一
女学校一年のときなので昭和十年のことにちがいない。ある雨上りの午後、わたしは田端駅を出て、高台につづくだらだら坂にさしかかり、劇的な場面に出会った。目の前で若い男が、並んで歩いていた妻らしい若い女を、力まかせに水たまりにつきとばしたのである。
女は抵抗せずにされるままとなり、下半身のきものを泥だらけにして倒れた。苦渋の表情をうかべた男の、秀麗とでもいいたい容貌が、わたしの目をとらえる。それにしても、水たまりに膝をついたまま、いつまでも立ち上らない女の耐え方も、わたしに不思議な興奮を誘った。
どちらも良家のひとらしいきちんとした和服姿で、女は雨ゴートを着ている。髪は素直にうしろに束ね、その真直な分け目まで、いまもありありと覚えているのだ。
当時のわたしは、両親に捨てられて孤独であり、その上、感じやすい年ごろでもあったせいか、目の前で争う男女の姿に異常なまでのショックを受けた。ふたりの姿態に、ドロドロした愛欲のにおいを、少女ながらに感じとっていたせいもある。どこの誰なのか。なぜあんなに女は淋しい表情だったのか。思い出すと胸が痛んだ。
ところが戦後のある日、わたしは太宰治の文学アルバムを眺めていて「アッ」と声を挙げてしまった。二十年前の田端駅の男女がいる。あの日の姿のままスナップとなって、頁の一隅におさまっているのだ。
「昭和十年、船橋時代の初代と太宰」
と、それには註記してあった。
初代とは、小山初代のことで、太宰治の最初の妻となったひとであることを、わたしは巻末の年譜をあわただしく繰って、このとき知った。
写真の初代はほのかに微笑し、太宰はあの日のように眉に八の字を寄せている。初代は思い出の女の方が、少し美しいように思えたが、太宰はそっくりである。
が、なぜあのとき、ふたりは争ったのであろう。簡単な文学アルバムの年譜ではわからない。もっとも田端での事件から二年後に、初代の不貞により、太宰と初代は離別していることが書いてある。そのことと争いと関係があるのか、ないのか、わたしはさまざまに想像をめぐらした。
しかし、太宰はすでに昭和二十三年六月に山崎富栄と、玉川上水に身を投げて、亡くなっている。初代もこの世のひとではない。とすると、せっかく長年の謎を解く糸口がみつかったというのに、これ以上は一歩も前進できないのかと、残念であった。
もっとも他人のソラ似というのもあり、田端で逢ったふたりが、太宰と初代だという確証はないが、それだけに小山初代の生涯を知りたいという思いが、このときわたしの胸に、ムラムラと兆したのであった。
それからまた二十年余りは、たっぷり時が経っている。その間に知り得たのは、太宰の生涯にかかわった数人の女人のうち、初代ぐらい貧乏くじを引いたひとはあるまいということであった。ともあれ美知子未亡人には優れたお嬢さんがふたりまである。晩年の一時期、太宰の恋人であった「斜陽」のヒロイン太田静子さんにも、孝心あつい遺子の治子さんがある。また情死行を太宰とともにした山崎富栄は、それなりに最後の女としての栄光がある。にもかかわらず、文学修業時代の太宰治の苦悩をおよそ七年間もともにした初代だけは「不貞の女」の烙印を押されたまま、離別後は郷里青森にもいられず、外地を放浪しているのだ。
また彼女くらい、ひとにより評価のまちまちな女性もないだろう。素直でやさしく、文壇にはばたこうとする二十代の太宰治の出発によく仕え、なくてはならなかった女性と評する者があるかと思えば、ただでさえ苦悩に喘いでいた若き日の太宰を、奈落まで突き落した罪深い悪女と、きめつける評者もいるからである。
十一月のはじめ、わたしは青森にいこうと上野から車中のひととなった。初代が若き日、芸者時代をすごした青森の花街浜町と、太宰と離別後を暮したと聞く浅虫温泉にいき、彼女の過去のカケラなりともみつけたいと思ったからである。
いまでも上野から青森までは、特急で九時間もかかる。おそらく太宰や初代の往復した昭和初期は急行で十七、八時間もかかっただろう。
その日、夜になって汽車は浅虫についた。初代の母のキミと、弟の誠一がこの町に住むようになったのは、初代が離婚してしばらくのちのことである。が、それでも肉親に逢いに浅虫にくるのに、初代は晴れがましい時間を選ばなかったにちがいない。こうして夜になるのを待って、そっと町に入ったのではあるまいか。姦通といういまわしい名のもとに離別された初代のうわさは、青森といわず、浅虫といわず知れわたっていたからである。
わたしは、ひなびた町を宿に向って歩きながら、うす暗い小路から、ふと初代が白いうなじを見せて現われてくるような気がした……。
翌朝、浅虫は吹雪になった。季節には早い初雪である。雪のためか、東北という土地のやさしさなのか、訪ねる初代やキミの知人たちは実に親切であった。
さて話は、太宰治が、まだ本名の津島修治として、弘前高等学校の生徒だった五十年前に遡る。
二
週末になると、おもたかという小料理屋か、もしくは中央亭というレストランから、娘の紅子を呼ぶ客が、∧源(正しくは、源の字の上にヤマがかぶっている)のオンチャマの津島修治だと知って、キミの鼻はまた少し高くなった。
「わぬいだけ士族だがね」
とキミは野沢家の女たちの前で、これまでもよく自慢した。いまは半玉の娘ともども置き屋の使用人だが、もとを正せば津軽藩の祐筆の家柄の出だと、ことあるごとに誇り、キミは芸者たちを、ちょっと下目に見る風があった。
キミは裁縫が巧みで、室蘭で夫の小山藤一郎に蒸発されると、初代と誠一の子どもをひきつれて青森にもどり、大鰐温泉でささやかに仕立物で暮していた。
いつから大鰐へ住むようになったかは不明だが、こんど近親者から見せられた少女時代の初代のはがきによると、大正十年までは室蘭住いであったことがわかった。
そのうち青森市内浜町の芸者置き屋野沢家へ、通いでつとめ出した。大正十三年、初代は小学校を卒業すると、野沢家から半玉として出る約束がきまった。
三十七歳の母と十三歳の娘の置き屋奉公の図は悲壮この上もないが、事実はキミの達者さで、そうはならなかった。芸者の身のまわりの世話をしたり、裁縫をしたりが彼女の役目だったが、たちまち野沢家を牛耳る地位となったからである。青森弁に「カラキジ」というのがある。強情っぱりとか、性格が強くてひとのいうことをきかないという意味である。キミは典型的な「カラキジ」で、小山藤一郎の蒸発の原因も、そのせいだとうわさされているくらいなのだ。
初代は芸名を紅子となのった。まもなく、
「カッチャがついているから、紅ちゃんの魚コは大きい」
とか、気に入らない客席をぬけ出して、きままづとめをする紅子を、
「士族の娘だもの」
とキミが味方するとか、およそ十七、八人もいる同輩たちのかげ口が喧しくなった。カッチャとはキミのことである。キミは紅子のことになると、目がなかった。台所の采配もふるっていたので、紅子のおやつや菜を、少々特別扱いにしたようである。
そもそも青森の浜町といういろ街は、全国でも珍しい一枚看板で、芸だけより売らぬところであった。「浜町女学校」などと呼ぶ者もあるくらいで、金に困らないのに娘に芸ごとを仕こみ、出世の蔓をつかませようと、前借なしで半玉に出す堅気の家庭すらあったほどである。
紅子の出た大正の末ごろには、およそ三百人に近い芸者と半玉が、見番に名を連ねていた。芸の修業はそれだけになかなかきびしい。しかし紅子は一回で半玉試験にパスしたというから、利発な娘だった。そして彼女がつとめた野沢家では、女将のたまが慈悲深く、芸者家特有のあこぎなしぼり方を抱え妓にしなかった。しかも彼女たちが結婚するというと喜んで、借金を半分に負けたりする。
「早く嫁コにいげや」
というのがたまの口ぐせであった。
従って小山初代こと紅子の半玉生活は、素人の娘たちに比べ、男女交際の窓が開かれているという自由さがプラスされているだけで、けっこう明るかった。
幼女時代は「狼」と呼ばれたほど活発だった。浜町でも「わがまま」「勝気」などといわれ、紅子の評判はいっこうによくないが、これはキミの過保護への同僚たちの反発も、少々ふくまれているのかもしれない。
さて∧源とは、金木の大地主の津島家のことで、貴族院議員もつとめた津島源右衛門は金木の殿様と呼ばれ、浜町にくると野沢家をひいきにしていた。源右衛門は大正十二年に亡くなるが、後継者の文治も、浜町で遊ぶときは野沢家の妓を呼び、弘前高等学校の生徒だった文治の弟で、のちに作家太宰治になる修治も、黒いマントの裾を翻してあらわれ、父、兄にならった。
旧制高等学校といえば現代の大学生だが、青森辺りの大家では、「家の息子をよろしく」と親が茶屋に紹介する風があった。
彼がはじめておもたかで遊んだとき、紅子が呼ばれた妓たちのなかにいた。そのうち修治の方で紅子を名指すようになった。
小学校を卒業するとすぐ半玉になり、二年して一本(芸者)になるというのが、当時の浜町のきまりで、紅子もまもなく肩上げをおろし、振袖を捨てて、島田髷になった。これが他の花街であると、水揚げと称して処女を男に売り、その代価で芸妓になる衣裳代や披露目の費用にするのだが、浜町では抱え主がすべてを賄う。もっともその費用は借金として、やがては芸妓自身が背負うのであるが、ともあれいやな男を檀那にとるわびしさは避けられた。紅子も修治と知りそめてまもないころ、こうした手順で芸者となっている。
小柄で色白、目が大きくふくれまぶたである。歯が大きいのを自分で苦にして、
「馬みたい」
と恥じた。このひとに笑顔の写真が少ないのは、そのせいであろう。
「美人ではなかった」
と昔の同輩たちもいうが、売れない方ではなく、見番の席次もまあまあであった。多分紅子は頭の回転がよく、客の座敷ではとりまわしが巧みだったのだろう。
野沢家ではない別の置き屋から出ていた半玉で、よく紅子と風呂屋でいっしょになったという旧名いく代さんからは、
「シターァッとした肌の大したいいひとだね。女らしいまろやかな……」
と教えられた。紅子の特徴は裸身にあったのかと、これは新発見である。
そしてどちらかというと∧源のオンチャマに身の程にない願いを抱いたのは、娘よりキミであった。満州事変のはじまる前は、日本中が大不況だった。男の子は百円、女の子は百五十円で売られたという。紅子のかせぐ金額もわずかで、きものの借金と、食費を払うと残らない。∧源のオンチャマの妻の座に娘をおさめれば、名実ともに士族の誇りを保持できると考えたキミは、紅子を督励する。
昭和五年は太宰が帝国大学仏蘭西文学科に入学し、東京に去った年である。初代は周到な計画による出奔をやってのけた。五十年後のいまでも浜町の語りぐさとして残っているが、初代は目立たないように簞笥のひき出しから自分のきものを抜いておもたかに運び、太宰の友人の東京の下宿宛小包にしておくった。
きもののぬけた分だけ簞笥には新聞紙を入れておき、上に風呂敷をかぶせてごまかした。きものを全部送ってしまった九月三十日に初代は上京するが、上野までいかず、赤羽駅で下車する。そのため上野で待機した野沢家の追手につかまらずにすんでいる。こうした出奔の手順についてのみごとなアイデアは、すべて太宰の指示だったという。むろん赤羽には太宰と友人たちが迎えていた。
初代の出奔の直接の原因は、菊池某なる客から落籍のはなしが出て、せっぱつまったためと語る年譜もあるが、当時そうしたはなしがあったことを浜町の同輩たちは誰も知らず、
「やっぱり万事はキミさんのデモンストレーションではなかったか」
と疑っている。
頭の鋭いキミが、娘が出奔の仕度をし、なにかとソワソワしているのを、同じ屋根の下にいて見逃すはずがないからである。誠一が東京の魚問屋に修業に出たあとは、キミも野沢家に住みこんでいたのだ。
初代が青森を出発するとき、野沢家に電話して駅まで半玉のなみにハンカチや足袋を届けさせているのも「逃亡」にしては、ずいぶんのんきなはなしである。また女将のたまの性格から見ても、初代のいやがる落籍を、彼女に強いるはずもなく、初代の「足抜き」はさぐればさぐるほど辻棲のあわぬことだらけだ。
太宰は初代と親しむ前に、故郷の家の女中であった宮越トキに思いを寄せていた時期があった。トキは小学校を卒業したばかりの少女だったが、彼はトキにも、
「いっしょに東京へ出て暮そう」
と誘っている。このころの太宰は、弘前高校に学ぶ秀才として、津島家のホープであった。トキは「身分が違う」と考えて太宰への思いを絶って実家に帰った。
若き日の太宰は、折があれば家と、権力そのものである長兄の文治に弓をひくことを考えていた。反逆こそ生の証しなのであった。従って初代の受け入れをためらう彼ではなかったのである。
初代は太宰と友人たちの手で、本所区東駒形の大工の棟梁の家の二階に匿まわれた。そのため津島家の遠縁に当る人の好い豊田太左衛門が、初代を連れ戻す役を引きうけて、太宰の下宿に現われたが、空しくひき帰す。
そしてとうとう兄の文治が事態を解決するために上京してきた。太宰も初代も手に汗握っていたはずである。このふたりの恋情をさぐれば、女の方は名門のオンチャマで帝大生であることへの憧れ、男は江戸趣味がこうじて、荷風、鏡花ばり、芸者のいいひとになりたかったにすぎない。彼はそのころ学生だてらに、更紗を下着に、しゃれたきもの姿が自慢なのであった。またそうしたふたりの仲を囃し立てる修治の友人たちへの見栄も多分にまじった恋愛であった。
そのころの太宰は、若い県会議員の文治にとって、時限爆弾のような存在であり、明らかにお荷物なのであった。小学校のときすでに文学を志した太宰は、父の代に急速に身代を伸ばした、津島家の汚れた手に対して、きびしい批判の目を早くから注いでいた。
初代の出奔した年である昭和五年の一月には、青森で刊行している同人誌『座標』に「地主一代」を大藤熊太のぺンネームで連載し、小作人争議を描いたが、兄文治の介入によって、三回きりで中断している。このこともあったが、初代上京の少し前に、太宰は思想関係で杉並署に留置されていた。「アカ」は一門の恥、天子さまに弓をひく国賊と考えるひとの多かった時代である。文治は、この弟を津島家から外さないかぎり、自分の政治的生命が危いと考えたようである。
結局家長としての文治の裁断は、
「津島家から分家除籍を条件として初代との結婚を許す」
と下った。兄は覚え書を作り、それには、
「財産分与はせず、大学卒業まで百二十円の生活費を仕送る」
ときめている。また覚え書は、今後太宰が社会主義運動に参加したり、運動に金銭の援助をしたり、また大学から処罰を受けたり、理由なく大学を退いたり、学業を怠ったり、金銭を浪費したり、操行乱れたりなどしたときは、仕送りをへらしたり、停止したりするという条文が書かれていた。
これには太宰は少なからずショックを受けたが、初代の出奔ということがあるので、それらの条件を仕方なくのむことになった。男の憂悶にひきかえ、初代は許されたことを無邪気に喜び、文治にともなわれて青森にいったん帰ることを承知する。その出発の前の晩にはじめて太宰は初代を抱いた。
「おもちゃをやるから、大人しくするんだよ」
と長兄の文治は暗に弟をあやしているように見える。巧妙なとりひきである。習俗に反抗したつもりが、大人の術中にはめられてしまった。権力という糸でいつかがんじがらめにされようとしている自分に、このとき太宰は蒼ざめる。
あるいは初代を出奔させたのは、政治家津島文治の見えない手ではなかったかと、わたしは疑っている。ともかく「冗談から駒」のような婚約であった。太宰と初代の悲劇は、出発からすでに根ざしていたのである。
三
この婚約は、キミを有頂天にさせた。なにかというと、
「うちの初代は、えらくなるんだから……」
とひとに語り、相好を崩した。そして急に以前に渡した初代の写真を、野沢家の女たちから回収し出したのである。娘の芸妓時代を、この世から抹殺するつもりだったのだろう。
やがて初代は文治の手で落籍され、豊田太左衛門を代理として十一月二十四日には結納がとりかわされた。当時浜町では芸妓を落籍するのに、三千円はかかった。前借なしで半玉になった初代にせよ、落籍するのが大地主の∧源では、安上りにはいかなかった。その上コートからきもの、羽織、帯と一通りの仕度を初代に与え、キミ、誠一にも土産として相応の現金を贈っている。このときが、初代の生涯で一番幸せなときではなかったろうか。
なぜなら引祝いもすみ、初代が東京出立を胸ときめかして待っているある日、豊田太左衛門が息を切らして野沢家に走りこんできて、
「修ちゃが、修ちゃが」
と言ったまま、ヘナヘナと玄関にうずくまった。
豊田の口から、東京の太宰が、誰やら女と心中し、女は死に、彼は入院と聞かされる。
「ひどい、ひどい、ひどい」
と初代は泣き出した。日ごろ不信心の彼女が神棚にお燈明をあげ、修ちゃの無事を祈る。とても家には落ち着いておれず、岸壁まで走って新しく涙を流した。「裏切られた」というきもちより「∧源の嫁になり損ねるのではないか」という心配で、夜も寝られない。
太宰治の生涯ほどあやしく謎の多いものはないだろう。自伝的作品のかずかずがあり、研究者も同時代作家のなかで群を抜いて多いというのに、彼の起したさまざまの事件の動機と経緯は、必ずしも解明されているとはいい難い。いやこの場合、太宰作品はむしろ、真実を隠すための手のこんだ偽装と迷路であると考えた方がよいようだ。
この昭和五年十一月二十八日に突発した事件も、心中相手である田部シメ子の人間性や、両人交際のゆくたて、死の動機など、いまだに霧のなかにかすんだままである。
シメ子は銀座のバア・ホリウドの女給で、ふたりがめぐりあったのは初代が青森に帰った早々のことであった。シメ子は広島出身で満十八歳、小柄ではあったが、均斉のとれた姿態をもつ、美貌の人妻であった。
太宰がシメ子に魅かれたのは、初代にはない知性と教養が彼女にあったからであった。そして何度も逢わないうちに、
十一月二十五日小館保等友人とホリウドで痛飲、帰途田辺あつみ(シメ子の通称-筆者註)を伴って、中村貞次郎と逢った。その夜帝国ホテルに泊り、二十八日午後、ホテルを出て鎌倉に向い、同日夜半、神奈川県鎌倉郡腰越町小動崎の海岸(一説に「東側突端の畳岩の上」)でカルモチンを嚥下した。翌二十九日午前八時頃、苦悶中を発見されたが、女は絶命。一人七里ヵ浜恵風園療養所に収容され……
と山内祥史編の年譜に書かれたようなことになった。
太宰は全快後自殺幇助罪容疑で警察の取調べを受けたが、結局起訴猶予となった。
右の年譜には、海に飛びこんだという叙述が一行もないことに注目してほしい。実は入水したのか、カルモチンだけの自殺だったのか、いまだにはっきりしないのだ。
太宰がこの事件を描いた作品には「道化の華」「東京八景」「人間失格」などがあるが、すべて入水したことになっている。「道化の華」には、
「僕はこの手もて、園を水にしづめた。僕は悪魔の傲慢さをもて、われよみがへるとも園は死ね、と願ったのだ」
と特有の偽悪的な筆致で、描いている。
この事件は青森の新聞が大きくとりあげ、文治は県会議員の辞職願いを提出し、弟の不始末を苦悩している。また事件の始末のために三千円も支出している。要するに太宰が、兄にさんざんの迷惑をかけることが目的で、しでかしたような事件である。単に分家除籍だけの恨みなのか、他にも文治へ憤懣があったものか。
また初代にも怒りをぶつけた。
「何という奴だ。青森へ帰っても、事務的な手紙一本よこしたきりとは。有頂天になって母親と嫁入り仕度にうつつをぬかしているそうだが、みっともない。こっちは肉親を仰天させ、母には地獄の苦しみを嘗めさせているというのに……」
どこかがおかしい。夢中で相手を抱きしめられないいらだち。初代をとがめてみるが、それでも心の空洞はおさまらない。相手のきもちがスルリと手のうちからぬけ出ているような心もとなさ。
ところでこのとき太宰がほんとうに死ぬ気だったのかとなると、実はそれも問題なのだ。飲んだ薬は致死量の半分だった。シメ子は嘔吐して、気管をつまらせたのが直接の死の原因なのであった。決心の実にあいまいな自殺である。家郷を驚かせ、初代を驚かせ、自分の周囲を変え、変った状況をじっと見つめる文学者の目を自分に期待する心が、太宰には無意識に働いているのである。自殺も、身分違いの結婚も、太宰の生涯の行為はほとんどが、文学への予備行動ととれなくはない。
心中事件のあとも、幸か、不幸か、初代の運命は変らなかった。
「あんた、それでもいくの」
とかつて姉芸者だったひとが、立ちふるまいのあとで初代にたずねた。他の女と心中するような男を許せるのかと心配したのだ。
「むろんいくわ」
弱みを見せまいと、初代は元気にこたえた。
恢復後の太宰は、南津軽郡の碇ヶ関温泉の柴田旅館に逗留する。初代はここで豊田太左衛円の立ちあいで、彼と内祝言をした。太宰の母のたねとも初代はこの席ではじめて逢うが、これがただ一度だけの面会となった。
文治は現われず、また新夫婦は金木の生家への出入りを止められ、初代の入籍も行われなかった。
太宰と初代は、やがて東京五反田で新築したばかりの二階家を借りて暮す。「お父ちゃ」
と初代は太宰を呼び、夫は、
「ハチヨ」
と彼女を呼んだ。
初代の弟の誠一は魚河岸の寿賀竹という魚問屋につとめていたので、日曜になると姿をあらわした。初代の叔父の吉沢祐とも交際がはじまる。祐は腕のいい図案家である。まずまずのどかな新婚生活のスタートに見えた。太宰は誠一にやさしく、吉沢祐には一目おいていたという。
初代はまもなく髪をバッサリ切って、前身を感じさせない、モダンガールに変身する。太宰の言葉によると、初代を教育するのに三年間かかったという。まず習字と英語の勉強を太宰自身が授けた。
そのうち初代は、太宰のもとへ出入りするマルクスボーイどもにすすめられ、川崎市のマツダランプ本社の読書会に参加するようにさえなった。どの程度彼女に、新しい思想への理解があったのかは疑問である。ただ太宰の妻らしくなろうと努力している姿はいじらしい。
新婚生活といっても、絶えず夫の友人がきていて、議論したり、飲み食いして、初代は落ちついて夫と語るひまもない。生活費もふくれ上る。百二十円の仕送りといえば、大学を出て、五、六年経ったサラリーマンの収入のはずだが、毎月赤字であった。しかし彼女は世話好きで、いやな顔もせず、彼らをもてなした。
しかも党の指令で、神田同朋町、神田和泉町、淀橋柏木と、わずかの間に転々と住居を変えなければならなかった。
いつも文治が金木から上京すると、定宿である神田の関根屋によび出されるのは、初代の方であった。文治は弟の動静を初代に逐一聞くのである。文治にとって初代は、危険な弟へのお守り役であり、日常の監視人と考えていたようだ。そうしたカラクリに敏感な太宰は反発して、兄の一番怖れる非合法活動の手助けをすることに、いよいよのめりこんでいったふしがある。
兄と弟の愛憎のシーソーゲーム。そのなかであやうい身の動きを初代はしていたといえる。自分の言葉が一歩まちがえれば、夫の身を焦がすのである。いつまでも無知で無邪気な、芸者気分ではいられなかった。初代は口数が少なくなり、自分を押える術を覚えるようになった。快活を装っていたが、いつもオドオドしていた。夫ばかりが傷ついた獣のように呻いているのではなかった。
昭和七年七月、太宰は青森警察署に自首して出るという事件がある。これなども太宰の行動で、その心理のよくわからないひとつである。
太宰は同郷の友人の執拗な勧誘で、毎月十円を党にカンパさせられていた。運動家をかくまったこともあり、それらが警察に知れて、太宰は初代と身を隠す。そのため特高が金木の津島家に連日のようにやってきた。
兄文治の秘命が、太宰のかくれ家にとどき、彼はひそかに青森にもどった。親戚の家の一間で、兄弟は忍んで逢う。兄は例の覚え書の文言を楯に、
「運動をとるか、仕送りをとるか」
とつめよった。母のたねも涙を流して哀願する。結局太宰は服した。
しかし送金の額は覚え書の罰則により、百二十円から九十円にへってしまった。
ところで太宰は、この自首の原因を「東京八景」という自伝的作品のなかで「妻であった女性の結婚以前の過失」を知り、やり切れなくなったためだと語っている。
どちらがほんとうなのだろうか。太宰のなかで、初代は心を任せ、睦んでいると、とつぜん台風で家ごと流されるような思いをさせられる相手なのであった。しかし初代自身の悪意のなさに、太宰はつい負けてしまう。
自首のあとも、いっしょに静岡県静浦へいき一ヵ月滞在し、キミヘ朗らかなたよりを送っているところをみると、仲直りが成立したのであろう。
文治は監視役が初代では頼りにならないと考えたのであろう。東京日日新聞の社会部記者飛島定城、多摩夫妻に頼んで、太宰夫婦と同居してもらうようにはからった。飛島記者は太宰の次兄英治の友人で、同郷であった。
芝白金三光町の家、荻窪天沼のお稲荷さんの隣りの家、同じく天沼だが荻窪駅のすぐ近くの二階家と、三ヵ所も飛島夫妻についてまわり、四年近くも共同生活をするのは、それが文治の密命だったからであろう。
この多摩夫人にも、またこのころから太宰が深く師事した作家井伏鱒二の節代夫人にも初代は親しんだが、紅子時代の浜町での彼女への評価が誤りではないかと思うほど、別の人格として、ふたりの夫人たちは初代をとらえている。
井伏夫人は、
「かわいい、遠慮深い、豊かに育ったお嬢さんのような感じのひと。じっとしてなさいというと、一日でもじっとしていた」
と初代のことを妹のようにいとおしんで回想する。飛島夫人は同郷でもあり、初代の出身を心得ていたが、井伏夫人は最後まで初代の前身を芸者だとは知らずにいたという。
非合法運動とすっぱり縁を切ったあとの太宰は格闘するような勢いで小説に没頭する。そのころ彼は「晩年」と表記した大きな袋を持っていて、書き上げた原稿の気に入ったものを入れることにしていた。「晩年」は自分の遺書のつもりであった。二十代のはじめでありながら、自分を蝕まれた病葉だと感じている異常の夫に、初代は献身的に仕えている妻だと、多摩夫人の目には映った。二階に住む太宰たちは、階下で飛島家と一つ食卓をかこんで、一家のように暮している。
そのころ太宰は毎日制服を着て家を出、初代も飛島家でも、彼が大学に通っていることだと信じていた。ところが大学へいっても、三四郎池あたりで一服すると、檀一雄などの友人と落ちあい、浅草や銀座に遊び、おりおりは玉の井にもでかけ、もっぱら人生勉強に時間を費していた。
正常であれば昭和八年三月に卒業するはずで、例の覚え書にも、送金はその日で打切られることにきめられていた。しかし太宰は卒業できず、文治に哀訴して、もう一年送金をくり伸ばしてもらった。
昭和九年の春も歎願して留年を許され、しかしまたしても十年の卒業期がせまってきた。その間太宰は同人誌『鷭』『青い花』などに参加し、全霊をあげて、わが文学樹立のために、夢中で精進中であった。文壇はまさに左翼文芸が退潮し、文芸復興の気運の盛り上ったときである。檀一雄、中村地平、今官一、伊馬鵜平などと轡を並べて進む太宰治にとって、大学へいく余裕はなかったろう。しかし卒業できなければ、こんどこそ生活費を絶たれると思う。
太宰は、肉も魚も野菜も一切口にせず、バナナばかり食べて三月もすごすようになる。電車の線路に立って、ばく進して来る電車を停車させたこともある。遠浅の海を一直線にどこまでも歩いて行ってみたり、初代はハラハラして、彼が帰宅するまで不安であった。
三月、太宰の落第がきまり、せめてもの言いわけに就職ぐらいはしてみせようと意気込み、都新聞を受けたが、これにも失敗した。
ある日太宰は、郷里から送金してもらった金をゴッソリ持って出たまま、帰らなかった。簡単ながら書きおきのようなものもある。初代は泣きくずれた。飛島定城の手配で太宰の友人たちが集められ、友人たちは手わけして伊豆や湘南にとび、太宰の行方をさがした。
彼はKという年下の画学生のアパートにいた。Kは太宰の姉のひとりが嫁いでいる青森の名家の息子だった。太宰からいえば弟のような立場で、ふたりは仲が良かった。
Kはモデルを前に、学期末の絵を制作中だった。彼は当時帝国美術学校(現武蔵野美大)の生徒だったのだ。
「画は休みにして遊びにいこう」
太宰とKはモデルも連れて銀座に出る。食事をし、歌舞伎座をのぞき、ここでモデルを帰す。それから浅草で飲み直し、車でふたりは横浜にむかう。車のなかで太宰は木綿の紐のようなものを盛んに見せびらかすが、Kは気のつかないふりをした。
本牧のキヨ・ホテルに泊り、翌朝、桜木町の駅でKは太宰と別れる。自分のアパートに帰ると檀一雄が捜索にきた。前日の動静を話すと、
「ダメじゃァないか」とKは檀にどなられた。
杉並署に捜索願いが出され、金木の文治にも電報が飛ぶ。兄は早速東京に向った。
同じころ太宰は鎌倉に作家の深田久弥をたずね、のんびり将棋盤をかこんでいた。死のうと思うきもちも平和な先輩の家庭にいると、何となくうすらいでいる。
夜十時すぎ荻窪の家では同居の飛島夫妻はもちろん、初代の叔父の吉沢夫妻(祐の妻は野沢たまの長女のつやである)、空しく捜索からもどった壇などの友人たちが集り、初代とともにお通夜のような雰囲気で案じているところへ、フラリと太宰が帰宅した。
鎌倉山の林のなかで縊死を計ったが失敗したといって、みみず脹れのあとを赤く頸につけている。放心状態でいた初代は、音もなく立っている太宰の姿を見ると、ギヨッとして隣りに坐るひとに、しがみついてしまった。
こんども狂言なのか、ほんとうに死ぬ気だったのか、首は吊ったのか、吊らなかったのか、太宰自身さえ明瞭ではなかった。
そのあと、井伏たちが文治に懇願して、またもや送金の継続をとりつけるのだが、文治のはらわたは煮えくり返るようであったにちがいない。
三年前の自首事件では太宰が負けたが、こんどは命をはって兄に挑戦し、陰惨な勝を占めた。文治へくり返すこの反抗と憎悪はただごとではない。実は太宰の胸のうちに、ときどき兆す”兄と初代との仲”への疑いが、その”核”なのであった。
四
行きづまると簡単に自殺を企てる太宰である。いのちいじりの好きな男なのだ。慢性自殺病患者と暮している初代は、夫の命を守ることで手いっぱいであった。太宰の妻の役は、お嬢さん育ちでは、とても無理である。少々の泥水をすすり、士族の血を誇りに思う初代ならではつとまらなかった。
そして事件後二十日も経たないうちに、太宰がこんどは急性盲腸炎で苦しみ、阿佐ヶ谷の篠原病院へかつぎこまれた。息つくひまもなく、彼女は看病に追い立てられる。ただの腹痛だと思って暖めてしまったために、盲腸はなかなかの重症であった。手術後腹膜炎を起し、一時は重態となった。神経のか細い太宰は痛みに弱い。術後の疼痛に耐えられず、
「痛みどめ、痛みどめ」
とわめく。はては、
「藪医者め、痛いぞう」
と大声を出すので、医師も閉口し、他の患者の手前、ついパビナールを打つことをくり返した。
初代はやんちゃな子どもにせがまれた母親のように、太宰がわめくと医師のもとへ飛んでいく。素直といえば素直、少々甘すぎる気味があった。
退院後は胸の治療が必要となり、経堂病院に改めて入院するが、もはやパビナールが離せなくなっていた。太宰は医師や看護婦の目を盗んで、自身で注射するようになる。しかも次第にその分量がふえていく。
これを打つと、連想の部分が鋭くなり、筆がすすむ。彼がやめられなくなったのは、そのためもある。
やがて太宰たちは、何も知らない文治の提案で、海に近い千葉県船橋町に家を移した。こんどは水いらずとなった。ここは太宰がのちに一番愛着する家となる。彼は自分で庭に夾竹桃の木を植えた。環境も結核患者向きだったが、なるべく酒飲みの悪友たちから隔離させようというのも、兄の狙いだったようである。
しかし孤独が一層パビナールに彼を駆り立てた。腹痛を装って医者には哀訴、気の弱い薬屋はおどし、薬をツケで買い、注射をつづけた。そのころ訪問した友人は、太宰がときどきトイレに立ち、帰ってくると元気になるのを、妙だなと感じていたという。
当時パビナールは一本三十銭から五十銭であった。注射代のために、生活は当然苦しくなる。
この年、純文学の新人登竜門として芥川賞か設定され、文芸春秋社で第一回受賞者の銓衡が行われる。そして受賞の最終候補者として五人の作品が残った。そのなかに太宰治の「逆行」があった。「逆行」はこの年の『文芸』二月号に掲載されている。彼が同人誌以外で発表した最初の作品であった。
結局賞は石川達三の「蒼氓」にきまるが、『文芸春秋』の十月号に、他の最終候補者たち高見順、外村繁、衣巻省三とともに作品が掲載される。「ダス・ゲマイネ」である。賞にはならなかったが、文壇デビューは成し遂げられ、作風の清新さで注目の新人となった。また太宰を推した芥川賞銓衡委員のひとり、佐藤春夫宅を訪問して、以来師事するようになった。
これは満二十六歳の文学青年にとって、万々歳のゴールデン・ロードとも言うべきである。ところが落選に納得できず、委員のひとり川端康成に噛みついたり、その他あとで述べるような常軌を逸した行動があって、太宰治は文壇の話題となる。
わたしが田端で見た男が太宰だとすると、ちょうどこのころである。ふだんは乱暴をしないが、薬が切れているときは、狂気の余り、初代をつきとばすぐらいやってのけたであろう。
いつか初代のきものは、知らないうちに太宰が質屋に運んでしまった。春と秋と一年に二度、芥川賞の季節となる。太宰が執拗な執着を受賞によせて、師佐藤春夫を悩ますのは、賞金の五百円がほしかったからである。薬を買うために作った四百円余りの借金をすべて返すためには、それ以外方法がなかったからだ。
拝啓
一言のいつはりもすこしの誇張も申しあげません。物質の苦しみが かさなり かさなり死ぬことばかりを考へて居ります。
佐藤さん一人がたのみでございます。私は 恩を知つて居ります。私は すぐれたる作品を書きました。これから もつと もつと すぐれた小説を書くことができます。私は もう十年くらゐ生きてゐたくてなりません。私は よい人間です。しつかりして居りますが、いままで運がわるくて、死ぬ一歩手前まで来てしまひました。芥川賞をもらへば 私は人の情に泣くでせう。さうして どんな苦しみとも戦つて、生きて行けます。元気が出ます。お笑ひにならずに、私を助けて下さい。佐藤さんは私を助けることができます。(以下略)
といった調子で、春夫に芥川賞をねだっている。十一年二月の発信である。
ところが、この手紙を書いた第二回は受賞者なしとなった。やがて第三回の芥川賞をめざして、またも佐藤家へ日文夜文を送りつづける。文面は例の中毒で、次第にたどたどしいものに変る。
がその間に第一創作集『晩年』が砂子屋書房から刊行され、七月に上野精養軒で出版記念会が行われた。着実に彼の才能は認められている。佐藤春夫、井伏鱒二をはじめ、友人知友三十七名が出席し、壇一雄が司会である。初代はこの会に出席したもようはない。当時は出版記念会は妻の出るものと考えられていなかったのだろう。
太宰自身は郷里からおくられた新調の羽織袴で出席し、会が終ったとたん質入れして薬にかえたという。
この時代は著書一冊持てば、作家として通用した空気がある。現代のような本の氾濫時代からは考えられないほど、一冊の創作集は貴重だった。
しかし彼は『晩年』の刊行でも満足せず、第三回芥川賞を願いつづける。それもこの本の印税がゼロであったからだ。太宰は春夫が「第三回は確実」と保証したと妄想するが、結果は敗れ、いよいよパビナールの注射量をふやしていく。
が、作品はむしろ意欲的に書きすすめられ、前衛的な作風で面白い。「創生記」も奇抜な構成で読ませるが、佐藤春夫を実名で登場させた上に、作中で佐藤に、言いもせぬせりふを言わせて、太宰の才を買い寛容だった師をついに怒らせてしまった。
佐藤から出頭を求めるはがきが、船橋の太宰のもとに飛ぶ。ところが約束の十月八日に太宰は現われない。その代り、
家人、上京の用事ある由にて、いそぎしたため速達せよと命じました。
断罪いま一両日お待ち下さい。
という文言のあるはがきが佐藤宅に舞いこむ。
この日、初代は文面通り上京して、井伏家にかけこんでいた。
「太宰をお助けください」
とひれ伏す。パビナール注射は一日に三十本から四十本となり、死に突進しているようなものだった。薬の金の調達のためには雑誌社で廊下に坐り、社長に平伏してみたり、編集者の前で号泣したりという狂態がつづいた。
蚊にくわれ蚊を潰すと、初代のは赤い血、太宰の蚊は黒い血である。初代は恐怖の目をみはった。夫婦の性も稀になった。初代は看護婦のつもりだったが、彼女自身の心も次第に荒れてきた。
井伏の前には、中毒はなおったように見せかけていた太宰だった。そのため初代の告白に、
「なぜもっと早くこなかった」
と井伏は責めた。
太宰が問題を起す度に、いつも解決に奔走したのは、青森の中畑慶吉という呉服屋と北芳四郎という東京の洋服屋だった。ふたりとも津島文治の崇拝者で、兄のために不肖の弟の面倒な跡しまつをひきうけていたのである。初代の連絡で彼らがかけつけ、太宰治を入院させる相談が行われる。
井伏が説得役を結局ひきうけるが、
「入院どころか急いで小説を書かなくてはいかんのだ」
と太宰は顔色を変えた。三人に責められると、次室にいって号泣する。初代も声をあわせて泣いた。
が彼が入院を決心するのは、
「文学を止すか、止さないか、いまその瀬戸際だ」
といった井伏の一言だった。太宰という作家のみごとさは、「この世に文学あるのみ」というひたむきな姿だと思う。文学のためにパビナールを打ち、文学のために入院を拒否し、文学のためにやはり入院を承知もする。
こうして太宰は中庭にコスモスゆらぐ、江古田の武蔵野病院に入院する。ここは脳病院であった。
入院は十月十三日。最初の二日間は開放病棟だったが「自殺のおそれあり」ということで鉄格子のはまったへやに移される。へやに鍵はかけられていなかったが、病棟にはかけられている。彼は狂人の群のなかにひとりとり残された。
鉄格子につかまって「不法監禁」と抗議する太宰は、蒼白い顔、目に隈をみせ、担当の医師を「告訴する」とおどす。がこれは治療として当然の処置だったろう。二月に佐藤のすすめで他のところに入院したときは、病院を抜け出して酒を飲んだり、パビナールを密かに打ったりした過去があるからだ。
初代は病院に通ったが面会謝絶で、それでもあきらめず、病院のまわりをウロウロした。幼児を入院させた母親のように不安で手持無沙汰であった。
監禁された太宰の方はまもなく薬が切れて禁断症状をおこす。苦悶し、悪感を訴え、嘔吐した。さかんに「薬を打ってくれ」と叫ぶ。自分のきものを破いたり、ガラス戸を叩きわったりしたが、一週間でこれはしずまった。
彼は薬包紙にさかんに鉛筆を走らせた。おかげでカルテには濫書症と書かれてしまった。
薬包紙の文章の一つ。
虐められてつよくなります。
思ひは、ひとつ、窓前花。
笑はれて、笑はれて、つよくなる。
老人のいびき。
あかつきばかり物うきはなし。
病院=人間倉庫。詰めこまれた人間ども。
金魚も、ただ飼ひ放ち在るだけでは、月余の命、保たず。
などがある。禁断症状の苦しみからは逃れたが、ひとから欺かれた思いはもっと地獄の苦しみであった。太宰は北芳四郎を憎んだ。武蔵野病院を考えついたのは北だったからだ。師の井伏さえ憎んだ。しかし一番憎んだのは妻の初代だった。
自分の庇護で泥水から救い出した女が、自分を告発するのは筋違いだと思う。妻は夫を素直に慕いつづければよい。たとえば「朝顔日記」の深雪のように……。
「いのちも心も君に一任したひとりの人間を、よくもあざむいて脳病院にぶちこんだな」
と太宰は鉄格子のなかで歯ぎしりする。むろん監禁されたものの異常心理が働いているための怨みなのだが、きっちり一ヵ月経ち、無事にパビナール中毒を全治させて退院したのちも、初代への不信は胸から消えなかった。
退院後は天沼の井伏の家の近くのアパートに入った。北たちの用意した盛山荘は気にいらず、三日いただけで碧雲荘にかわった。
五
太宰と初代の住居は、船橋時代の一年余りをはさんで、中央線荻窪駅に近い、杉並区天沼の地を五ヵ所にわたって転々としている。これは師の井伏鱒二が、当時井荻村下井草(現杉並区清水町)にデンと腰を落ちつけていたためである。
わたしは荻窪に住むのを幸い、ふたりの足跡を追い、この五ヵ所をめぐってみた。第二回の住居であるところは我が家にも近い。いまは駐車場に変っているが、スター座という小さな映画館の隣りだ。その他の家も、位置はわかったが、建物はすでにない。
ただ初代が悲しい別れを太宰に告げることになった碧雲荘だけが、往時のままに寸分違わずいまも下宿屋を営んでいるのを発見した。天沼としては四番目に移ったところである。
持主が大工さんだったというだけに、がっちりした天井の高い家だ。娘さんの代になったいま、何度か建替えようとしたが、
「もったいない」といって業者にとめられたという。
当時の下宿の主人は、建前があると太宰を床柱の前に坐らせて大切にしたと伝えられるが、そうした折の酔余の作なのだろう。
やくどしは めでたかりけり 多鶴さわぐ
そのさきに立たむ これぞ役年
という和歌と、
睦ましき家は栄ゆる梅柳
という川柳のようなものをこの家に残している。彼の作品のなかに見るアフォリズムなどに比べると、ひどく凡庸な言葉だが、おだやかな家主へのサービス精神から選んだと思えば、うなずけないこともない。
彼がこの碧雲荘の二階のわがへやで、最初にぺンを持ったのは、武蔵野病院での忌まわしい一ヵ月間の体験を、作品に昇華させることであった。題して「HUMAN LOST」。
病院にいる間に書き散らした断片をもとに、苦心の構成を行ったものだが、太宰作品のなかでも第一の名作といいたい。この作品に比べたら「斜陽」など色あせる思いがする。作中他を傷つける部分が歴然であるために、しばらくは創作集にも入れることを遠慮したくらいだ。のちに大幅な削除や訂正を加えて創作集『東京八景』に入れられた。それだけに原本「HUMAN LOST」の生々しさはひとしおである。この作品では、どうしたら真実がわかってもらえようかという太宰の心の躍動がそのままこちら側に伝わってくる。他の作品はむしろ何かを如何に隠そうかとしているように思われるのに……。
「HUMAN LOST」を書いている十日間、作者は焼野原をさまよっているようであった。初代が、
「ちっとも口をきいてくれない」
と井伏夫人に訴えるほど、退院以後の太宰の欝屈は、パビナール中毒以前より、かえって深いように見えた。
有名な熱海事件はそのあとに起った。十二月になると太宰は熱海の安宿にこもり仕事をしていたが「金を届けよ」という命令で、檀一雄が初代から頼まれて届けにいく。なぜ初代がいかないか。初代のなかに太宰を憚る心理があったからだ。
檀の到着で大喜び。早速豪遊がはじまり、持参の三十円は雲散霧消。金策に帰京した太宰がいつまでも帰らず、檀はツケ馬を連れて上京すると、何と太宰は井伏家で将棋をさしていた。このときの百円余りの借金で、また周囲に迷惑をかける。これでは中毒のころの状況と狂乱ぶりはさしてかわらない。
太宰のなかでどうしても氷解しない部分が残っていた。「これでもか、これでもか」と自分をいじめ、笑いものにする以外、人を信じた恥しさは消えない。「笑はれて、笑はれて、つよくなる」である。
昭和十二年になる。三月、浅虫温泉にひっこんでいたKが、学友とともに碧雲荘に太宰夫妻を訪ねてきた。早速酒になる。Kは郷里で仕上げた卒業制作を学校に提出するため上京したのであった。
太宰とKが二階のつき当りの便所で鉢合わせした。人間には一秒前まで考えてもいない行動を、リハーサルなしで行ってしまうことがある。このときのKがそうであった。彼は太宰の肩に手をかけ、
「実はあなたが入院中に、おくさんと間違いをしました」
と告白した。
太宰を心から好きだったKは、何も知らず自分を歓待する太宰をあざむいていることに、がまんできなくなってしまったのだった。表面、太宰はさりげなく受けとめ、
「それは自然だ」
というような言葉を吐いた。それからふたりはもとの席にもどり、何くわぬ顔で酒盛りをつづけている。
しかしそれからが大変だった。太宰にとって地球は昨日までの地球ではもはやなかった。「自分が三人のなかで一番の年上である、しっかりしろ」といいきかせながら、足がガクガク震えた。
ここでもう一度、物語を太宰の武蔵野病院入院のころに戻すことにする。太宰入院の三日前に、Kは自殺未遂で篠原病院に入院した。ここは太宰が盲腸の手術をしたところである。すぐ初代といっしょに見舞にかけつけた。Kは上京以来、いつも太宰のかたわらで、侍童のように親しんでいた青年である。太宰は彼の自殺に当惑した。Kの生家では、これも太宰の悪影響だと思い、K家に嫁いでいる姉が肩身を狭くするだろうと案じられたのである。
たしかにKは太宰と酒ばかり飲んでいる生活に自信をうしなった。〈絵かきになってもとても外国にはかなわない〉という絶望感に襲われたのが自殺の原因である。かねて目星をつけていた小金井の小川で、静脈を切った手を水のなかへ入れたら死ねるだろうと深夜実行した。
が、これでは死ねず、ネクタイで首をしめたがまたも失敗、夜が明けたため近くの友人の家にころがりこんで病院に運ばれた。出血多量で、一時は重態となった。
ところがすぐそのあとで、太宰も脳病院へ強制入院となる。初代は船橋の家をしめて、井伏家に泊りこんだ。武蔵野病院が夫に面会を許さないので、初代は悶々とするうち、Kの家から頼まれて彼のつきそいを引きうけた。太宰と初代はKの母と日ごろから仲が良かった。認められない嫁の初代は、Kの母から励まされ、きものを買ってもらったりするのを大いに德としていた。
井伏家は荻窪で、篠原病院は阿佐ヶ谷、江古田の太宰のいる病院より近い。自殺未遂の男と、夫を精神病院に預けた妻、時代の暗さも手伝って、ふたりの絶望がひびきあうものを呼んだ。互いの傷をそっといたわりあううち、ある日、間違いがおきた。どちらも普通でない精神状態のときだったのだ。
「このことはふたりだけの秘密ですよ」
我に返った初代が頼んだ。
「大丈夫」
とKが誓う。
二週間後Kの傷はいえ、太宰の退院以前に浅虫の別荘にひっこんだ。初代はその下宿のあと片づけを手伝っている。
わたしの青森の旅では、浅虫の旅館でも青森のホテルでも、へややロビーにKの油彩画があった。閑寂とでもいいたい画風で、しばらくむかいあっていると、心が清まるように思えた。この画をかいたひとと姦通とは、何となく結びつかない。わたしはK氏にインタビューのとき、
「ほんとうにまちがいがあったのですか」
ときいてしまった。
「ええ、ほんとうです」
とK氏はこたえた。辛い思い出でも、みにくい思い出とは思っていないやさしい表情であった。
「だまっていればわからずにすんだし、初代さんもあのまま太宰の妻でいられたろうに」
と、事件後半世紀もときが流れたいま、彼は悔む日がある。自分の重荷を投げ出すことにだけ夢中で、告白後の初代の立場まで考える余裕のなかった若さを恥しいと思う。
「ただ、わたしと初代さんが、膝をそろえて太宰の前に出、ふたりの結婚を願ったように書いているものがありますが、そういうことは全くありません」
とK氏はつけ加えた。
ふたりの結婚を願ったのは、太宰の方であった。吉沢祐とも相談してKの生家に打診するが、賛成する者がない。
太宰はもう初代と暮すきもちがなかった。離婚はKとのことがなくても、武蔵野病院の鉄格子のなかで、次第に形をなしてきた考えなのであった。
六
この時代の作家は、文学への苦悩と貧乏で、無頼の暮しをする者が多かったが、一番被害をうけたのがその妻たちであった。文学という魔物に魂を売り渡した夫はいい。ノーマルな妻の方はついていけず脱落する。上林暁の妻は発狂し、牧野信一の妻は夫と不仲になり、滝井孝作の最初の妻は働きすぎて病死した。
太宰の妻であった七年間に、初代の精神もズタズタであった。いや初代だけではない。周囲はみんな巻きこまれる。太宰という妖光を放つ物体への魅力で近寄ったら最後、誰でも傷つかずにすまない。それが作家の宿命である。初代もKもその被害をうけたひとりであったのにすぎない。しかし、
「心をいれかえますから許してください」
とひたすらわびるのは、初代の方であった。
よし不貞は許せても、初代との生活でぶつかる互いのモラルの違いは、あらゆる事象でくっきりと断層をあらわし、もうつくろう術もないようになっている。〈要するに初代の愛の不足だ〉と太宰は不満だった。
問題がこんがらかってくると、太宰はまたもいのちいじりを考える。初代と心中しよう。場所は水上にしよう……と思った。昭和十一年の夏に、太宰はパビナール中毒を自分なりになおそうと考え、谷川温泉の川久保という小料理屋の一間を借りて一ヵ月暮したことがある。上越線の水上駅で降り、さらに約三キロ奥まったところにあるわびしい温泉のわびしい家である。ここを思い出したのだ。
この初代との死の旅のてんまつは、のちに「姥捨」という作品となるが、この内容をすべて真実ととることは危険である。
ときは三月の下旬だった。東京荻窪辺りはボツボツ桜の芽もふくらむころだが、水上はまだそこここに雪がある。その寒い山中にわけ入り、杉林のなかで服毒自殺を行うのである。その次第は「姥捨」によれば、東京を夜十時半発の新潟行きに乗り、水上駅到着が朝の四時。ここらはいやに正確である。駅からくるまで谷川温泉のなじみの家につき、野天風呂を夫婦で浴びてから一献して眠った。冬でも野天風呂に入るのは、これも事実でよろしい。さて、ひるすぎにめざめて宿を出立。水上駅に下る途中の林のなかで、いよいよそろって睡眠薬をのんだ。
男の方が昏睡からめざめたのは、夜になってであった。這いまわって女をさがす。小さな犬ころのような黒い物体をみつけるが、それが妻であった。死んでいないことを確めると、また男は意識を失った。
再び男がめざめたのは夜中である。そのときから翌日のひるすぎまで、男は林のなかで女が眠りつづけるのを見守る。しかも夫にマントなく、妻にコオトがないことが、この旅行の服装を書いたところに断ってある。
さらに夫は昏睡中に水たまりに落ち「背中から腰にかけて骨まで凍るほど冷たかった」と述べている。実に不思議である。この時期の水上で、二十四時間も戸外にいて、この男女は凍えもせず、肺炎も起していないのである。
水上は、叔父がホテルを経営しているため、昭和五、六年ごろから毎年のように遊びにいき、わたしにとってはとりわけなじみの深い土地である。
三月の末でも雪が降り、晴れた日でも山道には雪が残っていて、太宰や初代のような津軽人でも、草っ原に二十四時間もころがっていられるような生やさしい寒さではない。水上の土地のひとならすぐわかることである。
「姥捨」は多くの真実と、たったひとつの嘘をふくんでいることに気がつくだろう。
そのあと小説では汚れたきものを気にしながら女は親切な宿にひき返し、男は妻の着替えをとりに東京へいくのである。そして事実は、太宰はひとりでさっさと東京へ帰り、初代は一汽車おくれて東京に帰った。が初代は碧雲荘にはいかれず、井伏家にたどりついたのである。
井伏夫人は初代を近くの蕎麦屋へ連れていく。紫の絣の銘仙のきものと羽織を着ていたが、衿と裾に泥がベッタリついている。汚れた手を初代は店のすみの水道で、ていねいに洗っていた。しかし何があったかは一言ももらさない。辛そうな表情も見せず、
「下宿にひとりでは淋しいから」
と、その晩から井伏家に泊るようになった。
このふたりの水上行きを何と考えたらよいだろう。しかし太宰はその小説に「姥捨」とは、いみじきタイトルをつけたものである。太宰の胸のなかで、初代は無用と大きく叫ぶものがあることを示したのだ。疑似心中は妻を捨てるための、手のこんだ儀式にすぎない。
初代は一ヵ月ほど井伏家にいた。よほど辛かったのだろう。「カラキジ」の彼女が、ボタボタ涙を流す姿を家のひとに見せている。それでも井伏家にいたのは、そうしていれば、井伏が太宰との仲を何とかもとに戻してくれるかもしれないと考えたからである。
太宰はときどき井伏のもとへ将棋をさしにやってきた。初代は茶の間か台所に身をひそめていたが、茶の間から手洗いに立つには、井伏と太宰のいるへやの廊下を通らなければならず、ふたりが鉢合わせしないように、井伏夫妻は何かと心を遣わなければならなかった。そこで井伏は太宰を連れ出して外へ飲みにいくことになるのだが、酒がまわり、太宰がきげんのよいころを見計って、
「もう一度、初代さんと暮す気はないか」
と話しても、太宰は、
「その話だけは」
と断るのがならいだった。
井伏家にある日、訪問客があった。
「こちらに初代さんはおいででしょうか」
六十すぎた農夫のようなイカツイ男だった。船橋時代の大家があらわれたのである。井伏夫人がふり返ると、茶の間で初代が手を振っている。
「いない」
と断ると、男はみるみる落胆して、「一目でいいから初代さんに逢わしてください。こちらへくればわかると思ってきたのですから」
と玄関の式台に、どっかりと坐りこんで動かない。初代を深く思っているようすだった。
この男と初代との間にも、何かがあったのだろうか。
井伏夫人は、
「初代さんは魅力のあるひとなんだなァと感心いたしましたよ」
とさりげなく語っているのだが……。
結局、初代は青森に帰ることにきまった。初代は帰る前に、碧雲荘の太宰のふとん側を全部洗い直していく。
浅虫に吹雪が舞っていた。昭和十六年ごろ、キミの家で、Kは初代と一夜語りあったことがある。その日のひるま、この三人は偶然浦町駅という小さな駅で出会ったのである。
むろん何げない世間話を語りあったにすぎないのに、なつかしさは互いの胸にあふれた。男と女の感情ではない。ある期間、太宰治という稀有の才能の華々しさ、楽しさ、苦々しさをわかちあった者どうしの、ふしぎな情愛であった。
しんしんと降る雪の音の聞えるような静かな晩であった。
「早く結婚して、お母さんを喜ばしてナ」
と初代は別れるときにいった。
太宰と離婚してのちの初代の足どりは、正確にはわからない。まず水上事件の三ヵ月後に、青森の柳町に住むキミのもとへ戻った。別れた当座は、たよりをしげしげと初代の方から太宰に出したらしい。次の手紙は、太宰からの返辞である。
拝復
無事ついた由、カチャや誠一にわがまま言はず、やさしくつとめて居られることと思ひます。こんどのお手紙は、たいへんよい手紙でした。自分の心さへやさしかつたら、きつとよいことがあります。これは信じなければいけません。
私は、やさしくても、ちつともいいことはないけれども、それでも、まだまだ苦しみ足りないゆゑと思ひ、とにかく努めて居ります。
約束の本や時計、できるだけ早くお送りいたしませう。
蚊帳の中に机をひつぱりこんで仕事をして居ります。
いろいろ世間の誤解の眼がうるさいだらうから、これで失敬する。 修治
七月十九日に鎌滝という天沼では五番目に移った下宿から、青森市柳町の初代に出した手紙である。
初代は長くは青森にいず、叔父のひとりが住む室蘭に移ったもようである。母恋北町というところからきちんとしたまるい字で、井伏夫人のもとへ、何度かたよりがあった。室蘭ではどこかへつとめていたらしい。
その室蘭で、初代に熱を上げた大学生があった。写真をとってくれたりするうち、結婚を申しこまれてしまった。
学生の家で初代の身許調べをしたのである。井伏家や飛島家の写真まで貼った調査書類を見せられて〈もうダメだ〉と初代は観念した。
まだ二十六歳の初代だった。太宰との同棲を経て、ただの女にはないキラキラしたものが、いつか身に備わったのではないだろうか。
誠一は青森で干魚を売る店をしていたが、じきに仕舞い、食堂に板前修業に入った。そのうち浅虫の旅館や料理屋で働くようになり、キミも浅虫住いとなる。
浅虫には青森中学の図画教師をしていたKが住んでいたので、初代は室蘭から肉親の顔を見にくることも気兼だったにちがいない。そしてやっぱりふたりは浦町駅で再会した。
その後の初代は、中村清という軍属と深いかかわりを持つようになる。自棄なのか、新しい愛なのか、このひとに誘われ、大連、青島と初代は流れていく。
昭和十七年に、初代は一月ほど日本に帰っていた。このときは眼瞼下垂症という病気にかかっていて、顔がよじれ、口も曲り、
「涙が出てしょうがない」
とハンカチでいつも目をおさえていた。しかし泣き言はいわなかった。
このとき初代は白麻のスーツを着ていて、
「お母あちゃん、この仕立高いのよォ」
と井伏夫人に自慢した。また青島に帰るというので、井伏夫妻がしきりにとめたが、やはり出発した。
そしてそれから足かけ三年目に、初代の死が、浅虫に知らされた。亡くなったのは中華民国山東省青島市浙江路四号で、昭和十九年七月二十三日であり、届出人は中村清であった。心臓まひとも、また病気を苦にしての自殺とも伝えられている。
青島で初代は慰安婦だったと噂されているが、太宰ほどの夫を持った身として余りにもくやしい末路であり、信じたくない。わずか三十二歳という若さも哀れだが、太宰との七年間に、常人の三、四十年にも当る歳月を生きた初代だったのである。
この時期、太宰は甲府に滞在して「津軽」の執筆に耽っていた。すでに再婚して二人目の父となるところであった。初代と離婚後の彼は、みごとに自分を立ち直らせ、このころは健康な作品を多く発表している。
初代の死を太宰が聞くのは、それから一年近くのちのことである。