影女房

     1

 下城の途路、徒目付かちめつけ大堀進之介おおぼりしんのすけは、もと同僚の榊原久馬さかきばらひさまの家へ寄った。

 久馬は伯耆ほうき流抜刀術の天才児として藩内でも名高かったが、それが災いしてろくを失い、いまは近所の子供たちに剣や書を教えて生計をたてている。その腕がさびつくのを惜しんで、同僚は上司に、上司は藩の上層部に、たびたび復職を訴えたが、さすがに居合の教授を求めた若殿をさんざんに打ちのめした罪は重く、いずれも成功していない。

 ましてや、その久馬、二十四歳という若さで老人並みに偏屈なところがあり、同僚が、時節を待てといえば、おれは何も待ってはおらん、安っぽい同情などするなと追い返してしまい、上司の目付役荘司伴内しょうじばんないがひそかに勘定方と謀って月十両の待機手当というのを強引にでっち上げ、久馬の同僚に届けさせたところ、おまえたちの志なら受けるが、藩の職を追われた者が、藩の金を受け取れるか、帰れとわめき、それならと同僚が気持ちを包むや、貴様らおれをあわれむかと鯉口を切るありさまで、いつしか、しばらく放っておけという話になったのである。

 しばらくというのがこの若者らしいところで、放置は期限つきなのである。ほとぼりがさめたら、またみんなでうるさく世話を焼いてやろうということで、どうやら少なからぬ人望があるらしい。

 しかし、人望と長い間のひとり暮らしは別である。まして、久馬は身のまわりを構わない男と定評があった。

 十矢とうや町にある久馬の家を訪れた同僚の話によると、玄関に立っただけでぷん、と汗の匂いが鼻を刺し、現われた久馬の風体はひげぼうぼうの着たきり雀。顔も着物もあかじみて、通された部屋は万年床を囲むほこりまみれの書物の海──這々ほうほうの体で逃げ出したという。

 嫁がいれば問題はない。現に剣の技と長身白皙はくせきの男ぶりを買って、一時期は縁談が引きも切らなかったのである。中には大層な良縁もあった。近習頭きんじゅがしら杉沢主水もんど娘冴さえは、町を歩けばどんな男もふり向くといわれた美女だったが、久馬は食わせていけぬと断わってしまった。同僚の佐橋恭輔さはしきょうすけの妹など、漢籍をひもとく才媛で、早くに亡くなった母の代わりに家事万端をこなすと言われたが、この断わり方がすごかった。

 兄の恭輔は久馬に引けをとらない美丈夫であった。久馬は彼に言った。おれよりいい男の妹が貰えるか。いつも兄が上、兄が上と念仏を唱えられるのは眼に見えている。この答えに、偏屈男の愛される理由が揺曳ようえいしているだろう。

 同僚が集まれば、

「榊原にめとらせねばならん」

 とみなが腕を組み、

「しかしなぁ」

 と、二つの前例を出して終わるのであった。

 実は家を出ていることからもわかるように、久馬には以前、嫁がいた。この偏屈の眼にかなったのはどんな奇矯な女かと、藩中が関心を寄せた。

 にもかかわらず、嫁は平凡な娘だった。美女でもなく、漢籍も読まない。それなのに久馬との間に波風も立てず三年を送った後、病を得て亡くなった。久馬が二人目を貰わないのは、よほどその嫁が気に入っていたのだとみな瞑目めいもくした。

 それが、

「榊原の家に女がいるらしい」

 とひとりが言い出したのは、半月ばかり前のことであり、半月のあいだに燎原りょうげんの火のごとく同僚たちの間に広まったのであった。

 ところが、どんな女だ、となると、

「いや、おれの聞いたところでは、十七、八の町娘で、頬が桜のように紅いそうだ」

 とか、

「噂によると、丸髷まるまげの似合う年増としまで、どこぞやの家から離縁された寡婦だというぞ」

 とかで、まるっきり当てにならない。

 今日、大堀進之介が久馬のもとを訪れたのは、この一件の真実を明らかにするためであった。

 意外にも、すぐに当人が現われ、

「何だ、貴様か」

 と言った。露骨に迷惑そうな様子が、かえって大堀の気分を明るくした。顔こそ著しく面やつれしているが、表情は明るい。髭もあたり、髪も洗っているようだ。

「用向きは何だ? さっさと言って帰れ」

「そう言うな。近くで飲んでのどが渇いた。水でも貰おうか、上がるぞ」

 こう出ると、久馬は引っ込む。藩中、榊原を扱うなら大堀だ、とうたわれたのは決して伊達だてではない。

「飲み助め」

 とののしりながら、大小を腰から抜いた大堀を見てあきらめたか、奥座敷へ通した。

 ひと目見て、

 ──本物だ

 と大堀は胸の中でうなった。

 ここまできれいに整えられた男の部屋というのを見た覚えはない。

 布団は畳まれ、書籍はきちんと部屋の隅に積まれて、畳にはちりひとつ残っていないように見える。

 お前がしたのか、と口を衝きそうになり、あわてて止めた。おお、とでもいわれたら、おかしくなりかねない。

「立っておれ」

 と久馬は命じた。

「いま、水を汲んで来てやる。飲んだらさっさと出て行け」

 台所へ向かう後ろ姿を見送りながら、大堀は思案した。

 この家に女がいるのは間違いない。いまは留守らしいが、整頓せいとんぶりを見れば、その存在は疑いようもない。久馬の迷惑ぶりは少し異様にしても、あの性格からすれば、いつの間にか一緒に暮らしている女房を改めて紹介するなど、打首、獄門に勝る恥辱だろう。

 ──もう用はない。水を飲んで帰ろう

 久馬はひしゃくに水を汲んで戻って来た。

 受け取ってきゅうり、

「ああ、うまい。酒でただれた腹が元に戻る」

 と言って返した。

「何がおかしい?」

 咎める久馬へ、にやにやと、

「隅に置けんじゃないか。この色男」

「何処の隅へだ? おかしな言いがかりをつけると許さんぞ。とっとと帰れ」

「見たぞ」

 と大堀は自信たっぷりに言った。負ける気は全然しない。

「──何をだ?」

「おまえが来る少し前、そっちから廊下を通って台所の方へ消えた。横顔をちらりと眺めただけだが、美女だなあ。衣裳いしょうからして町娘か。是非とも挨拶をさせてくれ」

「ここに女はおらん」

 と久馬は断言した。

「またまた。残念ながら、おれは見てしまったのだぞ」

「何を見たか知らんが、多分、夢だ。帰れ。帰らんと」

 刀掛けの方を向いたので、大堀はあわてた。

「わかった。帰る。しかし、女と暮らしているならいるで、一刻も早く我らに紹介した方がいいぞ」

「余計なことを──」

 ついに、久馬の長身が刀掛けへと走ったので、大堀はあわてて玄関へ出て、きちんと草履をはいてから逃げ出した。

 友人の足音が遠ざかるのを確認してから、念のため外へ出て確かめ、久馬は閉じた障紙をもう一度開けて、台所の方へ、

「小夜」さよ

 と呼んだ。

「はい」

 返事は背後でした。

 ふり向くと、部屋の隅に、異様に青白い顔の女が立っていた。

 すらりとのびた鼻梁びりょうだけで美女と断定しても構うまい。だが、いつからそこにいたのか、この美女は?

「邪魔者は去った」

「良かった」

 女は答えた。言葉遣いは町人のものだが、陰々たる声であった。顔は少しも笑っていない。

「そろそろ人目に付きはじめた。消えておれ」

「昼の間はそうしてます。ですから、さっきもあの方には見られませんでした」

「見たと言っておる」

「たまにそういうこともあるようです」

「たまでも困る。人の口から出た言葉は、どこまで広がるかわからん。大目付にでも知られたら厄介だぞ」

 腕を組む天才剣士へ、小夜と呼ばれた娘は、青白い生気の乏しい顔を、さらに青白くさせて、

「ご安心下さいませ。私を成仏させて下さるまでは、どなたにも邪魔なんかさせません」

 冷たい水が背中に貼りつくような声で応じた。

 だが、大堀の意に反して、榊原家の新しい女房の話は、それ以上広まらなかった。大堀自身が止めたのである。

 翌日、出仕した大堀は朋輩ほうばいの田村忠明から、ひょっとしたら、と思わせるような話を耳にした。

「大川べりに出るという噂のあった女の幽霊な。このところ姿を見せんらしいぞ」

 徒目付かちめつけは目付を補佐して、家中の暇疵かしを探るのが使命だが、必然的に町人を含む世俗の事情にも詳しくならざるを得ない。その女幽霊の話を最初に城内へ運んで来たのも、田村だった。耳にした同僚の半数は面白がり、半数は眼もくれなかった。大堀は後者のひとりだが、どうやら、本当だったらしい。

 二人の同僚で、雷神心鏡流の遣い手蜂谷孫九郎はちやまごくろうが川原へ赴いた。ふた月ばかり前の話である。そこで何があったのかはわからない。翌日から十日間、蜂谷は出仕しなかった。十一日目に顔を出したとき、別人のようにやつれ果てた姿に、居合わせた全員が総立ちになった。

 その原因については誰も尋ねなかった。わかっていたからである。その夜、みなで飲み屋へ入った。居合わせた小普請こぶしん組の八須本伝兵衛やすもとでんべえという飲み助が、酒の力を借りて、川原の一件を問い質した。みな、息を呑み──聞き耳をたてた。

 蜂谷孫九郎の答えは短かった。

「──出た」

 他の客もいるのに、店内は静まり返った。

 蜂谷はそれから加持祈祷きとうに頼り、どうやら効験あらたかだったらしく、事件からひと月ほどで尋常の風体に戻った。

 それが、また休んだ。大堀が久馬の家を訪れた四日後である。前のこともあるので、上司が見舞いに行った。

 そこで彼は、青ざめた蜂谷がこう言うのを聞いたのである。

「あの女──榊原の家におる」

 蜂谷の歯は、とめどなく鳴っていた。

 上司は、大堀に榊原の家の探索を命じた。

「愚かな真似という気がしないでもないが、一応は家中のものに生じた怪異だ」

 蜂谷の家は榊原家の近くというわけでもないが、たまたま、知り合いがおり、そこを訪れた帰りに久馬宅の前を通って、庭に立つ女を目撃したのだという。

「蜂谷は本復した報告と礼とを告げに知り合いのところへ行っていたのだ。それが、帰ったら元の木阿弥もくあみ。皮肉というしかない」

 大堀は黙って頭を下げた。

     2

 大堀の取った策は、徹底的な監視だった。

 六日の間、女の姿は全く見られなかった。他の者ならともかく、大堀にとっては異常な事態である。あの整理された部屋、身ぎれいな久馬──それには女がいなくてはならないのだ。

 昼は近所の子供たちが書道と剣術を学びに訪れ、庭で竹刀や木の枝をふり廻しているし、時折り久馬も出かける。大堀はその間に二度、旧友の家へ忍びこんだ。

 猫の子一匹いない。

 久馬は奥の八畳間を手習いに使っていた。帰った後はやはり汚れている。しばらく待ってみた。半刻たっても家の中で動く気配はなかった。女は何かの用事で実家に帰っているとも取れる。

 十日ほど見張り、帰った気配のないのを確かめて、子供たちが来た翌日、もう一度侵入した。

 久馬の寝床のみが乱れているだけで、他は、姿なき家事のこなし手の存在を如実に示していた。

 大堀は結論を出さざるを得なかった。姿こそ見ていないが、女はいる。そして、夜しか現われない。

 彼が久馬のもとを訪れたのは、さらに二日を経た深更であった。

 不愉快そうな久馬の表情が、大堀を見た途端、一変した。

 あきらめの顔つきに、ばれたか、と貼りついているのを大堀は読んだ。

 奥の座敷で対峠たいじすると、

「いま、見たぞ」

 と大堀は言った。遁辞とんじは許さんという気迫をこめた。ついに庭先に立つ女の姿を目撃したのである。その場から乗り込んだわけだ。

「うむ」

 久馬は無愛想に認めた。

「確かに美しい女御おなごだが、あの美しさはこの世のものではあるまい。肌などまるで血の気がない。──亡霊か?」

「おれより、当人にけ」

「おお、そのつもりだ。どこにいる?」

「おまえの後ろだ」

 身も世もない恰好かっこうで、徒目付はふり返った。

 眼の前に青白い女の顔があった。

 うお、と叫んで右膝の脇に置いた刀をつかんだ。

「よせ、斬れぬ」

 と久馬は止めたが、すぐに、

「いや、斬ってみろ。その方が幽霊の有無をおれが百万言費すより早い」

「そう言われて斬れるか」

 大堀は、鳴り出そうとする歯を必死に抑えた。

 女は美貌びぼうをうつ向け気味にして、やや上眼遣いでこちらを見上げている。大堀の女房もよくやる。何かうらみがましいときの顔だ。ただし、万倍も怖い。

「知り合いか?」

 やっと訊いた。刀は手から離さない。──というより離れないのである。

「いや」

「──では、何故、ここにいる? おぬし、まさか──」

「ふざけるな。おれは人など斬ってはおらん」

 久馬が血相を変えたのには訳がある。二年ほど前、城下で辻斬りが激発し、七人ほどが斬られた。武士もひとりいて、これが十手術の名手として知られる同心だったから、腕が立つと評判になった。道場剣術に飽きて生身の人間を斬りたくなったのだというものもいれば、手に入れた刀の斬れ味を試すためだというものもいて、藩でも異例の探索を行ったが、犯人はいまだに捕まっておらず、あるいは藩の上層部の人間ではないかという風聞も広がったのである。

「わかった。──しかし、ならば、なぜ、おまえの家に出る? おまえに恋焦れて死んだとでもいうのか?」

「だったらどうする?」

「そうなのか!?」

「冗談だ。莫迦者ばかもの

 久馬は古馴染ふるなじみの友人にだけ許される罵倒ばとうを口にした。それから、胸の中の凝塊をすべて吐き出してしまったみたいな、疲れた表情になって、

「だが、いまの言葉、ある意味で正しい。この女はその辻斬りに斬られた身の上なのだ」

「へえ」

「小夜と申します」

 女は眼を伏せて名乗った。大堀は、はた、と膝を打った。

「覚えておるぞ。蘇我そが町の織物問屋の娘であろう。──五人目の犠牲者だ」

「左様でございます」

 刀を掴んだ手が楽になるのを大堀は感じた。

「ひとつ訊く。おまえは幽霊か?」

「はい」

 うなずいた。妖気漂う声である。人間ひとに出せぬこともないだろうが、鼓膜をゆするたびに、冷たいものが体内に広がっていくのが違う。

「榊原久馬に怨みがあって成仏できぬ身か?」

「いいえ。怨みなどございません」

「では、何故、ここにおる? 家にいているわけでもあるまい」

「おまえ──大目付さまに告げ口をするか?」

 久馬が業腹な内容を口にした。

「告げ口ではない。使命の結果を言上するだけだ」

「とにかく、しゃべる気か」

「事情を聞かせろ。すべてはその後だ。本来なら何もかも包み隠さず申し上げるべきだが、もと徒目付かちめつけ榊原久馬は女の幽霊と日々暮らしております、左様か、というわけにはいくまい」

「旦那さま」

 小夜が、ぽつりと言った。

「この方が私のことを言上なされば、大目付さまは何をなさるでしょうか?」

「そうだな。手勢を集めて討ち取らせるというわけにはいくまい。おまえに刀剣は役に立たぬ。まずは、坊主かな。天林寺の和尚の読経は効き目があるそうだ」

「そのような。いけません」

 小夜はよろめいて片手を畳に突いた。普通の女でも色っぽいが、幽霊がやると、ずっとなまめかしいものだな、と大堀は妙なことを考えた。

 妄想は、すぐに吹っとんだ。

 小夜が、きっとこちらをにらんだのである。大堀は総毛立った。

「おまえさま、どうしても私のことを告げ口なさる気か?」

 両眼に陰火が燃え立った。これが亡霊というものか、大堀の顔は、みるみる青ざめていった。

 小夜はふらりと立ち上がった。足はある。

「どうしてもそうなさるつもりなら、私も身を守らなくちゃあなりません。いまここで、おまえさまを取り殺すしかありませんが、よろしいか?」

「おのれ、亡霊の分際で、生ある者を脅かすか」

 大堀は大刀を左手に移し、右手をつかにかけた。斬れるだろうかと思った。

「二人ともよせ」

 久馬がうんざりしたように制した。

「進之介よ、報告したければせい。おまえをどうこうする気はない。ただ、小夜の願いを聞き届けるまで待っていてはくれぬか?」

「願い?」

「左様。小夜を無惨に斬り捨てた男を見つけ出し、断罪するまでの期間だ。それさえ約束してくれるなら、すべて話そう」

「話せ──約束できぬ」

 小夜が、じろりと一瞥いちべつして彼の血を凍らせ、久馬はにやりとした。左の肩をひとつ叩いて、

「相変わらずの石頭だな。よかろう、こういう事情だ」

 大川べりの亡霊の話は、ふた月前に久馬の耳に入った。

 普通の武士なら歯牙にもかけないか、面白半分に覗きに行くかするくらいだが、久馬は違った。本気で、

 ──退治してくれる

 と思ったのである。かといって狐狸こり、妖怪、変化へんげたぐいを信じていたわけではない。おかしなものがこの世を脅かしているらしいから斬る、という程度の認識であった。おかしなものを信じてはいないが、存在するとなると許せないのである。幸い無役だ。我が身にどんな不都合があっても藩には迷惑がかからない。

 で──ひと月ばかり前、幽霊が頻繁に目撃されるという川原の一地点に下りた。

 初秋の風は涼しいが、まだ冷気と呼べるものは含んでいない。

 月光の下に川の音ばかりがとめどなくつづき、水面は銀色のかがやきを放っていた。

 川をはさんだ土手上の家々は寝静まり、遠い遊戯町のあたりに幾つかの明りがまたたいているばかりだ。

 たたずんでいるうちに、長い音が聞こえた。八つ{午前二時}を告げる浄庵じょうあん寺の鐘である。

 ──そろそろか

 こう思って周囲を見渡したとき、背後──上流の方に人影が見えた。

 白い着物を着た女だ。顔は青白い。ここまで認めてから、ぞっとした。女との距離は七八間あるのに、額のほつれ毛まで見えるのだ。女は提灯ちょうちんひとつ持っていない。月光のおかげというには、あまりにも鮮明な印象であった。

 ──あれだな

 提灯を置いて鯉口を切った。一瞬、幽霊を斬れるのかと思ったが、たちまち闘志に変わった。

 女がこちらに向かって歩き出したのだ。それが小走りになり、すぐに裾も乱した全力疾走に移った。

 乱れた合わせ目から生々しい太腿ふとももがのぞく。

 川原の小石も蹴散らして迫るその姿に、

 ──鬼か

 と頭をかすめた刹那せつな、二人は激突した。

 伯耆流の一撃に仕損じはなかった。刀身は女の胴を割った。

 にもかかわらず、久馬は愕然がくぜんとなった。手応てごたえがなかったのである。

「変化め」

 うめいてふり返ると、なおも川原を走り去る後ろ姿が青白く見えた。

 尋常の場合なら、坊主を叩き起こして念仏を唱えてもらうか、厄落としに一杯るかだろうが、久馬はさっさと帰って寝ることにした。

 ──今度出たら、叩き斬ってやる

 気味が悪いとすら思っていなかった。

 ところが、寝所に入って行燈あんどんを点け、ひょいと右方を見ると、さっきの女がぼうと正座しているではないか。

 腰を抜かしてもおかしくない状態だが、久馬は跳びのいて抜き打ちの姿勢を取った。

「よくぞ参った。そこへ直れ」

 女はうつ向き加減であったが、その姿勢を崩さず、

「いまの私は斬れません」

 と言った。幽霊にしても正しい指摘である。久馬にもそれはわかっていた。

「もっともだ」

 と言って刀身を収めてしまった。

「待っておれ。今、坊主か拝み屋を呼んで来る」

 と背を向けたら、眼の前に女が腰を下ろしている。

 変化がどうとかではなく、腹が立った。

「邪魔をいたすな」

 いきなり蹴りつけると、何もない。障紙を開いた。廊下に坐っている。

「どうしても、行くんですか?」

 伏目がちにかれた。

「無論だ。何なら実家で一杯飲ってきてもいいが、その間に消えているか?」

「それはできません」

「なら、坊主しかあるまい。迷惑だ」

「この御方ならと、お願いがあって参りました。話だけでも聞いて貰えませんか?」

 すがるような口調を聞き分けて、久馬は女を見下ろした。娘といえるほど若い。十六、七の町娘である。それは物言いと服装でわかる。髪も奴島田やっこしまだだ。たたる理由もない相手のところへ出て来たのだ、それなりの事情わけがあるのだろう、と考えた。偏屈の偏屈たる所以ゆえんだ。

「その前に、名を聞こう」

 幽霊の表情かおも明るくなるということを久馬は知った。

「小夜と申します」

「親は存命か」

「はい。蘇我町で織物問屋を営んでおります。私はそこの長女でございました」

 話を聞いてもらえると知ってか、丁寧な口調に変わっている。

 久馬は座敷の方へ向き直って言った。

「廊下で身の上話も何だ。奥で聞こう」

     3

 久馬が最も知りたいのは、亡霊と化した小夜が縁もゆかりもない自分のもとを訪れた理由わけであった。当人の口から明らかにされたそれを聞いて、彼は何度も太い首を傾げ、分厚い眉の下の細い眼をしばたたいて、

「おかしな娘だ」

 と言った。的を射た評といえる。

 小夜が殺されたのは一昨年おととしの秋口である。

 横木町にある友だちのお常の家へ行った帰りに襲われた。辻斬りは供の小僧をやり過し、小夜が通りすぎるとき、隠れていた横町から死神のように現われて、袈裟けさ掛けの殺人剣をふるったのだ。

 だから、顔もわからない、と言う。

 どうやら、化けて出れば憎い相手のところ、とはいかないものらしい。

「出る場所も違うな」

 と久馬は問い詰めた。小夜が斬られたのは、町なかの路上だ。そこに出没すれば、幽霊の正体はすぐさま判明したはずだ。川原へ出る羽目になった理由は小夜にもわからない。

 あなたたのように腕の立つお侍さまを待っていたのでございます、と小夜は打ち明けた。

 私には五つの頃から想い交わしたひとがおりました。同じ町内で、うちよりもずっと小さな店をやっている和平という男でございます。自分たちが一人前になったら一緒になろうという子供の頃の約束を、両親も笑って応援してくれましたが、いざ和平さんが奉公先から戻り、自分の店を開きますと、あんな小さなところに大事な娘はやれないと、私の願いなど爪の先に引っかけてもくれません。それでも私は頑張りました。和平さんも何度も居留守を使われ、店先で追い返されてもあきらめず、両親の説得に日参してくれました。

 何度頭を下げても許してくれない両親の前で、とうとう私がこうがいのどを突こうとしたとき、必死で止めて、何度でもお許しが出るまでお願いしようと言ってくれたのも和平さんでした。両親の態度が変わったのはそのときからでございます。

 やがて許しは出た。嬉し泣きする小夜に、父親は依怙地いこじになっていた父さんと母さんを許しておくれと頭を下げた。

「私が殺されたのは、その三日後でございました」

 ためいきをつく久馬に、あなたさまの剣で私のかたきを討って下さいましと小夜は申し込んだ。

「しかし、相手もわからぬのに無理だろう」

 と返すと、

「顔はわからずとも、剣の腕前はわかります。私の身体が覚えておりますから」

 声と同時に小夜が背を向けるや、帯がゆるみ、着物が両肩からずり下がった。

 血の気はないが、若い女の生々しい肌に久馬の眼は吸いついた。その右の首すじから左の肩甲骨の下にかけての肉が、ざっくりと割れ、鮮血があふれ出した。

 驚愕きょうがくの叫びをこらえて、

「こら、畳を汚すな」

 とわめくと、小夜は着物を戻した。血は少しもにじまず、畳にも血痕けっこんひとつ残っていなかった。

「剣には素人の私でも、あのときの発狂するような痛みは覚えています。不思議に腕前もわかります。あれほどの腕前のお武家さまが、この藩にさほどいるとは思えません。あなたさまにお心当りはございませんか。なくても、藩内の剣術の御名人方に、ひとりひとり会って下されば、私の方で見つけます」

「しかし、顔を知らぬのであろう」

 当然の疑念に小夜は答えず、

「あなたさまの剣では、私を殺した御方に勝てません。これから、ご鍛錬下さい」

「待て。わしはおまえの仇を討つなどと言ってはおらんぞ。迷惑だ」

「あなたさまはお武家さまでございましょう。自分より腕の立つ御方がいて、口惜くやしくはないのですか?」

「別段、口惜しくなどないな。おまえも、他人の力を借りて成仏したいのであれば、他の人間を捜せ。わし以上の剣を遣う者は他にもおる」

「私は伺えません」

「では、仕方がない。川原で待つことだ。そのうち、わしのような酔狂者がやってくるかも知れん」

「来ないかも知れません。私も毎晩、出られるわけではないのです」

「なら、諦めろ」

 言ってから、久馬は異常を感じた。身体が急速に冷えていく。

「おい、何をする?」

「あなたは私を斬ろうとなさいました。その前にもひとり、お侍さまが参りましたが、そちらは面白半分でした。今では半病人でございます。あなたには、もっとひどい運命を与えて差し上げます」

「おい、それは筋違いだろう。わしのところへ出られるなら、おまえを斬った奴のところへも行けるはずだ。そいつを取り殺せ」

「あなたに斬っていただきたいのです」

「どうしてだ?」

「あのお武家さまは、自分より強い者が許せないお人でございます。私たちを斬ったのもその腕を磨くための、いわば試し斬り。そのような人間は、他人の剣の前に、絶望にさいなまれながら死んでいくのが当然の報いではございませんか」

「かも知れぬが、わしの役ではないよ。お前の胸のうちもわかる。気の毒だとも、無理もないとも思うが、そのうらみを晴らすために、そいつと生命のやり取りをする気はない。他の人間を当たれ。そうだ、お前の許婚者いいなずけだという和平とかいう男、あれに事情を話せばよかろう」

 沈黙が落ちた。ひどく間の悪い沈黙であった。

「……できません」

 そう言った小夜の眼から涙がこぼれ落ちた。

 ──鬼の、いや、亡霊の眼にも涙か

 光るすじをじっと見やる久馬の耳に、いままでの声音など笑い声としか思えぬ、無限の怨みをこめた声がやって来た。

「和平さんは、この世におりません。七人目──私の仇を討とうとして、最後に斬られたのが、あの人だったんです」

 翌日、大堀進之介は上司の下へ行き、謹んでこう報告した。

「探索をつづけておりますが、榊原の家に特定の女人が出入りしている気配はありません。一、二の目撃例は、家事のために雇われた近所の女房と思われます」

 奇妙なことになったと、久馬は内心、頭を抱えている。

「わしが仇を討つとは約束できんが、仇を捜す手伝いはしてやろう。それが不満なら取り殺すなりなんなりせい」

 こうまで妥協したのは、久馬なりに小夜の運命に同情を感じたからである。

 将来を誓い合った若者たちの片方を無惨に斬り捨てた。それも女を闇夜に後ろからである。剣に身命を削った男の所業ではなかった。七人目──和平の死に様は風聞だが耳にした。

 古道具屋で買い求めたらしい道中差しを手に夜ごと、辻斬りが徘徊はいかいしそうな町筋を歩いてついに斬られた。傷は三ヶ所あった。いずれも深傷ふかでである。奉行所に縁あって検視を頼まれた町道場の師範は、

「この腕ならひと太刀で殺せたものを──なぶり殺しだな」

 と断言した。

 和平の刀身はさやに収まったままであったという。恋人の仇にせめてひと太刀とすがった得物は、何の役にも立たなかったのだ。それを抜こうとしながら、実直な織物屋は三度も殺された。

 下手人に対する義憤は、さしもの偏屈屋の胸にもある。だが、斬り合いとなると別だ。父も弟の数馬も出仕している。幽霊に助勢して人を斬ったと言って、彼らのろくと榊原の家名を奪い去ることは許されない。

 加えて、相手が藩内でそれなりの地位にある人間だという意識が強かった。

 辻斬りが大層な剣の手練てだれだというのは、藩の誰もが認めていたことである。半ば公然と遣い手の名が幾つも挙げられた。

 中でも頻繁に人の口に上った──怪しいといわれたのは、江戸詰めの際、小野派一刀流を学んで以前とは格段に腕を上げたといわれる番頭の鈴木省八と御旗組の桜井右門だった。桜井は城下の据木すえき道場で体捨流の奥義を究めた男である。鈴木が三十九歳、桜井は四十歳だが、剣は円熟の域に達している。

 疑惑の三人目は榊原久馬であった。出会い頭に勝ちを決める抜刀術は、尋常の剣を学ぶ者たちから低く見られがちだが、久馬の場合はあくまでもその技の切れと人間性が、軽視を許さなかった。ところが、いざこういう事態になると、

「榊原な、あいつは怪しい」

「あの偏屈ぶりなら、夜ごと外へ出て人を斬って歩くかも知れん」

 類似の秘語が幾つも交わされ、おかしな眼で見る者も出て来た。その誰もが、その場で久馬に一喝され、抜くかと言われて口をつぐんだ。

 以上の三名に匹敵する遣い手は、御小姓組の森脇佐藤次もりわきさとうじと小普請組の世良摩久米せらまくべがいたが、久馬は最初からこの二人を除外していた。徒目付かちめつけ時代に、藩主の佩刀はいとうが行方知れずになるという事件が出来しゅったいし、内々に二人を調べ上げたことがある。どちらも辻斬りなどという陰湿な行為にふける若者ではなかった。

 そして現在いま、藩の組頭を務め、次期中老職は不動といわれる垂水嘉門たるみかもんこそ辻斬りの真犯人ではないかと、榊原久馬が推定したのも、前述の二人と同じ理由で身辺を洗った数年前の結果によるものであった。

 嘉門は若い頃から影心明智流の道場に通い、十七歳で師範代を務めるほどの天稟てんぴんを示した麒麟児きりんじであったが、半年で師範代を降ろされた経緯がある。

 久馬はこれを大堀進之介から聞いた。彼の叔父が嘉門と同じ道場に通っていたのである。

 嘉門は常に、剣の妙技は人を斬らねばわからぬと言い、師範代でいるとき、路上ですれ違ったやくざたちの手が鞘に触れたという理由で三人を斬殺した。生き残ったやくざは、鞘になど触れなかったと主張したが、これはいわば水かけ論で、藩士たる嘉門の主張が通った。師範の佐治原流斎が師範代の地位を解いたのは、しかし、それが理由ではなかったと言われる。

 後に嘉門は剣よりも政事の方で頭角を現わし、農政における政策が藩主の気に入られて、加増につぐ加増、五十石の家禄は現在、四百五十石にまで達して揺るぎがない。

 これでは、辻斬りの容疑をかけられていると耳に入っただけで、大目付の首が飛びかねないし、久馬の名前がちら

と出ただけで、榊原家は改易の断を下されるに違いない。辻斬り事件のとき、誰もが胸に垂水嘉門の名を浮かべ、ひとりとして口にしなかったのは、このせいであった。

 ──それでもいいが

 と久馬の体内にうごめく偏屈が、ぶつくさ言う。

 ──現在のおれの抜刀術で、垂水さまに及ぶかどうか

 嘉門が激務の合間を見ては、影心明智流道場の現師範を家へ呼び、剣の精進を欠かしていないのは周知の事実だった。噂では師範と五分、良くすれば三本に二本は取るという。

 ──勝てぬなあ

 と久馬も思わざるを得ない。その点で小夜の指摘は正しかったのである。

 小夜は会えば辻斬りの犯人がわかるというが、いくら何でも幽霊の証言を信じて組頭に縄をかけるわけにはいかない。辻斬りの証拠も二年も経っていては掴むのが難しく、また掴んでも握りつぶされる恐れが多分にある。

 ──まずは、小夜と垂水を会わせることだが、はて

     4

 中々に踏ん切りのつかないうちに、久馬の生活はますます変わっていった。

 小夜は非常に世話好きだったのである。

 かたきを討つとは約束できんが云々うんぬんの返事を聞いた後、小夜は別段、感激した風も見せなかったが、亡霊の内心では恩に着ていたらしい。

 陽が西の空ににじむ頃になると忽然こつぜんと現われ、せっせと久馬の身の廻りの世話をするようになった。

 万年床、書物は散らし放題、汚れた食器は台所に積まれ、歩けばほこりが舞い上がる──誰の眼にも改善の余地なしと映る廃屋が、一夜のうちに人の住む家に変わった。しかも、家人のうちのひとりはきれい好きであった。

 朝、眼をまして口をゆすいでいると、朝食の膳が出来ている。それ以前から漂う味噌汁の匂いに、久馬はふと、何もかも母にまかせて心配いらなかった実家にいるような錯覚にとらわれた。

 食事のとき、小夜は給仕もする。幽霊によそって貰った飯を最初に口にしたときは、ささやかな決意を必要としたが、別段、おかしなところはなかった。

 膳の前に着く折、

「おまえ、お天道さまの下にも出られるのか?」

 といてみた。

「そんなときもあります」

 と返ってきた。後にわかったことだが、逆に夜現われたい場合もある。成程、幽霊に人間の常識は当てはまらんのだな、と久馬は納得した。

 夕餉ゆうげも申し分なかった。唯一の欠点は給仕する姿も、そばで控えているときも、青ざめた死人そのものに見えることで、どうにも陰気臭い。

「一緒に食わんか?」

 と言っても、いいえと首をふり、うつ向き加減に久馬の終わるのを待っている。確かに幽霊に飯は必要あるまい。

 一度、紅でもつけぬかと冗談半分で口にしたら、すごい眼つきでにらまれ、断念せざるを得なかった。

 昼の間、久馬は近所の子供たち相手に書道と剣術の稽古をつける。たつきの道である。その剣の腕を惜しんで、道場からも声がかかるが、そのたびに、

「ならばなぜ、お役御免になったとき言ってこなかった」

 と偏屈が顔を出す。子供相手の場合も同様で、よせよせと自分でも思いながら、下手に達者な習字を見ると、欠点ばかりをあげつらって悪いのを誉めてしまう。

 自信のあった子は泣き出し、途中で家へ帰ると次からはもう来ない。おかげで一時期、子供の数が激減した。これが、小夜が来てから変わった。

 相も変わらず言論が偏屈という名の馬に乗って、暴走を開始する。泣きじゃくる子供が部屋を飛び出してしまう。ここまでは同じだが、しばらくするとその子は戻って来て、妙に素直な顔で席に着く。

 帰り支度をしているとき、何があったのかと訊いた。泣きながら表へ出た女の子を、丁度通りかかった町娘が慰め、話を聞いて、その先生は少しへそが曲がっている。いいものはけなし、悪いものを誉める癖がある。自分もあの先生に教えを受けて、今では習字の塾を開いている。けなされた方がいいんだ、と励まされて戻る気になったという。

 一発で小夜とわかった。家の外で娘を捕まえたのは、家の中だと子供の口からおかしな噂が広まるからだろう。

 その話を聞いてから、久馬も子供相手には抑えるように心掛けたせいで生徒の定着率は随分と良くなった。

 剣の稽古ともなると、道着は汚れるし、それを買う余裕のない子供たちの衣服も裂けたり破れたりは日常茶飯事である。

 ある晩、小夜が、次からは衣類を置いていかせなさいとささやいた。翌日、それを告げると、山のように集まった汗臭い塊を、夜を徹して水洗いし、翌朝、物干し竿にかけてある。破れ目も丁寧に繕ってあるのを見て、久馬は舌を巻いた。人間技ではない。子供たちの中には、裕福な家の者もおり、こちらの先生は男の身で母親のような気遣いをして下さると、親や使用人がつけ届けをするようになった。饅頭まんじゅうや菓子のたぐいは子供たちと一緒に食い、酒類はひとりでり、たまにある金子はびた一文残さず返却した。

「なぜ、返すんですか?」

 と小夜に訊かれたことがある。

「ひとり暮らしなら、書と剣の謝礼で十分だ。おまえは金がかからん」

 小夜は、例の血も凍る上眼遣いで久馬を見つめ、

「おかしな方」

 と言った。

 ──おまえに言われたくはないわ、この幽霊め

 久馬は内心でののしったが、無論、口には出さなかった。

 外出時の身仕度も小夜はこなし、久馬の顔を見ては、ひげをあたれ、髪を洗えと指図めいた言辞をろうするようになった。

 不気味な迫力に押されて従ったものの、どうにも面白くない。明日から思いきり髭も月代さかやきものばしてやろうと決心して帰りかけると、偶然出会った顔馴染なじみの大工が、

「奥さまでもお貰いなさったんですかい。けれど、あれですね、あっしらにはやっぱり、前の、こう不精な感じの榊原さまの方が」

 それから毎日、久馬は髭と月代の手入れをするようになった。

 現実問題として、小夜の存在は大いに久馬の日常に潤いを与えたが、その姿が時折り目撃されると、以前からの懸念どおり厄介な事態に遭遇する羽目になった。

 大堀進之介の訪問もそのひとつだが、女がいるという噂を聞きつけて、実家の母が飛んで来たのである。

 整理された家の中をひとめ見るなり、

「どちらの娘御ですか?」

 と眼を光らせた。

 久馬もお互いの人間性を知悉ちしつしているから、隠しても無駄と、

「近所の左官屋の女房に来てもらっています」

 嘘をつくことにした。

「嘘おっしゃい」

 と母は一喝した。

「私の耳に入ったのは、十六、七の町娘ということです。文代さんのことも忘れて、おまえときたらもう」

「いや、誤解です」

 文代とは病死した前妻の名前である。顔は人並みだが気立ての良いやさしい女だった。久馬も忘れてなどいない。だからこそ──無禄むろくのせいもあるが──新しい女房は貰わずに来たのだ。

 しかし、久馬は母の言にひたすら従順な態度を取った。ご無理ごもっとも、一刻も早くお帰り下さいを採用したのである。窓の外では陽が沈みかけている。

 たっぷり一刻──二時間──の説教を済ませて、母は最後に意気揚々と、

「おまえも榊原の総領──まだこれからの身です。くれぐれも身を慎んで、おかしな女などに心引かれぬようになさい」

「心得ております」

「いらっしゃいませ」

 背後からかけられた女の声に、母は愕然がくぜんとふり向き、久馬ははじめて絶望を味わった。

「あなたは?」

 丁寧にお辞儀をする小夜への問いただしには、少しのおびえも含まれていなかった。

「小夜と申します。久馬さまには女房同様のお情けを頂戴ちょうだいしております」

 憤然と母が帰った後で、久馬はあきれ果てたように、

「なぜ、あんなところへ出て来た? 何もかも首尾よく終わったものを」

 となじった。

「だって口惜くやしいじゃありませんか」

 小夜は、いつもより強い意志を感じさせる声で反論した。

「私は我慢します。でも、久馬さまを、まるで、見境のない色狂いのように」

「なに?」

 久馬は思わずしげしげと、青白いうらめしそうな顔をのぞきこんだ。

「わしがなじられたので怒っておるのか?」

「いえ」

 と答えて、小夜は眼をそらせた。

 気まずいくせに心地良い空気が二人を厚く包んだ。

 先制攻撃をかけたのは、久馬であった。

「母上はおまえの正体に気づかなかったな。何故だ?」

「わかりません。時折り、ああいう方がいます。神仏の御加護が強いのでしょう」

 母は天台の猛烈な信者である。

「しかし、あの様子では、また来るぞ。これで気楽な暮らしだったが、どうやら終わりらしい」

「お母さまは、私を追い出すおつもりでしょうか?」

「そうなるだろう。おまえの実家さとへ行かせるわけにもいかんしな」

 久馬は腕組みをし、難しい表情になった。

「おまえ、あれとうまくやれるか?」

「自信はありません」

 と答えてから、小夜は──幽霊にしては──明るい表情になった。

「私──ここにいてもよろしいのでしょうか」

 この女にも気がねがあったのかと、久馬は驚いた。

「今更何を言っておる。そうか、母上に頼んで坊主を呼んでもらえばいいのだな」

「どうして、そんな意地の悪いことを言うんですか?」

 町娘そのものの言葉遣いになって、小夜は抗議した。

「決まっておる。厄払いだ」

「私、負けません」

 身を震わせて言った。部屋の空気が音をたてて冷えていくような気が久馬にはした。

 母は翌日から毎日やって来た。久馬の読みは適中したのである。

「昼の間はいないのですか?」

 とか言いながら、子供たちが帰るとそそくさと衣類を洗いはじめる。

 六十を越しているから、久馬も泡を食い、

「母上、左様なことは小夜がいたします」

 と言ってしまった。想像どおりのことが起こった。

「あのような若さだけが取り得の町娘に何ができます。まして、おまえのように、一から十まで母の手をわずらわせていた子が、それで満足できるはずもない。私は文代さんにも不満でした。夜しか来ない幽霊のような娘ならそれでもよろしい。ですが、おまえの身のまわりの世話は、当分、私がいたします」

「いや、それは困ります。この年齢としで母上の世話になっていては、面目が立ちません」

 母親に世話を焼いてもらう偏屈ものでは、確かに様になるまい。

 自分がどうこうよりも、母は小夜に敵対したいのだと久馬にもわかっている。

 夜になって小夜が来ると、早速、母が洗った衣類を見て、

「揉み洗いが足りません。ご無理をなさいませんように」

 と言えば、母の方も、

「では、味付けを拝見しましょう」

 と小夜に夕食を作らせ、

「お塩が濃すぎます。武士の家では、もっと品のよろしいお味付けを好みます」

 ひと口ではしを置いてしまう。

 すると、

「では、久馬さまに決めていただきましょう」

 となって、二人の女の眼に貫かれた久馬は、腕組みして宙を仰いでしまう。置かれた状況を考えれば、母に味方した方が利点が多い。そこで偏屈の虫が眼をまして、小夜につけと命じる。しかし、そうなると、母は小夜の身元をとことん調べ上げ、幽霊だと知ったら、それこそ坊主の千人も引っ張って来かねない。小夜と和平の人生を奪った犯人を、何とか断罪してやりたいという気持ちは久馬にもあった。

 ふうむと立ち上がり、ふうむふうむとうなりながら、部屋を出て行ってしまう。後にはそっぽを向き合った新旧二人の女が残される。

 母が昼間だけ来てくれればいいのだが、張り合うのが目的だから夜まで居坐る。小夜が朝飯もつくってくれるとらすと、では、と七つ──午前四時──に乗り込んできて、干物を焼き飯を炊く。ついに出足の遅い小夜の仕事は失くなってしまった。

 母が干し物を畳み、夕食の仕度をするのを、部屋の隅でじいと眺めている。幽霊だからもともとうらめしそうなのに輪がかかって、まともな神経の女なら逃げ出したくなるところだが、久馬の母はびくともしない。敵の怨みは勝利の美酒だとばかり、ますます世話焼きに拍車がかかっていく。

「私、口惜しい」

 母が来てからひと月ほど経った晩に、小夜はぽつりと洩らした。

「私のしていたことが、みいんなお母さまに取られてしまう。かたきを捜してもらう御礼もできません」

 そりゃしめたと思いながら、久馬はまた正反対のことを言ってしまう。

「何だ。だらしのない。幽霊が生身の人間に負けていてどうする? いい手があるだろう、たたれ崇れ」

 自分の母親に崇れというのも相当なものだが、これは小夜が母には歯が立たないというのを見越しての発言である。

 はたして、小夜は、

「やってみます」

 幽霊とは思えぬ激しい決意を浮かべてうなずいた。

 これはしまった、目算が外れたと久馬はあわて、翌日の早朝、無事に訪れた母の姿にとりあえず胸をで下ろした。

 そのくせ、小夜が反撃に移らなかったとは思えず、

「昨夜から、何か変事はございませんでしたかな?」

 と怖る怖る訊いてみた。

「何も」

 と台所で仕度を整えながら答える声は平然たるものだ。

「そういえば夜半に女のすすり泣きのようなものが聞こえたり、先刻、ここへ来る途中、石につまずいてころびかけましたが……おお、そうだ、すれ違う者がみな、私の方をおかしな眼で見ていたようですが、顔に何かついておりますか?」

 いえ、後ろに、と久馬は言いたかった。朝から背中に青白い女亡者を貼りつけて道を行く武士の妻を、通行人たちは心の臓も止まる思いで見つめたに違いない。

「お加減はいかがですか、長歩きで疲れたとか、胃の具合がおかしいとか」

「何も。あの娘が呪いでもかけぬ限り、私は無事ですわ」

 呪いねえ、と胸の中でつぶやいたとき、かまどの前に屈んでいた母が、急に尻餅を突くや、腰に手を当てて後ろへ引っくり返った。

 痛たたた………つぶれたような苦鳴も、この母が上げるとなれば悲鳴と同じだ。

「母上」

 久馬は駆け寄った。腰を痛めたに違いない。勝利の後に陥穽かんせいが待っていたのである。

おごる平家は久しからず、か」

 呻吟しんぎんする母を運ぼうと身を屈めながらつぶやいたが、

「何ですと」

 とただされ口をつぐんだ。中々、しぶとい。

 寝間に布団を敷いて休ませたところで気がつくと、枕もとに小夜が正座し、じっと母を見下ろしていた。

 背すじに冷たいものが流れた。

「おい──まさか、おまえが?」

 何とか青白い肌と区別がつくだけの唇に、心なしかうすい笑みが走ったような気がした。

 小夜はかぶりをふって、

「とんでもない。お腰を痛められましたので?」

「そうだ。もう老齢としだからな」

「驕る平家は久しからず」

 眼を閉じて痛みに耐えていた母が、きっと上を見て、

「何ですと?」

「いえ、何でも──痛みます?」

「………」

「横をお向きになられますか、お揉みいたしましょう」

 久馬は声を出しかけてやめた。寵愛ちょうあいを奪われた正室の呪いが、若い側室の乳房に手形となって貼りつき、地獄の苦痛を与えるという怪異談を想起したのである。

 だが、杞憂きゆうだったようだ。

 久馬も手を貸して横にさせた母の腰に、小夜の手が触れると、

「おや?」

 驚きと喜びの入り混じった声が上がった。

「何と冷えて気持の良い。おや、痛みが引いていきますぞ。あなたは、よほど、御両親を揉み慣れていらっしゃるのでしょう」

「はい。二人とも腰に病を抱えておりまして、日に三度ずつ揉んでおりました」

「そうでしょう。でなくては、こうはいきません。おお、私が頼んだどんな按摩あんまよりも巧みな。これは手と指の技ばかりではありません。心がこもっていなくては、こうはいきませんぞ」

「それがしも随分とお揉みいたしましたぞ」

 心外に思って久馬はくちばしを入れた。母はうっとりと小夜の指に身をゆだねたまま、

「おまえのは荒々しいばかりで。お父さまもそうでした。家の男たちは力ばかりを頼んで、女の身体というものを理解しておりません。そもそもおまえはお父さまと──」

 久馬はそそくさと座を立った。

 隣で耳を澄ませていると、四半刻ほどして、ふすまの向うから安らかな寝息が聞こえてきた。

「おやすみになりました」

 背後に小夜がいた。

「脅かすな。──母上は無事だろうな」

「何か誤解なさっていませんか?」

「ふむ」

「おかあさまにお年齢を聞きました。うちの母と二つ違いでございます。母を揉んでいるような気持になりました」

「母御のところに出てやったらどうだ? 幽霊とはいえ嬉しかろう」

「出来ません」

 小夜は眼を伏せた。幽霊の都合があるのだろう。悪いことを言ったと久馬はびた。

「──で、私と和平さんを斬り捨てた下手人の手がかりは?」

「いま少し待て」

 と久馬はうめいた。

 垂水嘉門については、大堀進之助に頼んで探索してもらっている。辻斬りの

件がはっきりしない限り、容易に手は出せないのだ。次期中老の席を目前にした大物がたとえ下手人だったとしても、よしんば、小夜が怨霊おんりょうの力をもって仇を討ったとしても、父母に累が及ぶのは耐え難い。小夜の姿は蜂谷にも目撃されているし、他にも見た者がいないとは限らない。万がいち、久馬が断罪されれば父母も無事では済むまい。それだけは避けたかった。いや、いまの母を見ていたら、避けねばならないと思った。

「じきに結果が出る。いま少し待っておれ」

 小夜の方を見ずに繰り返した。

 大堀が訪れたのは、その深更であった。辻斬りの証拠は見当たらん、と彼は言った。

「ただ、性癖に異常を持っておられるのは、確かだ。去年、下男の忠三というのが暇を出されたが、これが故郷の三登部村へ帰る途中で殺害されておる。一応、物盗りの仕業で決着がついたが……」

「口封じか」

「恐らく。袈裟けさ掛けのひと太刀と奉行所の記録にある。辻斬りの手口だ」

「垂水さまの剣?」

「相手の攻撃を下段から地ずりで跳ね上げ、袈裟掛けに。こうだ」

「合うなあ」

「合う。だが、二年前の事件とは結びつけられぬ。おれの感触では無理だ」

 すると、直接、小夜を垂水に会わせるしかないか。久馬は時期が来たと思った。

「ところで──おれの報酬だが」

 と大堀が固い声を出した。

「済まぬ。今日は用意しておらん」

「わかっておる。だが、おれもかなり危ない橋を渡っている。女房の具合もある。わかってくれ」

「無論だ」

 大堀の家では、三つ下の女房が胸を病んでいた。医者は温泉への療養を勧め、今なら完治すると保証した。大堀がはなはだ危険な役目を引き受けたのは、久馬との付き合いの他にそれもある。今の彼には友情よりも金子の方がより重要なのだ。

 三日以内に用意すると言って大堀を帰してから、久馬は下腹のあたりがずっしりと重くなっているのを感じた。約束した金子はかなりの額である。そのときは何とかなると思ったのだが、当てにしていた実家へ無心に行くと、あっさりと父に断わられた。女房も持たず、浮草のような生き方をしているせがれに与える金はないと、一刻者の父は鬼の顔をつくった。

 やむを得ず、あれこれ伝手つてを求めたが、目下のところ半分しか集まっていない。それを渡して残りは後日、などというのは久馬の誇りが許さなかった。

 どうしたものか、と思案中に、

「お話を聞かせていただきました」

 と小夜がまた背後で言った。母についていろと命じておいたのに、立ち聞いていたらしい。

「無礼者──手打ちにいたすぞ」

「お受けいたします」

 と言い合い、顔を見合わせて笑った。久馬は母を起こさぬ程度に、小夜は不気味に──しかし、どちらも明るかった。知らぬ間に、そんな感情を交流できる段階に達していたらしい。

「みな忘れろ」

 と久馬は命じた。小夜はかぶりをふって、

「金子の件はまかせて下さい」

 と言った。

「余計な気を廻すな。閻魔えんまにでも借りるつもりか」

「それよりも、その垂水嘉門、その御方が下手人なのですね」

「まだ、わからん」

「私が会えばわかります。会わせて下さい」

「いずれ、な。何もかも一気に運ぶには相手が大物すぎる」

「ご迷惑はかけません」

「おまえは成仏すればいいが、残る者はこの世のおきてに従わねばならぬ。簡単にはいかん」

「じゃあ──いつ?」

「近々だ」

「わかりました」

 とうなずく娘へ、

「まだ、うらみを捨てる気にはならんのか?」

 小夜はうつ向いたきりだ。

「約束を忘れないで下さいまし」

 これほど不気味な声を聞くのははじめてだった。久馬は凍りついた。

「もしも、たがえたら、あなただけではなく、奥のお母さまも、榊原の一族ことごとくを取り殺してやる──お忘れなく」

 そのとき、苦しげな母の声が流れて来た。

「はい、ただいま」

 とふすまの方を向き、小夜はにっと笑った。手はじめに母親を──そんな怨霊の意志を感じて、久馬は戦慄した。

     5

 晩秋までにすべての準備を整えた。このひと月、久馬はひとり剣の修錬をつづけていた。

 居合は最初の一撃が実はすべてではない。受けられ、かわされた場合の型も備わっている。それでもなお、抜き打ちの一閃いっせんは居合の神髄であった。

 速さの勝負だ。それは休みない鍛錬でしか身につかない。逆にいえば鍛錬でどうにかなる。問題は遣うまでの状況が整うのを待つ──その間の恐怖の克服であった。居合と知れば、相手は何とか抜かせようとするだろう。狂気のごとく、あるいは冷静に斬りかかってくるかも知れない。その刃を受けてはならないのだ。かわし、避け、頭頂に肩に太刀風を感じつつ一瞬の斬撃の機会を待つ。

 本来なら道場へ通えばいいのだが、後難を考えるとそれは不可能だ。久馬は単身で心と技を完成の域まで持っていかなければならなかった。

 ひと月前、小夜はついに垂水嘉門を見たのである。

 久馬はまず、城下で小夜の出現できる場所を確かめ、それに垂水嘉門が下城帰宅するまでの道筋を照合させた。道を調べたのは大堀進之介である。彼に約束した金子は小夜が何処からか工面してきた。

「後で消えたりはしないな?」

 と久馬が念を押すと、

狐狸こりたぐいではありません」

 とにらまれてしまった。それなら何処からと質すべきだが、久馬は無視することに決めた。

 垂水嘉門の帰宅順路に小夜の出られる場所はなかった。だが、大堀はそれ以外の道順も調べて来ていた。

 嘉門は決まった日に茶屋へ寄り、それから川縁かわべりを歩く。川風に当たって酔いをますのである。家にいる母親が酒の匂いを極端に嫌う、と大堀の書きつけにあった。小夜の人生を奪い取った男のかたわらを流れる川が大川だと知ったとき、久馬は運命を感じざるを得なかった。

 月がえる中秋の晩であった。二人は堤の上に植えられた柳の木の陰で嘉門を待ち構えた。

 四刻半とかけずに、嘉門が川原をやってくるのが見えた。

 藩の重鎮の身でありながら供もつれぬひとり歩きである。剣への自信がそれを支えているのだった。

「参ります」

 背後で小夜の声が聞こえた。

 久馬は眼を凝らした。名月の光が有り難かった。

 彼の真下に当る位置を十歩程通り過ぎたとき、嘉門の足が止まった。

 その後ろ一間程のところに小夜が立っていた。

 ふり向いた嘉門は、すぐに緊張を解いて小夜に何か言った。小夜は動かない。じいと嘉門を見つめているばかりだ。いとしい者同士の邂逅に見えて、土手上の久馬にもわかる妖気が二人を取り囲んでいた。

 そして、嘉門にもわかった。全身を別人のようにこわばらせ、彼は二歩下がった。右手が一刀にかかり、水面の光とは別の光が生じた。変化め、という叫びが久馬の鼓膜をゆすった。

 嘉門は右八双に構えて打ち下ろした。酔い且つおびえている。それなのに見事な太刀筋であった。

 刀身は、しかし、雪でも斬るように小夜の身体を走り抜けた。

 消えた、と思ったとき、久馬の背で、

「同じところを斬られました。間違いなく、あの男です」

 小夜の声はいつもと変わらなかった。幽霊はこんな場合何を考えるのか、と久馬は思った。

「行こう」

 と声をかけてから、久馬は白々とつづく夜道を歩き出した。少し行ってから川原を見下ろした。嘉門はふり廻した剣をぶら下げ、肩で息をしていた。だが、その剣技は、あなたでは斬殺者には勝てないと言った小夜の指摘を、正しいと納得させるに十分なものを持っていた。

 ひと月の間、久馬は汗を流しつづけた。意外なことに、居合の腕は鈍っていなかった。二日ほど抜き打ちを繰り返すと元に戻った。だが、恐怖は消えなかった。恐怖のもとは川原で垂水嘉門のふるった八双の剣だった。

 あれをかわすか受けるかして一刀をほとばしらせる自信はなかった。黒い怯えが下腹部に腰を据えていた。それを立ち去らせるための修錬であった。

「久馬」

 呼ばれたのに気がつき、つかから手を離してふり向いた。

 庭に面した廊下に母が立っていた。小夜の按摩あんまを目当てに、またやって来たらしい。

 あきれたことに、いまだ小夜の正体に気づいてはいない。小夜の給仕で食事をりながら、顔色が勝れないのは、生まれつきですか、などと言っている。そのうち、久馬を呼んで、

「お上がりなさい、話があります」

 向かい合うと、

「おまえは、いつまで小夜を通わせるお積りです?」

 生真面目な表情で切り出した。

「は?」

「は、ではありません。外聞もはばかられるし、小夜の家でも気が気ではありますまい。悪い侍にもてあそばれていると勘ぐられても仕方がありません」

「はあ」

「縁を切れとは申しません。私はあの娘を気に入っております、私がこれまでに見たどんな武家の娘よりも好ましい。そこで、品田の伯父上にお願いして、養女の口を捜してもらいました」

「母上」

 品田の伯父というのは母の兄で、藩の組頭を務めている。その息のかかった、弓組で百二十石取りの内藤幡五郎ないとうはんごろう殿の家に貰われることになりましたと、平然と母は言う。

「それは──無理です」

 さすがに久馬は身を乗り出して否定した。母はびくともせず、

「何が無理なのです。あの娘に、何か不都合でもありますか?」

「いや、不都合も何も」

 幽霊なのである。二人が親しみを増しているのは知っていたが、ここまでとは。それでいて、相手の意見も親の都合も考えず、勝手に養女の口を捜してしまうとは。久馬の怖れていた母が、ついに現われたらしい。

「明日にでも、小夜の家へ人をやってその件を伝えます。おまえも今日じゅうに話しておきなさい」

「いや、明日は無理です。いくら何でもそんな」

 母もその辺は理解できるらしく、

「では、いつならよろしい?」

 いつも何も、久馬はその小夜のために、藩の重鎮を斬ろうと修錬を重ねているのである。

「しばらくお待ちを」

「しばらくとはいつです。はっきりとおっしゃい」

「あとひと月──あとひと月のご猶予を」

 母は、二言はありませんねと念を押した。

 久馬は、はあと応じるしかなかった。

「──というわけで、あとひと月のうちに、垂水嘉門を斬らねばならなくなった。しかし、わしは彼を斬るという約束はしておらん」

 その晩、久馬は小夜と向かい合って伝えた。

「だが、わしは斬る。おまえと和平を不憫ふびんと思う気持もあるが、それ以上にあのような人間を生かしておくわけにはいかぬからだ」

 小夜は深々と頭を下げ、ありがとうございます、と言った。

「ひと月と言って下さった、そのお気持が嬉しゅうございます。御礼に精一杯尽させていただきます」

「礼、か」

 小夜が首を傾げてこちらを見た。

 久馬は自分の言葉に動揺した。わしはこの女に何を望んでいるのだ。

 それは隠さねばならない想いだった。彼は立ち上がり、寝るぞと言って、寝所のふすまを開けた。

 柔らかい肉の重みが、久馬の眼を開かせた。すぐに女体だとわかった。き出しのももが両脚を割って入りこんでくる。この家に女はひとりしかいない。

 ──幽霊なのにあたたかい

「和平さんにはおびを言いました」

 小夜の声はひどく近くとも、また遠くとも聞こえた。

「あなたさまと過した日々、小夜は幸せでした。そして、もうひと月、幸せは延びました」

 動かした久馬の右手に、重く熱い肉が触れた。乳房に違いなかった。

 もう片方を背に廻した。くびれのような筋が指先をいじった。肉を裂く切創であった。よそうと思ったが、手は止まらなかった。傷に沿って指をわせていくと、生あたたかいものがあふれてきた。

「こうやって、私は殺されました」

 生身の身体で殺され、亡霊になっても生身。

「痛かった、苦しかった」

 そうだろう。口惜しかろう。血まみれの女体を、久馬は強く抱きしめた。ふと、前の妻のことが憶い出されたが、顔は浮かんで来なかった。

 残る思案は、いつどこで垂水嘉門を斬るか、であったが、ひと月の刻限が切れる三日前の晩、解答が久馬の家を訪れた。

 それは、垂水嘉門の家士出淵新十郎いずぶちしんじゅうろうと佐川誠吉の名前と形とを備えていた。

「我が主人が、貴公の日常に不審な点が多々あると申し、問い質したいとの意向である。ご同道願いたい」

 どちらも大した遣い手なのは、立ち方でわかる。発狂した徒目付かちめつけ蜂谷の口から城内に広まった小夜の一件が、嘉門の耳に入ったのであろう。

「藩命でなければ断わる」

「藩命にしたいのか?」

 と佐川がうす笑いを浮かべた。

「そうなれば、榊原一族と藩とのことになる。よろしいか?」

「いいとも」

 と応じかけ、久馬は自制した。しばらく待てと言うと、

「女がいるはずだ。連れて行く」

 と出淵が家を覗き込みながら一言った。

「左様なものはおらぬ」

「家捜ししてよろしいか?」

「よかろう。だがいなければ、二人とも斬るぞ」

 本気であった。小夜を危険な目に遭わせたくないのだと知って、久馬は苦笑した。幽霊をかばって何になる。

 二名の家士は顔を見合わせた。佐川が、

「よかろう」

 とあきらめた。無理強いは止められているのだろう。嘉門も小夜の正体は知っているはずだ。

 久馬は奥座敷へ入った。これで終わりか、という気がした。唯一の救いは、大目付や藩主の指示ではないらしい点である。書き付けも所持していないようだ。いずれにせよ、嘉門に名前が知られた以上、久馬と榊原の家の運命は窮まったといっていい。

 徒労感はあったが、愚かな真似をしたという気は湧いてこなかった。久馬がしたことも、これからしようとしている行為も、天につばするものでは断じてない。

 身仕度を整え、太刀を差しているところへ、小夜が現われた。

 久馬は眼をいた。小夜の着物は上半身が黒血にまみれていた。

「垂水嘉門のところへ行くんですね。私もお供します」

「無駄だ。嘉門の家は、おまえの出て来られる場所にない」

「では──途中まで」

 すがるような眼に、うなずくしかなかった。

 二人は家を出た。数歩遅れてついてくる小夜を、二人の家士は見ることができないらしかった。

 駕籠かごもない。

 佐川誠吉が先頭、出淵新十郎が最後尾についた。はさみ打ちの形で南の方へ歩いた。四つ半──午後十一時を少し廻った頃である。月はない。二人の家士の持つ提灯ちょうちんが、ささやかに闇に跳んでいるばかりだ。

 屋敷町を抜け、花夜町へ入る頃に、小夜は忽然こつぜんと消えた。出現していられる限界に来たのである。これが別れか、と思った。

 わしがどうなっても、垂水はたおす。運が良ければ冥土めいどで会えるだろう。それまでの別れだ。

 木曳きびき町の通りを西へ折れたとき、不審な思いがした。嘉門の家なら反対側である。

 しかし、佐川誠吉は黙々と先頭を行き、出淵新十郎も黙ってしんがりを守っている。

 川の音が聞こえてきた。

「大川か」

 思わず口を衝いてしまった。

 すると、垂水嘉門は、小夜の亡霊と遭遇した地点で久馬を処分しようというつもりか。

 ──殺すなら自宅の方がよいはずだが

 それなら他人に目撃される心配もないし、死体の処理も容易だ。何をたくらんでいるのかと思った。

 細い辻を左へ曲がると、見慣れた土手の道へ出た。

 川向うの家々にまたたく灯が、銀蛇のような川筋の線をかろうじて網膜へ結ばせてくれている。

 腕を組んだ武士が川原に立っていた。提灯もない。

 土手を下りて近づいた。佐川の提灯が、ようやく垂水嘉門の顔を浮かび上がらせた。

 背中に剣気を感じた。

 左へ跳びつつ、久馬は出淵新十郎の悲鳴を聞いた。

 一刀を抜きかけた彼の前に、白い着物を着た女が立っていた。

「化物」

 と叫んで出淵は斬りかかった。何もない空間を斬って大きく姿勢を崩したところに、久馬の一閃いっせんが走った。

 斬り離された首は、皮一枚残して胴につながっていたが、倒れた衝撃か噴出する黒血の勢いかによって、川原を転がった。

「おのれ」

 低く放って佐川誠吉が前へ出た。

「垂水さま、下がっていられませ」

 庇うべき主人を背後に廻して、こう告げた刹那せつな、垂水嘉門は抜き打ちの刀身を佐川の肩に食い込ませた。噴き上がる悲鳴が迷惑だとでもいうように、正確にのどを刺し、一気にけい動脈まで斬り裂く。

「何をする?」

 と久馬はいてしまった。これはたださざるを得ない。

 答えもせずに、嘉門は剣先を地に触れるほど下げた。

 その重厚さ、その自信に、こみ上げる苦鳴を嚥下えんかしつつ、久馬は、しかし、まぎれもない血の雄叫おたけびを聞いていた。

 袖口で刀身をぬぐい、さやに収めた。

「参る」

 とだけ言って地を蹴った。小夜のことも垂水への義憤もない。生と死を分かつ権利が彼にはあった。

 嘉門の剣先のみを見ていた。

 それが跳ね上がった。ゆるやかな動きに見えた。右へ跳ぼうとした。自分の動きはさらに鈍かった。

 左の内腿うちももに鋭い痛痒が食いこんだ。思いきって体重を右足へ移して止まった。前のめりになるのをかろうじてこらえる。

 嘉門は地ずりから斬り上げた剣を上段にふりかぶったところだった。

 がら空きになった胴が久馬の胸を歓喜にたかぶらせた。

 二つの気合がひとつに重なり、左横へとたぎり落ちる剣と風とを意識しつつ、久馬は伯耆ほうき流抜刀術の粋をこめた刀身で、嘉門の胴を存分に割っていた。

 凄惨せいさんな声が川原に流れた。水音が呑みこむまで大分かかったが、地面にあてた一刀にすがる久馬には、とどめを刺しに行くこともできなかった。呼吸はできず、喉が無性に渇いた。

 激しく上下する肩にあたたかい手が置かれた。それは、久馬の呼吸が尋常に戻るまで離れようとはしなかった。

「小夜」

 しわがれ声が出た。

「行くのか」

 離れてゆく柔らかいぬくみを久馬は眼で追った。

 黒々と地に伏した垂水嘉門の向うに青白い男女が立っていた。小夜の右隣の若者は、実直そうな笑みを久馬に向けていた。小夜はそれを愛したのだ。

「和平さんです」

 と小夜が言った。

 嘉門の狂乱と戦いのすべてが、それで久馬には理解できた。

 小夜が久馬のもとを訪れたように、和平は彼を殺害した者に取りいていたのだ。嘉門がわざわざこの川原を暗殺場所に定め、家士を斬り殺した理由もそれで知れる。

「久馬さま、これを知っている人間は、この三人だけでございます。一刻も早くお立ちのき下さい」

「わしの──勝手だ」

 久馬は久々に自分らしさを感じた。

「おまえたちこそ早く成仏せい。二度とこの世へなど戻るな。戻ってもわしのところへなど出るな。迷惑だ」

 恋人たちは顔を見合わせた。小夜の口もとに結ばれた苦笑が、姉がやんちゃな弟に与えるようなそれが、久馬に寂寥せきりょうを抱かせた。

 小夜のつくった熱い味噌汁と白い飯がまぶたの裏にかがやいて消えた。

「迷惑千万な日々であった。消えろ」

 吐き捨てるように言ってから、久馬は眼を閉じた。いつまでそうしていればいいのかわからなかった。今度開けたら、小夜だけが残っているかも知れないと思った。

 誰もいなかった。

 川の音と夜風と死体だけがそのままだった。

「清々した」

 偏屈を全うし、久馬は太刀にすがって立ち上がった。

 小夜に逃げられたと告げると、母は、

「この親不孝者」

 とののしって去った。二度と家の敷居をまたいではなりません、とつけ加えるのを忘れなかった。

 垂水嘉門と二人の家士の死は、日頃から異常の気があった嘉門が二人を川原に誘い出し、相討ちになったとの判断が下された。嘉門の異常ぶりも、佐川の剣に彼の血がついていたという検視の結果と同じく、和平の仕業かも知れなかった。

 がらんとした家の中で、久馬はそろそろ嫁を貰おうかと考えはじめている。唯一気にかかる噂は、蘇我町にある織物問屋の手文庫から、ある日、大枚の金子が消えてなくなっていたというものだ。