千駄木の先生

 鴎外先生は青年を愛した。

 先生の愛は狭かつたかも知れない。併し、深かつた。くだいて言へば、「贔屓強い」人だつた。一度贔屓をした以上は、どこまでも、それを持ち続けるといふ風があつた。亡くなつた先生の令弟三木竹二氏も、やはりさういふ人だつた。

 先生には、鋭い直覚があつた。人の風貌を一度見るか、人の作物を一遍読むかすると、直ぐその人の歩いてゐる道がはつきり分かつた。

 亡くなつた医学士大久保栄も先生に愛せられた青年の一人である。貧しい俳人大塚甲山もその一人であった。吉井勇が「浅草観音堂」を書いた時なども、大変喜ばれた。上田敏や永井荷風に対しては、「尊敬」をさへ払つてをられた。

 先生自身の藝術に対する趣味は、絢爛よりは簡素だつた。併し、「筋」の好いものなら、自分の趣味との同異を論ぜず、嘆賞ををしまなかつた。鏡花、漱石、荷風、潤一郎などの作物に対する態度がそれだつた。この意味から言へば、先生は決して狭い人ではなかつた。

 

 私も先生に愛せられた一人である──自分の実価以上に、先生に愛せられた一人である。私は常に思つた。そして、今でもさう思つてゐる──先生は私を買ひ冠つてゐると。

 私は妹と一緒に三木竹二氏を通して、先生の知遇を得た。妹などは、先生の知遇なしには、終に文学の人とならずに済んだかも知れない位である。

 私が始めて先生に接したのは、千駄木の楼上に「萬年草」の会合があつた時だつたと覚えてゐる。席には笹巻の鮨が出てゐた。私はまだ大学の学生だつた。

 私は当時「なでしこ」と号する無名の文学青年だつた。書いたものを、始めて先生に見せたのは、モオパツサンの短篇を英語から訳した「墓」と題するものだつた。先生は直ぐそれを「萬年草」に載せて呉れた。

 私は、殆ど有頂天になつて、英詩の翻訳だの、レオパルヂイの対話詩の訳だの、マアテルリンクの「群盲」などを次ぎ次ぎに送つた。「群盲」が「萬年草」の巻頭に載せられた時などは、嬉しいと言ふよりは、寧ろ恐ろしかった。

 先生の可愛がる若い者を、先生の亡くなられた母堂が、又必ず可愛がつた。私も私の妹も、先生の母堂に愛せられた。妹が岡田三郎助のところへ嫁ぐ事になったのも、先生の母堂の斡旋であつた。

「萬年草」の発行が中絶したのは、先生が日露戦争に出征せられた為であつた。先生は戦地から、私のやうなものにまで、三日に上げず、端書を呉れた。

 私が小説の創作を始めた時分が、丁度又先生の第二期小説創作時代であつた。先生は、私の書いたどんな詰まらぬ作をも、きつと読んで呉れてゐた。私が余り多作をすると、その心配までして呉れた。

 先生の作に「不思議な鏡」といふのがある。その中に、かういふ詞がある──

「まだ若いが、小山内君なんぞも、もう立派な符牒を附けられてゐる。「才の筆だ。只それ丈の事だ。ふうん」と云つたやうな調子で、鑑定は済んでしまふ。」

 私は昔から「才」の一字で、どんなに鞭うたれて居たか分からない。その当時、先生のこの同情あるアイロニイは、どんなに力強く、私を絶望と自棄とから救ひ上げて呉れたか分からない。

 今でも、四十歳を越した今でも、やはり私を「才」の一字で片づけてしまはうとする人がある。例へば、「明星」に毎号劇評の筆を執つてゐる畑耕一などがそれである。

「不思議な鏡」は、いつまでも、私の慰めになり、私の力になるだらう。

 私は或時期から、段々先生に疎遠になつた。と言ふ意味は、単に先生を訪問する機会が少くなつたといふ事である。

 私の「心」は、依然としていつも先生の側にあつた。創作でも、翻訳でも、講演の筆記でも、考証でも、およそ先生の世に発表せられる限りのものは、必ず私に、或知慧を与へて呉れた。道を開いて呉れた。

 私は、手紙で幾度も幼い質問を出した。先生はそれらに対して、丁寧な答を書いて呉れた。私が蔵してゐる先生の手紙は、大抵その種のものである。

 私の頼む事を、大抵先生は欣諾して呉れた。先生の承諾して呉れた事で、終に果されずにしまつた事は、私が国技館で左団次に試みさせようとしたホフマンスタアルの『エヂプス王』の翻訳と、私の訳したイプセンの『皇帝とガリレヤ人』の序文とである。この序文は、エルナアの評論の翻訳の筈だつた。

 

 先生が軍医であつた事、私が軍医の子である事も──私から言へば──先生と私とを結びつける一つの縁であつた。

 勿論、私の父は先生よりずつと年上であつた。「あの時分、僕はまだ一本筋だつた。」と、先生はよく言はれた。それでも、私は先生に対すると、何となく自分の父に対してゐるやうな気がした。

 私の親戚には軍医が多い。それらと先生との官途の上での関係もあつた。今、広島師団で軍医部長をしてゐる私の従兄中村緑野は、先生の第一師団時代に、先生の副官をしてゐた。私の伯父で、もう今では御用を終へて、大久保に隠居をしてゐる藤田嗣章は、先生と同僚だつた。この伯父の次男が、今巴里で絵をかいてゐるFoujitaである。

藤田の長女が田原といふ軍医のところへ嫁に行つた時、先生は医務局長だつた。富士見軒でその披露のあつた時、先生が祝辞を述べられた。その祝辞は極めて簡潔でしかも情義を尽してゐた。私は生れてから、今までに、あんな気持の好い祝辞を聞いた事はない。

 

 私が西洋から帰つて来た時に、築地の精養軒で、先生が述べて呉れた挨拶にも、忘れ難い一句がある。

 それはかういふ事だつた。「諸君は小山内が何かすると思つてはいけない。小山内は何もしないでも好いのである。」さういつた意味の詞であつた。

 

 先生は謹直な人であつた。「乱れる」とか「崩れる」とかいふ事の絶対にない人だつた。「上機嫌」といふ程度の感情さへ、めつたには見られなかつた。

 ところが、私はたつた一度先生のやや「上機嫌」に近い場合を見た。

 私の古い作に「大川端」といふ小説がある。あの中に出て居る「福井」と云ふ粋人のモデルである、深川木場の数井市助が、ふとした気紛れから、先生に一度会ひたいと言ひ出した。

 鈴木春浦が使者に立つと、先生は快く承知して呉れた。場所は浜町花屋敷の大常磐で、陪賓は島崎藤村と中沢臨川だつた。先生は陸軍省の帰りに、軍服で参られた。

 取りとめてどうといふ記憶はないが、この時の先生は、確に「上機嫌」だつた。無意味な会合が、却つて先生の気に入つたのであらう。

 その時、先生が筆をとつて、春浦の酔態をSilhouetteで描かれたのを、私は覚えてゐる。

 春浦はあの影絵をどうしたらう。若し、保存してあれば、天下の珍品である。

 

 先生に就いて、思ひ出す事、書きたい事は、まだまだ沢山ある。

 併し、まだ私は、どうしても先生が本当に亡くなつたとは思へないでゐる。追憶めいた事を書くのは恐ろしいやうな気がする。

 三田文学に頼まれたから、「明星」「新演藝」「新小説」などに書かなかつた方面の事を、いやいやこれだけ書いた。先生に叱られなければ好いと思つてゐる。