あいつは随分年老つてゐるらしい、
全身そそけ立つた毛がザラザラしてゐる、
濃灰色のなかには斑点がくつきり黒い、
平野の奥に身を潜めて鋭い息を燃してゐる。
あいつの眼、あいつの牙、あいつの爪、
あいつの口髯とあいつの耳とが
刃物のやうにそぎ立ち、チカチカして、
あらゆる周囲のものを脅威し……深い霧だ。
降りつもつた粉雪が枯れ枝や草の葉つぱに、
針葉樹にも一度氷ついてギラギラしてゐる、
金属性の堅さと鋭さと冷めたさ、
飢ゑたあいつがそれをガリガリ噛んでゐる。
あいつは幾日も食物にありつかない、
あいつの顎で人骨の砕けるやうな音がする、
あいつを冬が自然の隅へ追込んでしまひ、
あいつの唸り声が人の心を冷酷に貫き通す。
しぶきをあげて岩をかむ急流を前に
そそり立つ山塊のやうに円く且凌々として、
重厚なあいつは体躯を縮め、前足を踏張り、
強情な首を真正面に不動に据ゑ……
はてもない曠野の上に小さく展開する
彼方の街をあいつはいつまでも睨んでゐた、
なんと文明とはあいつに狙はれてゐる
肥え太つた一匹の孱弱い牝山羊に過ぎないことか。
あいつの方から烈しい暴風が吹きつける、
あいつの方から恐ろしい吹雪が襲ひ、
あいつの方から狂猛な寒気がのしかかつて来る、
あいつの無限の圧力、流行感冒、汽船転覆、鉄道破壊……
あいつの前足に押さへられた美しい雉のやうに
人間の文化は弄ばれ、亡んでゆくのか、
灰色に塗りつぶされた大空の奥に
あいつだけが燃え上る火のやうな強烈さ。
あいつの抗し難い盛な勢力、
永久に若々しい喜び、
線の、形の、身躯全体の美しい無限の暴力、
あいつの内部に爆発する熱情を包んだ氷の意志。
森も畑も丘もすつかり灰色にぼやけてゐる、
そのなかに大きな山の半身が川を前に
氷ついた雪を被てうづくまつてゐる、
そのまだらの斑点はあいつのからだをうつすらしい。
深い霧だ……恐しい冬の「悪」の数々が、
厚ぼつたい霧のなかにかくされてゐる、
あいつは一匹の生きてゐる冬そのものだ、
永遠の夜の裡のあいつの跳梁は神秘の暗につつまれて居る。