人間・田中正造の生と死(上)
《目次》
プロローグ――野焼き
第一章 故郷の懐の中で
第二章 青春の挫折を糧に
第三章 新聞人から政治家へ
第四章 鉱毒との熾烈な闘い
プロローグ――野焼き
一面、炎の海である。
見渡す限りの広大な草原に火が放たれ、それは獲物を追う猟犬のように走り出す。
骨のごとく白く枯れて人の背丈よりもはるかに高い葦は、立ったままの姿で燃やされていく。
夥しい熱によって巻き起こる気流の中で、身もだえするように震えながら燃えていく。
時に、炎の紅い舌は舐めるように土の上を這う。そして気まぐれな風にあおられて突然立ち上がり、また走りだす。
それはちょうど春の彼岸の最中なのだが、ほぼ毎年、栃木・群馬・茨城・埼玉の関東四県にまたがる広大な野に、いっせいに火が付けられる。
早朝だというのに、燃えさかる紅い色が人をひきつけるのか、何千という見物人やカメラマンたちが集まってくる。
時に朱や黄や橙色に燃えながら、勢いを増して広がっていく炎は、何を物語るのか。
ある人は春を告げる風物詩の一つだと言い、ある人は病原菌や害虫を焼き払ってよい葦原を作るための欠かせない作業だという。
しかしここが、これだけ広大な葦原となったのには、歴史上けっして忘れてはならない理由がある。
元々は豊かな実りの田や畑が広がっていた場所なのだ。のみならず一つの村が存在し、そこには住民たちの、ささやかでも幸せな暮らしが確かにあった。
黄金色の菜の花が一面に咲き、青い麦の穂は勢いよく天に向かった。稲も重く頭を垂れ、豊かな収穫がそこにはあった。そんな遠い記憶を保つ人は、もういない。
葦原を焼き尽くした焔が、真っ白い煙となって天に上がれば、幾らかの慰めともなるかもしれない。ただし、墨を流したような黒煙ともなれば、それはこの土地に染み込んだ夥しい血や汗や涙のせいかもしれない。
《早春の朝――葦のささやき》
かぐわしい灰を被った土の中から、思いっきり伸びをする。春の目覚めだ。赤ん坊の小指のような小さい芽を出す。
立ち枯れた古い株は燃えて灰となり、そのまま自分たち若い芽の肥料となる。新しい生命のサイクルだ。
「人間は考える葦である」
いにしえの昔、遠い異国の哲人が語ったそうな。
「考える葦」と、人間が同じと言うのなら、「ただの葦」は、考えない人間なのか……。
変な理屈を考えては、大人たちを困らせる。多分、こんな子どもはきっといる。人間の世界にも。
けれど、ワタシはただの葦。人間でもないのに「考える葦」なのだ。でも、ワタシだけ特別なのではない。大多数の葦たちにも意識がある。つまり、考えている。
もし、ワタシが特別だというのなら、それはこの地に生まれ育っているからだ。「渡良瀬遊水地」という消し難い記憶の残る、選ばれし土地に生えている、ということだ。
ここでは、どんな葦でも考えずにはいられなくなる。
ところで、あなた方人間は、このワタシの名を「アシ」と読んだか、それとも「ヨシ」と呼んだか。
そう、ワタシには名前が二つある。私自身は一つなのに、人間の気まぐれな意識によって二通りの呼び方をされるのだ。
稲も麦も実らない荒れた土地に生い茂るから、悪い意味をこめてアシ(悪し)。でもよしずやすだれの材料にもなるから、良い意味をこめてヨシ(善し)。
つまり、人間の都合に合わせて善くも悪くも思われる。しかし、こんなことで腹を立ててもいられない。なぜなら呼び名一つの、いわば上辺だけのこと。世の中にはもっともっと根の深い、善と悪、裏と表、光と影が入り乱れ、果たしてどっちが本当なのか分からなくなる問題が、山ほどあるのを知っているから。
元々、ワタシはここにいなかった。ワタシたち葦の類は河の畔や沼地など、限られた場所だけにしか育たなかった。でも色々なことが起こって、こんなに仲間が増えてしまった。
うれしいかって……。うーん、どうだろう。
たったひとりぼっちの淋しさと、大勢いるのにそれでも淋しいのとは、全然違う淋しさだよ。自分は葦だからよくわかる。
人間でも、これから話をする田中正造という人は、その両方の淋しさを知ってしまった人なのだと思う。
それは、今から百年以上も前の出来事だった。
第一章 故郷の懐の中で
「あにサマ、あにサー、早く、起きなさい」
十歳ほどの少女の、よく通る高い声が田中家の母屋に響きわたった。
代々名主の家柄とはいえ、大きさという点では中くらいの農家の構えである。板敷きの間のいろりの上には、真っ黒にすすけた梁。竹筒を細工した自在鍵の下には、鉄瓶が掛っている。火はまだ無い。早朝である。
妹のリンに揺り動かされても、正造は背中を丸めて硬い綿布団にかじり付いたままだ。
「まったくもう、兄さまのくせに」
リンは母親・サキの口調そのままに、少年にしては大きく広い兄の背中をぽーんと叩くと、ひとりでさっさと身支度を整え、まだ寝床の中の兄を尻目に文机の前に行儀よく正座して書物を開いた。
「子、曰く……」
正造が習っている所である。その張りのある声にようやく寝ぼけ眼の正造も、一気に目が醒めた。
「まったく、おリンにはかなわんなあ。いっそお前が代わってくれたらよかったのに」
こんな情けないことを眩いていたのが、この話の主人公・後の田中正造である。子ども時代の名を兼三郎という。
正造は天保十二年(一八四一)に、下野国安蘇郡小中村(現栃木県佐野市)で生まれた。父・富蔵、母・サキの長男である。
四歳下の妹・リンは、数え年五歳の頃から兄と一緒に、近くの阿弥陀堂を教室にしていた赤尾塾で読み書きを習っていた。朝は六時に起きて読書をし、夕食後は夜遅くまで勉強していたという。同じ塾の女子生徒の中では一番だったそうだ。
一方、正造はと言えば、昼の間一生懸命に農作業をしていたせいか、その疲れもあって毎晩早く寝てばかりいたから、最下位の成績だったと晩年、正造自身が述懐している。
正造はこの男勝りの妹を、生涯大切に思っていた。少々気も強く、田舎娘にしては気位も高い所のあるリンを頼もしく感じていたし、後に足利の商家へ嫁いで行ってからも何かと頼りにしていた。
正造が五歳の時の話である。
幼い頃の正造は腕白で、大変なきかん坊だったという。
ある雨の晩のことだった。正造はいろり端の薄べりの上にうつむきに寝そべりながら、紙と筆で遊び書きをしていた。まだ筆などろくに持ったこともないのに、大人のまねをして何となく得意になって、たっぷり墨を含ませては気ままに筆を走らせた。それを傍で、使用人の爺やが見守っていた。
「ほれ、上手に描けたろう」
へのへのもへじにも劣るような、書きなぐっただけの自分の絵を、正造は自慢げに爺やに見せた。
貴重な紙や墨を無造作に扱っていると感じていた爺やは、はっきりと首を横にふった。
すると正造は、火が付いたように真っ赤になって怒り出し、こう叫ぶように命令した。
「だったら、お前が描いてみろ。ほら、早く描いてみろ」
「坊ちゃん、どうかお許しください」
爺やは何度も何度も謝ったが、正造は後に引こうとしなかった。
その様子を、隣の座敷で縫い物をしながら見ていた母が、
「兼三郎、もういい加減にしなさい。まったく、お前っていう子は何て強情な」
と眉をつり上げて強い口調で叱った。一瞬、びくりとした正造がなおも、
「だって、じいやが……」と、口答えするのを聞いて、母は更に怒った。
「そんなに、爺やを困らせて。弱い者いじめをするような子は、この母が許しません。さあ、お前こそ表に出なさい。そして、頭を冷やして来なさい」
こう、言いつのる母の目にも涙が滲んでいた。
とうとう正造は、暗い雨夜の戸外に追い出され、ひさしの下でしばらく泣き続けた。
何が悲しいかと言えば、夜の闇が恐かったばかりでなく、冷たい雨のせいでもなく、ふだんは優しい母親をあんなにも怒らせた自分と、爺やをとことん責め立てた強情っぱりの自分とが、幼心にも切なかったのだ。
そしてその時初めて心に誓った。年寄りや女の人、自分より立場の弱い者をいじめることは絶対しないということを。もう母親を悲しませるようなことは決してしないということを。
小中村、田中家の近くを才川という小さな川が流れていた。ほどなく渡良瀬川へと注ぐ短いこの川の、最上流部に当るところである。
旗川や秋山川といった渡良瀬川の他の支流に当る川ならば大抵の地図にも載っているが、才川は大きな地図にはほぼ載ることもない。故に地元の者にしか知られていない。
才川の水は澄んでいて清冽である。なぜならこんこんと清水の湧き出る湧水池を源流としていたからだ。それは古くから人丸神社と呼ばれる社の裏にあった。
民家の近くを流れる小川であれば、野良着の洗濯やら鍋釜のすす落としなどの生活用水として重宝がられ、汚れやすいものではあったが、それでも才川はすぐにきれいになる。
小さな沢ガニもいたし、タニシもカワエビも棲んでいた。タナゴの群れも見えたし、なかなかの大きさの魚影がよぎるのもよく見かけた。
少年時代の正造はこの川と湧水池を好んで、家の井戸を使わずにまだ小さかった妹のリンの手をひいては、わざわざ顔を洗いに行くこともあった。
はるか上空を過ぎるちぎれ雲を映した水面に、自分の顔も映してみる。太い眉、大きな目、そして下唇の方がやや厚い唇。男前なのかどうなのか自分では分からない。考えてみたこともない。でも、意地っ張りで正義感の強そうなこの顔がまんざら嫌いでもない。いつか、自分が好きになった娘が、自分のこの顔を好いてくれるだろうかと、ふと考える。
正造も思春期になっていた。
田中家の母屋の土間。
リンが一心に高機に向かって、カタンカタンと絣を織っている。その背中に川から戻った正造が声をかける。
「なあ、おリン、俺は男前か」
唐突な問いかけにリンは一瞬手を止めたものの、振り向きもせずにクスクスと含み笑いをしながら、
「うーん、兄さんは、身だしなみさえ良くすれば、そこそこいい男になると思うけんど」
と言い終えてから、くりくりとした利発そうな黒い目を向けた。
「身だしなみかあ。ふだんは野良着ばかりだかんなあ」
「おらが一所懸命機織りして、兄さんのために、いい着物をあつらえてやるよ」
その時はまだ十一、二歳だったリンは、既にいっぱしの機織り名人だった。また母親譲りなのか裁縫も上手で、人形や子どもの小さな着物でさえも器用にこしらえることもあって、周囲をよく驚かせた。
ある日、兄妹は他の塾生仲間の子どもら四、五人と一緒に、渡良瀬川の河原へ遊びに行った。
いつも見ている才川や旗川、秋山川とは比べものにならないほど河原が広い。石も多い。そこで子ども達は石投げに夢中になった。平べったい石を見つけて拾っては、それを川の水面をなでるように投げて、ポンポンと弾ませるのである。手頃な形の石を拾って、投げる角度を微妙に調節すれば、魔術のように何度でも石は水面を切るように跳ねた。特に少年たちは夢中になって、その回数を競い合っている。
「ほら、すごいぞ、五回だぞ」
「やったー、俺の方は六回だ」
負けず嫌いの兄の声が聞こえないので、ふと気になってリンが振り返ると、正造はひたすら石を拾っている。
「あっこれ、いやこっちだ。ああ、これはいい」
独り言を言いながら、片手に持ちきれないほど拾い集めると、それを投げようともせず、大事そうに抱えている。
「兄さーん、どうしたん」
リンが傍に駆け寄ると、正造は一つ一つの石を妹に見せた。
「これ、いいだろう。先だって生まれた家のひよこに似てる。こっちのは、この青いすじが格好いいだろう」
リンから見れば、面白くも何ともない、ただの石ころにしか見えない。でも、兄がいいと言えば良い物かもしれないとも思った。
大人になってからも正造は道ばたに転がっている小石や、河川敷の石ころなどに興味を持ち、機会があると必ず拾い集めるようになった。
「道ばたにある石が、人に蹴られたり砕かれたりするのは忍びない」とも後年の日記に書いている。そして臨終の時でさえ、正造の枕元に、三つの石ころが布袋に入って遺されていたというのは、何か象徴的な話である。
第二章 青春の挫折を糧に
村の名主であった父が、更にその上役(割元という)になったのを機に推され、正造もわずか十九歳にして小中村の名主の任に就いた。
数え年で十九と言えば現代では、まだ高校を卒業したかしないかくらいの年齢である。しかし昔の子どもは、概して今よりも早く大人になっていたとも言えるし、正造自身がリーダーにふさわしい資質を有していたとも言えるのだろう。
両親は正造に毅然として教育を施した。例えば母親にこっぴどく叱られた雨夜の苦い経験から、決して弱い者いじめをしなかった正造ではあるが、人一倍強情な性格はそのままで大きくなっても変わらなかった。しかしその強情さは、一度決めたことを守り抜く責任感の強さともなり、また自分より力のある者を怖がらない正義感の強さともなった。
来る日も来る日も、畑仕事で鍛えたことで、肩が隆々と盛り上がり、がっしりとした骨太の体格に恵まれた。背は高い方ではなかったが、背中は広かった。
けんかにも強く取っ組み合いになれば、年上でもかなう相手は少なかった。度が過ぎて相手にけがを負わせたのも一度や二度ではなかったという。
しかし弱点は、もっぱら物覚えの悪さであったと、本人は考えていた。
当時の学問と言えば、四書五経などの漢文を暗記することが多かったようだが、自分が覚えるより先にすらすらと譜じる学友も多かった。更に情けないことには、教科書さえ見ていない妹のリンが、正造の読むのを聞いて先に覚えてしまうということも、度々あった。
正造は自分の記憶力の悪さを気合いで何とかしようと思い、氷の張った冷たい水を頭から被ったりなどと荒行をしたりもしたが、それは却って毒にこそなれ薬にはならなかったようだ。
だが、後年の正造が盛んに歌を作ったり書を物したりしているところをみると、若い時には簡単に身に付いたように見えなかった学問や知識が、体の深いところに染み込んでいて成人してから開花したとも考えられる。
ただし正造は青年時代、寺子屋のような私塾を開いて近所の子どもたちのために自分で教えているから、その「教える」という行為によって、自分自身にも徐々に本物の教養が身に付いていったのかも知れない。
筋骨たくましく腕っ節の強い青年であった正造だが、年頃の娘に対する押しの強さも相当だったようだ。
自分がこれと見初めた相手は、大澤カツという名の働き者で細面の美しい娘だった。だが当初、大澤家では正造に嫁がせることに反対だった。そのため、カツが遠くへ嫁に行ってしまうのではと気が気でない正造が、強引に彼女を自分の家へ連れてきてしまったという。しかも通り道で待ち伏せして、自分の背負いかごに入れて運んできたという、尾ひれまで付いている逸話である。
まだ十五、六歳で細身の娘なら、楽々とかごに入れて背負うくらいはできたろう。現代なら、なんと乱暴なと眉をひそめる向きもあろうが、正造にとっては精一杯の愛情表現だったのだろう。そして当時の、少女から女へと変わっていく過程の娘にとっては、これくらいの方が頼もしく感じられたのかもしれない。現にカツは大人しく正造の妻となっている。つまり、本人の意思でもあったわけだ。
娘のカツを連れ戻しに大澤家の者が田中家を訪れた。二軒隣りの家の裏口に、突然正造が飛び込んできて、「裏庭に風呂敷があるから、仕舞って置いてくれ」と叫んだなり走り去った。その家の者が庭に出てみると、風呂敷を頭から被った若い娘がしゃがんで隠れていた。その娘がカツだったという。やはり、カツ本人も連れ戻されたくなかったのだ。正造はこのとき、八つ上の二十四歳になっていた。
しかし、その夫婦一緒の穏やかな新婚生活は、長くは続かなかった。
程なくして正造は、自分たちの村の領主である六角家の騒動に巻き込まれた。そこで様々に頑張った挙げ句、とうとう牢屋送りとなったのである。
六角家というのは、由緒ある名門の旗本で、正造の生れた下野国安蘇郡の小中村は、この六角家によって治められていた。他に佐野氏の支配も受けていた。小中村だけではなく、近隣の足利郡の村々も、二名から三名の領主によって分割支配されるという「相給地」であった。
これは北関東特有とも言われるが、旗本を中心とした小領主たちの相給支配は、封建領主による一元的な農民支配を極めて困難なものにしていた。それ故に農民たちの自治の意識には、思いがけないほど高いものがあった。例えば自分たちの代表である名主は、領主による任命ではなく自分たちで合議の上、決めるという慣習である。
しかし、農民たちが誇りを持って守ってきたこの習わしを違えて、領主たる六角家側が割元の人事を押しつけて来たことが、そもそも騒動の発端だった。これに対して、六角家領の四つの村が団結して領主の決定に対する不服従の意思を示したのである。
強固な結びつきを示した農民たちに対し、その団結力をくじく目的で名主たちに御用金を申しつけた。困窮している六角家の財政のいくばくかの足しにもなると考えたのだ。これは、六角家用人の筆頭となった林三郎兵衛の策略だった。名目は、六角家の若君の元へ輿入れがあるとの理由で、江戸屋敷の普請を計画し、多額の先納金を申し付けたのである。
この一件は、用人の一人と正造の父である割元役の富蔵の反対で一時頓挫したものの、村民自治の破壊を目的に何度も試みられるようになった。
このような領主側の露骨な意図は、逆に農民たちの反発を招き、それに伴って村々の団結力は更に強固なものになっていった。
「こんなことで、俺たちの気持ちはビクともしねえぞ」と、皆で誓い合ったのだろうか。踏まれれば踏まれるほど、強くなる青麦のような精神である。
後に、六角家騒動という名で総括されたように、六角家では数々の醜聞の種を抱えていた。農民たちから見ればそれらは皆、直接浪費につながる問題にほかならなかった。小中村をはじめとする村落合同で「領主に倹約をせまり、愛妾を抱えることをやめさせるため」の訴状が提出された。
これは理由がどうであれ、思い切った行動であった。
父の富蔵が、領主のお供の一人として畿内滞在一年余の留守の間に、六角家用人の林三郎兵衛がまたもや江戸屋敷の普請と称して、千両余の先納金を各村々の名主に命じた。その時富蔵に代わって割元役を代行していた正造は、これに激しく反発した。上書をしたためて直ちに江戸屋敷に提出したために、一時的に名主を解任されてしまった。
「なんて、筋違いなことをしやがるんだ。俺たちみんなが黙っちゃいねえ」とばかりに、農民たちの反対によって正造の解任は免れた。
そして父親譲りの正義感と責任感の強い正造は、本格的な農民闘争の先導的役割を担うようになるのである。つまり正造は身分や立場の不利も考えず、役人に歯向かった。ついに用人林三郎兵衛の罷免を求めて闘いに着手した。そして、直接幕府への働きかけを開始した。
しかし、世はまさに激動の時代であった。倒幕派と公武合体派が命がけのつばぜり合いを繰り返す、その真っ最中であった。
正造たちによる幕府への働きかけが効を奏し始めたと思えた頃、突然「大政奉還」となった。つまり徳川幕府は「賊軍」となり、立場が一転してしまったのである。
「ああ、なんてこった。こうしてはいられん」と、正造は嘆く暇もなく走り出した。直ちに嘆願書を東山道総督府に提出すると、先に獄に捕らわれていた同志の名主たちの代わりとなって自ら六角家江戸屋敷の牢に入ったのである。
その折、半間(約九〇センチ)四方という、寝ても立ってもいられない狭苦しい檻の中に押し込められたこともあったという。そんな牢屋住まいに半年以上も堪え忍んだ末に、ようやく放免となった。ただし、領地外追放という条件付きである。
こうして十か年にも及ぶ「六角家騒動」は、若き日の田中正造へ権力を持つ者に対しての闘い方を経験させるのに、相当の修練の場となったことは疑いない。そしてそれは、結婚して間もなくのことでもあったので、若妻のカツ自身も田中正造の妻たることの厳しさを改めて思い知ったに違いなかった。
その間に時代は大きく振り子を揺らし、幕末の動乱期から勝海舟と西郷隆盛らによる江戸城の明け渡しを経て、「明治維新」を迎えていた。
所帯を持つ身でありながら、正造は新たに身を立てるために、一人で東京に出ることにした。
私塾時代の学友でもあり、五歳年長の兄弟子でもあった織田龍三郎という人を頼ってのことである。
しかし、このとき織田は既に失業してしまい、他人の面倒をみるどころか、却って正造の方が彼の家計を助けることになってしまった。織田の家の奉公人のように、薪割りから水汲み、果ては雑巾がけさえ厭わずにやり、正造の存在をあまり快く思っていなかった織田の妻をも、すっかり信用させてしまったのだった。織田の友人で西山高久という人物がいたが、彼も正造の献身ぶりに大変感心したという。
その時の話である。
ある日、正造はイモをいくらか買い求めてこれを煮て、織田夫婦の食事に供した。自分は離れて一人、そのイモの皮だけを集めて煮付けたものを秘かに食べていた。それを夫人に見られてしまい、
「お前だけ、そんな思いをすることはない」
と、一緒の膳を囲むよう言いつけられた。
正造は大いに困った。大食漢の正造にしてみれば、一人きりで食べた方が却って都合が良かったのだ。
「奥様、それはご遠慮致しましょう」
「えっ、いったいなぜだえぇ」
夫人は、不審に思ってなおも訊く。
「それはつまり……」と詰まっても、ついに開き直って正造は答えた。
「なぜなら、ご飯茶碗に織田様は二杯、奥様は三杯、そしてこの正造は、六杯もおかわりしていたのでございます」
そばで聞いていた織田は大笑いし、夫人と正造は大いに赤面する事態となった。
当時の人々は、惣菜の乏しい分、主食のご飯をたくさん食べていたのだが、それにしても青年時代の正造は人一倍の大飯食らいだったらしい。
そんな東京暮らしに終止符を打つように、正造はまた知人のつてを頼って故郷を離れ、東北へ職を求めて旅立つことになった。
その間、妻のカツはどうしていたかというと、田中家の嫁として立派に務めを果たしていた。
正造の父母の富蔵とサキを血の繋がった親のように大切に思い、仕え、面倒を見ていた。富蔵とサキにしても、よく世事をわきまえた人情にも厚い人たちであったから、嫁として仕えることに張り合いを覚えていたに違いない。
正造がいつも遠くにいて、夫婦らしいことをちっともしてはもらえなくとも、両親と一緒に噂話をしながら信じて待つことに、妻としての志操のようなものさえ感じていたのだ。
足利に嫁いでいた妹のリンも、時々両親の元を訪れては、年下でも兄嫁に当るカツのことをよく気遣った。自分の婚家で扱っている反物などを土産にしては、仕立て方などを教えて、その無聊や淋しさを慰めていた。
「兄さまは、身だしなみ良く暮らしているかの……」
リンが口にすると、
「はあ、着るものとお風呂さえきちんとしていれば、元々押し出しの良い人ですから」
こう、カツは決まって答え、リンに笑われるのだった。
「ずいぶん、兄さまも買われたこと。離れてると良いところしか見えなくて、羨ましい限りだわ」
言われてみれば、カツもそんな気がしてくるのだった。わずかな間の新婚生活だったせいか、夫の正義感の強さを映すような輝きのある瞳を思い出し、「ワハハ」と豪快に笑う大きな口を思い出し、悪いところは殆ど思い出せないのだった。強いて言えば、昼間の仕事で疲れてしまうと、そのまま寝入ってしまって、風呂で汗を流すのを怠ってしまうことが度々あったことくらいだ。
「正造さん、どうぞ、家のことは心配しないで、新しい土地で頑張ってください」
妻のカツはこう呟いて、手の届かない遠くにいる夫のために、いつも祈るのだった。
明治三年(一八七〇)、三十歳になった正造が、後々「終生の失策」と悔いたという冤罪事件(罪がないのに捕らえられること)に巻き込まれたのは、はるばるおもむいた東北の地でのことだった。
東京から十四日間もかけて辿り着いたのに、ここでも当てにしていた知人が失職し、頼ることができなくなったと到着してから分かったのだから、運が悪いとしか言えない。
上京した時も同じだったが、随時リアルタイムで情報が受け取れる現代と違って、明治初頭は時代が大きく変わる過渡期であったのと相まって、明日の我が身も知れぬ不安定な世の中でもあった。
ここに一つ、正造らしいエピソードがある。
旅に同行の人物が病気(マラリア)にかかり、その看病をしたばかりでなく、正造は自分が持っていた一張羅の羽織と袴をその人にやってしまったのだ。もちろんその時、正造の心に微かなためらいがなかったとは言えない。故郷にいる妻や母の顔もまぶたに浮かんだことだろう。女たちが一生懸命仕立ててくれた大切な着物だったのだから。
とはいえ、自分の着ている物を人に与えてしまうという行為を、晩年になってからの正造は何度もすることになるのだが、もう既にその頃には、ためらいなど感じることは一切なかったのかもしれない。
さて、思いがけない経緯から江刺県(現岩手県)で下級官吏の職を得た正造は、その仕事の関係で、支所のある花輪(現秋田県鹿角市)というところに赴任した。
この支所は辺境の地にあり、また気候も厳しく昨秋来の凶作で、農民たちの暮らしはすこぶる苦しいものであった。特に山深い村では、雪中の豆の根を掘って食べたり、ヒエの糠にわずかな塩を入れ粥状に煮て口にしたりと、その貧しさたるや言葉にしがたい程だった。
自分もかつて東京の織田の家で、イモの皮をおかずに食べたことはあったが、米の飯は十分に足りていた。そしてつくづく故郷である渡良瀬川流域の、穏やかな気候と豊かな暮らしぶりを思い知るのだった。
正造はさっそく、この赴任先の村々の救済策を講じてこれを上司に報告した。そして上司の尽力により、秋田米五百俵を取り寄せて、辛くもこの飢餓の村を救うことができた。
しかし、信頼関係の厚かったこの上司が交替し、まもなく別の上司・木村新八郎となった。正造はこの歳の離れた上司とは、あまりそりが合わないように周囲からは見られていたらしい。
ある夜のことである。
仕事の忙しさと北国の寒さとがたたったのか、正造は持病のリューマチが悪化して、湯治に出かけていた。この持病を正造は、少年時代に記憶力の悪さを克服しようとして頭から冷水を被ったことが、そもそもの原因と考えていたようだ。その真偽はともかくも、正造が温泉から戻って官舎で休んでいた時に、事件は起こった。
夜中の二時か三時と思しき頃、ふだんは大人しい役所の小使いが、血相を変えて正造の元に走り込んできた。
「た、大変だ、大変だ」と、口もまわらないような慌て方である。
正造は直ちにはね起きて、水を碗に汲んでこれを小使いに飲ませてから、「何事か」と、問う。
「木村さんが、た、只今、斬られました」
「死んだのか」
「まだ、生きておられます」
「すぐに、医者を呼んでこい。それとわらじも五、六十足買い求め、大急ぎで飯も炊いておけ」と、即座に命じた。
すぐに木村の家に駆けつけると、呆然としていた息子の桑吉が、正造の顔を見てほっとしたように父の元へ連れて行った。
太刀を受けて虫の息になっていた木村は、正造に抱き起こされると苦しげな声で、
「後のこと、なにぶん、頼みます」と、微かに口元を弛めて言った。が、呼びにやった医者が着いたときには、既に意識不明に陥っており、間もなく事切れた。
この上司殺害の疑いで、正造が捕らえられたのは三か月も経ってからのことだった。
あの夜、正造は知らせを聞いて集ってきた者たちに、小使いに炊かせた飯で腹ごしらえをさせ、わらじを何足も分け与えて、直ちに犯人捜索に向かわせたのだ。
しかし素早い対応にもかかわらず、いつになっても下手人の手がかりは摑めず呆然としていたところへ、よりによって自分自身が殺人犯として捕らえられるとは……。
その理由の一つが、正造の足袋と袴に付いていた血の跡だった。上司の木村を介抱していた時に付着したものを、気にかける暇もなく走り回っていたのを見とがめられ、後日の証拠とされたのだ。また、追っ手のためのわらじの用意や飯の支度も手際が良すぎて不自然だったと後から見なされ、あたかも正造の計画的な犯行のように解釈された。完全な濡れ衣だった。
しかも運の悪いことに、正造の無実を証言できるはずの木村の息子・桑吉とその母親とが、遠くの身寄りを頼って既にその地を離れていたため連絡がつかなかった。その上、正造の傍に仕えていた女の証言も曖昧なままで、正造には不利な条件が幾つも重なってしまった。
正造の傍に仕えていた女というのは、まだ若い娘であった。当時、地方へ赴任した役人には、地元の者を雇って身の回りの世話をさせるというのが習慣であったようだ。故郷に妻を置いて、いわば単身赴任の身であった正造も、上司の勧めで少女を一人雇い入れた。正造にしてみれば、東北なまりの強い地元の言葉をよく理解したいという別の目的もあったのだろう。
食事の支度から風呂の世話、あるいはそれ以上のことまで甲斐甲斐しく務めていた娘であったが、自分が正造に暇を出されたことを恨めしく思っていたのか、例の事件当夜の正造のこと――つまりアリバイに当たることを、きちんと証言しないままだった。そのため、正造の立場は俄然悪くなった、という裏事情があったのだ。
そのうち廃藩置県や戊辰戦争後のごたごたが続き、裁きの場が開かれないまま正造は、前時代さながらのひどい拷問を受けての、長い監獄入りとなった。
当時は交通の便も悪く、情報もきちんと行き届かずで、正造の故郷では既に正造が処刑されたものと考えられて、村役場では戸籍を抜いたという噂さえ流れたほどだった。
一度、父・富蔵と義弟・璡三郎とが面会にも行っていたのだから、元々そんな噂は誤りなのだが、それほどに人の憶測というのは厄介なものでもあった。
三年も後に、ようやく嫌疑が晴れ釈放されたわずか一月前、正造の母・サキは息子との対面を果たす事なく亡くなっていた。
故郷に戻った正造の嘆きは並大抵のものではなかった。
「親不孝ばかりの俺を、どうかもう一度、叱ってくれろ、怒ってくれろ。どうか、頼むから、思いっきり怒ってくれろー、おっ母さん」
母の墓前にひざまずき両手を付いて、何度も土を握りながら人目もはばからず泣いた。乾いていた土の上にぼたぼたと黒いシミがひろがった。
その後ろで妻のカツが、義母の好きだったカキツバタの花を胸に抱きながら、ずっと肩を震わせていた。
地方の役人となって東北で過ごした四年間は、正造にとってまったく理不尽で苦しいことばかりだった気がした。
まだ二十代半ばで名主だった頃に、領主に反抗して半年以上も獄に繋がれたことはあったが、今度は全然身に覚えのない無実の罪で、三年近くもの間牢に入れられたのである。
冤罪とは、かくも無念なことであろうかと正造はつくづく思った。自分が良かれと考えてとった行動が、ことごとく裏目に出、殺人の証拠と曲解されてしまったのである。
そしてまたその取り調べの甚だしいこと。むち打ちや石積みのそろばん責めなど、人を人とも扱わぬ拷問で責め続け、その痛みで気を失うこともあったのだ。
ただ不幸中の幸いと呼べることは、時代の転換点での混乱はあったものの、ほんのわずかだが牢内の待遇が改善されたことだ。「監獄則」という新しい法律ができたためで、板の間に畳が敷かれ書物などの差し入れも許された。
それは「法律によって人の権利は、最低限守られる」ということを正造自身が身をもって実感した最初の体験だったかも知れない。更に、同房だった佐藤昌蔵という人から、政治・経済の本を借りて読むことができ、中でも『西国立志編』という中村正直の名訳によるイギリス人スマイルズ作の西洋の偉人の話をまとめた翻訳書は、大いに正造を励ますところとなった。
きっと彼は真剣に考え続けたであろう。人は何のために生まれ、何のために生きなければならないのかと。人として真っ当に生き抜くためにはいったい何が必要なのかと……。来る日も来る日も考え抜いたに違いない。
そして何よりもこの体験は、悔しさや苦しみに耐え抜く強固な精神力を養うための修練の場となったのだった。
後に正造が政治家を志し、国会議員となってから足尾銅山の鉱毒問題と闘うための不屈の魂は、このときに深く深く根付きはじめていたのかも知れない。
因みに、東京時代の織田龍三郎との関係で、織田宅に寄宿していた頃から正造という人物を見知っていた西山高久は、この時盛岡で官吏をしていた。正造のために盛岡の獄へ毎日卵を差し入れてくれたり、無罪釈放後は自宅で静養させてくれたりした。
一方、やはり獄中でたくさんの書物を貸してもらったり、政治の話など親しく交わした佐藤昌蔵とは、十数年後に同じ代議士として国会で再会を果たすことになる。しかし、この時二人は対立党に所属しており、旧交を温めることにはならなかったようだ。
人と人とを結ぶ緑の不可思議さ、人生の機微といったものを感じる逸話だろう。
第三章 新聞人から政治家へ
晴れて自由の身になり故郷に帰った正造は、自分のこれからについて真剣に考えることとなった。と言うより、目標は既に決まっていた。
東北で暮らした四年間、特に獄舎で過ごしていたその時に、たくさんつらい思いをし、そしてむさぼるように読んだ本のお陰で、政治の道を志すようになっていたのだ。
「いま、時代は大きく舵を切ろうとしている。今だからこそ、下々の者や農民たちが苦しまなくて済む、自由と権利の与えられた真に平等な世の中を創り上げなくては」
正造はそう思った。そのためにはまず、自分の家の経済的基盤をしっかりさせなくてはならない。
正造は農業にも精を出したが、地租改正の担当人も務めたり、色々な職業にも手を染めることになった。
隣村で造り酒屋と居酒屋を営む「蛭子屋」という店の番頭に雇われたときの話である。今にも大雨になりそうな雲行きの中、一人の馬方が馬を曳いたまま居酒屋に立ち寄った。
「にいさん、一杯頼むよ」
馬方は、馬の手綱を外のつなぎ場に結わえながら、のれんのところに立っていた正造に声をかけた。正造は空を見上げながら指を差し、
「見てご覧なさい、この雲行きを。自分だけ酒を飲んでいては、馬も荷物も濡れてしまうじゃありませんか」
そう言われて馬方は、「何だって」と、心底意外そうな顔をして正造を見たが、自分の損得を考えない真っ直ぐなものをその目元に感じたのか、「じゃあ、またにすらぁ、邪魔したな」とさっさと馬を曳いて行ってしまった。
馬方の姿が、街道から見えなくなるまで正造は外に出て見送っていたが、豆粒のように見えなくなるのと殆ど同時に空から大豆ほどの雹が降ってきた。正造は慌てて、店の中に戻った。
その様子をつぶさに見ていた主人は、
「やれやれ、どうも商売には向かないな」と残念そうに一人ごとを言い、間もなく正造は番頭を解雇された。
カツ夫人は、正造に内緒で木綿の羽織と前垂れを縫って夫の元へ届けていたのだが、逆に叱られたのも、この酒屋の番頭の時だった。
「無駄な浪費は、『家政の憲法』違反である」と、実に正造らしい言い分だった。
なぜなら、長い獄中暮らしの間にすっかり厳しくなった家計を立て直すために、正造は「家政の憲法」として出費を極力抑えるよう決めていたのだ。
そして無事に家計を立て直すことができたら、その時は政治家を志しますと父・富蔵の前で誓いを立てていた。その時の言葉も正造ならではのものだった。
「わたしには、四千万の仲間がおります。そのうちの二千万は大人で、後の二千万は子どもです。天は、即ちわたしの屋根、地は即ちわたしの寝床です」
これは、大人も子どもも含めた世の中のすべての人たちのために力を尽くしますという誓いであり、そのためには広い空の下を走り回って野宿でもなんでもする覚悟はできていますという意志の表明であったのだろう。
そしてその奥には、「大いなる天と地の意思」という深遠なものまで感じ取っていた正造の心が、既に存在していたのかもしれない。
ただしその心が更に深化し、大勢の人々に開示されていくのは、もっとずっと後になってからのことである。
二六〇年も続いた徳川将軍家の江戸時代から、「明治維新」という天皇を頂にした新国家に生れ変わる時、大きな変革が成されたのは必然のことだった。維新とは、「すべてのことが改められ、新しくなること」の意である。
まず廃藩置県。それまでの藩をなくして県にし、新しい知事も任命された。学制、つまり学校制度も始まった。そして徴兵令、今までの武士ではなく国を守る軍隊として国民から兵士が集められた。
地租改正という、年貢として米で税を納めるのでなく、お金で納税する制度なども始まった。士・農・工・商の身分制度ではなく「四民平等」と言われたが、そのめまぐるしい改革の波の中で、人々は必死になって日々の生活に耐えているのが現実だった。
しかし明治政府は、維新で特に手柄のあった旧薩摩藩や長州藩の出身者を中心にした、いわゆる藩閥政府と呼ばれるものであり、それ以外の人々から不満が生まれるのは、時間の問題でもあった。
明治七年(一八七四)、自由党の板垣退助らの出した「民選議員設立建白書」は大きな反響を呼ぶ。
「国へ税金を払っている者が、政治に関わるのは当然の権利だ」ということである。つまり選挙によって議員を選び、国会を開くようにという要望を、時の藩閥政府につきつけたのだ。こうして自由民権運動は、第一歩を踏み出した。
当時、この運動の推進力となっていたのが政談演説会と、新聞を主にした活字メディアであった。まだテレビの登場しない時代の新聞は、民意を伝えるものとして無くてはならない存在で、急成長していた。
現代に比べて言論統制の厳しい中にあっても、まるで雨後の竹の子のように、たくさんの新聞が生まれては、また「新聞紙条例」や「讒謗律」等の法律適用による弾圧などによって、次々と折り取られていった。
明治十一年(一八七八)、現在の下野新聞の前身に当る「栃木新聞」が栃木町(現栃木市万町)で創刊された。しかし健闘むなしくわずか三十七号で廃刊となる。
この新聞の再発行に向けて力を注いだのが、民権運動家として活動していた田中正造である。自ら編集長となり記事を書くだけでなく、少しでも売り上げ部数を伸ばそうと走り回った。
彼の仲間として一緒に栃木新聞を支えたのは、新聞人である中田良夫や賀蘇山神社の神官・斉藤清澄らで、多額の資産を投じてくれた。皆それぞれが理想に燃え、栃木県内に自由民権運動を広めたいという若い情熱ゆえだった。
ゴチャゴチャとした書類の重なる狭苦しい事務所に、正造と斉藤、中田らがいて、大声で喋っている。
「よし、田中、お前は管内の事情に明るいから、探報係だ」
「なに、編集長おん自らが、ネタ拾いか」とおどける正造。
「そうともさ。編集長兼、平々の記者兼、配達係も手伝え」
「ワハハッ、それでは体が幾つあっても足りぬわい」
「俺だって、生まれつき虚弱体質なのを押して、専属配達員だぞ。コホコホ」と、わざとらしい咳をする中田。
「僕はもっぱら、資金調達係といたそう」と、斉藤。
「いいぞ、清澄は。じっとしていても向こうから頭を下げられて賽銭が入る身だ」
「神様、仏様か……、そんなに甘くはないぞ」
そう答えた斉藤は、発行資金のために粟野の奥地にあった資産の杉山を、殆ど伐り尽くしていた。そうとは、まだ知らない正造は、こう発破をかける。
「いつまでもバカな事を喋ってないで、とっとと記事をまとめよう、締め切りに間に合わんぞ」
三人はいっせいに机に戻り、それぞれが持ち寄った記事をまとめにかかる。因みに「探報係」とは、今でいう社会部の記者である。編集長役は正造だったとはいえ、社内の誰もが記者であり編集人であり、配達員でもあった。大変だがやる気と活気にあふれていた。
明治十二年(一八七九)、栃木新聞紙上に「国会を設立するは目下の急務」と題する論説を自ら正造は書き上げた。
「豊臣秀吉は百姓だった。アメリカ前大統領グラントも革職人だった」
当時、県庁のあった栃木町の掘割の続く街頭で、道行く人に新聞を売り込みながら、正造は太い声を更に張り上げていた。
「国家、多事多難の今こそ、官民一致協力して国力の充実をはかるべきである。今こそ人民に参政権を与えよ」
正造の真摯な訴えは、人々の心を捉えた。
新聞はあまり売れなかったが、民権運動家としての正造の名は、世間に浸透していくこととなった。
そして区会議員を務めた後、県会には一回落選したが、翌年の補欠選挙によって栃木県会議員に初当選した。以後十年間、国会議員になるまで、県会の先導役として活躍することとなる。県内の民権運動も活発化して来るのである。やがて栃木県は「改進党の本丸」と称されるほどになる。
明治十五年(一八八二)、田中正造は、大隈重信らの率いる立憲改進党に入党する。この頃、正造には「栃木鎮台」、縮めて「栃鎮〈とっちん〉」という愛称がついた。鎮台とは軍団、またはその長のことを指す。その由来はこうである。
改進党の面々が、栃木町の料亭で演説会を開いた。折りも折り、対立する自由党の数名が、会場の入り口でピストルを乱射した。その時、正造は会場の正面で仁王立ちになって、「撃つなら撃ってみろ、田中正造はここにいる」と叫んだ。
その胆の座った様子に気圧された暴漢たちは、屋根のひさしに弾丸を撃ち込むだけで逃げ去ってしまった。そこに居合わせた盟友の島田三郎が「さすがに田中正造、見上げたものだ」と驚嘆し、周囲に語ったため、この一件が広まるにつれ、正造を「栃木鎮台」または「栃鎮」と、あだ名のように新聞や世間の人々までが呼ぶようになったのだった。
しかし、県民たちが自らの自由と権利を守ろうと動きだし、その運動が上昇気流に乗った頃をちょうど狙い定めたように、ある人物が栃木県令として県土に降り立った。
「土木県令」または「鬼県令」と異名をとった三島通庸である。県令というのは県知事のことで、当時は政府から直接任命されていた。その権力や権限は県会と比べても大きいものがあった。
旧薩摩藩の鹿児島県出身の三島通庸は、明治維新の立役者の一人である西郷隆盛の推薦で東京府の役人となった人物である。西郷亡き後は大久保利通の傘下にいた。つまり典型的な藩閥政治の役人だったのだ。
三島は東京府時代の仕事の一つとして、「芸娼妓解放令」を発案していた。芸娼妓というのは、遊郭で働く女性たちのことで、その自由と人権を無視した待遇のひどさに怒りを感じた三島が、彼女らを救うために考えた法律だという。
後の三島は山形・福島の県令を歴任し、その度に強引な道路開通工事をし自由民権運動を目の敵にしたために「土木県令」「鬼県令」と呼ばれるようになったのだが、それ以前にはこんな一面もあったことになる。
何が彼を変えたのか、それとも彼の中では一貫した正当な理由があったのか。
自分なりの展望というより官僚としての忠誠心を持ってのことだったのだろうが、三島は新しい道路を造るにしても県庁舎を造るにしても、寄付金の強要や強制立ち退きなど、そのやり方があまりに強権的で力ずくであった。そして何よりも彼の名を畏れさせたのが、福島県令時代に大勢の民権派の運動家たちに大弾圧を加えたことだった。
正造の立場から見れば、まさに「天敵」とも言いたいような経歴の持ち主だったのだ。
もちろん、三島の個人的な生い立ちを知れば、鬼どころか人間的なところは多分にある。だが、政治に私情は関係ないとばかりに、正造は三島県令のやり方にことごとく反対した。
民権派が多数を占める県会も、庶民に大きな負担を強いる三島のやり方に対立を強めたが、県令はまったく動じなかった。
栃木から宇都宮への県庁移転も、三島は山形・福島県令時代に自分の下で働いていた役人や技師たちを連れてきては、その経験を生かして、数か月という驚くべき短期間で成し遂げた。しかも多角形のしゃれたデザインで木造三階建ての見事な新庁舎であった。
しかしこの大車輪の突貫工事で造り上げた新庁舎の開庁式の日に、不穏な噂が流れた。
福島の弾圧事件で、三島に深い恨みを持つ過激な活動分子たちが、栃木県庁を爆破するとの情報だった。結局それは事前に察知され未遂となったのだが、世にいう加波山事件を引き起こす結果となる。
その事件に正造も関与したと疑われた。当時、改進党員だった正造は、自由党急進派が起こした事件とは直接関わりはなかった。しかし県令三島の圧政に対して、急先鋒となって批判していたことが仇となり、三島がこの機を利用して正造を追い詰めようとしたのだ。
一方正造は、三島の暴政の証拠を携えて、直接政府に訴えようと上京していた。この時、一時身を隠していた正造の行方を尋問するため、多くの関係者も取り調べを受けた。それは妹の原田リン方まで及んだ。そのことを知って心を傷めた正造は、自ら警視庁に出頭し、結果として佐野警察署に護送され、六十七日間も拘置された。
華やかに行われるはずだった開庁式は延期され、改めて行われたそれには、併せて百名もの憲兵と巡査が配置されるという前代未聞の開庁式となった。三島通庸は無事これを取り仕切ると、国の土木局長へと異動していった。
一方、晴れて釈放された正造を県民たちは大喜びで迎えた。「栃鎮が鬼県令を追い払った」とばかりに、大勢の支持者たちが盛大な祝賀会を催した。その当時の東京横浜毎日新聞の記事によると、佐野の惣宗寺で開かれた「出獄大歓迎会」には、百七十名もの人が詰めかけたという。
《初夏の夕暮れ――葦のささやき》
ワタシは葦。
夕風に揺れる一本の葦。雷雨に叩かれる一本の葦。
残照にうなだれる一本の葦。たよりなくか弱い葦。
でも根っこは別の大勢の仲間たちとつながっている。
だから、遠くの葦たちが見たり聞いたりしたことを、自分の目や耳で感じたように知る事ができる。
それは何も遠くの場所だけのことではない。遠い時代のことでもそうなのだ。
毎年毎年、枯れてはまた新しく芽吹くことを繰り返すワタシたち葦は、枯れない根っこのところに記憶を貯めこむ。そして新しい生命は、それを受け継ぐ。
だから、古い古い記憶をワタシたち葦族はもっている。
人間の世に例えるなら、それが「歴史」というものなのかもしれない。
そしてそれ故に言えることなのだが、いま語られた三島通庸という人物。田中正造ら民権派からは蛇蝎のごとく嫌われ、ののしられてはいるけれど、まったく別の見方をしている人間たちもいるということだ。
それは同じ栃木県でも北の方、那須野が原辺りの葦たちが、語り継いでいる記憶である。
鬼のように怖れられた県令を、神として敬い祀る場所もあるのだ。もしかしたらそれは、ワタシたち葦族があるときは「アシ」と呼ばれ、またあるときは「ヨシ」と喜ばれるのと同じなのかもしれない。
とかく人間というものは、己の立場や己との関係だけから、相手を評価しがちなものである。それが三島という人物にもはっきりと顕れている。
そして多分、田中正造という人間にも……。
そうそう、これは小中の川や他に棲む葦たちからきいた話。
正造は、母亡き後、伏せりがちになった父のために、常に医師に付いていてもらうことを考え、母屋の方に医師を住まわせた。その代わり父の隠居所用にと二階屋の離れを建てたが、その一階の台所に井戸を作った。これは妹のリンのためだった。大きな商家に嫁ぎ子宝にも恵まれたリンは、その世話に明け暮れて、年中手にひびをきらしていた。その様子を見かねた兄の正造が、せめて実家に里帰りしたときだけでも、家の中の井戸を使えるようにと、わざわざ掘らせたものだという。
「栃鎮」という猛々しいあだ名のついた人の、意外なほど優しい一面である。
第四章 鉱毒との熾烈な闘い
明治二十一年(一八八八)には、県会の指導的立場にあった田中正造は栃木県会議長にも選ばれ、これを二期務める。
翌二十二年二月十一日、その県会議長の立場から、正造は国の「大日本帝国憲法」発布式典への参列がゆるされた。
正装した伊藤博文が、玉座の前に進み出て、うやうやしく憲法の巻物を明治天皇に奉る。
天皇はおごそかに憲法の巻物を総理大臣の黒田清隆に授けられた。
その様子を、並み居る人々に混じって立ったまま見守っていた正造は、感極まって心の中で呟く。
――ついに、ついに、待ちに待った憲法が……。
このときの正造は、憲法こそ自分たち国民を護ってくれる拠になるものだと信じて疑わなかった。だが、後々には苦い思いでこの日のことを振り返る羽目になるのである。
因みに、民権運動の成果であるこの憲法制定に関わった伊藤博文は、正造と同じ年齢で共にこの時、四九歳だった。
明治二十三年(一八九〇)七月一日、第一回総選挙が行われた。栃木第三区から立候補した田中正造は、激しい選挙戦を勝ち抜いて、初の衆議院議員となる。
同じ年の秋、渡良瀬川を洪水が襲い、渡良瀬川流域に大きな被害をもたらした。
これは自然災害であるばかりでなく、川の上流に位置する足尾銅山のために引き起こされた人造災害と呼ぶべきものであった。しかし被害に遭った人たちは、まだすぐにはそれとわからなかった。
当時、東京専門学校(現早稲田大学)の学生だった青年たちが、渡良瀬川の調査に乗り出したのもこの頃である。
足尾銅山は、群馬県との県境に近い栃木県西部に位置する。十六世紀半ばには既に銅の採掘は始まっており、佐野氏の管理下の時期もあったが、慶長十五年(一六一〇)に江戸幕府の直山(直接支配)となった。
寛永年間には、江戸城の銅瓦を十二万枚、更に日光東照宮の銅瓦なども製造し、これを納めていたという。しかし幕末のころには、廃坑に近い状態になっていた。
これに目を付けたのが、古河市兵衛という京都出身の実業家である。彼は恵まれたとはいえない家庭環境から苦労して商売の道を選び、様々な困難に出会いながら不屈の商魂を身につけていったと思われる。
その市兵衛が、志賀直道(相馬家執事で作家志賀直哉の祖父)と共同出資して、足尾銅山を譲り受けた。最初の頃は苦労が多かったが、やがて新しい鉱脈の発見などにより、産銅量は飛躍的に増えていった。
市兵衛は、外国製の新しい機械をどんどん使ってその増産に備えたが、しかし銅を取り出した後の処理については、まったくその備えがなかった。
また、大勢の人夫を動員し、銅の製錬所もフル稼働させたために、たくさんの燃料が必要だった。そのため付近一帯の山の木を、残らず伐り倒して燃料とした。いつの間にか辺り一面は、丸坊主の禿げ山と化した。
更に悪いことに、製錬所から出るおびただしい煙が、亜硫酸ガスなどの毒素を含んでいたために、新たな木々は育たず草や作物も枯れて、見るも無惨な様相を呈してきた。
しかし世間一般には、そんな負の面は伝わらず、景気のいい話ばかりが流された。この頃には既に足尾銅山の鉱毒は、渡良瀬川を流れ下っていたのである。
銅を選鉱した後のズリや銅を製錬した後に出るカラミと呼ばれる毒性の残った大量の砕石状のかす(いわば産業廃棄物)を、足尾銅山の周辺の谷や川、すなわち渡良瀬川の上流に投げ捨てていた。ふだんは川底に溜まっているそれも、一度大水が出ればどうなるのか、火を見るより明らかだった。
本来なら、どんな大雨でも山に生えている木々の根や落ち葉の堆積が、水を貯めておける天然のスポンジの役割を果たして、川は急激に水量を増したりはしないはずだった。
しかし足尾の山は既に死の山となっていた。大量の雨水を貯める力など残ってはいない。むしろ、山肌に残骸のようにくつ付いていた木の切り株や土などを容赦もなく押し流していく。河床は高くなる一方である。
川は鉄砲水となって上流から中流へと下り、そして下流で大氾濫を起こした。渡良瀬川に築かれていた堤防を破壊して、農作物の実る田畑へとその毒流を拡げたのである。
関東平野の一端で耕地の開けた渡良瀬川の下流域は、大きな卓の上に茶碗の水をぶちまけたように、広範囲に拡がってしまうのだった。
渡良瀬の源流の湧き出る足尾山地の辺りが、まだ「死の山」でなかった頃、それでも三年に一度くらいは台風などで洪水が起こった。
しかし天然の山の恵みである腐葉土がたっぷりと含まれた大水だったので、それが却って田畑のよい肥やしとなり、その翌年やその次の年まで、無肥料でも豊かな収穫に恵まれていた。また、川に棲む魚たちも栄養豊かな水のお陰で大きく育ち、その数も種類も豊富だった。
まさに、大自然の深々とした懐の中で、農業も漁業もそして人間たちも生かされていたわけである。
遠く古代、藤原京跡から出土した木簡(木の札)に、「下毛野国足利郡波自可里鮎大贄……」と記されていたのは、当時からこの川の畔の村(現足利市葉鹿町)で獲れた鮎が、皇室に献上できる程に見事なものだったことを物語っている。実に千数百年も前の話である。
そんな環境だったために長い間にわたり、渡良瀬川流域に暮らす人々は物心両面の豊かな生活を続けていたのだった。
しかし明治になって「殖産興業(産業を盛んにすること)」の、騒々しい掛け声と共に足尾銅山の鉱毒が発生して以来、その生活は一変した。劇的に変わってしまった。
ある年の五月、立ったまま黒ずんで枯れてしまった麦畑を目の前にして、呆然と佇む農民たちの姿があった。
その一本の麦を手に取って、一人の農夫が呟く。
「ああ、いったい、どうしちまったんだ」
「なんてこったろ、こんなこと、今までなかったはずなのに」と、その妻。
「何か悪い病気のせいだろうか。それとも肥やしが足んなかったんだろか」
「悪い病気だなんて、そんなはずはなかろうよ。来年は、肥やしをうんとくれてやれば、大丈夫さ、おとうちゃん」
真相を知らないまま、まだ気持ちにも家計にも余裕のあった妻は、こう言って夫を励ました。
しかし、次の年になっても事態は好転するどころか、作物はますます穫れなくなるばかりだった。
渡良瀬川のほとり。村の青年たちの中に子どもも混じっている。青年の一人が叫ぶ。
「おい、来て見ろ、大変だ」
数人が急いで声のする方に駆けつける。
口をわなわなと震わせながら指差す川面を見てみると、コイやフナなどのふだん元気に泳ぐ姿を見慣れている魚たちが、みな白い腹を見せて浮いている。そしてただゴミのように流されていく。中には、横倒しになりながら、えらをヒクヒクさせているものもあった。
ウナギやナマズまでが、苦しそうに身をくねらせて妙な動きをしている。
「ああ、なんてこった」
「いったい、どうしちまったんだ」
青年たちは、口々に叫ぶ。
「コイやウナギも全滅か」
「明日から、日銭が稼げなくなるじゃないか」
川や沼の近くに住む青年たちは、獲った魚を河岸で売って、その日の小遣いを稼ぐ者も少なくなかった。
秋になればサケも遡上してきた恵みの川は、やがて足尾の山々と同じように、「死の川」へと変わりつつあった。
魚類どころか、カメやカエル、ヘビでさえも鉱毒の混じった水に呑まれて、死んでいったのだ。
草木の腐った臭いもいやなものだが、動物の死臭といったら、更にすさまじいものだった。渡良瀬川の低地には、いくつもの沼があったが、その沼に近づくと、鼻をつく臭気に胸が悪くなるほどだった。
ただならぬ事態に、これは自然災害などではないと、ようやく気付きだした流域の人々は、調査に乗り出した。しかし自分たちの力だけではどうにもならない。県に掛け合い宇都宮の県立病院に川の水を持って行って検査してもらったり、東京帝大の農科大学(現・東大農学部)の古在由直助教授に調査の依頼をした。
そしてこれらの答えのことごとくが「足尾銅山から流れ出た鉱毒のせい」だと結論を出していた。
被害農民たちの中には結束して、県に申し立てをする者もいた。足尾銅山の鉱業主である古河の責任を追及して、被害の補償を求めたが、銅山側はその因果関係をけっして認めようとはしなかった。そして交渉ごとに不慣れな農民たちが相手であるのをいいことに、わずかな示談金を渡して「今後一切、苦情を申したてぬこと」という約束までさせようとしていたのだ。
そのような話が、国会議員になったばかりの田中正造の耳に入らぬわけはなかった。ましてや自分の地元、選挙区内の大問題である。
さっそく正造は、この一件で知り合った有為の青年たち――左部彦次郎に渡良瀬川右岸を、山田友次郎に左岸の調査を頼んだ。
そして第二回帝国議会に「足尾銅山鉱毒の儀につき質問書」を提出し、国会の演壇に立った。この鉱毒事件(公害問題)が、史上初めて国政の場に持ち出されたわけである。
議場にて正造は、調査で確認した被害の様子を詳細に説明した。複数県にまたがる広大な被害地と、そこで苦しむ農民、漁民の救済策と鉱毒防止の策を述べ、そしてそれを放任した政府の責任を厳しく追及した。
担当の農商務大臣は、このとき陸奥宗光である。陸奥といえば、勝海舟の薫陶を受け坂本龍馬率いる海援隊の一員として若き日から活躍した人物だった。しかし龍馬亡き後、明治維新を経て政府の要職に就いた彼の姿に、若き日の面影は重なり難い。
表情の乏しい痩せた蒼い顔を向けて黙っているだけである。そしてこの陸奥の次男に当る潤吉が、古河の養子となっていたことに触れつつ、正造は鋭く言い放った。
「もしそれが、足尾銅山の停止を命じない理由となっておるならば、公私混同もはなはだしい」
仮に偶然の成り行きでそうなっていたとしても、こう叫ばずにはいられなかった正造にもそれなりの理由があった。
以前、陸奥が視察旅行の途で、栃木県日光に立ち寄った折り、気高い山々の連なる風景を眺めながら、こう嘯いたというのを正造は同行の者たちから聞いていたのだ。
「下野の風景は素晴らしいが、風景だけでは金にならぬ。経済には用がない」と。
足尾銅山から流出する硫酸銅などの毒物に汚染されて、渡良瀬川流域に暮らす人々の生活は、根底から崩されていった。その大いなる自然のお陰で「恵みの川」であった渡良瀬川は、鉱毒のせいで危険きわまりない「死の流れ」へと変貌した。
麦も稲も枯れ、代わりに植えた桑の木も育たず、人体にまで害が及んだ。
毒を含んだ水に手を浸していると、やがて手肌は真っ赤に腫れあがった。毒水に侵されたと知りつつも食べる物に困って口にすれば胃腸は弱り、やがて胃病で死ぬ者も多くなった。
人の体の中で一番影響が出たのは視力である。直接毒の混じった水に触れたわけでなくとも、渡良瀬川の流木を拾って燃し木にしたりすると、その煙が毒を含んでいて人の目に害を及ぼした。
渡良瀬川沿岸の村々では、視力が落ちたり目の見えない不自由な人たちが、老人だけではなく若い人でも極端に増えていった。
広々とした大地に生まれ育ち、豊かな収穫に恵まれて大らかに暮らしてきた人々も、さすがにこれでは生きてはいけないと立ち上がった。
当時「大押出し」と呼ばれていた大挙請願運動である。つまり大勢で集まって上京し、直接国の担当部署へ被害の状況を訴えに行くことだった。
農民たちの中から若い有志がまず集まり、「青年行動隊」を組織して方針を話し合った。彼らの行動の精神的な支柱は、代議士田中正造の信念に基づいた考え方であった。
明治憲法に対して高い理想を抱いていた正造は、その中の次の条文を拠にしていたのである。
二七条 日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サルルコトナシ
三〇条 日本臣民ハ相当ノ敬礼ヲ守リ別ノ定ムル所ノ
規定ニ従ヒ請願ヲ為スコトヲ得
わかりやすく言えば、日本国民なら自身を守るために穏やかな方法で直接国に訴える事が法律上認められている、ということである。そしてそれは前時代まで行われた農民一揆と違って、武器を持たずに非暴力に徹すればよいということでもあった。
正造はこの憲法条文と「公益を害すと認めるときは鉱業を停止すべし」という内容を含む鉱業条例とを、フルに活用しようと考えたのだ。鉱毒に苦しむ人々が、当然の権利として自分たちの身の安全や住む土地の保全のために、大挙してこれを世に訴える。もちろんそれと同時進行に、国会議員である自分が国会に質問書を出し、演説し、政府の責任と早急な対策を迫る。憲法や政治に対して、理想と希望を抱き続けていた正造は、何度もこれを繰り返した。
例えば、黒く立ち枯れた麦の穂や桑の葉を参考資料として提出したり、根っこの腐った孟宗竹の切り株を手にして登壇すると「これを見ていただきたい」と、真剣に訴えた。
しかし、世の中の流れや時代の動きは、鉱毒の川の流れよりも、更に被害民には過酷であった。
明治二十七年から二十八年の日清戟争、そして同三十七年から三十八年の日露戦争へと続く十年余は、日本の国全体が国内に目を向ける余裕はなく、完全に国外に目を奪われていた。
外国と戦争をするためには、大量の銅が必要とされた。産銅は国益に直結する軍需産業でもあった。
足尾銅山は増産につぐ増産を続け、産銅量日本一の山ともなっていた。イギリスの商社・ジャーデンマジソン商会との取引もあって、外貨獲得の大切な手段でもあった。
「富国強兵」「殖産興業」という二大スローガンを掲げた政府は、足尾銅山を守ることに必死だった。既に古河は一民間企業の扱いではなくなっていた。だから、鉱毒被害民や田中正造ら一部の議員たちの「足尾銅山鉱業停止」の請願など、聞く耳さえ持たなかった。
銅の増産が続けば、被害が大きくなるのは必然のことだった。なぜなら、明治三十年以降の公害防止の策が一向に役立ってはいなかったのだ。銅山側も政府も、適切な防止策を講じたと口では言うばかりで、まったくその実効が無かったのだ。
明治二十九年(一八九六)、六月。三陸で大津波が発生した。死者・行方不明者合わせて、二万一千余人にのぼるという。
同年七月、八月、九月と大雨により各所で洪水が発生。渡良瀬川も何度も氾濫し、鉱毒被害は激烈なものとなった。
それを受けての、正造の国会質問演説は、いつにも増して激しく辛辣なものであった。
「……濃尾の大地震、三陸の津波、各府県の洪水は、惨憺たる有様でございます。が、これは天災である。……しかし、この鉱毒事件は天災に加うる人為の害があります。そうであれば人間が為した害は人間が治すものと決まっております。この人災は防げるものと決まっておりますのに防いでいないのは、何事でありましょうか」
この、正造の訴えを体現するように、被害民たちの第一回、第二回の大挙請願運動は明治三十年(一八九七)の三月、続けざまに行われた。
この時、農商務大臣であったのは元幕臣の榎本武揚だった。榎本は被害民の代表六十五名と面会して直接話を聞いた。鉱毒被害の実態を涙で訴える農民たちに対して、大臣も涙をもって応えたという。
そしてただちに栃木県の被害地域を視察し、その惨状を自分の目で確認すると、速やかに「鉱毒調査委員会」を設置した。しかし、このような事態になるまで結果的に放置してきた責任を痛感して大臣を辞任した。そしてその後、一切の要職には就かなかったという。
この榎本のような誠意ある対応をしたのは、時の政府内においては稀なことであった。
この頃、足尾銅山と渡良瀬川の鉱毒問題に対して、勝海舟の次のような談話が新聞に載った。
「山を掘ることは旧幕府時代からやっていたことだが、その頃は手の先でチョイチョイやっていたんだ。海へ小便したって海の水は小便にはなるまい。手の先でチョイチョイやっていれば毒は流れはすまい。今日は文明だそうだ。文明の大仕掛けで山を掘りながら、その他の仕掛けはこれに伴わぬ。それでは海で小便したとは違うがね。元が間違っているんだ」
文明の利器と称して新しい外国製の機械を導入し、自分たちの手に負えない結果を生み出すことに対する痛烈な皮肉を込めた言葉だ。「文明開化」をスローガンに掲げてしゃにむにひた走る明治政府への、いかにも勝海舟らしい辛口の批判だった。
このとき彼は公的な立場にはなかったはずだが、田中正造とは個人的に親しく、大いに共感するものを抱いていたのだろう。
徳川幕府の家臣でありながら、江戸の無血開城(倒幕軍の西郷隆盛との話し合いによって戦わず城を明け渡した)を成し遂げたことでも有名な勝海舟は、維新後も徳川派の清算役としての務めを果たしていた。しかし藩閥政府の中に取り込まれることはなく、その独特の立場を一人守っていた。
この海舟の人間性に対して、正造は強い魅力を感じていたようだ。
明治三十一年(一八九八)の六月末、日本初の民党内閣――大隈重信と板垣退助の一字ずつをとって隈板内閣とよばれる――が発足した頃、その迎合的な経緯に疑問と不満を感じていた田中正造は、周囲の猟官争いに半ば呆れ果てて、勝海舟の元を訪ねた。
「おー、よく来たな。まあ、その面じゃ、言いたいことは、おおよそ察しはつくがな」
と、海舟らしい小ざっぱりとした江戸弁で招き入れたのでもあろう。一頻り、正造の話を聞いてから、
「確かにこれが民党の勝利とは、聞いて呆れるな。ところで、お前さん自身は、いったい何になりたいんだい」
そう水を向けた海舟に、正造ははっきりと答えたのに違いない。
「総理大臣」と。
その時、海舟が正造に書いて渡したという一枚の証文が残っている。それは「百年後の総理大臣は田中正造」と記した書き付けで、その請人(保証人)としての勝海舟自身の名前を書き入れ、宛先を阿弥陀様と閣魔様というあの世の支配者にしたものだった。
海舟らしい、ウイットに富んだ遊び心と言えば言える。が、当時の政治の実情をよく知っていた海舟だからこそ、正造だけの力では今どうにもならないことを見抜いての正直な気持ちの表れとも受け取れる。
それとも『氷川清話』という海舟の談話をまとめた中にもあるように「大きな人物というのは、その価値が知られるには百年かかる」という感慨を抱いてきた海舟の、田中正造評の一端でもあったのだろうか。
ともあれ、勝海舟という一個の優れた個性が、これまた田中正造という型破りな個性をよく理解し、親しみを感じていたことに疑いはないだろう。
かつて新聞人でもあった正造は、鉱毒問題を解決しようとするに当たって、世論を喚起するという努力も怠らなかった。
元より同じ国会議員でもあり、親友でもあった島田三郎は、毎日新聞の社長であった。その社員である記者の石川半山、木下尚江などは、熱心に鉱毒被害地を取材した。そしてその実情を知るにつれ、正造や正造たちの運動とも深い関わりを持つようになる。これは彼らの持つ真っ当なヒューマニズムがそもそもの引き金だったのだろう。
また、松本英子という女性記者も、被害地を慰問する女性支援者たちに同行取材し、大変ショッキングな鉱毒被害民の様子を、長期連載記事の中で綿密に描き出した。
パリン、シャリン、ジャリリ……。
でこぼこ道のくぼみに、氷が張っていた。真冬の分厚い氷であれば、その上をそろりと足をすべらせて通ることもできたのに、なまじまだ十二月では、セロファンのような薄っぺらい氷しか張らなかった。割れた氷の下の水にわらぞうりの素足が浸る。
「いててて……」
子どもたちは口々に叫ぶ。冷たいのではなく痛いのである。鋭い刃物で突かれたような感覚が、足の先から頭のてっぺんへと貫いていく。
「あんちゃん、いたいよー」
一番小さな女の子が、べそをかいている。見ると、真っ赤に腫れた足の小指の先から、血が滲んでいる。
「しょうがねえなあ」
と言いつつ、男の子が妹を負ぶってやる。ぎすぎすに痩せて体も軽い妹の、それでも生きている証の温もりが、背中を通して伝わってくる。
「あんちゃん、ごめんね」
「まっ、いいか、あったけえから。湯たんぽ、しょってると思えば……」
兄はそう言って、鼻水をすすった。
この地区の小学校へ通う子どもたちの、ふだんの光景である。幼くとも苦労しているせいか、互いを思いやる気持ちの強い子が多かった。
しかし学校といっても、それは古い農家の一軒家と変わりはなかった。ぼろぼろの土壁、ところどころ木や竹の骨組みが見えている。障子の桟はもとより透け透けで、紙のなごりのすすけた切れ端が、すきま風でパタパタと翻っている。
畳はなく、土間か板の間である。元は床の間だったと思しきところに、黒板代わりの雨戸が一枚立て掛けてある。そのそばには穂先のすり切れた箒が一本、ぶら下がっている。
この村でも、学齢期の子どもは百人近くはいるはずなのに、学校に通える者はその半分もいない。女の子に至っては小さな子ばかりほんの四、五人。わずかでも家計の足しにと、みんな余所に手伝いにやられているか、家で機織り仕事である。
学校に行かせてもらっている子どもでも、家に戻れば水汲みだ、薪割りだ、麦踏みだと、親の手伝いは山ほどある。
若いが丸いめがねの男の先生が、たった一人で四十数人の子どもらを見ている。校長も教頭も小使いさんも、この学校にはいない。
「ほらみんな、黒板の前に集まれ」
始業の鐘を自分の手で振りながら先生が呼ぶ。
外で日向ぼっこをしながらシラミ取りをしていた子どもたちも、ぞろぞろと室内に入って行く。
「きょうも、カタカナを覚えるんだぞ。さて復習だ。こないだ教えた、イロハニホヘトを何処まで書けるか、どうだ、庄作、黒板に出て書いてみろ」
指名された少年は、口をぽかんと開けて頭を掻いている。
「先生、おら、きのうは草刈りで……」
「おい、今頃どこに草なんか生えている」
「いや、まちがえた。母ちゃんに落ち穂拾いに行けと」
「どこの田んぼに稲なんか、あったんだ」
「ちがう、ちがう、薪割りさせられて、くったびれて早寝しちまった。だから学校で習ったこと、すーっかり、忘れちまった」
教師は「やれやれ」と言いながら、どこに薪があるんだという問いの言葉を呑み込んだ。
ここにいる子どもらの家には、もはや燃やす薪さえも満足になく、使い物にならない枯れた葦をかき集めてきては、いろりやかまどにくべるのだ。しかし軽いひょろひょろの葦では火にくべてもくべても暖はとれない。
教師は黙って黒板の方を向くと、「イロハ……」と書いた。
「いいか、みんな、よーく覚えるんだぞ。ちゃんと字が読めないと、大人になって困るんだ。ずるい奴らにだまされてしまうぞ。自分らを守ってくれるはずの法律も読めないでは、損ばかりするぞ」
教師はそう言って、一度下を向くとズリ落ちそうになっためがねを押さえて、子どもたちを見た。この子らの行く末が不憫でならなかった。それぞれの家は元々それなりに豊かであったのだが、うち続く鉱毒被害のせいで売る作物も穫れなければ、自分たちの食べる分さえ、こと欠く始末であった。
子どもらは教師の想像通り、家に戻ると枯れ葦を集めるのに一生懸命だった。時には渡良瀬川の河原へ降りて流木を拾ってくることもあった。それは葦の束を燃すよりも暖かくはなったが、青い火花のようなものが出て、危険でもあった。しかし、そんなものでも親たちが家に戻ってくる前に燃やしてしまうとこっぴどく叱られた。危ないからではない。
「今、これを燃してしまってどうするんだ。もっと寒くなって雪が降るころになったら、もっと我慢できなくなるぞ」と。
それで仕方なく子どもらは、村の中では少しだけ大きなかまどのある家へ、用事もないのにわざわざ行って火に当たらせてもらう。その家のおばさんは何も言わない。子どもらの真っ赤に腫れた手や足を、見るまでもなく知っているからだ。庄作兄妹も冬になると隣のこの家で火に当たらせてもらっている。でも自分の親が戻る前に家に帰る。そうしないと親の肩身が狭くてかわいそうになるからだ。
ある、木枯らしが冷たく吹く日に、その家のおばさんが、集まっていた子どもたちに言った。
「きょうは特別にたくさん燃やしてやるから、よーく温まってから家へ帰りなよ」
そして子どもら一人一人のあかぎれの掌に、茶色い砂糖を一さじずつ載せてくれた。舌の先でちょっとずつ舐める。その甘かったこと、甘かったこと、顔中がとろけるかと思うほど、本当にうまかった。
その日のおばさんは、いつもよりもっと優しかった。
――こんなに世話になっても自分の親に黙っているのは、やっぱり悪いから、きょうのことはいつかちゃんと言おう。
そう考えながら庄作は、眠ってしまった妹を負ぶって家に帰った。
次の日、学校から戻って水汲みを済ませてから隣の家へ行くと、家の中は空っぽだった。いつも赤々と燃えていたかまどの火はおろか、鍋・釜などの家財道具一切も無くなっていた。優しくしてくれたおばさんもいない。先の折れた菜箸が一本、台所の土間に転がっているだけだ。
しょんぼりしたまま家に戻ると、父と母が話していた。
「まったく、となりん家も情けない。この村に見切りを付けて出て行っちまったとよ」
「燃し木なんぞ一本も無くなっても、余所に行ってまた一から苦労するより、ここにいた方がなんぼかましだろうに」
渡良瀬川の左岸に雲龍寺という曹洞宗茂林寺の末寺がある。茂林寺は「ぶんぶく茶釜」の伝説で有名である。
渡良瀬川左岸というと概ね栃木県に入るのだが、雲龍寺のある場所は群馬県の飛び地となっていた。
鉱毒被害地のほぼ中央という立地の関係や舟運の盛んな交通の便に恵まれていたこともあって、その寺が栃木・群馬両県の鉱毒請願事務所として使われていた。
檀家の中には地元民に信頼の厚い渡瀬村の小林家や吾妻村の庭田家もあり、まだ若い黒崎住職が請願運動に熱心だったことも、その理由の一つだった。
また東京にも安い宿屋を探して、鉱毒事務所を設けていた。ここには地元民が交替で詰めているだけでなく、運動に共感した在京の者たちが、何人かで手伝っていた。
左部彦次郎もその熱心な一人であった。彼は若くして結婚し、二児をもうけながらも妻を早くに亡くしていた。その子らを母方に預けながら、鉱毒問題に身を投じていたのである。
正造は、被害民全体を結集する鉱毒反対運動に対して、特に若い者たちの力を求め、期待を寄せていた。この左部を筆頭に、地元民では大島村の大出喜平、堺村の野口春蔵、毛野村の岩崎佐十などである。
十代、二十代の頃から彼らは鉱毒被害を体験し、その苦しみをつぶさに味わってきた。「足尾銅山鉱業停止を求む」という田中正造の運動方針をよく理解し、若いが故に真っ直ぐに突き進んできた。
しかし、正造ら東京組との綿密な打ち合わせの上で、若い彼らが先頭に立って決行した第四回大挙請願は、思いがけない結果を招いた。
これが世にいう川俣事件の発端だった。
明治三十三年(一九〇〇)二月十三日、午前零時。深夜の寒空の下を蓑笠姿の農民たちが、それぞれの集落を抜け出て、一群ずつ雲龍寺を目指した。
蓑と笠を身に付けていたのは、寒さを凌ぐためでもあったが、それが一番農民らしい出で立ちだろうという暗黙の了解もあった。
様子を察知していた警官たちが寺に向かうと、既に千人近い人影が篝火を囲んでいた。ゆらゆらと焔を映す農民たちの顔が、夜の闇の中で不敵に笑うように警官たちには見えた。決死の覚悟を固めた人間たちの、巨大な岩のように固い意思の感覚に、直に触れたようにも感じた。
その底知れぬ恐ろしさを振り切るように、警察署長が本堂前の階段を駆け上がった。
「解散だ、解散を命ずる。集会政社法によって、直ちに解散を命ずるぞ」
こう、ひときわ高い声で叫んだ。しかしその上ずった調子を見てとったのか、誰も動こうとしない。署長はひるみながらも、部下たちに命じて、同じことを繰り返させた。
「今すぐ、解散しろ!」
「それは不当だ」
「不当な解散命令には、従う必要なーし」
「そうだ、そうだ!」
青年隊の者たちが口々に叫び返した。そこで警官たちは本堂の中へ入り、左部や学生たちを実力で排除し始めた。
そこへ野口春蔵が、裸馬に乗って境内に乗り込んできた。
「何をしてる、俺たちの事務所だ。早く警官たちを追い出せ」
集っていた者たちに大声で命じると、気持ちの高ぶっていた農民たちは「うおー」というかけ声と共に、一斉に本堂に押し入って、警官たちと乱闘になった。
やむなく署長は、見張り役だけを紛れ込ませたまま、制服の警官たちを引き上げさせた。それが午前三時頃のことだった。
夜が白々と明けてくると、集ってきた被害民たちは二倍に増えていた。
「俺たちが、警官を追い払ったぞ」
「本当か」
「本当だとも」
「それは、でかした」
口々に伝わる話で、人々の中に興奮の潮が大きく渦巻きながら拡がっていった。
午前八時になると、請願行動の目的と注意事項を黒崎住職や左部彦次郎らが演説した。それに応えるように、若者たちから口々に声が上がる。
「分かったとも、法律が許す範囲で運動するんだ」
「武器も持たぬ、暴力も一切しない」
「だが、何があっても前へ進まねばならぬ」
そして、岩崎佐十の発声で、全員が高らかに合唱する。
「天皇陛下万歳、被害民バンザーイ」
今から行う大挙請願運動は、決して天皇に背く行為ではなく、直接政府に訴えるためだとの確認と表明の意味があった。
馬に乗った野口を先頭に、一行が寺を出発した。その後ろに、渡し舟を乗せた大八車を曳いた者たちが従った。徒歩で後に続く者たちも、それぞれ歩きだした。皆、三、四日分のにぎり飯を用意して風呂敷に包み、何足ものわらじを腰にくくりつけていた。
そして彼らは誰に指揮されるとはなしに、彼らの歌を口ずさみだした。総称して「鉱毒悲歌」と呼ばれる、被害民たちが自分らで作った歌である。
怨みの焔
さて今日の社会にて 悲惨の数は多けれど
渡良瀬川の岸に棲む 民にまさるものぞなし
濃尾の地震はいうも更 三陸つなみも悲惨なり
さりとてこれらは天災で 人手で止まらぬ数のもの
鉱毒被害は人のわざ 人と人にて止むものよ
しかし乱暴果てしなく 人の命を仆し行く
この歌の詞と相まって悲しげな旋律は、農民たちの歩く道々に、過ぎる辻々に地鳴りのように低く響き渡った。「怨みの焔」という題名の通りに、被害民たちの探い怨念が染み込んだような歌だった。行く手を阻止しようとする者たちにとっては、徐々に全身を荒縄で縛られていくような、何とも遣りきれない思いのする旋律であった。そのやり場のなさを振り切ろうとするように、彼らは農民たちを蹴散らした。
そうやって道々、警官たちと小競り合いを繰り返し、先頭の野口も馬から引きずり下ろされそうになりながらも、何とか利根川左岸の川俣近くまでたどり着いた。
しかし既にそこには一網打尽を命じられた群馬県警の警部と巡査、百八十名、栃木県警の二十名、そして憲兵隊までが待ち伏せしていた。群馬県警の警部たちが、
「解散、解散だ」
「運動禁止、運動禁止」
と、再三声をからして叫んだが、大集団となった農民たちは、騒然としたまま突き進んでいく。そこで警官隊は大きく動いた。
身を守る手立てを何一つ持たぬ農民たちにとって、結果は惨憺たるものだった。大八車を押していた数名は、群がる警官に突き倒され、袋だたきになった。他の者は傍の畑や林へ逃げ込んだが、中には堀へ落ちて傷だらけとなるものもいた。
警察は、十五名の者をその場で逮捕した。そして命からがら逃げ延びたものの、後に百余名の者が逮捕された。
その時、田中正造は国会で演説中であった。ごく秘密裏に進めていた計画ではあったが、決行の日時はもちろん正造の承知するところだった。被害民たちは無事に利根川を渡り、そろそろ東京へ到着するころだと待っていた正造の元へ届いたのは、「押出し弾圧」の報告だった。そして、頭を包帯でぐるぐる巻きにした山崎錠次郎の痛々しい姿だった。
それを目の当たりにして、正造の怒りが極限に達したのは間違いない。怒りのあまり、こめかみの血管が切れるか、頭から湯気を立てて倒れるかと思える程の仁王のような表情で、その後たて続けに国会の演壇に立った。
まず「警吏大勢兇器を以て無罪の被害民を打撲したる儀につき」質問し、政府の罪を鋭く追及した。そして後世の議会史上に残る「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」を作り、正造一流の逆説的な言い回しで、こう説いた。
「政府があると思うとちがうのである。国家があると思うとちがうのである。このことが政府に分からなければ、国が滅びておるという自分の愚かさを知らなければ、亡国に至っているということであります。政府が鉱毒をたれ流させておいて、人民を殺しているのは、国家を殺しているのと同じであります。政府が法をないがしろにするということは、政府が国家をないがしろにしておるのであります。人民を殺し、法をないがしろにして、これで国が滅びたと言わないで、なんといえますか」
このとき、正造の胸の中で渦巻いていたのは、ただ怒りだけというより、悲しみですらあったのかも知れない。
国民一人一人の命が大切に守られていてこその国家なのに、国民に刃を向けるような政府のやり方は、国民を滅ぼし、国そのものを亡くすことと同じであると、正造は臓腑の底から煮えたぎる憤りを覚えたのだった。
そしてまた、自分が政治家の一人として、国会議員の一人としてこれまで強く信じてきたものを喪失するに似た、深い悲しみを感じていたのだろう。
しかし、時の総理大臣山県有朋は、後日「質問の意味がまったくわからない。したがって答弁せず」という趣旨の書面でもって、正造の質問を完全に無視した。衷心から国家・国民を思う正造の真意は、まったく理解されることなく黙殺されたのである。
この、大挙請願運動弾圧の一件は、川俣事件と呼ばれ裁判になり、正造は心ある弁護士たちに頼んで大弁護団を組織したが、結果的に裁判は立ち消え、起訴された被害民全員が無罪となった。
だが、長い期間にわたり収監されたことで、鉱毒反対運動を支え続けてきた青壮年者たちの多くの精神をくじき、運動から遠ざからせる逆の結果も招くことになってしまった。
正造のように、若い頃から何度も投獄された経験があった者ならまだしも、土と水と空を友にして、真面目に野良仕事をしてきた者たちにとっては、狭い留置場につながれることほど酷な仕打ちは無かったのだ。
しかも自分たちは憲法に則り、当然の権利として請願運動を起こし、既に三度もそれを試みていた。なぜ四度目で逮捕されなければならないのか、まったく合点がいかなかった。
しかし政府側にしてみれば、徐々に世間の関心が鉱毒問題へも向かうようになったことに焦りと危機感を覚え、それが封じ込めようのない事態に陥る前に、先手を打つという計算がなされていたのかもしれない。だからこそ、警察に命じて内偵(スパイ)を送り込んでいたのだ。
その動きを正造でさえ気付かなかったのであれば、被害農民たちに解ろうはずがない。それでなくとも彼らは広い大地で生きてきたがゆえ、根が単純で騙されやすくできていた。正造は自分の考えの浅はかさを知った。そしてそれを身をもって償わなければならないと、覚悟を決めたのだった。
田中正造という人は、自分の言動に精一杯責任を持とうとする、純粋な精神の持ち主に見える。事実、そうだったのだろう。しかし、それだけの人間ではなかったとも思える。単純明快に見える第一の面の下に、もっと複雑な第二の面、第三の面を併せ持っていたのではないか。そしてそれを自分の顔に付けたり外したりしていたのではないか。
例えばそれは、二年前の第三回大押出しの時、大挙して上京しようとする請願民たちを保木間の氷川神社境内で押しとどめ、
「今の政府は、民党出身者たちの、つまり我らの政府であるから、これを信じて、今少し待ってくれ。必ず鉱毒問題は政治的な解決をはかるから」と、必死に声を張り上げて演説した。
確かにこの時、従来続いてきた藩閥政府ではなく、正造自身も所属していた進歩党と自由党とが合同して初めてできた政党内閣(隈板内閣)ではあったけれど、それは本来彼らが主張してきた民主的なスローガンを捨て、陸・海軍相と妥協して成立せしめたものだった。そして猟官運動に血眼になる同志たちの浅ましい姿をつぶさに見てきた正造の内心は、「我らの政府」に対する希望など抱いていなかったのかもしれない。
しかし、自らの絶望を覆い隠し、請願農民たちの多くを郷里に戻そうとして、止むにやまれぬ嘘をついたのだ。だが正造本来の、言葉への誠実さが、図らずも次のような言葉を吐かせてしまった。これを聞いていた人たちは、取り締まりの巡査でも憲兵でも、ほろりとするものを禁じえなかったという。正造はこう言ったのだ。
「その代わり、この田中正造、死ぬ覚悟でことに当たる。そして自分が皆の先頭に立って、訴え出る」と。
これは後々、正造自身の首を絞める結果になるのではないかと、古くからの側近たちの中には心配する者もあった。特に左部彦次郎などがそうである。そして事実、今回の第四回大押出しの失敗によって、正造は抜き差しならない事態へと自分を追い込むことになったのだから……。
その頃、渡良瀬川の上流である足尾銅山のお膝元といえる地域でも、製錬所から出る煙の害が年々ひどくなっていた。農作物も実らず、飼っていた馬も毒素が付着した葉っぱを食べると、よだれを流して死んだ。健康を害する人も多くなり、生活への影響も大きくなるばかりであった。
折しも、最上流部の松木沢を臨む松木村では火事が起こり民家が焼失し、村を離れる者たちも多くなった。そして追い打ちをかけるような形で廃村とされたのもこの頃だった。
言葉を失う程の苦しみを味わっていたのは、渡良瀬川の上流・下流を問わず同じ庶民たちだったのだ。
明治三十四年(一九〇一)、六十一歳になった正造は、衆議院議員を辞職した。五十歳から丸十年間も連続当選し、代議士として闘い抜いた正造の国会議員人生はここで途切れた。
それは心ない輩らの「鉱毒問題にあくまでも拘り続けるのは、自分の選挙のため、選挙の票田を守りたいがためだろう」という悪意丸出しのデマに、我慢がならなくなったためとも受け取れるし、また正造自身の政府に対する絶望感の表れとも取れる。
いずれにしろ田中正造という人は、ある意味、子どものように純真で一途なところがあった。一見、演説でも会話でも、感情の起伏のままに大声でまくし立てる豪快な面が目立つのだが、内面には不器用で繊細さも併せ持っていた。元々、嘘のつけない人柄でもあったわけだ。
その正造が、一世一代の大立ち回りを演じたとすれば、世の中の人々はいったいどう思うだろう。
同年十二月十日、午前十一時二十分。代議士を辞め一臣民に戻っていた田中正造は、世間をあっと言わせる行動に打って出た。
第十六回議会開院式を終えて、皇居に帰還しようとする明治天皇の馬車が、貴族院(現在は経済産業省別館がある場所)を出発した。天皇のお乗りになっている馬車の前後には、百人を超える警護隊が付き従っている。道路の両側は、見送りの群衆でひしめき合っていた。
馬車は心持ちスピードを弛めながら、交差点を曲がった。その時、人混みをかき分けて駆けだした一人の老人がいた。分厚い外套はその場で脱ぎ去り、紋付き袴姿で、右手に「謹奏」と書いた訴状を掲げている。田中正造であった。
必死の形相で「お願いでござります。お願いでござります」と繰り返しながら、天皇の馬車に近付こうとした正造は、不本意にも足がもつれて、片膝を突いた。そこへ警官二人が駆けつけた。
正造は左右両方から手を掛けられ、仰向けに引き倒された。馬車の前方に付いていた騎乗の近衛兵が、とっさに手にしていた槍で正造を突こうとしたが、騎馬が急に向きを変えた為に体勢を崩し馬もろとも転倒してしまった。
この間、どれほどの時間だったのだろうか、天皇の乗った馬車は、何事も無かったように通り過ぎていた。
衆議院を辞めたばかりの代議士が天皇に直訴状をという、前代未聞の出来事に新聞各社は色めきたった。そして翌々日の新聞には、正造が手渡そうとした直訴状の全文が掲載された。そしてそれは、社会主義者で「万朝報」記者の幸徳秋水の書いたものだということで、更に世間の耳目を驚かせた。
捕らえられた正造はどうしたか。実はその日のうちに釈放されたのである。警察へは左部彦次郎が迎えに来ていた。そしてそのまま自分の宿舎へ戻ると、正造の身を案じて集まってきた支援者たちとの面会を一切断って、正造はある人物と秘かに会っていた。
宿屋の一室。
座敷に向かい合って座る正造とやや若い男。床の間の簡素な竹筒には、玉椿に似た白いサザンカの花が一輪だけ生けてある。
「失敗だ、失敗だ、……」とその男が正造を見て低く唸る。
「何とも弱りました。死ぬつもりで出て行きましたのに、生きて戻ってしまうとは……」と、苦しそうに応える正造。
「まあ、やらぬよりは、よろしいでしょう」
肩を落とす正造に、こう言って慰めの言葉を掛けたのは、石川半山(安次郎)だった。
彼は正造より二回り以上も若いが、毎日新聞の主筆として、以前から鉱毒問題へも陰ながら力を注いでいた人物だった。そして正造へ直訴をすすめ、幸徳を紹介したのも石川だったのだ。
正造がどんなに国会で質問して政府を追及し、被害民の救済を訴えても、いっこうに事態の好転しない鉱毒問題に業を煮やした支援者たちの中には、思い切った策を考え出す者もいた。もちろん首謀者は正造である。この大事を起こしてやり遂げるためには、ぜひとも協力者が必要だった。なぜなら、世論を呼び醒まし世論を味方につけねばならない。
こののち約十年後に、大逆事件で処刑されることになる幸徳は、この頃から既に有名だったわけではない。しかし石川から見れば、正造の思想を理解しうる人物であり、二人の立場の違いも却って人目を誘い好適だと考えたのだろう。
もっとも正造にしてみれば、幸徳の他に白羽の失を立てていた人物がいた。その人は正造のごく身近なところで、運動に携わっていて、正造の思想の十分な理解者の一人であった。
しかし、その人の身内に直訴状執筆の件が漏れてしまい、それを知ったがために正造は、せっかく書いてもらった直訴状を本人に突き返して、事の露見を防いでいたのだった。
書かされた人物にしてみれば、実に残念で不本意なことであったろう。彼は、この後も様々なものを犠牲にして運動のために力を尽くし正造と行動を共にするが、最後の最後の土壇場で、正造の元から去っていくことになる。それから四年後の事だ。
一方、天皇への直訴という意表を突く思い切った行動は、社会や世間に対して、世論を起こすための起爆剤の役目を果たした。
しかし、だからといって正造が、この事件を利用しようとしたわけでもない。正造の意識の深いところには、自然への畏敬の念と同様に、天皇への素朴な尊崇の念が全くなかったとは言い難い。だから警察や検察から事情聴取を受けた時も、「不敬罪」には当たらないと即断されたのだろう。
とは言え結果として正造は無傷であったものの、天皇を護る役目の近衛兵に突き殺されても仕方のない暴挙でもあった。その死を賭しての行動に、まだ若い学生たちや青年たちは一途さ故に、また女性たちは被害民への同情故に、大いに心を動かされた。その顕著な例が後の石川啄木や荒畑寒村、河上肇などの文学青年たちだった。
神田の青年会館などで開いた鉱毒問題の講演会には、多くの聴衆と多くの寄付が集まるようになった。河上肇は初めて田中正造の演説を聴いたとき感激して、寄付金の代わりに自分の着ているものを脱いで渡して帰ったという。啄木はまだ旧制の中学生だったが、新聞配達をして貯めたお金を被害地へ送った。
後に雪印乳業を起こした黒沢{くろさわ}酉蔵も、正造の捨て身の行動を新聞で知り、東京・芝口の越中屋へ正造を訪ねた一人だった。彼はその時十六歳の苦学生。正造から直接きいて鉱毒被害地を見に行った。五日間、現地を巡り帰京した後、学生鉱毒救済会運動に参加し寄付金や衣類などを集めて被害地へ送った。その後「相愛会」を作って大勢の青年たちを組織し、以来二十歳になるまでの四年間を正造の傍に付き従い、懸命になって運動したのだった。
また、潮田千勢子を代表とするクリスチャン系の救済婦人会も組織されて、活発な支援運動に乗り出した。大勢の大学生、社会主義者、キリスト教者、仏教者たちも被害地を訪問し、その惨状を自分たちの目で確認したのだった。
田中正造が自分の命を捨てる覚悟でしたことが、世の深い同情の念を呼び覚ましたと言えるのだろう。
かつて、若き日から正造は、何度も投獄されている。しかしその殆どが菟罪、あるいはそれに近い逮捕のための逮捕のようなものだった。
潔白であると知っているのは、誰よりも自分である。その事実を事実としていくら叫んでみても聞き入れられぬ、という過酷な体験を正造は何度もしている。単純なままで居られるはずがない。人を説得するためには、事実だけではなく上手な嘘も時には必要なのだと、無意識のうちに刷り込まれたかもしれない。
それが幾度となく繰り返されるうちに、よい意味で洗練され、政治家としての弁舌の巧さへとつながっていったのだろうか。そして言葉だけではなく行動の上でも、それは見事な演出へと形を変えていったのかもしれない。
しかしそれは飽くまでも、正造にとって生涯のテーマである人権や生存権や自治権というものを貴くための手段であったのだ。もっと解りやすく言えば、国民の命を守り抜くための方法であったのだ。たとえどんなに奇妙な行為に見えたとしても。
その意味では、一切ぶれることのない一本道を正造はひた走りに走り続けていたとも言えるのだろう。
ただし、光の当たらない陰の部分では相当右往左往し、また深く悩み抜いた痕跡も垣間見えてくるのだ。
田中正造という人の、多面性だと言える。
《晩秋の午後――葦のささやき》
夕川に葦は枯れたり
血にまどう民の叫びの
など悲しきや
人間という生き物は、特に日本人という種族は、至極短い言葉の中に自分の思いの丈を押し込めて、表現するという術を身に付けていたようだ。
それは時に「句」と呼ばれたり「歌」と呼ばれたりしているが、その歌の方で鮮やかな才能を燦めかせて早世した、石川啄木という歌人がいた。
先の短歌は、岩手生まれの彼が渡良瀬の鉱毒被害地に思いを馳せながら作ったものだという。ワタシたち葦族の立ち枯れた姿に、苦しみを訴えて泣き叫ぶ人間たちの悲惨さを二重写しにしたのだろう。
もしかしたら彼の耳には、被害に苦しむ人たちの呻き声と一緒に、葦たちの無言の叫びも聞こえていたに違いない。
そうでないと、本当の歌や本当の言葉をつむぐ人にはなれないはずだと思うから……。
田中正造の直訴を知った啄木こと石川一は、この時まだ十五歳の少年だった。しかし彼は被害地の人たちのために、新聞を売って工面したお金を送り届けた。
また、彼より僅かに年長の黒沢酉蔵という青年も、正造直訴の事情を知り、居ても立ってもおられずに鉱毒地救済運動に飛び込んだ。大勢の大学生たちと一緒になって、渡良瀬の沿岸を歩きまわった。
その時、学生たちも歌をうたっていた。これは短歌の方ではなく、節のある唱歌の方だ。同じ歌を一緒に歌うことによって大勢の連帯感を強めるのに役立て、更に世間への影響力を強めるというのも、人間の優れた発明品らしい。彼らは憶えやすい同じ節で、違う歌詞を何番も何番も繰り返し歌っていた。
その中でもよく憶えているのは、こんな歌詞だ。
あれし田畑の あし原を
朝な夕なに ながめつつ
昔を今に くりかえし
やつれはてたる 夫と妻が
見かわす顔に はらはらと
ふるは涙か 村時雨
やはり自分たち葦族の姿が歌われていたせいなのか、それともこの詞にもあるように、人間の夫婦の互いを見詰める悲しげな顔を常に間近にしていたせいなのか、妙に記憶に残る歌だった。
何百人、時に千人以上かと思える青年たちが、ワタシたち葦の生い茂る渡良瀬の被害地を見にやってきた。正義感の強い、血気盛んな青年たちの中には、自分の身を顧みずに救済運動へとのめり込む者たちもいたのだろう。その中の一人が、先の黒沢酉蔵だった。
めっきり陽の短くなったある日の午後、ワタシは、渡良瀬の土手に座り込んだ彼と田中正造とが、深刻な顔で話しているのを聞いた。それはこんな話だった。
黒沢と一緒に救済運動に取り組んでいた同郷の友人が、精神を病んでしまったのだという。その友は黒沢にとっては、深いつきあいの親友でもあった。
彼らの郷里の村は鉱毒被害地ではなかったが、茨城県全体で見れば栃木県に次いで広い鉱毒被害地を有している。それなのに国会議員・県会議員を問わず誰一人として鉱毒反対運動に奔走する人が出ないことに、彼らは強い憤りを感じていた。
黒沢の親友は学校をやめて故郷に帰り、同志を集めるために人々を説得して回ったが、未だ鉱毒の何たるかを知らずにいたその地の人々は、誰も同志として集まってはくれなかった。自分の身を削るように必死で取り組んでいたにも拘わらず、すべてが意の如くならない絶望感が引き金となったのか、ついに友は心を病んでしまった。
黒沢はひとり全ての手続きを肩替りして、親友を病院に入院させてきたのだという。
その話を正造は黙って聞き終えると、無言のままじっと黒沢の顔を見ていた。そして感極まったように口を開いた。
「よく、耐えてくれましたね、黒沢君。君もまだ学生の身でありながら、学業を放り出してまで……。わかりました。これ以上、貴方がたのような尊い志を持つ若人が犠牲とならぬよう、この儂もよくよくはからいましょう」
この後、正造は信頼する知人に手紙を書き、黒沢青年のための奨学金を秘かに依頼した。依頼された人物――蓼沼丈吉も、黒沢の負担にならぬようとの配慮からそのことを明かさなかった。
やがて、黒沢青年は北海道に渡り、様々な苦難を乗り越えて大きな成功を収めたことは、北の地に棲む同族の葦たちの記憶としても確かに遣っている。
ワタシはただの葦だけれど、人間同士の深い心根については、理屈抜きで共感できるようだ。
ワタシたちも、表面には見えないところの根っこで、深くつながっているのだから。