晩秋──。
ロシアの夕暮れはうら悲しい。街中はまだしも、ひとたび郊外へ出ると深い暗愁が立ち籠めている。空は鉛色に染まり、薄暗くはなるがいっこうに夜がやって来ない。怪しい気配があちこちに漂っている。文字通りの逢魔がとき……。落葉樹は枝をあらわにし、葉を持つ木々も冬枯れの気配を帯び始める。森は疎らでありながら深く黒ずみ、暗色の立ち籠める中をただコンクリートの広い道だけがどこまでもまっすぐに伸びている。晩鐘の響きまでがまがまがしい。
「あっ」
車の助手席で彩子が声をあげた。
黒いものが道をよぎり一瞬、目が合った。
つぶらなまなざし。
が、次の瞬間、動く塊は車に撥ね飛ばされ、宙を舞って路傍の木の幹に叩きつけられた。血の色が弧を描き、瞬時フロント・ガラスの向こうに赤い紐が残っているように見えた。
「厭ね。掃除が大変」
ライサがフランス語で呟いて唇をゆがめる。
「犬かしら」
「野犬でしょ」
ライサは動じることもなく言う。口調も横顔もひどく冷淡に感じられた。ロシア人の表情は、面差が端整であればあるほど酷薄に映る。なんの偏見もないけれど、少し怖い。
──いざとなったら、この人たち──
相当に恐ろしいことを平然とやってしまうのではないかしら。民族の歴史の中に残酷さが潜んでいる。彩子は悲しいエピソードを一つ二つ心に描いた。
「前に一度来たけど、このあたり、私もよく知らないから」
それが野犬を撥ね飛ばす理由になるものかどうか。彩子は、
「気をつけて」
とだけ答えた。
ライサとは今日の午後、エカテリンブルグの大学図書館で偶然出会った。声をかけられて驚いた。指折り数えてみると、ちょうど十五年前、彩子はパリに留学し、ライサはそのときの学友だ。格別親しい間柄ではなかったが、女子留学生で博物館学の講義を聞く者は少なかった。ライサとは参考書を貸し借りするくらいの仲だった。
当時の印象を思い返せば、ライサは生真面目な国費留学生。彩子もおおむね真面目だったが、真面目さの質が少しちがっていただろう。彩子のほうは日本人の女子留学生によくあるタイプ。フランス語を懸命に勉強し、授業にはきちんと出席して評価Aを集め、わるい仲間とはけっしてつきあわない。ライサは、私生活の細かいところまでは知るよしもなかったけれど、ひたすらコミュニズムを信奉してすこぶる厳格だった。がちがちの教条主義者。その部分に彩子はあまり踏み込まないようにしていたけれど、ライサは共産党員であったろうし、その中のエリートだったにちがいない。なにかにつけて自分たちの思想と政治の正しさを主張して憚らない。周囲の学生たちには白い目で見られているふしがあった。
久しぶりに邂逅して、すぐさま、
──この人、少し変わったわ。ずいぶんとさばけちゃったみたい──
と感じた。ソビエト崩壊のせいかしら。それとも年齢を重ねたせいかしら。わからない。スラブ系の凛々しい顔立ちだけが昔のままだった。
「なんでエカテリンブルグに?」
「仕事なの」
彩子は横浜の美術館に学芸員として勤務している。今回は、エルミタージュ美術館を調査見学し、旅の後半はエカテリンブルグに飛んで市郊外の女子修道院へ足を運ぶスケジュールである。ナキア修道院の図書室に、ほとんど世間に知られていない稀覯本が秘蔵されているらしい。装丁と印刷のみごとさは美術品としての価値も充分に高いんだとか。予備知識は乏しいが、とにかくそれを眺めて帰らねばならない。
その話を聞いて、ライサが、
「私もナキアの近くへ行くの。私の車で行きましょ」
と誘ってくれた。
「お仕事?」
「ううん。ボーイ・フレンド」
「でも……あなた人妻でしょ?」
「ふふふ」
眴で答えた。
元革命党員も変われば変わるものだ。彩子は思い出す。パリにいた頃、老教授がウクライナ出身の女子学生と不倫の恋に陥り、学生たちは見て見ぬふりをしていたけれど、ライサ一人が糾弾し、騒ぎが大きくなって教授は職を追われてしまった。学生たちに別れを告げ、夫人の車で肩をすぼめて去って行った姿があわれだった。あのとき、ライサは腕を組み、正義をまっとうした戦士みたいに佇立して見送っていたのではなかったかしら。
──それがボーイ・フレンドと逢引きかあ──
とはいえ、彩子としては、以前の教条主義者よりもくだけたライサのほうがつきあいやすくて助かる。
──いいんじゃない、自由思想も──
口からこぼれそうになるのを頬でこらえた。
目的地は思いのほか遠い。
「アーヤ、元気ないのとちがう?」
アーヤが彩子の呼称だった。ロシア人には呼びやすいだろう。
「わかった?」
「昔、もっと元気だったから」
そんなふうに見られていたのかしら。
「ううん。そうじゃないの。昨日ホテルに着いて、サラダを食べたの。蟹肉入り。すぐに吐き気をもよおして、今日はなんにも食べてないから」
「ホテルに言った?」
「ううん。疲れてたし、たまにあるのよ、こういうこと」
一口食べたときから違和感を覚えたのは本当だった。古くて悪くなっているのとはちがう。体質に合わないのだ。彩子は時折そんな直感が働く。レタスの上に載った筋状の白身は、薄甘くゆるんで、蟹よりももっと下等な動物を感じさせた。蟹と称されているものの中には蜘蛛の仲間もいると言うではないか。二くち三くち飲み込んでから気づき、急に気分がわるくなった。無理に吐いてベッドに転がり、とにかく眠った。朝、起きてもまだ嘔吐感が心に残っていた。そのあとジュースを少し飲んだだけである。
「大丈夫?」
「平気。胃腸は丈夫なほうだから」
ライサは思案をめぐらしてから、
「クラブ・デ・ドワ・ブラン」
と言う。
「なに、それ?」
訳せば白指蟹かしら。ライサの説明では、人間の掌ほどの大きさで、さながら指を立てたようにノソノソと這い歩くらしい。
「気味がわるいの、とっても」
彩子の気分なんかおかまいなし。ライサは五本の指をハンドルの前に立て、骨を突っ張り、無気味な白い生き物のように動かす。
「やめて」
忘れていた吐き気が戻ってきそうだ。
「このへんに棲んでいるのよ。私、前に襲われかけたわ。ウフフフ」
高く笑って自分の首を掌で絞める。
わるい冗談かもしれない。
「厭ねえ」
首を振ってごまかしたが、イメージの醜悪さが消えてくれない。
──変な人──
車で送ってくれるのはありがたいけど、
──なんのつもりかしら──
どこかに屈折した恨みが残っているのかもしれない。学生の頃をあれこれ思い出してみたが、思い当たるふしはなにもない。
「地図を見て」
「ロシア語、よく読めないのよ」
途中で少し迷ったが、ライサが農家に立ち寄って尋ねてくれた。わざわざ遠まわりをして、修道院の玄関まで彩子を送ってくれるつもりらしい。
「あれね」
「ええ?」
ようやく夜が黒ずむ頃、森が開け、霧の中に煉瓦造りの古い館が浮かんで見えた。
「じゃ、さようなら」
とライサは先を急ぐ。
「本当にありがとう。手紙を書くわ」
感謝をこめて手を握った。
紹介状の名あて人であるベトリナ副院長は顔もまるく鼻もまるく目もまるく、体までまるみを帯び、性格もゆったりと優しい人のように感じられた。院長がどこにいるのか、わからない。実質的には副院長がこの館を取り仕切り、とりわけ図書室の管理は完全に彼女の掌中にあるように見えた。
「この部屋をお使いになって」
図書室の隣のベッドルームに案内され、
「ありがとうございます」
「お勉強はこちらでね」
図書室の一隅にあるりっぱなデスクと椅子を指し示す。
「おそれいります」
ベトリナ副院長はロシア語風の発音だが、とにかくフランス語が話せる。が、年齢は……多分八十歳に近いだろう、ほんの少し脳味噌がゆるみ始めているのか、時折理解しにくいことを言う。
──言葉のせいかしら──
と思ったが、そればかりではなさそうだ。
玄関の脇に、長い鬚に黒い衣裳、黒い僧帽をかぶった老人の肖像があって、
「祖父なんですのよ。それはもうたくさんの奇蹟を顕して、みなさんから尊敬されておりましたの」
祖父ばかりか両親もまたこの修道院の幹部であったらしい。少し小ぶりの肖像写真が並べて飾ってある。
「りっぱな図書室ですね」
これはもうだれの目にも一見してわかる。ステンドグラスで飾られた高い天井。書棚も充分に高い。蔵書の数はさほど多くはない。少数精鋭かしら。右手の一郭がとりわけ貴重な本を置くコーナーになっているらしい。ガラス戸に鍵がかけてあるが、
「どうぞ、どれでもご覧になって」
と、鍵を開けてくれた。
「おそれいります」
そう言われても、どれをどう見たらよいのかわからない。どの一冊を取ってもみごとな装丁がほどこしてある。皮の表紙、金銀の細工。そして、ほとんどが大きくて重い。表紙に刻まれた文字はラテン語か、ギリシャ語か、ロシア語、ほんの少しフランス語その他がある。聖書、祈祷書、神学書のたぐいらしいが、彩子には読めないものが多い。さいわいなことに配架の順序に従って蔵書のタイトルを記したリストが作られていて、
「これをご覧なさいな」
ロシア語にそえてフランス語と英語の訳が記してあった。
「いただいてよろしいんでしょうか、このリスト?」
「どうぞ、どうぞ」
これを持ち帰れば、任務の半分は果せる。
副院長みずからが七、八冊を取り出して、どれほどすばらしいものか口を極めて説明してくれたが、彩子としてはリストに丸印をつけて多少の感想を記すくらい。説明がくわしくなればなるほど、よくわからない。美しい装丁はともかく、中身のほうは学芸員より図書館員の仕事、それも宗教書に明るい司書でなければ、とても理解できるしろものではなさそうだ。
ぼんやりと聞いていた。すると、そのとき、
──なにかしら──
壁のあたりでカサカサとかすかな音が鳴った。
二度か、三度……。壁裏に虫が巣食っているのかもしれない。彩子が目を向けると、副院長も聞いたらしく、ゆっくりと頷いて、
「あの本箱」
と指さす。
「はい?」
貴重書の本棚の上に、もう一つ優美な扉をつけた金庫のような箱があった。
「一番の宝物なんですの。すみません。取ってくださいます? 高いところで、私、危ないから」
と部屋の隅にある書架用の踏み台を指し示した。そして彩子が踏み台を据えるあいだにデスクの引出しの鍵を開け、その中からこれも優美な装飾をほどこした小鍵を取り出して、
「これで」
と渡す。
彩子は頼まれるままに一メートルほどの高い踏み台に上がり、本箱を開けた。中に一冊の厚い本……。鮮かなグリーンに染色された皮表紙。色とりどりの宝石が象嵌されていて眩ゆい。まさに宝石箱と言ってよい装飾だ。タイトルは華麗な花文字で綴られ、これも読みにくい。
だが、金泥を塗った小口には、百ページを越える上質の紙が束ねてあるのが見え、
──やっぱり本なんだ──
と納得した。
背とは反対側の小口に黒皮のベルトが懸かり、これにも鍵穴がついている。この本は簡単には開けない構造になっている。
副院長が目顔で合図を寄こす。彩子が踏み台を下り、デスクの上に置いた。
「きれいでしょ」
「はい」
「一番大切な宝物」
いとおしそうに撫でていたが、
「じゃあ、もうすぐ食事ですから」
と、宝物を胸に抱いて出て行った。
彩子としては、少し拍子抜け……。
──てっきり中身を見せてくれると思ったのに──
しかし、考えてみれば図書室に鍵をかけ、本箱に鍵をかけ、その鍵を隠す引出しにも鍵をかけ、さらに本そのものにも鍵がかけてあるのだ。簡単に中身を見せられる書物ではあるまい。
──でも、なにが書いてあるのかしら──
リストにも記載がない。
間もなく若い尼僧が呼びに来て、副院長と一緒に軽い食事を取った。食後はまた書棚の前に立って勝手気ままに眺めた。めぼしいものをカメラに収めた。一時間余り仕事を続けたところで、
──もうたくさん──
正直なところ、神様方面はあまり得意ではない。好みでもない。
──仕事はおしまい──
優雅な読書にふさわしいデスクと椅子が備えてあるのだから、自分の読書を楽しむことに方針を変更した。ささやかな計画がないでもなかった。
ボストンバッグから洋書を取り出す。パリの古書肆で見つけた一冊。この地で読むのがふさわしい。タイトルを訳せば〈エカテリンブルグの惨劇〉かしら。
ロシアに入る前にパリで二日間を過ごしたのだが、正直なところ本屋の棚で、このタイトルを見るまで彩子は旅程の最後にあるエカテリンブルグがどういう歴史を持つ町か、すっかり忘れていた。とても興味深い事件の現場だというのに……結びつかなかった。
どうせならしっかり勉強しておこう。
大きな椅子に腰を落とし、軽装版のページを繰った。こんなときにはかならず読書ノートをかたわらにおいてメモを取る。
まず一九一八年七月十六日夜、と記した。惨劇はこの夜に起きた。それは三百年を余して続いたロマノフ王朝の終焉であり、アナスタシア伝説の誕生と言えば、もっとわかりやすいだろう。
二十世紀に入ってロシア帝国は足早に崩壊の一途をたどる。まさに内憂外患。国内では経済的な不安が募り、労働者のストライキ、兵士の造反が目立つようになった。国外に目を転ずれば、第一次世界大戦の戦況はロシアにとって負担となるばかりだ。加えて皇帝ニコライ二世は凡庸で、怪僧ラスプチンを重く用いるが、この男の評判が極端にわるい。
ついに革命が勃発。レーニンの率いるボルシェビキが勝利を収め新政府が発足する。ときに一九一七年十一月七日のことである。十一月の出来事だがロシア暦に従って十月革命と呼ばれるのが通例だ。
当然の帰着として王家は迫害を受ける。革命の前年にラスプチンは暗殺されていた。ニコライ二世は退位し、ペテルブルグ郊外の宮殿に軟禁される。さらにオビ川上流の町トボリスクに移って小康を得るが、十月革命の成就ののち一九一八年の四月、家族ともどもエカテリンブルグに送られ幽囚の身となる。もはや王家の生活に往年の輝きなど見るべくもなく囚人同様の扱い、粗食に耐え、厳しい制限を受け、屈辱にまみれなければならなかった。
皇后も皇女も女たちは監視の目を盗んで宝石類を衣服に縫い込める。いつか自由の身となったとき、着のみ着のまま放り出されても、この装飾品がきっと役に立ってくれるだろう、と。
皇帝一家が幽閉されていたのはイパチェフ館と呼ばれる陰気な建物で、館の警備隊長はユロフスキーという男だ。横暴であるよりむしろ温和な性格の持ち主だったという証言もある。虫の居どころ次第で目茶苦茶をやるようなタイプではなかったとか……。だが、革命直後の世情は緊迫していた。反革命軍がチェコ軍と手を組んでエカテリンブルグに進攻して来る。皇帝一家を反革命軍に奪われてはなるまい、と、そんな判断があったのは確かだったろう。どの道、皇帝の運命は決まっていた。
とはいえ、決定的な命令はだれが下して実行へと移されたのか。今日に至るまで真相は明らかにされていない。
彩子は二色のボールペンを取り、記述の要所に赤線を引き、軸のぽっちを押してはノートに黒くメモを記した。読んだものをよく記憶するためには、この方法が一番よい。
──惨劇の一部始終をだれが見ていたのかしら──
目撃者は限られていただろう。
運命の夜、皇帝一家と、その従者たちは突然、呼び起こされ、地下室に集められた。皇帝ニコライ二世、皇妃アレクサンドラ、皇女が四人いて、上から順にオリガ二十三歳、タチアナ二十一歳、マリア十九歳、アナスタシア十七歳、そして血友病を患っているたった一人の若い皇子アレクセイ十四歳、この家族に加えて医師、侍従、小間使い、コック、都合十一人である。
押し込まれた部屋は看守たちの宿舎の一郭で、縦十四フィート、横十七フィート、窓には格子が入り、家具もなく、がらんどうだった。
──十二畳間くらいかしら──
と、彩子はノートに細長い四角を描く。
ただならない様子に驚いて皇妃が、
「なんなの? 椅子もないじゃない」
と眉をしかめた。
ユロフスキーが皇帝だけを室外に出して銃殺を伝えた。皇帝は顔面を蒼白にして室内へ戻ったが、一言も発しない。すぐさま銃を持った兵士が入室する。皇帝が背を向け、十字を切る。銃弾が炸裂した。医師が皇帝を守ろうとして先に銃弾を受けて倒れた。
いくつもの銃がいっせいに火を吹き、狭い部屋に銃声が激しく鳴って散り響く。
皇帝、皇妃、そして皇女の中の一人……三人がたちまち死んだ。皇子は宙に弾き飛ばされて崩れた。アナスタシアはタチアナの背後にいて、まずタチアナが倒れた。タチアナの腕から愛犬がこぼれて落ちた。コックは坐ったまま撃たれ、侍従はいつの間にか死んでいた。小間使いは枕で身を守ったが、銃剣で突かれ、けたたましい悲鳴をあげて転げまわった。細く息をついている皇子に兵士が近づき、刃で刺し、すかさず手首を斬った。宝石をちりばめた腕輪を奪うためであった。
おびただしい血のほとばしり、血の匂い……。兵士は生きている者にとどめを刺す。とっさの略奪にも抜かりがない。
寝室からシーツが運ばれ、次々に死体がくるまれた。待機していたトラックの荷台に投げ込まれ、轍が血に濡れて残った。
エカテリンブルグは炭鉱業で栄えた町である。周辺にはいくつも炭坑があり廃坑があった。死体を載せたトラックは郊外に出たところで三、四台の荷馬車に死体を分けて積み換え、荷馬車は鉄鉱石採掘の廃坑へと走った。女性たちの死体には凌辱が加えられた、という。死体は切り刻まれて焼かれ、竪坑に捨てられ、最後に手榴弾が投げ込まれた。あとかたもなく処理することがどこからか発せられた命令であった。荷台からこぼれた犬の死体が最後にポーンと投げ込まれ、いっさいが大量の土で埋められて作業が終った。
──でもアナスタシアだけが──
と、彩子は目を上げる。
惨殺をどう潜り抜けてか、アナスタシアだけが、どこかで、だれかに、瀕死の状態で救われ、手厚い介抱を受け、傷癒えて国外へ逃亡した、と惨劇のあとに伝説が誕生する。
ヨーロッパの貴族はみんな縁続きだ。ニコライ王家にゆかりのある名家は至るところに散っている。皇女が国境を越えれば救いの手は確かに伏在していただろう。
一方、革命政府は皇帝を亡き者としたあと基盤を固め、ソビエト連邦の建国へと邁進していく。ヨーロッパの政情は複雑で、油断がならない。どこに身方がいて、だれが敵なのか、判別がむつかしい。アナスタシアを救う人もいれば、なおも命を狙う勢力もある。皇女と知っても、心ある人は口を鎖して秘密を守るのが当然の配慮であったろう。
かくして何年かが経たのち、
「アナスタシアを知っています」
「私がアナスタシアです」
「今、病院にいる記憶喪失の女性こそアナスタシア皇女でいらっしゃいます」
ヨーロッパを中心に時を越え、場所を変えて噂が駈けめぐり、不思議な人物が登場し、いくつもの著述が発表され、映画までが作られてしまう。つい先日もアメリカの映画会社がアニメ映画〈アナスタシア〉を製作し、日本語版も出まわっているはずだ。彩子がパリで入手した本も、
──その一つね──
この伝説の一番の問題点はエカテリンブルグから、いや、イパチェフ館の地下室から、どうしてアナスタシアが逃がれられたか、そこにかかっている。
──この近くかしら──
地図の知識は全くないけれど、現場の近くでないとは言いきれない。なにしろここはエカテリンブルグの郊外なのだから……。
本に栞を挟み、ボールペンを置いたとき、ドアが細く開いて、
「紅茶をめしあがれ」
副院長がロシア茶を持って入って来た。
「どうぞ、おかまいなく」
副院長はデスクにカップを置きながら目を見張って彩子が読んでいる本のタイトルを見つめる。そして、もう一度見直してから、
「事件に関心がおありなの?」
「はい。ここで起きたことでございましょ?」
「ええ、本当に」
「フランスに留学してましたときにもアナスタシアのことは聞きましたわ」
「そうでしょうとも」
「でも…もう生きていらっしゃいませんわね。百歳に近いわけですから」
「いいえ、そうとは言いきれませんわ。意外と御長命で」
あら? 声に確信のようなものが籠っている。
「なにかご存知なんでしょうか、副院長先生は?」
「アナスタシア様のことはわかりませんけれど、皇子様はご存命でいらっしゃいますわ」
敢然と呟く。語気の強さにもかかわらず彩子はてっきり聞きまちがえたかと思った。
「血友病の、アレクセイ皇子が……」
「そう。私の祖父が奇蹟を起こしましたの」
そういう話か、と、彩子は微笑んだ。奇蹟がからめば、なんだって起きるだろう。
が、それはともかく、ロシア茶はなかなかの味わいである。ジャムはなんの果実かしら。彩子が飲み干すのを見て、
「ちょっと待って。もう一ぱいさしあげましょうね、今度はウオトカを入れて。一段と味がよくなりますのよ」
彩子の制止を聞かずにいそいそと出て行く。
──奇蹟ねえ──
どう考えてもアレクセイには生き延びるチャンスはなかった。銃撃者にしてみれば、皇帝についで皇子はぜひとも殺しておかなければならない人物だったろう。
またドアが細く開き、副院長の姿より先にウオトカの香りが漂ってくる。
「これ、旅の疲れを取りますのよ」
カップを載せたトレイをデスクの上に置いてから、うしろ姿で言い、もう一度ドアの外に出て、今度は……なんと、あの宝石箱のような本を抱えて来た。
「おそれいります」
「どうぞ、どうぞ。せっかくですから、これもお見せしましようね」
掌に本を開ける鍵を握っていたが、鍵はすでに開かれていた。
「なんの本なんでしょうか」
「おほほ。なんでしょうねえ。事件のあらましは、ご存知でしょ」
と、視線をふたたび彩子が読んでいた本へと送る。
「はい……」
皇帝一家の惨殺なら、不充分ながら知っている。
「皇子様は生き続けて、ここで暮らしていらっしゃるの」
誇らしげに呟いてから豪華な本のベルトを弾ねあげ、表紙を開いた。
厚い羊皮紙のタイトル・ページ。
さらにそれをめくると……ページを切り穿って掌形の穴があいている。さながら人間の掌を隠しておくほどに。
掌そのものは、ない。周辺に粘液の汚れが、古い血液のようなものが薄く滲んでいた。
「これが?」
「そうですとも。今はお仕事があってお出かけになられたけど……ずっと、ここに、何十年も」
そう呟く相手の目を覗くと、少なくとも正気の色である。
「そうなんですか」
よくはわからないが、逆うのはやめた。
副院長はすぐに表紙を閉じ、ベルトをかけて、
「卑劣な兵士どもが皇子様を撃ちました。腕輪を奪うため手首を斬り落としました。なんと痛ましいことでしょう」
十字を切って続けた。
「お体は荷馬車で運ばれ、どこかへ消えましたけれど、お手首だけが、私の祖父のところへ届きました。奇蹟が起きたのです。お手首だけが生き残られたのですわ。だから、ずっとここにお住まいいただいて…-」
フランス語の語法が歴史的事実を述べる単純過去に変わっていた。
「でも、今は?」
「はい。珍しく狩りに出られて……。お体がお弱いから遠くへは行けないんですの。でも、今夜は獲物が近くに来ております、私にはわかりますわ、つまり……」
夢でも語るように告げてから、ふっと表情を平常に戻して、
「うれしいわ。祖父がずっと弱いお体を鍛えてさしあげて……。あんたにだけお話しするのよ。気に入ったから。黙ってばかりいると、つらいの。でも他の人に話しちゃ、いけないわ」
今度は親しさを籠めた“あんた呼び(チュトワイエ)”に変わっていた。
急に彩子の手を握り、
「おやすみなさい。もう遅いから。ティ、おいしかったでしょ」
「はい……」
宝物を抱えたまま踵を返し、戸口のところまで行って振り返った。もう一度、きっぱりと、
「だれにも話しちゃ駄目よ」
まるい眼差が、眼の底のほうで怖いほどの厳しさを放っていた。
彩子は茫然と立ち尽していた。最前、初めて会ったとき、わけもなく“脳味噌がゆるみ始めている”と感じたのは、あながちまちがいではなかったようだ。
──私も、少し変だわ──
と倦怠を感じた。
眠りによいというウオトカが、意識を微妙にぼやけさせている。もう時刻は十二時を過ぎていた。
ベッドルームに入り、体を横たえた。
夜はひっそりと静まっている。
灯を消し、目を閉じ、たったいま聞いた奇妙な話を考えた。いずれにせよ、
──ここは惨事のあったところ──
怖い。事件を考えるとわるい夢を見てしまいそうだ。ライサのことを考えた。今ごろは恋人と甘い夜を過ごしているのかしら。でも、それを思うと、キャンパスを追われた老教授の姿が浮かぶ。時代が変われば正義も変わってしまう。とりわけこの国ではそうらしい。革命、鉄のカーテン、ペレストロイカ……百年足らずの間に政治もモラルも激変した。老教授を厳しく糾弾したライサが、今は不倫の恋に耽っているなんて……釈然としないものを感じてしまう。
でも……ロシア茶に注がれたウオトカは相当に強い。脳味噌に染み込んでくる。思考がさらにおぼろになった。そのまま眠りに落ちた。
どれほど眠ったか、わからない。ずっと眠り続けていたのかもしれない。
──私、どこにいるの?──
しばらくはわからなかった。意識が混濁している。目ざめたまま眠っているみたい……。初めての感覚……。
──ロシア茶を二はいも飲んで、おいしかったけど──
あとのカップはただのウオトカではなかったのかもしれない。
──ここで殺されたら──
だれかが気づいてくれるだろう。たとえばライサ。でも死体が廃坑に投げ込まれたりして……。
ゆらゆらと立ち上って、カーテンを細く開けた。月が光を落としている。高い塔が夜空を突いて立っている。とても夢幻。これがエカテリンブルグの夜。でも本当は夢なのかもしれない。
中庭の草地の隅に白いものが落ちている。
──手袋かしら──
でも動いているわ。小さな動物らしい。思いのほか早い足取りで彩子の窓の下に這い寄って来る。彩子は窓を開けた。戦慄が走った。
ゾクリと肩を震わせたのは、明けがたの涼気のせいばかりではあるまい。
──人間の掌──
指を立てて這っている。蜘蛛のように、蟹のように。
壁に這い上がり窓を目ざし……彩子が身を乗り出したが、死角に入ってもう見えない。
どこかでカタンと窓を閉じるような音が聞こえた。音のあたりに人の気配を感じた。
翌朝はすっかり寝込んでしまい、あわてて身を起こしたときは十時に近かった。
体調はわるくないが、胃のあたりが少しむかついている。夢が嘔吐を誘っている。
目ざめる直前に夢を見たことは疑いない。鮮明に覚えている。
白い大きな蜘蛛、甲羅のない白い蟹、血管の浮き出た白い手……。名状しがたいものが蠢いていた。足を、指を、骨張らせて立ち、ぎごちない足取りで進む。ゆっくりと動き、急にすばやく走る。壁にも上る。細い隙間からも体をペチャンコにして忍び込む。白い体にはどこを捜しても頭がない。腹のあたりに口があるらしい。突然、彩子の背筋を這い、
──厭っ──
そこで目を開けた。
醜悪なイメージが脳裡に残っている。背筋には感触までが這っている。
──でも──
これは夢だが……夢だと思うのだが、その前に見たのは夢ではない。ないような気がする。月下の中庭を無気味なものが這っていた。人間の手。掌が甲を上にして……。鮮明な夢。おぼろな現実。どちらを信ずればよいのかしら。
部屋の外に足音が聞こえた。カタカタと……。もちろんこれは人間の足音だ。ぐずぐずはしていられない。とにかく起きて身仕度を整えた。
「おはようございます」
と声をあげると、まるい顔が覗く。
「おはようさん。よく休まれたわね。朝食をどうぞ」
「すみません。つい朝寝坊をしてしまって」
「いいえ、いいえ。体を休めるのが一番ですよ。でも、食事の前に、ちょっとお願い……」
「はい?」
図書室のほうへ手招きをする。
「高いところは怖くて」
あの宝石箱のような本を……掌の形を穿った本を高い本箱に戻してほしいと言うのである。お易いご用だ。
「はい」
恭しく捧げるのを丁寧に受け取り、彩子はハッと手を止めた。副院長の目が鋭く彩子の心を覗いている。彩子は、そしらぬ顔で本箱に納め、求められるままに鍵をかけた。
食事を終えると、もう出発の時刻が近づいていた。図書室の資料をもう一度眺め、空港までの車を手配してもらった。
この修道院は極端に住む人が少ない。住んでいても姿を見せない。敷地は広く、本館と修道院は別棟なのだ、と、帰るときになって初めて気づいた。
「さようなら。お世話になりました」
「さようなら。またどうぞ」
別れの際に到って彩子は、やはり聞いておきたかった。
「白指蟹って、このあたりで採れるんですか。掌くらいの大きさで。まっ白で」
すぐには答が返ってこない。それから少し唐突な調子で、
「いいえ。知りません。なんでしょう?」
まるい目がなにかを隠しているようにも見えた。本心はわからない。
「よろしいんです。では」
車に向かう彩子に、
「黙っててくださいね。昨夜とうとう。皇子様は武人の御業をりっぱに示されました」
おごそかな声が聞こえた。
モスクワで一日を過ごし、いよいよ帰国の途に着く。赤の広場に近いホテルでは食事のとき、コーヒーのとき、眠りにつくまで、寸暇を集めて〈エカテリンブルグの惨劇〉の後半を読んだ。
アナスタシア伝説は多岐にわたっている。皇女の中の一人が惨殺を逃がれ、生き続けたと、さまざまな証言がある。そして幾人ものアナスタシアが現われる。ヨーロッパの上流社会を股にかけ華やかに語られている。
──でもアレクセイは?──
三歳年下の皇子は本当に掌となって生き長らえているのかしら。
──馬鹿らしい──
副院長はなにかしら奇っ怪な生き物を飼い慣らし、それを皇子と信じているのだろう。天井に近い壁でカサカサと虫の住むような音をたてたのは、それだったのかしら。
そのことと関わりがあるのかどうか、
──本の重さがちがったわ──
彩子は豪華な本を二度手にしている。初めは本箱から取り下ろしたとき。軽かった。中を見た。掌の形が凹んでいた、からっぽだった。
二度目は本を本箱に返したとき。少し重かった。中は見せてもらえなかった。なにかが入っていた……。
重さのちがいに彩子が気づくと、副院長は、
──気づいたのね──
とばかりに鋭く見つめ返していた。
ロシア茶が怪しい。意識が朦朧として、現実と幻影との区別がつけにくくなったのは本当だった。
エカテリンブルグの森を離れると、ほんの三日前……ノン、二日前のことなのに、いっさいが遠い出来事のように思われてならない。この広い国では時間までが異様に流れているみたいだ。モスクワとエカテリンブルグの間だって、日本の本州を縦断するほどの遠い距離なのだ。
モスクワ郊外の空港までタクシーを走らせ、気のいい運転手にチップを弾んだ。笑顔の優しい好々爺だ。この国の表情は、ゾッとする冷たさと、のどかな田夫風とに大別されるようだ。
売店を覗いたが、独り暮らしの彩子におみやげはいらない。フランス語の新聞を買ってJAL機に乗り込んだ。久しぶりの日本語はありがたい。
ウエルカム・ドリンクを飲み干し、新聞をペラペラめくり、少しまどろむうちに食事になる。ワインを飲んで、日本食。ファースト・フード風だが、懐しいメニュー、懐しい味わい。
──まずまずの成果──
出張の任務を反芻するうちに、また眠った。
次に目を開けると、まっ黒い荒野の上を飛んでいる。大河が蛇行し、灯はどこにも見えない。人の住む気配が探れない。
また新聞を取って丹念に眺めた。
──えっ──
ジワリ、と恐怖が広がった。
社会面の片隅……。女が殺されている。エカテリンブルグの郊外、賃貸の山小屋で恋人と会い、恋人が帰ったあと、密室で扼殺されたらしい。鍵はドアにも窓にもかかっていて、外部との接触は空気抜きの小さな穴だけ……。
見出しは密室の殺人を強調しているが、彩子の驚きはそれではなかった。殺された女の名がライサ・ルドネワ。三十八歳。あわててロシア語の新聞を取ると、記事内容はよくわからないが、数日前よりちょっと若い、端整なライサの写真が載っている。もうまちがいない。
ショックはそれだけではなかった。フランス語の新聞をさらに丁寧に読むと、段を変えて被害者の経歴が書いてある。
“文化省博物館調査主事……。エリートの家に生まれ、有能な共産党員として属望されていた”
と、それは、まあ、納得ができるけれど、
“被害者の祖父はニコライ皇帝一家惨殺の、実質的な命令者と黒い噂のあった人物”
とあった。
厭でも考えてしまう。ナキア修道院で見た、まるく鋭い目、白く蠢く手の指……。
「皇子様はお体がお弱いから遠くへは行けません。獲物が近くに来ております。武人の御業をりっぱに示されました」
そして掌形に凹んだ宝石箱のような本。
エカテリンブルグの夜は奇蹟を隠しているのかもしれない。広大な国には人知の及ばない秘密があるのかしら。
──白い蟹のように這って──
彩子は新しい吐き気が胸に込み上げてくるのを覚えた。