春高樓の花の宴
めぐる盃影さして
千代の松が枝わけいでし
昔の光いまいづこ。
秋陣營の霜の色
鳴き行く雁の數見せて
植うるつるぎに照りそひし
むかしの光今いづこ。
いま荒城のよはの月
變らぬ光たがためぞ
垣に殘るはただかつら
松に歌ふはただあらし。
天上影は變らねど
榮枯は移る世の姿
寫さんとてか今もなほ
ああ荒城のよはの月。
明治三十一年頃東京音楽学校の依頼によりて作れるもの、作曲者は今も追悼さるる斯道の秀才瀧廉太郎氏。
「荒城の月」のころ
左の一文は六月二十九日大分県竹田町郊外岡の城趾において「荒城の月」の作曲者瀧廉太郎君の四十五年祭挙行の折、同場より全九州に放送したのを根柢したものである。
「荒城の月」──この名曲の作者は大分県速見郡の瀧吉弘の子息である。父が直入郡長に任官され竹田町に居住した時、彼は同町の高等小学に入校した。同校の教員五藤由男さんは彼の恩師の一人で目下竹田町に健在であり、六月三十日竹田荘で開かれた十五六人の座談会に列席した。列席者の中には廉太郎君の妹十一歳ちがひの安倍トミさんがあつた。瀧君が独乙留学着匆々ライプチヒ市のファルヂナンド・ローデ街七番地エツシゲ夫人の許に下宿して一九〇一(明治三十四年)六月十二日日附の画ハガキ(ビスマルク銅像)を後藤さんに出した。これが三十日座談会の席上に提出されて我々の感慨を深くした。
高等小学を卒業した瀧君は上京して芝区の私立音楽会に入り勉強して翌年十六歳で上野の東京音楽学校に入った。十六で同校入学などは未曾有である。在学中に数種の作曲をなし、二十歳で卒業すると同校助教授に任ぜられた。「荒城の月」は多分二十一歳の作であらう。東京音楽学校が中等唱歌集の編集を企て、当時の文士にそれぞれ出題して先づ作詞を求めた。私にあてられたのは他の二篇と共に「荒城の月」であった。この題を与へられて先づ第一に思ひ出したのは会津若松の鶴ケ城であった。といふ理由は蜂じるし白二筋の帽をつけた学生時代ここに遊びて多大の印象を受けたからである。
鶴ケ城は約五百五六十年前葦名直盛の創築である。その後蒲生氏郷及び加藤嘉明によって増築され、寛永二十年徳川将軍家光の異母弟一代の名君と称せられた保科正之が会津移封以來累代松平家の居城となって明治維新迄つづいた。親藩たる威望に加へて累代名君多く二十三萬石の雄藩会津は仙台六十四萬石と共に東北の雄鎮であった。
明治維新史上の劈頭を飾る会津落城の悲劇と殉難苦節とはあまりにも著名である。西南諸侯と意見を異にして賊軍の汚名を受け、奥羽諸藩連盟の主動者として三道より進み來た天下の大軍を引き受け、三旬の籠城に耐へたが、城外の友軍悉く掃蕩され、悪戦苦闘の城兵も糧食尽きて補充の道がない。その時征討軍参謀板垣退助が賊名を負ひて空しく斃るるを惜み、先に帰順せる米沢藩を介して会津藩主松平容保に帰順勧告書を送つた。これを読み沈思黙考の末将士を集めてこの問題を議せしめたが議論容易に決せず。その時容保は一身の刑死を覚悟し、部下を助命せんと決心し諸将士を慰諭して遂に開城に決した。かくて明治元年戊辰九月二十四日鶴ケ城頭高く錦旗が飜つた。
九月二十二日の夜秋天碧水の如く明月城頭に懸つた頃、奥御殿奉仕の山本八重子(後に京都同志社大学総長新島襄の妻)が箭を以て白壁に題した。
明日よりはいづくの誰か眺むらん、馴れし大城に残る月影
またある侍女は降伏を悲み憤り、指を噛み、滴る鮮血を以て唐末の花蕋夫人の詩(全唐詩にあり)──その中の句
君王城上建降旗、妾在後宮何得知
と記して遂に城中に自殺した。
これより先き敵軍の來襲いよいよ迫る報に接し、八月二十二日藩公自ら馬を陣頭に進めた。その時その前後を護った中堅は史上著名の「少年團結白虎隊」である。彼らは転戦の末会津城外一里の飯盛山に集り、郭内の邸宅民家数千所々兵火にかかり、紅焔天を焦す間に鶴ケ城の五重の櫓の隠見するを見て「君公は城と運命を共にされたであらう」と哭し、跪きて城を遥拝し終りて十九少年皆自刃した。中の一人十六歳の石田和助は文天祥の零丁洋の句「人生古より誰か死なからん、丹心を留守して汗青を照さん」と吟じ終り「手疵苦しければお先に御免」と両肌をぬぎ刃を腹に突き立て見事に引き廻して壮烈の最期を遂げた。また十六歳の飯沼貞吉は此世の名残にと母の餞とせる色紙を取り上げ、声高らかに「梓弓向ふ矢先はしげくとも引きな返しそ武士の道」と詠じ脇差を抜き、喉に突き立てたが切先が頸椎に当り貫けず、臂の力が足らぬためかとて柄頭を傍の石に託し、身を伏してのしかかつたが、その儘人事不省に陥つた。たまたま是もまた自分の子も壮烈の自刃をなしただらうと思つた藩士印出八郎の母が馳せて現場に馳せつけ、飯沼の未だ死なないのを見付けて担いで山を下った。この飯沼によつて白虎隊殉難の眞相が明にされた。貞吉は後に名を貞雄と改め、逓信省に出仕して技師となり、勤務幾十年、昭和二年頃七十四歳の高齢で、仙台長刀町に住んでゐた。(今は故人)
歴代名君の治めた会津藩の流風余韻は以上の通である。前にも曰つた通り蜂じるし白二筋の帽を着けた私が鶴ケ城及び飯盛山を訪ひて多大の印象を脳裏に残したことは何も怪むに足らぬ。それで音楽学校から「荒城の月」の歌詞を命ぜられた時、第一に念頭に鶴ケ城が浮んだのである。
私の故郷の仙台の青葉城、三百余年前文武兼備の名君伊達政宗卿──「出づるより入る山の端はいづくぞと月に問はまし武蔵野の原」の名吟により、.近衛公はじめ都の歌人を驚嘆せしめた──名君の建設の青葉城(今その荒廃の趾を前にして私がこの筆を執りつつある)──この名城も作詞の材料を供したことはいふ迄もない。
「垣に残るは唯かづら、松に歌ふは唯嵐」はその実況である。この作詞を音楽学校が採用して、作曲を瀧君に依頼したものと見ゆる。君は二十一歳の頃大分に帰省の際、竹田町郊外の岡の城趾でこの曲を完成した。佐野周二君が主役を勤めた映画に見る通である。但し此映画は事実を枉げて、洋行前に瀧君が病死したことにしてある。この岡の城趾で作曲された事を私は当時全く知らなかつた。
作曲の後三ケ年の留学を命ぜられ、ライプチヒで研究したが不幸にも中途発病してやむなく帰朝、独乙のハムブルグ港出発の日本郵船会社で帰朝、その船がロンドン先きのテームス河口チルベリイドックに一日碇泊の時、私は当時英国留学中の姉崎正治博士に陪して彼を見舞つた。これが彼と私との最初最終の対面である。
帰朝の翌年二十五歳で瀧君は一生を封じ去つた。二十五歳の短生涯において「荒城の月」及び他の若干の傑作を残したことは同じく二士五歳で早逝した明治時代(恐らく最大の閨秀作家)樋口一葉を連想せしめる。
竹田町郊外の岡の城は今を去ること四百余年、朝倉土佐守親光の創築といはれてゐる。爾來城主は種々変つたが、戦国時代の城主十八歳の志賀親次の防禦に対して豊後攻略を企てた島津軍も施す術なく空しく退却した。稻葉川と白瀧川との合流する断崖上の岡の城は、さすが当時天下三堅城の一と称せられた程あつて、守るに易く、攻むるに難い金城湯池であつた。
今を去ること五年前、瀧君の四十年祭挙行の時も私は招かれて参加した。その折当時の竹田町長波多野君の祭詞奉読に次いで私は左の一篇を霊前に捧げた。
歴史にしるき岡の城、
廢墟の上を高照らす
光浴びつつ、荒城の
月の名曲生み得しか。
「すぐれしものは皆靈助」
偉大のゲーテ曰ふところ、
世界にひびく韻律は、
月照る限り朽ちざらむ。
ドイツを去りて東海の
故山に疾みて歸る君、
テームス埠頭送りしは
四十餘年のその昔。
ああうらわかき天才の
音容今も髣髴と
浮ぶ、皓々明月の
光の下の岡の城。
この詩をたむけた当時と五年後の今日とを対照して感慨無量である。國破れて山河あり、全国が荒城そのものである。私の詩は四十余年の昔に今日あるを豫言したやうな感があるではないか。
天上影は變らねど
榮枯は移る世の姿
しかしこれを他の一面から考へると春夏秋冬の推し移る通り、全く弱り切つてる冬枯の日本も、いつかは春が來るであらう。この希望を抱き、在来のミリタリズムを振り棄てて祖国愛と人類愛とを兼ねる新天新地の理想を抱き、邁進すべきである。前途は遠いだらうが日本の復興は必ず来ることは私の第六感である。 (昭和二十二年)