人物
美はしき髪を持てるダビデの子アブサロム
智者アヒトベル
兄アムノンに辱められたるアブサロムの全き妹タマル
第一の僕
第二の僕
第三の僕
第四の僕
第五の僕
第六の僕
時代
旧約ダビデ王イヱルサレム統治時代
場所
ヱフライムの辺なるバアルハゾル
第一段
アブサロムの邸なる屋上の露台、何等の器具をも備へずして徒らなる空台に只手欄をめぐらす。(即ち舞台にては正面の奥をくぎれるのみ。)曇りたる空に「日の旅」ばかりを隔てたる山々の連れるを見る。中央よりやゝ右手によりて、階下に通ぜる幅ひろき段階の口あり、登る者は見物に背をなす。六人の僕等、手欄に居倚り野外を眺めつゝ語る。
第一の僕
見ろ。あのヱフライムの市の外れから、蝗の様に揃つた騾馬の一列が、ほこりを蹴立てゝ飛んで来るぢやないか。
第二の僕
うむ見えるわ。一人、二人、三人……七人の王子達だな。今日はわざと随従を連れずに来るといふ話ぢやつたで。
第六の僕
ダビデ王の王子達にみ恵みあれ、アーメン。
第四の僕
アーメン。
第一の僕
気を付けて見ろ。あの緑色の衣で一番先の白い馬にのつてくるのがアムノン様だぞ。
第五の僕
何、一番先にのつてくるのがアムノンだといふのかい。あの旗の様にひらひらした衣の上から己達の刀を突き刺してやるのだな。久し振りに腥い血を嗅ぐ時が来たと思ふと、今からもう身体の内がむづむづして来るわ。
第六の僕
かりにも王様の王子だ。あのお胸から血を流さうと言ふ奴は、まむしの縄で火の岩にくゝられて、鷲の雛に眼でも啄ばまれるのをまつてゐるがいゝ。
第五の僕
アムノンが王子ならアブサロム様だつて王子だ。主の王子の命令で不義者のくされた膿血を流すのに、何だつて呪ひの舌など使ふのだ。自分の妹に思ひをよせて、紅葡萄の汁よりも清らかな処女の血を、恐ろしいたくらみで汚したほど例のないいつはりが、神様のお怒りから逃れて居ると思ふのかい。
第二の僕
ほんとに今でも忘られぬわ。タマル様があの自然に香膏でも滴る様なつやつやしい髪から顔へ、ばらばらと灰をかむつて、処女のふりそでもずたずたに引きさき乍ら、泣きよばつて来たいぢらしさは、嵐に破きさかれて泥にまみれた百合の花よりまだ哀れな様子だつた。イスラヱルにあんな愚人を生かしておくのは、たとへ王子でも王様でもヱホバの宮を汚すといふものだ。
第六の僕
自分の妹に思ひをかけたのが、それほど恐ろしいことだつたら、お前達はもつと近いところを見るために、池へ行つて眼でも洗つてくるがいゝ。
第四の僕
気をつけてものをいはぬかよ。王子様が登つてお出でだ。
アブサロム、アヒトベル段階より登り来る。
アブサロム
(甚だ美しく長き黒髪を具へ、凡て風采の典雅なる貴公子。)もう皆のかけてくるのが見えて来たか。
第一の僕
あの羊の群の居りまする森のそばを今通つてお出でゞ御座います。馬の蹄から立ちましたほこりが、草原にお這入りになつたので立たなくなりました。
アブサロム
(アヒトベルと共に手欄の方に進みよりつゝ。)うむ。一番先の白い馬にのつて緑色の衣をきたのがアムノンだな。あの馬の蹄が大地を蹴るのにつれて、己の胸にも湧き立つた血がたゝく様に迫つてくるわ。お前達はもういゝから下へ行つて、ふるまひの仕度を整へて来い。いざといふ時に折角はつた心の弦をゆるめずに、命令るものが己だといふことを忘れまいぞ。
第二の僕
其のお心づかひは古びた落穂ほどお役に立たないもので御座います、もう私共の血管といふ血管は小蛇の様に躍り立つて参りましたし、私共の刀の刃は人の骨を突き砕いた位でこぼれは致しませぬ。
第四の僕
ダビデ王の王子にみ栄え永遠にあれ。(他の僕等も同音に。)アーメン。
僕等悉く去る。
第二段
アブサロム
段々近くやつてくるわ。アヒトベル今日こそお前のちゑをきいたことが、後悔の種になるやうなことはあるまいな。
アヒトベル
(醜き禿頭白髭の矮人。挙措凡て卑し。)まだそんなことを仰せになつて、あなたのお舌では香はしいレモンのちゑと、くされた無花果のちゑとが、御弁別ならぬと見えますの。
アブサロム
さういふ訳ではないのだが、今日は朝起きてから己の胸の中には、丁度井戸の土がくづれて水へ落ち込む様な、不祥な物騒ぎがしてならないのだ。
アヒトベル
そんな物騒ぎをなさるといふ弱いお心が第一不祥で御座います。ヱホバの御心に逆らつたことをしやうとなさいますには、もつとかたくなな胸を持つてお出でにならねばなりませぬ。鉄の葉のうろこをきれば、盗人の様に這ひ込んでくる神の光りに胸はたゞれてしまひます、私のちゑに従ふことをお疑ひ遊ばしますな。私の語る言葉は銀の彫刻に金の林檎をはめた様な、機にかなつたもので御座います。
アブサロム
では今夜こそ己の狂犬の様にあさましい煩悩が、金の果を拾ふ時だといふのだな。
アヒトベル
実證サタンの名をかけてお誓ひ申します。もう御兄弟達の見えるのも程ないことで御座いませう。今の内にお二人きりでようお心を引いて御覧なさいませ。ともかく私がおよびして参りませう。
と段階を下らんとする時、あわたゞしげにタマルの登り来れるに遭ふ。タマルは黄色の衣を纏ひ明に長き憂鬱の沁み渡れる蒼白き美貌也。
アヒトベル
丁度よい所で御座いました。では私は仕度を助けて参りますから。 (とアブサロムと目にて語りつゝ下る。)
第三段
タマル
お兄様、もうあの人達が近づいてくるといふのは真実で御座いますの。アムノンの兄様が緑色の衣をきて白い馬にのつてくるといふのは真実で御座いますの。(と言ひつゝ手欄の方に進みより。)あゝもうあんなとこまで来ましたのね。
アブサロム
いまにぢき蹄の音も聞えやう。タマル、今日こそお前のよろこびの日が来たのだ。二年といふ永い日の間なきはらした眼を奇麗に洗つて、もうはぢを雪がれるお前のからだに、晴れやかな碧い衣でもきてくるがいゝ。
タマル
(絶えず野の方を凝覗しつゝ。)お兄様何だか息が大変苦しくなつて参りましたわ。いろいろなものが奇妙な青い色に見えて、それに耳の中でなり出した不思議なもの音が、あの泣き蛇の声よりもつと気味が悪う御座いますの、中から蠍といふ恐ろしい蟲でもかみつく様に、乱れた動悸が胸を啄いて、ほんとに変な心持になつて来ました。
アブサロム
さういふものだ。怨みをよせた者の血を流すに迫つた時は、男でも不思議な胸騒ぎがするものだ。私の胸でさへ今とかげののどの様に激しい波が打つて来たわ。
タマル
あの恐ろしい日からもう二年もたつて居るのだとは、どうしたつて思ふことが出来ませんわ。だけど今といふ今、血管の中に吸ひこまれた針の様にからだ中を刺し廻つた耻ぢと憎しみとが、はれやかにすゝがれる日が来ましたのね。ほんとに兄様、一時も早くあのアムノンが血につかつて苦しむところを見せて下さいまし。
アブサロム
お前の願はもうすぐ叶へてやるのだが、その代りには此の間からいふ様に私の願もきいてくれるのだらうな。
タマル
ええ此の願さへ叶へて下さるならどんなことでも致しませう。裏の葡萄畑へおりて行つて、蛇のまきついた枝でもかまわずに、黒い真珠の様に甘く熟れた房々を、肩にになふまでちぎつて来て、イヱルサレムに行つても買へない様な、濃いお酒でも造つて上げませう。此頃の様に夜毎夜毎眠りにくいと仰せる時には、幾晩でも幾晩でも、あのいつもの竪琴の絃をとりかへて、お父様のお造りになつた讃へ歌を、朝の星が日の光りに吸ひ込まれて、草に降つた露が輝いて見える時分まで、唱ひ明して上げませう。もつともつと、どんなにむづかしいおいひつけでも、アムノンの兄様さへ殺して見せて下さるなら、きつと私の手で仕遂げてさし上げませう。
アブサロム
お前の可愛いゝ唇が、不思議な柔い貝殻の様にあいたりとぢたりする間から、其のつやゝかな声がひゞくのをきくだけで、私の心持は濃い酒を呑んだ様になつて行くのだ。どんないひつけにでも従ふといふことを、お前はまちがひなく誓つてくれるのだな。
タマル
一番畏ろしいヱホバの御名を指して誓ひますわ。まだ熱い血の噴き出てくるアムノンのからだを私に下すつたら狂ひ猫の様に爪でかきむしつて、足の先まで髪の毛を一つ一つに引き抜いて、それからまたあの禿鷲のする様に、からだ中の繊維も残さないまでかみしだいてやりませう。
アブサロム
(次第に我を忘れ行くが如く。)タマル。パテラビムの池の水より輝いたお前の眼を、私のこの胸の中に投げ込むでおくれ。赤く熟した柘榴よりもまだ甘いその舌の味を、私の渇いた咽喉に記憶さしておくれ。タマル!
今や全く其の心を失へるものゝ如く、進みよりてタマルの手を取らんとする時、第一の僕あわたゞしく登り来れるに、忽ち静なる我に返る。タマルまた兄が怪しき煩悩の焔を解せざるが如く、たゞ近く迫れる己が怨恨の恍惚に酔ひて空しく立つ。
第一の僕
(未だ全く露台に登らず、肩のあたりをもて見物を背<そびら>にし、やゝ口ごもりつゝ)かう皆様がお出でゝ御座います。あの表の小門から砂道の方へお這入りで御座いました。
此の時よりタマルは絶えず走せ来る野の兄弟等を見下しつゝ、殆ど何人のものいふ声もきこえざるが如く、次第に我を失ひ行く。
アブサロム
(かへりみて野を見下しつゝ。)もうそんなとこまでやつて来たのだな。仕度はすつかりとゝのえてあるのか。
第一の僕
凡て仰せの通りに致して御座います。
アブサロム
己もいますぐに行くから、皆慄へる心を静めて仕度をしてゐるがいゝ。
第一の僕退場。
アブサロム
己の心もせき立つて来た。まだ盃が一とまわりもせぬ内に合図の手をおろして、みんなの刀をぬかせねばならない。もう蹄の音がきこえて来た。タマル先刻の誓ひは忘れまいな。 (退場。)
第四段
タマル
(暫らく手欄にすがりてのぞき下し、やゝありてはじめて見物の方に向き直り、しかれども、己が心を自ら保ち得ざるうつけたる魂の如く。)神様、ほんとのことを仰つて下さいまし。あのレバノンの香柏の様な雄々しい姿をして、緑色の衣をきた若人がほんとにアムノンの兄様なので御座いませうか。小さい時分見た大理石に刻むだ異教の偶像を、世にもこんな美しい顔があるのかと思つて、今だに忘れずに居るのと少しもちがはないあの凛々しい姿が、ほんとにアムノンの兄様なので御座いませうか。あの兄様が此の年月、くされた油の様な耻ぢと憎しみとを注ぎかけて、もうこのからだが日の明るみへも出られない様にした方なのかしら。あの恐ろしい日、いまわしいたくらみごと
で鮮かだつた処女の血を吸ひ取られてしまつた時には、たゞ夢中に眼が眩むで、窓の外にぎらぎらと日をてり返した橄欖の葉が、頭の中で渦まく様に覚えたばかりだつたのが、不意に耳元でかすれた様な声がして、「出て行けタマル、女の中で一番悪らしい女のタマル、さあ出て行け」といはれた時には、今から思へばとび立つ様にもして出てくる筈だのに、不思議と何ともいへない悲しい気がして、「兄様、そんなことを仰るのは、今なすつた恐ろしいことより尚恐ろしいことですから」と、詫びる様に云つたんだけれどきいては下さらず、しまいにはあらあらしくこの腕をつかんで戸の外へ突きやつておしまひになつた。あんなおそろしいことをした兄様がほんとに今あの奇麗な顔を輝かして緑色の衣をきてゐた方なのかしら。
アブサロム段階を走りて上り来る。
アブサロム
(息を切らしつゝ。)タマル、早くおりて来い。盃が一とまわりみんなの席をまわる内と思つたのだが、もう己の胸の中には火をつけた濃い酒でももえ立つ様に、のどから昇る熱い息で舌でも顎でもやきたゞれる様になつて来たわ。今こそ血を吐く犬の様な悲鳴が、竪琴の銀の絃より嬉しくきこえる時が来たのだ。さあ、早くおりて来ないか。
タマル
私はもう下へは参りません、おりて行くのはいやで御座います。
アブサロム
いまあのアムノンのからだを、一とすぢ一とすぢに切りこまざく時が来たのぢやないか。お前の舌は何を言つて居るのだ。
タマル
もうどうしてもおりて行くのはいやで御座います。私には其のはしごをおりて行く力がなくなりました。兄様、しばらく私を一人でおいて下さいまし。
アブサロム
お前の舌は今までもえる火の言葉を吐いてゐたのに、もう臆病な小蛇の様にへらへらとよわいこゝろを吐くばかりになつたのかい。ともかく私のあとからついてくるがいゝ。
タマル
どんなに仰つても、この足がもうからだを下まで運んではくれないのですから、私はおりては参りません。それよりも兄様どうぞ私の前から退いて居て下さいまし。私の眼に今映つてゐる幻を消さないで……。さういふ間にも何だか風に吹かれた霧の様に、段々うすく消えて行くのぢやありませんか。お願ひですから兄様、そんなにいかめしく立ちはだからず、早く私の眼から見えなくなつて下さいまし。其のはしごをふみならしておりて行つて下さいまし。
アブサロム
タマル、可愛相にお前は気が狂つたのだな、あんまり眼の前に輝いた光りが迫つて来たので、心の瞳がうろたへたのだな。気をしづかにしてそこにゐるがいゝ。イヱルサレムの精金よりも重い血の滴つた首を、あの一番大きな皿にのせて、お前の可愛いゝ足の下まで運んで来てやらうわ。其の時にはもう乱れた心を梭にかけて、美しいタマルの衣をきてくれる様に今から頼んでおくのだぞ。 (退場。)
第五段
タマル
(段階の方に走りよつて。)お兄様。下へ行つてはいけません。下へ行つてアムノンの兄様の血を流してはいけません。小指の先を針でついて、絹絲の様な血を流してもいけません。どうしてもアムノン様の血が入用なら、私のからだにも混つてゐるのを搾り取つて下さいまし。抜いた刀を、血ぬらずにさやへ納めることが出来ないなら、私の胸にさし通して下さいまし。こんなに熱くほてつた乳房が、つめたい刃をくわゑた時は、どんなにいゝ心持がするのでせう。
然れどもこの時凄ましき騒擾の声、物の撥くるが如く一時に起り、罵り怒る声々にまじりて、断末魔の悲鳴の如きものきこえ来る。タマルは愕然として躍り立ち、いふべからざる悲愁は、熱き泉の噴き出づるが如くに。
タマル
(この独白の間絶えず喧擾の声きこゆ。)あ、あの声はとうとう兄様が……アムノン様、誰かゞ刀でさしに来ますの。神様、お助けなすつて下さいまし。あゝそのくるしさうな声は、いくつもの刀が突き通し刺し通しするので御座いませうね。兄様。なぜ私を突き刺して下さいませんでしたの。そんなに血といふものが欲しいのなら、この胸をたちわつて血ぶくろでも何でもゑぐり取つて行けばいゝのに。
第六段
アブサロムは新しき流血に半ば狂へるが如く、段階を走せ上りしが其の美しき豊髪を見物より見らるゝあたりにて立ち止る。
アブサロム
タマル、見ろ。血に濡れて重くなつたアムノンの首だ。お前もこの刀で突き刺して見るがいゝ。くされた犬の屍骸のやうにもう眼をあくことも出来ずに居るわ。
タマル
(絶叫して。)呪はれていらつしやい、悪魔のアブサロム。贖罪の羊の血より尚聖らかな、アムノン様の血を流した手には、天から火の柱が落ちて来て、顔もからだも細い毛條の様に、チリチリとやきちゞれてしまふのだ。
アブサロム
タマル!
タマル
いゝえ私は心などちつとも乱れては居ませんの、アムノン様、焔の舌をひらめかしてもつともつと燃える呪を吐きかけてやりませう。悪魔のアブサロム。其の長い髪の毛が小蛇の様に木の枝にからまつて、くびり死をする人の様な醜い亡びをする時が、もう近い日に迫つて来やうわ。悪魔のアブサロム……。
アブサロム憤怒してタマルの胸を刺し之を仆す。未だ血の滴れる劔は赤き蛇のひらめくが如く、更に焔の如き呪ひを吐かんとしたる魂を破り畢る。
タマル アムノン様!………
怪しき最後の叫びと共に辛うじて言ひ得たる時、再び劔は其の胸を刺して全く其の命殺す。アブサロムは無言にして台に昇り、手にひつさげたる血滴れるアムノンの首を未だ熱き屍骸の上に投げ出す。この時口々に罵りわめきつゝ、手といはず顔といはず血にまみれたる僕等、各赤き劔をひらめかしつゝ昇り来りしが、突如眼前に横はれる異変に、唇は一切にしてとぢ、或者は死屍と死首とを視、或者はその主を視、又或者は互に打ち見合ひつゝ、たゞ茫然として深き沈黙に陥る。いま劔等より滴り落つる血の点音をもきくを得べきに似たり。 幕。