日本版魔女裁判
昭和十九年の一月二十九日の朝、私は神奈川県の特別高等警察(特高)に逮捕された。まったく身におぼえのないことだったので、私は特高に令状の提出を求めた。令状なしの逮捕ではないかと疑ったからである。
特高は、だまって令状を示した。それには横浜地検の山根検事の署名で、「治安維持法違反の嫌疑により逮捕する」むねが書いてあった。たしかに正式の逮捕令状である。私の逮捕に特高が自信をもって臨んでいることがわかったし、これは長いぞと思わないわけにはいかなかった。それを裏づけるように、特高の一人がいった。「留置場は寒いぞ。うんと下衣を着こんでおけ」。
こう書くと、いかにも私が落着き払っていたようにみえるが、本当はかなりあがっていたようだ。なにしろ朝六時ごろ、まだ寝ているところへ踏みこまれたのである。刑事たちが家宅捜査にかかっているあいだに、あわてて私は朝飯を喰った。熱い味噌汁をすするとき、うまい味噌汁はここ当分はのめないなあ、と思ったことをおぼえている。
いまでも私は横浜事件の夢をみる。家へ踏みこまれたり、特高に追いかけまわされている夢である。目がさめて、ああ、夢でよかったと思う。横浜事件の傷は、いろんな形で、いまも私の心に深い痕跡をのこしているのである。
身におぼえがないとはじめに書いたが、一方では「とうとう来たな」という感じがなかったわけではない。というのは前年の昭和十八年の五月から中央公論社や改造社の編集者たちが、つぎつぎと神奈川県特高に検挙されていたからである。
たいてい私の親しい友人たちであった。そういえば、こんなことがあった。
十八年の夏ごろ、「中央公論」編集部の浅石晴世君とつぎのような話をした。二人の共通の親しい友人である木村亨君が、この年の五月に検挙されていた。しかし木村君がなぜつかまったのか、かいもく私たちには見当もつかなかった。とつおいつ考えたすえ二人の結論は、共産主義の地下組織に木村君は関係があったのではないかという疑問であった。それ以外に、特高に検挙される理由は考えられなかったからである。
「木村のやつ、おれたちに秘密で、なにかやっていたんだな」と、浅石君と私は深刻な表情で話し合った。ところが皮肉なことに、その翌朝、当の浅石君が検挙された。
このときのおどろきは、言葉では表現できないほどであった。だが、浅石、木村両君と同じ運命が私にもおそいかかってくるとは、そのとき、ほとんど考えなかった。思えば、呑気な話である。二人は秘密の地下運動をやっていたにちがいない。しかし自分はなにもやってないから心配はない、というふうに愚かにも私は考えていたのである。
しかし一月二十九日の朝、「とうとう来たな」と思ったのは、まきぞえで検挙されるかもしれないという危倶が、心の片隅にあったからであろう。だが、ひどく楽天的な性分なので、たとえ検挙されても地下運動と関係がないことは、いずれ特高にもわかるに相違ない、と私は楽観していた。いまから思えば、まことに甘い考え方であった。
三人の特高に引き立てられて、東京赤坂の家から横浜の磯子署へ到着するまで、私はうとうと眠っていたらしい。「きさまはふといやつだ」と特高はいったが、これは買いかぶりである。いくら悪名たかい特高でも、なにもしていない人間を罪にするわけはない――正直、そんなふうに考えて私はたかをくくっていたのである。
こうした私のオプティミズムは、磯子署の豚箱に放りこまれて一時間もたたぬまにやぶられた。二階の道場へひっぱりだされ、いきなり「きさまは共産党員だな、白状しろ」といわれ、私がまっこうから否定すると、カシの木の六尺棒でさんざんになぐられた。力いっぱいなぐったとみえ、六尺俸はまん中から折れてけしとび、肩から腕にかけて肉がやぶれ血が流れた。それから柔道五段と称する警官に、めちゃめちゃに私は投げとばされた。
動けなくなってのびていると、Tという警部補が私の顔を足で踏みつけた。
「シャバでは相当の地位にいたそうだが、警察では虫ケラ同然だぞ。おまえたち国賊はなぐり殺してもよいと上司から許可がおりている。徹底的にヤキを入れるから覚悟しろ」と、さも憎々し気にいった。これが拷問のはじまりだったのである。
横浜事件は戦争中の最大の言論弾圧事件であった。と同時に拷問の苛烈さにおいても定評がある。検挙された四十九名の全員が拷問され、気絶した者、負傷した者もすくなくない。そして拷問のさいに「おまえたちのような国賊は、殺してもよいことになっている」と威嚇されたことも共通である。「殺してもよい」という言葉は、なかば威嚇であったに相違ないが、半面「殺してもよいから徹底的に吐かせろ」という申合せが神奈川県特高にあったとみてよいだろう。日本の特高は、すでに何人かを拷問で責め殺していた。小林多喜二、野呂栄太郎、岩田義道などの共産党員が、そのときまでに殺されている。戦前にも拷問は禁止されていたが、それはタテマエにしかすぎず、実際は空文にひとしいものだった。ことに思想犯の場合、拷問はつきもので、たとえ拷問で殺しても、社会的には不問に付され、殺した当の下手人たちも処罰されることはなかった。これでは拷問がなくなるはずはない。
神奈川県特高の「殺してもよい」という言い草は、そのような警察部内の空気を背景にしたものであることはいうまでもない。しかし思いきった拷問がなされたのは、それだけの理由ではないだろう。
その理由の一つは、横浜事件が完全なフレーム・アップだったことである。これについては後に述べるが、いわゆるデッチあげの事件だったために、ありもしない事実を拷問によってつくりあげるほかはなかった。
その二つは、太平洋戦争は昭和十七年の段階で敗勢に転じ、日本は日に日に追いこまれつつあった。この年、サンゴ海やミッドウェーの海戦で敗れ、ガダルカナル島は死闘の後、奪回されている。相つぐ敗戦は日本の支配者たちの自信をうしなわせ、心理的には焦燥状況へ追いこまれていた。そうした状況を背景に、神奈川県特高は功をあせっていたといってよい。
私はたびたび取調べ中に、係官から戦争に勝てると思うかという質問をうけた。敗戦は必至の情勢だとこたえても、彼らは私の言葉に反駁をしなかった。こうした役人どもの自信の喪失が、逆にヒステリックで凶暴な拷問をよびおこしたといってよい。
その三つは、当時は命が極度に粗末にされた時代だった。兵隊は「一銭五厘のハガキ」で戦場ヘ駆り立てられたし、中国や東南アジアの民衆は虫ケラのように日本軍に殺されていた。軍人勅諭がいうように、「死は鴻毛よりも軽い」時代だったのである。国賊というレッテルをはりつけられた横浜事件の被告たちの生命が、チリ、アクタのように取り扱われたのは“当然”だったといってよい。
その四つは、横浜事件の被告を裁いたものは天皇の裁判所であり、取り調べたのは天皇の特高であった。私を担当した関重夫という予審判事は、自分は天皇の裁判官だと豪語し、「自分にウソをつくことは、天皇陛下にウソをつくことになる。ほんとのことをいえ」と責めたてた。「それではほんとのことをいいましょう。私の自白は、拷問によってつくられたまっかなウソです。私たちには治安維持法にひっかかるような事実は、なに一つありません」というと、関判事は激怒した。そして私を拷問したT警部補をよび、「もう一度調べなおせ。まだ性根がなおっとらん」といった。つまりヤキを入れろということだが、これが「天皇の裁判官」の正体だったのである。
特高警察の連中にも「天皇の特高」という意識があった。横浜事件の被告は共産主義者である。共産主義者は、国体の変革、つまり天皇制の打倒を目ざしている。その第一歩として彼らは反戦の意図のもとに雑誌を編集した。このような天人ともにゆるさない国賊にたいしては、どれほど手きびしいテロをおこなっても、きびしすぎるということはない。彼らを拷問することは、天皇陛下への忠誠のあかしだ、というのが特高の論理である。
こうした心理的プロセスが、特高たちをいっそう残虐にしたと私は考える。したがって拷問で責め殺しても、特高には良心の苛責は一片もない。一切の蛮行が、天皇の名によって浄められ、高められるからである。
これは日本版の異端審問、魔女裁判だといってよい。カトリックの神父たちは、いわゆる魔女にたいして身の気のよだつ拷問をやり、彼女たちを火刑にすることで、自分たちの神への忠誠心を立証したのだ。魔女への憎悪のはげしさこそ、神への愛や信仰のはげしさを証しするものであった。つまり神のための蛮行、天皇のための蛮行という点で、二つのものは共通のものをもっていた。そしてその残虐性は、ともに至高の存在によって浄められ、高められたのである。
このようなサイコロジーは、たぶんユダヤ人の大量に虐殺したナチス党員のサイコロジーでもあった。ドイツ民族の純潔をまもるために、彼らはなんのためらいもなく、数百万人のユダヤ人を虐殺したのであった。
事件のアウトライン
ここで横浜事件のアウトラインについて述べておきたい。この事件はかなり複雑多岐な事件で、いくつかの異ったグループを、神奈川県特高が強引に一本化してしまった。そのためにすっきりした輪郭を描くことはむづかしい。ここでは言論弾圧事件としての部面を強調するため、いくらか偏った書き方になることをゆるしていただきたい。事件の発端はこうである。
昭和十七年九月十四日、そのころ著名な評論家であった細川嘉六氏が警視庁に検挙された。細川氏は大原社会問題研究所を退いてから、ソ連や中国の研究者として知られ、大陸政策や植民地政策の批判者として論壇に重きをなしていた。
その細川氏が昭和十七年、当時は「中央公論」と肩をならべる総合雑誌だった「改造」の八月号と九月号に「世界史の動向と日本」と題する巻頭論文を連載した。この論文は、中国や東南アジア諸国を武力で占領した日本は、八紘一宇や東亜新秩序をとなえているが、諸民族を力でおさえつける旧来の植民地政策は、被占領国の民族主義と衝突してかならず破綻をきたす。したがって各民族の自主性を重んじ、平等の立場をみとめなければ成功はおぼつかない。この点ではソ連の新しい民族政策に、日本は学ばなければならないという論旨であった。
この論文がきびしい検閲をパスしたのは、「八紘一宇」などの皇国史観の表現を使い、表面は国策に協力するように見せかけたせいで、その内容は内閣情報局の検閲を通過できるものではなかった。もっとも今日の眼でみればソ連の民族政策の過大評価をのぞけば、細川論文の示すところは世界の常識だといってよい。
ところが細川論文の二回目が「改造」に発表されてから一カ月後の九月十四日、「日本読書新聞」に大本営報道部長の谷萩大佐の名で、この論文は共産主義の宣伝であって、これを通過させたのは検閲の手ぬかりだという談話が掲載された。そのため一度は検閲をパスした「改造」は発禁となり、その日のうちに細川氏は警視庁に検挙されてしまった。当時の陸軍の勢威が、どれほど強大だったかを端的に示す事件だといってよい。
ところが同じく昭和十七年の九月、これとは無関係に神奈川県特高は川田寿夫妻を逮捕した。川田氏は昭和五年に留学のため渡米、アメリカの労働運動や反戦活動に関係していたが十六年に帰国し、コミンテルンとの関係などを疑われて検挙されたのである。別に証拠があったわけではなく、あるいはという疑いだけで特高は逮捕したのである。人間の基本的人権など、平気でふみにじられる時代であった。
さらに川田氏の交友関係をたぐって満鉄調査部や世界経済調査会の研究者がつぎつぎと逮捕され、これらの逮捕者の机のひき出しから一枚の写真が押収された。写真には細川氏を中心に同行の編集者や研究者が写っていた。この一枚の写真から神奈川県特高は「日本共産党再建」というマボロシの事件をフレーム・アップし、つぎつぎと検挙の網をひろげた。
この写真が撮られたいきさつはこうである。昭和十七年の七月、細川氏は郷里の富山県泊町へ法要のため帰省したが、ちょうど新著の「植民史」を刊行したあとだったので、親しい友人七名を招き、泊町の料亭で慰労の宴をはった。その七名のなかに改造社の小野康人、相川博、中央公論社の木村亨君たちがいた。特高はこの一枚の写真に、川田氏の関係者と細川氏の関係者をつなぐ扇のカナメの役割を負わせたのである。
泊町の料亭や旅館で七人の人たちがなにを語り、なにを“謀議”したか。特高は係官を泊町に派して、料亭や旅館の関係者をとりしらべたが、なにひとつ秘密らしいものはあらわれなかった。しかし彼らには拷問という奥の手がある。拷問につぐ拷問で、とうとう共産党再建の謀議を“泊町会談”でおこなったことを“自白”させてしまった。
横浜事件は無から有をフレーム・アップした事件であるが、その中軸は泊会談と称されるものである。ここで日共の再建謀議がおこなわれ、その謀議にもとずいて「中央公論」や「改造」の“反戦意図にもとずく編集”がなされ、組織を拡充するために各社の編集者に働きかけたということになっている。これは神奈川県特高が描いた実体のない蜃気楼にすぎないが、そのため二つの代表的総合雑誌が廃刊に追いこまれ、多くの良心的な編集者が投獄され、六人の被告が生命を奪われるにいたるのである。
フレーム・アップの手口
だが考えてみるがよい。日本共産党は昭和三年の三・一五事件、翌四年の四・一六事件で大きな打撃をうけ、昭和八年の宮本顕治、九年の袴田里見氏の検挙によって党中央は破壊されている。それ以後も各地に小人数の地下活動はあったが、それらは孤立分散しており、全国的な中央組織が結成されぬまえに検挙につぐ検挙、弾圧につぐ弾圧でつぶされてしまった。
したがってもし共産党の再建をくわだてるとすれば、最高度の秘密がたもたれねばならないし、細心のうえにも細心の機密保持が必要なことはいうまでもない。ところが泊会談のメンバーは、わざわざ記念写真を撮り、まるで写真にうつった全員を検挙してくださいとでもいうように、“証拠写真”をのこしているのである。ほんとうに共産党の再建を意図しているならば、こんな阿呆なことがあるはずがない。
このことだけでも“泊会談”が、たんなる慰労宴だったことは明かである。シロウトならばいざ知らず、ベテランの特高警察官や思想検事に、こうした道理がわからぬはずがあろうか。
私は横浜事件について、一つの疑惑をもっている。それはこの事件は神奈川県特高が共産党再建という蜃気楼を信じたからではなく、はじめから意図的にデッチあげた事件ではないかという疑惑である。そう思うのは、かならずしも根拠がないわけではない。
あるときAという私の担当特高に、「君の自白は、ほんとうに信じてよいのか」ときかれたことがある。私は思いがけぬAの言葉におどろいた。それはA自身が横浜事件の虚構に気がついていたのだ、というふうに私には受けとられた。それでせきを切ったように、私の自白はすべてウソである、拷問の苦しさに屈伏して心ならずもウソをついてきたが、私はそのことを恥かしいと思う。しかしこの事件の被告たちはすべて私と同様に実際はなにごともしてはいない、と私は真実を話した。そのときAはだまってきき、ひとことも反駁しなかった。
ところがなか一日おいて調べ室にあらわれたAは、「この野郎、ふとい奴だ。いわせておけば勝手な熱を吹きやがって」と、いきなり竹刀をふりあげ、さんざん私をなぐりつけた。私の両脚がはれあがって、動けなくなるまで。
Aは私をからかったのであろうか。あるいは私をためしたのだろうか。どうもそんなふうには考えられない。A自身がこの事件の虚構性に気がつき、君の自白は本当かと私にただしたように思われてならない。Aは以上の疑問を特高の上司に話したかもしれない。その結果、なにをいうか、それで特高がつとまるかと叱りとばされ、照れかくしもあって、竹刀で思いきりなぐりつけたのではあるまいか。
こういう私の推理は、アマいのかもしれない。しかしあのときAの真剣な表情を考えると、まるきりトリックだったとは考えられない。Aに一片の良心や良識があるなら、私の自白なるものが拷問につぐ拷問によってえられたものであり、ぜんたいとして辻つまのあわぬものであることは当然わかるはずなのである。
ここで横浜事件の検挙者の一覧表を時間を追ってかかげておこう。事件は複雑多岐にわたっているので、いちいち書けば何枚あっても追いつかぬからである。
昭和十七年九月十一日 川田寿夫妻
九月十四日 細川嘉六
昭和十八年一月 高橋義郎(満鉄東京支社調査部)
五月十一日 平館利雄、西沢富夫(満鉄東京支社調査部)、益田直彦(世界経済調査会)
五月二十六日 木村亨(中央公論社)、相川博、小野康人(改造社)、加藤政治 (東洋経済新報社)、西尾忠四郎 (満鉄東京支社調査部) 以上の十名は泊会談出席者
七月一日 新井義夫(アジア協会)
七月三十一日 浅石晴世(中央公論社)
九月九日 勝部元、高木健次郎 (日鉄木社)、小川修、由田浩 (古河電工)、板井庄作(商工省)、森数男 (大東亜省)、白井芳夫(糖菓連合)
昭和十八年九月十八日 山口謙三(日本鋼管)
十月一日 和田喜太郎(中央公論社)
十一月二十七日 渡辺公平(日鉄八幡) 以上の十二名は昭和塾グループ
昭和十九年一月二十九日 小森田一記、畑中繁雄、青木滋 (青地晨)、藤田親昌、沢赴 (以上五名は中央公論社)、小林英三郎、水島治男、若槻繁、青山鉞治(以上四名は改造社)
三月十二日 大森直道(改造社)
六月三十日 酒井寅吉(朝日新聞社)
十一月二十七日 美作太郎、松本正雄、彦坂竹男(以上三名は日本評論社)、藤川覚(岩波書店)
昭和二十年四月十日 鈴木三男吉、渡辺潔 (日本評論社)
五月九日 小林勇(岩波書店)
そのほか愛国労働農民同志会関係の田中正雄(東京航空計器)、広瀬健一(政治公論社)などの右翼的な人物や、作家の那珂孝平、崔広錫(東大医学部助手)など、合計四十九名が検挙され、一括して横浜事件の名をつけられている。
このなかで昭和塾グループとよばれている被告たちについて簡単に説明すると、昭和塾出身者たちは昭和十七年はじめに政治経済研究会をつくり、高木健次郎や浅石晴世を中心にドイツ・ファシズム、満州事変以後の日本資本主義などをテーマに研究会をひらいていた。この研究会が横浜事件とむすびつけられたのは、昭和塾の講師のなかに細川嘉六氏や後にゾルゲ事件で死刑になった尾崎秀実氏らがいたことと、浅石君が中央公論編集部員だったからである。
昭和塾というのは、近衛文麿のブレーンだったといわれる昭和研究会のメンバーを講師陣として昭和十四年頃つくられたもので、近衛グループの中堅人材の養成を意図していたといわれ、中央官庁や有力大企業などの人材があつめられていた。
つぎに横浜事件をフレーム・アップした側について述べると、横浜地検の中心人物は思想検事の山根隆二で、そのほか長谷川明、伊藤勝、井口清などの検事がくわわり、予審判事は横浜地裁の石川勲蔵、斎藤孝次、関重夫、土田吾郎、広沢道彦らであった。
取調べにあたった神奈川県特高は、特高課長平城国蔵、係長松下英太郎の下に、柄沢六治、森川清造、竹島某らの警部補、その他赤池某ら十数名の巡査部長級の係官がいて、それぞれ警部補を中心にチームを編成していた。
以上、裁判官、検事、特高警察などの名まえを列記したのは、この事件が悪質なフレーム・アップ事件であって、神奈川県特高はもちろん、フレーム・アップに加担した検事や予審判事も責任の一半をまぬがれないからである。
私の原点としての横浜事件
ここでふたたび私ごとにもどると、昭和十九(一九四四)年一月二十九日に検挙された私は、昭和十七年の細川、川田夫妻の検挙、十八年の細川グループ(共産党再建の泊会談グループ)、同年の昭和塾関係者の検挙につぐ第四次の被検挙グループに属していたわけだ。この第四次検挙は、「中央公論」、「改造」の編集者にねらいをさだめたもので、戦局の悪化にともない、戦争に非協力の総合雑誌の編集部員をシラミつぶしにつぶしてゆく方針がとられたものと思われる。この“左翼編集者狩り”は、二十年七月の中央公論社、改造社の強制解散ヘエスカレートするのである。
ここで戦時下の言論統制について簡単に述べると、太平洋戦争の一年前の昭和十五年十二月、言論統制の“大本営”として内閣情報局が設立されるまで、検閲は内務省警保局検閲課でおこなわれていた。雑誌の刷り上がりと同時に、ここへ二冊を納本して係官の検閲をうける。雑誌の内容が当局の忌諱にふれると、発禁や部分的な削除が強行される。それを避けるために編集者は××の伏字を使った。ここは危いと思う箇所は、心ならずも××を用いたので、ときには数行や半ページにわたって××が連続することもあった。
ところが内閣情報局が発足すると、事後検閲から事前検閲に変更された。事前検閲というのは雑誌が出来あがるまえ、つまり校正刷の段階で情報局に提出し、検閲後に本刷りにかかるわけである。だから発禁や削除ということはない。それらの部分は、校正刷の段階で係官によって取りのぞかかれるから、読者には検閲の事実がわからないという効果がある。
つまり検閲のやり方がより高度化し、知能犯的になったといってよい。事後検閲では、慣れた読者は××の伏字の内容をほぼ推量することが可能だ。パズルを解くような興味で、“眼光紙背に徹する”読み方ができる。ところが事前検閲だと、削られた部分は読者にまったくわからない。数行あるいは半ページもバッサリ削っておきながら、読者に気づかれぬように前後をつなぐことを検閲官は編集者に要求した。どだい無理な注文だが、やらねば雑誌が発行できないわけである。神経がすりへるような、まったく辛くて嫌な作業であった。
だが雑誌への言論統制はこれだけではなかった。私が「中央公論」の編集部にはいった昭和十三年の頃にも、四社会という集まりがあった。これは陸軍や海軍の報道部長を中心に「中央公論」、「改造」、「文芸春秋」、「日本評論」の四大総合雑誌の編集長が出席する会で、料亭でひらかれ、会費は廻り持ち、わりと気楽な会合だった。私たち若い編集部員も編集長の代理で、よく出席させられたものである。陸海軍の軍人がはじめに簡単な戦況報告をやり、あとは気楽な雑談会であった。
この四社会は、陸海軍による言論統制の意図のもとにはじめられたことは疑いないが、実際は陸海軍報道当局者と四つの総合雑誌の編集者との懇談の意味がつよかった。この会によって雑誌の編集が左右されたり影響されるということはほとんどなかったと思う。また「日本評論」のS編集長を除いては、軍人たちと特別に懇意な関係となった者もいない。その程度の会合であった。
ところが内閣情報局が発足してまもなく、情報局の公式会合として雑誌懇談会がつくられた。この会合は当時のおもだった雑誌を網羅したもので、情報局の大広間でひらかれ、一段高いところに講壇ふうな台がもうけられた。そこに仁王立ちに突っ立った軍人情報官が、「これから今月の雑誌について講評する」と蛮声をはりあげるていのものであった。
私はこの講評という言葉に奇異なものを感じた。講評とは、軍隊の演習などの場合に、上官が部下の演習の成績を論評する場合に使われる言葉で、上から下へのコミュニケーションで、そこには権威と命令がともなっているからだ。戦争屋の軍人にジャーナリズムがわかってたまるかというのが、正直、私たちの気持であった。
雑誌の講評にあたったのは主として平櫛という中佐であった。まじめで学究肌の人のように感じられたが、頭のコチコチの職業軍人であることはかわりない。「中央公論」や「改造」は、毎号のように国策非協力のかどで槍玉にあげられ、あるときは口をきわめて罵られ、「非国民」ときめつけられたりした。
ところがもっと腹が立つのは、同じ編集者仲間から「中央公論腹を切れ」という発言がとびだしたことである。それをいったのは「公論」という軍部べったりの雑誌の社長村上某であったか、講談社「現代」の編集長の某だったかを私ははっきり記憶していない。いづれにしろ、情報局の軍人情報官とは特別に密接な関係をむすび、さまざまの便宜があたえられていた。また出版社と軍人情報官との野合、癒着も目にあまった。軍人たちは出版社の幹部に連夜のように料亭に招かれ、芸者を抱いて浮かれていた。また戦意高揚の原稿を依頼され、それらの原稿料は法外の値段が支払われたという。態のよい袖の下であることはいうまでもない。あの頃の軍人は堕落していた。権力は、必ず腐敗する。その事例を、彼らのなかに見たと私は思った。
私たちを取りまいていた状況は、以上のようなもので、戦争を批判する自由は、まったくなかった。いや戦争への協力が不十分というだけで、非国民よばわりされる時代であった。
そういう状況のなかで検挙された私たちは孤立無援だった。残された私の家族の世話をしてくれた友人はほとんどなかった。親類からは義絶同様となり、嫂は戸籍から私を除籍しようとした。私の家族は信州へ疎開したが、思想犯の家族であることがわかると、わずか一日の猶予で追い出され、空襲下の東京へ帰らねばならなかった。私と妻や子供たちは、まるでぺスト患者のように近づくことを恐れられ、孤立した境涯へ追いこまれてしまった。
精神的、物質的な援護を欠き、社会から白眼視され迫害された被告はみじめである。また死を堵してまもるような思想や信条のない“思想犯”は、いっそうみじめである。私たちには拷問に抗してまもらねばならぬ秘密も組織もなかった。私にできたことは、私の“自白”によって、新らしい検挙者を一人もださないということだけだった。私は検挙されるとは夢にも思わず、無防備で甘ったれた楽観論のまま逮捕された。そして言語に絶する拷問にあい、ここで死んでは犬死だと思ったのである。
以上が拷問に屈し、ウソの自白をした私の弁明である。しかし上の弁明が人びとを十分に納得させるものとは思ってない。自分でも心中じくじの思いがある。しかし私は英雄でも豪傑でもない、ただの凡人である。秘密の地下組織に属するか、英雄でないかぎり、あの条件下で真実をつらぬき、拷問に抗しつづけることは不可能にちかいと思う。
私がこのように考えたのは、戦後、いくつかの免罪事件を調査して、ウソの自白で無実の罪におとされたケースが、いかに多いかを知ったからである。世間の人びとは、真犯人でなければ自白するはずはないと信じているが、のちに二審、三審で強制されたウソの自白ということが判明して釈放された“犯人”もすくなくない。人間は決して鉄の人ではなく弱くて脆い生きものなのである。だが無罪になったのは運のよい人たちで、多くの免罪者はいまも獄中にある。
横浜事件は私に深い傷をあたえたが、反面、私の再出発の原点になった。戦後私は免罪事件や人権問題に取り組んできたが、刑法改悪反対の運動や、金大中氏の人権擁護に端を発する日韓問題に深入りしたのも、横浜事件という原点があったからである。そういう意味で善かれ悪しかれ、横浜事件が戦後の私をつくったといってよい。私はこの事件に感謝すべきかもしれない。
もう一ついっておきたいことは、この事件はまったくのフレーム・アップだと述べたが、検挙された編集者や昭和塾グループの人びとが、戦争に批判的だったことは事実である。まったくのフレーム・アップとはいいきれぬかもしれない。
しかし私たちは秘密の組織をつくって反戦活動をしたわけではない。また自分たちの編集する雑誌に、戦争批判を掲載したわけでもない。前章にも書いたように、事前検閲という条件下で、それは不可能にちかかった。ドレイの文字を使って、極力、表面をごま化した細川論文でさえ、あとでは発禁となったのである。あれが編集者としては、せい一杯の抵抗であったが、それが横浜事件の口火となったことは、ここにくりかえすまでもない。
要するに私たちの戦争批判は、いわば頭の中のことだけで、行為としてはあらわれなかった。横浜事件は行為ではなく、頭の中の考え方が治安維持法で処罰された事件である。そこに横浜事件のおそろしさがある。ついでにいえば英雄でも豪傑でもなく、反戦活動さえやることができなかった私たちを投獄し、拷問したことに特高警察の真のおそろしさがあると私は考える。
私たちは九月末から十月にかけて、つぎつぎに釈放されたそのとき一人の看守が私の耳にささやいた。「おまえ運がよいぞ。もし米軍が上陸作戦をやったときは、おまえたち思想犯は全員射殺しろという命令がでていたぞ」と。当局は、銃後の不逞分子として、私たちを殺す気でいたのである。