横河
今朝阪東君が出立するのを送られて和尚サンもあまり行けぬ口に一杯過ごされた。阪東君が出立したあとで和尚サンは暫く火燵櫓に顎を乘せて居られたが、其内、「一寸一睡りしますわ」ところりと横になられた。
叡山の横河中堂の政所に余はもう四五日滯在して居る。偶京都に來た阪東君は昨日余を尋ねて登山して昨夜は和尚サンと三人枕を並べて寢たが、今朝東塔西塔を一見して無動寺から白川口に下つて京に歸る筈で出立した。余も明日は下山して阪東君と一両日京都で同遊することに約束したのである。
横河は叡山の三塔のうちでも一番奥まってゐるので淋しい事も亦格別だ。二三町離れた處にある大師堂の方には日によると參詣人もぼつ/\あるが、中堂の方は年中一人の參拜者もないといつてよい。大きな建物が杉を壓して立つて居る。四方の扉は皆締切つてあるので中は眞暗だ。只正面に一尺角許りの穴が開いて居るので其處から中を覗くと、其眞暗な中に常燈明が淋しくともつて居る。政所は其中堂を十間許り離れた處に別棟になつて建つて居る。其処に和尚サンが下男も置かずに一人で自炊して居られる。余も自炊の手傳ひをしながら四五日滯在して居るのである。
和尚サンは布團から丸い頭だけ出して海老のやうになつて寝て居られる。もうぐう/\と眠られた樣子だ。此和尚サンのお勤めは毎日一時間半づゝ中堂で看經をせられることだ。其外に何も用事は無い。其看經も時は一定してゐない。朝でもよい晝でもよい晩でもよい。要するに一時間半さへ勤められゝばよいのだ。だから眠い時は朝からでも眠られる。淋しい境涯だが又氣樂な境涯だ。
余は和尚サンの部屋を出て玄關の並びの自分の部屋に戻る。机に凭れてぢつと耳をすます。靜かだ。今は嵐の音も聞えぬ、鳥の聲もせぬ。何だか靜かさが極點まで達してもの凄いやうな氣もする。程なくボツリ/\雨垂れらしい音が聞える。障子を開けて見るといつの間にか雨が降つて居る。軒の小坊主が光つては落ち光つては落ちて居る。寒い。障子をたてる。
其から二時間程余は用事をしてゐて何事も忘れてゐた。ふと氣がつくと和尚サンはまだ寝て居られる。雨はまだ靜かに降つて居る。臺所に物言が聞えるやうだ。不思議に思って行つて見ると、暗い臺所に白い衣を着た小僧サンが一人居る。流しの前に立つて何物か洗つて居る樣だ。よく見ると今朝よごれた儘の茶碗や皿を置いた置いたのを洗つて呉れてゐる樣だ。小僧サンは余の方を向いてニツコリ笑つたが辭儀もない。
「君は何處の小僧サン」
と余が聞くと、
「大師堂」
と大きな聲で答えて、
「どうして昨日湯に入りに來なかつたの」
と友達のような口をきく。
「風邪をひいてゐたからサ」
「折角僕がわかしてやつたのにナア」
「君がわかしてくれたのか、其はすまなかつた。此次は這入るヨ」
「僕はあすうちへ歸るのだヨ」
「君のうちはどこ」
「僕のうちは東京、だけれど京都に伯母サンがゐるの、あすは伯母サンのうちへ行くの」
「伯母サンのうちは京都のどこ」
「祇園町」
「祇園町」とは一寸意外であつた。
「祇園町といふのは何處」
と試に聞いて見る。
「祇園町を知らないのか。馬鹿だナア」
と小僧サンは甚だ輕蔑した調子で、
「君はいつまで此處に居るの」
「僕か、僕も明日京都へ行く積りなの。いゝヨこゝに拭巾があるから拭くのは僕が拭くヨ」
「まア貸したまへ僕が拭いてやらア。明日京都へ行くのか。此次は這入るナンテ、今度いつ湯がわくと思ってゐるのだ。間抜けだなア、五日目/\で無けりやわかないのだヨ」
機鋒鋭くして當るべからずだ。
「さうか、其ぢや大師堂のお湯にはもう這入れないね。困ったナア」
「困らなくたつていゝや。アンナ汚ない湯に這入らなくつたつて京都にいくらでもいゝ湯があらア。君、湯は東京より京都の方がいゝヨ。京極にいゝ湯があるぜ、蒸氣でわかすのだヨ」
「君はいつ小僧サンになつたんだい」
「二月」
「二月つて今年の二月かい」
「ウン」
「東京にはいつまで居たの」
「去年まで。尋常を卒業するとコチラヘ來たの。君、櫻田小學校知つてるかい。僕あそこに行つてたんだヨ。山崎や戒田は今年高等二年になるんだつて威張つてらア。このあひだ手紙をよこしたヨ。字ナンカ矢つ張り下手だア。ネー君、いくら威張つたつて、字の下手なのは見つとも無いや」
小僧サンは茶碗や皿を戸棚に片附けて臺所を掃除して、ヅン/\余の部屋に這入つて來る。
「君勉強してゐるのかい。君全體何しに來たの。遊びに來たのかい。‥‥馬鹿だナア。コンナもの書いてらア。全體何の畫だい。下手だナア。僕の方がよつぽどうまいや」
と火鉢の向うに坐って机の上に置いて置いたノートブックを開けて痛罵を試みはじめる。
暗い臺所から明るい部屋に來て見ると小僧サンはなかなか美少年だ。年は十二三で、色白で、目が大きくつて、口元が締まつて居る。
「よう君、何を書いたんだい。密壇の畫だつて。こんな密壇があるものか。馬鹿だナア。禮盤がこんなに小さくて、脇机がこんなに大きくつてどうするんだい」
元來畫心の無い余が文字代りに急いで書き取った圖を散々に攻撃する。
「『朝念觀世音、暮念觀世音、念々従心起、念々不離心』‥‥ヤーイ十句觀音經なぞ書いてらア、間抜けだナア。‥‥『こんな處に落ちたら死にますエ』‥‥『強儀な事したもんだつせ』‥‥こんな事君書いてるのかい。こんな事書いてどうするんだい。本當に馬鹿だナア」
と余の顔を見る。大きな目に冷笑の光を漲らせて居る。
「全體君は何だい。何を仕事にしてゐるんだい。妙な事を書き留めとくんだナア」
と獨り言のやうにいひながら、紙の間に挿んであつた鉛筆を取つて余の顔を寫生し始める。一寸空目を使つては書き、一寸空目を使つては書く。
「駄目だナア、君は動くから駄目だ。こゝの和尚サンを書いて見ようか。こゝの和尚サンは大きな頭をしてゐるだらう。こんな頭だぜ。それからねえ、耳がこんなに‥‥まるで蝙蝠のやうだぜ。僕は和尚サンと向き合つてるといつでも頭と耳許り見てやるのだ。君、々」
とだん/\聲を張り上げて來て、
「それからねえ君、和尚サンの耳は動くぜ。不思議だぜ。どうかしたはずみにぴこ/\と猫のやうに動くんだもの、僕ア不思議だと思つちやつた」
和尚サンは「ウーン」と布團の上に白い片肱を突き出して片々の手で擦つて居られる。
「ヨセ/\、ソンナ人の惡口をいふものぢやない。君は腕白だナア」
と余は最中を三つやる。
「有難う」
と早速一つ頬ばる。余の飮みさして置いた茶碗の上に冷たい茶を注ぎ足して飲む。
和尚サンは、
「アゝ、よく寢たこっちや」
と欠びをしながら起き上られる。
「一念、來てゐたか。お客様の邪魔をしてはいかぬぞ」
「邪魔なんかするものですか」
と手帳の上に和尚サンの欠びの圖を書いて顔中口にする。さうして其口から棒をひいて「一念キテイタカ、オ客サマノジヤマシテハイカヌゾ」と書いて、又耳から棒を引いて「コノ耳ウゴク」と書く。余ば覺えず噴き出す。一念は知らぬ顔をして、
「寶珠院サンは今日午から下山る積りだから、さういつて呉れといひましたヨ」
と一寸和尚サンの方を見てすぐ今度は眼鏡を掛けた和尚サンの似顔を描く。見ると成程鼈甲縁の大きな眼鏡を掛けて和尚サンは何か書つけを見て居られる。
「けふは十二日だな」
と迂遠なことをいわれる。
「十四日ですよ」
と余は答へる。
「十四日か。もうさうなるかな。あなたが來たのがをとと日であつたかな」
余は、もう五日間滯在して居る、其を一月程にも覺えるのに和尚サンは呑氣なことをいはれる。
「あなた蕗の薹お好きか。納豆はどうかな」
「納豆は閉口ですが、蕗の薹は結構です」
「それではあすお歸りまでに蕗の薹の田樂を一つ拵へて上げう。けふは雨だから困るが、兜率谷の方へ行くと蕗の薹が澤山ある。あすの朝天気になつたら一念一つ取つて來てんか」
一念は聞かぬ風をして「明治二十八年十月二日生一念」
と鉛筆を壓へ附けて四角な字をノートに書いて居る。
「蕗の薹の田樂といひますのは」
「蕗の薹を串にさして味噌を附けて燒くのぢや。よほど香りのえゝものぢや。蕗の薹が嫌ひで無けりやキツと賞翫おしるぢやあろ」
「そりや結構でせう。兜率谷といふと惠心廟のさきの方ですね。其ぢや私が取つて來ませう」
余はこゝに來てから全く精進料理許りを食つて居る。それも煑豆に燒湯葉に味噌が主で、豆腐汁やほうれん草のしたし物などは坂本からの好便に豆腐やほうれん草が届かなけりや食ふ事が出來ん。左樣な中に蕗の薹の田樂は聞いただけでも珍味だ。もう其香が室内に滿ちてゐるやうな氣がする。
一念は余の机の上を掻き探してゐたが、
「これ、君何だい」
と安全剃刀に目を留める。
「剃刀だよ」
「剃刀だつて。馬鹿だナア。こんな剃刀で君は髯を剃るの。うまく剃れるかい」
と頻りにひねくつて見て居る。
「一念、御邪魔をせんやうにして、少し臺所の事でも手傳つてくれよ」
「一念君は最前もう大變働いてくれました。茶碗や皿をすつかり洗つてくれました」
「さうであつたか。其は御苦勞であつた。序に氣の毒だが、茶釜に一杯お湯をわかして呉れまいか」
一念はだまつてまだ剃刀をいぢつてゐる。
「どうやつて研ぐんだい」
「斯うやるのサ」
と余はやつて見せる。
「馬鹿だナア」
と再び受け取つて
「君いつ剃つたの。今剃つて見たまへな。よう、剃らないのかい。馬鹿だナア」
と感心する時も不平な時も「馬鹿だナア」といふ。
「一念、お湯をわかして呉れまいか」
と和尚サンはゆつくりと又くりかへされる。
「君、和尚サンが何かいつて居られるぢやないか」
「剃つて見ないのかい。間抜けだナア」
と一念はいかにも殘り惜しさうに剃刀を見返りながら臺所に立つて行つた。程なく茶釜の下を燻し始めたらしい、松葉のぱち/\といふ音が聞へる。
「中々才ばじけた小僧サンですね」
「どうも徒らで困りものだ。其代りお經もよく覺える、役にも立つ、育てやうによったら立派なものになりますやろ。‥‥大變降るやうだな。阪東サンはお困りぢやあろ。もう十一時か」
と和尚サンは火燵から出て背延びをせられる。大きな頭が目についてをかしい。一念は何をしているのか只松葉のはねる音が聞える許りだ。
和尚サンは火燵櫓をのけられる。其趾がすぐ爐になる。其處に鐡瓶をかけて其邊の埃を拾うては爐の中にくべられる。
「お茶を入れう。仕事の切れ目ならお出でんか」
「頂戴しませう」
と爐の向う側に坐る。
「わしは冬でも藤枕をするので‥‥けふはどういふ具合であつたか頭がしびれたやうだ」
と下にしてゐられた右側を掌で擦られる。見ると枕の角の痕が赤く頬に殘つて居る。
「寢がへりもなさらず片側許り下にしてゐらしつたからでせう」
「寢がへりといふものは平常からあまりしませぬて。戒律に頭北西面右脇臥といふ事がやかましくいうてあるが、頭北面西は間取りの都合などで嚴密には行かぬにしても、僧は大槪右脇臥といふ事だけは守つてをる。殊に仰臥は非常に嫌ふので、仰向けに寢ると淫心を起すともいふし、淫を鬻ぐものは仰臥するともいふし、旁其は必ず避くべきことになつて居る。其理由は兎も角、出家が大の字になつて寢るのはあまり見つとも無いものでな」
と和尚サンはきびしよの終りの一二滴を余の茶碗と御自分の茶碗とに等分に落とされる。鐡瓶の湯氣が眞直ぐに登つて和尚サンの顔のあたりで消える。
「和尚サンおいくつです」
「わしかな、もう丁度ぢや」
「五十ですか」
「さうぢや。もう來年位からは小僧か男を一人置かぬと、自炊が臆劫ぢや」
「さうでせうとも。一念サンは寶珠院サンの御秘蔵ですか」
「寶珠院は持てあまして居るのぢや。わしに預つてくれともいふとるのぢやが、わしの手にもあまりさうぢやて。ハヽヽヽ」
と最中の壊れてゐるのを掌に載せて丁寧にたべられる。爐の緣にこぼれたのを指尖でおさへて口へ持つて行かれる。
「和尚サン、お湯が沸きましたよ。サヨナラ」
と一念の聲がする。
「さうか、其はお世話であつた。もう午ぢや。茶漬なと食べて行かんか。‥‥アヽ、さうおし。一念/\」
と延び上るやうにして大きな聲を出される。成程和尚サンの耳は少し動く。ノートに書いた一念の畫が思ひ出されてをかしい。併し一念はもう裏口から帰つたものと見えて返辭が無い。
一力
仲居のお艶に、
「其が名高い赤前垂れかね」
と聞くと 、お艶は 一寸氣取つて蝋燭の心を切つて、
「さうどす。これは一力ばつかりに限つた事はおへんけど、斯うやつて帯に挟む具合が他樓とは違うてますのや」
といふ。阪東君が、
「一寸立つて見せたまへ 、長いのかい」
ときくと、お艶はだまつて立つて、帶に挾んであるのをはづして見せる。大幅の緋の縮緬を二枚合はせた廣いのが、チヤンと並べた足を隱して幔幕のやうに疊の上に垂れる。廣い座敷に林のやうに立つて居る蝋燭の光りがこの赤前垂れ一つに集まる。其時向うの銀紙で張つた衝立の蔭から今日四條の雛店で見たやうな舞妓が 一人現はれる。同時に衝立の中から、
「三千歳はん上げます」
といふ聲が聞える。舞妓は余等の前に指を突いて、
「姉はん、今晩は」
とお艶に會釋する。厚化粧の頬に靨が出來て、唇が玉蟲のやうに光る。お艶の赤前垂れの赤いのが此時もとの通り帶の間に疊まれて、極彩色の京人形が一つ疊の上に坐つて居る。
「お前いくつ」
「十三どす」
「ほんまに可愛い兒どすやらう。私等毎日見てますけど、見る度に可愛て可愛てかなひませんわ」
とお艶は銀煙管に煙草をつめる。
「其帶は妙な結びやうね」
「これどすか、かうやつて、こゝをかう取つて 、こつちやに折つて、かう垂らしますのや」
と赤いハンケチを膝の上でたがねて見せる。白い指が其ハンケチにからまつて美くしい。
「何といふの其名は」
「だらり」
「髷の名は」
「京風」
「櫛は 」
「これどすか」
と白い手を前髪の後ろにやつて、
「花櫛、これは前髪くゝり。あなた何書いとゐやすの」
と余のノートを覗き込む 。
「三千歳はん、今日虚空藏様へお詣りやしたか」
「ハー」
「何というてお拜みだ」
「阿呆どすさかいに智惠おくれやす、ちうて」
銀紙の衝立の蔭から又人形が一つ出る。
「松勇はんあげます」
「姉はん今晩は」
と三千歳に並んで坐つて、
「今日お詣りやしたか」
と三千歳の手を取って自分の膝の上に置く。
「ハー」
「歸りしなにあとお向きやへなんだか 」
「向かしまへなんだ」
と三千歳は靨の上を兩手で壓える。
「面白さうなお話ね」
と聞くと、
「虚空藏様に詣つて戻り道にあと向くと智惠かへしますてやわ。あの染菊はんな、つい忘れてあと向かはつて、歸らはつてから阿呆にならはつたて、おゝいや」
とお艶がいふ。
「いやらし」
と三千歳と松勇は同じやうに眉をよせて同じやうに背中の帶に手をやる。一つの絲で二つの人形が一所に動いたのかと思はれる。ちりけ元から垂れた帶は松勇のが殊に長く疊の上に流れて居る。
「其帶は何といふ結びやう」
と又松勇に聞いて見る。
「これどすか、だらり」
「髷は」
「京風」
と同じ事をいふ。
銀紙の衝立の蔭から今度は人形が二つ出る。
「喜千福はんあげます」
「玉喜久はんあげます」
「姉はんおほきに」
「姉はんおほきに」
と二人並んで燭臺の向うに坐る。此方の二人が鏡にうつゝたやうによく似て居る。
「二人の帶は」
と又聞くと、
「これどすか、だらり」
と喜千福が玉喜久を見る。
「髷は」
「京風」
と玉喜久が喜千福を見る。
「同じ事お聞きやす」
と三千歳は笑つて又ノートを覗き込む。
「喜千福はん、あんたの顔見て書いとゐやすわ。妙な顔にお書きやしたえ」
と三千歳がいふ。皆が笑つて喜千福の顔を見る。
「おゝ晴れがまし」
と喜千福は長い袂の中程で顔をかくして、
「姉はん、藝子はんは」
「お花はん貰ひにやつたの、もう來やはるやろ。あんた都踊にお出るのン 」
「ハー」
「踊りばつかり」
「踊りと鼓」
「三千歳はんは」
「踊りばつかり」
銀紙の衝立の蔭から今度は五十餘りの藝子が出る。
「お花はんあげます」
「姉はんおほきに」
とお艶に會釋して坐ると、
「姉はん」
「姉はん」
「姉はん」
「姉はん」
と四つの人形が先を爭つて、老妓にお辭儀をする。
子供衆が蠟燭の數を殖やす。お花が三味線を取つて「京の四季」を唄ふ。四人が袂をそろへて舞ふ。四人共皆美しい。なかでも三千歳が一番美しい。其がすむと今度は三千歳が一人殘つて舞ふ。
『牡丹に戯れ獅子の曲』
とお花が少し皺嗄れてゐながらよく通るいゝ聲をふりしぼつて唄ふ。
『目前の奇特新たなり』
と爰で合の手があつて三千歳は扇を逆手に持つてきり/\と廻る。
『暫く待たせ玉へやと』
と其から調子が進んで來て、
『獅子とらでんの舞樂のみぎん』
の處でパタ/\と勇ましく拍子を踏む。余は便所に立つ。
梯子段を降りる。いつの間にやら醉うたと見えてひよろひよろとする。後ろからお艶が、
「あぶのつせ」
といひ乍らついて來る。
『獅子の座にこそなほりけれ』
といふ聲がかすかに後ろで聞える。下座敷も三所程で賑やかだ。
手水をすませて手を洗つて居ると、
「君來てるのかい」
といふものがある。ふりかへつて見ると一念だ。
「祇園町知らないなんて嘘いつてらア。君今日下山たのかい」
となつかしさうに寄つて來る。
「君の下山た翌日に下山たのサ。‥‥こゝが伯母サンのうちかい」
「さうぢやないんだい」
「僕の座敷に來たまへナ」
「厭だ」
「なぜ、叱られたら僕が詑びてやるから來たまへ」
と手を取つて連れて戻る。
『玉椿の八千代までもと契りしに(合)西國順禮サーサ御詠歌‥‥』
と松勇が踊るのをお花は地を彈いて居る。余が一念を連れて來たのを見てお花は唄ひながらニヤリと笑ふ。喜千福も玉喜久もニコリとする。お艶もホヽヽヽと笑ふ。よく見ると余の顔を見て笑ふのではなく、三千歳と一念の顔を見くらべて笑ふのだ。
「一念はんおいなはつたン。旦那はん知っとゐるの」
と三千歳は一念を小手招きして其傍に坐らせる。一念も大人しく其傍に坐る。
「旦那はん、あんたはんどつから其御夫婦連れといやしたの」
とお艶がいふ。
「何これが御夫婦なのかい」
と余は驚いて二人を見る。
「あたい一念はんに惚れてるのどつせ。皆なでお笑ひやす。お笑ひたてかまへん。ナアそやおへんか一念はん」
と三千歳は可愛ゆい口をむつと閉ぢて一座を見る。
「えらいおのろけ、かなはんな」
とお花は撥で空を煽ぐ。一念は余のノートを取上げて、
「またこんな事かいてるナ。『ウーンと首』つて君何の事。『きといた』つて君何の事」
「きとおゐやしたといふ事をさういひますがな」
と三千歳は美しい顔を一念にすりつけるやうにしてノートを覗き込む。
「さっきもいろ/\書いとゐやした。この畫けつたいな畫やおへんか 」
「下手な畫だねえ。これ誰を書いたのかい。三千歳さんかい」
「喜千福はんどすがナ。旦那はん喜千福はんが好きやさかいお書きやしたのどすやろ。何どす其畫は。大きな頭の坊さんや事。其も旦那はんがお書きやしたんか。さうか一念はんか。それが横河の和尚さんかア。横河の和尚さんそないに頭大きいのン。耳もそないに大きいのン。いやらしやの。『コノ耳ウゴク』ほんまに耳が動くのン。けつたいな事。松勇はん、横河の坊さんの耳が動くて。けったいえないか」
「けったいえなあ。一念はんほんまに動くのか。さうか、妙な耳えなあ」
「一念はん。尋常卒業おしたんか」
「したヨ。三千歳サンは」
「しました。去年、一念はんは」
「僕も去年」
「さうか同じやな。一念はん優等か」
「僕は一番だつたよ。すつかり甲だつたよ」
「さうか、おゝえら」
「三千歳サンは」
「一年の時はお尻から三番やつたのが、二年からほんまに四番になつて、卒業する時もやつぱり四番どした。乙が一つあつたん」
「何が乙だつたの」
「體操」
「三千歳サン、斯ういふ字知つてるか」
「知りまへん、そんなむつかしい字。一念はん知つとゐるか」
「横河首楞嚴院の楞の字だヨ」
「そんな坊さんの事知りますもんか。ソンナラ一念はん、斯ういふ字知つとゐるか」
「そんな變挺な字知るかい」
「●●といふ字どすがな」
「そんな藝者の事なんか知つてたまるかい。其なら斯ういふ字よめるかい」
「むつかしい字えな。知りまへん」
「蘇悉地經といってね三部經の一つだヨ 」
「そんなら一念はん斯ういふ字知つとゐるか。書いてしまふまで見んと置きや」
と長い袖でノートを隱すやうにして何やら書く。花櫛が灯に光つて美しい。
「さあお見。これ何といふ字どす」
「馬鹿だナア。へのへのなんか書きやアがった 」
「君達は僕のノートをオモチヤにするんだナ。よろしい。其を横河の和尚サンに送つて一念は嫁サンがあつて二人でこんないたづらをしました、とさういつてやるよ。いゝかい」
「いゝやい。間抜け」
「一念はんの事お告げやしたらひどい目に合はせまつせ。今度お出でやしたら殺したげまつせ」
「こはい事。旦那はん、こはいこつちやおへんか。三千歳はんに殺されたら痛い事どすやろ」
「赤い血が出ないで白い血が出るかも知れない」
「なんぼとおなぶりやす。ナア一念はん二人でひどい目に合はしたげまほナア」
「間抜けの顔を僕が書いて見ようか。そらこんな四角な顔だらう」
「そや/\」
「こんなに眼尻が下つてらア」
「そや/\」
「こんなに鼻がふくれてらア」
「そや/\」
「こんなに頭が尖ンがつてらア」
「そや/\」
「こんなに首が延びてらア 」
「そや/\、本間によう似てるわ。松勇はんお見んか。旦那はんの顔によう似てますやろ。一念はんは畫が上手えなあ」
「さう男はんの傍にばつかりゐんと、ちとお立ちたらどうえ。今からさう浮氣おしるとお母はんに告げるえ」
「いやな姉はん。いふとくれやしたらするのに。囃子どすか。あたし太鼓どすか。松勇はん一緒にしまほ」
囃子が始まる、三千歳と松勇の太鼓に喜千福と玉喜久が二挺鼓をうつ。ヤー、ハー、イヤー、と背色い聲をふりしぼつて、チヨンポポ、デンデコデンと鳴らす。お花と今新たに加はつた小末といふ若い藝子が地を彈く。阪東君が醉つて手拍子を打つ。其度に體が前後に揺れる。
「小原女の踊が見たいナ」
と阪東君が醉眼を開く。お花が三味線を取り上げると、今度は小末が踊る。
「わしが在所は京の田舎の片ほとり、八瀬や小原に牛引いて(合)柴うちばんしよぎ頭に一寸載せ(合)梯子買はんせんかいな、くるみ買はしやんせエ(合)エヽヽヽヽヽ(合)空が曇れば雪がちらちらと(合)それぢやたまらぬ熱燗でのめ、眞赤に醉えばそこらへぶつ倒れ(合)それぢや色氣もこいけもないわいな(合)おこしてやんなあエ(合)エヽヽヽヽヽ(合)』
一念も三千歳も並んで大人しく見て居る。小末といふのは十七八で、髪は江戸ツ子の島田に結つて縞飛白の着物に厚板の帶を小意氣にしめて居る。其が手拭で頬被りして小原女になつた姿は、今迄極彩色ばかりであつた中に又さつぱりと美しい。
「君食はないか 」
と刺身を取つてやる。
「僕は坊主だから食はない」
「其で君三千歳サンに惚れられたり、小末サンに見とれたりしていゝのか」
「何いやがるンだい」
といひながら三千歳の前の皿にある林檎の切れを取つて食ふ。
「中のえゝ事」
と松勇が逃腰をしていふ。
「よろしおすやろ」
と三千歳はツンとすます。
『手を引いて、グードバイして二足三足、別れとも無い胸の内‥‥』
といふ今度は今めかしい唄をお花がうたつて玉喜久と松勇が踊る。其内小末と喜千福も一所に踊り出す。そこがいかん、ここがいかんとお花が直ほす。
『手を引いて、グードバイして二足三足‥‥』
と同じ唄が何遍といふ事なくくりかへされる。まるでお稽古が始まつた樣だ。しまひには阪東君が立つてをどり出す。不器用な踊り具合がをかしい。お艶が笑ふ。
下から仲居のみねが、
「一念はん。伯母はんが迎へに來やはりましたえ。早うお歸り」
といつても一念はだまつてゐる。
『互いに見合わす顔と顔』
といふ處で阪東君の眼つきがをかしいといつて皆がどつと笑ふ。一念も笑ふ。
「おい一念君、伯母サンが迎ヘに來なすつたつていふぢゃないか。叱られぬやうに早く歸りたまへ。そらお土産だ」
と今持って来た許りの生菓子を半紙に一包やる。
「叱られたつていゝやい」
とお菓子をひつたくるやうに取つて、
「もう君横河ヘは歸らないのかい。僕明日歸るのだヨ」
といつてお菓子を兩手に持つたまゝ歸りかける。
「一念はん、ハンケチ貸しまひよか」
と三千歳は立上つてハンケチを振る。一念は一寸振りかへつたが知らぬ風をして踊の中をかけぬけて歸つて行つた。
京都名物のむし鮓が來て藝子も舞妓も仲居も寄つてたかつて食ふ。
「三千歳はん、一念はんが歸らはつて淋しおすやろ。咽につめん樣にお上り」
「おほきに」
「利口な小僧だなア。三千歳さんが惚れるのも無理はない」
「お父つあんもお母はんも無いのやてな。可哀想やおへんか。どうして横河みたいな淋しい處ヘ伯母はんがやりやはつたんやろ」
と三千歳は沈んで居る。
横河の夜は更けにくかつたが祇園の夜は更けやすい。
「ハーーイーー」
といふ子供衆の長い返辭が楼中に響きわたつて聞える。
叡山詣をして東塔、横河等に滯在してゐる間に天台の教への諸法實相、一念三千等の教義を聞くともなく聞いた。一念、三千を割つて一念、三千歳としてこの一篇を書いたのである。『ホトトギス』掲載。