正直者

 見たところ成程わたくしは正直な人物らしく思はれるでせう。たゞ正直なばかりでなく、人並ちがつた偏物へんぶつらしくも見えるでせう。

 けれども私は決して正直な者ではないのです。なまじ正直者とひとから思はれたばかりに容易ならぬ罪を今日まで成し遂げて生涯のなかばを送つて来たのであります。

 鏡にむかへば私にも直ぐ私自身の容貌が能く解ります。私の顔にはかどといふものがありません。冴えた色がありません。眉毛が濃く、頬髯が多く、鼻が丸く、脣が厚く、そして何処かにけたところがあります。笑へばまなじりに深い皺が寄るのです。それが――浅ましいことには――言ひ知れぬ愛嬌になつて居ます。それに私は随分大きな方ですから、何時も着物はゆきたらないのを着て太い手が武骨に出て居るので一見素朴らしくも見られるのであります。身体からだちさい人はチヨコマカと才はじけて、身体に重みのないばかりか心の重味までが無いやうにひとからとられるものですが、身体の太い男は、馬鹿でも悪党でも横着者でも先づひとから重く思はれるのが普通で、私も其例にはもれなかつたのであります。

 口数多ければだしも、私は口無調法でした、けれども滔々と饒舌しやべれないかといふに左様さうでもないのです。時に由つては随分人並の弁舌は振ふのであります。唯々たゞ、(これが天稟うまれつきでせう、)大概の場合は他人ひとの言ふことのみ聞いて、例のまなじりの皺を見せるばかり、それで居て他人の言ふことは何もかも能く解り、推測もする、邪推もする、裏表も知つて居るのであります。

 私のやうな男は世間に随分見受みうけますが、皆な其身の置かれた境遇、例へば昔でいふ士農工商の境遇に居て、それぞれ面白い芝居を打つて居ます。たゞ此種の人は、(私も其一人、)滅多に其境遇から外には飛び出し得ないものであります。その飛び出し得ないところにの重味も着いて、其打つ芝居が愈々うまく当るのであります。

 ところで私の境遇の低いのと、それから私には或特別の天性うまれつきがあるのとで、私の演じて来た芝居が誠に浅間しい、醜いものとなつたのであります。或特別の天性といふのは、今こゝで言はないでも、後で段々に解つて来るでせう。

 しかし誤解をふせぐ為めに一言します、私は決して世の中のこと悉く芝居と同じだといふ説を持つて居るのではありません。たゞ前に説きました如き、私共のやうな性質を持て居る連中は、何処かに冷いところがあつて、身に迫つて来た事柄をも、静かに傍観することが出来るのです、それですから極く真面目まじめな、誠実な顔をしながら、而もたくんで物事を処置することが出来ます。既に巧んで処置するといへば、其処に芝居らしい趣があるではありませんか。

 さて、これから私の身の上ばなしを一ツ二ツお話いたします。

 私の父は古い英学者で永年中学校の教師を務めて居ましたが、同窓の友ともいふべき人々は皆其の学び得し新知識を利用して社会枢要の地位を占めましたけれど、私の父のみは最初語学の教師となつたぎり、ついに其職以外に何事をも為し得ず、私の十二の春まで一教師として此世を送り、変則英語の専売者になつて生涯ををへました。

 父の死と共に私は全くの孤児みなしごとなりました、といふものは母の顔を私はすこしも知りません。父は私の母の亡くなつて後は、始終妾同様なものを置いたばかりで、それも七人八人ではなく、私の記憶にのこつて居るばかりでも四人ばかりあり、終にまことの家庭らしいものは作らなかつたのです。

 何故父は、さる不倫なことをして居たかといふ理由は知りません、けれども父の子なる私の性質から推測しますると、父は唯だ肉慾の満足を得るばかりに女を置くことを知つて、家庭などのことには全然まるで心を動かさなかつたのだらうと思はれます。

 私の知つて居る三四人の妾に就いても父は情愛を以てこれを遇した様子は少しもありませんでした。私は少しばかり酒を呑みますが父は決して酒杯さかづきを手にしたことなく、又私よりも更に無口で、家に居てもたゞ茫然ぼんやりと火鉢にむかつて煙草をふかして居るか、それでなくば机に向つて英書をひもといて居るかで家中は常に寂莫ひつそりとして居ました。

 それですから女中兼帯の妾が来てもはじめうちは父や私を対手あひて饒舌しやべりますが、一月二月ひとつきふたつきと経つ中に何時いつしかこれも無言の業に堪へ得るやうになつて了ふのです。

 冷寒つめたい空気と暗欝な影とが常に立罩たちこめて居る中に、私も亦た父と同じやうな性質で、別に悲しいとも辛苦つらいとも思はず生育おひたちました。それですから私は父の在る前から既に孤児みなしご同然であつたのであります。

 兄もなく弟もなく、頼りにすべき親戚もなく、十二歳の少年は父の死と共に父の友なる某中学校の国語の教師の家に引取られました。教師の姓は加藤。其加藤の言葉に依れば私を引取つたのは父が生前の依頼であつたさうです。

 加藤が私を親切にして呉れたか如何どうだかといふことは別に言ふほどのこともありません。普通の学僕同様なことを仕ながら英語の夜学校に通ひ、国語の方は直接に加藤から少しづゝ学んで居ましたが、孤独には慣れて居ますから私の心持では加藤の待遇に就て格別の感じを持ちませんでした。

「お前の父上おとつさんは至極好人物であつたが、惜いことに活動といふものを仕ないで退居ひつこんでばかり居なすツたから、折角の利器をいだきながら老朽ちて了はれた。お前は一ツウンと世の中に飛び出しておほいに活動しなければかん、学問が如何いくらあつても活動といふことが無ければ今の世は用ゐられんのじや」加藤は其細い眼を光らして自分に向ひ此言葉を聞かしたことは幾度であるか知れません。

 なるほど左様さうだ、加藤の叔父をぢさんの言はれる通りだと私も思はぬではないが、天稟うまれつきは争はれぬもので、重苦しい性質は言葉の弾力や、理想の槓杆はかりでは容易に動きませんでした。所謂いはゆる、なるがまゝに移つてゆく其境遇に処して唯だ其日々々じつくりと暮す、それが私の運命であつたのです。

 十九の秋、加藤はんで床に就き、二十日はつかばかりで遂に此世を去りました、六十七歳ですから先づ以て長命の方でせう。死ぬ少し前に私を枕許まくらもとんで、ういひました。――

「お前の父上おとつさんから私の受取つた金は四百円足ずであつた、家財や書籍しよじやくを売つて二百円ばかり、都合六百円に三十円不足する金を私がお前と一しよに預かつたのじや、父上のたのみは此金を食料に、金の続く間お前を世話して呉れとのことであつた、それでお前の十二の時から今年までザツと八年の間で、預つた金は大概無くなつて了つたが未だ百円ばかり残つて居る勘定になる、それを今お前に此処こゝでお返しするから、お前は私のしんあと、この金を持て独立して見るがからうと私は思ふのじや。」

 加藤の言ふことは私に能く飲みこめました。要之つまり、加藤の死んだ後、私は百円の金を持つて、加藤の家を出てゆき、如何どうにもして独立ひとりだちで世の中を渡つて行くことになつたのであります。それでも加藤が私に百円の金を渡すといふのが今から思ふと不思議で、じついふとあの時、加藤から一文なしで直ぐ立退きを命ぜられても私は文句なしに其言葉に従ひ、文句のないばかりか、当然のことゝ考へて立退いたのであらうと思はれます。ですから百円受取つた時は、真実私はうれしう思ひました。加藤のしんでから一週間つて、私は住みなれた家を、別に大して悲しいとも思はず、出てゆきました。

 落着く先は麹町区なにがし小学校の直ぐ近所にある下宿屋の一室ひとまです。私は加藤生前の世話で小学校の英語の教師になりましたので、月給は十円、下宿料が七円ですから差当り食ふには困りませんでした。

 其頃の私は今よりも丸顔の、可愛い顔つきをして居ました上に、言葉の少ない、それで愛嬌もある少年でしたから、校長初め同僚からも可愛がられ、下宿屋のおかみさんからも「沢村さん沢村さん」とちやほやされました。大概のものは斯うなると一寸得意になるものです。まして年からいふと生意気ざかりですから、つい言はないでもにくまれ口をたゝいたり、怒らんでも可いことに顔を赤くして声を高めて見たり、かりそめにも先生を鼻の先にぶらさげて居るものですが、私に限つてそれがありません。何時いつおなじやうな顔をして下宿を出て同じやうな風で帰つて来る、袴を脱ぐと直ぐ畳んでしまふ、見たところ実体じつていな感心な青年わかものであつたに違ひありません。

 下宿屋のかみさんといふのは其ころ四十四五でしたらう、年頃の娘と十四になる男の子と三人ぐらし後家ごけの内職で、間数まかずは僅に四個よつつ、それも立派な部屋は一間ひとまもないのです。娘はおかみさんに似て細面ほそおもての、色の蒼白い、病身らしい子でしたが、眼は黒眼勝のはつきりとしたので、先づ此子の特長とりえとでもいひませうか、其眼でぢつと人の顔を見て、暫くして微かにほゝゑむのが此娘このこの癖でした。名はおしんですから、私どもはしんちやんと呼んで居たのです。

 おかみさんは軽薄な御世辞も言ひませんが、下宿人の誰にも親切であつたやうです。わけても私を可愛がつてくれて二月三月ふたつきみつき居るうちには親子かと思はれるまでにしてくれました。けれど私は情ないことに、親子の情といふものを知らない人間ですから、うれしいとは思ひましたが、たいして感動もしなかつたのです。

 人の心ほど奇態なものはありません。それほどの親切に対して私が感動もせず、初めて下宿に来た時と少しも変らぬ態度を保つて居ましたので、おかみさんの心は益々動き、愈々いよいよ私に感心して、私をば又とない正直な、温順な謙遜な青年わかものだと全然すつかり信仰して了つたのです。

 娘のおしんも同じことで、母のやうに口にこそ余り出して言ひませんが、私を信仰する熱度は母とすこしも変らぬことが其挙動そぶりで私には能く解つて居ました。

 今から思ひますと、真実ほんとうに正直な、温順な、謙遜な人といふは無論、此私ではなく、此娘でありました。私はおしんをば完全無欠の人間とは思ひませんが、少くとも女としての位なのは余り類がないと今では信じて居るのであります。ひとつは健康のすぐれないためでもありませうが、おしんの起居たちゐ振舞から言葉から、こゝろばせまでが如何いかにも穏かで、おつとりとした中に情深いやうなところがありました。

 年は二つちがひで、先づ同年輩ですが、私は年よりもふけて見える方、おしんは小供らしいところがあつて、二ツも若く思はれるはうでしたから、おしんの私に対する心持は母とおなじながら、其うちに何処どこあまえるやうなふうもあつたのであります。

 私が一人部屋にすつこんで居ると能く遊びに参りまして色々な話をして事によると夜をふかすこともありましたが、そんなこんなの例を申せば或晩のことです、

「あなたの親父とうさまはどんな方でございました、」とおしんが訊きましたから、

「どんな人ツて別に言ひやうもないが、大変煙草が好きでした。」

「きつとい方でしたらうねえ。」

何故どうして?」

「だつて貴様あなた親父とうさまですもの。」

 又或時のことです、おしんは私が謝絶ことわるのを無理に私の衣服きものたゝみながら、

貴様あなたひとから話しかけないと、めつたにお口をきゝませんねえ。」

「さうですか、自分ではそんな積りもないのだが。」

「でも母もさう申して居ますよ。」

「さうですか、それではこれから気をつけませう。」

「あら、別段悪いと申したのではございませんわ。」

「イヽエ、そんなことは善くないことです。私の父など始終黙つて居て、碌に私にも口をきかないで死んで了ひました。」

「でも必定きつとお心優い方でしたらうよ。なんでもうち父上とうさまのやうであつたらうツて、母が申して居ました。」

「あなたの父上はどんな方です。」

「口数はきゝませんが、何時でもにこにこして居て母でも私でもめつたに叱るなんぞいふことは厶いませんでした。」

「私の父はにこにこしたことは厶いません。」

「まア、それでは可恐こはい方でしたの。」

「別に可恐くもありません、たゞ黙つて居るばかりで小言も言ひませんから。」

母上おつかさんは如何どうでした——さうさう貴様あなたは母上さんは御存じないのですねえ、」と言つておしんは暫らく黙つて居ましたが、何と考へたか、

貴様あなたうちの母を如何どう思つてゐらつしやいます?」と訊きました。

「優しい方と思つて居ます、真実ほんとの母のやうに思ひます。」

「あら、うれしいこと、母が聴いたら如何どんなによろこびませう。」

 先づ斯ういふ風でしたが、おしんは矢張年頃の娘です、母と同じ親切な心ばかりではすみません、月日のつと共に、親切以上の心で私に近づくのが私にも解るやうになりました。母親も心づいて居たにはちがひないのですが、如何どういふものか、それをすこしも気にしないばかりか、娘と一しよになつて益々私を可愛がつてくれました。さてそれなら私はおしんを如何どう思ひましたかと言ふと、おしんの情の十分の一も私にはありませんでした、そんなら私はおしんをひやゝかに扱つたかと言ふとさうではありません、おしんの思ふまゝ思はせ、するがままにさせて置きました。

 そして其の結果は如何どうでせう! 忘れもしません二月十五日ののことです。夜の十二時過ぎでした。下宿人は勿論、母も男の子も皆な寝て了つていへの内はシンとして居ましたが、そとはドンドン雪が降りそれに風が出て雨戸あまどをうつ雪の音サラサラとし聞えて居ました。おしんは九時ごろから私の部屋に来てゐたのですが、十二時打つて何分か経ちまして部屋を出てゆく時、

「ようございますか、必定きつと二三日中に母上おつかさんに言つて頂戴よ、母上は二つ返事で承知しますから、ね、必定きつと言つて頂戴よ、」と繰返して言ひました。その時のおしんの顔は今でも忘れません。

 この晩から私とおしんは母親の眼をも忍ぶ仲となりまして、おしんはのぞみを達したといふ満足の様子のほかに、深い決心と、かすかながらも言ひ知れぬ恐怖とで、小供のやうに笑ふ時があるかと思へば蒼い顔をして吐息といきをついて居る時もあり、そして私の様子は以前と少しも変らんのであります。たゞひそかに願つて居た慾望、おしんの身体からだに近づく毎に愈々つのる慾望、後には機会をりがあつたらとまで熱中して居た慾望が達せられたので大きに満足しましたが、心の平穏なることは以前の通りで自然変つた様子が顔にも挙動にも現はれなかつたのであります。

 おしんは身も魂も私にゆだねて了ひました。私を愛し私を信じて少しも疑がはないのです。それですから、早く母親に打明けて結婚を申込んでくれろと言ひましても、私がまあまあ私にまかして置けと申せば、それで安んじて居たのです。

 私が前に、自分に特別の天性うまれつきがあると申したのは肉慾のことです。私のやうな物にかたよらず、冷やかに、其傍を素通りしてゆくことの出来る男が、男女の慾となると前後をかへりみることが出来ませんでした。それですからおしんのみさをを一度破りました以後は、おしんの好む好まぬに関はらず、母親の目も同宿の者の眼もくらまし得るかぎり、此慾を満しました。それをおしんは私の愛情の猛烈なためだと解して居たのです。

 それで私は結婚のつもりがないかといふに、さうでもないのです。いつそ結婚して了はうかと思つたことも有りましたが、どうもそれをおかみさんに打出していふ決心は起りませんでした。言へばおかみさんは大よろこびで承知することも知つては居ましたけれども、ぐづぐづ二月ばかり経ちました。

 ところが四月の末のことです、其日は日曜で私は同僚の一人から是非遊びに来いと招かれまして宿に帰つたのは夜の八時ごろでした、部屋に入るとおしんが其処に坐つて居ましたが私の顔を見るや直ぐ突伏つゝぷして了つたので、流石さすがの私も胸がドキリとしました、急いで傍にわり、

如何どうしたの、え、如何したの。」

 見ればおしんは泣いて居るのです。「え、如何したといふに、しんちやんやコラしんちやん?」

「だつてね、母上おつかさんあんまりなことを言ふのですもの、」といひながら挙げた顔を見ますと、なるほど涙は出て居るけれど泣いて居るのか、笑つて居るのか判らないのです。これで私も少しは胸が落着きましたから

「何て言つたの母上さんが。」

「何とつて別に判然はつきりしたことは言ひませんけれど、何だか二人のことを母上おつかさんは感づいて居るらしいことよ。」

「それで何とか言つて。」

「お前どうする気かとだしぬけに聞きますから、どうするツて何を、と言ひましたら、母上おつかさんにだけは明亮はつきり言つておくれお前は沢村さんと約束でも仕たのではないかと言ひますから、私はたゞ黙つて居たのよ。さうすると母上おつかさんが、女といふものは操が大事だとか何とか色々なことを言ふんですよ、私悲しくなつて泣きだしたの。さうするとね、母上さんが、若しお前が沢村さんの妻になる気なら私は決していなやは言はない、沢村さんなら私も気に入つて居るのだからお前の決心さへちやんと打明けて呉れゝば私から今夜にでも沢村さんと相談するが如何どうかと申しますのよ。私もそんならさうして頂戴と言はうかと思つたけれど、しね、だしぬけに母上さんが貴様あなたにそんなことを言ひだしたら、貴様に考へがあつて、それとぶつかるといけないと思ひましたから、何と言つて可いか分らなくなつたから黙つて居ました、さうすると母上さんが黙つて了ひましたから、私尚ほかなしくなつて泣いて居ましたのよ。けれどもね、何とか言はないと悪いと思ひましたから、それじやア母上さん何卒どうか貴女から沢村さんに聞いて見て下さいと頼みましたの。けれども其前に私から一寸沢村さんに言うて見ますから其後そのあとにして下さいと言ひましたのよ。それじやアまアお前の可いやうになさいと母上さんは何だか機嫌が悪いのよ。だから私もぐお部屋へ来て先刻さつきから待て居ましたの。」

 斯う言はれて私はすつかり当惑して了つたのです。これが当前あたりまへの方なら「ウンよろしい、それなら私から直ぐ母上さんに相談しよう」と決心するところですけれど、私には其決心が出ないのです。私の性質として、かういふ場合に直ぐ熱することが出来ないのです。

「それは困った、」と口をいて出るかといふに、さうでもないのです。

「それでは母上さんが今に何とか相談に来るでせう。其時よく相談すれば可い、」と静かに言つて火鉢にもたれて涙の痕をハンケチでいて居るおしんの背を撫でました。すると例の慾情が燃えあがりましたから我知らずおしんに摩寄すりよりました、何と浅間しい人間ではありませんか。

 其トタンにすツと障子しやうじを開けて入つて来たのが母上さんです(其頃私はおかみさんと呼ばず母上おつかさんと言つて居ました。他の下宿人げしゆくにんの一人二人もさう呼で居たのです)。

 おしんの来て居る時、母上さんの来ることは此二三ケ月殆ど無いことですから私は喫驚びつくりしておしんのそば飛退とびのきました。おしんはつて外に出てゆきました。其あとに母上さんは坐りましたから、私も其向に坐わり、二人の仲には小さな長火鉢があるのです。

「私少し御相談があるのですが、」と先方は直ぐ切りだしました、そしてつとめて話を真面目まじめにしやうとする様子ですが、やはり言ひにくいと見えてゑみを含んで居るのです。

「はア、」と言つたぎり私は何とも言葉がでません。

「大概お察しでもございませうが。それで貴様あなたのお心持は如何どうでせうか、それを一応うけたまはりませんとね、私も心配でなりませんから。」

「イヽえ、最早もう僕には如何どうといふ意見もないのですから、母上おつかさんのお心持一つで……」

「それでは私にも別に否応いやおうはないので厶います、あんなものでも貴様あなたが生涯連れそつて下さるといふことなら私も貴様の御人物は承知して何時いつも感心して居ますのですから何よりだと喜びます。」

「なに僕のやうな男が……」

「それでは急に話を決めませうでは厶いませんか、それでないと、それでないと、まア貴様に限つて万々そんなことはありませんけれども、若いもの同志のことですから世間では又た何と申すか分りませんし、さうすると貴様の学校の方も何ですから……」

「さうですさうです、だから僕も何です、その一応その校長に丈は打明けて相談して置かうと思ひますから」

「それは可いお考です、校長さんにお話になりまして、校長さんが表面おもてむき仲に立つてくだされば何よりで厶います、」とこれで相談は決定きまつたのです。

 母は事の成行きを少しも疑ひませんので、校長に相談すれば万事好結果と呑みこんで了つたのです。私が校長に相談すると言つたのは一方の血路を開いて置いたのです。私のやうな正直者は何時いつも波に流されながら波に乗つて居るのです。

 母上さんが自分の居間(私は一室ひとましかない二階に居ました)に帰つてゆくや私はごろり寝ころんで二十分ばかり茫然ぼんやりして居ましたが、其間何も考がないので、たゞぼんやりと天井を眺めてまじまじと眼瞼まぶたを動かして居たばかりです。けれども今一度おしんが来るだらうと待て居たのです。来さうもないからとこをのべて寝てしまひました。

 翌朝おしんが来て部室へやを片附けて呉れましたが、すつかり妻といふ挙動ものごしです。眼だけで物を言つて口数は多く利きません、袴の皺などを直してくれて、私の出てゆく時、ちひさな声で、

「それでは今日校長さんに相談して下さいな、」と言ひました、其声、其調子、少しも疑はないのです。相談といふのはたゞ一通り話して置く丈けのことゝはじめから決めて居るのでした。

 授業がむと私は校長に少し相談があるからと、一室に連れ込んで、結婚の一条を話しました。けれど勿論私とおしんの関係は言ひません、たゞ手短てみじかに下宿屋の女主人から娘を貰つて呉れろと言はれて居るが如何したものだらうと持込んだだけです。これが他のものなら直ぐ校長に娘との関係を疑はれるのですが、私は信用されて居るから校長も平気なもので、

「君は結婚する気かね」と聞きました、先づ。

「私は如何どうでもいと思ふのです、だから貴下あなたの御意見をうかがひますので、」と私も平気な顔でいひました。

「まア不賛成だねえ、早いよ、せめて二十五六になればだが君は丁年にすら足りないのだからねえ、尤も君は二十五六の者でも及ばぬ確固しつかりしたところのある人だけれど、矢張り年は年だからねえ。」

「兎も角校長に相談してと先方むかうには申して置きましたのですから……」

「宜しい、それじやア私から謝絶ことわつてあげませう、」と校長の言葉は頗る手軽いのです。

「けれど随分先方では熱心なのですから唯だ謝絶るわけにも参らんやうですが。」

「おかみさんが全然すつかり君にほれこんで居ると聞いたが愈々事が持上がつたね。まア待ち給へ妙案めうあんがあるだらう、」と校長は笑味ゑみを含んで考がへて居ましたが、

「妙案があるある、君今日帰つて斯ういひ給へ、校長に相談したらよからうと賛成したが、然し校長の言ふには下宿屋に居て下宿の娘と結婚するのは不味まづい、それよりか其処を出て校長のうちに当分厄介になる、そして一月ひとつきも経つたところで校長からお前さんのところの娘を沢村にくれんかとう相談を持ちこむ、さうすれば、人目もよし、勿論儀式にもかなふし、さうし給へと親切に言つてくれたから其議に従はうと思ふ、斯う言ひ給へ。それならおかみさんも最もだと思ふに違ひない。其処で君は直ぐ私の宅に移転ひつこし給へ。狭いけれど玄関の三畳におとゝが居る、当分あれと同居するサ。それで君は今後下宿屋に立寄らんやうにする、一月も経つたところで私から理窟をつけて破談を申込めば先方だつて文句はなしそれなりで君の身のかたがつくといふものだ、これだこれだ、此妙案しか外にあるまい。」

 私は其意を奉じて下宿屋に帰りました。そして校長の妙案を持出しますと、母上おつかさんは大よろこびです、おしんはふさいで居ましたが別に否とも言ふことが出来ません。其晩おしんは十二時過ぎまで私の室に居ましたが、其いじらしい風は今も私の目に残つて居ます。繰返へして、どうか一月と言はず一時いつときも早く一緒になつてくれろといひました。そして私が一月ひとつきの間はあそびにも来ないやうにするからと申しましたら、それでは九段の公園あたりで時々会つてくれろといひますから私もそれは承知したのであります。

 校長の宅に移つてから一月経ちました。私は一度も下宿屋には行きませんでした。けれどもおしんとは四たび媾曳あひびきしました。最後のとき、おしんは

「それでは明日あしたですよ、きつと明日ですよ。若し明日校長さんが来て呉れないなら貴郎あなたでも可いから来て下さいよ、」と言つて、いそいそして私と別れました。

 おしんの望通り、其翌日校長は下宿屋を訪ねました。私は如何どうなることかと、ないない大心配で待つて居たのです。事によるとおしんとの関係が全然すつかりばれて了ひはせんかと、心配はそれのみでした。間もなく校長は帰宅かへつて来ました。

「案外話が早く着いた。君、あのおかみさんなかなかわかつて居るなア、」と、これを聞いて私はほつと呼吸いききました。

如何どうでした、おかみさん何とか申しませんでしたか。」

なになにを言ふものか、私がこれこれで結婚はまだ早いし、それに沢村には未だ勉強がさせたいからイヤといふ気はないけれど、先づ当分見合みあはせてもらひたい、縁があれば何年か先のことだが、何時のことかそれも分らぬから娘さんは良縁のあり次第何時でも嫁にやられたらからうと言つただけサ。それでもとは言へないぢやアないか。」

「娘がそばに居ましたか。」

「イヤ私が入つたら直ぐ二階へ上つて了つた。」

「おかみさんなんと申しました。」

「だから今いつたやうに私が言ふと、顔色を変へて居たが、私ももとは判事の妻です、無理にとは申しません。何卒どうか沢村さんに宜しく仰つて下さいだつて。判事の後家さんとは知らなかつた。君あれはなかなか確固しつかりものだぜ。」

「それから娘を御覧になりましたかお帰りに。」

「イヽヤ見ない。二階で待て居たのサ。可愛さうに。」

 

 その後私も二度とおしんにはひません。破談後一週間つて、私は夜そつと下宿屋の前を通りましたら戸がまつて、「かしや」の札が闇の中に薄く張つてあるのを見ましたばかりです。

 正直者の仕事の一つがこれです。いづれ其中そのうち、外のもお話しいたしませう。

(明治三十六年十月)