海辺の宿

 その夏その海で、ひとりの老人に出会った。

 八十歳に近いだろうその老人は、その春、七つ年下の四十五年連れ添った妻をくしたという。悪性の風邪かぜから肺炎を起こして、いきなりったというのだ。

 あれは一九六五年のことだ。私は四十歳。東京の新宿で小さな業界新聞の編集長をしていた。が、どういうものか、何もかもがいやになって旅に出た…。

 私は魚釣りが好きで、ときどき出かける。海を山を川を見ながら浮いているウキを見ていればいい。釣っても逃がしてやるという釣りだ。

 その老人とは三浦半島の松輪まつわという地の、小さな釣り宿で一緒になった。大半は釣り船で朝早くから沖へ出て釣る本格派だったが、その老人も私と同じように岸から釣っていた。縁があったのだろう。偶然、釣る場所、泊まる宿も同じであった。

「釣れませんな」

「そうですね」

 老人の方から声がかかり私が応じ、なんとなく親しくなって、その日の夕食は一緒にということになった。互いに一匹も釣れなかった。宿に帰り、それぞれで風呂に入ってから私の部屋でくつろいだ。私はビール、老人はお銚子一本だけ。それを少しずつ、ゆっくり飲む老人に、どこか上品な仕種があった。

「私は海が好きでね」という話から「下手なのですが、魚釣りが…」と話が進んで行く。夕方の海がいい潮風を運んできていた。

 かつては、ある大手企業の部長職にあったとのことだ。私が、しつこく聞き出したのだ。

 定年で退職してからは、その亡き妻とも、よく釣りに出かけていたという。釣っていると、妻は必ず食事の“おにぎり”を持ってきてくれた。そこでポットで熱い茶を入れてくれたり。

「あのね」少し酔った老人は、私をじっと見つめてからいった。「ながい間連れ添った妻に死なれるのは、これはつらいぞ」そういってから「いいかね」と、また念を押して、「結婚してね。その若い時分から、ずっと四十五年間、いろんなことがあった。夫婦ゲンカしたこともね。しかしね、やがて性の欲求を越えてね。ま、そういうことが一切なくなってさ、かつての愛とか友情とかというものとは、さらに違った関係。この人と一緒でなければならないという一体感みたいな、この年になって“美しい関係”なんていったら笑われるかもしれないが。いやね、人間と人間って、ここまで通じ合え理解し合えるというか、妻と私はね、いよいよ愛し過ぎるほど愛しはじめていたんだ」

 少しの酒。それが、ここちよい酔いとなってか、私に、その妻との想いを語っていてくれる。

 首筋の深いしわが、ときどき波を打つ。そのしわは、その老人の歴史をほのぼのと語ってくれているようであった。その話しぶりの片隅に、かつては勇躍ゆうやくとして仕事に立ち向かっていたであろう余韻があった。

 夕方の海辺の宿で老人の白髪が海風になびく。さかずきの酒を、ほんのちょっぴり口に、「今夜はいい。キミに会えて嬉しい」

 カッコイイ老人だと思った。私は老人のさかずきに、とっくりを持って注いだ。ちょっぴりちょっぴり飲む酒であった。これもまた、いい飲みっぷりではないか。

 老人は、「一曲うたうぞ」といってから、“ああ玉杯ぎょくはいに花うけて、緑酒りょくしゅに月の影やどし…”かつての旧制の一高の寮歌だった。かすれた声と太い声がまじって、途中で何度も息をついたり、歌にならない歌のようでもあった。

 しかし、堂々として屈託なく一生懸命うたっていた。窓から入る潮風は、なんとも、すがすがしかった。まっ暗な海の遠くに漁火いさりびが星のように見えた。

 その歌は、過ぎ去ってきた青春時代の情熱や、沢山の人生の試練をつつみこんだ深みにあふれていたように思う。

 かつて妻に聞かせた歌かも知れない。

 老人の目に涙がこぼれそうだった。年老いてなお、こんなに豊かな情感を持ち合わせているなんて、一つの驚きであった。

「私の妻のことを聞いてくれるかね」

「ぜひ、お聞きしたいです」

 この老人が会社勤めの頃、それは定年まで何度となく職場での苦難のときがあった。実際、人生いいことばかりがあるわけではない。

「私が仕事で行きづまったことがあるとね。妻には、なんとなくわかるんだな。するとね、その翌朝のことなんだよ。小さな事件? が必ず起こっていたんだ。

 朝は、いつもの通りお茶を出してくれる。お茶を飲んで行くとね、やく払いになるのよってね。私は毎朝、お茶を飲んで出勤させられたんだ。ところがだよ。なにか職場でイヤなことがあって落ち込んでいるときに限って、必ず差し出された湯茶に、それこそ必ず“茶柱ちゃばしら”が立つんだ。茶柱って知ってる。長さ五ミリぐらいの小さいあの湯の中で立って浮く茶の枝のこと。“あら茶柱が立ってる”っていうんだ。そして“きっといいことあるわよ”っていうんだ」

 海辺の宿での老人の話は続く。

「私ものんきでね。私が悩んでいるときに必ず茶柱が立つはずはないんだが、考えてみれば、結婚してからずいぶん茶柱が立ったんだ。気付かずにね。そのまま定年を過ぎ、ずっときちゃった。

 茶柱が立てば、そうか、いいことがあるんだなと元気が出て、いくぶんでもいい朝になったさ。それでね、定年退職後も、ときどき茶柱が立っていたんだ。

 それがほら、今年の三月、妻が風邪かぜを引いて高熱を出して入院したでしょ。

 いままで家の中の茶だんすや、小さい引き出しなんて見たことなかったんだ。それを開けて、こまごましたものを整理したりしてたんだ。 

 するとね、台所の引き出しの奥に、和紙にさ、とても丁寧ていねいにつつまれたものを発見? したんだ。最初はなんだろうと思ったが、それが茶柱だったんだよ。とても不思議な気持ちだったな。

 早速ね、その小さいつつみを持って入院先の病院へ行って聞いてみた。妻はね“見つかったんじゃ仕方がない”って説明してくれたんだ。妻は、まだ元気だった。死ぬ十日ばかり前のことだったな」

 老人は、いくぶん声をつまらせた。少し間をおいてから、

「私をね、勇気づけるために茶柱をいつも用意してあったんだ。お湯に入れて立って浮く茶柱だけをピンセットで、まんでは集めて、それを陽に干しては大切にしていたんだ。茶柱ってそうあるもんじゃない。こんなこと根気もいるし大変なことだ。 

 結婚して四十五年、沢山の風雪があったんだが、考えてみれば、あの茶柱が私をささえてきたようでならない。病床の妻にさ、本当にありがとうといったさ。これからは、もっともっとお前を大切にするぞってね。しかしね、それから肺炎を起こしてね。逝ってしまったんだ」

 白髪がゆるやかな潮風になびき、静かにすすり泣きしているようであった。しばらく老人は黙っていた。遠く漁火いさりびがキレイだった。

「ちょっと待っててくれよ」

 そういって老人は自分の部屋に行き、小さい箱を持ってきた。

「妻の残していった茶柱を見てくれよ」

 三ミリぐらいのやら、五ミリぐらいのやらが、二十ばかり和紙につつまれていた。薄茶色の白っぽいような、いかにもかわいい、あたたかい姿をしていた。

「この茶柱で飲むか」

「私にも飲ませていただけるんですか」

 私は、はじめての宿であったが、老人は三浦半島ではこの宿と決め、ここ何十年、定宿じょうやどにしているとのことだ。その亡き妻ともよく来たと聞いた。老人は、自分でその宿の台所に行き、お茶の用意をした。

「こういうことはニガテでね」といいながら湯茶を入れた。

 茶わんは三つだった。一つは亡き妻にというのだ。

 和紙の中から、貴重なものに触れるように取り出し、最初のは妻のものに、つぎが私のものにと、それぞれに入れた。厳粛な儀式を見ているようであった。

「さあどうぞ、三人で飲みましょう。妻もきっと喜んでいるでしょう」

「これが奥様の茶柱」

 私は思わず手を合わせてしまった。茶柱は最初、横になって浮いていた。少しずつ斜めになり二分ほどで立ったのだ。見事だ。私は思わず「立ちました。万歳だ。すごい」と声を上げてしまった。

「いただきます」

 茶柱は、まっすぐ美しく立っていた。なんと美しいんだろう。

 夫を想い夫を励まし続けた妻の心情が、いま茶柱に生き返っているようであった。

「うまい」

 私も、ままならない仕事に疲れて海に来ていた。その疲れを、この茶柱がいま流してくれているようであった。

 亡き妻のために注がれた茶わんの中の茶柱が、なぜか小さくゆれ動いて、いま一緒に喜び合っているようにも思えた。

 夏の夜の潮風は、さわやかに老人の横顔を吹いていた。妻に先に逝かれたいた男のそのなんともかげりの深い表情の、それはまた考え沈めば沈むほど、いかにもこの夜の海辺の宿に似合っていた。

                                 完