一
――僅に十六歳のそれも目の見えぬ盲人が、六年の臥薪嘗胆ののちに、ともかくも一流に秀でた親の讐を見事に討つたと言ふのであつたから、本荘宗資も思はず耳をそば立てた。呼び捨てに本荘宗資なぞと云へば、せいぜい二三百石のお徒頭位にしか聞えぬが、事実はれつきとしたお大名、常陸笠間八万石の封主である。しかしれつきとしたお大名であつても退屈と無聊の時は、うたゝねが一番の法楽であることを知つてゐたから、ついとろとろとまどろむともなくまどろんでゐたが、それが今言つた通り十六歳の盲人でしかも六年臥薪嘗胆ののちに、ともかくも一流の使ひ手である親の讐を見事に討つたものがあつたと言ふのであつたから、本荘宗資も思はず耳をそば立てゝ、むくり褥の上から身体を起すと、せき立てるやうに老職中島八郎右衛門に言つた。
「なるほどそれはいかにも奇代の美談ぢやが、さうとは知らずつい空耳できいてゐたはわしの過ちぢやつた。今いちど詳しく申してみい。」
「はツ。近頃にない殿御感興の様を拝見仕りまして八郎右衛門面目にこざります。実は今朝ほど伝へる者があつてやつがれ奴も殊のほか感動仕りましたゆゑ早速お耳をけがしに参じましてござりまするが、何ぢやさうにござります。讐としてつけねらはれた者は神道無念流の達人、六年間それを狙つた者は十六歳の少年で、しかもその者生れつきの盲目にござりましたゆゑ、讐の江戸に潜んでゐることも、そのかくれ家もとうに分つてゞござりましたが、なにを言ふにも相手は達人、身は引きかへて武道未熟の盲人にござりましたので、考慮の末に孫呉の智慧にもまさる一計を案じたのぢやさうにござります……」
「ほゝう一計をなう。誰ぞ盲人剣客にでもついて盲人の剣法でも修業いたしたと申すか。」
「いえいえどう仕りまして左様な尋常ありきたりの手段でござりましたなら、手前もそれ程に感服は仕りませぬがその者の工夫した手段は剣の修業とは似てもつかぬ按摩按針の術を先づ習得したげにござります……」
「なるほどなう。いかにも変つた修業ぢやな。それで按摩となつて忍びこみ、見事讐を討つたと申すか。」
「ま、ひと口に申せば左様にござりまするが、相手とても脛に傷もつ身の上でござりましたゆゑ、按摩と雖も容易によせつけようとはしないので、それにめくらの忘れ形見があると言ふことはよく存じてゞござりましたから一層警戒をしてゐたのでござりまするが、それにつけても殿! まことに人は女色を慎むべきものにござりまするな。」
「なに女色?……突然異なことを申すがその者は十六歳の少年だつたと申したではないか。」
「左様にござります。縦から見ても横から見ても立派な男めにござりましたが、実はその少年め憎い程にもあでやかな美童にござりましたゆゑ、ふと思ひついて美しいかほばせを幸ひに女装し乍らその界隈を流し歩いたげにござります。すると満六ケ年目の新月の夜――」
「分つた分つたもう相分つた。ついその美しさに心惹かれて自分を狙ふ忘れ形見とは知らずに招き入れたと言ふんぢやな。その結果油断につけいられてさしもの手だれ者も他愛なく一突にやられたと申すんぢやな。」
「はツ。ところがその一突が只の一突ではなうて習ひ覚えた按針ぢやつたげにござりますゆゑ、まことに近頃珍しい奇談ではござりませぬか。」
「いかにもなう……」
感に堪へたものゝごとく聞き惚れてゐたが、ふとその時本荘宗資は目を輝かさすと、それがきゝどころと言ふやに突然言つた。
「その藩は、その仇討美談のあつたと言ふ藩はいづこの藩ぢや。さだめし西国筋であらうなう。」
「ところが近国も近国、つい目と鼻の土浦藩ださうにござりますゆゑ、近頃一段と美談ではござりませぬか。」
「なに! 土浦藩とな?」
意外にもそれが隣藩の土屋相模守が封領土浦藩であると聞いたので、宗資はおどろきそのものゝごとくに目を_{みは}つてゐたが、まもなく長太息すると悲げに呟いた。
「相模どのはよい名臣もつて羨ましいことぢやなう。それなる盲目の美童にはおそらく二百石位の加増遣はしたであらうが、定めし相模どのゝお名声も今に名君として高まるであらうなう。」
羨ましげに呟くと、宗資はむしろ淋しさに堪へられないと言つたやうな面持ちで、急に暗い表情をつくつた。――また宗資ならずともさういふ風な美談をきいて急にさびしくなるのはあながち無理ではなかつた。なにを言ふにも幕政は今が爛熟の絶頂の元禄十二年である。藩の綱紀はいづれの藩も極度に紊れ、藩士の士風はいづれの藩も廃頽するがまゝに廃頽し、士人と言ふ士人のすべては武道鍛錬の剛の者と讃へられるより、先づ優さ男と言はれる方が得意の現状だつた。随つて武士第一の魂であつた腰の物も古の剛健はあとを絶つて、次第に装身具としての贅を追ふの有様だつた。蝋色鞘が朱鞘に代つたなぞもその一つ、巾広の長刀を誇つたものが、細身短か目の粋造りに移つたなぞもまぎれなきその現れだつた。いやまだまだ装飾の用乍ら腰の大小に心を置いてゐたものは上の部と言つてよかつた。殆ど大半の士人達は剣の代りに扇子をとつて、やツとうの代りにさす手引く手の舞を択んで、ために江戸の町道場で店立を喰つたものが、無慮三十六軒の多きを算したと言ふやうな士風の廃れかただつた。だからさう云ふ太平爛熟の時代にあつて、少くも硬派第一と言ふべき仇討美談が突如報道されたと言ふ事は、まことに宗資ならずとも一国を預る位置にある者にとつては羨望すべきが当然な事柄だつたのである。殊に宗資には同じその仇討について、つい最近苦い経験が二つあつたから一層いけなかつた。いづれもそれは自藩の者でやはり父の仇討であつたが、その願ひがあつたので金子百両宛を添へて早速に許しを与へてやつたところ、ひとりは僅一年の苦節に堪へかねて脱藩逐電、残つたひとりは二年目に見事首を携へて帰藩するにはしたが、それがしかし憎いことには非人を斬つた拾ひ首だつた。無論両名共に即日藩籍を削つたが、それにしても土浦藩のこの仇討美談は――考へてゆくと宗資は実際羨望以上に淋しくてならなかつた。
「なう八郎右衛門。予の家中にせめて今の孝子の半分に及ぶ武辺者がゐたならば相模どの同様に予の鼻もずんと高まるに喃。」
呟いたとき! ――突如として幸運が降つて湧いた。宗資にとつてまことにお誂へ向きの思ひがけない幸運が突如降つて湧いたのである。
「申上ます! 申上ます!」
お広敷使番の者が慌たゞしくさう言つて次の間の敷居ごしにひれ伏したので、宗資も老職中島八郎右衛門も思はずふりかへり乍ら同時に言つた。
「血相変へて何ごとぢや!」
「只今密訴する者あつてその者より承りましたところに依りますると、今朝ほど御家中に刃傷があつたげにござりまするぞ!」
「なに刃傷!」
さては当然仇討問題が起きて来るな、と言ふことがすぐに想像されたので、仇討美談と名君熱に餓ゑ渇してゐた宗資は、急に膝をのり出すと目を輝かし乍らたゝみかけた。
「何者達ぢや。」
「久留島伝之丞殿に松山権十郎殿ぢやさうにござります。」
「無論死傷致せし者があつたらうな。」
「はつ。権十郎殿非業の御最期とげられたげにござります。」
「では伝之丞が刃傷しかけたと言ふのぢやな。」
「はつ。伝之丞どのはこの太平にも珍しい小太刀の使ひ手、たつた一太刀で、権十郎殿敢えない御最期をとげられたげにござります。」
「仔細はどのやうなことからぢや。」
「さ、それが一向に不明でござりまするが、聞くところによりますると、伝之丞どのは長いこと考へぬいた揚句のはてに左様な非常事仕つたとかで、それかあらぬか御城下も退転せずに自宅へ引籠り中ぢやとか申してゞござります。」
事実ならば少しその点に不審があつたが、しかし宗資は只ひたすらに仇討と仇討美談をおのが家中に持つことを願つてゐたのであとをみなまで言はさなかつた。
「いづれにしてもそのやうな歴然たる刃傷事件があつたからには、讐討致さずには済まされまい。権十郎の跡目相続人は何者ぢや。」
「二の丸御勤番の権三郎殿にござります。」
「なに権三郎? 権三郎と言へば身が小姓、松山平馬の兄ぢやな。」
「はつ、御意にござりまする……」
「さうと聞いては平馬のためにも討たさずにはおけぬ。匆々両人をこれへ呼べい!」
今聞いた土蒲藩の盲人仇討美談には及びもつかなかつたが、名目なりとも仇討と名のついた事を行はしめたならば、相当自慢のたねになるなと思はれたので、これも一つの名君修業と考へた宗資はせき込んで命令を与へた。
一旦命令が発せられたとならばまことに鶴のひと声――半刻たゝないうちに話の両人は宗資の面前に呼びいだされた。刃傷に及んで松山権十郎を死に至らしめたと言ふ久留島伝之丞は当二十八歳。この軟風の吹きすさむ元禄の世に珍しや武道鍛錬の美丈夫である。父権十郎の仇としてその伝之丞を討たねばならぬ嫡子松山権三郎は、だが、彼も同じ年の二十八歳だつた。そして武道も家中屈指の伝之丞にこそは到底及びもつかなかつたが、それ以外の者には何びとにも決して劣る腕前ではなかつた。
「両人、火急のお召しに依りまして控へてござります……」
神妙にうつぶしてゐる二人を見る、宗資は八万石のおもみを見せて先ず伝之丞へ先に声をかけた。
「伝之丞面をあげい。」
「はつ……」
「今朝ほどそちは松山権十郎を害めたと言ふがそれに間違ひないな。」
「えつ。ではもう……」
「上{かみ}をないがしろに致すな。宗資その位のこと知らいでは八万石お預り致すことは相成らんぞ。定めし刃傷致すからには理由があつてのことに相違あるまい。いかなる仔細をもつて予が愛臣を手にかけをつた。」
「はつ……。お上様へお言葉を返すやうではござりまするが、その仔細ちと申し憚りまするので、お憎しみにござりますればお手討に願ひたうござります。せめてそれが手前最後の御慈悲にござります……」
「なに手討に致せ?」
少し不審はあつたが、仇討病と名君熱にうかされてゐた宗資は深くそれを問ひ正さうともしなかつた。手討にされることを待つ位ならば仇討されることは無論もう覚悟の前だつたらうと思はれたので、言葉をかへると峻厳に権三郎へ言つた。
「権三も面をあげい。」
「はつ……」
「父を害められたとあらば早速にも仇討願ひを出づべきが定なのに、何ゆゑ今迄遅滞致してをつた。」
「はつ……面目次第もござりませぬ。手前とて武人ならば武人の定法として、お言葉どほりすぐにも届け出づべきはよく心得てござりましたが、なに分にもこの刃傷には少しく深い仔細がござりましたのでついその……」
「言ふなツ。武人の定法心得乍ら逡巡致しをるところを見ると、察するにそち伝之丞の腕前に恐れをなしたからに相違あるまい。」
「め、めつ相もござりませぬ、手前とても一個の武人、討つとならば伝之丞ごとき決してひけはとりませぬが――」
言ひ渋つたのを宗資はぴたりおさへつけ乍ら峻厳に言つた。
「ならばもう言葉は無用ぢや。必ずともに仇討致さねばならんぞ。期日は明日午の下刻。場所は本丸そとの三の馬場ぢや。家中一統の者にも見せしめのため、当日予も見物致すに依つて両人共卑怯な振舞あつてはならんぞ。」
厳命を与へる宗資は両人の答へも待たずに幾分の満足を覚え乍ら、すうと涼しげな面持で座を立つた。
二
しかし、その翌朝――。
常州笠間八万石の封主本荘宗資は、老職中島八郎右衛門から意外な報告を耳に入れなければならなかつた。もう宵のうちから明けるのを待ちかねた程に楽みにしてゐた仇討が、一夜あけると同時にものゝ見事裏切られて、伝之丞権三郎の両名が昨夜のうちにいづ地かへ脱藩逐電して了つたと言ふ報告に接したからである。
だから当然のごとくに宗資の言葉は荒かつた。
「かへすがへすも憎い奴達、いづ地へ参つたか相分らぬかツ。」
「はつ……。残念乍ら皆目不明ぢやさうにござります……」
「不明ぢやさうとは何ごとぢや。老職と言へば細大もらさず家中の取締り致すが職責ぢや。然るに大切な両人取逃がして何と致すかツ。世上の物笑ひともならば罪は八郎右衛門そちにあるぞツ。」
「はつ……。何とも恐れ入つたお言葉にござります――」
鮃のやうに平たくなつて、平みつけられる程平みついてゐたが、やがてしかし八郎右衛門はおそるおそる面をあげると、主侯の顔色を伺ふやうにほそぼそと言つた。
「――しかし奇怪な噂が両名の逐電について御家中に伝はつてゞござりまするがな。」
「いづれろくでもない噂に相違あるまいが、慈悲をもつて聞いて遣はさう。どのやうなことぢや、言うてみい!」
「確かな筋の者から出た噂にござりますゆゑ万間違ひはあるまいと存じまするが、久留島伝之丞に害められた権十郎殿は実を申しますると、御禁制の切支丹宗徒だつたさうにござりまするぞ。」
「なに! すりやまことならば容易ならんが、確かに左様申しをつたかツ。」
「はつ。さるに依つてこつそりそれを見破つた伝之丞が前申したやうに熟慮の揚句、事の大事に至らない前に討果したげにござります。一は当笠間藩の名を傷つけないために、二には松山一家を救ひ出さうために、めをつむつて恨みも憎しみもない権十郎殿を討果したのぢやさうにござります。なれども御存じのやうに伝之丞と権三郎奴は、書道も武道もあげ巻頃からの同門相弟子、屋敷も隣り合つて兄弟のやうに親しく契り交はつてゐた間柄にござりましたので、それに権三郎にも父が異教徒であることは薄々気がついてゐたものでござりましたゆゑ、義のために討つた伝之丞の措置をむしろ許しこそすれ、親の讐と目ざして仇討致す心にはなれなかつたのぢやさうにござります。」
「ふうむなう。それで両人に仔細を申せと言うたらあのやうに昨日、申し合せて口を噤んでゐたのぢやな。」
流石の宗資も案外な事の仔細に聊か胸を打たれて、発した怒りのもつていき場に少しばかり困つてゐたが、しかしその心の底には前日来からの仇討病と名君熱が、一層度を増してなほ烈々と燃えたぎつてゐたので、躊躇なく峻厳に言つた。
「それにしても讐は讐、仇討は仇討ぢや。たとへどのやうな仔細から討つたにしても討たれた者の遺族にとつては立派な讐でないか。讐ならばそれを討つが武道の定法ぢや。ぜが否でも仇討させい!」
「はつ。まことに御尤もな諚にござりまするが、何分にも当の下手人伝之丞奴はもう逐電してござりますので。」
「おろかなことを申すなツ。下手人は逐電致したにしてもその血につながる者があらば一族みな同じく仇敵ぢや。誰ぞ伝之丞の血につながる者があるであらう。そやつは誰ぢや。」
「はつござります――たしかにひとりござりまするが……」
「ござりまするがいかゞ致した。」
「ちと申し憎いので――」
「八万石の威権をもつて大事ない。はつきりと言うてみい!」
「では申しまするが、お杉の方様お気に入りの梅代どのが伝之丞めの実妹にござります。血につながると言ふ者はそれ一人で――」
「なにあの梅代一人?……」
それには少し宗資もぎくりとならいではゐられなかつた。梅代が只一人の、伝之丞に肉親の者であつたことはよいとして、彼女が御愛妾のお杉の方にお気に入りの腰元であつたことが少しばかりこだはりとなつたからである。
けれどもそのこだはりも愈萌し燃えて来た宗資の仇討美談病と名君熱の前には、僅に小さな故障にしかすぎなかつた。――宗資は怯まずにはつきり言つた。
「誰であらうと憎い伝之丞の血につながる仇敵{かたき}だつたら差支へない。早う梅代を引き出してたつた今から勝負させい!」
「はつ。御諚とあらばいかにも梅代どのを早速に引出すでござりませうが、しかし仇討致すべき権三郎も共に逐電致した今日、何者によつて梅代どのを討たするのでござりまするか。」
「かさねがさねおろかな事を申すたわけ者よなう。権三郎なき今日とならば、弟平馬が兄に代つて父の仇報ゆるが事の順序ぢや。」
「えつ? では、あの平馬どのに討たせようとの御諚でござりまするか。」
「討たせたら悪いか。」
「いえどう仕りまして討てるものならいかにも討たするが定でござりまするが、なに分にもその何でござりますので――」
「ふゝん左様か。平馬は予が小姓ぢやによつて、まだ十七にも充たぬ少年ぢやによつて、それにあのやうな柔弱者ぢやによつて、軽々しうは討てぬと申すんぢやな。しかし平馬とても武士の血を引いた予が家中の者ぢやぞ。それに相手はたかゞ女づれ討てないでどうするかツ。」
「でも、その女づれとおさげすみの梅代どのが只のお腰元ではござりませぬので――」
「薙刀でもよく遣ふと申すか。」
「はつ。薙刀は無論のことに名うての達人ぢやさうにござりまするが、兄伝之丞より直伝うけた小太刀がそれにもまさるほどの手だれ者ぢやさうで、さればこそお杉の方様が殊のほかのお気に入りぢやさうにござります。」
「構はぬ引つ立てい! 予が平馬に助太刀致してやるわ!」
それ迄言ふに至つてはもはや君命もだしがたしと思つたものか、もう八郎右衛門も言葉をかへさなかつた。鞠窮如として二の丸へ馳せ向つたので、宗資は漸くさわやかに北叟笑むと、今か今かと梅代の引ツ立てられて来るのを待つた。
三
だが、梅代は間違ひもなく八郎右衛門の手によつて引立てられて来るには来たが、しかしそのうしろには意外な人の姿があつたのである。ほかでもなくそのうしろの人は宗資の愛妾お杉の方だつた。――お杉の方はやうやく水の出ばなの二九を出たばかり。花ならば汀に濡れ咲きこぼれてゐる八重咲きの白蓮にでもたとふべく、まことに傾国の容色だつたが、八郎右衛門の報告に余程疳をたかぶらせてゐたものか、挙止も荒く座につくと風情にも似ぬ高い声ですぐに宗資に言つた。
「御酔狂にも程がござります。御狂気でも遊ばされましたか。」
いつになく荒々しい言葉だつたので、夜伽の折りの艶語嬌声をのみきゝなれてゐた宗資にもお杉の方の言葉は少しばかりいぶかしくひゞくにはひゞいたが、しかし心は只もう一途に思ひ上つてゐたので、愛妾の美しいとめ立てさへをも聞かうとせずに、凛とした声で峻厳に言つた。
「家中の誉ぢや。誰がとめ立て致しても討たすと言つたら討たしてみせるぞ。」
「でもあまりにそれでは筋違ひの仇討ではござりませぬか。」
「賢いやうでも女子ぢやなう。八郎右衛門から詳しうきいたであらうが、討つ者も討たるゝ者も武人の血につながつた因縁ごとぢや。これが筋違ひと言ふなら梅代の兄めいらぬ腕立てに権十郎を害めねばよかつたのぢや。まして士風はそちも知らるゝ通りのすたり方ぢや。家中の者への見せしめだけでもこの讐討たせいではおかれぬわ。」
「でも、あの方に――いえいえわたくし手がけの梅代めにもしものことがござりましたならばいかゞなさりまするか。」
「慮外者の兄を肉親に持つたが災難ぢや。またたとへそのことがそちを苦しめ、そちを苦しめることは結局わしを苦しめることになつたとしても、それが国を預る者の心掛けねばならぬ第一の大義ぢや。さ! 両名共に支度せい!」
凛然として言ふと宗資はもう一ときも待たれないと言ふやうに自ら御縁先までからだを進めて、白扇片手に両人の支度をまつた。
事ののがれぬ運命を知つたとみえて、梅代は全身に怨嗟の色をみせると、きつとその口を喰ひしばり乍ら、何事か固い決心のとゝのつたものゝごとくに甲斐々々しく小刀を取ると見るや先づ先に庭先へとびおりた。
「さ! 平馬父の讐ぢや。何を尻ごみ致すか! 予がついてゐるぞ! 早う支度せい!」
姿かたちはやゝりゝしさを欠いてゐたが、まだふつさりと前髪のぬれ羽色には今が美童ざかりのあでやかなる風情をみせて、平馬もお杉の方に負けず劣らずな傾国の容色――だが、その美しい容貌は梅代の腕に恐れをなしたものか、この上もなく今青かつた。宗資に叱咤されてやうやく庭先に降りるは降りたが、その両足は力なくこきざみにふるへつゞけてゐるのが見えた。
と見てどうしたことか愛妾のお杉の方の美しいかんばせが、青ざめてゐる平馬の美しいその顔のやうに、さつとにはかに青まつた。そしてそのなよやかな色香のさかりの美しい五体が、平馬の慄へをのゝいてゐる同じ美しい五体のやうに、こきざみの脅えを見せた。
けれども宗資の目はその時反対にお庭先へ――事起るときいてどやどやと駈け集まつて来たお庭先の家臣たちへそゝがれてゐたので、これぞ屈強の人だかり、士気を奮ひ起さすは今とばかりに、何の懸念もなく凛然と言つた。
「さ、尋常に勝負せい!」
「応!」
と言つて声の下に手にせる小刀を鞘走らさした者は、老職中島八郎右衛門が折紙つけた小太刀の上手梅代だつた。
その声をうけて美童平馬も細身をぬいたが、その剣のうちには抜き放つた瞬時から何の雄々しさも見えなかつたので、宗資はいらち乍らまた叱咤の声を放つた。
「そちも武士の血をうけた者ではないかツ。それしきの相手に恐れなして何のざまぢや!」
それに気勢をあふられたものか、きつとなると平馬はぴたり二尺三寸を中青眼に位取つた。えたりと言ふやうにうけて立つた梅代の一尺八寸は、小太刀取る者のゝ定法として鵜の毛のすきもみせぬ入身水月の構へである。
自然剣気はそこに合し、同時に呼吸もまたはずまねばならなかつが、しかし平馬の太刀先は、誰が見ても到底これが人を斬りうるものゝ剣相とは見えなかつた。呼吸も次第に乱れ出して、足は歩一歩とぢりぢりうしろへ、青ざめた面にはすでに油汗さへも見え出したので、いらち上つた宗資は、素早く白扇を小柄にとつてにぎりかへると、いざと言はゞ助太刀の手裏剣代りにしようとの考へで、またはげしく平馬に叱咤を加へた。
「予が助太刀致すと言つたではないかツ。見苦しいそのおくれ方は何のざまぢや!」
けれども言つたとき平馬とは反対に討たるべき梅代の口からひときは強く応! と言ふ雄叫びが丁度上げられてゐたときだつた。同時に憤怒の形相が鋭く人の心を脅かしたとみるまに、さつと一尺八寸の小刀が一閃すると、呀つ!――同時に放たれた人々の声と一緒に、父の仇を報いなければならぬ筈の平馬のからだは、すでに他愛なくもその腰を深手に打割られ乍ら、梅代のために返り討ちの血をあびて、うしろにばつたり、のけぞつてゐたあとだつた。
と同時だつた。この世の悲しみを一身に集めたかのごとく青まつたかほばせで、矢庭にお杉の方が宗資の右手からにぎりしめてゐた小柄を奪ひとつたとみえたが、まことに意外!――ぐさりとおのが美しい乳房の上につきさすと、悲痛な声をふりしぼり乍ら突然言つた。
「平馬さま平馬さま! 決して決してあなた様おひとりでは逝かしませぬぞ! 杉もあとから参りまするぞ!」
「なに! さ、さてはうぬめらツ……」
意外な方向に事件が急転したので驚愕と二つ重なつた怒りのために言葉も吃るほど宗資がカツとなり乍ら立ち上がらうとすると、奪つてお杉の方が悲痛な声をふりしぼり乍ら言つた。
「もうかうなれば何の隠し立てを致しませう。あの平馬さまこそは、御最期をおとげ遊されましたあの平馬さまこそは、わたくしがお上{かみ}のお目をかすめて命にかけてもと契りましたいとしいお方でござります……お上様の御寵愛をうける身で不義とも法度ともわきまえ乍ら、お目を忍んでついこの三月程前から契り交したいとしいお方でござります。さればこそあのやうにお止め立て致したのでござりますが、たうとうわたくしが恐れたやうな悲しいことになりました。でも平馬さまとはこの世にたつた一つわたくしが命かけてもと契つた恋でござりましたゆゑ、今さらお恨みを申しあぐる筋はゆめゆめござりませぬ。これをおきゝ遊されましたらさぞかしお憎しみが、百倍にも千倍にもおまさり遊ばされたことでござりませうから、さ! ひと討ちにお手討ち下さりませ! せめてもの御慈悲に早うお手討下さりませ!」
「よくも申しをつたなツ。身の面前も憚らずよくも申しをつたなツ。催促せいでも成敗してやるわツ。」
まことにその言葉のごとく二重の怒りは心頭に発してゐたので、宗資は颯然として立ち上がると言下に佩刀へ手をかけた。
だが――一旦佩用の太刀柄に手をかけるにはかけたが、宗資はまもなくがつくりとそこへ崩れ坐ると、お杉の方のさしのべられてゐる容色無双の美しい襟筋をうらめしげにぢつと見守つた。そして暫く言葉もなしに見守つてゐたが、やゝあると呻くやうに言つた。
「八郎右衛門!」鮃のごとくにひらたくなつてゐる老職中島八郎右衛門へ呻くやうに言つた。
「なう八郎右衛門! 名君修業と言ふものは凡そせつないものぢや喃――」
――まことにそれは宗資として尤もな述懐でなければならなかつた。愛妾と愛童を同時に失ひ、あまつさへ伝之丞のごとくそれからまた松山権三郎のごとき元禄武士には稀な逸材を失ひ去らしたに至つては、まさしく毛を吹いて傷を求めたのに等しかつたからである。――宗資は今更のやうにしみじみとこみあげて来た苦痛にたへかねて、もう一度呻くやうに言つた。
「なう八郎右衛門! 名君修業と言ふものは凡そせつないものぢや喃――」
「はつ……何ともはや申しあげやうがござりませぬ。」
八郎右衛門はひだのやうに波うち重なつてゐる皺の中へ、ぽろぽろと涙を流しにじませてゐたが、宗資はそれでもなほ満足しきれないやうに思はれたので、そして言ひ足りないやうにも思はれたので、いきを呑み乍ら庭先に蹲まつてゐる家臣の者へさらに今いちど呻くやうに言つた。
「なうみなの者! 名君にならうとすることは凡そせつないものぢや喃――」
だが、みなの者と呼びかけられた家臣の中からは、御意にござりますと答へた者はひとりもなかつた。彼等のまなこは死にのぞみ乍らもなほ無双の容色をたゞへたゞよはせてゐる愛妾お杉の方の上へ、等しくそゝがれたまゝだつた。それから同じやうに死をとげてゐ乍らもやはりなほ負けじ劣らじな無双の容色をたゞよはせてゐる愛童平馬の上へ、等しくそゝがれたまゝだつた。
そして彼等のまなこは、君侯の時代はづれな名君修業の苦しみなぞはまるでよそに、この、世にも恵まれた似つかはしくも美しい二人の恋が――文字通り命をかけて契つたお杉の方と平馬との二人の恋が、どんなに強くうれしく深い恋であつたか、等しくそれを羨み妬んでゐるかのやうに見うけられた。