昔の話だ。おれが、いまのきみらと同じくらいのガキで、海の向こうの、どこか遠い国で戦争が終わったころの話だ。終わって数年後のことだった。それがどういう戦争だったか、もちろんおれはなにも知らなかった。
ガキにとっちゃ世の中なんか、昔もいまも、よそのだれかが勝手にでっち上げたもので、どうせ自分のものじゃない。なにが起ころうと知ったこっちゃないし、戦争だろうが平和だろうが、自分とは関係ないと思っていたんだ。
もちろんおれだって、学校で少しは勉強したさ。昔も昔、大昔、ドイツとイタリアと日本が組んで世界中を相手に戦争をおっぱじめ、敵味方双方で何百万人も死んだあげくに敗れたことは知っている。ドイツがやったユダヤ人のホロコースト、日本がやったアジア一帯での虐殺や略奪、アメリカがやった広島・長崎の原爆。まったく大人ってのはろくなことをしない、と子ども心におれも思ったものさ。
しかし、その第二次世界大戦にしたって、おれのおやじがガキだったころの話でね、日本は敗れて、東京や大阪はもちろん、日本中のおおかたの都会は焼け野原になったし、日本人全部が食うや食わずのひどい目にあったと教科書にはあったが、おやじの口からそんな話は聞いたことがなかった。
おやじは体のでかいガキだったらしい。大人になってからも肩幅が広くて、がっしりしていたが、それはガキの時分からだった。そのころから大食いだったおやじが、ひもじかった昔を忘れてしまうくらいだから、ガキにとっちゃ、世界のことなんか知ったこっちゃないってことさ。
まあ、世界の側に言わせりゃ、ガキのことなんかいちいちかまっていられない、ということなのかもしれないな。あっちはあっちで、ほかのことで手いっぱいなのさ。
世界とガキの関係は、そういうものさ。赤の他人どころか、おたがい、存在していることすら気がつかない。だからガキから大人になるっていうことは、自分以外に世界というやつが存在するということを知る、そういうことだとおれは思うんだ。
しまつの悪いことに、これは片思いみたいなものなんだ。人間の側が世界を知るだけであって、世界の側はあいかわらず一人ひとりの人間のことなんか眼中にない。そりゃそうだろう、世界ってやつは、人間とちがって勉強なんかしない。そいつは、おれたちの隣に、ただ黙って突っ立っている。おれたちの言いなりにはならないし、それどころか、この存在を受け入れろ、理解しろ、と迫ってくる。そういうやつなんだ。
人間は世界を相手に手こずってきた。なだめたり、すかしたり、ときには支配してやろうと戦争まではじめてみるんだが、世界はいつもするりと抜け出して、なにもなかったような顔をして、また隣にいる。
いつか世界は破滅する、と言うやつもいるが、おれに言わせれば、そんなのは嘘っぱちだ。そいつはよくできたモグラたたきみたいに、こっちでたたかれれば、あっちで頭を出し、あっちがだめなら、こっちで出しと、絶対にへこたれない。しまいには、たたいている人間のほうがくたびれて、戦うのをやめてしまう。世界ってのは、そういうやつさ。
言っておくがね、そういう嫌味なやつだ、と思わないほうがいい。世界のほんとうの大きさなんかだれも知らないが、ひとつ確実なことは、世界はどんな人間よりも大きいんだ。人間が束になってもかなわない。おまけに、どんな人間も世界なしじゃ、食うことひとつ満足にできやしない。食うものだって着るものだって、世界のどこかで作られ、店先に並んでいるんだからね。人間だれしも、毎日毎日、世界と取り引きし、折り合いをつけながら生きていくしかないってことさ。
というわけで、おれがガキのころも、世界は隣にいた。さっきも言ったように、もちろんそんなことにおれは気がつかなかったし、そいつの正体もまったく知らなかった。おれものんきなガキにすぎなかった。
あれは夏、そう、夏休みのあいだの出来事だった。
休みのあいだ、おれはおふくろに言いつけられて、ほとんど毎日、おやじが勤めていた鉄工場に昼の弁当を持っていった。さっきも言ったようにおやじは体もでかいし、大食らいだったから、弁当も大きかった。工場仕事はきついから、せめておれが休みのときくらい作りたての飯を食わせてやりたい、とおふくろは考えたんだろう。おふくろはおれにもおやじにも優しかった。
自転車で多摩川の土手を走って、工場まで行った。東京の下町の工場地帯では中の上くらいの規模で、百人近くの作業員が働いている工場だ。当時、おやじは工場長のすぐ下、現場作業の長だった。現場監督ってわけだ。
はじめのうちは、ただのお使いみたいなものだった。弁当を届けたら、あとは町でも友だちのところでも遊びに行けばいいと思った。なにしろ長い夏休みなんだ。遊ぶ時間はたっぷりある。
ところが、どういうわけかおれは工場に、おやじが働いていた鉄工場に夢中になってしまった。工場に入り込んで、あちこち見て歩くのが突然好きになったんだな。おれは勝手に歩きまわった。現場監督の息子というんで、油だらけになって働いていた作業員たちも大目に見てくれたんだろう。
小学校の体育館の二倍はある鉄工場だった。窓がほとんどなかったから、体育館ほど明るくはないが、そのかわり……どう言ったらいいか……中身がぎゅっと詰まった、密度の濃い空間かな。甘ったるい油の匂い、耳の奥どころか腹にまで響いてくる音、そこらじゅうで動いている機械。そのなかで黙々と働いている男たち。薄暗くて騒々しかったが、その場のすべてのものがひとつのことに集中し、突き進んでいく緊張感が漂っていた。
きんきらした商店街のにぎわいとはちがう、もちろんぽけーっとしたガキどもの前で先生一人がいばりくさっている学校ともちがう、ほんものの世界がここにある、とおれは思ったものだった。そうさ、ほんものの世界だ。
あのころ学校じゃ、校庭をほじくり返して花壇を作ったり、小屋でウサギを飼ったりしていたが、一度工場を見てしまったら、そんなものがお笑い種か暇つぶしにしか感じられなくて、おれはあとでずいぶん困ったよ。草取りとか水やりとか、ウサギに餌をやるのでも、熱心じゃない、生き物を大事にしていないと教師にずいぶん怒られたものな。
まあ、それはどうでもいい。おれは同級生より少しばかり早く、世界が遊園地でも学校でもないってことに気がついただけなんだ。どんなガキだって、そんなことはいつかわかる。おれの場合、それがあの夏休みのあいだだった。
鉄っていうのはおもしろいんだ。自動車のボディーとかレールとかマンホールのふたとか、きみらも鉄がどういうものか知ってるだろう。天井まであるプレスの機械も鉄でできている。そのプレス機の先っぽがガシャーンッと落ちてきて、車やコンピュータの部品になる鉄板をくり抜いたり、つぶしたり、折り曲げたりする。
いちばんでかいプレス機を操作していた作業員が話してくれた。おやじより年配の、もう白髪の男だったな。彼は人生の大半をプレス機の前で過ごしてきたんだ。小柄で、もの静かだが、職人のなかの職人、ガキのおれにだって、この人にたのめばできないことはない、と感じさせるような男だった。その彼が言うには、大きなプレス機の先端は二百トンの重量で落ちてくるんだってさ。普通の乗用車の重さがせいぜい一・二、三トンだから、百五十台の車が束になって落ちてくるっていう計算だ。人間なんか紙っぺらみたいにぺちゃんこになってしまう。このとんでもない重量で鉄板をくり抜いたり曲げたりするときに、百分の二ミリの精度を出さなくてはならないというんだ。一ミリの百分の二の精度っていえば、まあ、元気に育った髪の毛の太さだ。紙だって、そこまで正確に折るのは大変だ。ちょっとやそっとじゃ制御できない重量を使って、それだけ精密な工作をするなんて、考えただけでも気が遠くなってしまう。
だが、こんなことで驚いちゃいけない。いいかな、プレス機はつづけざまに働くと、たちまちさわれないほど熱くなる。鉄を急激に曲げたり、衝撃をあたえつづけると熱くなるのはきみらも知っているだろう。先っぽなんか、やけどするくらいの熱さになる。ということは、きみたちも理科で習ったはずだ……熱くなった鉄は膨張する。膨張するから、そのままじゃ、百分の二ミリの精度を出すことがむずかしくなる。
そこから先は熟練した作業員のカンと工夫にたよるしかないんだ。工作する鉄板の位置を変えるのか、材質を工夫するのか、あらかじめ鉄の温度と膨張率を計算に入れてサイズや位置を決めるのか、ともかく工場で働いていた男たちは二百トンのプレス機を休みなく扱って、百分の二ミリの精度で、まるでタイ焼きでも作るみたいに部品を作っていた。
な、ほんものの世界っていうやつは、こういうものなんだ。スイッチをぽんっと押せばできあがるカレーやハンバーグとはわけがちがう。でっかい機械や装置さえあれば、だれにでもできるというものでもない。そういうもののもっと先に、腕のいいやつが頭を使い、腕をみがき、何度も失敗したあげくにやっとできるようになることがある。
世界はでたらめにできているんじゃない。どこかにしっかりとネジを締めるやつ、きっちりと精度を出すやつ、正確に組み立てるやつがいて、そういうものがいちばんのまんなかで組み合わさって、やっとこの世界を成り立たせているんだ。
しかし、世界はそこで行き止まりじゃなかった。
何日かして、おれはさっきの作業員の耳に顔を近づけて、こう聞いたんだ。彼は目にも止まらない速さで大人の手のひらくらいの鉄板をプレスしているところだった。
「ねえ、この部品、なにに使うの」
男は顔も上げずに言った。
「わからねえ」
おれは質問が聞こえなかったのだと思った。ガシャーンッ、ガシャーンッと、ひっきりなしの騒音だったから、聞こえなくたってしかたがない。それで、おれはプレスとプレスのあいだのタイミングをはかって、もう一度聞いた。
「これ、なんの部品ですか」
「だから言っただろう。知らねえんだよ」
思わずおれはそいつの顔をのぞき込んでしまった。おれが見たのは、真剣に目の前の仕事に取り組んでいる初老の男の顔だった。つきまとうガキのおれをうるさがっている顔じゃなかったし、働くことにうんざりし、投げやりになっている顔でもなかった。それどころか、それこそ二百トンのプレス機で百分の二ミリの狂いもなく刻んだようなしわのある、じつに男らしい男の顔だった。
なあ、きみたち、こんなことって信じられるか。大の大人が……いや、ただの大人じゃない。腕のいい職人のなかの職人が、朝から晩まで一生懸命働いて作っている、その当のものが、いったいなにに使われるのか、なんの部品なのか知らないなんて、そんなの、ありだと思うか。自分がなにを作っているのか知らないで、とにかく二百トンのプレス機を動かして髪の毛一本の太さの狂いも許されない工作だけをしているなんて、ありうると思うか。
ところがこれが、ありなんだ。おおありだ。
鉄工場にかぎらないが、ほとんどの町工場はもっと大きな会社から注文をもらって仕事をしている。下請けだな。たとえば冷蔵庫を生産している会社なら、プラスチックの二重の外箱、そのあいだに詰める発泡ウレタンの断熱材、なかの仕切り棚、冷気を作るコンプレッサーと、それぞれ別々の下請けに仕事を出すかもしれない。下請けは自分のところでできない部品作りや組み立てを別の工場にたのむこともある。こっちは孫請けだ。親会社、下請け、孫請け、ときには曾孫請けと、裾野はピラミッドのように広がっていく。
だが、いくら孫請け、曾孫請けといっても、冷蔵庫や洗濯機やテレビのようにありふれた製品の場合、注文を出すほうも受けるほうもなにを作ってもらいたいのか、どんな部品を作ればいいのか、おたがいにわかっている。こういう、だれでも知っている大量生産の製品は単純だ。
しかし、このごろのポケットサイズのコンピュータの部品とか、バッテリーとガソリンのハイブリッドカーのエンジンの部品はそうはいかない。三次元テレビ、遠隔操作で脳や心臓を手術する超小型ロボット、昼と夜の温度が何百度もちがう宇宙空間で動かす精密機器。どれも作るのはむずかしいが、成功すれば大儲けできる製品は、どの企業でもひそかに研究し、競争相手をだしぬこうとする。つまり、やたら秘密が多くなる。とくに開発途中の製品はそうだ。下請けに部品を発注しても、なにに使うのかいっさい教えない。ただこういうものを作ってくれ、と言うだけなのだ。
おれが質問した作業員も、どこかの企業の注文で、なにかそういうややこしいものを作っていたんだ。超小型のコンピュータか高性能の宇宙機器か、とにかくその種のものに組み込まれる百分の二ミリの精度が必要な金属部品だ。あとでおやじに聞いても、なんの部品か知らなかった。想像だが、工場長も知らなかっただろう。みんな知らないままに、ありったけの精巧さだけを要求されて汗水流していたんだ。
それを知って、おれは背中がぞくぞくしたよ。大人だからって、世界がわかっているわけではない。これが世界だ、と思っていたら、世界のやつはするっと手のひらから抜け出して、そんなのは世界の抜け殻だ、正体はこっちだ、とどこともわからない方角から手招きしていたというわけだ。世界ってやつはおもしろい、奥が深いんだ、とね。
おれが目をまん丸くして工場のあちこちを見ていると、おやじがやってきて、でかい手のひらでおれの頭を小突いたりしながら、同僚のだれかれなく自慢したものだった。いつかこいつは世界中を驚かす科学者になる、いや、技術者のなかの技術者、人間なんか一人もいらないロボット工場を作り出す技術者になる、とかなんとか。
実際は、おれはやっと少年野球チームでレギュラーに選ばれ、ショートを守りはじめたばかりだったんだがな。
おれは毎日工場に通った。野球の練習に行くよりずっと熱心だった。夏休みのあいだじゅう、おれの目の前でほんものの世界がどんどん広がっていく、そいつがぐいぐい迫ってくるという手応えにすっかり圧倒されていたと言ってもいい。
事件が起きたのは最後の日、夏休みの最後の日だった。
おれはいつものように自転車に乗り、多摩川の土手を走って鉄工場に行った。おやじに持っていく大きな弁当がフロントバスケットのなかで跳ねていたが、もう目をつむっても走れるくらい慣れた道だ。休みも終わりになって野球練習も終了していたから、河川敷のグラウンドはがらんとしていた。蒸し暑い日だったが、頭の上の空は夏のはじまったときにくらべれば何倍も広々としていた。
おれはいつものように自転車を工場の入口の前に停め、なかに入っていった。ところが、一歩踏み込んだとたん、なにか様子がちがうと思った。いつもなら工場内にねっとりと充満している油の匂いが、どこかで寸断され、すきま風が忍び込んだような感じだった。熱い湯とまだ冷たい水をよくかきまわしてない風呂に飛び込んだような、と言えばわかるだろう。
なんだ、これは、とおれはすぐに暗さに慣れてきた目で工場内を眺めまわした。工場のまんなかの、いちばん巨大なプレス機は動いていた。例の白髪の男が腰をくの字に曲げて、作業台に顔を突っ込んでいるのが見えた。他の中型、小型のプレス機も、コンピュータ仕掛けの旋盤や穴あけ機も一通り動いていた。だが、変なのは、機械のまわりの作業員がみんな、同じ方向を向いていたことだ。工場に入って左手奥の、いつもは工場長や事務職員がいる事務室のほうに背中を向けていることだった。
おれはそっちを見た。作業途中の半製品を置いたラックが四列に並んでいて、その薄暗い通路に十人ばかりの作業服姿の男たちがかたまっていた。日が射し込まないそのあたりはいつも一日中、裸電球がついていたが、その赤茶けた明かりの下で、一団となった男たちがまるでひとつの壁のように背中をくっつけていた。
そのまんなかに、いちだんとでかいおやじの背中が見えた。
おれが弁当を手にそちらに歩き出すと、
「坊や、こっちで待ってな」
「おやじさん、呼んできてやっから、そこにいな」
と二、三の男たちの声が飛んできた。だが、だれもおれに近づいてこない。ますます変だった。彼らは顔を伏せて仕事中だったのに、注意はおやじたちのほうに向けている。そっちに背を向け、知らん顔をしながら、こっそり様子をうかがっている。そんな雰囲気がありありだったんだ。
バチッ!
ボコッ!
いやな音がした。
バチッ!
ボコッ!
いやな音がつづいた。人の、たぶん顔を殴る音。それから、腹や背中を思いっきり蹴飛ばす音だ。
それまでおれはだれかに暴力をふるったことも、ふるわれたこともなかったが、それがなんの音かはすぐにわかった。工場の騒音のなかでもはっきりとわかった。不思議なものだ。肉と肉が、肉の下の骨と骨とが激しくぶつかる音は、どんな音とも似ていないせいだろうか。
おれは足を止めた。
男たちの輪のなかで、おやじの背中が踊っていた。一人ダンスでもしているみたいに跳ねまわっていた。おやじは下を向き、なにか叫んだ。吐き棄てるみたいに怒鳴った。足もとに、だれか倒れている。おれのところからは見えなかったが、間違いない。そのだれかを、おやじは怒鳴り、殴り、足蹴にしていたんだ。
あとになって、おれは何度もこの光景を思い出した。裸電球の下で、何人もの男たちがどす黒い影のようにうごめいている。暴れていたのはおやじばかりではなかった。ほかの男たちも腕を振りまわし、足を使って、その場に倒れただれかを痛めつけていた。一人の、なにも抵抗しない男を、みんなで殴り、蹴飛ばしていたんだ。
だが、そのときのおれにはおやじしか見えなかった。黒い背中がぐるりと取り巻いたなかで、おやじ一人の黒い影が踊っていた。バチッ! ボコッ! おやじがだれかを殴り、蹴飛ばしている音が何度も聞こえた。
きみらが、自分の父親に殴られたことがあるかどうか、おれは知らない。しかし、たとえそういういやなことがあったとしても、その経験と、父親がだれか別の人間に暴力をふるっている現場を見てしまうこととは、大きなちがいがあるような気がする。どう言えばいいのかな。きみがもし父親に殴られたとして、そのとききみがじっと見返すのは、やはり父親だろう。そこにいるのは父親だ。たんに短気で怒りっぽい父親かもしれないし、真剣にきみのことを考え、だからこそ怒っている父親かもしれないが、ともかくきみはそこに父親を見る。
しかし、その父親がだれか別の人間に暴力をふるっているのを目撃したとき、きみはどう思うだろうか。もちろん父親にはちがいないが、そこにはきみが見たこともない父親がいる。父親の別の側面が見える。きみに見せたこともない側面、きみの知らない父親の姿を、きみは見てしまう。
あのときおれのなかで起きたのは、これだった。暴力がいいとか悪いとか、そんなことより先に、おれのまったく知らなかったおやじがそこにいる、という事実を目の当たりにして、立ちすくんでしまったのだ。体のなかで血が逆流した。全身が、かーっと熱くなった。
と、そのときだ。
男たちの群れがぱっとふたつに割れ、その足もとから、やはり同じ作業服を着た若い男が飛び出してきた。男は長い髪を振り乱し、低い姿勢のまま全力で走り出すと、おれのわきを駆け抜け、工場の外に飛び出していった。まぶしい日射しのなか、あふれる光のなかに消えていった。
一瞬、おれは鹿を見たように思った。若く、すばしこい野生の鹿だった。
おれだって野生の鹿なんか見たことがない。だが、なんとなくイメージがあった。大きな目が澄んでいて、むだな肉がついていない、バネのような肉体を持ったほんものの鹿のイメージさ。そいつが、おれのわきを駆け抜けていった。額から流れた血が、右の頬をべったりと染めていた。あっというまだった。
工場の騒音がもどってきた。機械はずっと動いていたはずなのに、全然聞こえなかったんだ。あちこちの機械のまわりで、作業員たちも動きはじめた。ほんの五秒か十秒で、工場全体が息を吹き返すのがわかった。通路にかたまっていた男たちもそれぞれの持ち場にもどっていく。
だが、おれはじっといちばんでかい影を見つめていた。そこから目をそらすことができなかった。
おやじが振り返った。くすんだ明かりの下に、汗なのか油なのか、銀紙のように光る顔が見えた。ふたつの目がおれのほうを向いたとき、銀紙はふいに光を失い、からっぽになった。日に焼けた古新聞のような顔だ。ばつが悪いというのでもないし、怒っているのでもない、すべての感情が引っ込んでしまった顔だった。
知らない男がいる。おれはそう思った。
そいつが近づいてきて、おやじの声で言った。
「きょうは忙しいんだ。邪魔だから、早く帰れ」
見ず知らずの他人にそう言われたら、ガキとしては従うほかないだろう。弁当を手渡すとき、なぜおれはこの人に弁当を持ってきたんだろう、とちょっと変な気がしたことを覚えている。
工場を出たおれは多摩川べりに出て、自転車を降りた。工場で過ごすつもりだった時間がすっぽりあいてしまったし、それよりなにより、いま見たばかりのことが次々に頭からあふれ出し、こんがらがって、自分がなにをしているのか、なにを考えているのかわからなかった。ペダルをこぐどころじゃなかったんだ。
おれは土手を下り、草むらと石ころを蹴散らして歩いた。歩きたかった。立ち止まったら、あの男たちの黒い影に捕まってしまうような気がした。そのなかで踊り狂ったようにでかい体をふるわせ、足もとに倒れただれかを痛めつけていた黒い影に追いつかれてしまいそうだった。
それに、見て見ぬ振りをしていたほかの従業員たちのことも頭から追い出したかった。何十人もいたはずだ。みんな機械に向かえば、経験とカンですごい仕事をやってのける連中じゃないか。どうして彼らは止めに入らなかったのか。あの若い男がどんなへまをやったのか知らないが、だからってめちゃくちゃに殴ったり蹴飛ばしてもいいんだとはおれには思えなかった。なのに連中は、びくびくして、背中を向けるばかりで、近づいてもいかなかった。なぜなんだ。
そういう全部を、おれは振り払いたかった。
さんざん歩いた。汗だくになると、歩調をゆるめた。顔や首筋やシャツににじんだ汗は川風に吸い取られ、青空の下いっぱいに散っていく。歩けば歩くほど、空気には汗の匂いが混じり、濃くなっていく。川も河川敷も川風も、気持ちよくなんか全然なかった。
どれくらいの時間歩いたかわからない。それから——そう、おれは鹿に会ったんだ。鹿の男に。
鉄橋の下、太いコンクリートの橋げたのかげに、さっき工場を飛び出していった男がぽつんと一人、膝を抱えて座り込んでいた。彼のほうが先に、おれに気がついた。長い髪を肩まで垂らした、まだ若い男だった。グレーの作業服を着たその男が、こちらを見つめていたんだ。褐色の顔とぱっちりしたふたつの目は、ますます鹿だった。
ふとおれは、この男に見覚えがあるだろうか、と考えた。なかった。おれは巨大なプレス機や髪の毛一本の精度とか、そのくせなにを作っているのか知らないという話にびっくりするばかりで、作業員たちのことはほとんど知らない。白髪の職人を別にすれば、顔だって覚えちゃいないことに気がついた。
鹿の目には人を惹きつける力があった。若い男は一言も発しなかったが、おれはその澄んだ大きな目に吸い寄せられるように近づいていって、
「やあ」
と声をかけた。若いといったって、相手はもちろん十分大人だ。言ってしまったあとで、ガキらしくないおれ自身の口調に気がついたが、ほかにどう言えばいいのか思いつかなかった。おれはそのまま鹿の男の横に座り込んだ。
男がさっと手をのばし、おれの膝をわしづかみにした。一本一本の指に、鋼のような強い力がこもっていた。痛くはなかったが、一ミリの狂いもなく急所を押さえたつかみ方だ。とたんにおれの足はただの棒みたいになった。
男はあごの先ですぐ目の前の地面を指した。
見ると、そこには小石のピラミッドが積み上げてあった。親指の先くらいの石から小指の爪の半分くらいの石まで、少しずつちがった大きさの石をびっしりと積み、縦・横・高さをそれぞれ三十センチほどにそろえた四角錐だ。稜線もしっかり見える。ひとつずつ、隣や下の石を崩さないように慎重に、根気よく積み重ねていったのだろう。軽く息を吹きかけただけで崩れてしまいそうだが、みごとなピラミッドだった。
「わーお、すごい。こんなこと、よくできるね」
「ぼく、いちばん上手じゃないよ。ぼくのお兄さん、いちばん。二番目はお兄さんの恋人だった。ぼく、三番。もう長いあいだやってないから、へたになったよ。昔はもっともっと高くできたね。このくらい」
そう言って鹿は、座っている目の高さに手を広げた。
その手の線の上に、傷口があった。額にぱっくりと開いた、生々しい傷だ。血は止まっていたが、歯ぐきの色をした傷口はぐしゃぐしゃにつぶれ、ちぎれた血管がいくつもこびりついていた。同じところを何度も殴られ、蹴られたのだ。目の下と首のわきにも青黒いあざがある。きっと作業服の下もあざだらけだろう。
おれは目をそむけた。
次になんと言ったらいいのか、おれは困った。目の前の小石のピラミッドの話か、それともさっきの工場のことだろうか。鹿は、おれが現場監督の息子だと気づいているにちがいなかった。おれのほうに見覚えがなくても、工場のなかをうろちょろしていたガキは目立ったはずだ。鹿をいちばん殴り、蹴飛ばした男の息子が、いま目の前にいるおれだということを、鹿は知っているのだ。その鹿に、いったいどんなことを言えるのか、言うべきなのか。
ごまかしちゃいけない、とおれは自分に言い聞かせた。それだけはしてはいけない気がしたんだ。ちゃんと自分一人で、自分の目で鹿の丸く澄んだ目を正面からのぞき込まなければいけない、と思った。
「見たよ」と、おれは言った。やっと言った。「ひどい目にあったね」
「ぼく、忘れるのが上手だよ。忘れなくちゃいけないこと、すぐに忘れる。すごく上手に忘れる。ぼくのお兄さん、それ、へただ。へただったよ」
「お兄さんって、だれ?」
「死んだお兄さん。お兄さん、死んだよ。お兄さんの恋人も、死んだよ。恋人が殺されたとき、お兄さん、忘れるのがへただった。たくさん泣いて、泣いて、泣いて……仕返しするんだと、村を飛び出していった。次の日、お兄さん、帰ってきたとき、死んだ人だった。耳がない、鼻もない、手もひとつしかない……あれ」
「死体?」
「死んだ体?」
「うん、死体だよ」
いったい鹿はなにを話しているのだろう、とおれはまごついてしまった。日本語が少したどたどしかったが、なんかすごい話だ。殴ったとか蹴飛ばしたとか、そんな程度のことじゃない。耳や鼻や腕を切り落とすなんて、まったくホラーだ。テレビや漫画じゃないとしたら、ほんものの犯罪か戦争の話だ。
「なんのことを話してるの。いつの……どこの話、それ?」
「M‐シックスティーン、AK……きみ、知らない? ライフルって、きみ、聞いたことない? ババッ、ババババッ。アメリカの兵隊、ベトナムの兵隊、みんな撃つ。めちゃくちゃに撃ったよ。空襲も毎日毎日。ナパーム弾、パイナップル爆弾、家も村も田んぼも全部全部、死んだ。村の人、アメリカの兵隊に見つかれば、殺される。絶対殺される。みんな、殺される。だから逃げた。ジャングルのなか、何日も何日も隠れた。お父さん、お母さん、お兄さん、お兄さんの恋人、ぼく、おじさん、おばさん、みんなジャングルに逃げた」
「戦争?」
「そうそう、戦争だよ。ジャングルのなか、時間、いつもたくさん、たくさんあった。だから石を拾って、遊んだ。ひとつひとつ……こうやって」
「積み上げて」
「怖い戦争。戦争、怖いよ。兵隊、ジャングルの奥まで追いかけてくる。夜も昼も。ババッ、ババババッ。みんな撃つ。もう逃げられない。ぼく、木のかげに隠れて……ぼくたち、撃たないで。村も人も牛も撃たないで——心のなかで言う。泣きながら、言う。だけど、撃つよ。めちゃくちゃに撃って、殺す。最後の最後、ぼく、木のかげから飛び出して、兵隊をつかまえる。つかまえて、ぼく、殺した。殺さなければ、殺される。兵隊、五人も六人も、この手で殴って、殴って、殴って……殺したよ。ぼく、M‐シックスティーンもAKも持ってないから、この手だけ使った。この手と石で殴って殺した。逃げるため、生きるために、殺した。それから難民になって、日本、きた」
鹿は目の前でふたつのこぶしを作った。褐色の皮膚の下に固い、鉄のかたまりが浮かび上がった。
「だけど日本、平和。平和のとき、人を殴ってはいけない。ぼく、戦争から逃げ出したとき決めた。この手、人、殴るとき、絶対使わない。使ったら、殺してしまう。この手、人の殺し方を覚えている。だから、ぼく、怖い。だから、いつもいつもがまんする。なに言われても、なにされても、がまんする」
鹿は空を見上げた。丸い、まっ黒なふたつの目に半円球の青い空が映っていた。ところどころに白い雲が出はじめ、その端がうっすらと赤みを帯びている。午後もそろそろおしまいだった。おれは鹿の目のなかの青空をじっと見つめた。そこから目を離せなくなってしまった。
それはまるで鹿がどこか遠い、海の向こうの村で見た空、おれが見たこともない青空のようだった。そのときおれは、世界をのぞき込んでいるんだと思ったよ。おれの知らないほんものの世界、手が届かないけれども現実にある世界ってやつを。
鹿の男に会ったのは、このときだけだ。あの日以来、一度も会っていない。鹿は工場にもどらなかったそうだ。着替えも靴も置いたまま、どこかに姿を消してしまったんだ。あとでおやじは、使いものにならないやつだった、と言っていたが、おれは、あのとき命拾いをしたのは、おやじ、あんたのほうだったのだ、ということは黙っていた。
そのおやじも、何年も前に死んだ。最後は工場長まで出世したが、おれはもう工場に遊びに行かなかった。行きたいとも思わなかった。数年後、おふくろも死んだ。
だいいち工場もどこかに移転してしまって、いまじゃあのあたり、高層マンションだの建て売り住宅だのが建て込んだ住宅街だ。プレス機や旋盤の音も聞こえないし、ろくにトラックも走っちゃいない。昼間行っても、人っ子ひとり歩いちゃいないし、マンションの駐車場なんかからっ風が渦を巻いて遊んでいる。
おれか? いまおれも、あの街には暮らしていない。おれは一流の科学者にも、無人工場を設計するような技術者にもなれなかった。そういう仕事をしたいと考えたこともなかったな。なにをしているかって……たいしたことじゃない、きみらのおやじと同じさ。
だがな、ときどき思い出すんだ。酔っ払って、終電車を降りて、一人で暗い夜道を家に向かっているときなんか、ふと思い出すんだよ。鹿はこの同じ夜空の下のどこかで生きているんだろうな、と。まだ死ぬような歳じゃない。あいつはきっと生きている。あの澄んだ大きな目で、世界っていうやつを、おれとはちがったふうに見つめながら生きているんだろうな、とね。
そういうやつが、この世界のどこかにいると考えるだけで、ちょっとは励みになるじゃないか。世界はぼーっとでかくて、とりつく島もない嫌味なやつだが、こいつも捨てたもんじゃないぞ、と。おれは、そう思うな。そう思って、ただいまって家の玄関を開けると、少し元気になっている自分に気がつくんだよ。
なあ、きみたち、どう思う?