『千暮の里から』(抄)

木は大きなる、よし

 うちの庭のまん中には、一本の枇杷の巨木がある。褐いろの老いた葉を押しのけるように、新芽が今天をさして一斉に伸び始めた。

 うすく透けるその萌葱いろの葉はなんともつややかで、あたりの光景をひときわ明るくしているかに見える。その、驢馬の耳みたいな柔らかな葉を、少し烟ったような四月の空に溶かして、樹は雄々しく立っている。

 この樹を植えたとき

 「あんたらぁ、庭にこんなもん植えて!」

 旧弊な年寄が毎日やってきてこう言った。

 庭に枇杷を植えると病人が出たり、凶事が起こるのだという。伐ってしまえと言う。

 来る日も、来る日も長い歳月言われつづけた。

 禍々まがまがしいものでも眺めるように、枝々を見上げ挙句のはてには樹の根元を草履の裏で蹴飛ばしながら、「こんな木、なんにもなりゃしまいに」と毒づかれもした。

 でも私はその度、胸の裡の忿懣を静かな微笑に隠していた。だから相手も執拗にそのことばをくり返し続けている。

 しまいには、もうそれが習慣のようになっていった。

 己に納得出来ないあまたの事どもも、新参の嫁は抗う術もなく不本意ながら何でも従って来た。しかしこの枇杷の樹に関してだけはけっして妥協したくなかった。相手の不埒な言動を頑なに無視し続けていた。

 そして或る年<なんにもなりゃあしない>樹がたわみこぼれる程の実をつけたとき、その人は無邪気に「甘い、甘い」と言ってはその黄金いろの実をねだるのだった。

 この樹は、三十年以上も昔、祖母が食べた実の中の琥珀の一粒の種であった。植木鉢で育てていたものを私が結婚した折、陽当りの悪い実家に置くよりは、潮の香の濃いこの庭の方が若木の為にも良いだろうと、持って来たのだった。

 祖母はその時には他界していたから私にとってこの大切な樹は、祖母そのものである様な気がしていた。

 初め北側の勝手口に植えてあったのが何かの工事で工事人に無断で根こそぎ抜かれ真夏の天日に晒されるという憂き目にも、一度ならず出会っている。

 昨年、家を建て替えるについても、又々伐り倒してしまおうという運命に今度も必死で闘い続けた。ブルドーザーの邪魔になるといって、枝々はずいぶん痛めつけられたが、季節が巡って幹から再び新しいいのちが芽生えて来たのだった。

 思いなしか、樹はひとまわり豊かになって慈愛あふれる眼差しで、私を包みこむように見詰めてくれているような気さえする。

 人々の謗りも、幾多の受難も、ものともしないで泰然と枇杷の樹はそこにある。

 風が渡って叢がさわぐ。

 翅をやすめていた小鳥が鋭く啼きながら梢を翔び立った。

 こんな曰くがなくたって、大きな樹が私は大好きだ。

 兼好法師も言っている。

 ――いづれも木はものふり、大きなる、よし。

猫の名は「ネコ」

 愛する犬がいつも跣足で、地面から見上げているのが可哀相でならなくて、ふいにはらはらと涙がこぼれ落ちた、という意味の詩を書いた詩人がいた。

 怜悧で正直な小さな魂をいとおしんだ詩人の、そんな感性に、あふれるものを感じるのは私だけか。

 うちのまわりに懲りずに懐妊を繰り返している野良の三毛がいる。この数年の殆どを隣のアパートの前の空地で暮らしているその猫は、今年の春もいつものように仔ネコを産んだ。

 年ごと痩せて哀愁を帯びた背を丸めてじっと坐っているのを見ると、この詩人でなくとも眼がしらが熱くなる。

 ――子どもを産むのは、もうおよし――

 骨ばった艶のない毛を撫でてやると、か細く「みゃあ」と啼く。

 以前はひとの跫音がしただけで、野良の哀しい「性」か、す早く逃げたのが、今ではこちらが窓から顔を出しただけで、足早に走り寄ってくるまでに慣れてきた。

 自分のところにだって、犬も猫もいるのに他所の猫に、なかんずく野良猫なんかに色目を使うのは飼猫にとっては、はなはだ、けしからぬ事態なのだろう。

 そんな時、うちの<ネコ>という名の猫はとたんに不機嫌になってあらぬ方を向いて、石ころみたいに頑なな背を見せて坐り続ける。

 でもこの三毛が、子どもを産み続けボロボロに老いてゆく姿を見ていると、たまらなく哀れで<ネコ>の眼を掠めて牛乳や、チーズを与えてしまうのだ。

 だからといって私が心根のやさしい人間なんかでは決して無いのだが、いたいけなものが一心に生きてゆく姿をみると、胸の中が熱いもので一杯になるのである。

 三毛は毎年、時には年に二回も出産を続けそのたび、仔ネコ達はいつの間にかいなくなってしまう、交通事故にあうのか。

 外敵に遭遇するのか。

 それが自然淘汰という摂理なのかも知れない。

 今年も若草の萌え出る頃、ふくらんでいた猫のお腹は元通りになり、自分だけで餌を食べに来ていたのが、何週間かして或日、一匹の小さな小さな仔ネコを連れてやって来た。

 茶のトラだった。

 親猫のシッポにじゃれついたり、初めて映る外界の不思議さにつぶらな眼を見張って、きょときょとしている仔ネコを見ると近寄って抱きあげたいのだが、決して気を許すことをしない。

 警戒心と猜疑心のかたまり・・・・みたいでどんなに跫音を忍ばせても、いち早く逃げてしまう。

 人間の手からは絶対に餌を受けつけず、いつも臆病な眼でおどおどあたりを窺いながら逃げ出す構えをとっているのである。

 全く無防備にのうのうと暮らし、あられもない姿で眠りこけている飼猫にひきかえ、野性の本能を潜在させているこの小さな生き物が痛々しく思われてならない。

 野良猫の行く手は多難なのである。

 それでも仔ネコは日増しに大きさを増していった。動作もだんだんおとなびて来る。

 猫の親子のしぐさをみている時、私の表情は自分でもわかる位和んでいるのだった。

  のっそりと猫がはいってきたが

  わたしを呼ぶように「にゃあご」とないた

  わたしの顔を見あげて

  また「にゃあご」とないた

  黙って猫の顔をみていたら

  しばらくもう一度

  「にゃあご」とないていってしまった

  猫にも寂しいときがあるのだろうか

  生きもののかなしさを

  わたしは一匹の猫の眼にみた

     (現代日本文藝全集89<現代詩集>、筑摩書房1958年刊)

 これは<大木実>の「猫」という詩である。

 寂しいのは人間だけではないのだろうか。

潮騒の家

 小田原の御幸ケ浜に「養生館」という古くからの旅館がある。それが近々取り毀されるという話を聞いたのは、西湘YBC文学講座三木卓氏の「小田原時代の白秋」の席であった。

 大正七年、白秋が東京から移って来た折一ケ月程投宿したのがこの「養生館」なのだという。

 生涯三人の妻を持った白秋が胸を患っていた二人目の妻、江口章子の療養に温暖なこの地を選びのち八年旧茶畑そして伝肇寺境内に「木兎みみずくの家」を建て移り住むのである。

 講座のあと二人の友と連れだって、私たちは御幸ケ浜へ車を走らせた。

 いつの頃からなのだろう。無粋なバイパスに眺望を阻まれた六月の海は、でもその日蒼く凪いでいた。

 あまたの文人たちが屯したという旅館のたたずまいだけでも見ておきたいと思ったのだが、思いがけず、宿のご主人西村隆一氏に面会が叶い、二階の部屋まで通されることになった。

 関東大震災にも耐えたという老朽した階段を登ると海に向かって東西に長い廊下が走り、いくつかの部屋が並んでいる。

 階段のすぐの小部屋に招じ入れられると、「白秋資料」と書かれた衣裳箱のような大きな筐が目に入った。私たちは逸る心を宥めながら、宮本百合子とは従兄弟だという西村氏のゆったりした口元が開くのをもどかしく待った。

 藍染めの甚平を粋に着こなした西村氏の枯れた風貌は、そのかみの文学青年であった頃の伊達振りを髣髴とさせる。

 筐の中から次々現われる古い書翰や資料はかつての文学少女たちを興奮させるものばかりであった。

 わけても、島崎藤村からの手紙には、皆眼を輝かせた。それは小田原に透谷の碑を建立するについての軍部の抑圧に抗議、嘆願したものであった。昭和三年のその封筒には九銭の切手が貼られている。

 西村氏は当時交流のあった文人たち、例えば小林秀雄、西条八十、大木惇夫、吉井勇、今東光等々の書状や写真を手品師のように筐の中から取り出すのであった。

 なかに、セピア色の一枚の写真があった。

 大勢の人が写っている。白秋を囲んで、三人目の妻菊子夫人と二人の愛児、青年の日の西村氏、それに小田原が生んだ詩人藪田義雄氏が木兎の家の前で、なんだか皆とり澄まして並んでいた。

 その後、新潮日本文学アルバムの「北原白秋」のページを繰っていたとき、この写真が掲載されているのを見い出して、ひどく嬉しく思ったものだった。

 白秋は執筆に疲れると、天神山の木兎の家から、ぶらっと降りて来ては、西村氏を町に出ようと誘ったのだという。

 「僕と一緒なら菊子夫人も安心しているから、いつもだし・・にされたものです。

 馴染の女の所で酒を飲んでいる間、僕はつくねんと別の部屋で待たされたものでした。

 そのあとで先生は『君には悪いことをしたネエ』と決まって済まなそうに詫びたものでした」

 いつか西日も傾き、夕ぐれがあたりを薄闇に沈める時刻になっていた。

 昔語りをする西村氏の表情は遠い日の記憶が甦るのだろうか、時折ふと、情緒の中に浸るような哀惜の面差しが顕れたりする。

 松籟の向うに、人々の哄笑やさんざめきを聴いているのかも知れない。

 相模の国の浜辺で、夜っぴて語った青春の日々の高邁な理想や夢がよぎるのだろうか。

 時は、なんと非情で残酷なものだろう。

 人も、家も、風景までも変貌させてしまう。

 過ぎてゆく日をそのままの形に留めておきたいというのは、所詮、甘い感傷にはちがいないのだが。

連想ゲーム

 カナカナが鳴いている夏の終りはへんに侘しい。まして茜に染めあげられた日ぐれ。

 灼けつくような猛暑から解放されるという安堵とは別の、底知れない無聊感は一体どこから来るのだろう。

 それにしても、この夏はなんとも厳しかった。何日も続いた熱帯夜。

 そんなある日、NHKの番組で「八月」という語から連想することば探しのゲームで出演者たちは明るく海・山・花火・風鈴・かき氷などと夏の風物を次々挙げていった。

 そうしたら後日、八月ときいても長崎・ヒロシマ・原爆の一語も出ないとは、なんと世の中は平和なのだろう、そういった逸早い新聞の投書があった。

 今度はそれを受けて<いちいちそんな事、目くじら立てることでもあるまい、たかがお遊びじゃないさ>冷笑まじりの揶揄の口調で娘たちがひそひそ言っている。

 実際、夏の日という連想から原爆・終戦と反射的に浮かぶ世代は私たちくらいまでなのかも知れない。

 八月十五日が近づくと新聞・テレビはそれに因んださまざまな報道で賑わう。多くの知識人は先を競って戦争の風化を批判し、若い世代の無関心ぶりを非難する。戦争体験を次の世代に引き継ぎ、語り伝えなければならないと誰もがそう語る。

 でも大人たちが躍起になる程には、彼らは同調せず恬淡としているのはなぜだろう。

 食べるものもなかったと愚痴る大人たちの語り草を飽食飽衣に明け暮れている若者から、共感を得ようなどという願いは不毛なのかも知れない。彼らにとっては生まれる以前の出来事なのだから歴史の一頁としてしか捕えられないのも当然なのだろう。

 それなら、それらを苦々しく嘆いてみてもなんの展望にもならない。

 どうすればいいのか。

 一人ひとりが真剣に考えたい。

 留まる所を知らない贅沢で豊富な物質の中で精神的にも思想的にも怠惰に暮らし過ぎてはいないかという内省。

 安穏さに身を委ねている者が、勿論自分も含めて、義務感だけで戦争を語っても、実質のない虚しさから免れ得ないように思う。

 心の奥から湧きあがり抑えきれない衝動で後世に伝えたい、という熱いおもいが欲しい。

 大切なことは、過去の苛烈な事実を遠く歴史の中に埋没してしまうのではなく、その経験なり思惟なりを現在に置きかえてみることに、気付かせることにあると思う。

 いつ又私たちの身にあの時の状況、飢えや恐怖や暴力が襲いかかって来るかも知れないのだという発想。

 今もなお、地球のいたる所で血が流され、暗い戦火が燃えているという事実を知ること。

 起訴も裁判もなく、不当に拘禁されている多くの<良心の囚人>たちの存在に気付く事。

 そんな絶え間ない現実に、敏感な反応を持ち続けたい。

 大袈裟な言い方をすると、私の左手の人差し指にも戦争の傷あとと呼べるかも知れないものがある。

 終戦の年に疎開をしていた山峡の村で、農家の畑に勤労奉仕に狩り出され、持ったこともない鎌でつけた二センチばかりの弓形の庇が、四十余年の今もはっきり残っているのである。

 握りしめた指の間からしたたり落ちる血潮が恐ろしくて、夏草の生い茂る山路を泣きじゃくりながら駆けたあの日。

 私にとっての八月は今だに消えずにいる庇口に似て鮮烈な印象のあの日なのである。

 めくるめく太陽と草いきれが今も鮮やかに甦るあの日の痛みである。

 日ぐれになってカナカナが鳴いていた。

 それは終戦も間近に迫った遥かな日のことであった。

玄 黄

  ――ある女流画家へ――

 或る日、知人である閨秀作家から久闊を叙する手紙があって中に一枚のチケットが同封されてあった。

 <具象絵画ビエンナーレ>への招待券で今春から全国の美術館を数カ所巡ってようやく鎌倉の近代美術館での開催となったという。二回目の今回は現在もっとも旺盛な制作力を示す精選された二十五人の画家たちの、一作家三点の出品で構成されるのだということだった。

 鎌倉駅から小町通りを抜けると美術館へ向かう濡れた舗道は桜の花びらでも散り敷いたふうに舗装されている。

 時折湿った風がコートの裾をふくらませて通り過ぎていく。館内は人影もまばらで、一昨年春の一回目のオープニング・パーティの日の華やいだ雰囲気とは裏腹に沓おとだけが響いている。

 L字型の広い室内の一廓にその絵はあった。あっと無言の声が身体の裡をよぎっていった。

 百号のカンバスいっぱいに鮮やかな赤と黄が燃えている。

 ひとりの女が折り曲げた膝を立て、両の腕は抗うように地を支えて、がっくりとこうべを垂れた裸身を朱に染めている。

 その背後に粗いタッチで交叉している太い線は目を凝らすと身を捩っている人の姿にも見えてくる。そして少しいからせた左肩が慟哭に震えて、絶望なのか、怒りなのか、哀しみなのかが全身に表現されているようだった。

 今までの上条陽子の数ある作品の中で好んで使っていた色彩は、桧皮ひはだいろとか、つるばみとか、青にびとかの深い色あいが多かった。

 それが今回の<玄黄―這>の三連作は大胆に何かを吐露するかのような激しさで目の前にあらわれたのだった。

 天と地の間、という意味があるという<玄黄>と題された連作のモチイフは、ずっと人の生と死を見詰めることに一貫している。

 美貌や若さに酔いしれて虚飾に奢った者の背にやがて忍び寄る老醜や死への暗示を、皮肉に画布の中に語り続けて来た。

 緋いろの裳裾をひるがえして踊る若い女とか、混沌とした黒い海原を必死でのがれ出ようと漕ぎ出す小舟の二人とか、燃える焔に包まれて固く抱き合う男女の姿、などを通してこの世の人間の愚かさや、悲劇を描き続けている。

 一九七八年、安井賞を受賞した<玄黄>もこうした生と死のはざまを常にたゆたっている人間の、死への恐怖や苦悩を暗喩した作品であった。

 そして奇しくも、彼女がいつも危倶し、憂慮していたそんな深淵のドラマを自らが、十五時間にもわたる脳腫瘍の大手術という修羅場で演じる事になったのがこの春だった。

 十年前だったらとても望めなかったろうという奇跡に近い生還を彼女は成し遂げ、術後一ケ月で制作に取りくんだという強靭さは、近代科学の目ざましさにも増して、人の精神力の神秘さを物語ってくれていると思う。

 そして、この時期と制作の前後が重なったことで惧れと哀しみの渦の中から描かずにいられないという、湧き上がる衝動を抑えきれないものがあったのにちがいない。

 だからこの作品の紅蓮の焔にも似た赤い画布から訴えかけるように立ちのぼっている、鬼気迫るものは作者が生の切り口を見せている苦渋や、敬虔な祈りがそこにあるからであろう。

 女流画壇を席捲し、寵児としてもてはやされている時にさえ、もうひとりの自分を凝視する鋭敏で冷めた目を持ち得るのは、芸術家の天資の感性であり、予感なのであろうか。

 そしてそれらのことは取りも直さずこの人上条陽子の、人間への、又生きるものへのおしみない賛歌であり景仰であるのではないかと思うのである。

あしがりの……

 時雨が通り抜けるたびに山襞の樹々は色彩いろどりを増す。山懐に抱かれたこの小さな谷間の町は今、全山を錦繍に染めて秋がけたことを告げている。

 藤木川べりに蛇行している渓谷をさかのぼれば、あのあまねく知れわたっている万葉巻の十四の、

  あしがりの土肥の河内にいづる湯のよにもたよらに子ろがいはなくに

 の一首が浮かんで、口ずさんでしまう。

 万葉の東歌の中には、足柄を歌ったものが七首あるけれど温泉に触れているのはこの「土肥の河内にいづる湯」だけで、湯河原が知名な温泉の名所として、奈良朝の世からもう世間に喧伝されていたとはうれしい。

 そしてこの歌は東歌の中の相聞の部にはいっていて<土肥の河内に湧き出ている湯けむりのように、二人の仲も決して絶えはしないとあの娘は言っているのに>そんなふうに解釈するのだろうか。

 湯河原に棲んでいても、この土地のもつ匂いのいい風や、澄明な空気を愛するのにやぶさかでない人がどの位いるのだろう。

 奥湯河原の四季の景観や、夢の世界に踏みこんだような南湯河原の銀杏並木の黄の鮮やかさを、どのくらいの人が知っているのだろう。

 先日奥湯河原のそば料理の店の庭のもみじの枝に声をのむ程の色をみた。

 一本の枝にどうしてこんなに、という色が朱や朽葉、萌葱、茶と競い合うように午後の陽にかがやいていたのだった。

 目の先の一枚一枚は太陽をうけて透きとおるように光っているのだが、遠目に山全体となると黄葉、紅葉した樹々たちは光沢を消して、まるで能衣裳のような重厚な中間色に落ちついてみえる。

 この京風の庭を持つ店を巡らしている土壁にそって降りていくと、竹林を過ぎた径の左手に小さな宿があった。

 奥まった座敷に座って窓の外に目を落とすと渓流にしだれるような真紅や、金色の葉叢に思わず声をあげそうになる。

 そして北の街の名をつけたこの山峡の宿の女あるじは、そのもみじ葉の化身ででもあるような佳人なのである。

 静謐なこの宿に足を留めた旅人はきっと、たおやかな山の精に心を奪われて、時を刻んでいる煩雑な俗事をすっかり忘れてしまうにちがいない。

 こんなふうに、絢爛としたいっときが過ぎて野面を北風が吹きすさぶ頃、厳しい面差しで立ち並んでいる裸木の、身のひき締まるような季節も、私は好きである。

 全山が茶褐色に落ち着いてはじめて、諦観とも言える穏やかな視線であたりをながめることが出来るからいいのである。

 ものみな萌える青葉の頃にしろ、烈しい紅葉の時にしろあまりにも語りかけてくるものの多過ぎる季節は、平安な心を失いがちになってしまうから。

 だから若い頃から冷たい風の中を頬を凍らせてひとり、山路や街並みを歩くのが好きだった。その気になれば、湯河原の町の中には恰好な場所は至る処に見つけることが出来たのだ。

 そして自分の気に入った場所を、ひとりだけで堪能するのは勿体ないとしきりに思っていた。だからといって最近のようにやたらにマスコミに取り上げられて俗化してしまうのは「心の聖地」を踏みにじられるようで、口惜しい気がするのである。

 それでなくてもこの頃は、こんな田舎の町にも高層ビルが建ち並び、日ぐれの窓から望めた箱根連山も、今では見えなくなった。

 濃紺の山肌が、鮮明な稜線を描いて冬の黄昏の空にくっきり姿を見せていたのは、もうずいぶん以前のことになってしまった。

バベルの塔

 電話が鳴った。

 軽い気持ちで受話器を耳にあて声を聴いたとたん「あら困った」思わず口走っていた。

 相手は英語を喋っていたのである。

 先方の言葉を理解しようとする前に周章狼狽するから、「ああ」とか「うむ」とか意味もつかない音を発するばかりだった。

 オハイオの娘の友人たちから海を越えた通話はいままでにも頻繁にあったのだが、いつでも真夜中だったり、朝まだきだったり、昼間でも運よく娘が在宅している時に限られていた。

 だから、これまでは先方の誰彼する声の皆まできかないうちに「早く出て、早く、早く」と急立てては、急場を凌いでいたのだった。

 でもそのうちに留守に掛って来ることだってある筈だと危倶しながらも暢気に構えていたのがいけなかった。

 そういう時の応対の為にと娘が書きしるしたメモが、電話の傍に置いてある筈なのに見付からず、国際電話なのだろうから急がなければと気ばかり焦る。

 ようやく、彼女は今不在である、ということをしどろもどろに伝えると相手はやっと「オーケー」と言って電話をきった。

 国際化社会に生きているのになんと不甲斐の無いことかと我が身をかこつ。

 そして地上のすべての人間が共通の言葉を話すことが可能だったら、などと夢のようなことを考えたりしたのだった。

 旧約聖書の創世第十一章によれば、はじめ世界には一つの言葉しかなかったのだという。奢りたかぶった人々が巨大な塔を建てその頂を天に接しようとした。

 その「バベルの塔」を見た神エホバは人々の、その企てをやめさせ彼らを世界中に散らして言葉の統一を与えなかった。

 一つの国民、一つの言葉でいたら愚かな民は、今にもっと勝手なことをはじめ手に負えなくなってしまうと考えて、神は人々の言葉を混乱<パーラル>させ散り散りにしてしまったのだ。

 ウィーン美術館に所蔵されている、十六世紀の画家ピーテル・ブリューゲルの奇怪な印象で描かれている「バベルの塔」は一体私たちに、何を語りかけているのだろうか。

 一つの国、一つの社会に暮らしていても、最近はこれが同じ国の言葉かしらと耳を疑うものに、しばしば出合う。

 そしてとっぴな新造語や癇に触る語法に、肚をたてたりしている。

 お笑いタレントが軽佻浮薄に機関銃みたいに喋りまくっているのを苦々しく横目で見ている。

 若者のことばが耳障りになりはじめたら、老化現象の顕れなのだという事をきく。

 そんなことはない。

 若い頃だって、嫌いだと思う言葉は決して口にしなかった、とわたしは言い切れる。

 若い人独特の、「それでェ」「だからァ」「なんとかデース」などという言いまわしが随分槍玉にあげられた時期があったけれど、この頃はあまり話題にならなくなった。

 次第に世に定着してしまったからなのか。

 そんなふうに幾多の苦言や攻撃を掻い潜って、いつの世にも淘汰され残ったことばが生きのびていく。

 明治三十年ころ、東京の娘たちの間ではやったという「よくってよ」とか「いいことよ」などという、雅なことばを話す女性は、今どき捜してもめったにいないと嘆いた人がいた。それだって当時にあっては、大人たちの眉をひそめさせ、あげつらわれていたのだと訊いて新しいものへの批判や非難は世の常の事かと面白かった。

 そうなるとやはり、ことばの変化に素直についてゆけないのは、その時代では古い人間に属すると言われても仕方ないのかも知れない。

国府津館にて

 ここ二三日何通かの封書がわたしの許に配達されて来た。差出人の名を一瞥しただけで胸が波立つのは、ある期待と予感があるからなのだ。手に触れる僅かの感触で殆ど確信に近いものが、封を切る手許を急げ急げと唆している。開かれた封筒から取り出される何枚かのスナップは、予想どおりあの日の、あの時の場景を写し出しているのだった。

 自分はよく撮れていなくて、満足していないのだがそんな事を漏らすと口の悪い人に「もっといい心算なの、実物のままじゃないの」なんて言われてしまうから、それはさて置いてそこに居並ぶ人たちが凄いのである。

 身の置き場のないほどの僥倖に、この際写りのよくない事など云々していたら罰が当たりそうなくらい、私にとって望外なことだった。

 最初の一枚目は宴会場の一隅で、尾崎一雄夫人を中心に中野孝次さんとわたしが並んでいた。その背後に本多秋五さんの横顔が誰かと話している。次には少しレンズが移動して隣に奥野健男さんの姿が現われた。カメラはぐんぐん遠のいて宴席全体を嘗めるように追っている一葉もある。

 正面の床の間に「作家尾崎一雄氏を偲ぶ会」と掲げられた文字が大きく、遺影もあった。

 それを背に水上勉・小田切進・八木義徳の諸氏がこちらを向いて座し、その端に川崎長太郎未亡人が丁度腕時計を眺めたりしている。

 さっき、国府津館の玄関の三和土で下足札をまごまご受け取っていた時這入って来られたのが水上勉氏だった。履物を揃えようと這いつくばった恰好のまま、今をときめく大作家と一瞬視線があった。胡散臭い女が足元で何をチョロチョロしておるか、といったふうな鋭い眼光に睥睨されて縮みあがったわたしは、宴会場に足を踏み入れて、そのおもいは更に増したのだった。

 花の便りに先がけて、白い角封筒が舞い込んだときのわたしはかぼちゃの馬車でお城の舞踏会に招かれた貧しいシンデレラみたいな気分だった。

 四月十日の小田原市民会館での「文芸講演会」と会場を国府津館にかえての「偲ぶ会」への招待状には、文学関係のお歴々の名が発起人として連なっていた。

 散り急ぐ花の消息が遠近おちこちできかれるこの日、県立神奈川近代文学館長の小田切進氏は「小田原の近代文学」と題して当地に係わりの深い透谷を張りのある力勁い声量で語り持ち時間を超過した。

 「尾崎一雄・人と文学」の八木義徳氏は、「新思潮」と並んで文壇への登竜門とも云うベき「早稲田文学」にはじめて小説を書かせてくれた尾崎さんは恩人であると懐かしんだ。

 師事していた横光利一にどの作品もダメをだされ続けていたが、初めて半ページだけ誉められたその「海豹」が文壇的処女作なのだという。編集責任者であった尾崎宅に原稿を届けた時、玄関に風呂桶がデンと居座り破れ障子からめざしの焼ける匂いがしていたということ、松枝夫人の親身な応対に、帰る道すがら勇気のようなものが湧いて来たのだという逸話は聴く者の胸にほのぼのとしたものを伝えてくれるのだった。

 松枝夫人の一貫したその温かさは、今も昔もかわりないのかと大きく肯けるものがあるのだ。

 最近は、ないがしろにされがちな私小説の神髄を川崎長太郎の文学を通じて、水上勉氏はなんとも味のある話術で人たちを魅了した。――おしぼりをぎゅっと握り、それがふわりと戻りかけた具合が小説の味――なのだと語り私小説は白木の真実であるが、自分はその上に少しの透明なうわぐすりをかけて地肌を見せておきたいのだと述べた。

 生命、経済、家庭、思想の危機、この四つのうちのどれか一つでも持たぬ奴は〝小説〟など書く資格はないという尾崎一雄の人伝えではあるがきいた言葉を自戒のものとして忘れることはないだろうと結んだ八木氏の講演と、この水上勉氏の〝白木の真実〟という不思議な魅力を持つ言葉にわたしは感銘を持ち、ものを書くことの惧れを改めて悟ったのだった。

 記念のスナップはまだまだ多くの人々を標的にしていく。

 わたしの斜め前の阿川弘之氏は某出版社の社長とかいう方と愉し気に談笑していて、あの時の元気のいい声がきこえてくるようだった。その向うには尾崎氏の長女の一枝さんがご主人と並んでいて、隣の萩原葉子さんと話している姿が写っている。

 ながいことフラメンコをつづけていると聞き及んでいた萩原葉子さんは痩身で意志的に結んだ口元と大きな眼が印象的だった。

 同性という気安さからカメラにお誘いしたいという不躾な申し出に、

 「ええっ、一緒に撮るの、私コンプレックスのかたまり」そんなことを口の中でブツブツ呟きながら、でも快く応じて気さくな面を見せてくれたのであった。

 大広間から眺めると東西に走るバイパスの向こうに四月の明るい湘南の海がたゆたっている。宴は次第にたけなわとなり酒気を帯びたといっても蛮声をあげる人などなく、なごやかな熱気に充たされていった。

「外から帰った時、私は〝ただいまあ〟と大声でいうのがきまりで、いまでもくせになっていますが、いま一雄の声が返ってこないのが……さみしいです」しんみりとした松枝夫人の会の終りのお礼のことばだった。