生血

     一

 

 安藝治あきぢはだまつて顔を洗ひに出て行つた。ゆう子はその足音を耳にしながら矢つ張りぼんやりと椽側えんがはに立つてゐた。紫紺縮緬をしぼつた單衣ひとへの裾がしつくりとかゝとを包んで褄先つまさきがしやくれて流れてゐる。

 咋夜寝るときかついだ薄ものをまだ剥ぎ切らない様な空の光りの下に、庭の隅々の赤い花白い花がうつとりと瞼をおもくしてゐる。

 ゆう子の椽から片足踏み出した足の裏へ、しめつた土から吹いてくる練絹ねりぎぬのやうな風が、そつと忍ぶやうにしてさわつてゆく。

 ゆう子は足許の金魚鉢を見た。ふつと、興の湧いたやうな顔をすると其所そこにしやがんで、

 「紅しぼり――

  緋鹿の子――

  あけぼの――

  あられごもん――」

とつ一とつ指でさして金魚に名をつけた。明け方の空が鉢に映つて、白い光りがところどころ銀箔ぎんぱくを落したやうに水のおもてをちら

つかしてゐる。緋鹿の子ひがのこがおきやんに水をきつてついと走つた。

 ゆう子は鉢のわきに並べてあつた紫のシネラリヤの花を、一とつ摘んで水の中にこぼした。眞つ赤な――まだ名を付けなかつた金魚が、小さなお壷口を花片にふれると、すぐ驚いたやうに大きな尾鰭を振り動かして底の方へ沈んでゆく。銀箔があちこち

と、ちろちろと揺れた。

 ゆう子は立てた膝の上へ左の腕をのせて、それへ右の肱をかつて掌で額をおさへた。垂れたつむりの重みに堪へないやうに手首が他愛なくしなつて見える。眼尻のところへ拇指おやゆびがあたつて眼が儉しくつれた。

 ――緋縮緬ひぢりめん蚊帳かやの裾をかんで女が泣いてゐる。男は風に吹きあほられる伊豫簾いよすだれに肩の上をたゝかれながら、町の灯を窓からながめてゐる。男はふいと笑つた。そうして、

「仕方がないぢやないか。」

と云つた。――

 生臭い金魚の匂ひがぼんやりとした。

 何の匂ひとも知らず、ゆう子はぢつとその匂ひをいだ。いつまでも、いつまでも、嗅いだ。

「男の匂ひ。」

 ふと思つてゆう子はぞつとした。そうして指先から爪先までちりちりと何かゞつたはつてゆく様に震へた。

「いやだ。いやだ。いやだ。」

 刃を握つて何かに立向たちむかひたい様な心持――昨夜からそんな心持に幾度自分の身體を掴みしめられるだらう。

 ゆう子は片手を金魚鉢の中にずいと差入れて、憎いものゝやうに金魚をつかんだ。

「目ざしにしてやれ。」

 う思ひながら、で着た單衣ひとへの襟を合はせた金のピンをぬきながら、掴んだ金魚を水から上げた。白金の線が亂れみだれるやうに硝子鉢の水がうごく。

 胡麻粒のやうな目の玉をねらつてピンのきを突きさすと、丁度手首のところで金魚は尾鰭をばたばたさせる。生臭い水のしぶきがゆう子の藤鼠色の帯へちつた。金魚をピンの奥へよせる時、ピンのきでゆう子は自分の人差指のきを突いた。爪ぎはに、ルビーのやうな小さい血の玉がぽつとふくらんだ。

 金魚の鱗が青く光つてゐる。赤いまだらが乾いて艶が消えた。金魚は上向うへむきに口をぽんと丸くあけて死んでゐる。花の模様の踊り扇をひろげた様だつた尾鰭は、すぼんだやうにだらりとしほれついてさがつてゐる。

 ゆう子は其れをしばらくかざして見てゐたが、庭へ抛り投げてしまつた。丁度飛石の上へ乗つた金魚のむくろへ、一とまたゝきづゝ明けてゆく空の光りが、薄白く金魚をつつんでは擴がるやうに四方へちらけてゆく。

 ゆう子は座敷へはいつた。まだ消さずにある電氣の光りが薄樺色うすかばいろの反射にみなぎつてゆう子の額を熱ばませる。ゆう子は窓の下の大きい姿見の前へ行つてぴつたり座ると、傷づいた人差指を口に含んだ。――ぢりりと滲み出すやうに涙が兩の眼をあふれた。

 ゆう子は袂を顔にあてゝ泣いた。泣いても、泣いても悲しい。然し、自分の頬をひつたりとなつかしい人の胸に押あててゐる時のやうな、そんな甘つたるさが涙にうつすりと色をけてながれる。

「いま指を含んだとき、自分の指に自分の唇のあたゝかさを感じた、それが何故かうも悲しいのであらう。」

 ゆう子は然う思ひながら、あへぐやうに泣いた。

 いくらでも泣ける。ありたけの涙が出きつてしまふと、ふつつと息が絶へるのぢやないか、息が絶へやうとして出るだけの涙が流れつくすのぢやないか、と思ふほど。

 泣くだけ泣いて、涙が出るだけ出て、蓮花れんげに包まれて眠るやうに花の露に息をふさがれて死ぬるものなら嬉しからう。涙の熱さ! たとへ肌がやきつくす程の熱い涙で身體を洗つても、自分の身體はもとに返らない。もうもとに返りはしない。――

 ゆう子は唇を噛みながら、ふと顔を上げて鏡の内を見た。物の形をはつきりと映したまま鏡のおもての光りが揺がずにゐる。紫紺の膝がくづれて赤いものが見えてゐた。

 ゆう子は其れをぢつと見た。そのちりめんの一と下のわが肌を思つた。

 毛孔けあなに一本々々針を突きさして、こまかい肉をひらづゝ抉りだしても、自分の一度ひたつた汚れはけづりとることができない。――

 顔を洗ひに行つた安藝治が手拭をさげてかへつて來た。ゆう子を見るとだまつて隣りの部屋へはいつて行つた。何時の間にか女中が來てゐたと見えて、女と話する安藝治の聲がした。

 女中は直ぐとこを片付けに入つて來た。ゆう子を見ると笑ひ顔で挨拶したけれど、ゆう子は振向きもしなかつた。そうして、根深ねぶかく食ひこんだやうな疲れた夢のめぎはのやうに、力のない身體をだらしもなく横座よこずわりしながら、頭をふつて小供のやうに啜り上げた。

 硝子戸をてする宿屋の朝の掃除のやかましい音がひゞいてくる。電車のおとがぎひと鳴つて通つたとき、ゆう子はこの宿が大通りの内に家並やなみを向けてゐることを思ひだして恐しくなつた。此家こゝを出るのに何所どこから出たらいゝだらう、女中に頼んで裏口から出して貰はうか、ゆう子はそんな事を考へながら袂から半紙をだして、細く引きいて傷ついた指を巻いた。

 

     二

 

 二人は水色の洋傘となまつ白いパナマの帽子をならべて、日盛ひざかりの町をあるいてゐた。

 まるで強烈な日光にすべての色氣いろけを奪はれ盡してゞもしまつたやうに、着くづれた皺だらけの二人の着物にあざやかな色彩いろどりも見えなかつた。熱い日にはたき立てられるやうに、やくざな恰好をして二人は眞晝の炎天をたゞ素直にあるいてゆく。焼きこてを當てられるやうに二人の頸元はぢりぢりと照らされる、白い足袋はもう乾き切つた埃で薄い代赭色たいしやいろに染まつてゐる。

 二人は路次をはいつた。

 狭い庇間ひさしまの下を風が眞つ直ぐに通して、地面が穴の底のやうにしめつてゐる。井戸の向ふ角の家の眞つ暗な土間で、汚れた手拭をくびに捲きつけた女がはたを織つてゐた。二人は突き當りの石段をのぼつて行つた。のぼり切ると、ゆう子は柵のところへ行つて向島の堤をながめた。

 河もどても熱さにうんざりしたやうに、金色こんじきの光りを投げだしたまゝ何の影も動かさなかつた。き間もなく照りこんだ夏の日光を、はじき返すやうなトタン家根の上に、黒い煙りが這ひ付いてる暑苦しい町並まちなみを眼の先に見つけると、ゆう子は直ぐ眼をまぶしくさせて日蔭の方を振返つた。安藝治あきじは敷石の上に立つて、やしろの前に鈴をがらがら云はせてゐる雛妓おしやくらしい娘の後姿を見てゐた。

 聖天の御堂みどうの奥は黒い幕をはつた様に薄暗い。ところどころ器物きぶつの銀の色が何かの暗示のやうに、神秘めいて白く光つてゐる中に、臘燭が大きな燭臺の輪をめぐつて何本も上下左右ちろちろとともつてゐる。それが丁度、今の炎天を呪ふ祈りの灯のやうに見える。荒行あらぎやうで断食した坊さんが眼にだけ一念をひそめた輝きのやうな光りを、よわよわした臘燭の焔の先きに一とすぢひらめかしてゐる。

 其所に二三人の人の影が見えた。

 二人は表の石段をおりた。ちつとも日蔭のない照りはしやいだ通りは、焼けた銅板をはり詰めたやうに見る目も吐く息もせつない。ゆう子は洋傘を低くさした。

「もう別れなければ。もう別れなければ。」

 ゆう子は幾度もう思つた。男と離れて、昨夜の事を唯一人しみじみと考へなければならないやうな焦慮あせつた思ひもする。けれどゆう子はうしても自分から男ヘ口がきけなかつた。兩手も兩足もきつい鐵輪かなわをはめられたやうに、少しも身體が自由まゝにならなかつた。

「自分に蹂躙された女が震へてゐる。口もきゝ得ずにゐる。そうして炎天を引ずりまわされてゐる。女は何所どこまで附いてくるつもりだらう。」

 だまつてる人は其様そんなことを考へてゐるのぢやないかとゆう子は不意と思つた。ゆう子はそつと額の汗をふいた。

 いまの雛妓おしやくらしいが二人を通り越してとつとと歩いてゆく。繪模様の朱の日傘の下から、俯向いて衣紋えもんをぬいた細い頸筋が解けそうに透き通つて白々しらじらと見える。荒い矢羽根がすりの紺すきやの裾掛けが、眞つ白な素足すあしをからんではほつれ、からんではほつれしてゆく。貝の口にむすんだ紫博多の帯のかけがきりりと上をむいてゐる。

 薄い長い袂が引ずるやうな、美しい初々うゐうゐしひ姿をゆう子はぎらつく空の下でしみじみと眺めた。そうして羨しかつた。かうして昨夜の身體をその儘炎天にさらして行く自分には、日光に腐爛してゆくさかなのやうな臭氣も思はれた。ゆう子は自分の身體を誰かにつまみあげてはふり出してもらいいやうな氣がした。

 二人はだまつて歩いて行く。廣い通りが盡きると、狭い裏通りへまがつた。

 赤い風鈴を下げた氷屋が葮簀よしずのかげを濡らしてゐる。ちやんちやんの襦袢一枚で、黒い腕をだした女が小供に義太夫を教へてゐるのが、表からすつかり見えた家があつた。椽の低い小間物店から、んだやうな油の匂ひがした。安藝治が先きに立つて、蕎麦屋の裏から公園へ抜け道した。

 きつい日に照りつけられて、阿彌陀堂の赤い丹塗にぬりの色が土器色に變つて見えた。龍頭観音の噴水がぴたりととまつてゐた。如露ぢよろの水ほども落ちてゐなかつた。炎天に水を乾しつくされ、銅像の全身をきらきらときなぶられて高いところに据ゑられた観音の立像を見上げてゐると、ゆう子は頭の髪の毛を火の炎でやき拂はれるやうな氣持がした。

 潮染めの浴衣を着て赤い帯をしめた、眞つ白な顔をした女たちが、汗の足にまつはり付いたやうな浴衣の裾のわれ目から赤い蹴出しをちらつかして通つてゆく。肌をぬいで網襦袢あみじゆばん一とつになつた男が扇子を使ひながら通つてゆく。水の出ない噴水のまわりにもいろいろな人が集まつてゐた。

 二人は然うした人だちにぢろぢろとながめられた。安藝治はそれをいとはしそうにして目を避けてゐた。ゆう子は然うしたいやしい表情で自分たちを見て行く人と、今の自分と云ふものの上とにそれ程のだたりがあるやうに見えなかつた。いくらでも覗きたいほど自分を見せてやれと思つた。どうせ自分は、その人たちには珍らしくない矢つ張り腐つた肉に包まれてるやうな人間だと思つた。

 安藝治はまた歩きだした。ゆう子は何となく自分の身體を何かに投げかけたいやうな氣がした。ふてたことが云つて見たいやうな氣がした。然し矢つ張り男に口をきくのはいやであつた。

 花屋敷の前の人混ひとごみを通つて、玉乗りの前までくると安藝治は、

「はいつて見やう。」

と云つてゆう子に構はずづんづん入らうとした。ゆう子は黙つていてはいつた。

 高い小屋がけの二階が眞つ暗だつた。柱も薄縁うすべりも蒲團も、寐汗でぬれたものを掴むやうな、粘つた濕り氣をふくんでゐる。

 二階にはまばらに五六人ほど人がゐた。その人たちがみんな、又と見付け得られない寶ものに執着したやうな顔付をして、手欄てすりにしつかりとつかまつて下の演伎をながめてゐる。安藝治はさも居やすい所を見出したやうな様子で、薄い蒲團を腰の下に入れた。そうしてゆう子の顔を見て微笑した。

 何かれいのやうなものがからからとなつた。肉色の襯衣しやつを着た男の子が、太い聲で次ぎの演技の口上こうじやうを云つてゐる。外に垂れた廣告幕が少しあがつたりさがつたりするたびに、表に立つた仰向いた人の顔がかくれて舞臺が薄暗くなる。小さな銀杏返しに引つ詰めてゆわいた、赤い顔におしろいを塗つた女の子が桃色の襯衣を着て兩手を兩腋に挾んで四五人立つてゐる。それが紅白でつた輪をもつて玉に乗つてあるきだした。

 輪を足から手へくゞらせたり、肩へ抜かしたりしながら乗つた玉をまわしてゆく。その白粉のついた小さい耳のわきがゆう子は悲しかつた。ゆう子は後の、棧敷のやうな高いところへ行つて其所そこへ腰をかけながら、塗骨の扇子を帯からぬいた。

 あふぐときに生ぬるいやうな香水の匂ひがなつかしくみる。外へ垂れた幕がわづか上がる時、其所に群集した人の頭から後の池の面へかけて、投げつけたやうな鋭い晝の光りがゆう子の目にぱつと映る。演伎の間々にその藝を演じる娘たちや大きな男たちが、だまつて茫然とその外の群集を見てゐるのが、薄暗い小屋に倦怠けんたいの氣がしみ通つてゆく様な氣がした。

 ふと氣が付くと淺黄の袴をはいた振袖の娘が舞臺に現はれてゐた。大きなふつさりした潰しの島田に紫の鹿の子かのこがかゝつてゐた。

 その娘は臺の上に仰向に寝て足の先で傘をまわした。眞つ白な手甲が細い手首をくゝつてゐた。臺の兩脇に長い袂が垂れてゐた。すぼんだ傘を足でひろけて、傘のふちを足に受けてくるくると風車のやうにまわしてまわしぬく。その脛當ても眞つ白かつた。そうして小さな白足袋――淺黄繻子あさぎしゆすの男袴が時々ひだを乱して、垂れた長い袂が揺れる。その時の下座げざの三味線の、糸を手繰たぐつてはもつらせ、縺らせては手繰りよせるやうな曲がゆう子の胸をきつと絞つた。

 娘は臺からりるとにつこり笑つて會釋ゑしやくしながら直ぐ奥へ入つてしまつた。かもじがつぶれてゐた。慰斗目のしめの長い袖が目に殘つた。安藝治は他の人のやうに手摺てすりに縋りついて下を見てゐる。その細い頸筋をゆう子はぢつと見つめた。女の子の足の上へ澤山に桶を積み上げて、その上へのせた天水桶の中へ男の子がはいつたり、水藝をやつたりまだまだ幾つもそれに似たことを幾人もの子が代る代るやつてゐる。ゆう子はみつかれて自分の身體が汗の中へ溶け込んでゆくやうな氣持がした。自分は何か悲しまなければならないことがあつたのにと思ふ傍から、

うにでもなれ。何うにでもなれ。」

と云ひ度い氣がする。何所まで落ち込んで行つたところで、落ち込んだ先きには矢つ張り人の影は見える。――と思つてゆう子は小屋の中の人たちがなつかしかつた。淺黄繻子の男袴――それがゆう子の眼先をはなれなかつた。

 安藝治は演伎が番組を繰り返して同じ事をやる様になつても歸らうと云はなかつた。ゆう子もこの小屋を出たくはなかつた。折角暗い巣を見付けながら、又明るい光りを眞面まおもてに浴びるのは辛かつた。いつまでも、夜るになるまで居られるものならかうして居たいと思つた。ゆう子は高いところに腰をかけて何も考へる力もなく、唯ぼんやりと半分は眠つてゐた。

 蒸すやうな、臭い空気が、時々ゆう子の身體を撫でまわしてゆく。ぱたぱたとまばらな拍手が下の土間の方から、氣の無い響きを持つてくる。その間にゆう子はふと、かさつと云つた羽搏はばたきのやうな音を耳近く聞いた。

 うつとりしてゐた瞼がかつきりとつたやうな氣がした。ゆう子は後を見まわしながらつひ立上つたけれども、なんにも見えなかつた。

 後向きになつて、ゆう子は煤けた柱から、汚れがあかのやうに積つた薄縁うすべりをぢつと見た。ふと、その後の羽目板に、大きな魚の尾鰭のやうな黒いものの動いてるのが目に付いた。ゆう子はぢつとして其の動くものを眺めてゐた。動かなくなるとゆう子は扇子でその黒いものをぢつとおさへて見た。扇子をひく儘にその黒いものがだんだん羽目板の外へ引摺られて出てくる。何とも付かず一尺ほど引きでた時、その輪廓をぐるりと見て――それが蝙蝠かうもり片々かたかたの翼だと知れた。

 ゆう子はぱたりと扇子を落した。そうして驅けよるやうにして安藝治の坐つてゐるそばへ立つたが、安藝治は氣が付かなかつた。ゆう子は身體の血が冷え付いたやうな思ひをしながら、もう一度羽目板の方を振返つて見た。もう黒い翼は見えなかつた。そのわきの壁の隙間から夕暮れらしい薄黄うすきいな日射しが流れこんでゐた。

 二人は小屋を出た。もう白地の浴衣に水の底のやうな涼しい影が見える夕方になつてゐた。安藝治は矢つ張りだまつて歩いて行く。ゆう子は目眩めまいがするほど空腹ひもじくなつたのに氣が付いた。男に黙つて中途から別れて了はう。そんな事も考へながら、膝のうしろにベたべたとさわる汗にしみた着物が氣味がわるくてならなかつた。

「この女は何所どこまで附いてくるんだらう。」

 男の様子にそんな所が見えると、ゆう子が思つたとき、

「何か食べなくちや。」

と男が云つた。

「私は歸りたい。」

「歸る?」

「ええ。」

 男は又黙つて歩いて行つた。二人は池の橋を渡つて山へあがると、其所そこはじの氷店の腰かけへ云ひ合はしたやうに腰をかけた。二人の前の植え込みが打水うちみづの雫をちらしてゐた。二人はまた何時いつまでも何時までも其所を立たなかつた。

 日のはいる頃になつて汗を洗ひ流した連中が、折目の見える浴衣と着かへて、もう其方そち此方こちと歩いてゐた。二人は一日の汗になへ切つた身體を又仁王門から馬道の方へはこんだ。二人は河岸をあるいて砂利置場から宵暗のせかける隅田川の流れをながめた。

 ゆう子はもう、自分の身體からだを男がかゝへて何所へでもいいから連れてつてれればいいと思ひながら砂利置場のくひへよりかゝつた。

「蝙蝠が、淺黄繻子の男袴を穿いた娘の、生血いきちを吸つてる、生血いきちを吸つてる――」

 男に手を取られてはつとした。その時人差指の先きに巻いてあつた紙がいつの間にか取れてしまつたのに氣が付いた。生臭なまぐさい匂いがぷんとした。

 

――完――