珊瑚集(仏蘭西近代抒情詩選)

  目次

 シャアル・ボオドレエル: 死のよろこび 憂悶 暗黒 仇敵 秋の歌 腐肉 月の悲しみ

 アルチュウル・ランボオ: そゞろあるき

 ポオル・ヴヱルレエン: ぴあの ましろの月 道行 夜の小鳥 暖き火のほとり 返らぬむかし 偶成

 ピエエル・ゴオチェ: 沼

 エドモン・ピカアル: 池

 エミル・ヴォーケエル: 音楽と色彩と匂ひの記億

 アア・エフ・エロオル: 秋のいたましき笛

 アンリイ・ド・レニェエ: 佛蘭西の小都会 葡萄 われはあゆみき 夕ぐれ 秋 正午 告白 庭 かめ 年の行く夜

 シャアル・ゲラン: 暮方の食事 道のはづれ ありやなしや

 ギュスタァヴ・カン: 四月

 伯爵夫人マシュウ・ド・ノワイユ: ロマンチックの夕 九月の果樹園 西班牙を望み見て

 シャアル・グランムウラン: 菊花の歌

 フェルナン・グレエ: あまりに泣きぬ若き時

 スチュアル・メリル: 沈みし鐘 夏の夜の井戸

 アルベエル・サマン: 奢侈

 

 

  死のよろこび シャアル・ボオドレエル

 

蝸牛かたつむりひまはる泥土ぬかるみに、

われ手づからに底知れぬ穴を掘らん。

安らかにやがてわれ老いさらぼひし骨をうづめ、

水底みなそこふかの沈むごと忘却わすれの淵に眠るべし。

 

われ遺書をみ墳墓をにくむ。

死していたづらに人の涙をはんより、

生きながらにしてわれむしろ鴉をまねぎ、

けがれたる脊髄の端々はしばしをついばましめん。

 

あゝ蛆蟲うじむしよ。なく耳なき暗黒の友、

なれが為めに腐敗の子、放蕩はうたうの哲学者、

よろこべる無頼ぶらい死人しにんきたれり。

 

わが亡骸なきがらにためらふ事なく食入くひいりて、

死のうちに死し、魂せし古びし肉に、

蛆蟲よ、われに問へ。猶も悩みのありやなしやと。

  憂 悶  シャアル・ボオドレエル 

 

大空重く垂下たれさがりて物蔽ふ蓋の如く、

久しくもいはれなき憂悶もだえに歎くわが胸を押へ、

夜より悲しく暗き日の光、

四方よもとざす空より落つれば、

 

この世はさながらに土の牢屋ひとやか。

蟲喰むしばみの床板ゆかいたかしら打ち叩き、

鈍き翼に壁を撫で、

蝙蝠かはほりの如く「希望のぞみ」は飛去る。

 

限りなく引つゞく雨の絲

ひろき獄屋ひとや格子かうしに異らず、

沈黙のいまはしき蜘蛛の一群ひとむれ

来りてわが脳髄に網をかく。

 

かゝる時なり。寺々の鐘突如としておびえ立ち、

住家すみかなく彷徨さまよひ歩く亡魂なきたまの、

片意地に嘆き叫ぶごと、

大空に向ひていたましき声を上ぐれば、

 

送る太鼓もがくもなきひつぎの車

吾が心のうちをねり行きて、

あざむかれし「希望のぞみ」は泣き暴悪の「苦悩くるしみ

黒き旗を立つ、垂頭うなだれしわがかうべの上に。

  暗 黒  シャアル・ボオドレエル

 

森よ、汝、古寺ふるでらの如くに吾を恐れしむ。

汝、寺のがくの如く吠ゆれば、呪はれし人の心、

臨終の喘咽あへぎ聞ゆる永久とこしへへや

DE PROFUNDISデ プロフンデス歌ふ声、山彦となりて響くかな。

 

大海おほうみよ、われ汝を憎む。狂ひと叫び、

吾が魂は、そを汝、大海おほうみの声に聞く。

はづかしめと涙に満ちし敗れし人の苦笑ひ、

これ、おどろおどろしき海の笑ひに似たらずや。

 

さればよるぞうれしき。空虚と暗黒と、

赤裸々せきらゝ求むる我なれば、星の光覚えある言葉となりて

われに語らふ、其の光だになき夜ぞうれしき。

 

暗黒の其のおもてこそは絵絹ゑぎぬなりけれ。

ほろびたるものども皆覚えある形して

わがまなこより数知れず躍りてづれば。

  仇 敵  シャアル・ボオドレェル

 

若きわが世は日の光ところまばらに漏れ落ちし

暴風雨あらしの闇に過ぎざりき。

鳴るいかづちのすさまじさ降る雨のはげしさに、

わが庭に落残るくれなゐ果実くだものとてもまれなりき。

 

されば今思想おもひの秋にちかづきて

われすきくはとにあたらしく、

洪水でみづの土地を耕せば、洪水でみづは土地に

墓と見る深き穴のみ穿うがちたり。

 

われ夢むあらたなる花今さらに、

洗はれて河原となりしかゝる地に

生茂おひしげるべき養ひをいかで求めべきよ。

 

あゝ悲し、あゝ悲し。「時」生命いのちを食ひ、

黯澹あんたんたる「仇敵きうてき」独り心にはびこりて、

わが失へる血を吸ひ誇り栄ゆ。

  秋の歌  シャアル・ボオドレェル

 

     一

 

吾等たちまちに寒さの闇におちいらん。

夢の間なりき、強き光の夏よ、さらば。

われ既に聞いて驚く、中庭の敷石に、

たきゞを投込むかなしきひゞき

 

冬の凡ては――憤怒いかり憎悪にくしみ戦慄をのゝき恐怖をそれや、

ひられし苦役くえきはわが身のうちに返り来る。

北極の地獄の日にもたとふべし。

わが心は凍りて赤き鉄の破片かけらよ。

 

われ戦慄をのゝきてたきゞを投ぐる響をきけば、

断頭台くびきりだいを人築く音なき音にもまさりたり。

重くして疲れざる戦士の槌の一撃に、

わが胸は崩れ倒るゝ城の観楼歟ものみか

 

かゝるものうき響に揺られ、揺られて、何処いづこにか、

いともせはしくひつぎの釘を打つ如き……そは、

昨日きのふと逝きし夏を葬る声にして、秋来ぬと云ふ怪しき此声は、

さながらに死者を葬る鐘にも似たり。

 

     二

 

きれ長き君がまなこの緑の光ぞなつかしき。

いと甘かりし君が姿もなど今日の我にはにがきや。

君がなさけも暖かき火のほとりや化粧のへやも、

今のわれには海に輝く日にかず。

 

さりながら我を憐れめ、やさしき人よ。

母のごとかれ、忘恩のともがら、ねぢけしものに。

恋人かいもとか。うるはしき秋のさかえや、

又沈む日の如くつかの間の優しさ忘れたまふな。

 

定業さだめは早し。むさぼる墳墓はかしこに待つ。

あゝ君が膝にわがひたひを押当てて、

暑くして白き夏の昔を嘆き、

やはらかくしてきいろき晩秋の光をあぢははしめよ。

  腐 肉  シャアル・ボオドレェル

 

わが魂などか忘れん、涼しき夏の

晴れしあしたに見たりしものを。

小径こみちかど、砂利をしとね

みにくきしかばね

 

毒に蒸されて血は燃ゆる

淫婦の如くあし空ざまに投出なげいだ

此れ見よがしと心憎くも

汗かく腹をひろげたり。

 

照付てりつくる日の光自然をこや

百倍のやしなひに

凡てを自然に返すべく

このしかばねを焼かんとす。

 

青空は麗しき脊髄を

咲く花かとも眺むれば、

烈しき悪臭野草のぐさの上に

人の呼吸いきをもとゞむべし。

 

青蠅のむれ翼を鳴らす腐りし腹より

蛆蟲うじむしの黒きかたまり湧出でて、

濃きうみの如くどろどろと

生ける襤褸らんるをつたひて流る。

 

此等これらのものすべて寄せては返す波にして、

鳴るや、響くや、ゆらめくや。

吹く風に五体はふくらみ

生きこゆるかとあやしまる。

 

流るゝ水また風に似て

天地てんち怪しきがくをかなで、

ふしづく動揺うごきふるひの中なる

穀物の粒の如くに舞狂へば、

 

忘られし絵絹ゑぎぬおも

ためらひ描く輪郭の、

絵師はだ記憶をたどり筆をとる、

形は消えし夢なれや。

 

いは彼方かなたに恐るゝ牝犬めいぬ

いらだつまなこに人をうかゞひ、

残せし肉をしかばねより

再び噛まんと待構まちかまふ。

 

この不浄この腐敗にも似たらずや、

されど時として君もまた

わがの星よ、わがせいの日の光。

君等、わが天使、わが情熱よ。

 

さなり形體けいたいの美よ、そもまたかくごとけん。

終焉の斎戒果てて、

肥えし野草のぐさのかげに君は

白骨のうちに苔むさば、其の時に、

 

あゝ美しき形體よ。接吻くちづけに、

君をば噛まん地蟲ぢむしに語れ。

分解されしわが愛の清き本質まことと形とを

われは長くもたもちたりしと。

  月の悲しみ  シャアル・ボオドレエル

 

月今宵こよひいよゝものうく夢みたり。

おびたゞしき小布団クッサンかざす片手も力なく、

まどろみつゝもそが胸の

ふくらみ撫づる美女のごと

 

軟かき雪のなだれの繻子しゆすの背や、

仰向あふむきてよこたはる月は吐息といきも長々と、

青空に真白まつしろく昇る幻影まぼろしの、

花の如きを眺めてやりて、

 

ものうき疲れの折々は下界の面おもに、

消え易き涙の玉を落す時、

眠りの仇敵きうてき沈思ちんしの詩人は、

そがてのひら猫眼石ねこめいし破片かけらときらめく

蒼白き月の涙を摘取りて、

「太陽」のまなこを忍びて胸にかくしつ。

  そゞろあるき  アルチュウル・ランボオ

 

蒼き夏のや、

麦の香に野草のぐさをふみて

小みちを行かば、

心はゆめみ、我足わがあしさわやかに

わがあらはなるひたひ

吹く風にゆあみすべし。

われ語らず、われ思はず、

われたゞ限りなき愛、

魂の底に湧出わきいづるをおぼゆべし。

宿なき人の如く

いや遠くわれは歩まん。

恋人と行く如く心うれしく

「自然」と共にわれは歩まん。

  ぴあの  ポォル・ヴヱルレエン

 

しなやかなる手にふるゝピアノ

おぼろに染まる薄薔薇色うすばらいろゆふべに輝く。

かすかなる翼のひゞき力なくしてこゝろよ

すたれし歌の一節ひとふし

たゆたひつゝも恐る恐る

美しき人の移香うつりがこめし化粧のにさまよふ。

 

あゝゆるやかに我身をゆする眠りの歌、

このやさしき唄のふし、何をか我に思へとや。

一節毎ひとふしごとに繰返す聞えぬ程のREFRAINルフラン

何をかわれに求むるよ。

聴かんとすれば聴く間もなくその歌声は小庭のかたに消えて行く、

細目にあけし窓のすきより。

  ましろの月  ポオル・ヴヱルレエン

 

ましろの月は

森にかゞやく。

枝々のさゝやく声は

しげりのかげに

あゝ愛するものよといふ。

 

底なき鏡の

池水いけみづ

影いと暗き水柳。

その柳には風が泣く。

いざや夢見ん、二人して。

 

やさしくも、はてし知られぬ

しづけさは、

月の光の色に浸む

夜の空より落ちかゝる。

 

あゝ、うつくしの夜や。

  道 行  ポオル・ヴヱルレエン

 

寒くさびしい古庭に

二人の恋人通りけり。

 

まなこおとろへくちびるゆるみ、

さゝやく話もとぎれとぎれ

 

恋人去りし古庭に怪しや

昔をかたるもののかげ。

 

――お前は楽しい昔の事を覚えておいでか。

――なぜ覚えてゐろと仰有るのです。

 

――お前の胸は私の名をよぶ時いつも顫へて、

お前の心はいつもわたしを夢に見るか。――いゝえ。

 

――あゝ私等わたしら二人くちと脣とを合した昔

あやふい幸福の美しい其の日。――さうでしたねえ。

 

――昔の空は青かつた。昔の望みは大きかつた。

――けれども其の望みは敗れて暗い空にと消えました。

 

烏麦繁つたなかの立ちばなし、

夜よりほかに聞くものはなし。

  夜の小鳥  ポオル・ヴヱルレエン 

  鴬は高き枝より流れに映る己れが姿を眺め水に落ちしと思ひてかしわの木の

  頂にありながら常に溺れん事のみ恐れき。(シラノ・ド・ベルジュラック)

 

霧たちむる河水かはみづに樹木の影は

  煙の如くに消ゆ。

その時影ならぬ枝のあひだより何処いづことも知らず

  の小鳥は泣く。

あゝ旅人よ。いかに此の青ざめし景色は、

  青ざめし君がおもてを眺むらん。

いかに悲しく、溺れたる君が望みは

  高き梢に嘆くらん。

  暖き火のほとり  ポオル・ヴヱルレエン

 

暖き火のほとり、燈火ともしびのせまきかげ、

片肱かたひぢつきてかしらさゝふる夢心地、

愛する人と瞳子ひとみを合すその眼とその眼、

語らふ茶の時、とざせる書物、

日の暮れ感ずるやさしき思ひ。

くらきかげ、静けき夜をまつ時の

いふにいはれぬ心のつかれ、

あゝわが夢心地、幾月のまちこがれ。

幾週日いくしうじつ遣瀬無やるせなさ、

なほひたすらに其等それらを追ふ。

  返らぬむかし  ポオル・ヴヱルレエン

 

あゝ遣瀬やるせなき追憶の是非もなや、

衰へ疲れし空にひよどりの飛ぶ秋、

そよぎて黄ばみし林に、

ものうき日光ひかげ漏れおつる時なりき。

 

胸の思ひと髪の毛を吹く風になびかして、

唯二人君と我とは夢み夢みて歩みけり。

ひらめ目容まなざしとわがかたにそゝがれて、

輝く黄金こがねの声は云ふ「君が世の美しき日の限りいかなりし」と。

 

打顫うちふるふ鈴ののごとさわやかに響は深く優しき声よ。

この声に答へしは心怯おくれし微笑ほゝゑみにて、

われ真心の限り白き君が手にくちづけぬ

 

あゝ、咲く初花の薫りはいかに。

優しき囁きに愛する人の口より漏るゝ

しかり」と頷付うなづく初めての声。あゝ其の響はいかに。

  偶 成  ポオル・ヴヱルレエン

 

空は屋根のかなたに

  かくもしづかにかくも青し。

樹は屋根のかなたに

  青き葉をゆする。

 

打仰うちあふぐ空高く御寺みてらの鐘は

  やはらかに鳴る。

打仰ぐ樹の上に鳥は

  かなしく歌ふ。

 

あゝ神よ。質朴なる人生は

  かしこなりけり。

かの平和なる物のひゞきは

  街よりきたる。

 

君、過ぎし日に何をかなせし。

  君今こゝに唯だ嘆く、

語れや、君、そもわかき折

  なにをかなせし。

  沼  ピエエル・ゴオチェ

 

茂りし林の奧深く

黒く声なく沼は眠れり。

一度ひとたび微風そよかぜは水のおもてを拭はず、

いさゝかの波の動きも其の底より起りし事なし。

 

枯れたる枝の繁きがもとに

空には隠れ日に遠く、

重き月日の平和の底、

山毛欅ぶなのきの暗き木蔭に沼は眠れり。

 

秋のあらしに、影の中うち

ころも剥がれし梢は、

濁りて曇りし鏡の上に、

ひやゝかなる其のかんむりをぬぐまもあらず。

 

おつる木の葉のひとひらごとに

皺の刻みは眠れる水にひろがりて、

凋落てうらくを迎ふる水のおもてに、

おつる木の葉はゆるやかに流る。

 

一羽の小鳥も水飲まんとてきたりし事なく、

いかなるまなこも其の水底みなそこうかゞひし事なし。

――茂りし林の奥深く

黒く声なき沼は眠れり。

  池  エドモン・ピカアル

 

わが胸は湿りし土地に水は死したる古池か。

凍りし風其処そこに絶え間なき叫びを放つ。

恐ろしき襲撃の跡をとゞむる落雷の木立こだちに、

岸のながめの哀れなるかな。

 

忘られし恋と消失きえうせし友のよしみと、

むご運命さだめのいたましき宝物はうもつは、おもむろろに

黒き泥土でいどと色さめし花と共に、

眠りたる此の花瓶はながめの底に朽ちて行く。

 

陰鬱なる一隅いちぐうかな。されどせきたる此深淵のうちよりは、

もしそれ、吾が弱き心、測量の綱をなげうちて、

沈滞の濁水だくすゐを突如として打つ時は、

 

震動起りて一道いちだう光閃ひらめき渡り、

底知れぬ愁情しうじやうを照す水百合の花の星、

数ある記憶の明るき色、水のおもてに浮びてきたる。

  音楽と色彩と匂ひの記憶  エミル・ヴォーケエル

 

音楽と色彩と匂ひの記憶われに宿る。

きし日を呼び返さんとせば、

花をつみとれ。われに匂ひの記憶あり。

音楽の記憶われに宿れば、

怪しきりつのうごきは、

ノスタルヂヤのわが胸に昔をさます。

花をつみとれ、がくかなでよ。

何人なんぴとか、何事か。忘れしものを思起すに、

われには色の記憶あり。

われ思出おもひいづ、くれなゐ黄昏たそがれに、

わが恋人は打笑うちゑみわれは泣きけり……

われには色の記憶ぞ宿る。

  秋のいたましき笛  アア・エフ・エロオル

 

秋のいたましき笛は泣く、

おだやかならぬ夕まぐれ。

空は涙をすゝる時

ぬれし樹木はをのゝきぬ。

 

花はおもむろに枯れしぼみ、

小鳥は飛び去る彼方の野辺、

そこには四月の色もある

うれしき歌の聞ゆべし。

 

寒さ恐るゝ君は悲しく、

わが生命いのちの君は小径こみちを行く。

色蒼ざめて旅する君は

声も曇りし歌を求むる。

 

あゝ二人して喜び聴きし其の歌は

秋と云ひなば返りじ。

何時いつの日かわれは又笑ひて眺めん、

今ははや涙となりし君がまなこを。

  仏蘭西の小都会  アンリイ・ド・レニェエ

 

起き出でてわれあしたに街に出づれば

道の敷石に足音高くひゞきて

太陽の若き光は古びたるいらかを暖め、

Lilasリラの花は家々の狭き庭に咲く。

 

人の歩みにさきだちて足音の反響は

梢そびゆる苔の土塀の長きに伝はり、

磨り減りし敷石は砂道に連りて

場末の町より野辺に走れり。

 

やがて険しく登る山道やまみちより

日に照らされて岡のふもとに、

悄然として狭く貧しく静なる我が生れし街の

見馴れたる懐しき屋根の見ゆるかな。

 

長々と彼処かしこに我か街はよこたはる。流るゝ河ありて、

その水は二度居眠りて二つの橋の下を過ぎ、

散歩の道に茂りし木立こだちは街にそびゆる

鐘撞堂かねつきだうの石と共に古びたり。

 

うらゝかに澄渡りて狭霧さぎりなき空気に

わが街は太き響をわれに送りきたる。

洗濯屋のきねと鍛冶屋の鎚の音、

打騒ぐ幼児わさなご甲高かんだかくやさしき叫び。

 

変りなきわが街の浮世には思出おもひでもあらず。

繁華光栄の美麗もなくて、

わが街はいつの世までも

今見る如くちさき都に過ぎざらん。

 

わが街は耕せし野辺、高原、荒れし野に、

又は牧場のなかに立つ数ある街の一つなれば、

いづれとわかぬちさきフランスの街の名に、

旅する人はわが街の名さへ知らで過ぎぬべし。

 

然れどもあしたより夕に移る散歩そゞろあるき

長き思ひの一日ひとひは過ぎて、

麦の畠のかなたに日はかくれ、

林に通ふ細道くれそめて、

 

物のあいろもわかぬよる

歩む足音険しき道にとゞろきて

疏水アンクリューズの水の音遥おとはるかに聞え

吹く風運河カナルの木立に騒ぐ時、

 

つかれて我は帰りくる街近く

ふと仰ぐあたりの家の窓

帷幕とばりさへなきガラス越し、ランプの壺に

石油の黄金色こがねいろなす燈火ともしびの燃ゆるを見れば、

 

杖にてさぐる夜の道、おのづと足も急がれて、

われ思ひ知る。わが墳墓の国土、

懐しきまなこに闇のうちよりいとも優しく

わが手をとりて引くが如しと。

  葡 萄  アンリイ・ド・レニェエ

 

死なんとばかり我は悩みし其の夢知れる恋人よ。

さまざまのかなはぬ望みに飢えつかれ、

葡萄の棚にみのりたる葡萄つまんと我は久しく、

種まく人の如くいたづらに腕を振りけり。

 

しかるに君は優しき夢に微笑みて眠り給へる、

其のすげなくも静なる眠りぞ憎き。

さわやかなる朝風は爽なるあしたのひゞきを伝へ、

くれなゐ東雲しのゝめかけて明け行けり。

 

いざ行かん。望の光我等を導く美しき小山のかたに、

苗植ゑしわが手づからに待焦まちこがれたる果物と

うつくしき葡萄の房をわれは摘むべく。

 

されどもし、いさゝかの草の芽だにもなかりせば、

待つと云ふかのわざはひの夢のうち、いつも変らぬ

空しき夜明よあけを眺むべく夕暮に山を下らん。

  われはあゆみき  アンリイ・ド・レニェエ

 

久しくもわれは歩みき。落ちかゝる

朝見し夢のかずかずも早や既に消えんとす。

そは君ならずや。一筋道の其のはてに美しき眺めよこた

遥なるやかたかたにわれを導きたまひしは。

 

かしこには不可思議なる月の光に照されて

眠れるいにしへの花園の咲きてむらがる花の中

屋根に鐘鳴る高楼たかどのに聳えし塔の数多く

美しき異禽いきんを養ふ家も見えたり。

 

錦の小禽ことりその棲木とまりぎに居眠れば

池の底には黄金こがねうおのひらめきて

噴水のほとばしり切々せつせつとして囁きたり。

 

苔を踏む君が歩みに君がもすそは鳴り響きて、

見えざる鍵の秘密を知れる柔かき

君が雙手もろてはわが手を取りてたすけしものを。

  夕ぐれ  アンリイ・ド・レニェエ

 

夕暮の底遠くして海のほとりに

われかつて都をのぞみき。

あざやかなる銀色ぎんしよくめたるくれなゐ

夕暮の底遠くして海のおもてに

その影を流す大理石と黒鉄くろがね

都をわれは嘗てのぞみき。

扉と家をもわれは見たりき。

(血の夕暮はその時海にあり)

風はあかる煖炉だんろの火も見ゆる

戸口の篝火かゞりびをいらだゝしめ

はたとばかりにとぼそをとざしぬ。

 

「死」と「望み」とは過ぎ去りぬ。

暗き空のした、褪めたる銀色ぎんしよくの海のおもて

その影と影とは漂ひぬ。

わが身には此の時よりして

海に昇る夕暮の悲しかりけり。

  秋  アンリイ・ド・レニェエ

 

枝より枝を渡る風に

あかるき夏とまた暗き日に、

黒きふくろと白き鳩鳴く

老木おいきの梢をゆする。

 

木の葉にしたゝる雨の声、

やさしくも又ものうきは

さすらふ身には一歩々々ひとあしひとあし

「悲しみ」の忍び泣くと聞かれずや。

 

緑より黄に、黄よりしてくれなゐ

黄金色こがねいろより黄金こがねのいろに

木々の梢の老い行けば、われは

秋より秋に散りて行くわが「過去」を思ふ。

 

林は聳えたるいたゞきよりして頂に

くれなゐかしと緑の松を動かせども

吹く風はおごそかに声を呑みたり、

かの「くるしみ」と「海」の如くに。

  正 午  アンリイ・ド・レニェエ

 

正午まひるなり……真白き道は海に走れり。

あかるき日の光窓よりりて、

まだ暑からぬ部屋の床板ゆかいたに、

出入でいりの人の歩みにつきて落散おちちりし

乾きてかゞやく砂を照す。

日曜と夏との匂ひに空気はさわやかなり。

日にやけし布と松脂まつやにの薫りよ。如何いかんとなれば、

布荒き日蔽ひおひには枝にさがりし

松の実の影描かれたり。

しづけさはそれさへもいと遠く思はるゝ迄のしづけさに、

おもひは去りて心空しき折からに

しづしづと身を動かしてPARRESSEものうしと呼ぶ女姿をんなすがた

更によくみし休みをあぢははんと、

伏目遣ふしめづかひの優しきまなこを閉ぢ合せ、

長々とよこたはる柳細工やなぎざいくの椅子の上、

真裸まはだかの快さ、人目に触れぬ嬉しさにとほゝゑむ。

  告 白  アンリイ・ド・レニェエ

まことの賢人は永遠とこしへの時のあひだには

一切の事すべて空しく愛といへどなほ

空の色風のそよぎの如くゆべきを知りて

砂上さじやうに家を建つる人なり。

 

されば賢人は焔の燃え輝き消ゆるが如くに

開きては又散る薔薇さうびの花を眺め、

殊更に冷静沈着の美貌を粧ひて

浮世の人と物とに対す。

 

疎懶そらんの手は曉の焔と

夕炎ゆふばえの火をあふらざれば

夕暮は賢者に取りていたましき灰ならず、

明け行く其の日は待つ日なり。

 

移行くもの消行くもののうちにありて

し過ぎ行く季節に咲く花の枯死かれしすは、

これそが定命ぢやうみやうとのみ観じ得なば

亦我も賢者の厳粛にや倣ひけん。

 

しかるに纏綿てんめんたる哀傷の心せつにして

われは悔いと望みと悲しみに

又慰め知らぬ悩みの闇の涙にくれて

わが身をひしぐ苦しみの消ゆる事のみ恐れけり。

 

いかにとや。砂上の薔薇さうび香気かんばせ

吹く風のさわやかさ、美しき空の眺めさへ

永遠とこしへの時のあひだにも一切の事凡て空しからずと、

我が哀れなる飽かざる慾の休み知らねば。

  庭  アンリイ・ド・レニェエ

 

庭によ。黄昏たそがれは庭に木の葉と

土と花、潤ふ影との薫る時なり。

揃ひし黄楊つげの並木の蔭、狭き小径は行く程に、

いよ狭くいよ安らかに君が歩みを導かん。

 

庭の外なる野や道やあやふき辻や、

鏡なす池の水とて何かあらん。

やがてしをれん其の茎に血と咲く薔薇ばらのみ

唯わづかあぢきなき君が浮世の形見なり。

 

ありとあらゆる「過ぎし日」は活けるにつれ

庭のうちにぞ蘇る。敵意ある群集は

肥えし野草のぐさや濡れし道暗き林にはびこるを、

 

こゝのみは静けく優しき庭の隅。

土塀に添へる果樹の列、黒き腕長く差伸べて

君をば守る此処ばかり心安けく歩めかし。

  缾  アンリイ・ド・レニェエ

 

沈黙の碑、美の墳墓よ。

「悲しみ」は其のかめに灰となりにし

夏の果実と秋の葡萄を収めたる

この懐しき重荷のために声を呑みたり。

 

消えし時間と死したる季節と、

一度ひとたびひつ栄えつ、烈しく強く豊なる

薫をかぎしさまざまの思ひ出、

猶其の底に残りてあれば、そがために

 

君は夏の形見の灰を収めし黄金こがねかめたづさへて、

いと暗き青春に彷徨さまよふ。あゝ「悲しみ」と呼ぶ君、

道行く女姿よ。われ君を迎ふるも亦此れが為め、

沈黙の碑よ、美の墳墓よ。

  年の行く夜  アンリイ・ド・レニェエ

 

背の高いランプが

わたしのうつむいた机の上

開いた書物のなかに突立つて

音もなく燃えてゐる。

何かぢつと見詰めてゐるやうな

物哀れな老耄らうまうした「月日」が

書齋の中をあちこち彷徨さまよひ歩く

其の足音ももう聞えない。

 

低くかざす其手を暖めようと

あかるい煖炉の傍に坐りかける老耄した「月日」は、籏、

着てゐる冬と云ふ灰色の着物の為めに、

何となく謙遜らしく我慢づよく

しかも又真面目らしく見えた。

丁度ちやうど私がおもひの底を過ぎて

其の灰の上を歩くやうに思はれる軽い足音に、

老耄した「月日」の姿は

なんとなく優しく又なんとなく厳格おそかにも見える。

 

夏と秋との手籠は

向うの壁の上に掛けられてあるが、

時々に其の籠を編む柳の枝の弾けて破れ、

茎も葉も枯れてしまつた花瓶はながめ

蘆をば風がゆすぶる。

其の度々たびたびに私ははつと思つて

耳を澄まして

老耄した「月日」の顔を眺めると、

の老女は灰色の着物を着たまゝ身動きもせず、

真直まつすぐに伸びて鞭のやうに閃く

柔かな柳の若枝の一條一條ひとすぢひとすぢ折り曲げて、

笑つた夏の日

花籠を編みながら歌つた

その忘れた昔の歌をうたひもせぬ。

 

然しその絲車ばかりは

何処かで蜂の鳴くやうに、

高く低く遠く近く

つぶやき唸つて

あたか黄昏たそがれの絲をつむぐがやう。

高い処にかゝつてゐる時計は

鱗形うろこがたほりをした黄楊つげの箱から、

消え行く時間に又時間を加へ、

夜半よはの十二時になるまで

時は次第々々に進んで行く。

 

すると桃色と灰色の着物きて

煖炉の傍に黙つて坐つてゐた「月日」は

立上つて消えた火を掻き起す。

希望の焔パツと燃え上つて、

黒ずんだ敷瓦を赤く色付け、

こゞえた「月日」の手先をあたゝめた。

私は早くも這入はいつて来る「時」の入口から、

「月月」の新しい顔がわたしの思想に向つて

微笑ほゝゑんでゐるやうな心持がした。

  暮方の食事  シャアル・ゲラン

 

 歌ひながらに恋人は、飛ぶ蜂のつばさきらめく光のかげ、暮方の食事にと、庭の垣根の果実くだものと、白きパン、牛の乳とをとゝのへ置きて、いざや、寄添ひて坐らんと、わが身のほとりに進み来ぬ。

 

 雨は晴れたり。空気はうるほひ、木立こだちの匂ひはみなぎりて、明け放ちたる窓の外、木葉このはに滴る雫の音は、へやのすみ、いづこと知らず啼きいづる、蟲の調しらべにまじりたり。

 

 食卓にひぢつきて、さゝやかなる料理の皿もその儘に、二人ともども思ひに沈めば、言葉もなくだ折々に、恋人は、吹く風のつめた吐息といき打顫うちふるふ、あらはなる其の腕を、わがくちびるの上によこたへき。

 

 くもりなき水晶の花瓶はながめや。可笑しげにふくらみて、二人の顔のうつりたる、まろき其横腹のおもてには、窓なる額縁に限られて、森の茂りと、古里の空のこそゑがかれたれ。

 

 かしこにぞ、秋の空はくれなゐに悲しめる。あゝ、長閑のどかなるなつかしき此の恋の一刻いつこくよ。いつしかに黄昏たそがれは、花瓶はながめおもてにうつる空の色、二人が瞳子ひとみをくもらして、さゝやかの二人が世界の、物の彩色あいろを消して行く。

 

 わが顔おしあてし、恋人の胸はとゞろけり。吹く風ぬれたる木立を動かせば、おもひに沈める二人は共にとさめて、の実の庭に、おつる響に耳を澄ます。

 

 かくて、吾等二人は、過来すぎこかたをふりかへる旅人か。また暮れ行く今日けふ一日ひとひを思ひ返して、燃えづる同じ心の祈祷と共に、その手、その声、その魂を結びあはしつ。

  道のはづれ  シャアル・ゲラン

 

道のはづれに

日はしづむ。

手を取らん、

接吻くちづけせしめよ。

 

疑へる心の如く

この泉は濁りたり。

渇けるわれに

君が涙をのましめよ。

 

日は暮れたり。

鐘が鳴る。

われにあたへよ、

君が胸うちふるふその恋を。

 

道はくだる。

幾里と長き真白の帯。

青き小山の

坂道つきぬ。

 

たゝずまん。行手ゆくてたる

森をながめよ。

屋根はかすみて

村は夢む。

 

わが眠らんとするは

彼処かしこなり、とぼそのかげ、

おつる木の葉にうづもるゝ

君が黒髪にいだかれて。

  ありやなしや  シャアル・ゲラン

 

よしや反響のきかれずとも、物には凡て随ふ影あり。

夜来よるきたれば泉は星の鏡となり、

貧しきものも人のめぐみに逢ひぬべし。

澄みて悲しき笛の土墻ついぢは立ちて反響を伝へ、

歌ふ小鳥は小鳥をさそひて歌はしめ、

蘆の葉は蘆の葉にゆすられて打顫うちふるふ。

憂ひは深きわが胸の叫びに答へん人心ひとごころ

あゝ、そはありやなしや。

  四 月  ギュスタアヴ・カン

 

あゝ花開くうつくしき四月よ。

されどし我か恋人われより遠く、

北の国なる霧の中にあらば、

何かせん、四月の新しき歌、

四月の白きリラの花、野ばらの花も、

梢を縫ひて黄金こがねと開く四月の日光ひかげも。

あゝ花開くうつくしき四月よ、

わが恋人にまた逢ふ事の嬉しきかな。

あゝ花開くうつくしき四月よ。

恋人きたれり。

四月のリラの花、黄金こがねなす四月の日光ひかげ

始めてわれを慰めん。われ四月に謝す。

あゝ花開くうつくしき四月よ。

  ロマンチックの夕  伯爵夫人マシュウ・ド・ノワイユ

 

 夏よ久しかりけり、われ夏の恵み受けじといどみしが、今宵は遂に打ち負けて、身中みうちつかるゝまでのこゝろよさ。

 

 われ小暗をぐらきリラの花近く、やさしきとちの木蔭に行けば、見ずや、いかで拒み得べきと、わが魂はさゝやく如し。

 

 よろづの物われをまどはしわれを疲らす。行く雲軽く打顫うちふるひ、慾情の乱れ、ゆるやかなる小舟の如く、しめやかなる夜に流れ来る。

 

 列車は過ぎたり。もゆるよろこびよ。そのひゞき空気をつんざく。神経はやぶれて死ぬべくも覚えつゝ、いかにせん、又生きんとする願ひになやむ。

 

 あゝわれ此宵こよひ、わが肩によりかゝる、若き男の胸こそ欲しけれ。ロマンチックなる事柳のかげにも優りたる吾心わがこゝろものうき疲れを、かの人は吸ふべきに。

 われの人に、「いざなひしは君ならず、そはあらゆる夜のさま、わが胸をして鳩の如くにふくれしむ。

 

 されど君はあまりに若ければ、黄金こがねの血潮と溶け行く心、骨に徹する肉のかなしみ、われそを訴へんよるにのみ。

 

 あらゆる樹木は官能鋭く、あらゆる夜は打ち解けて、絶えざる啜り泣きの声、煙りし空に上り行けり。

 

 うるはしきよるのみ眺めて語りたまふな。いたましくも悩める君をのみわれは求むる。狂ひて叫ばん脣に、消えもせなん心して、わが愛する人よ。泣きたまへ。唯泣きたまへ。」と語るべし。

  九月の果樹園  伯爵夫人マシュウ・ド・ノワイユ

 

 炎暑は地平線をくもらしたり。夏のあつさ。やはらかき毛織物。空気は重くとざして隙間もなし。いさましくはた織る響の如く、蜜蜂の群は果物の匂ひにかしましくも喜び叫ぶ。われその蒸暑むしあつき庭の小径こみちを去れば、緑なす若き葡萄の畠中はたなかの、こゝは曲りし道のはて。家の戸口は開かれて、くはすき如露じようろなぞは、きいろ日光ひかげに照されし貧しき住居すまひの門の前、色づく夕暮のうちよこたはりたり。

 

 われ、涼しき隠家かくれがの中に進みれば、果実の匂のいかに清涼なる。思はずためらひて、耳をすます。ひやゝかなる圓天井まるてんじやうの陰には、そよとの風もなく、あたり蕭條しめやかに、心おのづか長閑のどかなれば、屋根低く涼しき尼寺か。夏の匂のみなぎり流るゝ幽暗なる地下室にもたとふべけん。庭と水との吐く熱気は、こゝに閉されて休みいこへり。あゝ。寺院の静寂、清浄の安眠よ。

 

 新しき梨と林檎の実とは、果樹園の群を去りて家の棚の上、空しき影のうちに熟してあり。その酢くして甘きあぢはひはしたゝり、香気は池の水の如くに沈みて動かず。鳴きつかれし細腰蜂ゲエプの唯一つ、物音遠く静かなる、狭き硝子窓の四角なるおもてに、黒き点をゑがきたり。

 

 おびたゞしき果実の匂ひかな。この匂は藍色の大空と、薔薇色の土とを以て、暑き夏の造りかもせしものなれば、うつくしき果実の肉のうちには、明け行く大空の色こそ含まれたれ。心も清く気も新なるよろこび。その匂、その光、その流れ、大気と土壌の戯れより生れたる濃厚の液汁、溶けたる砂糖。手桶の底に生れたる君こそは、冷たき藁の上なる小さき神なれ。木の樽と鉄のすき、緑色なる如露じようろの友よ。いざ、深密なる君が匂ひの舞踊る、甘き輪舞ロンドの列にわれを取巻け。

 

 あゝ、日毎ひごと暮るればこゝに来て、庭造る愛らしき器物うつはもの手籠てかご如露じようろの傍近く、空想にふければ、あゝわが若かりし折の思出おもひで。幸福を歌ふ啜りなきは、心の底よりほとばしづ。われは静寂の来りて宿る果樹園の、うつくしく穏かなる生活を、今ぞ見たり、今ぞ知りたり、悟りたり。わが生命いのち、そが為めにやかれたるおそろしき思ひを、いざなげうたん。

 

 慾望よ、われを去れ。われは十二の月々に鴬と駒鳥と、大麦のかんむりつけし神々と、額緑ひたひみどり夕蝉ゆふせみと、いと高くいと優しく、また美しく静かなる、女神めがみPomoneポモン御手みてによりて、匂はされたる大空の見渡す晴光はれと、共に踊らん。

  西班牙を望み見て  伯爵夫人マシュウ・ド・ノワイユ

 

 乾きし庭のおもてに日は照りて、夕立にうたれたるダリヤの初花はつはなは、緑なす長き茎をば白き家の壁にせかけたり。海はとゞろきわたりて、若き牧神フオーンの如く吹く風は、其手そのておさゆるころもを剥ぎて、路上に若き女をはづかしめんとす。あたゝかく、うつらうつらと暮れて行くBasqueバスクの里の夕まぐれ。われは彼方かなたに、忽如こつじよとして入日いりひそまりかゞやける、怪異なる西班牙エスパンユをこそ望み見たれ。

 

 地平線の上にかひなを長くさしのべなば、われはもゆるかの土と紅色くれなゐ柘榴ざくろとに触れもやせん。金光燦爛きんくわうさんらんたる国土かな。鳥飛ばず、曇りもせず、色もあせざる空のした。乾きてきいろTobosoトボソの谷の、身も焼けぬべきそゞろ歩きよ。唐辛たうがらし紅色くれなゐと、黄橙おれんじの焔の色に、絹の衣裳を染めなして音騒がしき西班牙エスパンユの、いらだつ舞ひのとゞろきや。又われは聞かずや。血まぶれのTourbadourトルバドル華美はでないさみの若者が、ほふ牡牛をうしArenneアレヱヌの桟敷も崩れん叫び声。

 

Toledeトレド Andarousieアンダルジーの国々よ。燃上る其の声なき狂熱を、君いづこよりかもたらせし。おそろしき癡情ちじやうの狂ひかな。いとしの血に渇きたるPasiphaeパジファエは命あらばさぞと覚ゆる壮漢ますらをが、刺されて流す血にひて、情慾と敬神とのおもひを合せ味ひしが、

 

 わが身はこゝに佛蘭西フランスの、やさしき大気のうちにつゝまれて、心おどろき胸重し。ほゝゑめる静けきBasqueバスクの山と水。雲は集りて、Guetharyグタリーのいたゞきにいこへり。われRodrigueロドリグを思ひ、聖女Thereseテレスを思ふ。さわやかなる匂を帯びて夕暮は、影と光に色ある砂を混ずる時、甘きタマリの一株毎に並びたる、けはしき山の、うしろよりIrunイランをさして行く汽車の笛の響の聞えたり。

 

 神聖なる西班牙エスパンユ。あゝ今宵われ、君得まく思ふ心の乱れに堪へぬかな。

  菊花の歌  シャアル・グランムウラン

 

だりやの花しをれ葡萄畠の取入れ終りて、

にあかぬしぎの鳴くおとも絶えにけり。

さまざまなる果実このみことごとく熟し

木苺きいちご実摘尽つみつくされて花園今はあれにけり。

 

空かきくもりて霧立ちまよへば、

かの暮方くれがたの懐しさと寂しさとは夜明の空にも漂ひ

黄ばみし芝生に薔薇さうびは落ちて

その花びらの跡だにもなし。

 

さりながらこの揺落えうらくとこの風と、

またこの悲しき日かげに灰色したる空こそよけれ。

菊の花にはいとはしき蝿と、

蛾の接吻くちづけもなければ。

 

霜枯れしくさむらにそもこの花のひらめきいづ

清くも澄みし黄色くわうしよく橙黄色とうくわうしよくの目ざましや。

そのなか東雲しのゝめの霞とばかり

垂れて緋総ひぶさに似るもあり。

 

さればや君が襟元黒髪にたばさむ花も

野路のぢ菊花きくくわのあざやかに色もさまざまめづらしければ、

よしや手づから恋しき人の捧げて来つる花束とても、

かの有りふれし巷の花にてあらば何かせん。

 

誇顔ほこりがほなる百合の花、ひやゝかに造りしやうなる椿の花束、

なんとなく恐しき罪の戯れいざなふを、

野にさく菊の花束は露持つ冷き風にゆらめきて、

蒸暑き夜宴やえんの都には因縁ちなみなし。

 

都の人の寒さに弱き歩みは早くも火を追ひ、

去りて跡なき荘園さうゑんのしづけき小径こみち

風の嘆きのさびしさに、薄らぐもりの空を見て、

この花ひとり安らかに咲きぞみだるゝ。

 

そは唯詩人のみ。十一月葡萄のはたも牛飼ふ野辺も黄ばむ時、

静かに来りて菊の花打眺うちながむるは唯詩人のみ。

心なき世のまじはりみおそれ

胸打明けし友のいほりをたづぬる如く。

  あまりに泣きぬ若き時  フェルナン・グレエ

 

わけなき事にも若き日は唯ひた泣きに泣きしかど、

その「哀傷」何事ぞ今はよそよそしくぞなりにける。

哀傷の姫はたへなる言葉にわれをよび、

小暗をぐらきかげにわれをまねぐもあだなれや。

わがまなこ、涙は枯れて乾きたり。

なつかしの「哀傷」いまはあだしひととなりにけり。

をりもしあらば語らひやしけん辻君つじぎみ

寄りそひ来ても迎へねば

わかれしのちは見も知らず。

何事もわかき日ぞかし。心と心今は通はず。

  沈みし鐘  スチュアル・メリル

 

われは過ぎ去りし太古の世の君王くんわうにやあらむ。

其国そのくにの都は海の底に沈みて音もなし。

黒がねの声なき鐘も過ぎにし世には幾たびか

響も高く幾代の春を告げわたりしに。

 

われは幾代のむかし消え失せし

あまたのきさきの名をも知りたりけむ。

そは静けき夜半よはに散り失せし

しをれたる花にも似たりけり。

 

わが尊き宝を積み載せし重き船

沈みて行きしはてはいづこぞ。

その時よりして我は波の底深く宝を探る

狂へる人とこそはなりにけれ。

 

そのむかし我に従ひし夥多あまたの蛮民

空高くわが勝利を叫びてわが為に黒きの旗を、

都に立てし其の過ぎし世の光栄を、

何故なにゆゑにわれは今また見むことを願へるや。

 

今われはひやゝかなるまなこに、

月の光を望みて、つるぎを片手に、

大空に我名わがなをしるし留めむものと、

次の世のきたるを待ちつゝあるか。

 

さはさりながら勝利の望み、

今わが胸は幽憤いうふんおもひにふさがれたり。

移り行く代々よゝの勝利。我は既にいくたびか、

あらしにきゆ喇叭ラッパの声を聞かざりしか。

 

過ぎにし幾代いくよの春を告げたりし黒がねの鐘の声。

今その鐘は沈みていづこに在りや。

我こそはに、その国の都は海の底に沈みて声もなき

過ぎにし太古のの君王なりけれ。

  夏の夜の井戸  スチュアル・メリル

 

寝入りし少女をとめの夢さへ覚ます月の光に

吠ゆる飼犬はたゞ真青まつさをな影かとばかり。

焔の雫の小さな星一ツ

旅籠屋はたごやの井戸の底に落ちたのを、

恋知りそめた子供のやうに

私等わたしら二人は眺めてゐた時、

お前の髪を解きほごす素早い私の指先から、

長いお前の髪毛かみのけ

旅籠屋の井戸の中へと流れ込んだ。

忘れはせまい。蟋蟀こほろぎは庭の小高い処から、

綱に引き掛けた洗濯物の

風にも動かず干されてある

河辺の方まで啼きしきつてゐた。

「恐れ」がさまよひ歩くと云はれた

向うの小山の森はいとも静けく

夜の暗さにつゝまれて

酒場で酒呑む人の高声たかごゑ

しんとした冬ののやうに

すゞの器や瀬戸物や

硝子のさかづき照す燈火あかりと共に消えてゐた。

 

お前は何やら小声にさゝやいたが、

わたしは其の囁きをお前のくちびるの、

この六月に咲く赤い花辮はなびらの上に押潰して、

顫へるお前の両手をばお前の胸から引取つて、

私も同じやう何やらお前に云つたのだけれど

今は早何と云つたのか覚えてはゐない。

 

あらはなるお前のかひな

私はいだかれてゐるもなく

森に通ふ街道に、それはさなが

沈黙と血の中に揉み消したいと思ふやうな

物狂はしい思出おもひでの夢かとばかり、

突然聞える酔払つた人達の騒ぐ声。

 

お前とわたしは、それなり、別れてしまつたのだ、

星の雫の降りそゝぐ井戸のほとりに。

  奢侈  アルベェル・サマン

 

奢侈おごり生命いのちの樹になる死の果実。

羨望うらやみの歯の根をうごかす禁制の果実。

 

倦怠の沙漠に坐せる黄金こがね怪獣シメール

老いにし「慾情」と「夜」より生るゝけがれし女。

 

七重なゝへなる綾羅うすものの下にちりばめし「悪徳」の金剛石こんがうせき

火の火、血の血、骨の中なる髄の髄。

 

地の底の魔薬を持てる浮浪ふらうの魔女。

脳漿なうしやうを吸ひ取り精気をひしぐ魔女。

 

斯くぞたとへん。幽遠神秘の「奢侈おごり」。

あゝなる哉、暗黒やみ宮殿みやゐのこの「奢侈おごり」。

 

奢侈おごりは壮麗の位にく肉感の祭典。

恥辱のかんむり。汚濁の肩衣かたぎぬ

 

裸形ニュージテエ紅色くれなゐの気高き女体美の庭。

霊魂をむせび泣かしむる肉の天国。

 

駘蕩たいたうたる夜気をうごかす千丈の髪。

暗澹たる香気の妖術。黒き薫り。

 

滔々たうたうたる血の流れの歌。酔倒すゐたう欷歔すゝりなき

快感の身顫みぶるひやはらかき接触の弥増いやまさる緩き波動。

 

神経を痺らす柔き接触……をはり知られぬ柔き接触。

眼光まなこに溢るゝ柔き接触……魂も消え入る柔き接触。

 

へぬ甘味あまさの花蔭よりかなづがく……消え行く心。

響なきいとだんずる歓喜よろこびばち疲労つかれ

 

あゝ脣よ脣よ。消え行く接吻くちづけ。歯に噛む接吻くちづけ

癡情ちじやう寝屋ねやの死の如くに深きくちびる

 

かくぞ譬へん。幽遠神秘の「奢侈おごり」。

あゝ偉なる哉。哀傷の空の赤き星なるこの「奢侈おごり」。

 

奢侈おごり」は人骨の裏に潜める細き毒蛇。

鋏のさきのごとくにとがりし慾望。

 

不吉ふきつの時を歌ふ酔へる警鐘はやがね

清浄を嫉視しつしする夜陰の尼なる魔界の天使。

 

覚醒に憤る不眠症の荊棘いばら

睡眠の高き壁にうごめく悪魔が夜宴やえんの大壁畫。

 

乱れ打つ四竹よつだけの拍子につれて少しく開く綾羅りようらとばり

羨望うらやみの神タンタルをおどろかす空虚のさかづき

 

もゆる氷塊、凍る焔。

歓楽の野獣眠るむさくろしきうまや

 

かくぞ譬へん。幽遠神秘の「奢侈おごり」。

あゝ偉なる哉。みひらきて浮世を目戌みまも貪婪どんらんの「奢侈おごり」。

 

奢侈おごりは熱帯の激烈なる幻想。

羽毛うまうかざりと槍とを連ねし蛮土ばんどの王侯。

 

驚くべきGANGIS河ガンジスがほとりなる翡翠ひすゐの宮殿。

広大なる庭園。香気の湖水。うづもれし黄金こがね

 

酷熱の赤道の恐るべき芽生月めばえづき

群飛むれと甲蟲かぶとむし金色こんじきなす寂寞せきばく

 

羊毛と鋭き香気の眩暈げんうんと。

緑なす毒の沼池ぬまちを照す血色ちいろの月。

 

かくぞたとへん。幽遠神秘の「奢侈おごり」。あゝ偉なる哉。

恐怖すベき暗黒の偶像なるこの「奢侈おごり」。

 

奢侈おごりおもて蒼白き狂乱の帝王がかしらかざり

髪赤く丈高き娼婦の頸かざり。

 

節奏リトム舞踊ダンス擬容劇ミイムの女王。

黄金こがねにて築くDECADANCEデカダンスの凱旋門。

 

雄々しき虎と大理石とに取巻とりまかれし、

淫楽の皇帝のおそろしき夢。

 

うるほへる血の花。快楽と哀傷と。

花のうてなに甘さの限りを吸ひたる「死」。

 

炎々たる焔の中なる楽器のさまざま。

墳墓の緑色みどりいろなす燈火ともしびに親しむ「死」。

 

日輪にちりんの国の滅亡。無上の尊称。

偉大なる昂奮刺戟の宗教。

 

燐光の技術たくみによりてひらめいで瞬間つかのまの、

最終いまは遊宴いうえん……最終いまはの呼吸……絲の如き臨終いまは喘咽あへぎ

 

かくぞたとへん、幽遠神秘の「奢侈おごり」。あゝ偉なる哉。

癩病の崩れの金光燦爛きんくわうさんらんたるこの「奢侈おごり」。

 

奢侈おごりは肉慾の胸より吐出はきいださるゝ熱き呼吸。

慾求と呼ばれし轟く身顫みぶるひの赤き海。

 

快感の葡萄園、熟して重き葡萄の房。稀有けうの珍味。

相俟あひまつてたがひの性慾を狂奔せしむる性慾の酒。

 

恋愛の痛みをしづむる妙薬、怨恨を激する興奮剤。

心の旅路に彷徨さまよふ巡礼者の泊り宿。

 

瞬間によりて生じたる永遠の衝動。

幻想の怪獣走りつゝ水を飲む溢るゝ噴井戸ふきゐど

 

世捨てし人々の心を澄す処。おそるゝものゝ懼れぬ心。

奴隷の鴉片あへん。癩病者の牝犬めいぬ

 

かわけるくちびるに触れて離れぬ曇りなき水瓶みづがめ

強者の弱点。弱者の強所。

 

悔恨を殺す夜半やはんの毒草。

死者の口を開かしむべき胡廬ふくべ水入みづいれ

 

暴飲の海に帆を揚げて漕ぎいづ

漠々たる郷愁ノスタルヂイ楼船やかたぶね

 

鼻孔を開き毛を逆立て、

虚無に向ひて突進する騎士の牝馬めうま

 

彼方かなた遥けく燃残るGOMORRHEゴモルの塔と、

SODOMEソドムの庭の焔を望む硫黄の湖水みづうみ

 

この身の終を覚悟して見上みあぐる苦悩の大空。

殉教者。さいなまれし心にみつる歓喜の涙。

 

火焔の中に坐してけがれし祭典まつりする悪魔の王が、

永劫えいごふ無窮の祈願を凝らす闇の塔。

 

死を致す贖罪とくざいの食慾、渇きとうゑ

底なきふち。影なき日輪にちりんはてしなき渦巻。

 

神経の神経、酸素の酸素なる「奢侈おごり」。

呪はれし自滅の恋なるをはりの「奢侈おごり」。

 

渾然を望む痙攣。絶対のうちなる饗宴。

世界の最後、天体回転の終局なる「奢侈おごり」。

 

哀願慈悲の聖女。黄金こがねの血の聖女。

貪慾無情の聖女。永久に聖なる聖女。

 

火焔の都。忘却の魔薬。黒鉄くろがねきり

堕落の聖女。地獄のNOTREDAMEノートルダーム

 

かくぞたとへん。幽遠神秘の「奢侈おごり」。あゝ偉なる哉。

現世うつしよの不朽不死なるきさきにも例ふべき此の「奢侈おごり」。