（上）
過ぐる事三年の昔。峡東の風物を探つて信濃の山に別け入る可く、自分は志保の山。差出の磯を経て笛吹川の沿岸を遡つた。
磊々たる花崗質の巨石に激する水流の響は絶えず鳴鸞の音を耳に送る其外に、行手の山の奥から、はじめは鼕々として松の嵐かとも思つたが、やがては悪魔の唸声か但しは暴風雨の襲来かと疑はれる様な一種の響に襲はれつゝ進んだ。
愈々進むに従つて、その響は愈々高く愈々強く愈々凄く耳を打つ。瀧か？ 瀧の音は人に壮快の念を惹起さしむるものだが、これは寧ろ鬼気と悲気と交々我を圧する樣な響。瀧ではあるまい。何だらう。此れが彼の八ヶ嶽の奥に住む山神の鼾声ではあるまいか。仰で白雲かゝる甲信の連山黒魔の如きを見た時、かの山とこの響とは我をして一種森厳なる「怖」を感ぜしめざるを得なかつた。
山外山あつて山尽きず。尾を廻り谷を越えて不図自分は人家二三十を数ふる一の山村に達した。村の名を三富と呼ぶ。例の響は此処に至つて全谷に満ち全村を震はすばかりの烈しさとなつた。
足を早めて其の響の方に村を外れると俄然！ 我脚は股慄して我毛髪は一時に竪つた。自分はまだ此の様な「恐怖」の自然に接した事が無い。
水勢肥え溢れる様な丈余の大瀧。前山の断崖を劈て奔下しそれが斜に流れて、すぐ我脚下なる、方一町ばかりの大洞穴の中に大巴小巴を捲きつゝ流れ込むのである。あゝ怖るべき此の大洞穴！ 欝然たる深山木はその四辺を蔽ふて洞内夜よりも暗く、蛟龍珠を得て驕ると云つた樣な水の流は一種凄烈の気を放ちつゝ悠々として底知れぬ洞穴に捲き込む。捲き込むと共に、はじめ白かつた水は青くなり、青かつた水は黒くなつた。黒くなり遂に白光を帯びて来た。白光を帯ぶるや否や腹の底から人を戦慄せしむる様な凄絶な唸声が耳を貫いて起るのである。
汝我に来れと死の神より招かれた様な言ふべからざる恐怖に打たれて自分は石像の如く深淵を眺めて立尽した。
我に返つて眼を挙げると、向ふの山径を老少取り交ぜた白衣の一隊が至つて無雑作な御輿を陣頭に翳して粛々として此方を指して乗込んで来る。祭礼か、葬式か、鳥渡自分には見当が着かなかつたのである。
気が注かなかつたが自分の居る所から一町許先の方に、竹を以て櫓の様なものが構つてあり注帳を張り廻らしてある。彼の一隊は其処に立止まり御輿を舁き下して其の上に据えた。自分は好奇に駆られて進み寄つた。彼等は云ひ合はした様に自分の洋服扮装に眼を注ぐ。
一寸会釈しながら自分は『御祭礼ですか』装束した神主風の男を目がけて問ひかけた。『左樣でごいす』と恭しく答へた神主の朴樸な面から眼を辷らして御輿を覗いた時、自分が意外に堪えられなかつたのは、中に置れたものは熨斗をかけて水引で結んだ一組の重箱であつたからだ。
『何様の御祭礼ですか』
『お鮨様でごいすよ』
自分の問に答へて呉れた神主は更に自分を怪訝の渦中に引入れた。
『お鮨様？ 食べる鮨ですか』
『ハア左様でごいすよ。』
埃及開国以来色々の迷信を聞いた。けれども鮨を崇拝すると云ふに至つては断じて前代未聞の珍事実である。自分の好奇心は愈々深く神主を追求せねば已まぬ。幸なるかな。此の神主、甚だ話好きの人であつた。
（中）
『お嬢様、私は「釜の主神」へ御礼の為、斯如して毎晩笛を吹きに来るんです。』
石に腰を下した美少年。弊れた衣服は闇にかくれて見えず、珠を欺く白玉の面に隈無く晴れた十三夜の月を仰で、手に一管の横笛を按じつゝ、相対して立つた一美人。嫂婷として容貌花の如き白地浴衣姿の令嬢の問に答へた。
『釜の主神ヘお礼？ 何のお礼なの。（※）
※ ここには本来 「』」 が入るべきだが、直接話法が終わっているのは明白なので、 「』」 を省略したのだろうと思われる。以下にも同様の省略が見られるが、特に注記しない。（電子文藝館編輯室）
『お嬢様、私はねえ、下釜口の鮨屋の子なんです。私には父親は無い、同胞も無い、母親一人子一人なんだけども、そのお母様は久しく病気で寝て居るんです。
と、美少年は声を湿まして首を俛れた。
『それでお前が商売をしてお母様を養つて居るの、まあ。
と、美人は同情の籠つた眼で美少年を見下した。
『それでね、毎朝私は此の川下で鮎を捕つて、それでお鮨を拵へて河浦と塩山の湯治場へ日交替に売りに行く……有難んです……その鮎が毎朝きつと定つた数だけ「ウケ」の中に入つて居るんです。そして毎日拵へただけのお鮨は売り切れない事はありません……お母様が云ふのに此れは必定「釜の主神様」の御陰だから……何か心ばかりでも御礼を差上げにやならん。と云つてお嬢様、私の家にやあ何だつて有りやあしないや……たゞ私はネ、生れると間も無くから此の横笛が大好きなんで、離さず此腰へ差して一日此れを吹かん日があつたら、私は真違ひ無く死んで終ひます。村の人達が云ふ、権三……お嬢様私の名は権三と云ふんですよ……の笛を聞くと泣かずには居られないと。私も一人で笛を吹いちやあ一人で泣け終うんです。——
『それでお母様が、それではお前御苦労だが毎晩一の釜へ行つて「釜の主神」に横笛を聞かしてお上げなさい。……と云ふので私は毎晩此処へ笛を吹きに来るんです。——
原註 一の釜は甲斐国東山梨郡三富村字上釜口にあり
と、語り終つた美少年の言葉を感に堪えず聞いて居た美人は熱涙ハラハラと止度も無く
『何と云ふ優しい心でせう。
杜鵑今血を吐いて前山に行く、美少年と美人とは月下に相擁して泣いた。
知らず、嫉妬深き「釜の主神」はこの清らかなる二人の恋を何とか見る。釜の唸りは一層烈しく山谷に震ふた。
（下）
「釜の主神」に聞かす可く吹く笛は、己が恋人を呼ぶ可き笛と変つた。
果然！ 嫉妬深き「釜の主神」は怒つた。
三富村の豪家、山内六左衛門の屋の棟に白羽の矢が立つた。山内家は其の最愛の秘蔵娘雪子を人身御供に捧げねばならぬ。然らずんば笛吹川沿岸五十八ケ村は、大旱魁に遇ふのである。
心定めし雪子は白無垢の扮装白馬に負はれて犠牲の洞穴に着いた。闔村の老若男女、惨として面を揚げるものが無い。あの美しい、あの優しい、あの情深いお嬢様をなぜなれば、此の怖ろしい萬尋の水底に生きながら投げ込まねばならぬか——さりながら財産も人望も愛着の絆も、天下何物も迷信の前に抗す可き力は無かつた。
時恰も六月十三夜、曾て美少年と美人とが恋ならぬ恋を語り初めてより満一周年の今宵。同じ月はまた無心に悲惨な此の光景を照らして居る。
巌頭にかゝる白蓮一枝、咄嗟、狂風花を吹きぬ。
『お嬢様！！
山を劈く血叫の響。
『遅かつた！！
人押別て駆けつけた美少年。美人を呑んで泡沫を止めざる深淵を睨んで、漲り回る渾身の血と涙とは瀧の様。何思ひけん、生れて以来腰を放さぬ横笛を抜くより早く淵に投じて渦に弄ばれつゝ沈み行く有様を快げに眺むる事霎時、やがて我と身を跳らして狂瀾の中に美人の跡を追ふた。見めぐる人々物に魅かれた如く呆然として為す可き術を知らなかつたのである。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊ ＊
神主は語を更めて云ふた。
『その日に限つて権三の鮎鮨が一尾も売れなんだと見え、重箱に入れた儘、悉皆残つて居た。以来、供養の為、それだけのお鮨を毎年六月十三夜——丁度今晩——この釜の中へ進ぜるので。
それで此の重箱が明朝になると、整然と、この通り水引をかけた儘、川下へ流寄るけれど中のお鮨だけは有りません。