海神別荘

 現代
場所 海底の
琅玕
(
らうかん
)
殿。
人物 公子。 沖の僧都(年老いたる海坊主)。 美女。 博士。

 女房。侍女(七人)。黑潮騎士(多數)。

森嚴藍碧なる
琅玕
(
らうかん
)

殿裡
(
でんり
)

黑影
(
こくえい
)
あり。──沖の僧都。

 僧都  お腰元衆。

 侍女一 (薄色の洋裝したるが扉より出づ)はい、はい。これは
御僧
(
おそう
)

 僧都  や、目覺しく、美しい、

(
かは
)
つた
扮裝
(
いでたち
)
でおいでなさる。

 侍女一 御挨拶でございます。美しいか

(

)
うかは存じませんけれど、

(
かは
)
つた
支度
(
したく
)
には違ひないのでございます。若樣、

(
かね
)
てのお望みが叶ひまして、今夜お
輿入
(
こしいれ
)
のございます。若奥樣が、島田のお

(
ぐし
)
、お振袖と承りましたから、私どもは、餘計其のお姿のお目立ち遊ばすやうに、皆して、

(

)
やうに申合せましたのでございます。

 僧都  はあ、

(

)
てもお似合ひなされたが、
何處
(
いづこ
)
の浦の風俗ぢやらうな。

 侍女一 
度々
(
たびたび
)
海の上へお出でなさいますもの、よく御存じでおあんなさいませうのに。

 僧都  いや、荒海を切つて影を

(
あらは
)
すのは
暴風雨
(
あらし
)
の折から。
如法
(
によほふ
)
大抵
暗夜
(
やみ
)
ぢやに

(

)
つて、見えるのは墓の船に、死骸の

(
うごめ
)

裸體
(
はだか
)
ばかり。色ある
女性
(
によしやう
)


(
きぬ
)
などは
睫毛
(
まつげ
)
にも掛りませぬ。さりとも小僧のみぎりはの、蒼い炎の息を吹いても、
素奴
(
しやつ
)
色の白いはないか、袖の紅いはないか、と胴の間、
狹間
(
はざま
)
、帆柱の根、錨綱の下までも、あなぐり

(
さが
)
いたものなれども、
孫子
(
まごこ
)


(

)
け、
僧都
(
そうづ
)
に於ては、久しく心にも掛けませいで、一向に不案内ぢや。

 侍女一 (笑ふ)
精進
(
しやうじん
)
でおいで遊ばします。もし、これは、櫻貝、
蘇芳貝
(
すはうがひ
)
、いろいろの貝を

(
しべ
)
にして、花の波が白く咲きます、其の渚を、靑い山、綠の小松に包まれて、大陸の

(
をんな
)
たちが、夏の頃、百合、桔梗、月見草、夕顏の雪の

(
よそほひ
)
などして、

(
あさひ
)
の光、月影に、

(
はるか
)
(高濶なる
碧瑠璃
(
へきるり
)
の天井を、髮艶やかに打仰ぐ)
姿を映します。あゝ、風情な。美しいと

(
なが
)
めましたものでございますから、私ども皆が、今夜は此の
服裝
(
なり
)
に揃へました。

 僧都  一段とお見事ぢや。が、朝ほど御機嫌伺ひに出ました節は、御殿、お腰元衆、いづれも不斷の
服裝
(
なり
)
でおいでなされた。其の節は、今宵、あの美女が

(
これ
)

輿入
(
こしいれ
)
の儀はまだ

(
きま
)
らなんだ。
地體
(
ぢたい
)
人間は決斷が遲いに

(

)
つてな。……

(
それ
)
ぢやに、

(
かね
)
てのお
心掛
(
こゝろがけ
)
か。
弥疾
(
いやと
)


(
なり
)
が間に合うたものなう。

 侍女一 まあ、
貴老
(
あなた
)
は。私たち此の玉のやうな

(
みんな
)
の膚は、白い尾花の穗を散らした、山々の秋の錦が水に映ると

(
おんな
)
じに、

(

)
うと思へば、つい其れなりに、思ふまゝ、身の

(
よそほひ
)
の出來ます體で居りますものを。
貴老
(
あなた
)
はお忘れなさいましたか。

貴老は。……貴老だとて違ひはしません。緋の
法衣
(
ころも
)
を召さうと思へば、お思ひなさいます、と右左、峯に、
一本
(
ひともと
)
燃立つやうな。

 僧都  ま、ま、分つた。(腰を

(
かゞ
)
めつゝ、

(
おさ
)
ふるが如く

(
たなそこ
)
を擧げて制す)
何とも相済まぬ儀ぢや。海の
住居
(
すまひ
)

難有
(
ありがた
)
さに馴れて、
蔭日向
(
かげひなた
)
、雲の
往來
(
ゆきき
)
に、

(
うしほ
)
の色の變ると同樣。
如意
(
によい
)
自在心のまゝ、
立處
(
たちどころ
)
に身の

(
よそほひ
)
の成る事を忘れて居ました。

 なれども、
僧都
(
そうづ
)
が身は、

(

)
うした墨染の
暗夜
(
やみ
)
こそ

(

)
けれ、

(
なまじ
)
緋の

(
ころも
)
など

(
まと
)
はうなら、づぶ

(
ぬれ
)

提灯
(
ちやうちん
)
ぢや、
戶惑
(
とまどひ
)
をした鱏の魚ぢやなどと申さう。

(
おし
)
も石も利く事ではない。(細く丈長き

(
くろがね
)
の錨を

(
さかしま
)
にして

(
たづさ
)
へたる杖を、

(
かろ
)
く突直す。)

いや、又忘れては成らぬ。忘れぬ前に申上げたい儀で
罷出
(
まかりで
)
た。若樣へお取次を賴みましよ。

 侍女一 

(
かしこま
)
りました。唯今。……あの、

(
ちやう
)


(

)
い折に存じます。

右の
方闥
(
かたドア
)


(
はい
)
して行く。

 僧都  (謹みたる

(
てい
)
にて室内を

(
みまは
)
す。)
はあ、爭はれぬ。
法衣
(
ころも
)
の袖に春がそよぐ。(錨の杖を抱きて

(
たゝず
)
む。)

 公子  

(

)
と押す、

(
ドア
)


(
ひら
)
きて、性急に登場す。

(
おも
)
玉の如く
臈丈
(
らふた
)
けたり。黑髮を背に

(
さば
)
く。靑地錦の
直垂
(
ひたゝれ
)

黃金
(
こがね
)
づくりの

(
つるぎ
)


(

)
く。上段、一階高き

(
ゆか
)
の端に、端然として立つ。)


(

)
い、見えたか。

侍女五人、以前の一人を眞先に、すらすらと從ひ出づ。いづれも洋裝。第五の侍女、年最も

(
わか
)
し。二人は床の上、公子の
背後
(
うしろ
)
に。二人は床を下りて僧都の前に。第一の侍女は其の

(
うしろ
)
に立つ。

 僧都  は。
大床
(
おほゆか
)


(
ひざまづ
)
く。控へたる侍女一、

(
くだん
)
の錨の杖を預る)
これはこれは、御休息の處を恐入りましてござります。

 公子  (親しげに)爺い、用か。

 僧都  
紺靑
(
こんじやう
)
、群靑、
白群
(
びやくぐん
)
、朱、

(
へき
)

御藏
(
おくら
)
の中より、此の

(
たび
)
の儀に就きまして、先方へお遣はしに成りました、品々の

(
たぐひ
)
と、數々を、念のために申上げたうござりまして。

 公子  (立ちたるまゝ) おゝ、あの女の父親に

(

)
つた、陸で
結納
(
ゆひなふ
)
とか云ふものの事か。

 僧都  はあ、いや、御聡明なる若樣。若樣にはお
覺違
(
おぼえちが
)
ひでござります。彼等
夥間
(
なかま
)
に結納と申すは、親々が縁を結び、
媒酌人
(
なかうど
)
の手を以ち、婚約の祝儀、目録を贈りますでござります。然るに
此度
(
このたび
)
は、先方の父親が、若樣の御支配遊ばす、わたつみの財寶に望を掛け、もし此の念願の届くに於ては、
眉目
(
みめ
)

容色
(
きりやう
)
、世に

(
たぐひ
)
なき一人の娘を、海底へ捧げ奉る段、しかと誓ひました。即ち、彼が望みの寶をお

(
つかは
)
しに成りましたに

(

)
つて、是非に及ばず、
誓言
(
せいごん
)
の通り、娘を浪に沈めましたのでござります。されば、お送り遊ばされた數の寶は、彼等が結納と申さうより、俗に女の
身代
(
みのしろ
)
と云ふものにござりますので。

 公子  (輕く頷く)

(
よし
)


(
なん
)
にしろ
些少
(
すこし
)
ばかりの事を、別に知らせるには及ばんのに。

 僧都  いやいや、鱗一枚、
一草
(
ひとくさ
)

空貝
(
うつせがひ
)
とは申せ、僧都が

(
うけたまは
)
りました上は、活達なる若樣、

(

)
やうな事はお
氣煩
(
きむづ
)
かしうおいでなさりませうなれども、

(
おい
)
のしやうがに、お耳に入れねば成りませぬ。お腰元衆もお
執成
(
とりなし
)
(五人の侍女に目遣す)平にお聞取りを願はしう。

 侍女三 若樣、お座へ。

 公子  (顧みて)椅子を
此方
(
こちら
)
へ。

侍女三、四、兩人して白き枝珊瑚の椅子を捧げ、床の端近に据う。大楕圓形の白き
琅玕
(
らうかん
)
の、沈みたる光澤を帶べる
卓子
(
たくし
)
、上段の中央にあり。枝のまゝなる見事なる珊瑚の椅子、紅白二脚、紅きは花の如く、白きは霞の如きを、相對して置く。侍女等が
捧出
(
さゝげい
)
でて位置を變へて据ゑたるは、其の白き

(
かた
)
一脚なり。

 僧都  眞鯛大小八千枚。

(
ぶり
)


(
まぐろ
)
、ともに二萬疋。鰹、眞那鰹、

(
おのおの
)
一萬本。
大比目魚
(
おほひらめ
)
五千枚。

(
きす
)

魴鮄
(
ほうぼう
)


(
こち
)

鰷身魚
(
あいなめ
)

目張魚
(
めばる
)

藻魚
(
もうを
)
、合せて七百

(
かご
)

若布
(
わかめ
)
の其の幅六丈、長さ十五

(
ひろ
)
のもの、百枚一卷九千聨。
鮟鱇
(
あんかう
)
五十袋。
虎河豚
(
とらふぐ
)
一頭。大の

(
たこ
)

一番
(
ひとつがひ
)
。さて、別に又、月の灘の桃色の枝珊瑚一株、丈八尺。(此の

(
ぶん
)
、手にて仕方す)


周圍
(
まはり
)

三抱
(
みかゝへ
)
の分にござりまして。えゝ、月の眞珠、花の眞珠、雪の眞珠、いづれも一寸の珠三十三

(
りふ
)
、八分の珠百五粒、

(
こう
)
寶玉三十

(
くわ
)


(
おほき
)
さ鶴の卵、粒を揃へて、此は

(
あを
)
瑪瑙の盆に

(
かざ
)
り、

(
りよく
)
寶玉、三百顆、孔雀の尾の渦卷の數に合せ、紫の瑠璃の臺、五色に透いて輝きまする鰐の皮三十六枚、
沙金
(
さきん
)
の七十
包袋
(
たい
)

量目
(
はかりめ
)
約百萬兩。
閻浮檀金
(
えんぶだごん
)
十斤也。
緞子
(
どんす
)

縮緬
(
ちりめん
)
、綾、錦、牡丹、芍藥、菊の花、
黃金色
(
こんじき
)


(
すみれ
)

銀覆輪
(
ぎんぷくりん
)
の、月草、露草。

 侍女一 もしもし、唯今の

(
それ
)
は、あの、殘らず、其のお娘御の身の

(
しろ
)
とかにお遣はしの分なのでございますか。

 僧都  殘らず身の代と? ……はあ、如何さまな。(心付く)


不重寶
(
ぶちようはう
)
。これはこれは
海松
(
みる
)
ふさの袖に記して覺えのまゝ、

(
うしほ
)
に乘つて、

(
さつ
)
と讀流しました。はて、何から申した事やら、品目の多い處へ、數々のゆゑに。えゝえゝ、眞鯛大小八千枚。

 侍女一 鰤、鮪ともに二萬疋。鰹、眞那鰹各一萬本。

 侍女二 (僧都の前にあり)
大比目魚五千枚。鱚、魴鮄、鯒、あいなめ、目ばる、藻魚の

(
たぐひ
)
合せて七百籠。

 侍女三 (公子の背後にあり)
若布の其の幅六丈、長さ十五尋のもの百枚一卷き九千聨。

 侍女四 (同じく公子の背後に)
鮟鱇五十袋、虎河豚一頭、大の鮹
一番
(
ひとつがひ
)
。まあ……(笑ふ。侍女皆笑ふ)

 僧都  (額の汗を拭く)それそれ

(

)
やう、然やう。

 公子  (微笑しつゝ)笑ふな、老人は眞面目で居る。

 侍女五 (最も

(
わか
)
し。

(
ひと
)
しく公子の背後に附添ふ。派手に

(
うるは
)
しき聲す)
月の灘の桃色の枝珊瑚樹、

(
つゐ
)
の一株、丈八尺、
周圍
(
まはり
)

三抱
(
みかゝへ
)
の分。一寸の玉三十三

(
りふ
)
……雪の眞珠、花の眞珠。

 侍女一 月の眞珠。

 僧都  
少時
(
しばらく
)
。までじやまでじや、までにござる。……桃色の枝珊瑚樹、丈八尺、
周圍
(
まはり
)
三抱の分までにござつた。(公子に)鶴の卵ほどの

(
こう
)
寶玉、孔雀の渦卷の綠寶玉、靑瑪瑙の盆、紫の瑠璃の臺。此の分は、天なる(仰いで禮拜す)月宮殿に

(
みつぎ
)
のものにござりました。

 公子  

(
わたし
)


(

)
うらしく思つて聞いた。僧都、それから

(
のち
)
に言はれた、其の菫、露草などは、金銀寶玉の

(
るゐ
)
は云ふまでもない、魚類ほどにも、人間が珍重しないものと聞く。が、同じく、あの

(
かた
)


(
つか
)
はしたものか。

 僧都  綾、錦、牡丹、芍藥、

(
もつ
)
れも散りもいたしませぬを、老人の
申条
(
まをしでう
)
、はや、又
海松
(
みる
)
のやうに亂れました。えゝえゝ、其の菫、露草は、若樣、此の度の御旅行につき、
白雪
(
はくせつ
)

龍馬
(
りうめ
)
にめされ、渚を掛けて浦づたひ、朝夕の、茜、紫、雲の上を山の峰へお

(
しの
)
びにてお出まの節、珍しくお手に

(

)
りましたを、

(
おん
)
姉君、乙姫樣へ
御進物
(
ごしんもつ
)
の分でござりました。

 侍女一 姫樣は、
閻浮檀金
(
えんぶだごん
)
の一輪挿に、眞珠の露でお

(

)
け遊ばし、お手許をお離しなさいませぬさうにございます。

 公子  
度々
(
たびたび
)
は手に

(

)
らない。

(
わたし
)
も大方、姉上に

(

)
げた其の事であらうと思つた。

 僧都  
御意
(
ぎよい
)
。娘の親へ遣はしましたは、眞鯛より數へまして、珊瑚一對……までに止まりました。

 侍女二 海では何ほどの事でもございませんが、受取ります

(
をか
)
の人には、鯛も
比目魚
(
ひらめ
)
も千と萬、少ない數ではございますまいに、僅な日の

(

)
に、ようお手廻し、お遣はしに成りましてございます。

 僧都  

(

)
れば其の事。一國、一島、津や浦の

(
はて
)
から果を一網にもせい、人間
夥間
(
なかま
)
が、
大海原
(
おほうなばら
)
から取入れます

(

)
ものと云ふは、貝に溜つた雫ほどに
聊少
(
いさゝか
)
なものでござつての、お腰元衆など思うても見られまい、

(
はり
)


(
さき
)
に蟲を附けて
雜魚
(
ざこ
)
一筋を釣ると云ふ
仙人業
(
せんにんわざ
)
をしまするよ。此の度の娘の父は、

(

)
までにもなけれども、小船一つで網を打つが、
海月
(
くらげ
)
ほどにしよぼりと擴げて、泡にも足らぬ
小魚
(
こうを
)


(
しやく
)
ふ。入れものが小さき故に、

(
それ
)

希望
(
のぞみ
)
を滿しますに、手間の入ること、何ともまだるい。鰯を育てて鯨にするより齒痒い段の行止り。(公子に向ふ)若樣は御性急ぢや。早く彼が

(
ねがひ
)

滿
(

)
たいて、

(
ちかひ
)
の美女を取れ、と御意ある。よつて、黑潮、赤潮の
御手兵
(
ごしゆへい
)


(

)
とばかり動かしましたわ。赤潮の

(
つるぎ
)
は、炎の稻妻、黑潮の黑い旗は、黑雲の峰を

(

)
いて、沖から摚と浴びせたほどに、一浦の津波と成つて、田畑も家も山へ流いた。片隅の美女の家へ、
門背戶
(
かどせど
)
かけて、疊天井、
一齋
(
いちどき
)
に、屋根の上の丘の腹まで運込みました儀でござつたよ。

 侍女三 まあ、お勇ましい。

 公子  (少し俯向く)勇ましいではない。家畑を押流して、浦のもの等は迷惑をしはしないか。

 僧都  

(
いや
)
、否、黑潮と赤潮が、

(

)
と爪彈きしましたばかり。人命を斷つほどではござりませなんだ。尤も迷惑を

(

)
ば、いたせ、娘の親が人間同士の

(
なか
)
でさへ、自分ばかりは、思ひ

(

)
けない海の幸を、
黃金
(
こがね
)
の山ほど

(
つか
)
みましたに因つて、他の人々の難澁如きは

(
いさゝか
)
か氣にも留めませぬに、海のお
世子
(
よとり
)
であらせられます若樣。人間界の迷惑など、お心に掛けさせますには毛頭當りませぬ儀でございます。

 公子  (頷く)そんなら

(
よし
)
――僧都。

 僧都  はゝ。

(
あらた
)
めて手を

(

)
く。)

 公子  

(
あれ
)
の親は、
此方
(
こちら
)
から遣はした、娘の身の代とか云ふものに滿足をしたであらうか。

 僧都  御意、滿足いたしましたればこそ、當御殿、お求めに從ひ、美女を沈めました儀にござります。尤も、眞鯛、鰹、眞那鰹、其の金銀の魚類のみでは、滿足をしませなんだが、續いて、三抱へ一對の枝珊瑚を、夜の渚に差置きますると、山の
端出
(

)
づる月の光に、眞紫に輝きまするを夢のやうに抱きました時、

(
あれ
)
の父親は白砂に
領伏
(
ひれふ
)
し、波の

(
すそ
)
を吸ひました。あはれ龍神、一命を捧げ奉ると、御恩のほどを
難有
(
ありがた
)
がりましたのでござります。

 公子  (微笑す)
親仁
(
おやぢ
)
の命などは御免だな。そんな魂を引取ると、
海月
(
くらげ
)
が殖えて、迷惑をするよ。

 侍女五 あんな事をおつしやいます。

一同笑ふ。

 公子  けれども僧都、そんな事で滿足した、人間の慾は淺いものだね。

 僧都  まだまだ、

(
あれ
)
は深い方でござります。一人娘の身に代へて、海の寶を望みましたは、慾念の

(
たくまし
)
い故でござりまして。……たかだかは人間同士、
夥間
(
なかま
)
うちで、白い

(
やはらか
)

膩身
(
あぶらみ
)
を、炎の燃立つ絹に包んで蒸しながら賣り渡すのが、峠の關所かと心得ます。

 公子  馬鹿だな。(珊瑚の椅子をすッと立つ)戀しい女よ。望めば生命でも遣らうものを。……はゝ、はゝ。

微笑す。

 侍女四 お思はれ遊ばした娘御は、
天地
(
あめつち
)
かけて、お仕合せでおいで遊ばします。

 侍女一 早くお著き遊せば

(

)
うございます。私どももお待遠に存じ上げます。

 公子  道中の樣子を見よう、旅の樣子を見よう。

(
ドア
)
の外に向つて呼ぶ)
おいおい、居間の鏡を寄越せ。(闥開く。侍女六、七、二人、赤地の錦の

(
おほひ
)
を掛けたる大なる姿見を捧げ出づ。)
僧都も御覽。

 僧都  失禮ながら。(膝行して進む。侍女等、姿見を
卓子
(
たくし
)
の上に据ゑ、錦の蔽を

(
ひら
)
く。侍女等、卓子の端の一方に集る。)

 公子  (姿見の面を指し、僧都を見返る)

(
あれ
)
だ、彼だ。あの一點の光が

(
それ
)
だ。お前たちも見ないか。

舞臺轉ず。
少時
(
しばし
)
暗黑、
寂寞
(
せきばく
)
として波濤の音聞ゆ。やがて
一個
(
ひとつ
)
、花白く葉の靑き蓮華燈籠、漂々として波に

(
たゞよ
)
へるが如く

(
あらは
)
る。續いて花の赤き同じ燈籠、
中空
(
なかぞら
)
の如き
高處
(
かうしよ
)
に出づ。又出づ、やゝ低し。尚ほ見ゆ、少しく高し。其の

(
すう
)

五個
(
いつゝ
)
に成る時、
累々
(
るゐるゐ
)
たる波の舞臺を

(
あらは
)
す。美女。毛卷島田に結ふ。白の振袖、綾の帶、

(
くれなゐ
)
の長襦袢、胸に水晶の數珠をかけ、襟に兩袖を占めて、波の上に、雪の如き
龍馬
(
りうめ
)
に乘せらる。凡そ手綱の丈を隔てて、
下髮
(
さげがみ
)
の女房。
旅扮裝
(
いでたち
)
。素足、
小袿
(
こうちぎ
)


(
つま
)

端折
(
はしを
)
りて、片手に
市女笠
(
いちめがさ
)
を携へ、片手に蓮華燈籠を

(

)
ぐ。第一點の

(
ともしび
)
の影は此なり。
黑潮
(
こくてう
)
騎士、美女の
白龍馬
(
はくりうめ
)

犇々
(
ひしひし
)
と圍んで兩側二列を造る。

(
およそ
)
十人。皆
崑崙奴
(
くろんぼ
)

形相
(
ぎやうさう
)
。手に手に、すくすくと槍を立つ。穗先白く
晃々
(
きらきら
)
として、
氷柱
(
つらゝ
)


(
さかしま
)
に黑髮を縫ふ。或ものは燈籠を槍に結ぶ、灯の高きは此なり。或ものは手にし、或ものは腰にす。

 女房  貴女、お
草臥
(
くたびれ
)
でございませう。一息、お
休息
(
やすみ
)
なさいますか。

 美女  (夢見るやうに其の瞳を

(
みひら
)
く)
あゝ、(嘆息す)もし、
誰方
(
どなた
)
ですか。……私の身體は足を空に、(馬の背に

(
もすそ
)

搔緊
(
かいし
)
む)


(
さかさま
)
に落ちて落ちて、波に沈んで居るのでせうか。

 女房  

(
いゝえ
)
、お美しいお

(
ぐし
)
一筋、風にも波にもお

(
もつ
)
れはなさいません。何でお身體が倒などと、そんな事がございませう。

 美女  
何時
(
いつ
)
か、何時ですか、
昨夜
(
ゆうべ
)
か、今夜か、

(
さき
)
の世ですか。私が一人、

(
かぢ
)


(

)
もない、舟に、

(
むしろ
)
に乘せられて、波に流されました時、父親の約束で、海の中へ

(

)
られて行く、私へ供養のためだと云つて、船の左右へ、
前後
(
あとさき
)
に、波のまにまに散つて浮く……蓮華燈籠が流れました。

 女房  水に目のお馴れなさいません、貴女には道しるべ、また土產にもと存じまして、此が、(手に翳す)其の灯籠でございます。

 美女  まあ、

(
あかり
)
も消えずに……

 女房  燃えた火の消えますのは、油の盡きる、風の吹く、

(
をか
)
ばかりの事でございます。一度此の國へ受取りますと、こゝには風が吹きません。たゞ花の香の、ほんのりと通ふばかりでございます。紙の細工も珠に替つて、葉の靑いのは、翡翠の
琅玕
(
らうかん
)

花片
(
はなびら
)
の紅白は、
眞玉
(
まだま
)
、白珠、紅寶玉。燃ゆる

(

)
も、またゝきながら消えない星でございます。御覽遊ばせ、貴女。お召ものが濡れましたか。お髮も亂れはしますまい。何で、お身體が倒でございませう。

 美女  最後に一目、
故郷
(
ふるさと
)
の浦の近い峰に、月を見たと思ひました。
其切
(
それぎり
)
、底へ引くやうに船が沈んで、私は波に落ちたのです。唯幻に、其の燈籠の樣な蒼い影を見て、胸を離れて遠くへ行く、自分の身の魂か、導く鬼火かと思ひましたが、ふと見ますと、
前途
(
ゆくて
)
も、あれあれ、遙の下と思ふ處に、月が一輪、おなじ光で見えますもの。

 女房  あゝ、(望む)あの光は。

(
いえ
)
。月影ではございません。

 美女  でも、貴方、雲が見えます、雪のやうな、空が見えます、瑠璃色の。そして、眞白な絹絲のやうな光が射します。

 女房  其の雲は波、空は水。一輪の月と見えますのは、此から貴女がお

(
いで
)
遊ばす、海の御殿でございます。あれへ、お迎へ申すのです。

 美女  そして、參つて、私の身體、

(

)
う成るのでございませうねえ。

 女房  ほゝゝ、(笑ふ)何事も申しますまい。唯お嬉しい事なのです。おめでたう存じます。

 美女  あの、

(
すて
)
小舟に流されて、海の

(
にへ
)
に取られて行く、あの、

(
みまは
)
す)
これが、嬉しい事なのでせうか。めでたい事なのでせうかねえ。

 女房  (再び笑ふ)お國では
如何
(
いかゞ
)
でございませうか。私たちが
故郷
(
ふるさと
)
では、

(

)
う此の上ない嬉しい、めでたい事なのでございますもの。

 美女  
彼處
(
あすこ
)
まで、
道程
(
みちのり
)
は?

 女房  お國でたとへは

(
むづ
)
かしい。……おゝ、五十三次と

(
うけたまは
)
ります、東海道を
十度
(
とたび
)
づゝ、三百

(
たび
)

往還
(
ゆきかへ
)
りを繰返して、三千

(
たび
)
いたしますほどでございませう。

 美女  えゝ、そんなに。

 女房  めした
龍馬
(
りうめ
)
は風よりも早し、お道筋は
黃金
(
こがね
)
の欄干、
白銀
(
しろがね
)
の波のお廊下、たゞ花の香りの中を、やがてお著きなさいます。

 美女  潮風、磯の香、
海松
(
みる
)

海藻
(
かじめ
)
の、
咽喉
(
のど
)
を刺す
硫黃
(
いわう
)

臭氣
(
にほひ
)
と思ひのほか、
眞個
(
ほん
)
に、

(
すゞ
)
しい、佳い薫、(柔に袖を動かす)……ですが、時々、
悚然
(
ぞつと
)
する、

(
なまぐさ
)
い香のしますのは?……

 女房  人間の魂が、貴女を慕ふのでございます。
海月
(
くらげ
)
が寄るのでございます。

 美女  人の魂が、
海月
(
くらげ
)
と云つて?

 女房  海に參ります醜い人間の魂は、皆、海月に成つて、ふはふはさまようて
步行
(
ある
)
きますのでございます。

 黑潮騎士  (口々に)――

(
うるさ
)
い。
叱々
(
しつしつ
)
。――(と、ものなき龍馬の周圍を

(

)
す。)

 美女  まあ、情ない、お恥しい。(袖を以て

(
おもて
)
を蔽ふ。)

 女房  

(
いえ
)
、貴女は、あの御殿の若樣の、
新夫人
(
にひおくさま
)
でいらつしやいます、もはや人間ではありません。

 美女  えゝ。(袖を落す。――舞臺轉ず。眞暗に成る。)――

 女房  (聲のみして)急ぎませう。美しい方を見ると、黑鰐、赤鮫が襲ひます。騎馬が前後を守護しました。お
憂慮
(
きづかひ
)
はありませんが、いざ參ると、斬合ひ攻合ふ、修羅の巷をお目に懸けねば成りません。――騎馬の方々、急いで下さい。

燈籠一つ行き、續いて一つ行く。
漂蕩
(
へうたう
)
する趣して、高く低く奥の

(
かた
)
深く行く。


舞臺燦然
(
さんぜん
)
として明るし、前の
琅玕
(
らうかん
)
殿

(
あらは
)
る。

 公子、椅子の位置を
卓子
(

)
に正しく直して掛けて、姿見の

(
かたはら
)
にあり。向つて右の
上座
(
かみざ
)
。左の方に赤き枝珊瑚の椅子、人なくしてたゞ据ゑらる。其の椅子を斜に

(
さが
)
りて、沖の僧都、此の度は腰掛けてあり。黑き珊瑚、小形なる椅子を用ゐる。おなじ小形の椅子に、向つて正面に一人、

(
ほゞ
)
唐代の

(
じゆ
)
の服裝したる、

(
ひげ
)
黑き一人あり。博士なり。

 侍女七人、花の如く其の間を

(
よそほ
)
ひ立つ。

 公子  博士、お呼び立てしました。

 博士  (敬禮す。)

 公子  此を御覽なさい。(姿見の面を示す。)
千仭
(
せんじん
)


(
がけ
)


(
かさ
)
ねた、漆のやうな波の間を、

(
かすか
)
に蒼い

(
ともしび
)
に照らされて、白馬の背に
手綱
(
たづな
)
したは、此の

(
たび
)
迎へ取るおもひものなんです。陸に獅子、虎の狙ふと
同一
(
おなじ
)
に、
入道鰐
(
にふだうわに
)

坊主鮫
(
ばうずざめ
)
の一類が、美女と見れば、途中に
襲撃
(
おそひう
)
つて、黑髮を吸ひ、白き乳を裂き、美しい血を吞まうとするから、守備のために、旅行さきで、手にあり合せただけ、少數の
黑潮
(
こくてう
)
騎士を附添はせた、
渠等
(
かれら
)

白刃
(
しらは
)
を揃へて居る。

 博士  至極のお計ひに心得まするが。

 公子  處が、敵に備ふる
此處
(
こゝ
)
の守備を出拂はしたから不用心ぢや、危險であらう、と僧都が言はれる。……其は恐れん、私が居れば仔細ない。けれども、又、僧都の言はれるには、
白衣
(
びやくえ
)
に緋の

(
かさね
)
した
女子
(
をなご
)
を馬に乘せて、黑髮を
槍尖
(
やりさき
)
で縫つたのは、彼の國で引廻しとか

(
とな
)
へた罪人の姿に似て居る、私の手許に
迎入
(
むかへい
)
るゝものを、
不祥
(
ふしやう
)
ぢや、忌はしいと言ふのです。

事實不祥なれば、途中の保護は他に
幾干
(
いくら
)
も手段があります。其は構はないが、私は

(
いさゝか
)
かも不祥と思はん、忌はしいと思はない。

此を見ないか。私の領分に入つた女の顏は、白い玉が月の光に包まれたと
同一
(
おなじ
)
に、
愈々
(
いよいよ
)
淸い。眉は美しく、瞳は澄み、唇の

(
べに
)
は冴えて、聊かも

(
やつ
)
れない。憂へて居らん。淸らかな

(
きもの
)
を著、

(
あらた
)


(
くしけづ
)
つて、花に露の
點滴
(
したゝ
)


(
よそほひ
)
して、馬に

(

)
した姿は、かの國の花野の

(
たけ
)
を、錦の山の懐に

(

)
く……
步行
(
あるく
)
より、車より、駕籠に乘つたより、
一層鮮麗
(
あざやか
)
なものだと思ふ。其の上、選拔した
慓悍
(
へうかん
)

黑潮
(
こくてう
)
騎士の
精鋭等
(
ども
)
に、
長槍
(
ながやり
)
を以て
四邊
(
あたり
)
を拂はせて通るのです。得意思ふべしではないのですか。

 僧都  

(
しきり
)


(
つむり
)
を傾く。)

 公子  引廻しと聞けば、恥を見せるのでせう、苦痛を與へるのであらう。槍で圍み、旗を立て、淡く淸く裝つた得意の人を馬に乘せて

(
いち
)
を練つて、やがて刑場に送つて殺した處で、――殺されるものは平凡に
疾病
(
やまひ
)
で死するより愉快でせう。――其が何の刑罰に成るのですか。陸と海と、國が違ひ、人情が違つても、まさか、そんな刑罰はあるまいと想ふ。僧都は、うろ覺えながら確に記憶に殘ると言はれる。……
貴下
(
あなた
)
をお呼立した次第です。一寸お

(
しら
)
べを願ひませうか。

 博士  
仰聞
(
おほせき
)
けの記憶は私にもありますで。しかし、念のために驗べまするで。えゝ、陸上一切の刑法の記録でありませうか、それとも。

 公子  面倒です、あとは

(

)
うでも

(

)
い。たゞ
女子
(
をなご
)
を馬に乘せ、槍を立てて引廻したと云ふ、そんな事があつたかと云ふ、それだけです。

 博士  正史でなく、小説、淨瑠璃の中を見ませうで。時の人情と風俗とは、史書よりも

(
むし
)
ろ此の方が適當でありますので。(金光燦爛たる
洋綴
(
やうとぢ
)
の書を展く。)

 公子  
卓子
(
たくし
)
に腰を掛く)
大相氣の利いた書物ですね。

 博士  此は、
佛國
(
ふつこく
)
の大帝
奈翁
(
ナポレオン
)
が、西暦千八百八年、
西班牙
(
スペイン
)
遠征の途に

(
のぼ
)
りました時、

(
かね
)
て世界有數の讀書家。必要によつて當時の圖書館長バルビールに命じて

(
つく
)
らせました、函入新裝の、一千卷、
一架
(
ひとたな
)
の内容は、宗教四十卷、敍事詩四十卷、戲曲四十卷、其の他の詩篇六十卷。曆史六十卷、小説百卷、と申しまするデユオデシモ形と申す有名な版本の事を……お聞及びなさいまして、御姉君、乙姫樣が御工夫を遊ばしました。蓮の絲、一筋を、凡そ枚數千頁に薄く織擴げて、一萬枚が一折、一百二十折を合せて一册に綴ぢましたものでありまして、此の國の微妙なる光に展きますると、森羅萬象、人類をはじめ、動植物、鑛物、一切の元素が、
一々
(
ひとつひとつ
)
づゝ微細なる活字と成つて、然も、各々五色の輝きを放ち、名詞、代名詞、動詞、助動詞、主客、
句讀
(
くとう
)
、いづれも個々別々、七彩に照つて、

(

)
く開きました眞白な

(
ページ
)
の上へ、自然と、染め出さるゝのでありまして。

 公子  姉上が、其を。――

(
さぞ
)
、御祕藏のものでせう。

 博士  御祕藏ながら、若樣の御書物藏へも、
整然
(
ちやん
)
と姫樣がお備へつけでありますので。

 公子  では、私の所有ですか。

 博士  若樣は此の册子と同じものを、
瑪瑙
(
めなう
)
に靑貝の蒔繪の書棚、
五百架
(
たな
)
、御所有で

(

)
らせられまする次第であります。

 公子  姉があつて
幸幅
(
しあはせ
)
です。どれ、(取つて

(
ひら
)
く)
此は……唯白紙だね。

 博士  は、恐れながら、それぞれの豫備の知識がありませんでは、自然の其の色彩ある活宇は、ペエジの上には寫り兼ねるのでございます。

 公子  恥入るね。

 博士  いやいや、若樣は御勇武で居らせられます。入道鰐、黑鮫の襲ひまする節は、御訓練の
黑潮
(
こくてう
)

赤潮
(
せきてう
)
騎士、
御手
(
おて
)


(
つるぎ
)
でなうては御退けに成りまする次第には參らぬのでありまして。
雖然
(
けれども
)
、姉姫樣の御心づくし、
節々
(
せつせつ
)
は御閲讀の儀をお勸め申まするので。

 僧都  もろともに、お勸め申上げますでござります。

 公子  (頷く)まあ、今の引廻しの事を見て下さい。

 博士  確に。(書を披く)手近に淨瑠璃にありました。あゝ、

(
これ
)
にあります。……若樣、此は大日本浪華の町人、大經師
以春
(
いしゆん
)
の年若き女房、名だたる美女のおさん。
手代
(
てだい
)
茂右衛門と
不義顯
(
あらは
)
れ、即ち引廻し

(
はりつけ
)
に成りまする處を、記したのでありまして。

 公子  お讀み。

 博士  (朗讀す)――
紅蓮
(
ぐれん
)
の井戶堀、焦熱の、地獄のかま塗りよしなやと、急がぬ道をいつのまに、越ゆる我身の死出の山、死出の
田長
(
たをさ
)
の田がりよし、野邊より先を見渡せば、過ぎし冬至の冬枯れの、

(

)
の間木の間にちらちらと、ぬき身の槍の恐しや、――

 公子  (姿見を覗きつゝ、且つ聽きつゝ)あゝ、
幾干
(
いくら
)
か似て居る。

 博士  ――また冷返る夕嵐、雪の松原、此の世から、

(
かゝ
)

苦患
(
くげん
)
にわう
亡日
(
まうにち
)
、島田亂れてはらはらはら、顏にはいつもはんげしやう、縛られし手の冷たさは、我身一つの

(
かん
)


(
いり
)
、涙ぞ指の爪とりよし、袖に氷を結びけり。……

侍女等、傾聽す。

 公子  唯、いゝ姿です、美しい形です。世間は其で其の女の罪を責めたと思ふのだらうか。

 博士  

(
まづ
)
、ト見えまするので。

 僧都  

(

)
やうでございます。

 公子  馬に

(

)
つた女は、殺されても戀が叶ひ、思ひが届いて、

(
さぞ
)
本望であらうがね。

 僧都  ――袖に氷を結びけり。涙などと、嘆き悲しんだやうにござります。

 公子  其は、其の引廻しを見る、見物の心ではないのか。私には分らん。(頭を

(

)
る。)
博士――まだ

(
ほか
)
に例があるのですか。

 博士  (朗讀す)……世の

(
あはれ
)
とぞなりにける。今日は神田のくづれ橋に恥をさらし、又は四谷、芝、淺草、日本橋に人こぞりて、見るに惜まぬはなし。是を思ふに、かりにも人は

(
あし
)
き事をせまじきものなり。天是を許し給はぬなり。……

 公子  (眉を

(
ひそ
)
む。――侍女等

(
ひと
)
しく不審の
面色
(
おもゝち
)
す。)

 博士  ……此女思込みし事なれば、身の

(
やつ
)
るゝ事なくて、每日ありし昔の如く、黑髮を

(

)
はせて

(
うる
)
はしき風情。……

 公子  (色解く。侍女等、眉をひらく。)

 博士  中畧をいたします。……聞く人

(
ひと
)
しほいたはしく、其姿を見おくりけるに、限ある命のうち、
入相
(
いりあひ
)
の鐘つく

(
ころ
)


(
しな
)
かはりたる道芝の

(
ほとり
)
にして、其身は憂き煙となりぬ。人皆いづれの道にも煙はのがれず、殊に不便は是にぞありける。――此で、鈴ヶ森で
火刑
(
ひあぶり
)
に處せられまするまでを、確か江戶中
棄札
(
すてふだ
)
に槍を立てて引廻した筈と心得まするので。

 公子  分りました。其はお七と云ふ娘でせう。私は大すきな女なんです。御覽なさい。
何處
(
どこ
)
に當人が歎き悲みなぞしたのですか。人に惜しまれ
可哀
(
あはれ
)
がられて、女それ自身は大滿足で、自若として火に燒かれた。得意想ふべしではないのですか。何故其が刑罰なんだね。もし刑罰とすれば、

(
めぐみ
)


(
しもと
)


(
なさけ
)
の鞭だ。實際其の罪を罰しようとするには、其のまゝ無事に置いて、平凡に愚圖愚圖に
生存
(
いきなが
)
らへさせて、皺だらけの婆にして、其の娘を終らせるが可いと、私は思ふ。……分けて、現在、殊に其のお七の如きは、姉上が海へお引取りに成つた。刑場の鈴ヶ森は自然海に近かつた。姉上は御覽に成つた。鐵の鎖は手足を繫いだ、燃草は夕霜を置殘して其の肩を包んだ。煙は雪の振袖をふすべた。炎は
緋鹿子
(
ひがのこ
)
を燃え拔いた。緋の牡丹が崩れるより、虹が燃えるより美しかつた。戀の火の白熱は、凝つて
白玉
(
はくぎよく
)
と成る、其の

(
はだえ
)
を、氷つた
雛芥子
(
ひなげし
)
の花に包んだ。姉の手の甘露が沖を曇らして

(
そゝ
)
いだのだつた。其のまゝ海の底へお引取りに成つて、現に、姉上の宮殿に、今も十七で、

(
くれなゐ
)
の珊瑚の中に、
結綿
(
ゆひわた
)
の花を咲かせて居るのではないか。

男は死ななかつた。
存命
(
ながら
)
へて坊主に成つて老い朽ちた。娘のために、姉上は其さへお引取りに成つた。けれども、其の魂は、途中で

(
をす
)

海月
(
くらげ
)
に成つた。――時々未練に娘を覗いて、赤潮に追拂はれて、醜く、ふらふらと生白く

(
たゞよ
)
うて

(

)
する。あはれなものだ。

娘は
幸福
(
しあはせ
)
ではないのですか。火も水も、火は虹と成り、水は瀧と成つて、彼の生命を飾つたのです。拔身の槍の刑罰が馬の左右に、其の

(
ほまれ
)
を輝かすと
同一
(
おんなじ
)
に。――博士
如何
(
いかゞ
)
ですか。僧都。

 博士  しかし、しかし若樣、私は愼重にお答へをいたしまする。身は此の職にありながら、事實、人間界の心も

(
じやう
)
も、まだ

(
いさゝか
)
かも分らぬのでありまして。若樣、唯今の仰せは、其は、すべて海の中にのみ留まりまするが。

 公子  (穩和に頷く)姉上も、以前お分りに成らぬと言はれた。其の上、
貴下
(
あなた
)
がお分りにならなければ此は誰にも分らないのです。私にも分らない。しかし事情も違ふ。彼を迎へる、道中の此の(又姿見を指す)馬上の姿は、別に不祥ではあるまいと思ふ。

 僧都  唯今、仰せ聞けられ承りまする内に、
条理
(
すぢみち
)


(
わきま
)
へず、僧都にも分らぬことのみではござりますが、唯、黑潮の拔身で圍みました段は、別に忌はしい事ではござりませんやうに、老人にも、其の合點參りましてござります。

 公子  

(
よし
)
、しかし僧都、こゝに蓮華燈籠の意味も分つた。が、一つ見馴れないものが見えるぞ。女が、黑髮と、あの雪の襟との間に――胸に珠を掛けた、

(
あれ
)
は何かね。

 僧都  はあ。
卓子
(
たくし
)
に伸上る)
はゝ、いかさま、いや、若樣。あれは水晶の
數珠
(
じゆず
)
にございます。海に沈みまする覺悟につき、
冥土
(
めいど
)
に參る心得のため、
檀那寺
(
だんなでら
)
の和尚が授けましたのでござります。

 公子  冥土とは?……其こそ
不埒
(
ふらち
)
だ。そして
仇光
(
あだびか
)
りがする、あれは……水晶か。

 博士  水晶とは申す条、近頃は專ら
硝子
(
ビイドロ
)
を用ゐますので。

 公子  (一笑す)私の戀人ともあらうものが、無ければ

(

)
い。が、
硝子
(
ビイドロ
)
とは何事ですか。金剛石、また眞珠の揃うたのが可い。……博士、贈つて然るべき
頸飾
(
えりかざり
)
をお

(
しら
)
べ下さい。

 博士  

(
かしこま
)
りました。

 公子  そして指環の珠の色も怪しい、お前たち

(

)
う見たか。

 侍女一 近頃は、かんてらの灯の
露店
(
ほしみせ
)
に、
紅寶玉
(
ルビイ
)

綠寶玉
(
エメラルド
)
と申して、貝を

(
ひさ
)
ぐと承ります。

 公子  お前たちの化粧の泡が、波に流れて渚に散つた、あの貝が寶石か。

 侍女二 
錦襴
(
きんらん
)
の服を著けて、靑い頭巾を被りました、立派な
玉商人
(
たまあきんど
)
の賣りますものも、

(
にせ
)
が多いさうにございます。

 公子  博士、
次手
(
ついで
)
に指環を贈らう。僧都、すぐに
出向
(
でむか
)
うて、遠路であるが、途中、早速、
硝子
(
ビイドロ
)
と其の

(
まが
)


(
だま
)
を取棄てさして下さい。お
老寄
(
としより
)
に、御苦勞ながら。

 僧都  (苦笑す)若樣には、
新夫人
(
にひおくさま
)
の、まだ、海にお馴れなさらず、御到著の遲いばかり氣になされて、老人が、こゝに形を消せば、瞬く間もなう、お姿見の中の御馬の前に映りまする
神通
(
じんづう
)
を、お忘れなされて、老寄に苦勞などと、心外な御意を

(
かうむ
)
りまするわ。

 公子  はゝは、(無邪氣に笑ふ)失禮をしました。

博士、僧都、
一揖
(
いちいふ
)
して廻廊より退場す。侍女等慇懃に見送る。

 公子  少し窮屈であつたげな。

侍女等親しげに皆其の前後に
齋眉
(
かしづ
)
き寄る。

 公子  性急な私だ。――女を待つ間の
心遣
(
こゝろやり
)
にしたい。誰か、あの國の歌を知つて

(

)
らんか。

 侍女三 存じて居ります。
浪花津
(
なにはづ
)
に咲くや
此花
(
このはな
)

冬籠
(
ふゆごもり
)
、今を春へと咲くや此花。

 侍女四 若樣、私も存じて居ります。淺香山を。

 公子  いや、そんなのではない。(博士がおきたる書を

(
ひら
)
きつゝ)
女の國の東海道、道中の唄だ。何とか云ふのだつた。此の書はいくらか覺えがないと、文字が見えないのださうだ。(呟く)姉上は貴重な、しかし、少しあてつこすりの書をお

(
こしら
)
へに成つたよ。あゝ、何とか云つた、東海道の。

 侍女五 五十三次のでございませう、私が少し存じて居ります。

 公子  歌うて見ないか。

 侍女五 はい。(朗かに優しくあはれに唄ふ。)

     都路は
五十路
(
いそぢ
)
あまりの三つの宿、……

 公子  おゝ、其だ、
字書
(
じしよ
)
のやうに、江戶紫で、都路と
標目
(
みだし
)
が出た。(展く)あとを。

 侍女五 ……時得て咲くや江戶の花、浪靜なる品川や、やがて越來る川崎の、軒端ならぶる神奈川は、早や程ケ谷に程もなく、暮れて戶塚に宿るらむ。紫匂ふ藤澤の、
野面
(
のおも
)
に續く平塚も、もとのあはれは大磯か。

(
かはづ
)
鳴くなる小田原は。……

(
きまり
)
惡げに)
……もうあとは忘れました。

 公子  

(
よし
)
、こゝに綠の活字が、白い雲の

(
ペエジ
)
に出た。――箱根を越えて伊豆の海、三島の里の神垣や――さあ、忘れた所は教へて遣らう。此の歌で、五十三次の
宿
(
しゆく
)
を覺えて、お前たち、あの道中
雙六
(
すごろく
)
と云ふものを遊んで見ないか。

(
あが
)
りは京都だ。姉の御殿に近い。誰か一人

(
あが
)
つて、雙六の済む時分、丁度、此の女は(姿見を見つゝ)著くであらう。一番上りのものには、
瑪瑙
(
めなう
)


(
さや
)
に、紅寶玉の實を

(
かざ
)
つた、あの造りものの
吉祥果
(
きつしやうくわ
)
を遣る。繪は直ぐに間に

(
あは
)
ぬ。此の

(
へや
)
を五十三に割つて雙六の目に合せて、一人づゝ身體を進めるが可からう。……賽が要る、持つて來い。(侍女六七、うつむいてともに微笑す)――何うした。

 侍女六  姿見をお取寄せ遊ばしました時。

 侍女七  二人して盤の雙六をして居りましたので、賽は持つて居りますのでございます。

 公子  おもしろい。向うの廻廊の端へ集まれ。そして順に成つて始めるが可い。

 侍女七  

(
ゆか
)
へ振りませうでございますか。

 公子  心あつて招かないのに來た、賽にも魂がある、寄越せ。(受取る)
卓子
(
たくし
)
の上へ私が投げよう。お前たち一から七まで、目に從うて順に動くが可い。さあ、集れ。(侍女七人、いそいそと、續いて廻廊のはづれに集り、貴女は一。私は二。

(

)
う口々に樂しげに取定め、勇みて賽を待つ。)
可いか、(片手に書を持ち、片手に賽を投ぐ)――一は三、かな川へ。(侍女一人進む)二は一、品川まで。(侍女一人また進む)三は五だ、戶塚へ行け。

(

)
くして順々に繰返し次第に進む。第五の侍女、年最も少きが一人衆を離れて賽の目に乘り、正面突當りなる窓際に進み、他と、

(
あはひ
)
隔る。公子。これより

(
さき
)
、姿見を見詰めて、賽の目と宿の數を算へ淀む。……此の時、うかとしたる

(
てい
)
に書を落す。)
まだ、誰も上らないか。

 侍女一 

(
やつ
)
と一人天龍川まで參りました。

 公子  あゝ、まだるつこい。賽を二つ一所に振らうか。(手にしながら姿見に見入る。侍女等、等く
其方
(
そなた
)
を凝視す。)

 侍女五 きやつ。(叫ぶ。

(
ひま
)
なし。其の姿、窓の外へ

(
もすそ
)
を引いて

(
さつ
)
と消ゆ)
あゝれえ。

侍女等、口々に、あれ、あれ、鮫が、鮫が、入道鮫が、と立亂れ騒ぎ狂ふ。

 公子  入道鮫が、何、(窓に

(

)
と寄る。)

 侍女一 あゝ、黑鮫が三百ばかり。

 侍女二 取卷いて、群りかゝつて。

 侍女三 あれ、入道が口に

(
くは
)
へた。

 公子  
外道
(
げだう
)
、外道、其の女を返せ、外道。(叱咤しつゝ、窓より出でんとす。)

侍女等

(
すが
)
り留む。

 侍女四 輕々しい、若樣。

 公子  放せ。あれ見い。外道の口の間から、女の髮が

(
こぼ
)
れて落ちる。やあ、胸へ、乳へ、牙が喰入る。えゝ、油斷した。……骨も筋も

(

)
れような。あゝ、手を悶える、

(
もすそ
)


(
あふ
)
る。

 侍女六  

(
いゝえ
)
、若樣、私たち御殿の女は、

(
からだ
)
は綿よりも柔かです。

 侍女七  蓮の絲を

(
つか
)
ねましたやうですから、鰐の牙が、背筋と
鳩尾
(
みづおち
)
へ嚙合ひましても、薄紙一重透きます内は、血にも肉にも障りません。

 侍女三 入道も、一類も、色を漁るのでございます。
生命
(
いのち
)

頃刻
(
しばらく
)
助りませう。

 侍女四 其の

(
うち
)
に、其の中に。まあ、お靜まり遊ばして。

 公子  いや、俺の力は弱いもののためだ。
生命
(
いのち
)
に掛けて取返す。――

(
よろひ
)
を寄越せ。

侍女二人

(

)
と出で、引返して、二人して、一領の鎧を捧げ、
背後
(
うしろ
)
より

(
さつ
)
と肩に投掛く。

公子、上へ引いて、

(
うなじ
)
よりつらなりたる兜を頂く。

(
つの
)
ある毒龍、

(
すさま
)
じき

(
かしら
)
と成る。其の頭を頂く時に、侍女等、鎧の裾を

(
さば
)
く。外套の如く背より垂れて、紫の鱗、
金色
(
こんじき
)
の斑點聨り輝く。

公子、又袖を取つて肩よりして自ら

(
のど
)
に結ぶ、此の結びめ、左右一雙の毒龍の爪なり。迅速に
一縮
(
いつしゆく
)
す。立直るや否や、劍を拔いて、頭上に

(
かざ
)
し、ハタと窓外を

(
にら
)
む。

侍女六人、齋しく其の左右に折敷き、手に手に
匕首
(
あひくち
)
を拔聨れて、
晃々
(
きらきら
)
と敵に構ふ。

 公子  外道、
退
(

)
くな。

(
じつ
)
と視て、

(
つるぎ
)
の刃を下に引く)


(
とりこ
)
を離した。受取れ。

 侍女一 鎧をめしたばつかりで、
御威德
(
ごゐとく
)
を恐れて引きました。

 侍女二 長う太く、數百の鮫のかさなつて、
蜈蚣
(
むかで
)
のやうに見えたのか、あゝ、ちりぢりに、ちりぢりに。

 侍女三 
めだか
(
ヽヽヽ
)
のやうに遁げて行きます。

 公子  おゝ、丁度黑潮等が歸つて來た、歸つた。

 侍女四 
眞個
(
ほん
)
に、おつかひ歸りの姉さんが、とりこを抱取つて下すつた。

 公子  介抱してやれ。お前たちは出迎へ。

侍女三人づゝ、一方は

(
とびら
)
のうちへ。一方は廻廊に退場。

公子、眞中に、すつくと立ち、靜かに劍を納めて、
右手
(
めて
)
なる白珊瑚の椅子に

(

)
る。騎士五人廻廊まで登場。

 騎士一同  (槍を伏せて、

(
うづくま
)
り、同音に呼ぶ)
若樣。

 公子  おゝ、歸つたか。

 騎士一  以ての外な、今ほどは。

 公子  何でもない、

(
わたし
)
は無事だ、皆御苦勞だつたな。

 騎士一同  はッ。

 公子  途中まで出向つたらう、僧都は

(

)
うしたか。

 騎士一  あとの我ら
夥間
(
なかま
)


(
ひき
)
ゐて、入道鮫を追掛けて參りました。

 公子  よい相手だ、戰鬪は觀ものであらう。――皆は休むが可い。

 騎士  槍は鞘に納めますまい、此のまゝ御門を堅めまするわ。

 公子  

(

)
までにせずとも大事ない、休め。

騎士等、禮拜して退場。侍女一、登場。

 侍女一 御安心遊ばしまし、

(
きず
)
を受けましたほどでもございません。唯、

(
ひど
)
く驚きまして。

 公子  可愛相に、よく介抱して遣れ。

 侍女一 二人が附添つて居ります、(廻廊を見込む)あゝ、

(

)
う御廊下まで。(公子のさしづにより、姿見に錦の

(
おほひ
)
を掛け、

(
とびら
)


(

)
る。)

美女。先達の女房に、片手、手を曳かれて登場。姿を

(
しづか
)
に、深く
差俯向
(
さしうつむ
)
き、面影やゝやつれたれども、

(

)
まで
惡怯
(
わるび
)
れざる態度、

(
おもむろ
)
に廻廊を進みて、

(
ゆか
)
を上段に昇る。昇る時も、裾捌き靜なり。

侍女三人、灯籠
二個
(
ふたつ
)
づゝ二人、一つを一人、
五個
(
いつゝ
)
を提げて附添ひ出で、一人一人、廻廊の

(
ひさし
)
に架け、其のまゝ引返す。燈籠を侍女等の差置き果つるまでに、女房は、美女を其の上段、紅き枝珊瑚の椅子まで導く順にてありたし。女房、謹んで公子に禮して、美女に椅子を教ふ。

 女房  お掛け遊ばしまし。

美女、据置かるゝ

(
さま
)
に椅子に掛く。女房は其の

(
もすそ
)

跪居
(
ついゐ
)
る。

美女、うつむきたるまゝ
少時
(
しばし
)
、皆無言。やがて顏を上げて、正しく公子と見向ふ。瞳を据ゑて瞬きせず。――

(

)

 公子  よく見えた。(無造作に、座を立つて、
卓子
(
たくし
)

周圍
(
まはり
)
に近づき、手を取らんと

(

)


(
かひな
)
を伸ばす。美女、崩るゝが如くに椅子をはづれ、

(
ゆか
)
に伏す。)

 女房  何うなさいました、貴女、何うなさいました。

 美女  (聲細く、

(

)
れども判然)
はい、……覺悟しては來ましたけれど、餘りと言へば、
可恐
(
おそろし
)
うございますもの。

 女房  (心付く)おゝ、若樣。其の鎧をお解き遊ばせ。お驚きなさいますのも御尤もでございます。

 公子  解いても可い、(結び目に手を掛け、思慮す)が、解かんでも

(

)
からう。……最初に見た目は何處までも
附絡
(
つきまと
)
ふ。(美女に)
貴女
(
あなた
)
、おい、貴女、

(
これ
)
を恐れては
不可
(
いか
)
ん、

(
わたし
)
は此あるがために、強い。此あるがために力があり威がある。今も旣に此に因つて、めしつかふ女の、入道鮫に嚙まれたのを助けたのです。

 美女  (やゝ

(
おもて
)
を上ぐ)
お召使が鮫の口に、矢張り、そんな
可恐
(
おそろし
)
い處なんでございますか。

 公子  はゝはゝ、(笑ふ)貴女、敵のない國が、世界の何處にあるんですか。

(
あだ
)
は至る處に滿ちて居る――
唯一人
(
いちにん
)
の娘を捧ぐ、……海の

(
さち
)
を賜はれ――貴女の親は、旣に貴女の

(
あだ
)
なのではないか。唯其敵に勝てば可いのだ。私は、此の強さ、力、威あるがために勝つ。

(
ねや
)
に唯二人ある時でも私は此を脱ぐまいと思ふ。私の心は貴女を愛して、私の鎧は、敵から、

(
あだ
)
から、世界から貴女を守護する。弱いものの爲に強いんです。毒龍の鱗は

(
まと
)
ひ、爪は

(
いだ
)
き、角は枕しても

(
いさゝか
)
も貴女の身は傷けない。ともに此の鎧に包まるゝ内は、貴女は海の女王なんだ。
放縱
(
はうじう
)
に大膽に、
不羈
(
ふき
)

專横
(
せんわう
)
に、心のまゝにして差支へない。鱗に、爪に、角に、一絲掛けない
白身
(
はくしん
)


(
いだ
)
かれ包まれて、
渡津海
(
わたつみ
)
の廣さを散步しても、敢て世に憚る事はない。誰の目にも觸れない。人は

(
ゆびさし
)
をせん。時として見るものは、沖の其の影を、眞珠の光と見る。

(
ゆびさ
)
すものは、
喜見城
(
きけんじやう
)

幻景
(
まぼろし
)
に迷ふのです。

女の身として、優しいもの、

(
こび
)
あるもの、從ふものに慕はれて、

(
それ
)
が何の本懐です。私は鱗を以て、角を以て、爪を以て愛するんだ。……鎧は脱ぐまい、と思ふ。
從容
(
しようよう
)
として椅子に戾る。)

 美女  (起直り、會釋す)……父へ、海の幸をお授け下さいました、津波のお強さ、船を

(
くつがへ
)
して、此處へ、遠い海の中をお聨れなすつた、お力。道すがらは又お
使者
(
つかひ
)
で、金剛石の此の襟飾、寶玉の此の指環、(嬉しげに見ゆ)貴方の御威德はよく分りましたのでございます。

 公子  津波

(
しき
)
、家來どもが
些細
(
ささい
)
な事を。さあ、其處へお掛け。

女房、介抱して、美女、椅子に直る。

 公子  
頸飾
(
くびかざり
)
なんぞ、珠なんぞ。貴女の腰掛けて居る、其は珊瑚だ。

 美女  まあ、父に下さいました枝よりは、幾倍とも。

 公子  あれは草です。較ぶれば此處のは大樹だ。椅子の丈は

(
くが
)
の山よりも高い。

(

)
うして居る貴女の姿は、夕日影の峰に、雪の消殘つたやうであらう。少しく離れた私の兜の
龍頭
(
たつがしら
)
は、城の天守の棟に飾つた黃金の

(
しやち
)
ほどに見えようと思ふ。

 美女  あの、人の目に、それが、貴方?

 公子  
譬喩
(
たとへ
)
です、人間の目には何にも見えん。

 美女  あゝ、見えはいたしますまい。お恥かしい、人間の小さな心には、此處に、見ますれば私が

(
すそ
)
を曳きます

(
ゆか
)
も、
琅玕
(
らうかん
)
の一枚石。

(

)
うした御殿のある事は、夢にも知らないのでございますもの、情なう存じます。

 公子  

(
いや
)
、そんなに謙遜をするには當らん。

(
くが
)
には名山、
佳水
(
かすゐ
)
がある。峻嶽、大河がある。

 美女  でも、こんな御殿はないのです。

 公子  あるのを知らないのです。海底の
琅玕
(
らうかん
)
の宮殿に、寶藏の珠玉金銀が、虹に透いて見えるのに、
更科
(
さらしな
)
の秋の月、錦を染めた木曽の山々は劣りはしない。……峰には、其の
錦葉
(
もみぢ
)
を織る龍田姫がおいでなんだ。人間は知らんのか、知つても知らないふりをするのだらう。知らない振をして見ないんだらう。――

(
くが
)
は尊い、景色は得難い。今も、道中雙六をして遊ぶのに、五十三次の一枚繪さへ手許にはなかつたのだ。繪も貴い。

 美女  あんな事をおつしやつて、繪には活きたものは住んで居りませんではありませんか。

 公子  いや、
住居
(
すまひ
)
をして居る。色彩は皆活きて動く。けれども、人は知らないのだ。人は見ないのだ。見ても見ない振をして居るんだから、決して人間の凡てを貴いとは言はない、美いとは言はない。唯

(
くが
)
は貴い。けれども、我が海は、此の水は、
一畝
(
ひとうね
)
りの波を起して、其の陸を浸す事が出來るんだ。たゞ貴く、

(
うつくし
)
いものは亡びない。……中にも貴女は美しい。だから、陸の一浦を亡ぼして、こゝへ迎へ取つたのです。亡ぼす力のあるものが、亡びないものを迎へ入れて、且つ愛し且つ守護するのです。貴女は、喜ばねば
不可
(
いけな
)
い、嬉しがらなければならない、悲しんでは成りません。

 女房  貴女、おつしやる通りでございます。途中でも私が、お喜ばしい、おめでたい儀と申しました。決してお歎きなさいます事はありません。

 美女  

(
いゝえ
)
、歎きはいたしません。悲しみはいたしません。唯歎きますもの、悲しみますものに、私の、此の
容子
(
ようす
)
を見せて遣りたいと思ふのです。

 女房  人間の目には見えません。

 美女  
故郷
(
ふるさと
)
の人たちには。

 公子  見えるものか。

 美女  (やゝ意氣ぐむ)あの、私の親には。

 公子  貴女は見えると思ふのか。

 美女  

(

)
うして、活きて居りますもの。

 公子  

(
きつ
)
としたる音調)
無論、活きて居る。しかし、船から沈む時、此處へ來るに

(

)
う云ふ決心を

(

)
たのですか。

 美女  それは死ぬ事と思ひました。
故郷
(
ふるさと
)
の人も
皆然
(

)
う思つて、分けて親は歎き悲しみました。

 公子  貴女の親は悲しむ事は少しもなからう。はじめから其のつもりで、約束の財を得た。然も滿足だと云つた。其の代りに娘を波に沈めるのに、少しも歎くことはないではないか。

 美女  けれども、
父娘
(
おやこ
)
の情愛でございます。

 公子  勝手な情愛だね。人間の、そんな情愛は私には分らん。

(
かぶり
)


(

)
る)
が、まあ、情愛として置く、

(
それ
)
で。

 美女  父は涙にくれました。小船が波に放たれます時、渚の砂に、父の
倒伏
(
たふれふ
)
しました處は、あの、

(
ちやう
)
ど夕月に紫の枝珊瑚を抱きました處なのです。そして、

(
あと
)


(
なげき
)
は、前の喜びにくらべまして、幾十層倍だつたでございませう。

 公子  ぢや、其の枝珊瑚を波に返して、約束を戾せば

(

)
かつた。

 美女  

(
いゝえ
)
、ですが、

(

)
う、海の幸も、枝珊瑚も、金銀に代り、
家藏
(
いへくら
)
に代つて居たのでございます。

 公子  

(
よし
)
、其の金銀を散らし、施し、棄て、藏を

(
こぼ
)
ち、家を燒いて、もとの
破蓑
(
やれみの
)
一領、網一具の漁民と成つて、娘の
命乞
(
いのちごひ
)
をすれば可かつた。

 美女  それでも、約束の女を寄越せと、海坊主のやうな黑い人が、夜ごと夜ごと天井を覗き、屛風を見越し、壁襖に立つて、責めたり、催促をなさいます。今更、家藏に替へましたッて、と然う思つたのでございます。

 公子  貴女の父は、もとの貧民になり

(
さが
)
るから娘を許して下さい、と、其の海坊主に掛合つて見たのですか。見はしなからう。そして、貴女を船に送出す時、磯に倒れて悲しまうが、新しい白壁、

(
つや
)
ある

(
いらか
)
を、山際の月に照らさして、
夥多
(
あまた
)

奴婢
(
ぬひ
)
に取卷かせて、近頃呼入れた、若い妾に介抱されて居たではないのか。
何故
(
なぜ
)
、其が情愛なんです。

 美女  はい。……(恥ぢて
首低
(
うなだ
)
る。)

 公子  貴女を

(
せむ
)
るのではない。よし其が人間の情愛なれば情愛で可い、私とは何の係はりもないから。

(
ちつ
)
とも構はん。が、私の愛する、この宮殿にある貴女が、そんな
故郷
(
ふるさと
)
を思うて、歎いては
不可
(
いか
)
ん。悲しんでは不可んと云ふのです。

 美女  貴方。(向直る。聲に力を帶ぶ)私は始めから、決して歎いては居ないのです。父は悲しみました。浦人は
可哀
(
あはれ
)
がりました。ですが私は――約束に應じて寶を與へ、其の約束を責めて女を取る、――それが夢なれば、船に乘つても沈みはしまい。もし事實として、浪に引入るゝものがあれば、

(
それ
)


(
しやう
)
あるもの、形あるもの、云ふまでもありません、心あり魂あり、聲あるものに違ひない。其の上、威があり力があり、

(
さかえ
)
と光とあるものに違ひないと思ひました。ですから、人は然うして歎いても、私は小船で流されますのを、

(

)
まで、

(
あわて
)
騒ぎも、泣悲しみも、落著過ぎもしなかつたんです。もしか、船が沈まなければ無事なんです。生命はあるんですもの。

(
くつがへ
)
す手があれば、それは活きて居る手なんです。其の手に

(
すが
)
つて、海の中に活きられると思つたのです。

 公子  (聞きつゝ
莞爾
(
くわんじ
)
とす)
やあ、(女房に)……此の女は

(
えら
)
いぞ! はじめから歎いて居らん、慰め

(
すか
)
す要はない。私はしをらしい、あはれな花を
手活
(
ていけ
)
にしてながめようと思つた。違ふ! 此は樂く歌ふ鳥だ、面白い。それも愉快だ。おい、酒を寄越せ。

手を擧ぐ。忽ち

(
ドア
)
開けて、三人の侍女、二罎の酒と、
白金
(
はくきん
)
の皿に一對の
玉盞
(
たまのさかづき
)
を捧げて出づ。女房

(
さかづき
)
を取つて、公子と美女の前に置く。侍女退場す。女房酒を兩方に

(

)
ぐ。

 女房  めし上りまし。

 美女  (辭宜す)私は、

(
ちつ
)
とも。

 公子  (品よく盞を含みながら)貴女、少しも

(
から
)
うない。

 女房  貴女の
薄紅
(
うすべに
)
なは桃の露、あちらは菊花の雫です。お國では御存じありませんか。海には最上の
飲料
(
のみしろ
)
です。お氣が

(
すゞ
)
しくなります、召あがれ。

 美女  あの、桃の露、(見物席の方へ、半ば片袖を蔽うて、うつむき飲む)は。(と小さき呼吸す)何と云ふ涼しい、

(
さわ
)
やいだ――
蘇生
(
よみがへ
)
つたやうな氣がします。

 公子  蘇生つたのではないでせう。更に新しい
生命
(
いのち
)
を得たんだ。

 美女  嬉しい、嬉しい、嬉しい、貴方。私が

(

)
うして活きて居ますのを、見せて遣りたう存じます。

 公子  別に見せる要はありますまい。

 美女  でも、人は私が死んだと思つて居ります。

 公子  勝手に思はせて置いて可いではないか。

 美女  ですけれども、ですけれども。

 公子  其の情愛、とかで、貴女の親に見せたいのか。

 美女  えゝ、父をはじめ、浦のもの、それから

(
みんな
)
に知らせなければ殘念です。

 公子  
卓子
(
たくし
)
に胸を
凭出
(
よせいだ
)
歸りたいか、
故郷
(
こきやう
)
へ。

 美女  

(
いゝえ
)
、此の宮殿、此の寶玉、此の指環、此の酒、此の榮華、私は
故郷
(
こきやう
)
へなぞ歸りたくはないのです。

 公子  では、何が知らせたいのです。

 美女  だつて、貴方、人に知られないで活きて居るのは、活きて居るのぢやないんですもの。

 公子  (色はじめて鬱す)むゝ。

 美女  (微醉の瞼花やかに)誰も知らない命は、
生命
(
いのち
)
ではありません。此の寶玉も、此の指環も、人が見ないでは、

(
ちつ
)
とも
價値
(
ねうち
)
がないのです。

 公子  それは
不可
(
いか
)
ん。(卓子を輕く打つて立つ)貴女は
榮耀
(
ええう
)
が見せびらかしたいんだな。そりや不可ん。人は自己、自分で滿足をせねばならん。人に
價値
(
ねうち
)
をつけさせて、其に從ふべきものぢやない。(近寄る)人は自分で活きれば可い、
生命
(
いのち
)
を保てば可い。

(
しか
)
も愛するものとともに活きれば、少しも不足はなからうと思ふ。寶玉とても其の通り、手箱に此を藏すれば、寶玉其のものだけの價値を保つ。人に與ふる時、十倍の光を放つ。唯、人に見せびらかす時、其の艶は黑く成り、其の質は醜く成る。

 美女  えゝ、ですから……來るお庭にも敷詰めてありました、あの寶玉一つも、此の上お許し下さいますなら、

(
きつ
)
と慈善に

(
ほどこ
)
して參ります。

 公子  こゝに、用意の
寶藏
(
はうざう
)
がある。皆、貴女のものです。施すは可い。が、人知れずでなければ出來ない、貴女の名を

(
あらは
)
し、姿を見せては施すことはならないんです。

 美女  それでは何にもなりません。何の

(
かひ
)
もありません。

 公子  (色やゝ嶮し)隨分、勝手を云ふ。が、貴女の美しさに免じて許す。歌ふ鳥が囀るんだ、雲雀は星を

(
しの
)
ぐ。星は蹴落さない。聲が可愛らしいからなんです。(女房に)おい、注げ。

女房酌す。

 美女  

(
おく
)
れたる内輪な態度)
もうもう、決して、
虚飾
(
みえ
)

榮耀
(
ええう
)
を見せようと思ひません。あの、唯活きて居る事だけを知らせたう存じます。

 公子  (冷かに)止したが可からう。

 美女  

(
いゝえ
)
、唯今も申します通り、
故郷
(
くに
)
へ歸つて、其處に留まります氣は露ほどもないのです。
一寸
(
ちよつと
)
お許しを受けまして
生命
(
いのち
)
のあります事だけを。

公子、無言にして

(
かぶり
)


(

)
る。美女、縋るが如くす。

 美女  あの、お許しは下さいませんか。

(
ちつ
)
との
外出
(
そとで
)
もなりませんか。

 公子  

(
さわやか
)
に)

獄屋
(
ごくや
)
ではない、大自由、大自在な領分だ。歎くもの悲しむものは無論の事、
僅少
(
きんせう
)


(
うれひ
)
あり、不平あるものさへ一日も
一個
(
ひとり
)
たりとも國に置かない。が、貴女には旣に心を許して、祕藏の酒を飲ませた。海の

(
はて
)
、陸の

(
をはり
)
、思つて行かれない處はない。
故郷
(
ふるさと
)
如きは唯一飛、瞬きをする

(

)
に行かれる。

(
あはれ
)
む如く
染々
(
しみじみ
)
と顏を覗る)
が、氣の毒です。

 貴女に、其の

(
おごり
)
と、
虚飾
(
みえ
)
の心さへなかつたら、一生聞かなくとも済む、また聞かせたくない事だつた。貴女、これ。

(美女顏を上ぐ。其の肩に手を掛く)こゝに來た、貴女は

(

)
う人間ではない。

 美女  えゝ。(驚く。)

 公子  蛇身に成つた、美しい蛇に成つたんだ。

美女、瞳を

(
みは
)
る。

 公子  其の貴女の身に輝く、寶玉も、指環も、紅、紫の鱗の光と、人間の目に輝くのみです。

 美女  あれ。(椅子を落つ。侍女の膝にて、袖を見、背を見、手を見つゝ、わなゝき震ふ。雪の
指尖
(
ゆびさき
)
、思はず鬢を取つて

(

)
と立ちつゝ)


(
いゝえ
)
、否、否。何處も

(
じや
)
には成りません。

(

)
、一枚も鱗はない。

 公子  一枚も鱗はない、無論何處も蛇には成らない。貴女は美しい女です。けれども、人間の

(
まなこ
)
だ。人の見る目だ。故郷に姿を

(
あらは
)
す時、貴女の父、貴女の友、貴女の村、浦、貴女の全國の、貴女を見る目は、誰も殘らず大蛇と見る。ものを云ふ聲はたゞ、炎の舌が

(
ひらめ
)
く。

(

)
く息は煙を渦卷く。悲歎の涙は、硫黃を流して草を

(
たゞ
)
らす。長い袖は、

(
なまぐさ
)
い風を起して樹を枯らす。悶ゆる膚は鱗を鳴してのたうち

(
うね
)
る。
不圖
(
ふと
)
、肉身のものの目に、其の丈より長い黑髮の、三筋、
五筋
(
いつすぢ
)
、筋を透して、大蛇の背に黑く引くのを見る、それがなごりと思ふが可い。

 美女  (髮みだるゝまでかぶりを

(

)
る)
噓です、噓です。人を

(
のろ
)
つて、人を

(
のろ
)
つて、貴方こそ、其の毒蛇です。親のために沈んだ身が蛇體に成らう筈がない。

(

)
つて下さい。
故郷
(
くに
)
へ歸して下さい。親の、人の、友だちの目を借りて、尾のない鱗のない

(
わたし
)
の身が

(
ため
)
したい。遣つて下さい。故郷へ歸して下さい。

 公子  大自在の國だ。勝手に行くが可い、そして

(
ため
)
すが可からう。

 美女  何處に、
故郷
(
ふるさと
)
の浦は……何處に。

 女房  あれ
彼處
(
あすこ
)
に。(廻廊の燈籠を

(
ゆびさ
)
す。)

 美女  おゝ、(身震す)船の沈んだ浦が見える。
飜然
(
ひらり
)
と飛ぶ。……亂るゝ

(
くれなゐ
)
、炎の如く、トンと

(
ゆか
)
を下りるや、

(
さつ
)
と廻廊を突切る。途端に、五個の
燈籠齋
(
ひと
)
しく消ゆ。廻廊暗し。美女、其の暗中に消ゆ。舞臺の上段のみ、やゝ明く殘る。)

 公子  おい、其の姿見の

(
おほひ
)
を取れ。

(
くが
)
を見よう。

 女房  困つた御婦人です。しかしお可哀相なものでございます。(立つ。舞臺暗く成る。――やがて明く成る時、花やかに侍女皆あり。)

公子。椅子に

(

)
る。――其足許に、美女倒れ伏す――

(

)
く旣に歸り

(
きた
)
れる趣。髮すべて亂れ、

(
たもと
)
裂け帶崩る。

 公子  
玉盞
(
ぎょくさん
)
を含みつゝ悠然として)
故郷は

(

)
うでした。……何うした、私が云つた通だらう。貴女の父の

(
わか
)


(
めかけ
)
は、貴女の其の恐しい蛇の姿を見て氣絶した。貴女の父は、下男とともに、鐵砲を以つて其の蛇を狙つたではありませんか。
渠等
(
かれら
)
は第一、私を見てさへ蛇體だと思ふ。人間の目は然う云ふものだ。そんな處に用はあるまい。泣いて居ては
不可
(
いか
)
ん。

美女悲泣す。

 公子  
不可
(
いか
)
ん、おい、泣くのは不可ん。(眉を顰む。)

 女房  (背を

(
さす
)
る)
若樣は、
歎悲
(
かなし
)
むのがお

(
きらひ
)
です。御性急で

(

)
らつしやいますから、御機嫌に障ると惡い。こゝは、樂しむ處、歌ふ處、舞ふ處、喜び、遊ぶ處ですよ。

 美女  えゝ、貴女方は樂しいでせう、嬉しいでせう、お舞ひなさい、お唄ひなさい、

(
わたし
)
、私は
泣死
(
なきじに
)
に死ぬんです。

 公子  死ぬまで泣かれて堪るものか。あんな
故郷
(
くに
)
に何の未練がある。さあ、機嫌を直せ。こゝには悲哀のあることを許さんぞ。

 美女  お許しなくば、何うなりと。えゝ、
故郷
(
ふるさと
)
の事も、私の
身體
(
からだ
)
も、

(
みんな
)
、貴方の魔法です。

 公子  何處まで疑ふ。
忿怒
(
ふんぬ
)
の形相)
お前を蛇體と思ふのは、人間の目だと云ふに。俺の……魔……法。許さんぞ。女、悲しむものは殺す。

 美女  えゝ、えゝ、お殺しなさいまし。活きられる身體ではないのです。

 公子  (憤然として立つ)黑潮等は居らんか。此の女を處置しろ。

言下に、床板を跳ね、其穴より
黑潮
(
こくてう
)
騎士、大錨をかついで

(
あらは
)
る。騎士二三、續いて飛出づ。美女を引立て、一の騎士が

(
さかしま
)
に押立てたる錨に

(
いまし
)
む。錨の刃越に、黑髮の亂るゝを
搔摑
(
かいつか
)
んで、
押仰向
(
おしあをむ
)
かす。
長槍
(
ながやり
)
の刃、鋭く其の

(
あぎと
)
に臨む。

 女房  あゝ、若樣。

 公子  止めるのか。

 女房  お

(
ゆか
)
が血に汚れはいたしませんか。

 公子  美しい女だ。花を挘るも同じ事よ、
花片
(
はなびら
)


(
しべ
)
と、ばらばらに分れるばかりだ。あとは手箱に藏つて置かう。――殺せ。(騎士、槍を取直す。)

 美女  貴方、こんな惡魚の牙は
可厭
(
いや
)
です。
御卑怯
(
おひけふ
)
な。見て居ないで、御自分でお殺しなさいまし。(公子、頷き、無言にてつかつかと寄り、
猶豫
(
ためら
)
はず

(
つるぎ
)
を拔き、颯と目に

(
かざ
)
し、

(

)
と引いて斜に構ふ。

(
おもて
)
を見合す。)

 あゝ、貴方。私を斬る、私を殺す、其の、顏のお綺麗さ、氣高さ、美しさ、目の

(
すゞ
)
しさ、眉の勇ましさ。はじめて見ました、位の高さ、品の可さ。

(

)
う、故郷も何も忘れました。早く殺して。あゝ、嬉しい。
莞爾
(
につこり
)
する。)

 公子  解け。

騎士等、美女を助けて、片隅に
退
(

)
く。公子、

(
つるぎ
)


(
ひつさ
)
げたるまゝ、

 公子  
此方
(
こちら
)
へおいで。(美女、手を曳かる。ともに

(
ゆか
)
に上る。公子劍を輕く取る。)
終生を

(
ちか
)
はう。手を出せ。(手首を取つて刃を

(
かひな
)
に引く、一線の紅血、
玉盞
(
ぎよくさん
)


(
したゝ
)
る。公子返す
切尖
(
きつさき
)
に自から腕を引く、紫の血、玉盞に滴る。)
飲め、吞まう。



(
さかづき
)
をかはして、仰いで飲む。廻廊の燈籠一齋に

(
とも
)
り輝く。

 公子  あれ見い、血を取かはして、飲んだと思ふと、お前の
故郷
(
くに
)
の、浦の磯に、岩に、紫と

(
あか
)
の花が咲いた。それとも、星か。(一同打見る。)

(
あれ
)
は何だ。

 美女  見覺えました花ですが、私はもう忘れました。

 公子  (書を見つゝ)博士、博士。

 博士  (登場)……お召。

 公子  (指す)あの花は何ですか。(書を渡さむとす。)

 博士  存じて居ります。
竜膽
(
りんだう
)

撫子
(
とこなつ
)
でございます。
新夫人
(
にひおくさま
)
の、お心が通ひまして、折からの霜に、
一際
(
ひときは
)
色が冴えました。若樣と奥樣の血の

(
おもかげ
)
でございます。

 公子  人間に

(
それ
)
が分るか。

 博士  心ないものには知れますまい。詩人、畫家が、しかし認めますでございませう。

 公子  お前、私の惡意ある
呪誼
(
のろひ
)
でないのが知れたらう。

 美女  (うなだる)お見棄なう、幾久しく。

 一同  ――萬歳を申上げます。――

 公子  皆、休息をなさい。(一同退場。)

公子、美女と手を

(
たづさ
)
へて一步す。美しき花降る。二步す、フト立停まる。三步を動かす時、音樂聞ゆ。

 美女  
一步
(
ひとあし
)
に花が降り、
二步
(
ふたあし
)
には微妙の

(
かをり
)
、いま三あしめに、ひとりでに、樂しい音樂の聞えます。此處は極樂でございますか。

 公子  はゝゝ、そんな處と一所にされて堪るものか。おい、女の行く極樂に男は居らんぞ。(鎧の結目を解きかけて、音樂につれて

(
おもむ
)
ろに、やゝ、なゝめに立ちつゝ、其の龍の爪を美女の背にかく。雪の振袖、紫の鱗の端に

(
ほのか
)
に見ゆ)
男の行く極樂に女は居ない。

――幕――

泉鏡花記念館