これも崩滅する階級の一態である。
1
租税の大半を、軍備に奪われない国民は、仕合せである。
「スイスは夢の国です」
「この世の天国です」
この言葉は、肺結核の夫の転地に従って、パリを去る時には、フランス人に独特なお世辞だった。山、湖、空、光、色、総て、スイスに来てからは天国のものだった。しかしフランス人達の聞かせてくれた言葉が単なる慰安でもなく、景色について言ったことでもないと、一年暮して、ようやく沢夫人には解って来た。
海洋に浮べる艦の代りに、雲を凌ぐ山々にまで軌道を敷いている。兵営内で空しく消耗される若い生産力は、アルプスに自動車用のアスファルト道を拓くに費う方がましである。人を殺すことに専心するよりも、単なる娯楽であり、贅沢に終るものでも、人間生活を豊かにしようと努力することが、どんなに良いことか、夫人はぼんやりと、戦争を心配せずにいられる国の幸福を、日常生活のどんな場合にも知らされる。
雪になりそうなので、急いで買物をまとめてから、普段のように駅前の、レストラン・モン・ブランで、登山電車を待った。軒下の歩道の椅子に掛けたが、ストーブに寄らなくとも寒くはなかった。そこから仰げば、夫の待っているコーは、千八百メートルで、雲にかくれているが、下のグリヨンの別荘は、雪の中に点々と見える。レマン湖畔から絶壁のようなその山頂に、一直線に登る軌道を眺めると、山と闘うこの国民の歴史が、最近読んだばかりなので、一層偲ばれる。
こんな地図が、レストランの壁にかかっている。
(雪を知らないモントルー スキーのグリヨン 肺の病気はコーへ と書き添えた地図 のカットが此処にはいる)
「結核都市コー、全快率八十三パーセント」
「肺を病む者は山岳へ行け」
「来る十二月一日、グリヨンに於ける国際スキー大会」
こうしたポスターが、停留所の前で、低い空に圧えられている。絵ハガキ屋のキオスクの下に小馬が頸を垂れて、鞭を挙げている老人と、古い車と一緒に、誤ってこんな所に下車するお客を待っている。「紫の恋」と赤く染めた本屋の横に、レマン湖が黒くはみ出て、シヨン獄城のドームの腹を半分のぞかせている。
冬の避暑地は頼りない。夫人はチョコレートの上に張る皮のことも気にかけずに電車を待った。
午後の二時はスキー客を山に連れて行かない。上等車には四十位の紳士が一人いた。よく山で会うが、まだ挨拶したこともない。彼が病人の家族であることは、初めて会った時に感じた。夫人は電車で会う人を皆、病人、病人の家族、全く肺病に関係ない者、と識別する感覚を持っていた。そして胸の病気に関係ある人には、親しみに似た気持を抱く。空いた車を選んで、紳士の隣席を取ったが、彼も夫人に目礼した。
車がよじれば、上には風がある。山を包む雲は霧だ。雲を分け入ればやがて霧は小雪となっている。雪を風に投げつけられながら進む車体は、急な傾斜だ。夫人は読みかけの日本書を止めて、鉄柵を握った。しかし隣から寄りかかって来る紳士の体は重い。その重みは自然の力だけのものではなかったが、夫人は黙って、落葉松の黒い幹にからみかかる小雪を窓越しに見ていた。
「ごめん下さい」
思い切って、フランス語で放って、夫人は体をよけた。
「大変な雪になりまして、これではコーは大変でしょうな」
同じ言葉で自然に答える彼は、夫人の意味が解らないような眼を向けた。夫人はそのアクセントで、彼がフランス人であることが解ったが、その眼にフランス人独特の温良さが読めた。夫人はわけもなく赤くなって黙っていた。次の勾配で再び重い紳士の肉体が、ずれ下って小さい躯に支えられるようになったが、夫人は、緊張して無理に抵抗することを止めて、その頑丈なからだを頼もしく見た。
「貴方は『エスポアール(希望)』にいられる日本人でしょう?」
「ご主人の病気はどうです。遠く外国で病気しては大変でしょう。ご同情します」
「三年もパリでお暮しですか。やはりパリの空気がいけなかったのですね」
このくらいの親切は、どんなフランス人の口からも出るのであるが、それが夫人には初めて聞く慰めの言葉に感じられた。
「奥さまがお悪いのですか。グランドテルの浴光療法というのは、本当に成績が良いのでしょうか?」
頼れる者のように、こんな質問をするまでに、夫人は打ちとけて話し合って、グリヨンを過ぎて、コーに近くなったのも気付かなかった。
手提げの中から雪靴を出して、積雪が一メートルもある道を、療養所に辿る用意をした。彼は夫人の買物をさげて、「希望」の岐れ路まで送ってくれた。夫人は手袋を通して暖かな握手や、眼に読める愛情を嬉しいことに感じて、「希望」に帰った。
「希望」は雪の中の宮殿だ。
死の宣言を受けて、欧州各地から集まる肺結核患者は、この宮殿の門に金文字に輝く希望を、第一に捕えなくてはならない。南向きに、太陽と空気とを十分に受けられるように、四百の部屋が、上下左右に重なりあって、死の応接間を作り、そのどれもが物語の主人公を容れている。誰でもその一人を語れば、ジードの傑作となり、ケッセルの「捕われた人」となる。我々の沢夫妻も、この四階百二十一、二十二号にいるのである。各部屋に、キュールと言って、ベランダに似た部屋が付属して、其処に寝椅子を出し病人は終日外気を呼吸する。(この外気の中に横臥<おうが>する療法を又キュールと言うが。)
沢は毛布に包まれて、頸を出して寝ていたが、登山電車の音を聞いて、胸近くまで積った粉雪を払って起き上った。もう間もなく四時なので、その日の午後のキュールも終ろうとしていた。
「私、とうとうフォーコンネさんと話してしまったわ」
夫人は転げ込むように入って来て、車の中で会った彼のことを、先ず話した。二人は散歩の途中何度も会って、ソルボンヌ大学教授に似ている彼をそう呼んでいるのである。
「私達のことを、それはよく知っているので驚いてしまった……」
外套や帽子を脱ぎながら、夫人は彼のことを続けた。
「奥さんが悪いんですって、やはり。グランドテルの浴光療法は、咽喉と腸の結核には驚く程良いが、肺には却ってよくないとか言ってましたわ……
貴方、何か慍っているの。黙りこくって。キュールの時間は終ったでしょう?」
キュールと部屋との会話が、たとえ四時を過ぎても、他の患者のキュールを妨げそうな気もし、かとて、部屋に入ってしまうのは早いので、沢は聞き手になっていた。一カ月一回、銀行に下りて行く妻は、色々麓のモントルーで見たことを、細大漏らさず、本屋のショーウィンドーの中から、レストラン・モン・ブランのお客の数まで、話すのが常であり、そうして聞いていることが、沢にも楽しいことである。
夫人はキュールの夫の横の椅子に掛けたが、その時、健康なフランス人に無関心でおれない自分を、覗いたような気もして、話題をそのまま追えなかった。
「熱はなかった?」
「六度七分(平温)。お前、キュールでそんな薄衣でいては大変だよ」
キュールは零下十度。病む肺臓に凍った空気は良くても、外套のない夫人の肌には厳し過ぎる。しかし夫人の心は急に曇って、脚下に瞰える雲の波を、ぼんやりと渡って行った。
午後のキュールの安静時間が過ぎて、「希望」には生気が走った。上の百七十号からは、単調な手風琴の嘆きが、隣の百二十号からは、私語を伴うすすり泣きが、沢夫人の胸を撫でる。ラジオの音、蓄音機のジャズ、スキーへの誘い合い、叫び、夫人はどうかしたくて、どうにもならなかった。自然にもり上る泪を、腹立たしくて耐えようとするが、力のないおなかの置き処がなかった。
「私、近頃よほど、どうかしてしまった」
そう言い残して部屋に去った。
スイスは要塞の代りに、結核都市を建設して、文明病と闘う多くの軍人――医師――を養成している。レーザン、ダボス、コーの名は、ベルダンの名の如く欧州人には、知れ渡っている。
兵営が生命である田舎町、コーもそれだ。毎年各地から集まる若者、それが結核菌の培養者であり、闘病的訓練をすることが違うだけである。五大私設サナトリウム、七大公設療養所、無数のホテルと貸別荘、そこに六千人ばかりの患者が滞在している。そして各派の教会は、墓場を開いて落伍者を待つ。
沢夫人は、グランドテルの横から、カトリック教会前の坂を降りて、商業区に出ようとしている。夫は雪がちらつくからと一緒に出なかったが、その雪も止み、下の雲の波から、グリヨンの屋根や、湖の断片が飛び出して来た。
「一緒に来ればよかった」
モントルーに行ってから五日、吹雪は昼夜療養所を廻った。病人も看護人も、冬の宮殿を散歩するので諦めていた。その間に沢は、長く躊躇っていたプヌモと言う外科的療治法を始めた。悪い左肺の胸壁と肺臓の間に、空気を送って、肺臓の活動を弱め、これに依って病菌を絶やそうとした。二回だけで熱も下り、気持よくなったと言うが、長く看病してこの病気の根強さを知っているので、この坂道を登る疲労の程度を見たくなった。
山に来て一年、徐々に恢復することは、医者の説明、熱の赤線の下降、体重表の上向きなどよりも、坂道の苦痛の度で最も易く計られる。
教会前の坂を登るに、一年前には杖を持って五回休んだ。四回、三回、二回となるに従い、スイスを去って、パリヘ、そして日本へ帰る日が近づくと、夫人は待った。緩り登れば、一回で足りるようになったのは一ヵ月前、その時から、休まず登れたらということが、夫人の欲となり願いとなった。
プヌモは、現代の医術でなし得る最も有効な肺病療法であることを思い、その上二回とも希望の空気量を送射し得たことを考えると、この坂を杖なしに登る日も近いであろうと、想像しながら、薬屋の横から花屋の前を曲ろうとした。その時、花屋から突然健康な紳士が飛び出して、夫人に突き当った。二人は無器用に立ち止り、驚いたように手を出した。夫人は握られた手を引っ込めると、黙って並んで歩き出した。
「あの花屋の主人は、『希望』にも行くでしょう。有名なパリのオペラのバスの歌手でしたが、戦争中に毒ガスで咽喉をやられ、声が出なくなったのです。毎日蓄音機で自分の声を偲んでいます」
「そらこの写真機屋も、毒ガス組です。細君と一緒にフランスから来ましたが、看護中に細君がやられ、さんざん虐待して、半年ばかり前に死んでしまいましたが、先生近頃、毎朝、日課のように墓詣りしていますよ」
「プヌモは本当に良い療法ですの?」
夫人はこのフランス人にもそれを問いたかった。
「片方の病人には、九十パーセントの全快率を示していますよ。空気さえ入って行けば成功です」
「でも、その肺臓は機能を失うそうですね」
「肺は一方の四分の一あれば、生きて行けますよ」
彼は色々の例を引いて夫人を励ました。その言葉は嘘ではない。プヌモさえ成功すれば――、これこそ総ての患者の唯一の願いであり、プヌモの成功、不成功が、生死の分岐点である。
彼はその妻が、プヌモを行なったが、昔肋膜をしたためであろう、空気が胸部に入らないで、止むなく、フレニコと言って、頸筋を切り、横隔膜を上げて、病肺の活動を弱めようとする手術を、行わねばならないとも話した。どんなに愛し合っているか、どんなことをしても助けねばならないことなども話した。
「私達は結婚して七年、子供も、親も友もいらず、唯二人で充ち足りていました。幸福はそのまま円く転げて行くものと信じておりましたのに。私は仕事もなげて、ニーム(南仏の古都)を棄てて来ましたが、いつになったら帰れますか」
二人は自然に街を出て、落葉松の林の中の広い路に出ていた。アルプスはレマン湖を越えて、白い空に薄く滲んで見える。夫人は白い外套を、重そうにして、何度もつまずき支えられ、優しい男の愛撫に、恋を囁かれるような思いで、その男の妻に対する愛を聞いた。林を抜けると、公衆病院の患者に踏みかためられた雪道に出たが、柔らかく膝を没することもあって、その度に、夫人は男の腕に犇と掴まえられた。このまま黙って道を辿るのに不安を感じなかったが、二人は「悪魔の穴」から、アルプスに背を向けて引き返した。
病人は窓を開け放って眠る。外気はキュールを越えて部屋を凍らせ、スチームの管をも氷にする時がある。昼から晴れたその夜は、月が雪を滑って部屋にも流れ込んだ。毛布で包んだ躯を寝台の上に起すと、広い窓が澄んだ空を額縁に張っている。物の凍る音が響く。こんな夜、沢は眠れないが、薬で眠りを招かず、物思いに頭を委せておく。こんな風にしていつしか眠ったものであろう、突然物音に覚めた。部屋は浴室を中にして妻のと通じているが、人の気配がするので上半身を起すと、浴室の戸を背に、パジャマの妻が立っていた。
「どうかしたの?」
沢の言葉は冷たかった。眠りを破られる翌日の疲労が、直ちに計算されるのである。妻は黙ったままつくづく夫を眺めている。夫の腕に抱かれたかった。優しい言葉が聞きたかった。
「今何時?」
その夫の心が解ると、むやみに腹が立った。耐えられない怒りが心臓で唸った。一言でも口を開けば、怒りが燃え出しそうになった。
「寒いし早くお休み」
夫人はすうと消えた。
これは一瞬間に終った出来事で、沢は悪夢に襲われたのではないかと思った。病気以来、沢夫妻は兄妹の生活をした。力を闘病に備えるために、あらゆるものが犠牲になった。生きようと念う故に、妻を妹と見るのに、苦痛も不自然も感じなかった。それに妻から、――子供までパリに残して来て看護に骨を砕く妻から、誘惑さえ感じなかった。妻は妻で妹となり切っていた。それだものを、その夜のことも、弱った身体の錯覚だと思いなしてしまった。
沢夫人はキリスト教徒ではないが、日曜日のミサには、よくカトリック教会に出かけた。祈りたいというよりも、健康な雰囲気が欲しかった。大オルガンの音も、合唱も、元気な説教も、皆病気から縁が遠かった。結婚の鐘が鳴ればいつも、スポーツに出掛けるように教会に来た。
午後のミサが終って、教会を出て来ると、四十か五十か年齢のよく判断のつかない婦人が、直ぐ後を追って来た。黒い着物に黒い帽子、しかも型は戦前のもので、お伽噺の魔法使いの媼さんに似て、黒い鋭角の目を放さない。
「私に従いなさい」
沢夫人の横から、だしぬけに威厳をもった調子で言う。教会前は一本道で、その命令に従うより外はない。薬屋の曲り角で媼さんは、夫人の選ぶべき道を取った。雑貨商の前を右にすれば、「希望」に一本道であるのに、フラフラと左に従ってしまった。真直ぐに再び左に下れば、一団の商業区だ。兵隊さんが日曜日一日、兵営内の憂さをはらす区が、兵営から近くなく遠くない処にあるものだ。
「奥さん、貴方の求めるものを知っています」
その言葉は魔法のように夫人の躯を慄わせた。
「沢山です」
夫人は一目散に来た道を帰った。息もつけず滑る雪靴に力して、ステッキを折ってしまった。走った。漸く四辻に着いて見ると、一間と離れぬ所にその老婆は立っていた。
「うせろ!」
夫人は叫んだ。
「奥さん、貴方が何を求めているか知っていますよ。ご用の時は教会で待っています」
この台詞を後ろに聞きながら夫人は息を切らした。
午後二時から四時までは結核都市に独特な二時間だ。患者は例外なしにサナ、ホテル、別荘のキュールに出て、寝椅子で絶対安静の闘病だ。読むべからず、書くなかれ、物を思わず、口を開かず、見ず――これこそ軍隊式な規則だ。療養所はエレベーターもとまり、一切の音響を殺す。街では自動車もガレージにおさめ、静粛を守る。皆六千人の命懸けの真剣勝負を援けるのである。従って、沢夫人が老婆に捕まった時には、散歩の人もなく(この時刻に出歩ける人は健康者だけだが)、街は雪にまどろんでいた。
「希望」に転げ込んだ時は、四時過ぎて活気づき、エレベーター前の広間には、数人の患者がラジオをかこんで、ミラノを聞こうか、ウィーンか、パリか争っていた。その横には既にトランプに賭けている一団があった。
「私もう教会に行くのは止めにしますわ」
キュールで読書している夫に言った。
「帰りにこちらに登って来るのが、私一人でしょう、寂しいったらないのよ」
上のキュールからは、手風琴の音が、迫るようにする。
「厭ね、又あの音。部屋を変りましょうか。毎日で助かりませんもの」
「少し根気負けがするな。今日はキュールの間も止めないんで、とうとう苦情が出てしまった」
「医局の方でどうして黙っているんでしょう」
「神経衰弱で、止めさせたら熱が昇るし……それに病気もよくないらしいから」
「イタリアに帰りたいんでしょうね」
「碧い海が見たいと泣くのだそうだ」
「ああ、私も日本を見たいわ。子供も……」
夫人は余り不幸過ぎる自分が悲しくなった。
「子供の処へ電話を掛けて元気をお出し」
やっと歩けた女の子、託児所の赤ん坊達、日本の家庭、今日会った老婆……熱い目を閉じても映る。沢も黙って、本を閉じ、同じようにキュールの長椅子にかけた妻を見ていた。突然上から叫び声がして、二人は椅子に起き上った。風琴の音はなかった。廊下を走る音、階段を下りる音、エレベーターを呼ぶ鈴、「希望」は火事場のようになった。沢夫妻は黙って顔を見合せたが、直ぐに風琴のイタリア人が身投げしたことを知ったけれど、立ち上りも、口を開きもしなかった。
死人は夜明け前に山を下りて行く。残る人々に悪い影響を与えない注意だ。イタリア人が外科室に運ばれてから、その後の経過は知る人もなく、知ろうとする者もなかった。が、風琴の音は、多くの人々の心に虚空を掘って行った。そして雪の日が続いた。
沢夫人はそれでも出掛けなくてはならなかった。フランス語の勉強、裁縫の稽古……夕べが早く、三時には粉雪が、道路の電燈に映る。そして、会う婦人の服装が皆黒く見える。
「貴方の求めていることを知っていますよ」
どの婦人からも言われそうな気がした。急いでも雪道は遠く、杖を二本持ってさえ出て歩いた。
そんな時、例のフランス人に出会うのは嬉しかった。識らずに元気になる。毎日会いそうな希望を持って外出し、会えば輝かしい気分を沢にも齎した。
「あの人の奥さんは可哀想ね。手術したが、左肺には心臓の重みが加わるので、予期した程横隔膜が昇って来ないのですって。それで、トラリコと言って、左の肋骨を切り取って、肺を抜き去る手術をするのですって……」
「大変ですね。それで近頃サノクリジーヌ、そら、金の注射と言ってるでしょう、あれが大変効果のある事が解ったし、大流行であるから、一時その注射で様子を見ることにするかも知れないとも言っていましたが……」
「貴方のプヌモですと、来年の三月頃には、山を下りられるって言うんですよ。近いうちに会ってご覧なさいね。三時間も散歩を許されたんですから……そうそう、社会主義の代議士でクローデルという人ね。あの人の伯父さんですって」
「それから、ニームは一度見る価値があるから、日本に帰る前に、二人で家へ来いなんて……」
「なかなか面白そうな人だな」
沢も機嫌よく未知の人に親しみを感じて聞いた。
クリスマスに近い日曜日であった。久振りに太陽が雪の上に燃えて、二人は散歩に出た。皆鮮やかな日傘をさして、声を張り上げて通った。朝の散歩はお祭りのように快かった。「希望」の裏山に路をとる習慣を変えて、グランドテルの方向に、広い路を下って、そのフランス人に会う機会を作ったが、規定の二時間を歩いても、遂に彼の影さえ見えなかった。残念がったのは沢である。
「奥さんが悪いのかな」
未練がましく、帰りのソリでも、行き違う人に注意を払った。
午後、夫人はフランス語の稽古、中学校の先生の家を出たのが三時、デュマレ博士の家の前にさしかかると、其処から出て来た彼に行き当った。
「奥さんがお悪い?」
「手術前で元気を養っていますよ」
「今朝お会いしませんでしたし、それにデュデュ(博士の綽名<あだな>)のところから出て来るのですもの、心配しましたわ」(結核患者をテュテュと称す。)
「メルシ、(そう言って感謝に満ちた握手を再びして)デュデュは私の従兄ですよ」
「まあ、デュデュなんて申してご免あそばせ」
彼は朗らかに笑った。こんな笑いをこの人に初めて見たので、夫人も気が軽くなっていった。二人は自然に落葉松の林に足を向けた。
「教会の前には誰も見えませんか」
夫人は一町ばかり前で確かめた。
「ミサは終ったし、誰もいませんよ」
四時十五分前の鐘が、だし抜けに教会の鐘楼から響いた。夫人は安心はしたが、彼の横に寄り添って教会を過ぎようとした。その時、黒衣の婦人がそこから出て来るのにぶつかった。今少しで叫びを上げるところを、やっと男を引張ってぐんぐん歩いた。
「後ろから誰か来ませんか」
二町位して右に曲ろうとして訊ねた。
「誰も」
「さっきの女は?」
「あとから来ますよ」
「早く歩きましょう」
「……?」
「あの媼さん悪人よ」
「いいえまだ三十位の人です。人違いでしょう」
正月は何処にだって来る。
「希望」は人種博覧会だ。地球のどの隅からも、その国の国民性や民族的特色を持って、見本のように集まっている。ロシア人の嘘、スカンジナビア人の燃える金髪、イタリア人の誇張多い高音、イギリス人の微笑、ドイツ人の太い肚、黄色いアンナン人……しかし皆同じ戦線で闘う戦友だ。色や言葉はその妨害にはならない。個人には国境がない。
正月が来た。こんな時に、皆故国を考える。そして、その代表する国民であることを強く感ずる。沢夫妻も日本人らしい気持になる。――悩まされ続けた狂った性の行進曲は、ヨーロッパなればこそだ。全治前に崩れるように逝った婦人、強い酒に酔いながら断崖を滑って行った男女、キュールの静粛を破る接吻の音、禁を踏む深夜の囁き、みんな日本では行われないことのように沢夫妻は考える。
沢夫妻は常に兄妹であった。
日本では七草だと話しながら出た日は、心も重く、鐘楼の時計針が泪にぬれる。
「今日は、マダム」
うつ向きに歩いていた夫人は顔を上げて、石像のように竦んだ。居酒屋と肉屋の路地から、例の老婆が現われて道を阻んだから。
老婆の目を見つめた。
何でも知っているという意地悪さが読める。
「一緒に参りましょう」
そうするより外ない。
「お求めのことを知っています」
「私をどうしようと言うのですか」
行く処まで行けと夫人は肚をきめた。
「後で私に感謝しますよ、マダム」
女は四辻を斜めに下りて、小ホテルの並ぶ街に降りて行く。
「ついておいでなさい」
大都会のどこにもある裏面の街、そんなことには、もう好奇心も驚きも感じなくなっている夫人ではあったが、急に不安になった。細い道、暗い家、酒と煙と音。
ある小さいキャフェの横に入る、庭を突き当ると古い大きな建物。暗い入口に曲った広い階段がある。その欄干に手を掛けて言う。
「お登りなさい」
「――?」
「健康な男が待っていますよ。マダム」
女は耳元で囁いて笑って見せた。
「アッセ(沢山だ)!」
夫人は転げるように逃げた。
「健康な男が待っています」
夫人はこの言葉に付き纏われた。読書しながらも聞いた。縫物の針を落して茫然とした。フランス人に会っても、健康な男としての彼が感じられ出した。辱ずかしい夢さえ見た。
「私はどうかした」自問してみる。
「早く癒って下さいね」夫に催促らしい言葉を出すに至った。
「もう一年半たちましたものね」
パジャマのまま、夫の部屋を叩こうとしたのは何度であったか。その度に「健康な男」と言う声を聞いた。
「よく眠れたかな」夫も毎朝訊ねるようになった。
沢のプヌモは益々成功し、喀痰もなくなり、熱線は高低なく、体重表の線のみ昇った。このまま進めば、雪解け頃にはパリに帰れると医者も言った。妻も元気づいて、看護に何もかも忘れようと励んだ。今一年このままでいたらと思うと、冗談も言えなくなった。
隣室百二十四号のビアル夫人もよくて、すすり泣きがなくなった。このフランスの婦人は、肺結核ときまると、離婚してスイスでもう二年暮す。近頃七十八号のセルビアの青年と一緒なのをよく見受けた。沢はこの二人が夫婦の生活をしているのを知っていたが、人の噂を否定していた。
沢夫人は日本流に寝る前に、部屋の外に用を足しに出る習慣が抜けなかった。廊下には薄暗い光があるだけで、人通りもなく、靴を脱いで遠慮がちに行く。四階は良い患者のみで、監視もいない。――十一時も過ぎた夜は、療養所は海底に沈んだ船だ。下の祈祷所から時には尼さんが黒い裾を引いて登って来る。
黒の男マントが、ビアル夫人の部屋から抜け出た。パジャマの裾が白くマントからはみ出て、足頸にからんでいる。沢夫人は立ち竦んだ。躯の血が逆行する。躯を百二十三号の外壁に支えながら、部屋に滑りこんだが、胸の血はおさまらない。ベッドに入って毛布をかぶると、熱病のように血が狂う。
「健康な男」「健康な男」
そのまま眠りたい。目を閉じれば、百二十四号の寝台が入って来る。
夫人はふらふら起き上った。
黄のパジャマの裾が、紫の敷物を掃いて行く。浴室の窓には小雪が嘆く。夫の部屋の戸を開ける。白い毛布の上にあった頭が動く。夫人はその頸を強く抱いた。泪と息が、沢の顔に雨と降る。夫人は待った。待った。
強くかかえて夫人の躯を寝台に上げようとした男の腕から、突然に力が抜けた。その腕は、横にかかった外套を引きとって、顫えている夫人の背にかける。
「我慢しておくれ」
地獄の底から声がした。
「許しておくれ」
しめった声が耳にした。夫人は外套を振り棄てて立ち去った。部屋の戸を永久にしめるぞと、音を立てた。
沢は努めて快活に装った。パリの子供のことを話し、「希望」を出て、別荘を借り、子供を招こうとする計画を持ち出した。夫人もその心を読んで明るい顔を見せ三月もすれば、子供の処に帰れる喜びを語った。健康も殆ど取り戻したので、今一息と二人は励み合い、悪夢だったと互いの心に読んだ。この環境が悪いのだと、夫人は自らに弁解もし、鞭撻もして、稽古事も止めてしまった。
「まあ久振りでしたね」
郵便局に下りて行ってフランス人に会い、春に会ったようにほっとした。
「妻の手術も終りましたよ」
「どうでした?」
「助かりましょう。ご主人も良いそうで」
「春になったら帰れそうですわ」
夫人は女学生のような足どりになった。四辻から、左にキャフェ街に降りて行ったが不安がない。まだ陽はあるのに、西側の家からは音楽や笑い声が盛んにする。カジノもある。小ホテルも並ぶ。その一軒の前に来ると、フランス人は言った。
「入りましょう」
夫人は黙々と従った。広い階段を上った。三階の東側の戸を鍵で開けた。テーブルの在る小さい部屋。次に広い寝室。その横に浴室。一度に全体が目に入って、夫人にはこまごました道具が見えなかった。
男は夫人の外套と帽子をとると、小さな躯を両腕に抱えてソファーにのせる、と、熱のある唇で女の口を閉鎖した。夫人は叫ぼうとするよりも、気が遠くなって、男の頸を犇と抱いた。
女の躯には血潮が漲った。男女の着物はソファーの上に無造作に在る。そしてホテルも、スイスも、高山も皆海底に沈んで、心臓の音のみが、夫人の耳に波音となった。
2
「一年前にロシアからパリヘ。此処へは二カ月前に来たのです」
サーシャ嬢は、従兄のピエール・トドロウッチを沢達に引き合せた。朝の雪道の散歩は、ロシアを思わせるであろうと日本人は考えたが、このロシア青年は、無造作に小石を投げて犬に探させながら、朗らかに笑っていた。
「沢さんよ。『希望』のおきてを破って、ユマニテ(フランス共産党新聞)を読んでいるのは」
「貴方がロシア語を読めないのは残念です」
青年は従妹に答えずに、沢を覗き込んだ。
「ピエール、駄目よ。すぐに共産党の宣伝なんかしては。私は毛虫より共産党が嫌い」
青年は屈託ない笑いを山峡に放った。
サーシャは、有名な無政府主義者、クロポトキン公爵の一人娘であるが、ずっとパリに在って、一時舞台にも立った美人で、「希望」に病気を養っている。ピエールも伯爵の息子ではあるが、今は全く共産党員で、パリのキュリーの研究所でラジュームの研究をしている。
「サーシャは思想まで親譲りですからな」
「いいえ、私は資本主義讃美者ですの」
「沢さんはコミュニストですか」
「失礼ですわね、沢さんは社会学者よ。それで研究の対象として以外には、コミュニズムなんかにご用はないんですわ。ね、沢さん?」
沢は賢明な日本人の微笑をしただけである。
「貴方もコミュニストになるには、肥り過ぎている仲間ですか」
「いいえ、父は小作人ですが」
「すると、まだ学問が足りないんですな。特に社会科学をなさって、共産主義が必然的な帰結にならないなんて」
「ピエール、そうでないの。そんな失礼なことを言うものではなくってよ。恕してあげて下さいね。……だけれどピエールの天国であるロシアは、革命の父である私の父を絶望させたのよ」
サーシャは沢に、K公爵の晩年の生活、ロシアでの生活を、悲しい追憶として話した。
「あれは伯父が悪いのだ」
「いずれにせよ、貴方のロシアに信頼が持てないの。沢さん、私の母は今もモスクワにいますが、最近、誰にでも櫛を二枚託されたらそうしてくれと書いて来ました。どんな良い制度や設備が出来たのか知れませんが、寄る辺ない母に櫛まで不自由をさせ、その上、娘の処にも帰さない国を、良い国だと思えませんわ」
その言葉には真剣味がこもっていた。
ピエールがそれに答えようとした時、後ろから一団の散歩の患者が追い付いた。それはピエールのいる公衆病院の仲間で、ピエールを掠って、沢夫妻にサーシャと愉快な談笑とを残して過ぎて行った。
「従兄さんは病気に見えませんね。それにあの一団の元気では、誰だって病気だと思いませんね」
「ピエールも、一寸冒されているばかりだと言っていますが……」
「あの若い人々はイタリア人のようですね」
「イタリア人も、ドイツ人もいるようですよ」
その人々の口笛や、笑い声は雪を滑って響いて来る。
「共産主義者は、どんなことでも出来ますね」
溜息のように、サーシャは言って、その若い人々を目で追った。「悪魔の穴」の横の雪の細道に、皆没して行った。
「革命は人を変えます。……」
サーシャはこの日本人に打ちあけようとする言葉を漸くくい止めた。
その一団の採った道を辿れば、二十分にして祠に達する。雪が降り始めてからは、通行人がなく、その小径は没して祠のサンタマリアも、冬眠する。しかるに、この一団は、マリアを雪の中へ追い出して、祠を占領し、そこに登山用具を持ち込んで火を焚き、葡萄酒の瓶を空ける。前から隅に運んでおいた暖房具にアルコールを容れ、その周囲に毛布や外套を敷いて、一団七人は坐った。その内の二人の婦人は、途中で買った瓶と菓子を出した。道中の賑わしさに反し、祠に入ってからは静粛に、何かを待つようである。イタリア青年が一本の手紙を次の青年に渡し、彼はそれに目を通すとその次に渡し、最後の男は読み終ると火に投げた。
「しかたあるまい」
ピエールが皆に代って言った。
「しかし、ベリアリは、健康な男ですから、医者から診断書が貰えましょうか」
婦人は誰にともなく言う。
「しかし、仏伊の国境は厳重で、逃亡は不可能であるし、スイスの国境はこの雪では企て及ばぬことであるし、半月もまごまごしていれば、捕われるに決っているし……」
「十日も断食すれば痩せるし、医者に寝汗をかくとでも言えば、大抵肺結核という診断をするよ。それに人間百人のうち九十人は肺に、レジオン(レントゲンの写真をとると、黒く写る部分)があると言うのだから、彼程の無理をした躯には、必ずレジオンがあろうし」
「肺結核と決定さえすれば、革命菌より怖ろしいとして、すぐにスイス行を許可するから大丈夫だ」
「何しろ、この数日のうちに、彼がやって来れば、それで解決するし、向うの同志の消息も解るというものだ」
「パリで『ソヴェート農村』を出したイリオリ氏も、最近小舟でギリシャに逃亡したらしい話を聞いた」
「あのカトリックの社会主義者までが逃げ出すんだからな」
「これでどうかな」
このような会話をよそに考え込んでいたピエールは、紙片を皆の者に示した。
「いいでしょう?」
「しかしこの電報は、モントルーではいかん。タチアナさん、貴方はジュネーブに明朝行って来て下さい」
「よろしい。又衣裳を作るんだと言って医長さんを喜ばせて、下山の許可を得ましょう」
この言葉が皆を陽気に笑わせた。
「次は来週の土曜日の午前。いいですね」
次には呑気な青年男女になった。
公衆病院、それは世界の人間の掃溜だ。
或るフランスの富豪が、その一人息子が「希望」で死んだ日、その財産の半分を投じて設けたもので、青年患者であること、僅かな費用を支出し得ることを、入院条件としている。
門を入れば大理石の碑がある。
「我が夢も破れたり」そう誰も読まなくてはならない。設立者の銅像をという議案のあった時、その悲しい父親はこの言葉と、財産とを市長に残して、ロアール河畔の居城に帰って行った――と言う。
そして此処に収容される青年達は、その言葉が皆、自己を語るような感に打たれざるを得ない。
天才画家を夢みた者、政治家を、詩人を、科学者を、法律家を願った者、……資本主義が整然と発達しきったヨーロッパで、中産階級以下の家庭に産れた者が、所謂成功しようとするのは、橋のない大河を飛び越えるに似ている。二つの社会は大河の両岸に在って、偶に渡る者も成上り者の待遇を受けるのに、下層階級の青年達は、一生に一度の投機のように、一心不乱に越えられぬものを越えようと努力して、その結果は破れた夢と、崩れかかった躯を此処に運んで来る。
「それは夢ではなかった。人間の誰もが願って良いことであり、我々の努力は貴いものだった。それが酬いられず、夢とされるのは、社会制度が悪いからだ」
中庭の芝生に寝ころびながら、議論した一人のスイスの青年の言葉が、本当だと此処の患者は百も承知しているが、微笑して興奮すまいと努力しているのだ。
沢夫妻もサーシャに伴われてその碑の前を通った。
南向きに庭園に傾斜をなして造られた建物は、出来るだけ多くの長椅子を、光線と外気に触れさせようとしている。その椅子に毛布に包まれて、顔だけ出して寝ている患者を、庭から見上げれば、それは血に漲る青年ではなく、夢のさめた骸としか映らない。一つ一つが生活を営み、理想を抱く躯ではなくて、人体の乾物製造場に陳べたひものだ。六百の目が大空の方に救いを求める視線を投げている。一つの声も動きもないこの光景を見る者は、戦場の跡に立つように、人間が霊の祠だという譫語を、思い切り笑いたくなる。
四時の鐘はこの療院のチャペルからも鳴る。
畑に落ちた芋虫が物音におびえたように、毛布の中から、動き出し、声が出る。これから営みが始まる――
「街へおりるか」「上に登るか」「かるた引こうか」「ブリッジしようか」散歩の時間を貰っている者は外へ。許されぬ者はそのまま――「小説を貸せ。新聞を」「手紙を書くんだ」「ラジオを聞くのだ」――「若いイタリア人君、君は声楽家だと言うが一つ聞かせろ」
「どうせ今に歌えなくなるんですもの、今のうちお聞かせな」
「此処に来たら一週間が自由だ。それからは咳をするにも規則ずくめ、その一週間の自由を利用しておかんと後悔するぞ」
三日前に着いたベリアリは、キュールの気味悪い沈黙で胸がつまる思いだった。押し込んでも、跳ね上る若い力が首を出す。馬鹿らしい雰囲気をかっとばしたくなった。
…………インターナショナル。
…………インターナショナル。
工場で練ったテノールは、庭から谷へと転げて行く。突拍子もないこの歌は、皆の耳を殴りつけた――いつ終るか。
「やかましい。馬鹿野郎!」
ピエールの怒った血走った瞳が、部屋の隅から飛び出した。
「死んでしまえ。気違い!」
どこからも叫びがする。イタリアの青年は悪びれずに長椅子を棄てて去ったが――
ピエールは、サーシャの訪問を伝えた下男が来るまで、腹立たしさに胸が鳴った。
「ピエール、さっき革命歌が聞えたようね」
サーシャは門を出ると直ぐに言った。
「イタリア人には気違いが多い」
ピエールは気の早いイタリア人に信頼出来ない不安を持っていたが、それをこんな風に現わした。
「その点では、ロシア人も同じね。沢さん。ファシストも、コミュニストも普通の人間ではないもの」
従妹の言葉に漸く笑って見せた。この鋭敏な人々に秘密を嗅がれてはならないから――
雪が降る。冬の宮殿の長椅子でサーシャは、沢と父の思い出を話していた。(沢夫人も五時になれば夕食の化粧をすませて下りて来るのが例である。)この二人にはミリッザというセルビアの娘と、パラビチニというコルシカの青年が、普段のように加わっていた。毎日の雪で話題も尽きると、サーシャが請われるままに、沢に大革命家の日常生活を語る――
そこへ三、四日前から食堂に見受ける丈の高い中老の紳士が、どかと腰を据えて読書を始めたので、サーシャは話を中止した。
「お嬢さま、お続けなさい。私はフランス語はよく解りませんし、平気ですよ」
そのアクセントでイタリア人であることが解ったが、皆頻りに空咳をする彼を、煩わしく思って黙っていた。
「貴方はアルジェリア人ですか」
「日本人です」
「ブラボー。我々は日本とは同盟国と同じです。バロン・タナカは日本のムッソリーニ。握手しましょう。どうぞ友達になって下さい」
沢は相手のするままになって微笑していた。
「日本はすばらしい国だ。東に日本あり、西にイタリアありですな」
「お言葉に恐縮します」
「それが日本人の美しい謙譲の徳ですな」
「貴方は大変なご機嫌ね。デュマレ博士に見て頂いてますの?」
「いいえ、まだです。お嬢さま。大変お邪魔しました。日本人さん、私は八十番にいます。是非お話にお出で下さい。私も伺います。何しろ日出ずる国の人に逢うのは愉快です。しかもこんな処で。どうも――」
「彼は病気ではなさそうよ。一昨日、デュデュの処で私の直ぐ前に診察して貰っていましたが、デュデュも怪訝な面で、貴方は病気ではないと言うのに、咳も強いし、イタリアの医者はラッセルも聞えると言うから暫く静養したいと言っていましたわ――変り者もあると後で笑っていましたが、何か訳があるのよ、きっと、デュデュの話をすると、今も引き上げて行ってしまうし」
ミリッザは得意気に話した。
「それにあの目の光はイタリア人には珍しく鋭いし、訳があるのよ」
「大戦中なら卑怯者が、肺結核だと言って、戦地からこんな処にも逃げて来たそうだが、今はまさか――」
「でも町の下の方のサナには仮病患者が多いのですって」
「労働が厭になったと言うの?」
「いいえ」
サーシャはこれ以上、ミリッザを追求してはならないと知った。そして自分の疑っていたことが本当で、しかもこんな娘にまで知れていることがたまらなかった。
「沢さん。ご存知?」
「いいえ」
サーシャはほっとして沢とミリッザを眺めた。
「しかし今のイタリア人は、下の人々とは違う。彼は反動政府の犬よ。私請け合うわ」
ミリッザは言うべきことを吐き出した。
「イタリア人は、私、大嫌い。どんなことだってするものね」――ミリッザは続ける。
「日本人もそうでしょう、沢さん?」
「いいえ、日本人もどんなことでもしますが、それは国家のためという条件付きよ。イタリア人は金にさえなればほかのことは考えませんわ」
「ミリッザはなかなか手厳しいね」
「だって私、結核菌よりイタリア人が憎いですもの」
この駄々っ子はいつでも、なんでも笑い事にしてしまう。
階級闘争は言葉ではない。二階級の対立は、ヨーロッパでは議論ではない。事実だ――いいえフルニッスール(下下の者)の子弟と一緒に、宅の子供を勉強させるなんて、そう言って公立小学校に子供を出さないパリのブルジョア。そしてその小学校に入ったら、中等教育を受けられない仕組にして、子供の時から上下に一線を引いているパリ。そうだ、社会学者ゴブロは垣と溝とこれを呼んだが、そんななま易しいものではなくて、鉄条網だ。
自由、平等、博愛。パンテオンの門にも、便所にも、いいや誰の頭にも焼き付いている。憲法でも民法でも、その鉄条網の代りに、この黄金の文字がつまっている。しかし、銀行の鉄格子、モンマントルのキャバレーにも、自動車の真中で棒を振る巡査の笑顔、麩に集まる池の鮒のような売笑婦の赤い唇にも、その一線は厳然と聳える。自由、平等、博愛、唯その線内の自由だ。モロッコの戦争に行くな、それを叫んでも鉄条網に触れるのだ。
沢夫妻もそれを知らなくはなかった。
戦争を知らない国、常に平和の議せられる国、その廃人の集まる小都市にまで、欧州の階級闘争の火花が飛ぼうとは思いも寄らなかった。貴方がたは屠牛場に追われた畜群のように、黒シャツ党のために死の牢獄に駆られた無数の革命家の運命を聞きましたが、その運命を脱れた者は此処にも集まって、新たにベリアリの報告に悲憤する。ボタン穴に黒シャツの星を輝かす者の目もまた此処にある。
若い電気工ベリアリは、革命歌を歌ったために、同志の平安を乱すのを怖れて、此処を去らねばならなかった。ピエールに送られて、雪の車道を下ってグリヨンで電車を拾うだけの用心をした。フランス、スイスの国境は厳しくはなく、パリには同志も待つが、吹雪に暗澹たる心で別れて行った。サンタマリアの祠も見破られたらしい。ピエールは誰とも会ってはならない。それに微熱が再び頬を赤くし出した。――もっと養生しなくてはと思いながら、落着けぬ若い力が燃える。……
「そんな訳で、親友日本人にご依頼に出た次第でございます」
夜十時、例のイタリア人は沢の部屋を叩いて、沢がサーシャと最も親しくしているが、従兄ピエールに積極的に近づいて、その行動を報告しろ、お礼は望み次第、日伊両国民はいずれの場所でも援け合わねばならないと、くどく語る。
「貴方は黒シャツ党員ですな」
「黒シャツ党員でなければイタリア人ではありません」
「此処から直ぐに出て下さい。そして明日早く貴方の国にお帰りなさい」
「貴方は……」
「皆病人です。静かに養生させなさい。貴方は戸惑いした犬です。もう沢山です」
「此処だけの話にして」
「日本人は卑怯な真似はしません、安心していらっしゃい」
「貴方も革命家ですな」
「馬鹿、卑怯者より革命家になった方がましだ」
「よし、飽くまで闘うぞ、敵め!」
沢はこの場を日本語に訳して辱ずかしく赤面した。慍ると三つ児のようにしか出ないフランス語が不便だった。
「ピエール、貴方はまだ止めませんね。この熱では」
サーシャは熱い従兄の掌を、双方握ってその目を見詰めた。
「父の肖像、家庭の肖像をごらん」大きい額に髯から顔を出している温厚ないくつもの目が、壁に在る。
「貴方はあすこから此処に来たんでしょう」
頷いた。暗い部屋で会った女の肉の匂いも、接吻もまだ身についている。どんな女であったか闇から闇に会って別れる相手は、触覚を通じてより知らなかった。出て来る時はありったけの後悔をするが、又会う知らない女体にはすぐに誘われてしまう……
不自然に禁欲生活を強いられている男女は、一週の或る日、時を定めて、闇の檻に裸で入る。食事するように簡単だ。家庭でとれぬ食事を外でする。療養所で喰えない林檎を噛むようなものだ。ただそれだけのことだ――とピエールは言う。
「此処に静養に来たんでしょう。それがこの病気に厳禁であり、あれ程私と約束したことをお忘れ? 来てから三カ月、少しも恢復しないのはその為ですよ」
「お説教は願い下げだ」
「おだまり。それでも、新興ロシアの青年かね。もっと健康的であってこそいつもの主張に力がある。お前も腐ったブルジョアだね。躯が蝕まれたように血も、考えも皆ブルジョアさ。死の舞踊をしているブルジョアと何等変らないお前がコミュニストなら、折角希望を以て眺めている故国だって、お前のおかげで私には曇ってしまう」
「馬鹿。傲慢屋!」
「私の父は聖者だった。それでこそ革命を叫ばれたんだ。何だ。労働者の国家から国費を貰って、その金で、哀れな女を買う。――いいえ、パリの生活だって知っています。資本主義の犠牲だという女性を、労働者の金を以て買う。そして資本主義の罪悪を叫ぶ。それをお前も利用しているではないか。恥をお知り」
「静かに、サーシャ」
「私は悲しい。お前の政治的行動に関しては何も言わない。それはお互いの信仰というものだろうが、人間らしい行動については黙っていられない。あんまりだ。あんまりだ」
サーシャは泪を無造作に払いながら部屋を歩き廻る。
「僕が悪かったかも知れぬ」
頭をかかえて、椅子にうつむいている彼は、それでも、はっきり言った。サーシャはその前に立った。
「ピエール、早く此処を去りなさい。此処はお前のような有為な青年の長居すべき処ではない。肺は癒っても心を蝕まれる。雪は肺に特効薬だそうよ。ロシアヘお帰りなさい。爛れた西欧の文明は、新鮮なものを腐らしてしまいます。ロシアがお前の健康にも精神にも一番良い所です……」
ピエールは飛び立った。その顔は憤りで痙攣していた。
「お前までがサーシャ。お前も、僕を此処から追おうとするのか。お前までが犬なのか」
「アッセ」サーシャは耳に両掌をあてた。
「ピエール。お前は見さげた根性になってしまった。お前のコミュニズムがお前をそれ程にしたのか。……お前のお母さんが聞いたらば……」
椅子に伏している従妹を見おろしているピエールの広い躯は、入口の戸に立ち塞がっていた。
3
沢のプヌモは益々成功した。坂道をかけ上った。午後二時間のキュールのほかは、総ての行動が自由にされた。――モントルーではナルシスの花便りさえ聞く。
「私パリに帰ります」
夫人は或る日宣言した。もう遅くも二月で帰れるので沢は思い止めさせようと色々と宥めたが、
「もう一日でも子供を見なくてはいられません」と普段の柔順なのに似合わず、一歩も引かぬ覚悟が響いていた。それに近頃何事にも興味なさそうな様子の妻が不憫でもあり、多少無茶な言い分でも容れてやりたかった。
「私、お迎えに来なくても良いでしょう?」
夫人はやがて去るパリをよく見ておきたいとか、したい事が多いとか、多くの理由を述べたが、沢にはどっちでもよかった。唯、妻を喜ばせたかった。夫人はその日のうちに、スイスを立つと主張した。
「お一人で困りはしません?」
知合った人々にも挨拶もせず、細々した注意を残して去った。その時異人風に接吻した妻を微笑して見送った。
春はレマン湖に来た。グリヨンには雪があるのに、湖畔には白桃とナルシスがかおる。「希望」は青空と白雲の間に浮いて、冬を籠った患者は里に下りる日を数え始める。
沢の足も自然に下に向く。国道を廻り下って、グリヨンから電車で帰る散歩がたのしくなった。そうした折は、療養所の仲間と行を共にして、わだかまりない談笑をする。皆の心も春だ。
「ピエールさんは近頃どうですか」
沢は一行のしんがりになってサーシャに問うた。
「やはり悪いらしいの。キュールもしないようですから」
「春までだと言っていたのに、落胆してましょうね」
「あの中老イタリア人にも私閉口していますわ、私の隣室に代って、どんなことでも聞き出そうとするし、色々な噂を播くし、……」
「貴方も革命女優と綽名されましたね」
「貴方とだけの話。この春ミラノで博覧会があるのよ。皇帝もムッソリーニも開会式に臨むんです。それに対し陰謀があるだろうと、睨んでいるらしいのよ。それで、パリやコート・ダジュールの各地は勿論、こんな所にも、黒の犬を派遣しているのです」
「それで犬は月に吠えているのでしょうか」
「ムッソリーニは二度も狙われましたし、彼さえなければ、どうせ肚の空っぽなイタリア人だから、ファシズムなんて、一朝に滅ぶと考えるのが当り前ね」
「下のサナに逃避している革命家達というのは、そんな力があるでしょうか」
「彼等の連絡が強くて大変ですから――」
「何故あの老イタリア人は下のサナに行かないのでしょう。その方が良い情報がとれましょうに」
「暗殺されてしまいますものね」
「そんなですか。本当に?」
「だって、貴方も、バルビュスとロマン・ロランの発表したイタリアの黒色恐怖時代の惨状をお読みでしょう。主義者達も暴を以て報いると決心しているんです。……しかしあのイタリア人は何とか方法を講じて、下のイタリア人を一人々々毒殺しますね。どんなこともしかねないから」
「こんな美しい国で、しかもこんな春に!」
「貴方は詩人ね。詩人は何もなし得ませんよ」
突然ミリッザが歩き遅れて加わった。
「貴方、奥さんに毎日書いていますか。……まあお書きになりませんの。酷い人。奥さまは?」
「驚くでしょうが、ミリッザさん、まだ便りがありません」
「それでいてご夫婦なの?」
娘が驚くのも尤もである。別れているヨーロッパ人夫婦は毎日手紙を書き合い、毎週国境を越えて一通話十フランも払って会話し、一回の通信が欠ければ、そのために熱の一、二度上るのが普通だ。
「ご心配ではないの?」
「何が?」
「本当ね。日本人が勇敢だってこと。でもいくら勇敢だって、そんな風な関係が夫婦なら、日本人となんか結婚出来ないわ。ね、サーシャさん」
「その国の風習でしょうし、又それ程信じ合っていれば、これ以上のことないでしょう」
「私なら我慢出来ませんわ。私ね、国に許婚があったのよ。一緒にベルリン大学にいましたが、病気して此処に来てから次第に手紙の数が減るでしょう。お前さん新たに出来たろうベカンテと幸福になりなさい、私もこちらで何をするか解らないと言ってやったの。手紙書かなくなったら愛がなくなったんですわ」
「それで、あなたは幸福になりましたか」
「貴方は本当に間抜けね。幸福なんかそんなにあるもんですか。……サーシャさん、失礼しますよ、(それで、サーシャは速足になった。) 私、今日は饒舌よ。貴方、風琴のイタリア人覚えているでしょう。あの人私に五月蝿く言うでしょう、閉口して、言ってやったの。――私日本人を愛してるから駄目って。日本人の何処が好きだと目の色を変えてつめ寄るんですもの。神経衰弱だくらい解っているので、真面目になれないわね。かといって、笑ってしまえば、どんな目に遭うか……腹切りだってするわよ、私嘲いててやったの。するといやね、私は此処からだって飛びおりると言うではありませんか」
「……」
「まあ黙っていらっしゃい。私馬鹿らしくなって、自分の部屋に帰ったのよ。ところが私達は不幸にも隣合い、ブーブー風琴をやり出して、その合間には、此処から飛んだら愛してくれるかと繰り返すもの、落着いてキュールも出来ない始末。口だけでは喧しいだけよと、怒鳴ったのよ。そしたらどうです」
「私は恨まれましたね」
「お慍りになる?」
「貴方は小説の筋を話したのでしょう」
「不真面目ね、貴方は」
「どういう意味ですか」
「貴方のような人を大戦前時代というのよ」
そう笑いながら、娘は小走りして、五、六間先のサーシャに追い付いた。
「ムッシュ・サワ程解りの悪い人、私見たことない」
甲高い娘の声は沢にも聞えた。
「今日もお便りありませんか」
ミリッザは、沢の部屋に日参のかたちだ。
「今日着くという電報ですよ」
「まあ、お帰りになるの。まだやっと二週間でしょう。貴方はモントルーまで、お迎えに下りないの」
「面倒ですから」
娘は沢の顔を穴のあく程見詰めて、
「貴方は怖ろしい方ね……それとも奥さんを嫌っているの」
「そんな失礼な訊き方をするものではありません」
「だって、私には伺って良い訳がありますもの」
「――?」
「貴方を愛していますもの」
「私の方で問題にしていなかったら」
「その時は待っていて戴くだけよ」
そう言って、机の上の本や写真を床になげ出して、出て行った。
イタリア娘タチアナは、サーシャを「希望」に訪ねた。
あの夜から、サーシャはピエールに会わず、この娘を通じて従兄の容態を知るのである。
「やはり熱が七度から八度台ですか。私は伺いますまい、お言葉ですが、却って興奮させますから。しかし、タチアナさん。従兄を何とか『希望(エスポアール}』に移したいが、説き伏せて下さい。経費のことなど心配せずに、……あそこでは助かりません」
「――」
「それは皆さんが、ピエールを助けて元気付けて下さることは感謝していますが、貴方がたと一緒にいましては、養生する気になりませんから」
「――」
「貴方がたはご病気でないが、あれは此処に養生に来たのです。それだのに、あれを中心に活動なさる……それがいけません」
肺病が不治ではないが、初期に徹底的に治療しなければ全治出来ないこと、従兄は識らずに活動しているが病勢が|亢進すること、公衆病院では感激家は絶対安静などしていられないことなど、結核療法の初歩を娘に説いて、ピエールを彼の一団から離すように願った。饒舌であるタチアナは一言も返答をしなかった。
「私それをすすめになら、ピエールのところに参りますわ」
「貴方も彼を我々から奪おうとなさるの?」
「言葉はいずれでも、ピエールを見殺しに出来ないのです。お解りになりませんかしら」
「どうせ私達はいつ死ぬか知れませんもの」
「そんなすてばちな心では勿体ない。それはいけません。ピエールはまだ自分の仕事もしていませんし……」
「今我々とするところです」
「もっと解るように話しましょうね。ピエールはラジュームの研究につくすつもりです。どんなにその方面で人生に貢献するか、まだ死んでは惜しい。それに二十九や三十で死んでは、あまりに不憫です」
「貴方の考え方はブルです」
「そんなことではありません。いけない。いけない。貴方は助けてやりたくないんですか」
「貴方より私の方が彼に近いのです」
「そんなことを言っているんではありません。全快させることが急務です。どうかして……」
「はっきり申しましょう。彼は私の同志で恋人。私の好きなようにします。私達は今最も大事な事を――」
「お黙りになって! 其処から出てごらんなさい。戸口には貴方の同胞が待っています」
サーシャは戸を背に立った。出て行く娘が老イタリア人と衝突するのを見たくなかった。あまりに総てが穢らわしかった。
ミリッザは植木鉢のように盛装して、沢の机の上に腰を置き、整った二本の脚を、リズミカルに振動させながら続ける。
「それでね。私の前を行った日本人が誰で、相手のフランス人が誰か、それは奥さんが一番適確に答えますわ」
「妻に聞くまでもありません。そのフランス人は我々の友達ですからね」
「良いお友達ね。奥さんを二週間もパリに案内して下さるなんて」
「一人で旅行させるのは心配ですから」
「嘘つき。お顔をもっと青くして上げますわ。検温器をしてごらんなさいね。その男女の後をつけてみたのよ。左下の街、ホテル・ピアトールの中に没しましたわ」
「そこにその人の奥さんがいるんです」
「待合で療養するんですって? 何を間抜けを言うのよ」
沢の頬を殴りつけて飛んで行った。
パリで見聞した夫婦では、そうしたことは当り前のことだった。それを知りつつ、お互いに自分達の生活をして、便宜的に一つ屋根の下にはいるが、そのために、互いを擦り減らすことのないのを見て、聡明だとは思うが、日本人に出来る芸当ではない。ミリッザは色々の話を創作するので、それも、あまりに暇であるための、悪びれた詩だと解したかった。前日も妻は子供を連れて一人日本に帰ろうと決して、パリに行ったが、子供の顔を見るとすまなくなって、又出て来たと言った言葉には、まごころが響いていた。――沢はキュールに出て、椅子に横になりながら、たとえそれが事実であっても、そのために病気を悪くしてはならないと腹に力を入れた――いけない。いけない。妻が帰っても立たなかった。
「外は寒くなかった?」
「いいえ、雪解けで歩き悪くなって、弱りましたわ」
妻の疲れたように坐るのを聞いた。
大戦中に欧州の金を掻き集めたアメリカは、春ごとに無数に大きな船をしたてて、それにドル袋を持ち込む人を一杯のせて、欧州に送る。ナルシスが咲いてから、チヨルの葉が落ちる頃まで、そのドル袋のために、小鳥の囀るような英語がスイスの国語になる。のさばったロイド眼鏡、無遠慮な足取りが、静かな山国を乱す。そしてそのでしゃばりな観光団はコーにも紛れ込んで、キュールの沈黙を破る。
それでなくても春は病人に悩ましい。
「ミラノに於ける万国工芸博覧会――四月三日より」
「春のイタリアは光なり」こんなポスターがコーにも見られるようになった。ストレーザの春、フィレンツェの春、「希望」の人々の会話もそこに飛ぶ。――フィアツェロへ又行こうか、とサーシャは沢夫妻を誘う。
下のピエールとその一団も忙しくなった。博覧会が二旬に迫って、暗号電信が、イタリアから、フランスから、スイスから絡まり着く。爆弾に依ることの絶対不可能なことは認められた。二回の失敗は千を以て数うる同志を、死の獄に送るに終った。兇器を持つことは、それに依り同志を狙撃することに終る。無数の決死の同志は、その肉弾の用途に窮した。イタリアの国境は黒シャツ党員に堅められて、潜入することも不可能だ――こうした報が一団を苛立たせる。ピエールはこの頃になって喀血するようになった。それにも拘らず、蒸し暑い或る午後、タチアナを連れて散歩に出て、そのままモントルーを過ぎブベーに行った。公園のがらんとした大音楽堂の隅に入る。そこには、既にベリアリが、パリから出ていて手で合図をした。三人は挨拶もせずに並んで腰をおろした。そこのマロニエはもう咲いて、葉蔭には凄い碧の湖面が揺れていた。
三人はそれを眺める位置に在って、それが見えなかった。
「解ったかね」
ピエールはベリアリに数枚の紙を渡し、それを読み終るや、再び取って裂いてから緩り言った。相手はうなずいた。
「可能かね」
「やってみましょう」
「可能かね」
「技術的には可能です。ただ時間と、……」
「君は電気工だろう。ミラノに君の住居があるだろう。病気がなおったと言って帰れ。ブベーから直ぐに汽車にのり給え、明朝はミラノだ。君の一生をかけるんだ」
「それだけですか」
「ミラノには、同僚で同志があるかね」
「電気工には百は尠なくても」
「それなら大丈夫だ。成功を祈るぞ」
タチアナは持ち金全部を渡し、三人は互いにそこで別れた。花も、春も、光も、暗い計画を持つ者には用がなかった。
「ルイ。貴方ニームに帰ってしまってね」
沢夫人はルイ・ベルトラン(そうフランス人は呼ぶ)の絹のパジャマのボタンを弄びながら言う。
「貴方に会うまいとしてパリに帰ったのを知っているでしょう。が、一週間目が五日目になり、三日目になり、このままだったら恐ろしくなるのです。早く奥さんをお連れになって帰って下さいね」
「帰ってはいけないと君の目が言う」
夫人を膝に抱き上げようとするが、
「いけません」腕から脱れて、窓の厚めのカーテンをひいた。午後の陽がさっぱりした敷物や、ルイ十四世風の家具の上に溢れた。
「そんなに意地悪なら、私もう参りません。ご自分のことしか考えないエゴイストね」
「君のことより考えなくなったんだ」
「嘘。そんなら、早くニームに帰ってね。私パリに逃げ出さなくてはならない――貴方さえいなければ、私は幸福になれるのです」
「僕は君なしには幸福になれない」
夫人は帽子や外套をつけて帰るばかりにした。
「早くして。送って下さいな」
「今一度」
男は蒸すような唇を女にあてた。女の頬には泪が流れた。
「僕が我儘すぎるから?」
「みんな不幸ですもの」
男は女を慰めるように快活に話しながら、洋服を着た。
「僕達が結婚していたらとよく思うよ」
「そんなこと考えてはいけません」
夫人は腹立たしかった、それでいて幸福だった。しかし断乎たる処置をしなくてはならないと歩きながらも考えた。その時ふとサックに納めた鍵が落ちた。それを拾い上げると躊躇することなく、谷に投げてしまった。
「ホテルの鍵でしょう?」
「そうです。私が身投げしたと思って諦めて下さい」
「ご主人に知れた?」
「そんなこと問題ではないのです。私が怖ろしいの。貴方が憎い――そのうち奥さんでもお亡くなりなさったら、私生きていられませんもの」
ピエールは病勢が急変して、外出も出来ず、独り部屋に入ることになった。十数人一室に在る場合、その一人の病変は、他の患者に心理的悪影響を及ぼすことを慮るからである。枕許ではタチアナが目を離さない。看護婦や医者は、タチアナにも帰ってキュールをせよと言うが、聞き入れなかった。彼女はその必要のある患者でもなく、それにピエールを全くの他人に委ねておけなかった。黒い手が何処にも延びているからだ。
「電報は来ていませんか」「いいえ」
「ベリアリは何か言って来ませんか」「いいえ」
「今五日でイタリアの国民が救われるか審判の日が来るんだ」彼はエスペラントで話した。
ピエールは個人の力の限界をその時見た。これ以上どうにもならなかった。たとい又失敗に終るとも、打ち寄せる波のように、次々に同じ企てがイタリアに寄せてはかえし、最後には革命を呼ぶであろう。それは、太陽が明朝東から昇ることと等しく信ぜられる。もうこの上此処には用がないのだ、そう省みると、それだけに悪くなった躯がいたましくなった。――死んではならない。これから面白い世の中になるのに、起き上らねばならない。
「タチアナさん。私は病院を変ることにしますよ」
「え?」
「此処にいたら死んでしまいます」
「私もご一緒に!」
「いけない。私は一人になる。君達は健康だ。どこにでも生きられる」
「あんまりです。一生貴方のお側で働く覚悟ですのに」
「私達の関係は同志を出てはならない。そのベルを押して下さい」
「私……厭です。それはあんまりです」
ピエールは起き上りベルを押し、入って来た看護婦に言い付けた。
「医長さんに此処を出ること、それから、『希望』かグランドホテル、いずれか部屋のある方に予約して、一時間内に出られるようにはからうことを頼んで下さい」
「ピエール、貴方は我々同志を信用出来なくなったんですか」
「信用している」
「私を信用出来なくなった?」
「いいや」
「愛さなくなったの?」
「取違えていたのなら、貴方の禍いです」
「何ですって?」
「愛していたことはない」
…………
「私の不仕合せでした」
そう言って出て行く娘を、今少しで呼び止めるところであった。
4
レマン湖畔の町々が、モントルー、ブベー、ローザンヌの方まで、コーから緑の中に見下ろせるようになった。湖を隔てて仏領サボアの山々の白い膚が近く迫って来た。
「希望」の庭園にはベンチが運ばれて、そこから湖の汽船が島の影のように見える。沢夫人は晴れた午後、チヨルの蔭を選んで編物などするのが好きであった。のんびりとした幸福をやはり感ずることが多かった。
「貴方、お出掛けになりませんでしたか。マダム」
ミリッザは並んでベンチにかけた。
「いい天気ね。午後のキュールなさいませんの?」
「あんな真似なんかしたってよくなるか解りませんもの」
「どうして? 我慢してするものですわ」
「貴方近眼ですの。マダム」
「お産してから、急によくなったつもりですけれど」
そう言って針を休めた。
「どうりで、擦れ違ってもお気付きがなかったわ」
「ごめんなさい、失礼致しましたわね」
「でも、それが擦れ違い甲斐のないところでしたのよ」
「――?」
「左下街のホテル・ピアトールの廊下ですもの」
「何を歌っていらっしゃるの?」
「貴方の方が、ご主人より度胸が良いわ。ご主人は顔色を変えましたけれど」
「それが貴方に何の関りがありますか。マドモアゼル」
「大ありよ、嘘でしたらご主人に伺ってごらん遊ばせ」
「え?」
「私、彼を愛していますのよ」
煙草の煙を空に放ちながら歩み去った。夫人は貧血を起しそうであった。――娘を憎悪する感情が燃えてやっとそれを救った。彼とは沢であるか、ベルトランであるか、急に足許からくずれて行く思いがした。そのうずく頭に明瞭になったのは、夫に打ち明けねばならぬということである。何度もその決心をしたが、却って病気を悪くすることに終ることを考えて、その間際に躊躇してしまった。しかし、今はどんな結果になろうと、夫に詫びることが現在の苦しい立場に解決をつけるものであることが解って来た――特に夫の気性を知っているので、他人から聞かされたならば、まいってしまうであろうとも察せられる。
円盤の上を転げる玉に、運命をのせる賭博――ルーレット。モナコの宮殿で一日暮してごらん。それが罪悪だなんていうのは顰面の東洋人の寝言だ。人間産れる時からルーレット。この世の総てが気紛れな玉の運転で決るんだ。人間の努力だって――馬鹿言っている。ルーレットの運行にだって統計的な蓋然性はある。それ位の蓋然性が人間の努力の成功に於ける要素なのさ。
「希望」でも冬の宮殿に一台のルーレットが置かれた。春の宵は輝く灯の下でルーレットに賭けよう。どうせ春から夏には、病気がなおる時期ではなし、――皆さんお賭け下さい。賭の用意はできました。一口一フラン以上。早くお賭け下さい。
パラビチニが叫んでいる。そこには椅子に寄る者、立つ者、小さい玉の動きに熱を上下させている。――赤の十四。笑いと叫び。フランの響き。
お賭けなさい。お賭けなさい。
「赤の十二へ」「黒の偶数へ」「第三番管に」「黒」「零」「赤の四と七」数字の上にはフラン貨が降る。
――はい赤の二十六。
――お賭けなさい。お賭けなさい。
突然一掴みの銀貨がパラビチニの頭の上から数字盤に陥ちた――どこでも良い好きな所へ。それは、ビアル夫人だった。
――「それでは解らないわ」「計算に困るな」……
「いいわ、一まとめに、どこにでも置いて下さい」
「この紙幣を零に!」
――皆さん用意はようございますか。
「これも、どこかに置いて下さいな」ビアル夫人は又一掴みの紙幣をなげ出した。
「それが少しでもあたったら、皆さんシャンパン抜いて下さい!」
そう言い置いて去って行く。
――皆さん用意は良いですか。
――黒の七!
ブラボーの声が天井を破った。
その翌日、ビアル夫人はこっそり下山して行った。これが本年の最初の下山者だった。結核は冬期になおるもので、夏期は病症が現状維持するものと信じられているので、夏中に死の危険のない者は、毎年春下って秋に登るのが常である。そして四月下旬にカルナバル祭を兼ねた別離のソワレが終ってから、再びの無事を祝し合い、祈り合って、故郷に帰る。が、こうして一人でも春に向って去る者のあることは、「希望」の人々の心を明るくした。
しかし同じ日セルビアの青年は散歩に出たまま帰らなかった。部屋に残ったトランクは空で、三カ月の支払請求書が抽斗から出た。この駈落は退屈な療養所を喜ばせた。
沢夫人はその晩比較的遅くまで、夫の部屋で編物しながら話した。
「毎日お話しようと思っていることがありますけれど」
沢は寝台で天井を見ていた目を動かさなかった。夫人は膝に編み終った子供の物を載せていた。
「言い過ぎてはいけない。よく話したい誘惑にかられて、言ってしまって、後悔することがある」
「でも申し上げなくては済みませんもの」
「どんなことか、君の腹に納めておいて良いものなら、そうした方が利巧だ。済むも済まぬも、我々の間には無いからな」
この態度が夫人には寂し過ぎた。
「私を愛して下さるの?」
「今更愛など問題ではなかろう。そんな暇はない筈だものな」
「こんなことしていて良いとお思いなの?」
夫人は腹立たしかった。苛立たしかった。
「僕の病気の間は仕方ないだろう」
「ご病気だから卑屈になったと言うのではないでしょう。私、もっと悪い点をお責め下さらなくては」
「そらそら、打ち明け癖が頭を出した。とにかく、僕も悪かろうさ。何より早く健康にならなくてはな。この病気を征服するには大修養を要するのだし……」
「ご自分のことしかお考えになりませんのね」
「そう見えるかな。そうでもないつもりだけれど」
自分の膝の上だけに視線を置くので、夫人は夫の目の泪が見えない。
「私や子供のこと一度でもお考えになりましたか」
「愚痴なら聞くよ。さっきお前は真面目に違ったことを言い出すところだったから、黙った方が良いと言ったまでさ」
夫は寝がえりして壁の方に向いた。
「私、男らしくして頂きたいだけですの」
「どういう意味かな。皆この病気がいけないんだが、お互いに不平なしにしようよ、ね」
夫人は詫びたい。優しく詫びようとするが、言葉が次々に彼女を裏切るのを、どうにもできなかった。勢いのように口を突いて出る言葉を、噛もうとするが漏れてしまう。夫が知って避けていることが、既に恕しているのだと次第に解って来た。生一本な夫が、事勿れと卑屈に見える態度をとるに到るまでの長い悩みも、闘病した根気よさを見て来た夫人には、合掌したい程よく解る。そうかといって、それでは充たされない。崩れかかる自分を強く支えてくれないことが、不安であり、頼りない。フェミニストである夫が、ありがたくはあるが、近くに感じられない。世間並みの夫であったらと、思うようになった。
翌日夫人は、グランドテルのベルトランに、電話をかけてしまった。
朝も春の如く登って来る。
レマン湖は白んでも、グリヨン、コーへは陽の脚は遅い。牛乳車のラッパは、山の下から曙を呼んで登り、パンがトラックでその後を追って来る。その頃「希望」では六階の尼さんが白鳥のように白の頭巾を揺すって、ドームに並んで行き、台所では肥ったコックがパンの籠を受けとる。コーヒーをいれる。丸い看護婦の白衣が、病室に順次消えては出る。水銀が検温器の赤線を上下して咳の競争が始まる――その頃になって漸くエレベーターの音がする。そして緩んだ一日が患者を待つことになる。この順序は、患者の胃に食欲が来ないように、いつも整然として乱れない。しかるにこの朝は、パン屋の鈴と一緒に号外が来た。日本人には地震、イタリア人にはセルビアとの開戦、フランス人には第二の白鳥号がすぐに思いうかぶ。そして我等のピエールには、イタリアの革命が。
「ミラノに於ける万国工芸博覧会開会式に於ける爆発事件。死傷数百名」
この報道は巡回看護婦の脚より速やかに、療養所に伝わった。
「やったな」
百十八番に移ったピエールは、すぐにそう思って起き上ったが、その号外は決して喜ばせるものではなかった。
「ムッソリーニは助かったな」
彼は寝込んだ。
此処に移ってから、サーシャの他には誰にも会わず、模範的な患者になって、プヌモを始めたけれど、一か八かベリアリの報道を待った。
「これも駄目だった」
しかしそれ程の力も落ちなかった。いつかは成功することに決っているからと考え直したのではないが――
「皇帝及びムッソリーニは、同日午前十時半開会式に臨む予定を、突然変更して、正午市民歓迎会に出席のために正十時に、開会式に行幸あらせられたり。しかるに十時三十分に至り、表正門の装飾用電燈に、自動爆発器を何者か仕掛けたるにや、俄然爆発し、門前に整列せる学生、及び門内警備に当りたる黒シャツ青年党員約四百名、その為に死傷せり。犯人は未だ逮捕せられざれど、既に二百名の社会主義者を捕えたり……」
「難を免れたるムッソリーニは、市民歓迎会に於て演説をなして曰く……」
次々の号外は、ピエールにはもう用がなかった。病気さえよくなればと、そんな風に考えた。健康でさえあれば、しようと思うことは、必ずなし遂げられる。
「母がロシアから、パリに六月帰ることになりました」
間もなくサーシャは、母の手紙を持って来た。
「伯母さんは西欧文明に育ったんだから、それが一番良いことだろう」
手紙を読み終ってから、モスクワを去る前日、クロポトキン街へ散歩に誘い、クロポトキン博物館を訪ねてこう言った伯母の言葉など聞かせた――私の娘はパリにいるので、行ってみたい。が私の夫は此処にいるのだから、苦しくてもモスクワに残りたい。
「あの時でも伯母さんはパリを慕っていた。パリには、貴方の他に、自由というものがあると信じているんだから、しかしその自由も……」
「続けてもよくってよ、遠慮しなくても。だけれど、母こそ、ロシアの現制度が正しいものだと、知っていたんだし、特に帝政時代と比較しているんだし、ピエールも寂しがらなくても良いわ」
「しかし議論して、興奮などして病気に障ったらつまらないからな」
「養生屋さん。三月前からその心懸けなら、今頃ミラノ辺りへ出掛けて、あんなへまをさせなかったでしょうにね」
「何?」
「え?」目と目とが合った。
「知っていた?」
「今、貴方の目の中で解った。私の疑っていたことはやはり真実だったのね」
「疑っていたって?」
「ピエール、ごまかしても駄目。ミラノに博覧会があると聞いた時に、今度もと、誰だって思ったわ。その頃、病気のことも忘れて、雪の中をジュネーブ辺りまで、電報打ちに行くんですもの、すぐに解るわ」
サーシャは、いけないことを言ってしまったことに気付いた。
「それより、この夏ピレネーの山に母と貸別荘を借りようと思うけど、貴方も一緒に来ない?」
「医者が許したらね」
「厭よ。三月もいれば誰でも自己診断できるのに」
「うん……」
「何を考えているの?」
「この社会も肺結核のようだなと一寸思ったまでさ。いくら、養生しようが、いつか蝕み尽されてしまうのだもの。いくら金の注射しても駄目だ。いつか崩れてしまうからな」
「いつにない悲観屋ね」
「だから楽天家にもなるんだが」
「でも私は死なずに癒ったわ」
「癒ったと思っているだけだよ。ムッソリーニが、主義者という菌を駆除して、健康だと思っているのと同じことさ」
「そんな不景気なこと止めて、早く散歩の用意をするものよ。一時間の散歩をもらっていて、それを利用しないなんて、千フラン紙幣を抽斗に押し込んでおくようなものよ」
「私は詩人ではないから、誤解しないような言い方をして下さらない?」
銀緑色の落葉松の若葉は、若い男女の春を刺激する。そうした森の細道で、パラビチニとミリッザとの会話である。彼は路傍で春を落し、そこから花が咲くように祈る。
「貴方は結婚して下さる気にはなれませんか」
「お宅では承諾しましたか」
「数日中に帰国して承諾を得ます。しかしその前に貴方から愛の証拠を……」
「待って下さいな。結婚問題ならその承諾と財産とを明らかにして頂いてからにしましょう」
「しかし間もなくお互いの国に帰ってしまいましょう? その前に――」
「男らしく言っておしまいなさいな」
「貴方の最後の……大切なものを頂かなくては」
「今晩夕食後でも部屋で待ってますわ」
「メルシ、メルシ」女に接吻しようとした。
「いけません!」
「今晩許して頂けるのに、今では?」
「何を言うの、貴方が阿片をくれと言っているものと思ってましたわ。私の大切なものは阿片ですもの」
「ミリッザさん、真剣になって下さい。此処の我々の生活は数日しかありません」
「阿片をのんでいるうちに、どんなはずみが来るか、それを利用なさいな。私そんな顔されるのが大嫌い!……サーシャさん。サーシャ!」行く手に見えるサーシャとピエールを見付けて、大声をあげた。
「ミリッザさん、貴方は愛して下さらないのですか」
「そんなこと言っては駄目よ。……でも、私近いうちに決心しますわ。それまで待ってね。今晩は待っていて上げるわ。(二人に追い付いて)私今朝初めてコーヒーがおいしかったのよ。イタリア人が五百人も一度に死んだと思うと胸が空いて。お隣にいた老イタリア人ね。彼はグランドテルにいるのよ。さっき会ったら言ってました。――ロシアの手下共の仕事だ、必ず今に一人残らず牢にぶち込むって。ピエールさん大丈夫?」
「『希望』という牢に入れられましたよ」
「パラビチニは恋愛牢にいるの。サーシャさん、この人ね、私を結婚牢に突き落さないと承知出来ないらしいわ」
「お目出度う」
「まだよ、厭ね。この人は喜ぶでしょうけれど、ね。パラビチニの財産の額で私は決めようとするのに、それが待てないんですって……だって二人が結核患者ですもの。お金がなくては――」
「好きなら、一緒になれば一番簡単だ」
「ピエールさん、此処はロシアでないから、そう簡単に行きませんわ」
「二人で別々でも暮して行けるのに、一緒になって暮せない道理がありますか」
「だって問題は結婚ということに在るのよ」
「だってそれ以外に結婚があり得ますか」
「私、いつだつてピエールさんとは話がぐれてしまうのよ。共産主義者は、頭の構造が違っているのね。やはり病院送りしなくってはなおらない病気ね。サーシャさん」
「貴方もロシアで一年暮せばその構造とやらが変るかも知れないね」
「それより、私は結核のない国に行きたいわ。パラビチニ、厭よ、そんな機関車のような溜息しては。……だけれど、ピエールさん本当なの、爆発事件が共産党員の仕業だってこと?」
「何でも悪いことは共産主義者の仕業ですよ」
「慍ってるの? でもファシストよりコミュニストの方が余程正義心があるわね」
ピエールは久振りに朗らかな笑いをした。
「ミリッザさんにあっては、どんなことも茶化されてしまいますのね」
カルナバルが来た。コーにある大療養所は次々に送別の仮装舞踏会を催して、お互いに患者を招待する。シャンパンに浸り、踊り、接吻して、皆山から里に下りて行く。全快した者、医学的に全治と見倣される者、経過の良好な者、或いは永久に去る者、再び十月登る者、総て健康者の世界に帰る祝宴だ。夜を徹して、喜びの楽は山に反響する。沢夫妻も子供の待つパリに帰ることになった。「希望」は前日から化粧した。ジャズバンドがモントルーから登って来た。患者は変装に数日のキュールを犠牲にした。サロンと食堂が一大舞踏場に作られた。夕食後間もなく舞踏会への誘いの音楽がはじまる。エレベーターは、次々にカルメンを、マノンを、ホッテントットを、コザックを、椿姫をはき出す。皆会場の周囲の椅子を陣取った。踊る、笑う、飲む、テープをなげ合う。色と音とが乱れて、結核菌は塵と音に散じて、皆健康者になった。山を降る許可のあった者は、この祝宴に出るのが山上の習慣である。沢夫妻も、日本キモノで片隅に席をとり、夫人は請われればダンスの相手もした。
外からの客が次々になだれて来て、景気を添える。各テーブルは知合いを集めて、脹れる。グランドテルの客の一群の中に、タキシードのベルトランを見付けた時、沢夫人は狼狽したが、彼はにこやかに、礼儀正しく夫人に握手した。夫人は彼を沢に紹介し、自分の食卓に招いて、既に席に在った中学教師夫妻、レカミエに扮したサーシャに引合せたが、少しの不自然もなかった。
「デュデュも貴方の全快速度には驚いて喜んでいますよ。初めての日本人だったし、大変心配したが、東洋人はやはり、白色人種より抵抗力が強いと言っていました」ベルトランは沢に言った。
「奥さんその後如何でございますか」
「女は全快率が低いそうです。もう諦めております。何しろ手遅れでした」
「東洋人はストイックで闘病的だそうですから、いいのですな」
そう中学教師が言った。その時ワルツの曲が始まり、礼儀に従い、ベルトランは夫人に踊りを申し込んだ。
「私は仰天してしまったわ。意地悪さんね」
「お別れもしたかったし、……」
「パリに来ない方がよくってよ。私達は六月の末までパリ、七、八、九月はシャモニー。十月の船をとりますの」
「シャモニーはいい。アルプスの麓で景色はよし、僕も別荘があるから出掛けられるし」
「エゴイストさん」
「六月上旬、僕もパリに行くよ」
「でも私忙しいのよ」
二人の周囲には肉と香が渦巻いて、音楽が脚を滑らせる。アンコール。
「僕たちのことご主人は知っている?」
「余計なこと言い出すものではありません」
「僕日本に行こうかしら」
「?」
「遊びに。職業はなし」
「日本は住み悪い所よ」
「金はあるし」
「奥さんをどうなさる?」
「今に死ぬさ」
この言葉は夫人の脚を踏み違えさせた。夫人は不機嫌になった。
「厭。貴方がそんなこと考えるようになってはおしまい」
夫人はその次から踊らなかった。
年一回の無礼講だ。酔うのも許されて、シャンパンの栓が四散する。ミリッザ嬢は花嫁になって沢のテーブルに足取りも乱れて来た。
「サーシャさん、私今夜こそ花嫁よ」
「お目出度う。誰の花嫁?」
「ムッシュ・サワの」そして沢に踊りを申し込んだ。ワン・ステップ。沢のテーブルでは愉快な笑いがした。
「私は貴方の花嫁よ」
熱い息が沢の耳元でする。
「私は貴方を愛していた。貴方の花嫁よ」
沢は彼女が酔っているものと思った。白い長いベールに、段々重くなる足がもつれる。薄物を通じて胸の波動が、沢の胸にも感じられる。沢は踊り悪くなった。曲が終っても腕を離さず、アンコールがあると、沢の言葉も聞かず踊り続ける。
「気持がお悪いのですか、ミリッザさん」沢は不安になって娘の顔を覗き込んだ。
「貴方に抱かれて死にたかったのです」
沢はその顔色の変化に驚いて、そのまま躯を支えて会場を出て医療室に向った。白の頭巾を飾る桃色のバラの花が床に散った。
「貴方のお部屋へ」娘は吐息したが、力がなかった。
娘を診断した宿直医は、毒を飲んだろうと言ってその手当をし始めた。沢は医療室を出てから、誰をも妨げぬように食卓に帰った。シャレストンの騒音がしていた。妻は不安気に夫を見た。
「シャンパンがきき過ぎたらしい」
沢はベルトランに言った。
「躯はこわしてはならない。何事も去って行く……」
沢は機械のように動く数十本の足を見ていた。
「俺達の階級はこうして亡びるのだ」
ピエールの言葉をふと思ってサーシャを見上げた。そこにも酔えない顔が浮いていた。
──「改造」昭和五年(1930)四月──