島鵆月白浪 全五幕の序幕

しまちどりつきのしらなみ

 

   口上

若葉の闇に奥山から西と東へ別れたる千太せんたは親の世になきを白川宿じゆくで伯父に逢ひきいなみだに袖濡す弁天お照が母親の無心に困る百圓を恵む替りに貰ひし指輪それを證拠に抜きさしのならぬあきら言掛いひがかれど瓦解ぐわかい以前に強談で人にしられし浪士ゆゑ余義なく其場は物別れ さて島藏は霧深き旅路に幾夜明石潟三歳みとせぶりにて磯右衛門お濱にめぐり大津絵の心の鬼もたちまち発起ほつきなせしはせがれの片輪悪の報ひは早手の難船 憂事うきこと積る牛込うしごめに今は堅気の酒屋店みせ醤油を買ひし小娘からからき浮世に清兵衛が難義を知つて百圓を貢いで帰る我家のかど然も九月の約束に尋ねて来たる松島を連出す九段の招魂社せうこんしや真身も及ばぬ明石が意見に小蔭に忍ぶ野州徳やしうとく迄改心なして浮雲の空も晴行はれゆく望月もちづき助力じよりきに千圓金整ひとがを自訴なす大切おほぎり迄 夏より冬へ続き狂言

 

 序幕 白川宿旅籠屋の場 同明神峠山越の場

一 旅藝者弁天お照     半四郎

一 旅籠屋の女房おみち   しげ松

一 同下女おしの      此 糸

一 同おのぶ        あやめ

一 百姓東右衛門      鶴 藏

一 奥州同者陸兵衛     猿十郎

一 同奥藏         幸 升

一 人力車下総松      升 藏

一 旅役者市川邊丹次    小半治

一 同岩井鈍四郎      しやこ六

一 望月の下男宅助  

一 士族望月輝       團十郎

一 銀行手代濱崎千右衛門  

  実は松島千太      左團次

一 お照の母ねぢ金お市   松 助

一 人力車野州徳      同

一 辻講師古川弁山     門 蔵

一 探索方瀬栗菊藏     竹治郎

一 同鳥形幸助       尾登五郎

一 旅籠屋の若者太助    橘 治

一 同半次         八平治

一 同佐七         利喜松         

本舞台四間通しけんとほし家躰やたい上手かみて貳間にけん常足つねあし貳重にぢう揚縁付あげえんつき下手一間しもていつけん落間おちま、向ふ奥州屋おうしうやいふ紺の暖簾口のれんぐち上手かみてまゐら戸の戸棚、落間の折廻し、板羽目いたばめかみかた戸袋、石灰塗しつくいぬりにて御泊宿おんとまりやど白川宿奥州屋と記し有。見附みつきの柱、御泊宿奥州屋と書し行燈あんどんを掛、軒口に一新講のはたたてしもかた冠木門かぶきもん見越しの松、すべて奥州街道白川宿旅籠屋のてい見世先みせさき床几しやうぎへ、邊丹次立役へたんじ・たちやく鈍四郎女形どんしろう・おんながた旅役者の拵へにて腰をかけ、太助、半次、宿屋の若い者着流し駒下駄にて立掛り、貳重におしの、おのぶ、宿屋下女の拵へ、燭台の掃除をして居るこの見得みえ米山甚九よねやまじんくにて幕明く。

 

 (太助) モシ明神みやうじん夜芝居よしばゐは大層這入るさうでござます

 (邊丹次) 仕合しあはせと初日から一ぱいで厶り升

 (半次) 是りやア全く花形のお前さん方が出るせへだ

 (鈍四郎) 有難い事に何所どこへ行ても這入らない事はない

 (邊) こゝは二人共東京でたゝき込だ腕だから

 (おしの) ヲヤヲヤお前さん方は東京で厶り升か

 (おのぶ) わたし達は田舎廻りの役者しゆかと思ひました

 (邊) 白川は開けたとこかねはなしに聞て居たが私等わたしらを田舎役者と見る様では開けないね

 (鈍) 大方舞台を見なさるまいが名を聞たばかりでも東京役者か田舎役者か知れさうな物だ

 (太) まだ番付を見なかつたが額の出張でばつたお前さんは何といふ名で厶り升

 (邊) 只お前さんでいゝ事を額が出張て居丈ゐるたけ余計な事だ

 (太) ツイ目についたから云ましたがお前さんは何と云升

 (邊) 額の出張たわたしかへ

 (しの) 人の事よりお前さんが出張つたといふくせに

 (邊) 浮ツかり是は巻込まれたのだわたしは市川左團次の弟子で市川邊丹次へたんじ云升いひます

 (太) 成程名は体を顕すとへたん次はいゝ名だ

 (半) そちらの色の黒いお方は

 (鈍) 私は岩井半四郎の弟子で岩井鈍四郎と云升

 (半) 誰がつけたか是も能名だ半四郎の弟子だと云てはそれぢやアお前は

 (鈍) アイ娘形で厶り升

 (半) 貉形むじながたとは珍らしひ名だがハア顔が貉に似て居るからか

 (鈍) イエ貉ではない娘形さ

 (太) 貉と云のも無理はないどうでお前方は旅稼たびかせぎ獣物けだものに違ひない

 (しの) さうして毎晩狂言が替るさうで厶り升が

 (のぶ) 今夜は何を被成なさい升

 (邊) 御贔屓ごひゐき様からお好みで忠臣藏の五六七と三幕みまく続けて致し升

 (鈍) 邊丹次さんが勘平で私がおかるを致し升

 (太) 夫ぢやアしゝが出升ね

 (邊) ハイ五段目へ出升

 (半) 狸も出升か

 (鈍) 狸の出るのは六段目さ

 (太) 豚も出升か

 (邊) 何で豚が出る物か

 (太) う云お前が東京の奥山の豚に能く顔が似て居るからさ

 (しの) 夫ではお輕勘平は

 (のぶ) 豚と貉で厶り升ね

 (太) りやア犬のカメ芝居や猿芝居よりしだらう

 (邊) あんまり馬鹿に仕なさんな

 (鈍) 是でも役者一疋だよ

 (太) イヤ獣物けだものと云はれたとて腹を立事たつことはない左團次だの半四郎だのと虎の威をかる狐だもの

 (両人) 何狐とは

 (太) 東京役者と云被成いひなさるのは人を化し被成なさるからさ

 (邊) こいつア旅と知られたか

 (鈍) 尻尾を出さない其内に

 (邊) 早く行てシヤギらせやう

 (太) 狸囃子をかへ

 (鈍) モウいい加減にしておくれ

 (邊) ドレ楽屋へ行と仕様か  ト米山甚九よねやまぢんくで両人下手へ這入る

 (太) 彼等あいつは旅役者で下ツ腹に毛のない奴だ

 (半) しかし二人でいぶつけとうとう尻尾を出さしてつた

 (しの) どんな事をする物だか昼だと行て見られるけれど

 (のぶ) 暮方から忙しひので夜芝居よしばゐでは行れない

 (太) 今年春の博覧会から日光参り伊勢参り大層田舎が出たではないか

 (半) それと云のも近年は何所どこの田舎も豊年で宿屋も同者どうしやが一番多ひ

 (太) 噂をすれば影とやら同者が一群ひとむれやつて来た  ト米山甚九に成り向ふより東右衛門ふけたる田舎同者脚半きやはん草鞋わらじ二枚つぎござ引掛ひつかけ蝙蝠傘をもち陸兵衛ろくべゑ奥蔵同じ拵へにて出て来り花道にて

 (東右衛門) 作右衛門が博覧会の帰りがけに泊ツた時大層手当がかつたといふ奥州屋と云は向ふのうち

 (陸兵衛) 旅籠代はたごだいは世間並二十五銭取るさうだが食物くひものよくて夜具が能く

 (奥藏) 其上そのうへ団扇を一本づつ土産に呉ると云事だからほかの宿より余ツ程徳だ

 (東) 少しとまりにやア早ひけれど悪ひ所へ泊るより奥州屋へ泊らう

 (陸) 随分今日は草臥たから早泊はやどまりようござらう(奥) 綺麗な内に湯へ這入はいりゆつくり一ぱい遣りませう  ト甚九で本舞台へ来る 太助半次立掛り

 (太) あなた方はお泊で厶り升か

 (半) 一新講の奥州屋で厶り升る

 (東右) 在所の者の指図によりお前の所へ泊る積りだ

 (両人) 夫は有難ふ厶り升る

 (半) サア是へ掛被成かけなされませ

 (しの) お荷物やお笠はこちらへお出し被成ませ  ト此内このうち捨ぜりふにて三人腰をかけ半次すゝぎの盥を持て来るおしのおのぶは荷物笠を片付る三人は草鞋をとき足を洗ふ

 (のぶ) おかみさんお泊が厶り升  ト奥にて

 (おみち) アイアイ  ト右合方みぎあひかたにて奥よりおみち宿屋女房の拵へにて出て来り  是は是はどなた様もお早うおつきで厶り升

 (東右) 先達せんだつて村の者が博覧会の帰りがけお前のとことまつた所丁寧にしてくれられたから少し早くも泊れといふので

 (陸) モフ一宿ひとしゆくいかれるのを

 (奥) お前のとこへ泊りました

 (みち) 夫は御贔屓に被成なされて下さいまして有難ふ厶り升る ○{=思い入れを示す符号} あなた方はどちらでいらつしやい升

 (東右) 私等わたしらは奥州松島在で

 (みち) ヘイ松島のお方で厶り升か此三月から引続き博覧会を御見物に多くのおとまりが厶りましたが作右衛門様の御近所で厶り升か

 (東右) ヲゝその作右衛門の隣で厶り升

 (みち) 左様で厶りましたか  ト此内足を洗ひうへへ上る

 (のぶ) お茶をお上り被成なされませ  ト三人へ茶を出す半次は脚半きゃはん草鞋わらじを片付る

 (陸) コレ若イしゆ脚半の間違まちがはぬ様に仕て下さい

 (奥) 幸便ついでに草鞋も頼み升ぞ

 (半) すぐに札を付升つけますからけし間違まちがへは致しませぬ

 (しの) お湯が宜しふ厶り升がすぐにお這入被成はいりなされ升か

 (のぶ) 御膳を先へ召上り升か

 (東右) どうで一杯やり升から湯へ先へ

 (三人) 這入ませう

 (みち) 夫ではお湯へ御案内申しや

 (女両人) かしこまりました

 (東右) ドレ草臥くたびれを休め様か

 (女両人) サア入らつしやいまし ト米山甚九に成り東右衛門ほか両人おしの荷物をもちおのぶ付て暖簾口のれんぐちへ這入る

 (みち) 脚半へ直に札をつけなよ

 (太) 何札を付るには及びませぬ三足共汚ない脚半だ

 (半) 是よりきたない脚半はないから間違まちがへた方が徳用だ

 (みち} 又そんな事をいふか堅いが名代なだいでお客様の絶間のない此方こつちうち仮令たとひ 脚半一足でも間違が有ては家のきずく気を付て置てりや

 (両人) かしこまりました  ト右の合方あひかたにて下手しもてより幸助菊藏羽織まち高袴たかばかま半靴はんぐつ探索方たんさくがたこしらへにて出て来り

 (菊藏) おかみさん此間このあいだ

 (みち)是は瀬栗せぐりさんに鳥方とりかたさん何ぞお調しらべで厶り升か

 (幸助) ちつとお前にきゝたい事がある

(みち) 旅人りよじんの事で厶り升か  ト両人揚縁あげえんへ腰をかけ

 (菊) 十日程お前の所に天気のいゝ逗留とうりうして土地の藝者の弁天お照を

 (幸) 毎日車へ相乗あいのりこゝら近所を遊で歩行あるく東京の客は何者だ

 (みち) アノお方は東京の銀行の御手代衆おてだいしゆだと申事まうすことで厶り升

 (菊) 宿帳をお見セなさい

 (みち) ハイ畏ました  ○ト宿帳をだし繰出し見て 是に名前が厶り升 ト菊藏見て

 (菊) 東京日本橋区南茅場町みなみかやばちやう五十番地濱崎千右衛門はまざきせんゑもん

 (幸) りやアお前の所で馴染の客かへ

 (みち) イヱお馴染では厶りませぬ

 (太) アノお客は人力車の野州徳やしうとくが連て参つた

 (半) 初めてのお客で厶り升

 (菊) 一躰いつたい何所どこへ行く旅人りよじんだね

 (みち) 松島が生れ古郷で親を尋ねて参るとやら申事で厶り升

 (菊) 遊山旅か知らねへが十日間の長逗留名所古跡を見るでもなく

 (幸) 藝者を連て遊び歩行あるき荒ツぽい遣ひ振だから此間から目を付て居たのだ

 (みち) 仰有おつしやれば銀行の御手代衆にはそぐはぬ物言ひ漢語交まじりの其内に勇みなことばが厶り升

 (太) めったな事はいはれないが

 (半) どろ衆かも知れませぬ

 (菊) 何ぞ怪しい事が有たらそつと知らしてお呉んなせへ

 (みち) 畏ました

 (菊) けつして迷惑はかけねへから隠しだてを仕なさんな

 (半) あとで露顯する日には叱られた上何がしか罰金を取られるぜ

 (みち) 決て隠しは

 (三人) 致しませぬ

 (菊) それぢやアおかみさん頼みましたよ

 (みち) かしこまりました

 (幸) ドレ料理茶屋を

 (両人) 探ツて来やう  ト右の合方にて下手へ這入る

 (太) どうも怪しひと思つたが探索方の目に留り

 (半) 内々調しらべなつてゐるとは誰の目も違はぬ物だ  ト向ふより千右衛門麦藁のシヤツポ単羽織ひとへばおり袷着流あはせきながし駒下駄お照縮緬の着付宿場藝者のこしらへにて出て来りあとより下総松しもふさまつ半天半股引はんもゝひき人力車夫の拵へ肩ヘケツトをかけ二人乗の車を引出て来り

 (千右衛門) 車も一日乗続けはかへつて腰が痛くなり歩行あるく方が余ツ程楽だ

 (お照) わたしきうくつあしたあいそりやアわたしが大きいから窮屈なせへで厶りませう

 (松) 明日あした相乗あいのりでなく一人乗いちにんのりで一人づゝ乗被成のりなされませ

 (千) 程の悪ひ事を云ぢやアねへか東京にも二人とない弁天お照と名の高ひ白川一の藝者衆と相乗が仕たいばかりに腰のいてへを我慢するのだ

 (照) エゝモ憎らしひそんな事を云つて  ト右の騒ぎ唄にて三人舞台へ来り

 (太) 是は旦那お帰り被成ませ

 (千) 車を下りて歩行あるいたので思ひのほか遅く成た

 (半) イヱお遅ひ事は厶りませぬ

 (みち) 今日こんにち何地どちらへお出被成いでなされました

 (千) 何所どこいふあてはなく松公が案内者で方々名所を見て歩行あるき今夜は温泉へ一泊しやうと思ツたが何所へとまつてもこつち位泊り心の能内いゝうちはねへ

 (みち) それは有難ふ厶り升る

 (松) さつき左様仰有りましたが夜芝居よしばゐへおいで被成升か

 (千) どんな役者が出て居るかはなしの種に行て見やう

 (照) 上手な役者が居るといふから一幕見たう厶り升ね

 (太) そりやアおよし被成ませ中々以てあなた方の御覧被成なさる芝居ぢやア厶りませぬ

 (半) 先刻さつきも見世へ参りましたが市川へたん次に岩井鈍四郎下手らしひ役者で厶り升

 (千) イヤ生中なまなかな役者より妙な方が可笑をかしくつて

 (照) 私も行て見たいから松さん晩に来ておくれ

 (松) 畏まして厶り升 ○ 今日こんにちは旦那の御贔屓の徳が用事が厶りまして替りに私があがりましたがさぞお乗憎くふ厶りましたらう

 (千) 少しも乗憎ひ事はない

 (松) 今晩芝居へ入らつしやい升には徳がお供を致し升

 (千) お前も一緒に来て呉んねへ

 (松) ヘイ跡押あとおしあがり升

 (千) 夫迄それまで行て一ぺいやんねヘ  ト紙入から小札こさつを出して遣る

 (松) 是は有難ふ厶り升 ○ お照さん旦那へ宜敷よろしく  ト辞義をする

 (太) 松公しつかり呑るな

 (松) イエ晩の仕事が厶り升から一合やつて置升  ト下手へ車を引て這入る

 (みち) 旦那お湯をお召被成めしなさいませんか

 (千) 今温泉へ這入て来たから今夜は湯はよしに仕ませう

 (太) 左様なれば

 (両人) お二階へ

 (千) イヤこゝで一ぷくやりませう  ト千右衛門お照床几しやうぎへ腰を掛る 又元の米山甚九に成り向ふよりお市色気のある婆アの拵へ草履ざうりがけ 弁山半合羽草履カバンをさげ 両人共蝙蝠傘を杖に突出て来り花道にて

 (弁山) おつかア奥州屋と云は向ふだぜ

 (お市) 爰の宿屋に逗留して居る銀行の手代衆てだいしゆに毎日呼れて出て居るさうだ

 (弁) 何にしろ銀行の手代と云やア金が有らう

 (市) 無心をいふにやアいゝ幸先さいさき

 (弁) おつかアお照は向ふの床几に居るゼ

 (市) ヲゝ違へねへあれは娘だ ○ ト右鳴物にて両人舞台へ来り お照此間は

 (照) ヲヤおつかさんよくいでだね

 (市) あんまりよくねへのさ五十里有る白川迄態々わざわざ来るからはどうでろくなコトではねへ

 (弁) お照さん久敷ひさしくお目に掛りませぬ

 (照) 誰かと思つたら弁山べんざんさんお前一所においでかへ

 (弁) 席の都合で此間から遊んで居り升所故とこゆゑ座舗ざしきでも出来様かとおつかさんの供をしてこちらへ一所に参りました

 (太) まア是へお掛被成ませ ト床几を出す

 (市) 是は有難ふムり升  ト捨ぜりふにてお市弁山床几へ腰を掛る 千右衛門は脇を向てたばこをのみゐる

 (照) おつかさん何の用で出ておいでだへ

 (市) 用と云のは外でもねへ欝陶しいと云だらうが又金を借に来たのだ

 (照) 此間郵便でもたしてあげた十圓はお前の方へ届いたらうね

 (市) そりやア郵便だから三日目に間違なくとゞいたが此節このせつ諸色しよしきが高いので今のゑびすの十圓は大黒銀だいこくぎんの有た時分の壱両にか成らないからすぐになく成て仕舞しまふはな

 (照) さうしてお前内うちへおいで

 (市) 今泉屋へいつたらば御客様で此方こつちの内に出て居ると聞たから

 (弁) お前を尋ねてこゝへ来たのだ

 (みち) モシお照さん何の御用か知らないが爰は人が来升から二階へおいで被成なさいましな

 (照) ハイ有難ふ厶り升  トお市弁山思入おもひいれ有て

 (市) どうで今夜は此宿このしゆくへ泊らうと思つた所爰のお内が奇麗だから爰へとまると仕様かね

 (弁) わたしも然う思つて居た所だ

 (太) 左様ならおとまり被成升なされます

 (市) 今夜はお世話に成ませう

 (太) 旦那あなたもお二階へ入らつしやいませ

 (千) くれると芝居へ出掛るから今の内一杯やらうか

 (照) お相手を致しませう  トお市お照の袖を引

 (市) お照あなたは  ト思入おもひいれ

 (照) アイ銀行へお勤め被成る濱崎様と仰有るお方で御贔屓に成升から一寸お礼を申ておくれ

 (市) 是はお初にお目に掛り升が不束ふつゝかな娘をば御贔屓に被成て下さいまして有難ふ厶り升

 (千) 此子このこはなしに聞て居たおつかさんはお前かへ幾つの時の子かしらぬが大層お前は若イね

 (市) 是は私が十八の時に産だ子で厶り升

 (千) それぢやアお前のほんの子かへ

 (太) ほんの子ならばとんびが鷹だ

 (市) 何だとへ

 (太) イヤ兎も角も旦那を初め

 (半) お二階へ入らつしやいまし

 (千) 夫ぢやアお照

 (照) おつかさんも御一所に

 (市) ドレ御厄介に

 (市弁) 成ませう

 (半) サアいらつしやいまし  ト宿場騒ぎに成り千右衛門お照お市弁山半次つい暖簾口のれんぐちへ這入る 太助傘を片付る

 (太) モシお内儀かみさん今のお袋だと云人は一筋縄ではいけませんね

 (みち) 中々喰へそうもない婆アさんだが一所に来たのは何だらう

 (太) 何でも講釈師かはなだが私の監定ではあの婆アさんの色だと思ひ升

 (みち) 成程貴様こなたの云通り大方そんな事だらうよ

 (太) それはそうと探索方たんさくがたの頼んで往つた濱崎様

 (みち) どうも様子がおかしいが

 (太) 證拠の上らぬ其内に

 (みち) 早くたつて ○ ト立上るを道具がはりの知らせ 下さればいゝが  ト宿場騒ぎになり心にかゝる思入宜敷 道具廻る

 

本舞台一面の平舞台、向ふ上手床の間、下手秋田蕗の襖上下かみしも折廻し、障子しもかた階子はしごあがり口 すべ旅籠屋はたごや二階のていこゝにお市弁山下手にお照住居すまゐ宿場騒ぎの合方あひかたにて道具留る

 (市) コレお照今度が無心の云仕舞いひじまひだが百圓都合して呉んねへな

 (照) 此間郵便で態々わさわざもたしてあげたのを何にお前仕なすつたのだ

 (市) 何にもしねへ朝夕の暮しに皆んな遣ツたが子に親が世話に成るのは当り前とは云乍いひながら度々云たびたびいふのも気の毒ゆゑ今度上野の山下へ大道講釈の席を拵へ弁山さんに叩かしておいらが木戸から中売なかうり按摩三人前も稼ぐ積りだ

 (弁) 不図ふとした事からおつかアと今では夫婦の様に成り共稼ともかせぎかせいで居れど人の持て居る場所へ出ては長ひぜにとれないが自前稼かせぎに骨ツきり昼夜を掛て叩ひたら屹度きつとまうかるに違ひない其所そこで資本を拵へて山下もよりへ席をたて生涯楽にする積りだ

 (市) 弁山さんと共稼にかせいで苦労は掛ないから是を無心の云納めと思つて百圓貸て呉んな

 (照) りやアあんまり無理ぢやアないか

 (市) 何無理とは  ト合方あひかたに成り  (照) 是が東京の新橋か柳橋に出て居たら頼んで借るお客もあれど通一遍とほりいつぺんの奥州海道土地の人でも曖昧な事を仕なけりや一圓でもくれるお客は有りやア仕ない十圓お前に上るのも並大躰なみたいていな事ぢやアないお気の毒だがおつかさん所詮都合が出来ないから堪忍してお呉んなさい

 (市) イや堪忍する事は出来ねへ忘れもしめへ六ツの時手前てめへの親父に死失ごねられて跡は女の手一ツゆゑ困る中で藝事迄仕込しこんおれそだつたのはいふ御難の其時に役に立様爲斗たてやうためばかり藝者で金が出来ねへなら娼妓しやうぎに成て一年斗りかせいで呉りやア出来る金だ

 (弁) 旅の藝者は曖昧な皆娼法しやうはうをする中で真じ目にするのは大きな損その曖昧をすると思つておつかさんの頼みをきゝ娼妓に成て呉んなせへ夫共それともそれが出来ないならお前を贔屓に逗留して居るアノ銀行の旦那殿へ無心をいふたら出来やう

 (照) お金は持て居被成ゐなさるがわづか十日ばかりのお馴染そんな事がいはれる物かね

 (市) 客へ無心がいはれずば娼妓に成てこせへてくれ

 (弁) お前がウンと云被成いひなされば宇都宮の貸座敷に私の懇意の者が有れば其所そこはなしむけたらばすぐ百圓前借ぜんしやくで右から左へ出来る金

 (市) いやでも応でも手前てめへからだで百圓こせへて貰ひたい

 (照) 是が初めての事ならば丸々出来ずば半分でも都合して上様あげやうけれど今度は貸て上られない路用位は上様あげやうから明日あした帰ツて下さんせ

 (市) 路用位な端したがねを貰つて何で帰る物だ親の為に娼妓になるのは世間に幾らも有る事だいやと云やアこつちも意地づく何でもかでも娼妓にして百圓取らにやア帰らねへ

 (弁) お前も嫌ではあらふけれど実は負債が多いので裁判所や勧解かんかい出訴しゆつそされて毎日出るが其所そこはでもだが席上で多弁付しやべりつけてる弁山ゆゑ舌に任して云訳すれど借た物なら返せといふ此一言このいちごんに限りでも出さうと思ふおほ困難お前が百圓貸てくれねばたつた一人のお袋が路頭に迷はにやならないからうんと云て娼妓になり金を貸て呉んなせヘ  トお照思入有て

 (照) 折角のお頼みだが今日ばかりはおつかさんおことわり申升よ

 (市) 何断るとは

 (照) お前が真事ほんとに身を持て席を出すと云事なら出来ないながらも都合してあげまい物でもないけれど弁山さんと二人して今日は芝居翌日あすは涼み栄曜えようつかふ金の為苦界くがいへ此身をしづめるのはわたしいやで厶り升

 (市) 嫌とは何の事だ云して置ばいゝかと思つて口巾くちはゞツてへ事を云やアがるな弁山さんを亭主にもつたも手前てめへ仕送しおくりが足りねへからだ五圓や十圓の端した金で芝居や花見にゆかれる物かよく考へて見やアがれ

 (弁) わたしだつて十九つゞ二十はたちの若イ者といふではなし互ひに天窓あたまはげた同士うして夫婦に成つたのも云はゞ茶呑友達だ中々お前が送た金で芝居や納涼すゞみに行様なそんなういた中ぢやアない

 (市) くふに困ツて借に来たがどうでも金は出来ねへか

 (照) お気の毒だが今度斗りは

 (弁) 夫ぢやア出来ないといひなさるのか

 (照) どうぞ堪忍して下さいまし  トお市思入おもひいれ有て

 (市) 金が出来にやア東京へ帰る事の出来ねへ体身からだでも投て死なにやア成らねへとても死ぬならこゝで死んでお照に恥をかゝせてらう  トお市手拭を首へまきおのが手に引張ひつぱりハツトいふ弁山是をとめ

 (弁) コレおつかアあぶねへ何をるのだ

 (市) 首を締てらア死ぬのだ

 (弁) 死ぬのは何時でも死なれるから短気な事を仕なさんな

 (市) イゝヤ留ずに放して下せへ

 (弁) 是が留ずに居られる物か  トお市首を〆しめやうとするを弁山とめる事宜敷

 (照) 何でお前は其様に早まつた事を仕なさんす

 (市) 誰しも惜ひ命だけれど死ねと覚期かくごきめたのは手前てめへおれを殺すのだ

 (照) 私がお前を殺すとは

 (市) 頼みを聞てくれねへからこんな不孝な奴はねへ  ト大きな声をする

 (弁) 是さ是さ大きな声を仕なさんな

 (市) アゝ親殺しだ親殺しだ  トお市わざとどたばた騒ぐ是を弁山留るお照も留て

 (照) コレかゝさん何が恨みで此様に私に恥をかゝせ被成なさんす

 (市) 金を貸て呉ねへからアゝ親殺しだ親殺しだ  ト奥よりおみち太助半次出てお市を留

 (みち) アモシお袋様まアまアお静に被成なされまセ

 (太) 親殺し親殺しと大きな声を被成なさい升が

 (半} 御廻おまはり様のお耳へでも這入はいつた日には大騒動

 (市) イヤイヤ何でもかでも爰で死ぬのだ留て下さるな

 (みち) 隣近所へ聞へましてもうち外聞ぐわいぶんに成升から

 (太) お静に被成なすつ

 (三人) 下さりませ

 (市) イヤイヤ何でも死ぬのだ死ぬのだ

 (みち) そんなに死ぬ死ぬと仰有い升が自分で首が〆られ升か

 (市) エ

 (太) 締られるならおのが手に

 (半) 首を締て御覧じませ

 (市) ムゝ  ト詰る 弁山思入有て

 (弁) コレコレおつかア自分で死なれぬ事もないが爰のうちへ厄介を掛るのが気の毒だ死ぬのは止めにしたが

 (市) ヲゝうだ然うだ娘に恥はかゝせたいがお内儀かみさんへすまないから爰で死ぬのは止めにして是から宇都宮へ連て往つて娼妓にせう

 (弁) それが何より上策だ

(市) サアおれ一所いつしよにあゆびやアがれ  トお市お照の手をとり引立ひつたてる此時奥より以前の千右衛門出てお市を留

 (千) 様子は奥でくはしく聞た立騒がずと静にしねへ

 (市) 貴君あなたがお留被成なさるなら無理にとは申升まうしませぬが親をないがしろにし升から

 (千) 定めて腹もたとふけれどわたしが何うかさばかふからまア不肖ふせうして呉んなせへ

 (弁) 折角旦那が立入たちいつて不肖しろと仰有るからまアおつかア静に仕ねへ

 (市) 静に仕様けれど金が出来ねへ其時は

 (千) りやア心配仕なさんな金はおれが出してる気だ

 (市) エ夫では貴君あなた

 (両人) 其金を

 (千) 後共のちとも云ずそれ百圓  ト千右衛門懐から十圓札で紙につゝみし百圓を投出し遣るお市取上

 (市) 夫では是を下さり升か

 (弁) 是で命が助り升

 (両人) エゝ有難ふ厶り升  ト頂く お照思入有て

 (照) それ貴客あなたに出させては

 (千) ハテ大した金と云ぢやアなしわづか百圓ばかりの金決けして心配仕なさんな

 (照) 夫りやさうでも厶りませうが未だまアわづか十日斗り深ひお馴染でもない事ゆゑ

 (千) 仮令たとへ三日でも懇意に成りやア己等おらア百年も馴染なじんの気だ今此金を出さなけりやアとめ這入はいつた甲斐がないから黙止だまつて己に出させなせへ

 (照) 何とお礼を申さうか有難ふ厶り升  ト礼をいふおみち不審に思ひ

 (みち) 田舎と違つて東京の繁花な土地のお客様お馴染浅ひお照さんへ百圓お上被成あげなさるとは

 (太) 多くのお金を取扱ふ

 (半) 銀行勤めのお方ゆゑ

 (市) なんにしろよい旦那に御贔屓に成るはお照の仕合しあはせついては親の私迄大仕合おほじあはせで厶り升

 (弁) もし此金の出来ぬ時は我持前わがもちまへ張扇はりあふぎで叩き立様たてやうと思つたが旦那が綺麗なおさばきできざを云ずに帰られ升

 (千) お前方も爰の内へ今夜泊ると有るからは後にゆつくりはなしませう

 (市) いづれお礼に改めて

 (両人) 上り升で厶り升

 (太) イヤお二人様は此間に

 (半) お湯へお這入被成はいりなさいませ

 (市) 思はぬ汗をかきましたから

 (弁) ドレ一ぱい這入はいりませうか

 (太半) サアおいで被成ませ  ト宿場騒ぎに成りお市弁山太助半次奥へ這入る 跡千右衛門お照おみち残り

 (みち) お照さんよく旦那へお礼をお云ひよ

 (照) 誠に貴客あなたのお蔭ゆゑあやふひ難義を遁れまして有難ふ厶り升

 (千) 何其礼そのれいには及ばねへ旅藝者には人のいゝめへが可愛さうだから百圓出してやつたのだ

 (照) お馴染薄ひお前様に百圓といふ大金をお気の毒で厶り升

 (千) 其日稼そのひかせぎの人ならば百圓は大金だが銀行などつとめる者は何十萬と云金を取扱ふが商売ゆゑ百や二百はした金決けして心配仕なさんな ○ しかし気の毒だと思ふなら百圓がはりにおめへから貰ひたい物が有る

 (照) エ百圓替りに貰ひたい物とは

 (千) そんなにびつくり仕なさんなのぞみいふはおめへの掛てゐる其指輪をおれに呉んねへ

 (照) こんな麁末そまつな指輪をば

 (千) 唯お前のを貰ひたいのだ

 (照) お望みならばあげませう  トお照指輪を抜て千右衛門へ遣るおみち思入有て

 (みち) 是はどうか二番目の筋になりさうで厶り升な

 (千) そんな株は自分こつちにないのだ

 (照) それはそうと三年あと迄東京に居りましたが旦那は何地どちらで厶り升

 (千) 己等おいらの内は茅場町だ

 (照) 茅場町は薬師様の御近所で厶り升か

 (千) すぐ薬師の裏門前だ

 (照) ヲヤわたしもあすこに居りましたが

 (千) エ

 (照) 何番地で厶り升

 (千) たしか四十六番地だ

 (みち) 夫では旦那宿帳と

 (千) 何ちがやアしねへ筈だが  ト千右衛門困る思入おもひいれ下手しもて障子をあけ以前の東右衛門陸兵衛奥蔵出て来り座舖ざしき間違まちがへ思入おもひいれにて

 (東右) イヤ是は御免被成なさいましツイ坐敷を間違ました

 (陸) 飛だ麁相そさう

 (三人) 仕ましたな

 (みち) イエ同じ間取で厶り升から御尤ごもつともで厶り升  ト東右衛門千右衛門を見て

 (東右) ヤ其所そこに居るのは  ト千右衛門見て

 (千) ヲゝお前は伯父御か

 (東右) ヤレ千太か能く達者で居たな

 (陸) 何千太と云は誰だへ

 (東右) 苫作とまさくせがれの千太よ

 (陸) 立派な男に成たから

 (奥) 途中で逢ては分らねへ

 (照) 夫では旦那は皆さんと

 (みち) 御懇意で厶り升か

 (千) ヲゝみんな以前の馴染の衆だ

 (みち) お馴染と厶り升なら是へおいで被成ませ  ト是にて三人捨ぜりふにて能所よきところ住居すまゐ

 (千) 伯父さん初め皆さん方お替りも厶りませずお目出たふ厶り升

 (東右) 四五年此方このかた便りがないから死んだかと思つて居た

 (千) 在所に居升お袋へ久敷ひさしく便りをしませなんだが替る事は厶りませぬか

 (東右) それぢやア手前てめへ何にも知らぬか

 (千) 何知らぬかとは   トあつらへの合方あひかたに成り

 (東右) 替るとも替る共大替りに替つたは

 (千) 内を出てから商売用で九州路から長崎へ長らくいつて居りましたからさつぱりぞんじませなんだが替りましたと仰有るのは

 (東右) 其方こなたの親父は正直だつたが所謂いはゆる前世の因果とやら便りに思つた一人の其方こなたは内を出て仕舞しまひ爺々ぢゝばゝアで漸々やうやうと其日を送つて居た所生れ付ての酒好さけずきが病ひの元で中気に成り口はもどらず体はきかず田畑の仕事も出来ぬ上薬の代は段々溜り煎じ詰ツた痩世帯やせぜたい明日の米にも困る様に成たを近所で不便ふびんに思ひ米や麦や味噌醤油野菜物迄送つて呉れ人の恵みで生て居たが定業故ぢやうごうゆゑわしとこへ礼に来るとて二本杖で出たさうだが転びでも仕た事か常願寺の池へおち遂にはかなく死んで仕舞しまふ

 (千) 親父が死だと云事は東京へ出た村の人にたちながら聞ましたがそんな死にやうを仕た事ははなさぬ故に知りませなんだ

 (陸) 寺から知らして来た故に村中つて池から引上すぐに内へ連て行たが早桶をかふ銭もなく

 (奥) せう事なしに味噌樽の古いのへ死骸を入れさしないで寺へ持込みお経をざつと上て貰ひ

 (東右) わしが施主でほうむつたが可愛さうなは手前てめへのお袋跡に残つた婆ア殿中気病ちうきやみでも亭主ゆゑ杖に思つて居た所非業ひごうな死をばしたのちは明ても暮ても泣てばかり千太が居たならば居たならばといふても返らぬ旅の空生死しやうじの程も知れざれば喰ふに困ると無為あぢきなき浮世にあきたか苫作殿が百ケ日の晩に裏の井戸へ飛込んで是もはかない死をしました  トなみだを拭ひながらいふ  

 (千) スリヤお袋も死んだ親父おやぢの百ケ日の其晩に井戸へ身をなげ死にましたか二人が二人水で死ぬとは何たる因果な事成るか  ト愁ひの思入 

(陸) ほんに爺様ぢさまも婆ア様も村の日待ひまち寄合よりあふてもはなしの末はこなたの噂親を捨て家出なし憎ひ奴だと口には言へど目には一ぱい泪をもち

 (奥) 達者で居るなら逢ひたいと明暮あけくれいふて居られたが到々あへずに非業な最後う云立派な男に成たを一目見せて遣りたかつた  ト此内始終千右衛門はお照へ憚り幾加減いゝかげんに云てくれればよいいふこなしのうち親の死だ事をきゝ愁ひの思入

 (東右) うして見れば以前と違ひ立派ななりをして居るが今は何をして居るぞ

 (千) 在所に居ては一生涯大した出世も出来ませねば東京へ出て人に成らうと古郷を跡に五年跡伝手つてを求めて銀行へ奉公に這入ましたが此身に運のむく時節か重役衆の気に入りて段々出世仕升故しますゆゑこゝぞ人に成る所と勉強をした功あらはれ今は二等手代てだいと成り商法上で九州路へ久敷ひさしく行て居りましたが今度帰りましたゆゑ五周間のいとまを貰ひ親父はなく共お袋へ出世を噺して悦ばせ様と参つた甲斐も情なひ今は世に亡き二人の衆モウ一年早かつたらあはれましたに残年な手当にに持て参つた金も手向たむけの金に成りましたか果敢はかない事で厶り升る  ト泪を拭ひ宜敷思入よろしくおもひいれ

 (陸) ほんに其方こなたが立派に成たを二人の衆が見たならば何様どんなに悦ぶ事だらうに

 (奥) 一年遅ひばつかりに墓場へ行ねばあはれぬ両親惜ひ事を仕ましたな

 (東右} シテ今きけば銀行の二等手代に成たと云が千太手前てめへが勤て居る其銀行は何と云銀行だ

 (千) 只銀行で厶り升

 (東右) 三井を初め所々しよしよあるがさうして所は何所どこであるぞ

 (千) 茅場町で厶り升

 (東右) シテ何番の銀行だ  ト千右衛門ぐつと詰り

 (千) 三百三十三番で厶り升  ト東右衛門は心得ぬ思入にて

 (東右) 近頃諸県に銀行が大層出来たと云事だがまだ日本全国中に二百番は出来ぬ筈だが

 (千) エ  トぎつくり思入おもひいれ

 (東右) 三百三十三番とは

 (千) サア是は近所に山王の御旅所おたびしよが有る故に山王の猿にかた取り三百三十三番で厶り升

 (東右) 夫は珍らしい銀行だな

 (陸) わしは田舎者だけれど新聞が大好ゆゑおよそ東京の小新聞はあらかた買てよんで見るが

 (奥) まだ広告の其内にも三百三十三番といふ銀行はまだない様だ

 (東右) 何にしろ出世して折角親に逢ひに来たに二人共死んで仕舞しまひ逢ひに来たせんがないな

 (千) イヤ思ひ掛なく伯父さんに爰でお目に掛り升れば親にあふたも同じ事すぐに是から帰ツてもひ訳でも厶り升が爰迄参りましたから墓参りを仕て参りませう

 (東右) 手前てめへが行て花をあげ水を手向たむけて遣つたらば草葉の蔭で悦ぶだらうはそれつけても二人が死んだ跡が仕様がなく手前てめへは出たぎり便りはなく死んだかいきたか分らぬから此衆達共相談して一先ひとまづうちを畳んで仕舞しまひ家財を売た其金は永世無縁にならぬやうみんな寺へ納めて仕舞しまふ

 (千) 何から何迄伯父さんの厚ひお世話に成りまして有難ふ厶り升  ト此時おのぶ出て来り

 (のぶ) 松島のお客様御膳をお上り被成なされませ

 (陸) 酒肴さけさかなも出来ましたかな

 (のぶ) ハイお燗も出来て居り升る

 (奥) 夫では一杯やりませうか

 (千) まだ伯父さんに色々とお聞申たい事も厶り升が

 (東右) こつちも云たい事が有るがどうで一ツ旅籠屋はたごやゆゑ後に又はなしませう

 (みち) 左様なればお客様

 (東右) イヤおやかましう厶りました  ト米山甚九に成り東右衛門陸兵衛奥藏おのぶつい下手しもてへは入る跡見送り千太のび仕様しやうとして心付こゝろづきうつむふさぎ居る思入おもひいれ

 (照) 今お聞申升ればお前さんの親御さんはお二人共お亡なり被成なされさぞ本意ほいない事で厶りませうな

 (みち) 傍でお聞まうすさへお気の毒で厶り升る

 (千) 若い時には親達に少しは苦労も掛たから生涯楽をさせやうと態々わざわざ金を持て来たその甲斐もなくしんだと聞たらにはかに胸が塞がつて心持が悪く成た  トふさぐ思入

 (照) さう云時には憂さ晴し一ト口どうで厶り升

 (千) イや酒もあんまり呑たくない  ト此時階子の口よりおしの出て来り

 (しの) モシ旦那様夜る芝居へお出被成いでなさいましとて車屋の徳殿とくどんがお迎ひに参りました

 (千) ヲゝ迎ひに來たか ○ ト千太思入有て 是りやアうさ晴しに芝居へいかふか

 (みち) 夫が宜しふ厶りませう

 (千) お照おめへも一所にゆき

 (照) アイお供致しませう

 (千) おかみさんカバンを出して下さい

 (みち) 畏りました

 (照) そんなら旦那

 (千) 芝居で憂さを晴らさうか  ト端唄はうたに成り千太思入有てお照おみちおしのつい階子はしごの口へ這入る合方あひかたに成り下手しもてより東右衛門陸兵衛奥藏出て来り階子の口を覗き思入有て

 (陸奥) 東右衛門殿

 (東右) 二人の衆  ト合方あひかたきつぱりと成り

 (陸) 千太が立派ななりなつたは

 (奥) どうも合点がつてんゆかないな

 (東右) ヲゝゆかとも行ぬ共第一合点の行ぬのは三百三十三番といふ銀行は聞た事がない

 (陸) 多分口から出任せに

 (奥) 嘘をついたと思はるゝ

 (東右) 子供の折柄手癖が悪く十五の年に懲役に行てから猶悪く成り色々意見も加へたが糠に釘で少しもきかず再び赤い仕着セを着たがそれから国にも居られなく上州辺から東京へ行たと云噂を聞たが夫限それぎ便たよりもない事故ことゆゑ大方終身懲役に成た事と思つて居たが思ひ掛ない今夜の出会であひ

 (陸) 見れば立派ななりをしてこゝの内に十日程

 (奥) 藝者をあげて逗留するは

 (東右) どうで堅気な金ではあるまい

 (陸) 掛りあいにならぬ内

 (奥) 明日あした早くたちませう

 (東右) 翌日あすもあれ今宵の内も ○ ト此内上手かみての障子をあけ以前の弁山うかゞひ居てさて盗人ぬすびとで有たかといふ思入おもひいれ東右衛門是を見てびつくりなす弁山障子を〆る  成程たとへの ○ トうなづくを道具替りの知らせ 壁に耳だ ト三人思入おもひいれ宿場騒ぎにて此道具廻る

本舞台上寄かみよりに三間たか二重岩組うしろ同く画心ゑごゝろの岩組にて見切 平舞台かみ方柱かたはしら迄岩の張物で見切 下手しもて谷の心にて杉の梢を見せ能所よきところに飛込の穴向ふ遠山夜るの遠見 日覆ひおほひより杉の釣枝すべて明神山のてい 道具中程より時の鐘山おろしにて道具留るト合方あひかた山颪やまおろしにて下手より宿屋の若イ者弓張提灯ゆみはりでうちんもち紺看板の中間ちうげん手紙をもち出て来り舞台にて

 (中間) コレ宿屋の若イ衆おらが旦那は暮合くれあひから何所どこへお出被成いでなされたのだ

 (若者) 此山向ふの大信寺といふ禅寺ぜんでらの和尚様は學文がくもんが能く詩作が能くわけて書をよくかゝツしやるので旦那様に逢ひたいと内の主人が檀家ゆゑ和尚様に頼まれて今日けふつれまうしたのだ

 (中) それでは大方詩や歌の面白くないはなしだらう今日のおともを遁れたのは大仕合おほしあはせを仕ました

 (若) 今又お前が旦那様に急に逢ひたいと仰有おつしやるのは

 (中) 東京から別配達べつはいだつで郵便が来ましたからどんな御用か知れぬゆゑすぐにお届け申たいのだ

 (若) 一躰お前の旦那様はくわんへお勤め被成なさるのか

 (中) イや旦那はつとめをさつしやればイ月給が取れるさうだが窮屈な事が嫌ひゆゑ金を貸て気楽に暮らし今度も松嶋見物から帰りがけで厶り升

 (若) 併しさうして遊歴を被成なさるは何よりお楽み結構な事で厶り升

 (中) 是と云のも内證が能イ故

 (若) 兎角世界は金の事だ  ト時の鐘

 (中) やあの鐘は

 (若) モウ十時だから急ぎませう  ト時の鐘合方山颪にて貳重をあが上手かみてへ這入る 平舞台上手かみてより二人乗の人力車へ以前のお照千太を乗せ車夫の徳是をひき以前の松跡押あとおしをして出て来り

 (千) ヲイ徳公こゝいゝから下してくんな

 (徳) 芝居へお出被成おいでなさいませぬか

 (千) 芝居は是からモウわづか此山道を越斗こすばかりどうで車はひけないから爰から下りて歩行あるいいか

 (照) 何だか気味の悪い所爰へ下りずと芝居迄乗て行ふぢや有りませんか

 (千) 何此山を越斗りこはい事はありやア仕ねへ

 (徳) 何ならお供を致しませうか

 (千) イや送るにやア及ばねへ ○ ト是にて車より千太お照下りて千太小サなカバンより紙包のさつを出し  是で帰て呑がいゝ  ト徳取て

 (徳) 毎度有難ふ厶り升 ○ コレ松や旦那へ御礼を申せ

 (松) 旦那有難ふ厶り升

 (千) 大きに夜道を御苦労だつた  ト徳思入おもひいれ有て

 (徳) モシ旦那おねだり申ては済ませんがう少し下さいませぬか

 (千) 何モウ少しくれと ○ ト思入有て わづかな所も夜道ゆゑ五十銭つたらばいひぐさを云ふとこは有るめへ

 (徳) りやア只のお客なら結構過た酒手さかてだが江戸で名高い銀行の旦那にしては少ねへ酒手だ  ト不肖不肖ふせうぶせういふ

 (照) コレ徳殿とくどんお前酒にでも酔たのかへ毎日旦那にお貰ひまうすに何でそんなきざを云のだ

 (徳) 云てもいゝから云ひ升のさ  ト松聞兼きゝかね思入おもひいれにて

 (松) 是サ兄貴何を云のだ此間から仲間内でもいゝ旦那に可愛がられると皆んなが羨ましがつて居るのだ

 (徳) 手前達てめへたちの知ツた事ぢやアねへ今に酒手を貰つて遣るから黙止だまつてそつちへ引込で居ろ

 (松) 何だかおれにやアさつぱりよめねへ

 (千) コレ通り一遍の旅先だが斯うして毎日乗るからは吝嗇けちな事をする時は東京の恥に成るから出る度毎たびごとに酒手を遣り手前達てめへたちやかうと云れる事は仕ねへ気だがおれに酒手をましくれとはどういふ訳が有て云のだ  ト是にて徳ずうずうしく

 (徳) ヲイ千兄イおめへおれを忘れたか

 (千) 何忘れたとは  ト少し凄みのあるあつらへの合方に成り

 (徳) 五年あとに窃盗でお前と一所につくだに居た野州やしう生れの徳次郎だ

 (千) エ  トぎつくり思入

 (徳) 間もなくおらア満期で出たから見忘れたかも知れねへが外役先ぐわいえきさきでおめへと一所に一ツ鎖に繋れて土をかついだ事があるぜ

 (千) それぢやア手前てめへも窃盗で

 (徳) 赤い仕着せも二三度着やした

 (松) コウ兄貴あの旦那も五年あと懲役に成たのか

 (徳) やつぱり己と同じとがで佃で苦役くえきを仕なすつたのだ

 (松) 見掛みかけに寄らねへ物だなア

 (徳) 南部のあはせに博多の帯無地御召むぢおめし単羽織ひとへばおりにゴウルの時計麦藁シヤツポ何所どこへ出しても銀行の立派な手代てだいと見えるこしらうそ真事まこと灰吹はいぶきにかけて分せき仕たならばいゝか悪いが知れやせう

 (千) 世間に幾らも似者にたものが他人の猿似で有る物だそりやア人違ひだぜ

 (徳) お前の目からは小僧子こぞツこと思つてごまかす気だらうが仮令たとへ三日が間でも一ツ飯を喰たからは人違ひとちがへをする物か是が六十七十なら耄ろくをする事も有るがまだ二十五にならねへおれだ何で顔を忘れる物だしかしおめへは忘れたらうこつちはけちな窃盗に差入物さしいれものはろくには来ず巾のきかねへ無籍者むせきもの満期で出たから古郷こきやうへ帰り上州路から奥州かけか細い腕で車をひくのも云はゞ此身のぼくよけだ一里引てもわづか六銭長ひぜにの取れねへのも内職にする荒かせぎ(=手ヘンに、ツクリ上下}で太く短く栄曜ゑようをせし為一晩宿場しゆくば友子ともこつれ兄いと云れてのめる程お前も苦役くえきをしたからだ器用に金を呉んなせヘ  ト屹度思入きつとおもいれ千太悔しき思入おもひいれ有て

 (千) 手前達てめへたちおどされて酒手を遣るもこけな訳だがちつとこつちに目的めあてが有から今夜は云なりに酒手を遣るから早く帰れ  ト千太カバンから十圓札を出して遣る徳取て

 (徳) 兄貴十圓かへ

 (千) それで不足を云ならばこつちも意地だ一銭でも余計な銭はらねへぞ  ト千太急度云きつといふ

 (徳) 只貰ふ金だから不足と云わけはねへがモウ十圓も貰てへのだ

 (松) コウコウ徳兄イいゝ加減に云はねへかわづか宿から十町ばかり堅気の人なら二銭の酒手だ十圓貰らやア五圓づゝ単物ひとへものの一枚も着られる訳だ

 (徳) ヱゝ目先の見えねへ事を言へおれが腕で取る金だ誰が山にする物だ

 (松) それぢやア半分呉れねへのか

 (徳) 二十銭か三十銭手前てめへに遣りやア澤山だが壱圓やるから黙止だまつて居ろ

 (松) 只の酒手と違ふから半分呉れざア七分三分三圓おれに呉んねへな

 (徳) ヱゝ余計な口をきゝやアがるな

 (松) 夫だと云つて一圓はあんまりひどい相場だから

 (徳) 手前てめへがぐづぐづぬかすのでこつちのはなしの気が抜たモウ十圓といひてへのだが仕方がねへ不肖ふせうしませう

 (松) 長追ながおひすりやアぼろよりか棒が出るから了簡しろ  ト徳莨入たばこいれへ札をいれ

 (徳) 夫ぢやア千太 ○ イヤ酒手を貰へば旦那様

 (千) 口数きかずと早く行ケ

 (徳) お照さん宜敷お礼を ○ トお照へ思入おもひいれて松車をあげ

 (松) 今夜は是で切上て

 (徳) 宿場で愉快を極込きめこまうか  ト時の鐘合方にて徳松車を引て上手かみてへは入る此内このうちお照気味の悪き思入にて

 (照) サア旦那気味の悪ひ所ゆゑ少しも早く参りませう

 (千) そんなにせくには及ばねへちつとお前にはなしが有るからまアゆつくりとするがいゝ

 (照) 何のお咄しかぞんじませぬがこんな所でなさらずとうちでおはな被成なされまセ

 (千) 内ぢやア辺りの人目があるから云ひてへ事も云れねへ

 (照) 夫だと云つて気味の悪い人通のない此山中このやまなかわたしや怖くてなりません

 (千) その怖がるのももつともだ昼と違つて日がくれれば往来稀な明神越みやうじんごえどんなはなしを仕様共しやうとも狐狸の其外そのほか聞人きゝてのねへのがおれが山だ 

 (照) うしてわたしはなしとはどんな事で厶イ升  ト千太思入有て

 (千) 長く云にも及ばねへが色に成て呉んねへな

 (照) ヱゝ  トびつくりする時の鐘少し凄みの合方あひかたに成り

 (千) そんなに驚く事はねへ先刻さつきも聞て居たらうが久敷ひさしくあはねへ親達に逢ふと思つて東京から松島へゆく一人旅おめへの様な美しひ藝者があるとも白川へおくれて泊つた奥州屋一人で酒もうまくねへから相手に口を掛た時ハイ今晩はと座敷へ来たおめへの顔を見てびつくり弁天といふ名を取た宿しゆく一番の女だと聞た其晩襟元へぞつと染込しみこむ夜嵐に少し風気かぜけを幸ひと長逗留を仕て居たも実はお前を手にいれたく無駄な金もつかつたが旅藝者には珍らしひ金で転ばぬ気性ゆゑさつき貰つた此指輪をお前と一所に居る心でのろい奴だが指へはめ明日あす一先ひとまづ松島へ往つて帰りに口説くどかふと思つて居たも親達が死んだとあればゆくのは無駄是から直に東京へ帰る土産に前借ぜんしやくを返して連てゆきてへのだ定めていやでもあらうけれどほれられたのが身の因果うんと云て呉んなせへ

 (照) 見る影もない旅藝者を夫程それほど思つて下さい升は有難ふは厶り升がお前さんのお心に随はれない訳あればどうぞゆるして下さいまし

 (千) どんな事か知らねへが随はれぬと云訳は

 (照) サア其訳は

 (千) それきかにやア思ひ切られぬ  トお照思入有て

 (照) 何をお隠し申ませうわたししや東京に言交いひかはした男が厶り升る故

 (千) りやア男もあるだらうが浮気家業をするからはそんな野暮をいはねへで旅の恥はかきすてとおれが云事を聞て呉んねへ

 (照) 浮気家業はして居れど末は夫婦に成らうといふ神へ誓ひをかけた中親の頼みに仕方なく浮世を忍ぶ文字摺もじずりの此奥州の白川へ前借ぜんしやくをして来た私旅の藝者はとお八九はつくお客の座敷で曖昧な事をするのが常なれど男がある故今日迄もそんな噂のない藝者御贔屓にして下さい升なら色気なしで御座敷ばか御酒ごしゆの相手にわたしをばどうぞ呼んで下さいまし

 (千) 大方そんな言訳と思つて今夜夜芝居よしばゐゆくと云て連出したは否応いはさぬおれが狂言さつき仕馴しなれ立役たちやくに成て百圓出したのもよくある筋だとおめへの体へ金で恩を着せる為いやでもあらふがお袋に娼妓にされたと諦めて堅ひ心をひいとり夢と思つてぬれの場を一幕見せてくんなせへ

 (照) 夫程迄それほどまでに仰有るなら幸ひ調度お袋が参つて居れば相談して明日あした御返事致しませう

 (千) モウ此土地に足をとめ明日あす迄待ちやア居られねへ大概おれが身の上も人のはなしで悟つたらうが今迄大きなほらふき銀行手代てだいと云たは偽り実はおらア盗人ぬすつと

 (照) エゝ  ト合方きつぱりと成り

 (千) 何もそんなに恟りしてにげるにやア及ばねへ盗人ぬすつとだとて同じ人間ぎやつと生れて其時から人の物を我物と盗む心は有りやアしねへ元はみんな堅気だが多くは酒と女と賭博ばくち身の詰りからする盗み初手しよて明巣あきすのちよつくらもち初犯でわづかな懲役から二犯三犯段々と功を積んで強盗迄修行して来た松島千太どうで始終しじうは天のばち運もつくだで終身懲役こゝ手前てめへを助た所が一等減じる訳でもなけりやアかばつて遣るにも当らねへからそれで爰へ連出したのだ網に掛つた鳥同様う羽根たゝきもさせやアしねへ

 (照) んならうでも此場にて

 (千) 是程云てもにげる気か

 (照) サアそれは

 (千) サア

 (照) サア

 (両人) サアサアサア

 (千) コリヤ手短に縛りあげひつさらつてゆかにやア成らねヘ  ト尻を端折はしよりお照を手荒く引居ひきすへ

 (照) アレ誰ぞ来て下さいまし誰ぞ来て下さいまし

 (千) エゝやかましひ静にしやアがれ  トお照振切て迯るを立廻て引付ひきつけ手拭で縛らうとする此時上手かみてへ以前の徳案内して探索方両人捕縄とりなはもち松附ついて出て来りさゝやきあひツカツカと出て

 (菊) 松島千太

 (両人) 御用だぞ  ト千太見て

 (千) ヤコリヤ探索が

 (菊) 此間から盗賊と白眼にらんまなこに違ひなく

 (幸) たしかな證拠があがつた上は遁れぬ所だ

 (両人) 覚悟なセ

 (千) さう知られたら仕方がねへさつしとほり強盗で其名を知られた松島千太うぬらが縄にかゝる物か

 (菊) 明神山へ追込だ

 (幸) 得物を逃して

 (両人) 成る物か  ト両人組付くみつく振解ふりほどく此内お照うろうろするを徳とらへ

 (徳) お照さんは己等おいらと一所に

 (松) 早く此方こつちにげなせへ  ト徳松お照を引張ひつぱり上手かみてへ這入る

 (千) さては徳めが訴人そにんをしたな

 (菊幸) 知れた事だ  ト時の鐘誂へ鳴物なりものに成り両人千太へ縄を掛様かけよういふ捕物の立廻り宜敷よろしく有て千太カバンをひつさらひ下手しもて谷間の切穴きりあな飛込とびこむ山颪烈敷やまおろしはげしく

 (菊) ヤア崖から谷へ飛込だが下は巌石尖するどき谷間

 (幸) 多分は岩で体をうちくたばつたに違ひねへ

 (菊) 何にもせよ谷へ下り

 (幸) 彼奴あいつ行衛ゆくえ

 (両人) 捜してくれん  ト山颪ばたばたにて両人下手しもてへ逸散に這入る矢張ばたばたにて上手よりお照迯て出て来るを徳松追掛おひかけ来て徳お照を引付ひきつけ

 (徳) ハテ聞訳きゝわけのねへお照さん今夜千太が夜芝居よしばゐへおめへを連てゆくいふは深ひたくらみの有る事とさとつた故に酒手さかてをゆすり探索方たんさくがたへ密告して今の難義をたすけたのだ千太の替りに己達おらたちの此処で自由になつてくんねへ

 (照) 危ひ所をたすかつてヤレ嬉しやと思つたらやつぱりお前も同じ事私を手込てごめに仕様といふのか

 (徳) そりやアお前が弁天といはれる顔のする事だ二目ふためと見られぬ女なら自身こつちとがを着る事だ誰が手込にする物だ

 (松) やかういふ間に芝居のはね人通ひとどほりのねへ其内に

 (徳) ちつとも早く

 (松) ヲゝ合点だ ○ ト山颪やまおろし早き合方あひかたにて両人お照を引倒す此時本鉄砲ほんてつぽうの音する三人びつくりしお照は俯伏うつぶせに成る坂の上より望月輝もちづきあきら羽織まち高袴たかばかま高帽子短銃ぴすとるもち出て来り此内徳はうたれはしないかと体を見る事有てホツトしてあきら見付みつけ  さては今のは

 (両人) 貴様こなただな

 (輝) 理不尽致す人力車夫警察官へ引立ひつたてやうか

 (徳) そんなおどしをくふ物か  トあきら立掛たちかゝ輝短銃ぴすとる差附さしつけ

 (輝) 命はいらぬか

 (徳) ヤアこいつは叶はぬ

 (松) にげろ迯ろ  トばたばたにて両人向ふへ迯て這入るお照顔をあげ

 (照) 何方どなた様で厶り升かあやふひ所をお助け下されエゝ有難ふ厶り升る

 (輝) お照さぞこわかつたらうな

 (照) エ然う仰有おつしやるは ○ トあつらへ灯入ひいりの月をおろしお照輝を見て  ヲゝ望月様

 (輝) コレ ○ と押へる木のかしら  アゝいゝ月だな  ト月を見上るお照は手を合せ嬉しき思入おもひいれあつらへ合方あひかた山颪やまおろしにて拍子幕 

 貳幕目 明石浦漁師町の場  同 播磨灘難風の場

一島蔵妹おはましう調
一 同倅岩松菊之助
一 齋坊主西念左伊助
一 漁師喜多六しやこ六
一 同藤助八平治
一 明石の島蔵菊五郎
一 漁師磯右衛門團右衛門
一 同沖蔵荒治郎
一 同波六尾登五郎る
一 在所かゝおくろ小半治
 竹本連中

            

本舞台三間の間平舞台ひらぶたい 向ふ真中柿木綿の暖簾口のれんぐち 上手かみて押入戸棚、是へ三尺の仏壇阿弥陀の掛物仏具宜敷よろしくあつらへの位牌供物くもつを備へ、燈明をつけ、此前へ手習机、此上へ香炉線香を乗せ下手しもて鼠壁かみの方一間折廻、障子家躰やたいいつもの所丸太の門口竹簀戸、しもの方粗朶垣そだがき後ろ海の遠見、すべて播州明石浦漁師内のてい上手かみて西念さいねん墨衣すみごろも斎坊主ときぼうずの拵へ、続て喜多六藤助着流し漁師の拵へ、おくろ同じく女房の拵へ、四人共膳に向ひ真中に磯右衛門白髪鬘しらがかづら漁師の親仁おやぢにて住居すまゐ下手しもてにお濱島田鬘漁師の娘のこしらへ、お鉢を傍へおき盆をもち給仕をしてゐる。岩松若衆鬘着流しにて香炉へ線香を上てゐる。此見得このみえ波の音濱唄にて幕明く。

 

 (磯右衛門) 西念さんは職務しやうばいだが皆のしゆは忙しいのにう来て下すつた

 (藤助) ほかと違ツて不断から親仁おやぢどんには一方ひとかたならず何やかや世話に成れば

 (喜太六) 仮令たとへ職業しやうばいを休んでも此方こつちの内の法事ゆゑ馳走に成りに来ましたのぢや

 (お黒) 取分けわたしはおなぎさんと心安くした中ゆゑ何事置ても来ずには居られぬ

 (お濱) おくろさんのお蔭にて御膳拵ごしらへが早く出来さぞあねさんも草葉の蔭で喜んでござりませう

 (西念) 今日の膳部ぜんぶ塩梅あんばい妹御いもとごがさつしやつたか誠にうまふ出来ました

 (濱) 何のうまい事が厶りませう仕馴ぬわたしの掴み料理何もも不塩梅であがりにくう厶りましたらう

 (藤) 西念さんの云るゝとほり中々うまひ事であつ

 (喜) こゝら近所の煮売屋ではこんな料理は所詮出来ぬ

 (磯右) イヤ爰ら近所にないと云はチト誉過ほめすぎさつしやいませう

 (黒) イヤイヤ酢合すあひの胡麻ではなくいゝ塩梅で厶りました

 (西) トキニ膳を引て下さいませぬか

 (濱) ハイ只今引升で厶り升

 (黒) ドレ手伝て上ませう  ト皆々捨台辞すてぜりふにてお濱お黒膳を片付かたづけ岩松前へいで手をつき

 (岩松) 今日は何方どなた母様はゝさまへ御供養を下さいまして有難ふ厶り升る

 (西) 最前から佛前へ絶ず線香あげさつしやつて殊勝しゆしよう回向ゑかうさつしやるのはテモ感心な事ではある

 (藤) 外の者が千遍の念佛をとなへるより

 (喜) 血の余りの岩松が十遍となへる念佛が

 (黒) おなぎさんはどの位嬉しひ事か知れぬわいナ

 (磯右) 今更いふても返らぬが此岩松がお袋は生れたつて素直にて知ツての通のせがれゆゑ無理な小言も云たれど遂に一度逆らうて喧嘩をした事もなければ仮令たとへにも云小舅のお濱を邪魔にした事なく真身の如く可愛がり取分とりわけわしを大事にして痒ひとこへ手が届く程う世話をして呉た申分のない嫁を惜ひ事を仕ましたわいの  ト磯右衛門泪を拭ふ ──以下・割愛──