酒なら幾らでも賣れると云ふ所へ持ち込んだのだから、旨く行つたのだ。」かう云つた一人の客は大ぶ酒が利いて、話の途中で、折々舌の運轉が惡くなつてゐる。澀紙のやうな顔に、胡痲鹽鬚が中伸びに伸びてゐる。支那語の通譯をしてゐた男である。
「度胸だね」と今一人の客が合槌を打つた。「鞍山站まで酒を運んだちやん車の主を縛り上げて、道で拾つた針金を懐に捩ぢ込んで、軍用電信を切つた嫌疑者にして、正直な憲兵を騙して引き渡してしまふなんと云ふ爲組は、外のものには出來ないよ。」かう云つたのは濃紺のジヤケツの下にはでなチヨツキを着た、色の白い新聞記者である。
この時小綺麗な顔をした、田舍出らしい女中が、燗を附けた銚子を持つて來て、障子を開けて出すと主人が女房に目食はせをした。女房は銚子を忙しげに受け取つて、女中に「用があればベルを鳴らすよ、ちりんちりんを鳴らすよ、あつちへ行つてお出」と云つて、障子を締めた。
新聞記者は詞を續いだ。「それは好いが、先生自分で鞭を持つて、ひゆあひゆあしよあしよあとかなんとか云つて、ぬかるみ道を前進しようとしたところが、騾馬やら、驢馬やら、ちつぽけな牛やらが、ちつとも言ふことを聞かないで、綱がこんがらかつて、高梁の切株だらけの畑中に立往生をしたのは、滑稽だつたね。」記者は主人の顔をじろりと見た。
主人は苦笑をして、酒をちびりちびり飮んでゐる。
通譯あがりの男は、何か思ひ出して舌舐ずりをした。「お蔭で我々が久し振に大牢の味ひに有り附いたのだ。酒は幾らでも飮ませてくれたし、あの時位僕は愉快だつた事は無いよ。なんにしろ、兵站はあんまり御馳走のあつたことはないからなあ。」
主人は短い笑聲を漏らした。「君は酒と肉さへあれば滿足してゐるのだから、風流だね。」
「無論さ。大杯の酒に大塊の肉があれば、能事畢るね。これから叉遼陽へ歸つて、會社のお役人を遣らなくてはならない。實はそんな事はよして南淸の方へ行きたいのだが、人生意の如くならずだ。」
「君は無邪氣だよ。あの鱸馬を貰つた時の、君の喜びやうと云つたらなかつたね。僕はさう思つたよ。君だの、あの騾馬を手に入れて喜んだ司令官の爺いさんなんぞは、仙人だと思つたよ。己は騎兵科で、こんな服を着て徒歩をするのはつらかつたが、これがあれば、もうてくてく歩きはしなくつても好いと云つて、ころころしてゐた司令官も、隨分好人物だつたね。あれから君は驢馬をどうしたね。」記者が通譯あがりに問うたのである。
「なに。十里河まで行くと、兵站部で取り上げられてしまつた。」
記者は主人の顔をちよいと見て、狡猾げに笑つた。
主人は記者の顔を、同じやうな目附で見返した。「そこへ行くと、君は罪が深い。酒と肉では滿足しないのだから。」
「うん。大した違ひはないが、僕は今一つの肉を要求する。金も惡くはないが、その今一つの肉を得る手段に過ぎない。金その物に興味を持つてゐる君とは違ふ。併し友達には、君のような人があるのが好い。」
主人は持前の苦笑をした。「今一つの肉は好いが、營口に來て醉つた晩に話した、あの事件は凄いぜ。」かう云つて女房の方をちよいと見た。
上さんは薄い脣の間から、黄ばんだ齒を出して微笑んだ。「本當に小川さんは、優しい顔はしてゐても惡黨だわねえ。」小川と云ふのは記者の名である
小川は急所を突かれたとでも云ふやうな樣子で、今まで元氣の好かつたのに似ず、しよげ返つて、饌の上の杯を手に取つたのさへ、てれ隱しではないかと思はれた。
「あら、それはもう冷えてゐるわ。熱いのになさいよ。」上さんは横から小川の顔を覗くやうにしてかう云つて、女中の置いて行つた銚子を取り上げた
小川は冷えた酒を汁椀の中へ明けて、上さんの注ぐ酒を受けた。
酒を注ぎながら、上さんは甘つたるい調子で云つた。「でも營口で内に置いてゐた、あの子には、小川さんも愜はなかつたわね。」
「名古屋ものには小川君にも負けない奴がゐるよ。」主人が傍から口を挾んだ。
矢張小川の顔を横から覗くやうにして、上さんが云つた。「なかなか別品だつたわねえ。それに肌が好くつて。」
此時通譯あがりが突然大聲をして云つた。「その凄い話と云ふのを、僕は聞きたいなあ。」
「よせ」と、小川は鋭く通譯あがりを睨んだ。主人はどつしりした軆で、胡坐を搔いて、ちびりちびり酒を飮みながら、小川の表情を、睫毛の動くのをも見遁がさないやうに見てゐる。その癖顔は通譯あがりの方へ向けてゐて、笑談らしい、輕い調子で話し出した。「平山君はあの話をまだしらないのかい。まあどうせ泊ると極めてゐる以上は、ゆつくり話すとしよう。なんでも黑溝臺の戰爭の濟んだ跡で、奉天攻撃はまだ始まらなかつた頃だつたさうだ。なんとか窩棚と云ふ村に、小川君は宿舍を割り當てられてゐたのだ。小さい村で、人民は大抵避難してしまつて、明家の澤山出來てゐる所なのだね。小川君は隣の家も明家だと思つてゐたところが、或る晩便所に行つて用を足してゐる時、その明家の中で何か物音がすると云ふのだ。」通譯あがりは平山と云ふ男である。
小川は迷惑だが、もうかうなれば爲方がないので、諦念めて話させると云ふ樣子で、上さんの注ぐ酒を飮んでゐる。
主人は話し續けた。「便所は例の通り氷つてゐる土を少しばかり掘り上げて、板が渡してあるのだね。そいつに跨がつて、尻の寒いのを我慢して、用を足しながら、小川君が耳を澄まして聞いてゐると、その物音が色々に變化して聞える。どうも鼠やなんぞではないらしい。狗でもないらしい。小川君は好奇心が起つて溜まらなくなつた。その家は表からは開けひろげたやうになつて見えてゐる。炕の緣にしてある材木はどこかへ無くなつて、築き上げた土が暴露してゐる。その奥は土地で磚と云つてゐる煉瓦のやうなるのが一ぱい積み上げてある。どうしても奥の壁に沿うて積み上げてあるとしか思はれない。小川君は物音の性質を聞き定めようとすると同時に、その場所を聞き定めようとして努力したさうだ。自分の跨がつてゐる坑の直前は背丈位の石垣になつてゐて、隣の家の横側がその石垣と密接してゐる。物音はその一番奥の所でしてゐる。表から磚の積んだのが見えてゐる邊である。これ丈の事を考へて、小川君はとうとう探檢に出掛ける決心をしたさうだ。無論便所に行くにだつて、毛皮の大外套を着た儘で行く。まくつた尻を卸してしまへば、寒くはない。丁度便所の坑の傍に、實をむしり殘した向日葵の莖を二三本縛り寄せたのを、一本の棒に結び附けてある。その棒が石垣に倒れ掛かつてゐる。それに手を掛けて、小川君は重い外套を着た儘で、造做もなく石垣の上に乘つて、向側を見卸したさうだ。空は靑く澄んで、星がきらきらしてゐる。そこら一面に雪が積つて氷つてゐる。夜の二時頃でもあらうが、明るい事は明るいのだね。」
小川はつぶやくやうに口を挾んだ。「人の出たらめを饒舌つたのを、好くそんなに覺えてゐるものだ。」「好いから默つて聞いてゐ給へ。石垣の向側は矢張磚が積んであつて降りるには足場が好い。降りて家の背後へ廻つて見ると、そこは當り前の壁ではない。窓を締めて、外から磚で塞いだものと見える。暫くその外に立つて聞いてゐると、物音はぢき窓の内でしてゐる。家の構造から考へて見ると、どうしても炕の上なのだ。表から見える、土の暴露してゐる炕は、鉤なりに曲つた炕の半分で、跡の半分は積み上げた磚で隱れてゐるものと思はれる。物音のするのは、どうしてもその跡の半分の磚の上なのだ。かうなると、小川君はどうも此窓の内を見なくては氣が濟まない。そこで磚を除けて、突き上げになつてゐる障子を内へ押せば好いわけだ。ところがその磚がひどくぞんざいに、疎に積んであつて、十ばかりも卸してしまへば、窓が開きさうだ。小川君は磚を卸し始めた。その時物音がぴつたりと息んださうだ。」
小川は諦念めて飮んでゐる。平山は次第に熱心に傾聽してゐる。上さんは油斷なく酒を三人の杯に注いで廻る。
「小川君は磚を一つ一つ卸しながら考へたと云ふのだね。どうもこれは塞ぎ切に塞いだものではない。出入口にしてゐるらしい。併し中に人が這入つてゐるとすると、外から磚が積んであるのが不思議だ。兎に角拳銃が寢床に置いてあつたのを、持つて來れば好かつたと思つたが、好奇心がそれを取りに歸る程の餘裕を與へないし、それを取りに歸つたら、一しよにゐる人が目を醒ますだらうと思つて諦念めたさうだ。磚は造做もなく除けてしまつた。窓へ手を掛けて押すとなんの抗抵もなく開く。その時がさがさと云ふ音がしたさうだ。小川君がそつと中を覗いて見ると、粟稈が一ぱいに散らばつてゐる。それが窓に障つて、がさがさ云つたのだね。それは好いが、そこらに甑のやうな物やら、籠のやうな物やら置いてあつて、その奥に粟稈に半分埋まつて、人がゐる。慥かに人だ。土人の着る淺葱色の外套のやうな服で、裾の所がひつくり返つてゐるのを見ると、羊の毛皮が裏に附けてある。窓の方へ背中を向けて頭を粟稈に埋めるやうにしてゐるが、その背中はぶるぶる慄えてゐると云ふのだね。」
小川は杯を取り上げたり、置いたりして不安らしい樣子をしてゐる。平山はますます熱心に聞いてゐる。
主人はわざと間を置いて、二人を等分に見て話し續けた。「ところがその人間の頭が瓣子でない。女なのだ。それが分かつた時、小川君はそれ迄交つてゐた危險と云ふ念が全く無くなつて、好奇心が純粹の好奇心になつたさうだ。これはさもありさうな事だね。儞と聲に力を入れて呼んで見たが、只慄えてゐるばかりだ。
小川君は磚の上へ飛び上がつた。女の肩に手を掛けて、引き起して、窓の方へ向けて見ると、まだ二十にならない位な、すばらしい別品だつたと云ふのだ。」
主人は叉間を置いて二人を見較べた。そしてゆつくり酒を一杯飮んだ。「これから先は端折つて話すよ。これまでのやうな珍らしい話とは違つて、いつ誰がどこで遣つても同じ事だからね。一體支那人はいざとなると、覺悟が好い。首を斬られる時なぞも、尋常に斬られる。女は尋常に服從したさうだ。無論小川君の好嫖致な所も、女の諦念を容易ならしめたには相違ないさ。そこで女の服從したのは好いが、小川君は自分の顔を見覺えられたのがこはくなつたのだね。」ここまで話して、主人は小川の顔をちよつと見た。赤かつた顔が蒼くなつてゐる。
「もうよし給へ」と云つた小川の聲は、小さく、異樣に空洞に響いた。
「うん。よすよよすよ。もうおしまひになつたぢやないか。なんでもその女には折々土人が食物をこつそり窓から運んでゐたのだ。女はそれを夜なかに食つたり、甑の中へ便を足したりすることになつてゐたのを、小川君が聞き附けたのだね。顔が綺麗だから、兵隊に見せまいと思つて、隱して置いたのだらう。羊の毛皮を二枚着てゐたさうだが、それで粟稈の中に潛つてゐたにしても、炕は焚かれないから、隨分寒かつただらうね。支那人は辛抱強いことは無類だよ。兎に角その女はそれ切り粟稈の中から起きずにしまつたさうだ。」主人は最後の一句を、特別にゆつくり言つた。
違棚の上でしつつこい金の装飾をした置時計がちいんと一つ鳴つた。
「もう一時だ。寢ようかな。」かう云つたのは、平山であつた。
主客は暫くぐずぐずしてゐたが、それからはどうした事か、話が榮えない。とうとう一同寢ると云ふことになつて、客を二階へ案内させるために、上さんが女中を呼んだ。
一同が立ち上がる時、小川の足元は大ぶ怪しかつた。
主人が小川に言つた。「さつきの話は舊暦の除夜だつたと君は云つたから、丁度今日が七囘忌だ。」
小川は默つて主人の顔を見た。そして女中の跡に附いて、平山と並んで梯子を登つた。
二階は西洋まがひの構造になつてゐて、小さい部屋が幾つも並んでゐる。大勢の客を留める計畫をして建てた家と見える。廊下には暗い電燈が附いてゐる。女中が平山に、「あなたはこちらで」と一つの戸を指さした。
戸の撮みに手を掛けて、「さやうなら」と云つた平山の聲が小川にはひどく不愛相に聞えた。
女中はずんずん先へ立つて行く。
「まだ先かい」と小川が云つた。
「ええ。あちらの方に煖爐が焚いてございます。」かう云つて、女中は廊下の行き留まりの戸まで連れて行つた。
小川は戸を開けて這入つた。瓦斯煖爐が焚いて、電燈が附けてある。本當の西洋間ではない。小川は國で這入つてゐた中學の寄宿舍のやうだと思つた。壁に沿うて棚を吊つたやうに寢床が出來てゐる。その下は押入れになつてゐる。煖爐があるのに、枕元に眞鍮の火鉢を置いて、湯沸かしが掛けてある。その傍に九谷燒の煎茶道具が置いてある。小川は吭が乾くので、急須に一ぱい湯をさして、茶は出ても出なくても好いと思つて、直ぐに茶碗に注いで、一口にぐつと呑んだ。そして着てゐたジヤケツも脱がずに、行きなり布團の中に這入つた。
横になつてから、頭の心が痛むのに氣が附いた。「ああ、酒が變に利いた。誰だつたか、丸く醉はないで三角に醉ふと云つたが、己は三角に醉つたやうだ。それに深淵奴があんな話をしやがるものだから、不愉快になつてしまつた。あいつ奴、妙な客間を拵へやがつたなあ。あいつの事だから、賭場でも始めるのぢやあるまいか。畜生。布團は軟かで好いが、厭な寢床だなあ。炕のやうだ。さうだ。丸で炕だ。ああ。厭だ。」こんな事を思つてゐるうちに、醉と疲れとが次第に意識を昏ましてしまつた。
小川はふいと目を醒ました。電燈が消えてゐる。併し部屋の中は薄明りがさしてゐる。窓からさしてゐるかと思つて、窓を見れば、窓は眞つ暗だ。「瓦斯煖爐の明りかな」と思つて見ると、なる程、礬土の管が五本並んで、下の端だけ樺色に燃えてゐる。併しその火の光は煖爐の前の半疊敷程の床を黄いろに照らしてゐるだけである。それと室内の靑白いやうな薄明りとは違ふらしい。小川は兎に角電燈を附けようと思つて、體を半分起した。その時正面の壁に意外な物がはつきり見えた。それはこはい物でもなんでもないが、それが見えると同時に、小川は全身に水を浴せられたやうに、ぞつとした。見えたのは紅唐紙で、それに「立春大吉」と書いてある。その吉の字が半分裂けて、ぶらりと下がつてゐる。それを見てからは、小川は暗示を受けたやうに目をその壁から放すことが出來ない。「や。あの裂けた紅唐紙の切れのぶら下つてゐる下は、一面の粟稈だ。その上に長い髪をうねらせて、淺葱色の着物の前が開いて、鼠色によごれた肌着が皺くちやになつて、あいつが仰向けに寢てゐやがる。顋だけ見えて顔は見えない。どうかして顔が見たいものだ。あ。下脣が見える。右の口角から血が絲のやうに一筋流れてゐる。」
小川はきやつと聲を立てて、半分起した體を背後へ倒した。
翌朝深淵の家へは醫者が來たり、警部や巡査が來たりして、非常に雜遝した。夕方になつて、布團を被せた吊臺が舁き出された。
近所の人がどうしたのだらうと咡き合つたが、吊臺の中の人は誰だか分からなかつた。「いづれ號外が出ませう」などと云ふものもあつたが、號外は出なかつた。
その次の日の新聞を、近所の人は待ち兼ねて見た。記事は同じ文章で諸新聞に出てゐた。多分どの通信社かの手で廻したのだらう。併し平凡極まる記事なので、讀んで失望しないものはなかつた。
「小石川区小日向臺町何丁目何番地に新築落成して横濱市より引き移りし株式業深淵某氏宅にては、二月十七日の晩に新宅祝として、友人を招き、宴會を催し、深更に及びした爲{た}め、一二名宿泊することとなりたるに、其一名にて主人の親友なる、芝区南佐久間町何丁目何番地住何新聞記者小川某氏其夜腦溢血症にて死亡せりと云ふ。新宅祝の宴會に死亡者を出したるは、深淵氏の爲め、氣の毒なりしと、近所にて噂し合へり。」