「思い出の名画でつづる東和の歩み」(抄)

「銀界征服」と「アクメッド王子の冒険」

 東和商事合資会社は一九二八年十月に創立されました。社長は二十六歳の川喜多長政。出資者は川喜多のほか、ドイツ人の友人フォン・スティテンクロン男爵とフランス人の友人アンドレ・ジャルマン。九坪のオフィスを東京海上ビル七階に構えました。社員は支配人とボーイだけ。こうした出来たてほやほやの会社に私が社長秘書として入社したのは一九二九年の一月でした。当時の私は二十一歳。フェリス女学校の研究科を終え、横浜YWCAで初歩英語教授と交換にタイプと英文速記を一年学習したところでした。

 震災後父を失い、母と二人の妹の家庭の責任を負わされた私に、速記の先生が新聞広告を見せて、この東和商事という会社に行ってごらんなさいと言って下さいました。テストの結果月給六十円で採用になり、一月十日から通勤を始めました。出社後三日目に社長というのが京都から帰って来ました。若い割に落着いた、お風呂から出たてのような顔色をした青年でした。(後日彼が本当に毎朝入浴することを知りました)彼は支配人が紹介した私をいたずらっぽい目で眺め、しかし忽ちビジネスライクに独仏映画の英文梗概をどさりと渡し、その翻訳を命じました。この会社の営業種目も知らずに入社した私は始めて東和商事が映画も扱う会社と知り、胸をおどらせました。それまでの三日間はサンドペーパーの価格問合せや、フェース・クリームの見本送付の手紙ばかり書かされていたのです。

 みなさんと同じように私も少女時代から映画ファンでした。「ポーリンの冒険」でパール・ホワイト嬢に憧れたり、「船頭小唄」では栗島すみ子さんに夢中になったり、アラ・ナジモヴァの「椿姫」やアスター・ニールゼンの「ハムレット」に酔ったりしていました。しかし一番大きな感銘を受けたのはロバート・フラハティの「極北のナヌーク」です。

 ドキュメンタリー映画の持つ意義と価値と迫力が私をとりこにしました。私は始めて映画の持つ芸術性のほかに記録性という大きな分野のある事を知ったのです。

 二十世紀の文化活動で映画の受持つ大きな可能性を信じれば信じるほど、自分も何か映画に関係した仕事をしたいと考えるようになりました。しかし現在の私には家族の生活問題が大きくのしかかっていました。

 夢も理想もおあずけにしてまず親子四人のパンをかせごうと決心した私に、思いもかけぬ映画への道が開けていたのです。

 私がどんなに嬉々として働いたかご想像下さい。

 社長は東和商事の最初の輸入映画として「銀界征服」と「アクメッド王子の冒険」の二本を選びました。「銀界征服」は後に私達の最初の合作映画を作った世界的に有名なスキー映画作家のアーノルド・ファンク博士が、一九二八年の冬期オリンピックを撮影したドキュメンタリー。「アクメッド王子の冒険」は当時ベルリンで世界唯一の影絵映画を製作していたロッテ・ライニガー女史の長篇作品です。二本ともおよそ純粋な、商売気のない作品です。今でしたらアート・シアターでもどうかと思われるくらいです。

 その頃東和に入って現在でも重要な職にいる博学な青山敏美さんと三人で私たちは朝日新聞の講堂を借りて試写会をやったり、プログラムを印刷したり、チラシを銀座の喫茶店に置いて貰いに歩き廻ったり、つまり今の宣伝部のやるような仕事をしたものです。社長はその上営業部長でもありますから封切の交渉もしなくてはなりません。ドイツ語と英語と中国語とは素敵に上手な社長も、外地生活が長かったためか日本語は余り雄弁とは言えません。

 それが海千山千の中年男の活動屋と渡り合って、ともかく「銀界征服」は今のピカデリーの前身邦楽座で、「アクメッド王子の冒険」は武蔵野館で封切されたのですから、不思議みたいなことでした。

 映画に対する理想と信念をかざして孤軍奮闘している社長に私は尊敬と愛情を抱き始めました。

 社長も私をいっぱしの同志として扱ってくれました。一緒に映画館を廻ったり、宣伝のプランを練ったり、そろばんを弾いたり(これは専ら私)しました。

 三月末から二ヵ月、社長はシベリア鉄道で欧州へ出かけました。

 五月未に帰って来ると彼は突然「結婚しよう」と言い出しました。

 十月十日の結婚式当日も式時間ぎりぎりまで会社で働き、上野精養軒にかけつけました。

 翌朝も九時から一緒に出社です。新婚旅行は一九三二年までおあずけでした。

「アスファルト」が最初の優秀映画杯獲得

 東和商事設立後第一回の渡欧によって、川喜多は当時欧州第一の映画会社であったウファとの連携に成功しました。

 「東洋の秘密」「アスファルト」「ハンガリア狂想曲」「スピオーネ」「帰郷」「パンチネロ」「ニーナ・ペトロヴナ」「二重結婚」「悲歌」の九作品が一九三〇年中に封切られましたが、殊に「アスファルト」はセンセーションを起しました。

 当時はアメリカ映画がトーキーになったばかりで、日本ではスーパーインポーズの設備もなく、せっかくの音楽やせりふを小さく絞って、それと競争で弁士が声を振りしぼって説明したのですからそのやかましいこと。

 ところが欧州映画はまだ無声です。音やせりふで語れないものを画面と編集で表現した三十年の努力の結晶がまだ失われず、いや、新しい大敵トーキーの出現によってますます必死な努力を試みていた時の作品です。題名の「アスファルト」はベルリン市内のアスファルト舗装工事を通して大都会の喧騒と暗黒面を象徴したものでしょう。美しいダイヤモンド女賊と若い警官の物語ですが、この女賊を演じたべティ・アマンという女優が大げさにいうなら日本中の男性の心を奪ってしまったのです。

 海上ビル七階の小さな試写室は「アスファルト」を見せてくれという映画人や文壇人で、ひっきりなしに満員です。

 見た人々は、こちらで頼まなくても新聞や雑誌に書いて下さいます。川端康成先生のアマン礼賛の名文など今でも忘れられません。

 彼女は決して名女優ではなく、慧星のように突然現れて突然消えた、その意味では大変ロマンティックな存在でした。しかし「アスファルト」で名監督ヨエ・マイに指導された彼女は無類に女っぽく、なまめかしく、見る人の魂をゆすぶるものを持っていました。この映画における限り世界映画女優史上逸することの出来ない存在だったと思います。

 評判は評判を呼んで、いよいよ「アスファルト」が一月末東京・大阪の松竹座で封切になった時は朝から観客が詰めかけて、さばききれないほどでした。欧州映画が始めて日本でヒットしたのです。その頃は外国映画も一週間替りが例でしたのに、「アスファルト」は三週間の続映を行いました。そしてこの年の「キネマ旬報」はトーキーとして「西部戦線異状なし」、無声として「アスファルト」を第一位に選び、その後引続いて東和が獲得することになる純銀製カップの第一号が社長室に飾られたのでした。

 一九三〇年代は「アスファルト」の成功と共に、物質的には赤字の連続ながら、東和が誇りを持って三十五年来続けている二つの仕事に着手した年として記念すべき年でした。

 二つの仕事とは文化映画の日本紹介と日本映画の海外紹介です。

 ウファ映画社は劇映画の制作と同時にいわゆる文化映画(クルトゥアフィルム)の製作に力を注ぎ、動植物の生態研究や科学映画、教材映画或はドキュメンタリー映画に素晴らしい成果を上げていましたが、川喜多は映画の持つこの面での社会貢献に大変心を引かれ、その作品を日本に紹介すると同時に日本の映画にも、この分野で活躍する人々の出現することを期待したのです。

 三十五年後の現在でも東和は優秀短篇映画の紹介を続けていますが、上映されるのはほとんどアート・シアター系だけです。しかし一方ウファ文化映画に刺激を受けた人々の中から今日の立派な科学映画・記録映画作家たちが出たことは私たちにとって大変嬉しいことです。今四十本の日本記録映画がパリのシャイヨー宮で展観されていますが、昨年の日仏交流映画祭と同様、これによって日本の記録映画製作の優秀さが欧州で改めて認識されると思います。

 欧州の優秀作品を日本に紹介すると同時に日本映画を外国に紹介して、東洋と西洋の理解友情の交流に役立ちたいというのが東和商事を創立した川喜多の理想でした。

 私が入社した時京都に行っていたのも、溝口監督と逢って「狂恋の女師匠」の輸出のことを相談していたのです。これは後に衣笠監督の「怪盗沙弥麿」、牛原虚彦監督の「大都会・労働篇」と合せてオムニバス形式による「ニッポン」という一篇になってベルリンとパリで公開されたのですが、一九三〇年には松竹映画「永遠の心」という映画が「樵夫弥吉」という題名でベルリンのウファ・パヴィリオン劇場で封切られました。しかし川喜多は劇場の支配人に言われたそうです。

 「もう日本映画を持ってくるのはやめて下さい。お客さんは床の上に足を折って坐る人や二本の棒で食事をする人を見るとゲラゲラ笑って困るのです」と。

 これが当時の大都会ベルリンの観客だったのです。

「自由を我等に」の受難――一九三一年

 「アスファルト」の芸術的、興行的成功は東和商事の名を高め、私たちは映画界に根を下ろすことが出来ました。それと同時に若い私たちに対する同業者の嫉視と妨害は凄じいものとなりました。

 彼等はなんとかして川喜多を業界から追い出そうとしました。しかし理由がありません。やっと彼等の見つけた口実は、川喜多が度々外国に旅行して多くの外国人の友人を持っていることから、国際スパイに関係のある人間というような設定にふさわしいと考えて、そのことを言い出したのです。

 当時の国内事情も犬養総理の暗殺事件などが起り日本がファシズムに向って突進して行く時代だったので、彼等の着想は仲々効果的だったのです。

 或日、数人の警視庁の刑事が会社に現れ川喜多を連行し、沢山の外国通信ファイルを押収して行きました。

 後に残された私はどうしてよいか分りません。警視庁に出かけて行っても逢わせてくれません。川喜多がどんな取扱いをされているだろうと考えると、居ても立ってもいられませんが、一緒に住んでいる川喜多の母に心配をかけないために私は明るい顔をしていなくてはなりませんでした。

 川喜多はいつも旅行をしていましたから、急用で帰宅もしないで出かけたと言っても母は気にしないので、ほっとしました。

 朝から晩まで警視庁でねばっている私に根負けしたのか五、六日目にやっと川喜多に逢うことが出来ましたが、髪がのびてやつれていました。刑事が見張っているのでたいして話も出来ないのですが、私たち二人だけに通じる方法で語り合いました。

 それから間もなくある映画通信業者が私の所ヘやって来て、川喜多は同業者から密告されたのだが、その同業者は警視庁に顔が利くので、ある条件を承諾すればすぐに釈放させて上げられるというのです。その条件とは最近東和が契約したルネ・クレールの名作「自由を我等に」をその同業者に譲り渡せということでした。

 なんというひどいやり方でしょう。川喜多の自由を奪って置いて、その自由と引き替えに大切な作品を強奪する計画とは。私はその人に、はっきり断りました。

 私は正義の存在を信じます。川喜多の冤罪は間もなく晴れるに決っています。そんな卑劣な条件には川喜多も私も絶対応じる意志はありません、と。

 この会見で始めて真相がつかめたので、私はある人を仲介にして川喜多の事件を担当する判事に会いました。今までの経過を話しているうちに川喜多が可哀そうになって来て、私は大きな声を立てて子供のように泣きだしてしまいました。

 そして一日も早く川喜多を自由にして下さいと頼みました。

 黙ってきいていた判事は一人言のように言いました。

 「ああこんなに奥さんに愛されている人は仕合せだなあ」と。そして翌日、川喜多は自由の身となって帰って来たのです。

 川喜多は私に申しました。

 「判事は、この事件は明らかな謀略だから君にその意志があれば逆に訴えることが出来ると言ってくれたが、僕は断った」と。私は川喜多の寛大さを喜びました。

 四週間の受難に川喜多も私もひどくやせてしまいました。私たちは九州に旅行し雲仙に登りました。

 君とわれ若く雄々しく強ければ

 いく山河もえみて越えなむ

 下手な歌ですが実感でした。

 この事件の焦点となった映画が「自由を我等に」とは、偶然ながら出来すぎた感じでした。

 この映画はルネ・クレールの傑作中の傑作で、牢獄と工場のカット・バックの皮肉さ、そして人間の自由の美しさ尊さを詩情こめて描きあげたこの作品を私たちはどんなに愛したことでしょう。

 この年、川喜多は初めて私を欧州旅行に伴って行きました。今までおあずけだった新婚旅行、あの悪夢のような事件を忘れるためにもと私たちは船の旅行を選びました。

 横浜からナポリまでの四十日余。途中セイロンで水浴している象の子どもをほしいと言って川喜多を困らせたりして楽しい旅でした。イタリア、スイスを通って旧友に逢ったり見物をしたりして、やがて仕事場のベルリンに着きました。

 以後三十年余りやり続けて来た映画選定の仕事が始まったのです。

「制服の処女」の頃――一九三二年

 今でこそ疲弊していますが、一九二〇年代から一九三二年――つまり第一次世界大戦からヒットラーの出現まで、ドイツ映画は欧州をリードしていました。

 ウファという政府のお声がかりの大会社のほかに沢山の独立プロが、それぞれ個性のある面白い仕事をしていました。その項はベルリンが欧州映画の中心市場でした。繁華なフリードリッヒ・シュトラーセにずらりと並んだ映画会社の試写室で、毎日各国との映画の取引が行われていました。世界の映画界を構成しているのは製作者、芸術家、商売人をひっくるめて八十パーセントはユダヤ人です。その真只中に二十九歳と二十四歳の私たちがとび込んで行ったわけです。

 川喜多はべルリンに住んでいたこともありドイツ語もペラペラ。映画商人との取引にも経験を積んでいますが、私は始めての外国旅行。言葉は入社後独習した怪しげなもの、その頃ベルリンで使っていた中華料理店の料理上げみたいなエレヴェーターにも恐くて仲々のれないほどのおのぼりさんでした。それで川喜多が商談にとび歩いている間、じっと一つの試写室に坐って次から次へと映写される映画を見ていました。

 あとで川喜多に報告しなくてはなりませんから題名・主要スタッフ・主演俳優のメモを取り、不自由な言葉の知識で一生懸命主題を理解しようとつとめました。しかしそんな努力の必要もないほど愚劣な作品も数多くありました。

 よい作品を選び出して悪い作品を捨てる。この判断が私たちの仕事にとって、最も大切なのだということが段々分かって来ました。そしてある夜、試写室での試写を終えてから出かけた劇場で私たちは「制服の処女」を見たのです。

 レオンチーヌ・ザガンという女の監督が女だけを集めて作ったプロシャ式貴族女学校の寮の物語です。若く美しい女教師と母親のない軍人の家に育った多感な少女との同性愛に近い愛情を中心にしながら、厳格な専制者の校長に対する女学生たちのレジスタンスを描いたもので、誠にきめの細かい表現で思春期の少女たちを表現した異色作でした。

 今考えて見るとナチズムへの最初のレジスタンス映画だったのだと思い当ります。これに近い学生生活を送って間もない私には、この少女たちの一人一人の気持、殊にヒロインのマヌエラの感情の動きが痛いほど共感出来るのです。

 すっかり夢中になった私に比べて川喜多は冷静でした。

 冷静に考えれば、この映画の商業性というものは至って不安定です。全然無名の女性監督が小さな予算で作ったスターの一人も出ない映画。どういう宣伝をしたらいいか。どこの劇場が買ってくれるか。

 川喜多は会社の責任者としてまずこの点を考えます。私の方は向う見ずです。自分が夢中になってしまうとまずその映画を日本へ持って行って、一人でも多くの人に見て貰いたいという気持に取りつかれます。一人でも多くの人に私の感激を共感して貰い、喜びをわかち合いたいのです。この映画を愛する同志をつくりたいのです。

 私は自分の気持を川喜多に語りました。それと同時にこの映画に対する自分の感じ方を確かめるため、少し時をおいて、三度劇場に通いました。見れば見るほど心を打たれます。私の執念を持てあました感じで川喜多は「ではまあ新婚旅行のプレゼントに買って上げよう」と承知してくれました。

 日本に持って帰って批評家に見せると大好評です。「制服の処女」(メーチェン・イン・ウニフォルム)というのは原題ですが、メーチェンは少女とも乙女とも言えるのをずばり処女と言い切ったのは、当時宣伝部の嘱託をしていた故筈見恒夫氏のセンスでした。映画を見た人の評判を聞き伝えて試写の申込みは日ましに増えて行きます。「アスファルト」の時と同じような状態になって来たので私たちは喜んで居りましたが、興業者にとっては「アスファルト」のような決め手がないので好い週間をこの映画に与える決心がつかないのです。やっと一九三三(昭和八)年二月一日、帝劇、大勝館、新宿松竹館に封切が決りましたが、この時まで二月と八月は興行界の最悪の月といわれていたものです。

 その朝、私たちは心配でドキドキしながらお濠から吹きつける冷たい風にさらされた帝劇の前に立ちました。打込み三十分も前というのに劇場の廻りは幾重にも並んだ人の列でした。

 「ありがとうございます」

 並んでくれている一人々々に頭を下げて廻りたいような思いでした。

 「制服の処女」という言葉は、その頃女学生の別名となり新聞や雑誌に現れるようになりました。

 この映画はその年のベストワンに選ばれ、東和は「アスファルト」「自由を我等に」に続いて三つ目の銀カップを受けました。

「会議は踊る」とその後――一九三三年

 一九三二年、私が川喜多に連れられて始めて渡欧した年は、東和にとって大きな危機の年となりました。

 欧州一の映画製作会社であるドイツのウファ社と東和は契約を結んで「アスファルト」「東洋の秘密」「帰郷」等の名作を封切って来ましたが、その後の作品がトーキーになったこと、製作費が以前の数倍に上ったことを理由に乱暴な値上げを要求して来ました。

 作品は「会議は踊る」「狂乱のモンテカルロ」「ハンガリア狂想曲」「悲歌」「ニーナ・ペトロヴナ」等、とびつきたいような名画が、ずらりと揃っていました。

 殊に「会議は踊る」は主題・構想・脚本・演出・撮影・音楽処理・装置・衣装・配役・演技、どこをついても殆ど欠点のない出来栄えでした。

 ヒットラー出現以前のドイツがユダヤ人の頭脳・芸術・商才を凝結させたのが、これ等の作品なのでした。

当時ウファ社にあって、これ等の作品を一手に製作していたのが大プロデューサーのエリッヒ・ポマーでした。勿論ユダヤ人です。ヒットラー政権の確立と共に彼はドイツを去りアメリカへ逃れました。戦後占領軍の映画行政官として西独に戻ったポマーは故意にドイツ映画の復興をおくらせたと噂されています。そのポマー亡き後もドイツ映画界は立ち直れないでいます。映画芸術の中枢をなすユダヤ人の呪いがかけられているのでしょう。

 とにかく三二年の夏、私の見たドイツ映画は「制服の処女」「会議は踊る」をトップに百花繚乱のきらびやかさでした。

 ところが試写を終えて商談に入ると思い掛けない要求です。どう計算しても引き合わない値段です。私たちは悩みました。とびつきたい作品を見せびらかされて、手の届かない値段を切り出されているのです。

 相談を重ねた結果(といっても二人だけの間で)、私たちはウファ作品をあきらめることにしました。これは大変な決心です。毎年八本当てに出来た作品が一本もなくなるのですから、その代りを私達はこれから一本ずつさがさなくてはならないのです。

 まず「制服の処女」がありますが、これは「会議は踊る」のように絶対当るという極めつきのものではありません。

 次に私たちはG・W・パプストの「アトランティド」を契約しました。それにカール・ドライエルの不思議な作品「吸血鬼」、ジュリアン・デュヴィヴィエの独仏合作映画「巴里―伯林」、グラノフスキーの前衛的な「O・F氏のトランク」、「人生謳歌」などが私たちのレパートリーでした。

 このカードで私たちは一九三二―三三年のシーズンを勝負することにしたのです。

 私たちの選んで来た作品は批評家や作家たちの間で好評を得ました。これ等の作品は映画史に残るものとして現在各国のフィルム・ライブラリーに保存されていることを考えると、ウファ杜に抵抗して必死で契約して来た苦労は報われたわけです。

 それに「制服の処女」の大ヒットで経済的にも東和の基礎は固まって来ました。

 一年間の抵抗でウファ社も折れて来ました。翌年封切った「会議は踊る」「狂乱のモンテカルロ」は大成功でしたが、「制服の処女」の数字を抜くことは出来ませんでした。

 これ等の作品がドイツ映画を飾った最後の花でした。ヒットラー政権はドイツの芸術の花をすっかり枯らしてしまいました。

一九三三年以後、私たちは欧州各国を遍歴してナチスに枯らされないでいる花をさがし求めなくてはならなくなりました。花はパリに咲き乱れ、ウィーンに、プラハに、ブダペストに、細々と咲き残っていました。

 海を渡ったロンドンには、咲き初めたといった方がいいでしょう。この時期にフランス映画の最盛期が訪れたことは、私たちにとって何より仕合せなことでした。

「にんじん」「ドン・キホーテ」「商船テナシチー」ほか――一九三四年

 世界の映画界には何時でもどこでも、よい年代と悪い年代とがあります。それはちょうど葡萄酒のヴィンテージのようなものです。

 一九二〇年代の終りから三〇年代の初頭にかけてのドイツ映画、一九三〇年代を通してのフランス映画、大戦直後のイタリア映画、一九四〇年代の終りから五〇年の初期のイギリス映画というのがこの豊作年に当ります。

 ナチスの独裁政治とユダヤ人の迫害でドイツ映画は自滅の道を辿って行きました。祖国を追われた人々の一部はアメリカに、一部はフランスに落着きました。新しい才能の流入と資本の導入は映画産業を刺激し、振興させました。ルネ・クレールは「巴里祭」の後、独裁政治への風刺を利かせた「最後の億万長者」を作り、ジャック・フェデーは「外人部隊」を、そして油ののりきったジュリアン・デュヴィヴィエは「資本家ゴルダー(ユダヤ人の運命を描く)」「にんじん」「商舶テナシチー」「モンパルナスの夜」とつるべ打ちに秀作を発表しました。また三巨匠に続いて新人マルク・アレグレは「乙女の湖」によって、その清新な感覚をたたえられました。

 これに加えてドイツを脱出したG・W・パプストはシャリアピンを迎えて名作「ドン・キホーテ」を作り、従来のフランス映画になかった新分野を開きました。この年から第二次世界大戦勃発まで、フランス映画は更にジャン・ルノアールとマルセル・カルネ、ドイツからの亡命者フェヨードル・オツエップ、Ⅴ・トゥルヤンスキー、A・グラノフスキー等を加えて、その黄金時代を築いて行くのです。

 一九三四年七月はじめ欧州に着いた私たちは一ヵ月半の間に百七十本の映画を見ました。それはよい映画を求めて欧州各国を遍歴した日々でした。シベリア鉄道で二週間ゆられてベルリンに着き、ここの作品に失望してパリに行き、ここで第一級作品を選び出して契約し、更にロンドンヘ。ロンドンではフラハティの傑作「アラン」に感激。ヒチコックの「暗殺者の家」、ビクター・サヴィルの愛すべきミュージカル「永遠の緑」「夕暮れの歌」などを契約しました。

 ここでドイツ首相ヒンデンブルクの逝去を知ったのも忘れられない思い出です。彼の死はヒットラーのナチス政権確立を意味していましたから、私たちは間もなく欧州をおおうであろう暗雲を予見して不吉な感慨におそわれました。

 再び欧州に戻って私たちはウィーンに出かけました。ここでは小規模ながらまだ自由な映画製作が続けられていることを知ったからです。

 ウィーンでの喜ばしい発見は、俳優ヴィリー・フォルストが演出した第一作「未完成交響楽」と第二作「たそがれの維納ウインナ」です。それとハンガリー人のゲザ・フォン・ボルバリーの監督した「別れの曲」、これはドイツ語版とフランス語版とがありましたが勿論私たちはフランス語版を註文しました。ジャン・セルヴェのショパン、ダニエル・ルクルトワのリスト、リュシェンヌ・ルマルシャンのジョルジュ・サンドなど忘れ難い印象です。

 私たちは更に足をのばしてブダペストのフンニャ撮影所、プラハのバランドフ撮影所を訪ねました。フンニャには前年の「春の驟雨」のような好ましい作品は見当りませんでしたが、バランドフにはグスタフ・マハティの「春の調べ」、ヨゼフ・ロヴェンスキーの「ながれ」がありました。ブダペストとプラハの撮影所へは、これが戦前最後の訪問となりました。

 この年私たちは三十数本の作品を契約しました。それほどよい作品が揃っていましたし、それを輪入し配給する態勢も備わっていました。

 それと、もう一つ私たちにはヒンデンブルクの逝去の時に感じた不吉な予感がありました。欧州の平和がこの数年の後におびやかされるのではないか。欧州映画の絢爛たる花の命は案外短いのではないか。

 それならば、この花盛りの壮観を日本に移し入れるのは私たちのつとめとも言えよう。欧州映画芸術を大量に紹介することによって日本の映画界に、また文化層に刺激を与えることが出来ればこの仕事を選んだ私たちの目的も果せる。

 このような、半ば直感的な動機から私たちは食事をする暇も惜しんで映画を見て廻り、優れた作品を買いまくったのです。

風雲の一九三五年

 この年、私たちは前年契約してきた優秀作品を月平均三本ずつ封切りました。一方前年度の封切作品「商船テナシチー」「会議は踊る」「にんじん」は「キネマ旬報」の一位から三位までを占める。本年度の「未完成交響楽」「別れの曲」「朱金昭」「永遠の緑」「夕暮れの歌」「ワルツ合戦」「私と女王様」は音楽映画のブームをもたらす。その外にルネ・クレールの「最後の億万長者」、アーノルド・ファンク博士の「モンブランの王者」、ロバート・フラハティの「アラン」、マルセル・パニョールの「黒鯨亭」、グスタフ・マハティの「春の調べ」、アルフレッド・ヒチコックの「暗殺者の家」、マルク・アレグレの「乙女の湖」「はだかの王様」、ジュリアン・デュヴィヴィエの「資本家ゴルダー」と「モンパルナスの夜」、ヴィリー・フォルストの「たそがれの維納」、Ⅴ・トゥルヤンスキーの「沐浴」と、今は古典として世界各国のフィルム・ライブラリーに収められている名作をずらりと封切ったこの年は春爛漫の華やかさでした。

 欧州映画は質的にアメリカ映画を完全に押えました。これ等の名作に刺激されて日本の映画界にも新風が漂い、伊丹万作、山中貞雄、伊藤大輔等が、野心作を発表しました。「忠治売出」「国定忠治」「百万両の壺」「新納鶴千代」等、日本映画の古典もこの年多く作られました。

 こうして東和は、その全盛期を迎えたのですが、この時私たちに大きなショックを与えたのは突然の東宝の欧州映画買付でした。今は故人となった秦豊吉氏が川喜多に先立って欧州各国を廻り、十本ほどの新映画を契約しました。当時も東宝と東和とは密接な友好関係にあり、殊にPCL(写真化学研究所)作品は東和が全国の配給に当っていたのですから、この新方針は私たちにとって東宝の背信と感じられました。

 川喜多は急遽渡欧し、私は残って秦氏帰国後の東宝の態度を観測することになりました。

 七月末、東宝は新輸入映画を発表しましたがナチス色の作品が多く、しかもそれを日本語に吹き替えるというのですから、私はひとまず安心して川喜多の後を追い、始めて単身でシベリアを横断しました。果して秦氏選定の欧州映画は失敗し、その後東宝は外国映画の輸入を断念しました。

 川喜多のこの時の渡欧は作品の選定の外にもう一つ目的がありました。

 それは山岳映画の権威として世界的に名高いアーノルド・ファンク博士が是非日本で映画を製作したいと言っているので、その可能性を打診することでした。

 東和の創立当初から川喜多は映画による東西の文化交流という理想を抱いておりました。溝口健二「狂恋の女師匠」、衣笠貞之助の「怪盗沙弥麿」、牛原虚彦の「大都会・労働篇」の三本をカール・コッホに編集させて「ニッポン」という映画を作りベルリンとパリで公開したのも、佐々木恒次郎の「永遠の心」を「樵夫弥吉」という題名でベルリンで封切したのも、皆この目的に沿うためでした。当時の日本映画では到底欧州の観客をひきつけることが出来ないと悟り、次に川喜多が考えたことは有名な欧州の監督を日本に招聘して外国人に分り易い日本映画を作ることでした。そこへちょうどファンク博士側からの希望が伝えられたのです。

 ファンク博士は山岳、スキー映画の第一人者で、東和が創立第二作として封切った一九二八年度冬期オリンピック記録映画「銀界征服」の監督であり、一九三二年にはアメリカのユニヴァーサル社に委嘱されてグリーンランドにロケして「SOS氷山」を作っております。その他「モンブランの嵐」「白銀の乱舞」「死の銀嶺」等の名作を作った博士の作風は簡単なストーリーを持つ外景を主とした映画なので、日本へ招聘して我国の美しい風土を紹介し、優しい人情を伝えるには大変適当な監督と川喜多は考えました。当時ファンク博士と契釣のあったテラ映画社と合作協定を結び、日本側は大沢氏の主宰するJOスタジオと東和が製作の責任を持つことになりました。

 欧州映画の輸入選定と配給には自信の出来た私たちも、初めての映画製作、殊に外国人を迎えての我国最初の合作映画には相談する人もなく、何も彼も自分たちの考えで判断するほかはありません。創立後七年の東和はいよいよ大冒険にのり出したのです。

「新しき土」の製作――一九三六年

 日本最初の国際合作映画製作プランがまとまり、早くも二月八日神戸入港の諏訪丸でアーノルド・ファンク博士一行九名が乗り込んで来ました。当時は珍しかったツァイス製のズーム・レンズ他、多くの新器材も積まれていました。

 一行は旅装を解く暇も惜しんで京都の日活撮影所を訪問し、ちょうど故山中貞雄が監督していた「河内山宗俊」のセットを見学し、そこで当時十六歳だった原節子に出会いました。

 二月十日一行は上京し、宿舎の万平ホテルに入りました。それから約二週間後、暁の新雪を蹴散らして二・二六の反乱が勃発した。当時麹町に住んでいた私たちは、ラジオのニュースにはね起きて万平ホテルに駈けつけました。反乱軍の本部に近いホテルには土嚢を積み上げ近衛兵が銃剣つきで固めています。九人の外国人の安全を守らなくてはならない私たちは、どうなることかと気が気ではありません。

 そのうちに銃声が起り、宿泊客は身廻品を備えてロビーに集合するようにとの命令です。一歳半になるハンス坊やを連れている博士夫人は青ざめています。私たちも何も様子がわからないのですから安心させようもありません。ただ私たちが一緒にいることだけが彼等を力づけていました。

 幸いにも反乱軍は戦わずして降服、数日後市内は平静を取戻しました。

 しかし、人心はなお不安に怯えていました。

 日本の将来に対する不吉な予感が人々の心を暗くしました。こうした時期に大きな冒険にのり出したことは間違いだったでしょうか。

 しかし、もう矢は弦を離れました。私たちはこの仕事を成功させる外ありません。

 二人は相談して仕事の分担を決めました。

 川喜多は製作に専念、私は本業である配給に精を出して莫大な製作費を生み出して行くことになりました。宣伝部長の筈見恒夫氏は両方の宜伝を統率、そのアシスタントとしてユナイトにいた小泉夏夫氏がファンク映画製作所の宜伝担当になりました。

 当時ベルリンに留学していた現早稲田大学教授の林文三郎氏は博士一行と共に帰朝し通訳に当っていました。

 ファンク博士は初めパール・バックの「東の風・西の風」のアイディアを持って来ていましたが日本の実際にふれて考えを変え「新しき土」の構想を得たのです。

 博士は上京後片はしから批評家の推薦した日本映画を試写し、自分を助けてくれる共同監督と主演者をさがしました。

 その結果博士がこの人だと心に決めたのは「忠治売出す」を作った伊丹万作氏でした。

 しかし、氏はこの仕事の困難さを予見され再三断られました。伊丹氏は博士の書いた本が気に入りませんでした。もし自分が協力するのならまず本の段階からといって、新しい本を書かれました。それは日本の子供をテーマにした素直な微笑ましい物語でした。

 しかしすでにゲッペルス宣伝相の指揮下にあった当時のドイツ映画界としては、日独合作映画はある程度両国の国策に直接役立つものでなくてはいけなかったのです。

 ファンク博士はなおも伊丹氏に懇請しました。考え深い伊丹氏のことですから、恐らく何も彼も考えつくして承諾されたのでしょう。

 大喜びのファンク博士はさっそく伊丹氏と相談して主演者に小杉勇、原節子、早川雪洲等を決めました。一年の歳月と七十五万円(約二十万ドル)という当時としては破格な製作費をかけて完成した「新しき土」は日本でもドイツでも大成功を収めました。

 一方この一年間に東和は三十六本の欧州映画を封切り、「ミモザ館」は「キネマ旬報」第一位。「白き処女地」「地の果てを行く」「罪と罰」「上から下まで」は各々十位まで入り、つまりベストテンの半分を東和作品で占めたわけです。その他忘れ難い作品に「三十九夜」「郷愁」「マズルカ」「装へる夜」「ジャンダーク」「最後の戦闘機」「みどりの園」「ゴルゴタの丘」「夜の空を行く」などがあります。

日本映画の輪出――一九三七年

 日本で大成功を収めた日独合作映画「新しき土」を携えて、私たち一行は三月十日シベリア経由渡欧の途につきました。

 一行とは川喜多と私。それに、「新しき土」の主演女優として特に招かれた原節子さんとその義兄の映画監督熊谷久虎氏の四人でした。

 その夜、東京駅を埋めた見送りの人波は恐ろしいほどでした。

 マスコミの今ほど発達していないあの頃、どうしてあれだけの人が出発時間を知って押しかけて来たのか、どうしても分りません。

 二週間の列車旅行中、十七歳の原さんを退屈させないように私たちは朝からトランプあそびをやりました。

 ベルリンでの封切も大成功でした。美しい振袖姿の原さんは舞台に立って川喜多から習ったドイツ語であいさつしました。原さんの人気は大変なもので、ベルリンの後ミュンヘン、ハンブルク、ケルン、デュッセルドルフ、ライプチッヒ等三十数ヵ所の都市に招かれて舞台に立ちました。

 戦後、各国の映画祭に招かれた女優さんは数十名に上るでしょうが、原さんほど誰からも愛された人はなかったと思います。

 約一ヵ月半の後、私たちはドイツを離れてパリに着きました。ここでは原さんの仕事は特にないので、彼女はのんびり見物したりオペラや芝居を見たりしていました。

川喜多は「新しき土」をフランスやイギリスに売り込む商談に忙しいので、私はひとりで試写室や映画館に出かけて買入れる映画の選定をしなくてはなりませんでした。

 私は出来るだけの時間をさいてパリで見られるあらゆる映画を見ることにしました。その頃からパリは世界の映画市場のセンターでした。アメリカ映画、イギリス映画は勿論、チェコ映画、ハンガリー映画、ソ連映画、オーストリア映画がアート・シアターで上映されていました。直接買入れの対象にならない作品も出来るだけ見ることにしました。多くの映画を見ることによって選定眼が養われて行くことを悟ったからです。

 「新しき土」のフランス配給交渉は仲々捗りませんでした。日本の風景の美しさや、もの珍しさには惹かれても、内容の持つ国策臭さがフランス人には我慢できなかったのでしょう。

 しかし私たちと長い取引きを持つプロデューサーが再編集して配給を引受けることになりました。

 私たちはアメリカ経由で帰国する計画を立て、シェルブールから当時世界一の巨船クイーン・メアリー号に乗り込みました。

 ニューヨークでも川喜多は「新しき土」のアメリカ配給交渉で多忙でしたが、やっと商談がまとまりました。

 その間、原さんと私はコニー・アイランドで子供のように遊んだり、セントラル・パークでボートを漕いだり、ラジオ・シティ・ミュージック・ホールのラインダンスを楽しんだりしていました。

 ニューヨークで見た映画の中にはソ連映画が数本あり、その中のドキュメンタリー映画、「ツアーからレーニンまで」に強い印象を受けました。その頃日本は検閲が厳しくソ連映画は輸入禁止の状態でした。

 アメリカ横断は南部鉄道を選び、ニュー・オリンズに一泊してミシシッピー河の雄大な流れと、黒人の差別待遇に驚きました。ロサンゼルスでは「新しき土」製作の時、日本を訪れたジョセフ・フォン・スタンバークに出迎えられて、厚いもてなしを受けました。そして七月十二日、四ヵ月振りで帰国するため郵船の龍田丸に乗込んだ瞬間、私たちは華北で日本軍が中国軍と衝突したというニュースをききました。幼少から中国で育ち北京大学に学び、中国語は日本語と同じくらいに話す川喜多はたちまち顔を曇らせました。「この事件は厄介なことになるよ」といい、「長い戦争になる覚悟をしなくてはいけない」といいました。私たちは困ったこととは思っても、それほど大事になるとは気がつきませんでした。

 この年のベストテンは、第一位「女だけの都」、第二位「我当の仲間」、第三位「どん底」と再び東和が第一位から三位までを占め、「自由を我等に」以来六年間のベストテン第一位を持続しました。しかしこの栄光の中にあっても川喜多は暗い顔をしていました。日本にしのび寄る大不幸の足音を、いち早く聞きつけていても、それをとどめ、国民に警告する道は閉ざされていたのですから。

戦前最後の欧州旅行――一九三八年

 北京郊外盧溝橋に始まったいわゆる日華事変は川喜多の心配した通り華北一帯、次いで華中と中国全土に拡がって行きました。

 父を北京で失っている川喜多にとって、中国は第二の故郷でした。日本と中国が戦うことは世界の不幸、アジアの悲劇であるばかりでなく、川喜多にとっては個人的な苦痛でした。

 「新しき土」の製作公開によって日独両国民の理解と親愛が深まったことを目のあたり見て来た川喜多は、映画によって日本と中国のために役立ちたいと思いました。

 九月半ばには、もう北京、天津、内蒙にまで足をのばして戦禍の跡を視察し、制作すべき映画の企画を立てました。それは戦いに追われても追われても広太な中国の大地にしっかりと根を下ろした国民を滅ぼすことも出来ないし、武力をもって彼等を屈服させることも不可能なのだ、日本の取るべき唯一の道は軍を引いて平和を回復し中国国民との共存共栄を図ることだというテーマでした。北京で三百名の応募者から選んだ六名の主演者たちは、華北各地のロケーションを終えるとセット撮影と録音のために来日し、熱心な歓迎を受けました。戦争はますますたけなわでしたが、日中の国民たちは、映画をつくるという共同の仕事で、もう手を握り合っていたのです。

 この時まで素人だったこの人たちは、やがて立派な俳優になって上海や満州の映画界で活躍しました。

 また、この映画の音楽を担当した江文也氏は現在北京の音楽学院院長になっています。

 「東洋平和の道」と題されたこの映画は日本では成功しませんでしたが、北京ではヒットし、ドイツ、フランス、ブラジルと契約が出来ました。

 この作品と、もう一本田坂具隆監督の「五人の斥候兵」を持って六月はじめ私たちはアメリカ経由欧州旅行に出かけました。

 「五人の斥候兵」は戦前唯一の国際映画祭であったヴェネチアに出品するためです。

 八月半ば、戦後は毎年行くことになったヴェネチアのリド島に私たちは始めて乗りこみました。今なお映画祭の本拠になっているホテル・エクセルシオに型の如く二百名ほどの各国要人を招いてレセプションをやり、翌日映画が上映されました。外国人に純粋の日本映画を見せる不安と期待を始めて経験しました。

 幸いに「五人の斥候兵」は新聞、雑誌の評判もよく文部大臣賞を取りました。戦後のヴェネチア映画祭のグランプリ「羅生門」のことは誰でも知っていますが、爾来世界に日本映画の高い評価を植えつけた国際映画祭受賞は「五人の斥候兵」が最初なのです。

 これはドイツのトビス映画社と契約が出来ました。

 この旅行中に私たちは三年振りでやっと完成したオリンピック映画「民族の祭典」「美の祭典」を見ることが出来ました。これこそ日本人全部に見せたい映画でした。ドイツ側との交渉には随分困難がありましたが、私たちは遂に契約に成功しました。

 九月十日、私たちはパリを立ち帰途につきました。私たちのパリ代理人レヴィタン夫妻が見送りに来ました。夫人は私の手をしっかり握って言いました。「パリをよく見ておいて下さいな。今度幾年か後でご覧になるパリはすっかり変っていることでしょう。戦火がマドレエヌやノートルダムを焼払っているかも知れませんからね」

 一九五三年、戦後はじめて十五年振りに訪れたパリは外見は大して変っていませんでした。しかし、レヴィタン夫妻は独軍のパリ占領中ゲシュタポの手で殺されていたのでした。

 一九三八年九月十五日のニュールンベルク大会でのヒットラーの演説は全欧州を震駭させました。私たちはジェノヴァからドイツ船ポツダム号に乗込みましたが、紅海、印度洋に入って来るニュースは欧州の戦雲の急を告げるものばかり。九月二十九日遂に船はシンガポール入港予定を変えてスマトラのべラワンに入港しました。戦争勃発の際、英軍に船を拿捕されることを恐れたからです。チェンバレンのチェコ会談の結果、船は翌日無事出港しました。しかし、これが私たちの戦前最後の欧州旅行となりました。

 翌年のドイツ軍のポーランド進撃。英仏対独宣戦布告で欧州は戦乱の巷と化したのです。

戦火――一九四〇~四五年

 昨夜私はポーランドから東独を通ってパリに戻って来ました。

 奇跡的に破壊をまぬかれた古都クラカウ。

 煉瓦の最後の破片まで徹底的にこわされ焼かれ、しかも不死鳥のように美しくよみがえったワルシャワ。

 一方、かつての勝利者は東西に分割され、ベルリンの壁はみにくい人間の運命を引きさいている。

 人口の半数が殺されたワルシャワの住民は、一人一人が親しい人の死の思い出をひきずっているのです。

 ハワイ・マレー沖海戦に始まり、広島に終わった日本の敗戦の歴史も、同じようにすさまじいものです。

 その中を、どうやら生きのびて来た人々は悪夢の記憶から逃れようとつとめている。

 そして戦争の記憶を持たぬ人々は年々増して行く。

 人々は毎日直面する出来事に追われて、あわただしく生きて行く。しかし戦争の傷跡は、忘れたと思った心の奥深くひそんで血を流す。

 戦争を知らない若者そのものが戦争の産物なのです。彼等は、戦前の或いは戦中の若者とは別の人種です。そして戦後の若者は「戦後」という共通の紐帯で世界の若者と結びついている。

 階級闘争、人種闘争と並んで、この戦前・戦後の時代闘争は意外に深い溝を現代の社会に築いているのです。

 一九三九年の夏、私たちが渡欧の準備を始めた頃、ナチスは突然ポーランドに進撃しました。いわゆる電撃作戦です。ポーランドは勇敢に戦いましたが、充分な装備をもったナチス突撃隊の前には一たまりもありませんでした。しかしこのポーランド進撃によってイギリスとフランスは、はじめて欧州の現実に対する目を醒ましました。自国の平和を守るために、オーストリア、チェコスロバキアに対するナチスの野望を黙認していた両国は、始めてナチスをこのままにして置くことはイギリス、フランスを含む全欧州の破滅になることに気がついたのです。

 おそまきながら両国はヒットラーに宣戦布告し、同盟国ポーランドのために戦う決意を示しました。こうして第二次大戦が始まったのです。

 私たちは旅行どころではありません。欧州の戦争がいつまで続くか。日華事変という、戦争という名のつかない戦争を続けている日本が、いつ本当の戦争に捲き込まれるか、時間の問題にすぎません。

 その頃、川喜多は華中派遣軍の情報将校である高橋大佐から重大な提案を受けました。中国語に堪能で中国人に多くの友人を持つ川喜多に、占領地区の映画国策を坦当して貰いたいということです。

 私たちは深く考えました。とても困難な仕事です。軍の管理下で、どれだけ川喜多の意志が通せるか、それが問題です。一方川喜多の中国に対する愛情は、少しでも占領下にある中国人に心の慰めを与えたいという情熱に燃えています。自分にある程度の権限が与えられれば、誰よりも日本と中国双方のためになる仕事ができるという自信が川喜多にはあります。高橋大佐と幾度も話し合った末、いわゆる国策宣伝映画は作らない、中国人のスタッフ、俳優で中国人の喜ぶ映画を作る、会社は中国人を主にして日本人はそれを援助する程度に止める、この川喜多の方針、政策に対して軍部は一切干渉しないという誓約を取りました。

 しかし、映画製作の中心地である上海はゲリラの本拠地でもあり、日本人に対する反感の最も強い所です。毎日のように日本軍人や日本軍のために働いている中国人が暗殺されています。その上海で中国映画人を説得して中国映画を製作しようというのですから生命の危険は覚悟しなくてはなりません。

 私たちは相談して東和商事所有のすべての映画を当時できた映画公社に委託し、その収益は優秀日本映画への褒賞金、映画技術研究所の費用に当てることにしました。社員はほとんど召集されましたし、主脳部の幾人かは川喜多と一緒に上海に出かけて行きました。

  私は日本に残って会社の残務を続けて行くことにしました。そして全く思いがけなく結婚後、十年振りに子供を恵まれることになりました。

 そのことを知らせた私の手紙に川喜多は上海から「好極了ハウチーラ」と打電して来ました。

 そして生まれた子供に平和の願いを込めて、「和子」と名づけると、七日後には上海に戻って行きました。その頃は別れるたびに、これが最後になるのではないかという思いでした。このような時に子供を与えられたことは何という幸せでしたでしょう。

 この幸せを自分だけに止めず、子供と同じ世代に育って行く人たち、新しい時代のために意義のある仕事をすることによって酬いたいと私は心から考えるようになりました。

敗戦――一九四六~五〇年

 この原稿をまた、パリで書いています。――今度の旅行はカルロヴィ・ヴァリ映画祭に審査員として出席するほか、ロカルノ映画祭に「四谷怪談」と日活の「愛の渇き」を出品するため、その後ユーゴーのプーラ映画祭に招待され、八月一日からロンドンの国立映画劇場で催される市川崑特集シーズンに主催者として出席するためです。

 八月末から九月上旬まではヴェネチア映画祭。

 その後アイルランドのコーク映画祭で審査長をつとめて帰国します。私の夢はいつも、東和創立の時、川喜多の抱いた理想の実現にあります。東洋と西洋の文化と友情のかけ橋になるという――。

 一週間前、ミラノ飛行場でお茶の水女子大教授のT医学博士にお逢いしました。その時教授は「映画はよくご覧になりますか」という私の質問に答えて、

 「今は忙しいので年に一、二度しか見ません。しかしよい映画は一生忘れることのできない印象を与えてくれます。今から三十年前に私は『ブルグ劇場』という映画を見ました。その中のせりふに、芸術家は一生をかけて芸術に精進しなくてはいけないのだという言葉がありました。その言葉が私の一生を支配しました。私は医学生だから一生をかけて医学の道に精進しなくてはいけないのだと悟ったのです」

 といわれました。

 教授は私たちが、その映画を日本に紹介したことなど全くご存知なく話されたのでした。私は胸がいっぱいになりました。これこそ東和の仕事の果実なのだ。こうした実りを見るために私たちは今まで働き、これからも働き続けるのだ。私たちの後は次々に若い人に引きつがれて、しかし東和の理想は常に変らず続けられなければならないのだ、と、私は新たな勇気を与えられて旅を続けました。

 一九四六年、今からちょうど二十年前の二月、私は六歳になった子供と二人で北京から引揚げて来ました。川喜多は四月に上海から李香蘭こと山口淑子さんを救い出して帰って来ました。幸い鎌倉の家は無事でしたので引揚げの社員の住家となり賑いました。畑の野菜が乏しい食事の助けになりました。しかし身一つで戻った社員たちのこれからの生活をどうしたらよいのでしょう。日本にあった私たちの預金は全部封鎖されておりました。

 私たちは映画公社の解体によって返還された旧作品を焼け残った映画館に配給して細々ながら社員の生活にあてました。

 しかしアメリカ占領軍によってドイツ映画は全部敵国財産として押収され、その上、川喜多は戦時中、国策会社の最高責任者であったという理由で追放の処分を受け、映画の仕事に携わることが出来ないことになりました。

 この時が東和にとって最大の暗黒時代でした。しかし、その暗黒時代にも、かすかな希望の灯はともっていました。それは戦時中余りにもペシミスティックだという理由の下に検閲が通らなかったデュヴィヴィエの傑作「旅路の果て」と皇族の情死事件という理由で同じく公開を拒否された「うたかたの恋」(アナトール・リトヴァク作、シャルル・ボワイエ、ダニエル・ダリュー主演)が内務省検閲制度の廃止によって陽の目を見ることが出来たことです。

 その頃はアメリカ映画だけが輸入され、久しく外国映画に飢えていた人々はとびつくように映画館にかけつけたものです。そのうちに他の戦勝国の映画も輸入されるようになりましたが、輸入業者は戦勝国の市民に限られ日本人には許されませんでした。敗戦国の、被占領国民の悲しみを、しみじみと味わったのはその時です。

 国策会社の最高責任者という十把一からげのお題目で追放になった川喜多に、かつての社員であった中国映画人からアメリカ占領軍に対して追放解除の請願書が寄せられました。また当時上海にいたアメリカ映画会社の支配人たちから、川喜多が彼等に対して如何に寛大で親切であったかを記述した嘆願書が送られました。

 そのため一九五〇年には川喜多の追放も解け、また従来の映画輸入業者は、その業務を再開することも許されることになりました。

 しかし第二次世界大戦をはさんだ十年のギャップは大きな断層を見せています。戦前一ドル四円だった外国為替は一ドル三百六十円と定められました。戦前親交のあった製作者たちの何人が引続き映画を製作しているでしょう。

 不安な手さぐりをしていた私たちの手を向うからしっかり握ってくれたのは、一流製作者であるロンドン・フィルムのアレグザンダー・コルダ卿でした。「ジャングル・ブック」「バグダッドの盗賊」「第三の男」「アンナ・カレニナ」「天井桟敷の人々」など目のさめるような作品リストを送ってくれ、保証金もない歩合契約という、本当の紳士協定でした。この信頼に勇気づけられて私たちは立上りました。東和商事映画部という社名を、はっきり東和映画に改めて、私たちは戦後の映画界に再び挺身することを決心したのです。

戦後――一九五一年

 一九五一年。私たちの戦後はこの年から始まります。

 連合軍による占領が終り、川喜多の追放も解除され、敗戦国民ながら私たちは日本人としての権利と義務を持てるようになりました。

 敗戦からこれまでの五年間、川喜多にとって一番辛かったのは外国旅行が許されなかったことだと思います。

 追放が解除されてまっさきに川喜多が着手したのは、東和映画の設立と海外渡航の許可申請でした。外貨事情の悪かった当時の日本政府は、外国での一切の費用を引き受ける保証人のない渡航者には旅券を下付しませんでした。幸いにもロンドン・フィルムのアレグザンダー・コルダ卿は川喜多の旅費・滞在費一切を引受けて契約映画の選定に当らせてくれ、しかもロンドン飛行場には総支配人のデヴット・カニンガム男爵がロールス・ロイスで出迎え、サヴォイ・ホテルに送り込むという丁重さでした。当時のサヴォイ・ホテルは旧敵国人である日本人の宿泊を許していませんでしたから、戦後最初の日本人宿泊者は川喜多ということになります。

 ロンドン・フィルムの豊富な作品リストから川喜多は第一年度公開作品として「ジャングル・ブック」「バグダッドの盗賊」「鎧なき騎士」「絶壁の彼方に」「アンナ・カレニナ」の五本を選びました。日本に持って来たい作品は無数にありますが、当時の日本は厳重な輸入統制を行っていて、一社に与えられる割当本数は戦前の実績の四分の一も充たないものでした。イギリス映画はこうして立派なラインアップができましたが、東和作品の大動脈であったフランス映画は大戦によって大きな影響を受けていました。

 ルネ・クレールの全作品を製作していたソノル・トビス社は解体され、クレール、ルノアール、デュヴィヴィエ、フェデー等の巨匠は、やっと異郷の地からパリに戻ったばかりで落ち着かず、ナチス占領下に五年間も置かれたパリは建物こそ大していためられませんでしたが、人の心はひどく傷つき、人間不信のとげとげしさに満ちていました。

 多くの映画関係のユダヤ人がゲシュタポに拉致され、そのまま戻りませんでした。

 東和映画のパリ代理人だったレヴィタン氏も夫人がユダヤ人だったという理由で消されていました。川喜多は、やっと二十年前からの知己であるプロデューサー、パウル・グレエツに出逢い、彼がナチス軍のパリ進駐直前に完成してネガをかくして置いたジュリアン・デュヴィヴィエ戦前最後の作品、「わが父わが子」を契約することができました。パウル・グレエツはそのあとクロード・オータン・ララの傑作「肉体の悪魔」を始め、「白衣の人」「橋からの眺め」等の秀作を製作しましたが、先年ルネ・クレマンの大作「パリは燃えているか」をパラマウントのために製作中、心臓疾患で急逝しました。

 私たちの友人のプロデューサーの多くは彼と同じく仕事中に急死しています。プロデューサーという仕事の厳しさを痛感させられます。

 パリで川喜多は新興の大会社フランコ・ロンドンと協約を結び、提携第一回作品として、ルネ・クレールの「悪魔の美しさ」を輸入しました。これは「キネマ旬報」ベストテンの第六位に選ばれ、数少ないフランス映画のために気を吐きました。

 この年川喜多は一九四六年に始められたカンヌ映画祭にはじめて出席しました。日本からは「稲の一生」という短編映画が出品されていました。ここでヴェネチア映画祭の代表者デピロ氏に逢い、長編映画のヴェネチア出品をすすめられました。その結果ウニタリア日本代表のストラミジョリ女史等と相談して、大映の黒沢明作品「羅生門」のヴェネチア映画祭出品が決定したのです。グランプリのニュースとほとんど同時にコルダ卿は川喜多に「羅生門」の世界配給を申入れてきました。しかしイタリア、フランス配給はすでにイタリア配給業者が獲得していましたので、川喜多はロンドン・フィルムを大映に引き合せ、英国配給権の仲介をしました。以来「羅生門」は日本映画の世界市場における突破口となり、「東京オリンピック」の出現までは世界中に最も広く公開された日本映画となりました。

 「羅生門」といい「東京オリンピック」といい、日本映画を経済的にリードするのは「ゴジラ」でも「万里の長城」(日本題名「秦・始皇帝」)でもなくて、これ等の質的に優れた作品であることを日本映画界は改めて認識すべきだと思います。

みのりの年――一九五二年

 ロンドン・フィルムとの提携は、この年、その成果をみごとに実らせました。

 この年の封切作品は十本ですが、その一本一本が何かの意味で世界の映画史に残されている作品です。

 四枚の羽根(ゾルタン・コルダ監督)

 天井桟敷の人々(マルセル・カルネ監督)

 ホフマン物語(マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー監督)

 エロイカ(ヴァルター・コルム・フェルテー監督)

 巴里の空の下セーヌは流れる(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)

 美女ありき(アレグザンダー・コルダ監督)

 第三の男(キャロル・リード監督)

 処女オリヴィア(ジャックリーヌ・オードリー監督)

 肉体の悪魔(クロード・オータン・ララ監督)

 女狐(マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー監督)

 復活した東和のレパートリーとして誠にふさわしい、筋の通ったラインアップです。十本のうちの四本がベストテンに選ばれたのも当然です。(「第三の男」「天井桟敷の人々」「肉体の悪魔」「巴里の空の下セーヌは流れる」)

 この年はまた私たちと外国の映画人との交流が再開された年でもありました。

 春には「ホフマン物語」の公開を機会にプロデューサー兼監督のマイケル・パウエルが来日しました。

 彼は生粋の英国人ですがウィーン生れのエメリック・プレスバーガーと組んで「天国への階段」「黒水仙」「赤い靴」そして新作の「ホフマン物語」と革命的な色彩映画の境地を開拓しておりました。

 彼は日本の旅館に泊り、どてら姿で味噌汁の朝食を楽しんだ最初の外国映画人ですが、その時、彼はすでに日本で製作するべき大作「ウィリアム・アダムス(三浦按針)」の企画を持っていたのでした。

 彼は「羅生門」をロンドンで見て黒沢監督に傾倒していましたから、東宝撮影所を訪れて黒沢氏にも逢い彼の作品を見せてもらいました。なかでも「虎の尾を踏む男達」を絶賛して、早速ロンドン・フィルムのコルダ卿とはかりイギリスの配給を引受けました。

 日本に漂着した最初のイギリス人で徳川家康の信任を受け、日本に始めて外国の造船技術を伝え、侍に取立てられ領地を賜った三浦按針ことウィリアム・アダムスの企画はその後転々と引きつがれ、二年前アメリカのエンバシー・プロからピーター・オトゥル主演として発表されました。

 この年、川喜多は、カンヌ映画祭に出席して「源氏物語」の賞を受け、その後戦後始めてのアメリカ旅行に足をのばし、ニューヨークとロサンゼルスにかつての旧友を訪問しました。五年にわたる戦争も個人間の友情には少しも影響しませんでした。

 なかでも戦後すぐに文通を始めていたジョセフ・フォン・スタンバーク(「嘆きの天使」「モロッコ」「間諜Ⅹ27」などの名匠)はニューヨークで川喜多と逢い、戦争中のエピソード、アナタハン島における日本兵と一人の女の奇妙な関係を描いてみたいという強い希望を打明けました。

 帰国後、川喜多は友人の大沢善夫氏と相談して、その製作を引受けることを計画しました。

 大沢氏とは戦前「新しき土」の製作を一緒に行った経験があります。

 八月五日、スタンバークは夫人と二人の子供を連れて来日しました。

 アメリカの一流監督が日本で映画製作するのは戦前戦後を通じてこれが始めてです。

 前回は言葉の関係上(ファンク博士はドイツ語しか出来なかったので)川喜多が現場のプロデューサーをやったのですが、今度は大沢氏が、その役割を引受けました。

 あてにしていた東宝が急に撮影所を貸すことを断って来たので、大沢氏は急遽、京都、岡崎公園の展覧会場を借り受け、撮影所に改造しました。スタンバークの撮影理論にもとづきアナタハン島のジャングルがこの中に作られました。一番大切な配役である島に住む日本の女は、日劇の舞台からスタンバークのスカウトで根岸明美さんが選ばれました。かつてマレーネ・デイトリッヒを見出した、あの眼力でした。

戴冠式への招待――一九五三年

 昨年に引きつづき東和は次の十二作品を公開しました。

 超音ジェット機(デヴィッド・リーン監督)

 花咲ける騎士道(クリスチャン・ジャック監督)

 文化果つるところ(キャロル・リード監督)

 七つの大罪(オムニバス)

 清宮秘史(朱石麟監督)

 リディアと四人の恋人(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)

 ガラスの城(ルネ・クレマン監督)

 マタイ受難曲(エルンスト・マリシュカ監督、ウィーン・フィルハーモニー演奏、フォン・カラヤン指揮)

 アナタハン(ジョセフ・フォン・スタンバーン監督、根岸明美主演)

 落ちた偶像(キャロル・リード監督)

 禁じられた遊び(ルネ・クレマン監督、「キネマ旬報」ベストテン第一位)

 三文オペラ(ピーター・ブルック監督)

 この年もベストテンに四本入り、「禁じられた遊び」は第一位に選ばれました。ナルシソ・イエペスのギター音楽と埋葬遊びに余念ない幼い戦争孤児マリーの瞳が、詩情あふれるうちに戦争のむごたらしさを心にきぎみこむ名画でした。

 この年の六月二日にはイギリスのエリザベス女王の戴冠式が行われ、私と子どもがロンドン・フィルムのアレグザンダー・コルダ卿に招かれてロンドンに旅立ちました。私にとって一九三八年以来十五年ぶりの渡欧です。始めて乗ったイギリスご自慢のコメット・ジェット機はオーストラリアで起った事故のため、点検また点検で、バンコック、ラングーン、カラチの飛行場で各々数時間を費し、おかげで私たちは、ゆっくり町の見物ができました。

 十五年前、風雲急なヨーロッパを後にして印度洋を故国にいそいだ時のことを思うと、アラビアの砂漠をジェット機の窓から見下す空の旅は感慨深いものでした。

 戴冠式の当日は女王日和の霧雨です。

 その雨の中を二日も前から舗道に紙や毛布を敷いて頑張っている数万のイギリス人の群には驚きました。幸い私たち世界各国から招かれたロンドン・フィルムの客人はピカデリー街に面した会社のバルコニーから絢爛たる行列を見物し、ウェストミンスター寺院の光景は試写室に特設された壁いっぱいの大スクリーンのテレビで手にとるように見ることが出来ました。

 ロンドンの後私たちはベルリンにとび、映画祭のために来た川喜多と逢いました。

 五所平之助監督の「煙突の見える場所」は好評で賞を取りました。ヴェネチアの「羅生門」、カンヌの「源氏物語」に次いで三度目の国際映画祭受賞でした。現代劇が始めて入賞したことも意義のある経験でした。映画祭に出品された作品が、世界各国から招かれているジャーナリスト約六百名によって、どのように世界中にPRされるかということを目のあたり見て、私は国際映画祭こそ日本映画を海外に紹介する最上の場所だということを深く悟りました。

 この年の十月、東京と大阪で第一回フランス映画祭が開かれ、ジェラール・フィリップ夫妻、アンドレ・カイヤット夫妻、女優シモーヌ・シモン等が来日し、私たちの生涯の友となりました。フィリップ夫妻はとくに多くの日本映画を熱心に見て、その感想をフランスの新聞に発表しました。この反響は大きく、日本映画というものが始めてヨーロッパの映画知識人の間に強い興味を引き起しました。私たちの東和創立以来の念願――東洋と西洋の文化の交流――が、やっと芽を出して来たようです。

二匹の銀獅子――一九五四年

 日本で開催された第一回フランス映画祭が両国にとって、どんな成果をもたらしたか。代表団の顔ぶれが立派で、ことに今はなきジェラール・フィリップが、その知性と人格で、フランス人の最も優れた面を示したこと。代表団がフランス映画のPRをするだけでなく、日本映画の海外紹介につとめたこと。これは第二回フランス映画祭でアラン・ドロンが引き起した汚い商売のかけひきや、第三回のフランス映画祭がアメリカ会社の宣伝に使われてしまった醜態に比べて、まことに美事な態度でした。

 その成果はすぐ翌年の東和のラインアップに現れています。

 夜ごとの美女(仏、ルネ・クレール監督)

 エヴェレスト征服(英、カントリーマン・フィルム製作)

 白い馬(仏、アルベール・ラモリス監督)

 アンリエットの巴里祭(仏、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)

 戦慄の七日間(英、ブルティング兄弟監督)

 愛情の瞬間(仏、ジャン・ドラノア監督)

 陽気なドン・カミロ(仏、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)

 恐怖の報酬(仏、アンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督)

 裁きは終りぬ(仏、アンドレ・カイヤット監督)

 青い麦(仏、クロード・オータン・ララ監督)

 狂熱の孤独(仏、イヴ・アレグレ監督)

 十一本封切中、何と九本がフランス映画です。一方この年のカンヌ映画祭では衣笠監督の「地獄門」がグランプリをとっています。そしてこの映画は「羅生門」に引き続きほとんど世界中に上映されています。

 日本映画が現在の不調にもかかわらず、今なお世界の映画界や知識人から尊敬されている基礎はこの年に築き上げられたと言ってもよいでしょう。

 この年のヴェネチア映画祭には黒沢監督の「七人の侍」と溝口監督の「山椒大夫」が出品されたのです。どちらも傾向こそ違え、世界の映画史に燦然と輝いている傑作です。

 この時の映画祭には川喜多が日本代表として出席していました。

 最終日の受賞作品発表の時、受賞者は最前列に案内されます。川喜多の席も最前列に取られたので、二本の出品作のうちどれが受賞したのかなと思いながらすわったそうです。(受賞作は最後まで未発表です)

 そのうち受賞式が始まって「七人の侍」の名が読み上げられました。川喜多は檀上で重い銀獅子を会長から渡されました。

 挨拶して壇を下りようとするとき引き留められ、次いで「山椒大夫」の名が読み上げられて、また重い銀獅子を渡されました。

 銀獅子を二個も一度に受賞した国はこれまでになかったので会場は湧き立ち、拍手はなかなか静まらなかったそうです。

 やっと壇を下りると友人のプロデューサー達が取り囲んで、

 「川喜多、一人で二個もさらって行くなんてひどいじゃないか。俺たちにも残して置いてくれよ」とか、

 「川喜多、お前はいつからサーカスを始めたんだ。二匹も獅子をつまえて」とか大さわぎだったそうです。

 川喜多は感慨無量だったでしょう。

 戦前、同じ溝口監督の作った日本映画を持って欧州に渡り、試写して見せた時に「これを見たら観客はおかしがってゲラゲラ笑って帰って行くでしょう。とにかく床の上にすわったり寝たりするのではね」と館主や配給業者に言われたその口惜しさを、重い二匹の銀獅子は吹きとばしてくれたと川喜多は語りました。