無蓋の二輪馬車は、初老の紳士と若い女とを乗せて、高原地帯の開墾場から奥暗い原始林の中へ消えて行つた。開墾地一帯の地主、狼のような痩躯の藤澤が、開墾場一番の器量よしである千代枝を連れて、札幌の方へ帰つて行くのだつた。
落葉松林が尽きると、路はもはや落葉に埋められて地肌を見せなかつた。両側は山毛欅、いたやかへで、チサ(=難漢字)の樹、おほなら、大葉柏などの落葉喬木類が密生してゐた。馬車はぼこぼこと落葉の上を駛つた。其上から黄色の葉が、ばらばらと午後の陽に輝きながら散りかかつた。渋色の樹肌には真赤な蔦紅葉が絡んでゐた。そして傾斜地を埋めた青黒い椴松林の、白骨のやうに雨ざれた枯梢が、雑木林の黄や紅の葉間に見え隠れするのだつた。
「ほいや! しつ!」
馭者が馬を追う毎に、馬車はぎしぎしと鳴軋めきながら、落葉の波の上を、沈んでは転がり浮んでは転がつて行つた。
落葉松林の中の下叢の蔭に、一時間も前から息を殺して馬車の近付くのを待つてゐた若い農夫が、馭者の馬を追ふ声で起ち上つた。そして猟銃を構へながら、山毛欅の大木に身体を隠して路の方を窺つた。初老の紳士は、洋服の腕を若い女の背後に廻して、優しく何かを語りかけてゐた。若い女は軽い微笑の顔で、静かに頷くのだつた。若い農夫は、一時に全身の血の湧上つて来るのを感じた。
若い農夫は樹の蔭から、五匁丸を罩めた銃口を馬車の上に向けた。彼の心臓は絶間なく激しい動悸を続けてゐた。そして、狙ひを定めてゐるうちに、馬車はごとりと揺れ、ぎしぎしと軋めきながら方向を更へた。同時に密茂した樹木が車体を隠した。――一面の落葉で、何処が路なのか判然とはわからないのだつた。馭者は樹と樹との間が遠く、熊笹のないところを選んでは馬首を更へた。その度毎に偶然にも、馬車は急転して銃口から遁れるのだつた。遁れては隠れ、遁れては樹の蔭に隠れるのだつた。
幾度も同じやうな失敗を繰返しながら、若い農夫は猟銃を構へて、馬車の上を狙ひながらその後を追ひかけた。馬車は、午後の陽に輝きながら散る紅や黄の落葉をあびながら、ごとごとと樹間を縫つて行つた。青年は兎のやうに、ひらりひらりと、大木の蔭に移りとまつては、其処から馬車の上に銃口を差向けるのだつた。
突然、山時雨が襲つて来た。深林の底は急に薄暗くなつた。馬車の上の人達はあわてて傘を翳した。時雨は忍びやかに原始林の上を渡り過ぎて行つた。自然の幽寂な音楽が遠退くにつれて、深林の底は再び明るくなつた。紺碧の高い空から陽が斜めに射込んだ。明るい陽縞の中に、もやもやと水蒸気が縺れた。落葉の海がぎらぎらと輝き出した。
最早、路は原始林の一里半の幅を尽して、鉄道の通る村里へ近付いていた。機会は此処から急転する。若い農夫は鉄砲を提げて、熊笹の中を馬車の先へと駈け出した。そして、樹蔭から路の上に狙いを据えて馬車を待つた。
「ほおら! しつ!」
馭者が馬を追ふ声がして、ぎしぎしと車体の軋めく音が近付いて来た。間もなく樹の蔭から馬の首が出て、胴が見当の上を右から左へと移動した。若い農夫は激しく動悸する胸で、猟銃にしがみつくやうにして引金に指をかけた。約三十秒! とそこへ、左から右ヘ人影が現れた。アイヌであつた。
若い農夫は驚異の眼をみはり、ほつと溜息を吐くやうにして、猟銃を自分の足許に立てた。アイヌは其処に立止つて、若い農夫の見当を遮つたまま、珍らしい馬車での通行者を、何時までも見送つてゐた。機会は、馬車と共に原始林から村里へと駛つて行つた。
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雄吾は猟銃を右手に引掴んで、がさがさと熊笹藪の中を戻つた。頭だけが興奮してゐて、脚には殆んど感覚も力も無いやうな気がした。どうかすると、重心をさへ失ひかけた。そして、ひどく咽喉が渇いてゐた。雄吾は無意識のうちに、開墾地帯に近い原始林の中を流れてゐる谷川の方へ歩みをむけてゐた。彼はきよときよとと四辺を見廻しながら、緩り歩いたり、急に駈け出したり、滅茶苦茶だつた。
機会を取遁して了つたことは、極度の嫉妬に燃え、復讐心に駆られてゐた雄吾に取つて、前歯で噛み潰したいやうな経験だつた。残念で、口惜しくて堪らなかつた。がしかし、あのアイヌが、自分の将来を、自分の無謀な計画の中から救ひ出してくれたやうにも思はれた。けれども、雄吾の復讐心の火は消されはしなかつた。彼は更に、最も賢いところの悪辣な手段を考へ出さうと努めるのだつた。
浦幌川に流れ込むその清水の谷川の畔には、半分腐れかけた幾本もの大木が倒れてゐた。雄吾はそれらの大木を跨ぐのが面倒なので、猟銃を杖にして木から木へと伝ひ歩いた。そして、河原へ飛び下り、がぶがぶと水を呑んだ。
「雄吾!」
彼はびつくりして顔を上げた。彼は濡れた唇を掌で拭ひながら、四辺に驚きの眼をみはつた。
「何処へ行つて来た? 顔色をかへて、鉄砲など持つて……」
同じ開墾場の佐平爺が、向岸に微笑んでゐた。
「熊が出てね。俺、皮がほしかつたもんだから、追つかけて見たのだげつとも……」
「熊だと? 牝兎ぢやねえのか?」
佐平爺は微笑みながらさう言つて、魚籃を提げて川を漕いで来た。
「まあ、なんにしろ、あまり無鉄砲なごとをして、自分の身を亡すやうなことをするなよ。貴様の気持も判るが……」
「本当に、熊だつてばな!」
雄吾は佐平爺の慰めるやうな言葉で、涙含ましい気持に支配されながら、それに反抗するやうに言つた。
「俺に嘘を言はなくてもいい。――嘘をついたつて、決して悪いとは限らねえさ。併し、将来の見透せねえ嘘ぢやいけねえんだよ。俺は、村中きつての嘘つきだつて言はれるが、将来の見透せねえ嘘をついたことはねえだ。将来の見透せねえ人間がまた碌な嘘をつけるもんでねえし。――だがさ、熊にしろ牝兎にしろ、馬車に乗つて行くわけねえがらな。」
雄吾は、佐平爺の顔を見詰めてゐた眼を、静かに伏せた。同時に顔色が真青になつた。
「何も心配するごとねえ。それだけの度胸と覚悟があるのなら、もつと考へてやるのさ。――貴様は、自分の親父が殺された時の、本当のことを知らねえで、村の作事ばかり信じてるから、自分の恨みせえ晴せばいいと思つてゐんだべが……」
「作事つて、何が裏にあつたんだらうか?」
雄吾は再び佐平爺の顔を視詰めた。――嘘つき佐平、で有名な佐平爺は、嘘をつくときには、何時も口尻を曲げるのが癖だつた。併しその口尻の曲りは、より話に真実性を持たせるのだつた。だが今日は口尻を曲げずに佐平爺は云ふのだつた。
「併し、それにあ、開墾場の最初から話さねば判らねえから……まあ、火でも焚いてあたりながら…… 馬鹿に寒くなつて来たから……」
雄吾は倒れてゐる大木に猟銃を立掛けて、時雨に濡れた落葉の間に、枯枝を探し歩いた。
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雄吾の父親、岡本吾亮が暫くぶりで自分の郷里に帰つて来た。東京で一緒になつたと云ふ若い綺麗な細君と、幼い倅の雄吾を伴れて。――東京から札幌へ行き、其処で小さな新聞社の記者のやうなことをしたり、時には詩なども作つたりしてゐた彼等の服装や生活は、ひどく派手なものとして村の百姓達の反感を買つたのだつた。
「あんな身装して、何処で何してゐたんだべや? 喧嘩好きで腕節の強い奴だつたから、碌なことしてたんで無かんべで。」
併しその悪口は、四苦八苦の生活に喘いでゐる百姓達の、羨望の言葉だつた。
露国との戦争が済んでから間もない頃で、日本の農村は一般に疲弊してゐた。彼等の村はことにひどいやうだつた。――稼人を戦争へ引張られた農家の人達は、それまで持つてゐた土地を完全に耕しきることが出来なかつたので、彼等は自分の持地に却つて重荷を感じた。のみならず、彼等はどんどん現金の要る時なのに其の収入の道が無かつたので、一時土地を抵当に入れて金を借りることを考へた。稼人のない間を金に換へて置いて、稼人が帰つて来たら再び自分の手許に買ひ戻す。こんなうまい事はない。彼等は僅かの金で土地を手放した。――併し、いよいよ戦争が済んで稼人が帰つて来ても、彼等は再びその土地を自分の所有に戻すことは出来なかつた。借りた金は、利息に利息を生み、土地は小作料を持つて行つた。俄然として疲弊は農村を襲つて来た。
其処へ岡本吾亮が素晴らしい話を持つて帰つて来たのだつた。――彼の知人が北海道に無代で提供してもいい百五十万坪と云ふ莫大な土地を持つて居ると云ふ話だつた。併しそれは道庁から十年間のうちに開拓すると云ふ条件で貰つたもので、既に二十家族からの人々が開墾してゐるが、なかなか開墾しきれないので、残りの三年の間に開墾して了はなければ道庁から取上げられて了ふのだ。がそれは惜しい。誰か開墾する者は無いだらうか? 自分は道庁から取上げられたものとして提供するし、開墾中の食糧ぐらゐは貸してもいい。それは開墾場から利益があがるやうになつてから年々少しづつ返してくれればいいと、其処の藤沢と云ふ地主が言つてゐるとのことだつた。そして吾亮は、食ふものを作る人間が食へなくなつたからとて、他の職業に就いたのでは、却つて食ふものが少くなるばかりだ。だから農村の失業者は、なるべく開墾地へ行つて、自分で自分の食ふものを作るべきだ。さう云ふ意味で、自分は一人でも行くつもりだが、誰か一緒に行く者は無いだらうかと云ふのだつた。
岡本のこの話は、新しい土地に就いて耕作しなければならぬ村の人達の間に、非常な人氣を呼んだ。彼への悪口は急に、讃辞へと一変した。
「あの人は、やつぱり何処か偉いところがあるんだよ。俺も伴れて行つて貰へてえもんだ。」
斯{か}うして此処にも二十家族に近い移住開墾者群の一団が成立したのだつた。
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彼等が北海道に渡つたのは晩春の頃だつた。高原地帯の原始林は既に、黝んだ薄紫色の新芽に装はれてゐたが、野宿をするには、未だ寒かつた。併し既に営まれてゐる二十に近い開墾小屋は、とても他人を容れる余地を持たない何{ど}れも小さなものばかりだつた。彼等は開墾場に近い深林の中に枯木を焚いて一夜を明かした。そして翌日から思ひ思ひの小屋をかけたのだつた。
開墾地として選定されてゐた場所は原始林に囲まれた処女地だつた。幅三十町、長さ五十町ほどの荒野原の一部分だつた。萩と茅と野茨ばかりの枯叢の中に、寿命を尽して枯朽ちた大木を混ぜて、発育のいい大葉柏が斑らに散在してゐた。そして原始林地帯が所所に、荒野原へ岬のやうに突入してゐるのだつた。
彼等の原始的な生活が其処に始められた。深林を背負つて、彼等は南に向けて小屋の入口を並べた。陽があがれば野原に出て男達は木の根を掘繰返し、女達は土塊を打砕き、陽が沈めば小屋に帰つて眠るのだつた。そして、四五年の後から年賦で返済する条件で、少しばかりの米と味噌と塩とが地主から貸付けられるだけで、その他の物はすべて自給自足だつた。彼等は最初に蕎麦を蒔き黍などを作つた。次に玉蜀黍、馬鈴薯、南瓜を作り、小豆、白黒二種の大豆、大麦、小麦と土地の成長に伴れて作物の種類を増して行つた。併しさうなる迄が大変だつた。
「斯うして腕の抜けるほど稼いで、こんな馬の食ふやうなものを食つて、着るものも着ずに乞食のやうな身装をして暮すんなら、郷里の方に居たつて、暮せねえことも無かつたべが……」
若い女達はさう言ひ合つて泣いた。
「何を言ひやがるんだ。郷里で乞食が出来るかい? 乞食は大抵他国へ行つてするもんだぜ。我我だつて、乞食する積りで此処さ来たんぢやねえか。土地を貰ふんだぞ。余つぽどの襤褸を着ねえぢや貰はれめえぢやねえか?」
佐平は斯う言つて、皆を笑はせた。皆は、土地を貰ふと云ふ言葉で元気になるのであつたが、しかし、移住当時のまま一枚の着物すら作れないやうな自給自足の生活が三四年も続くと、彼女達の着物は雑巾よりもひどくなつた。雪に閉籠められて働けない冬籠りの期間は、馬鈴薯と南瓜ばかり食つてゐるために、春になると最早、顔が果物のやうに黄色を帯びて来て人間の肌色を失つてゐるのだつた。
「こんなにまでして稼いだら、郷里の方に居たつて、一段歩や二段歩の土地なら、貰はなくたつて自分で買ひたべがなあ。」
斯う、男達さへ云ふのだつた。
「馬鹿なことばかり言つて、貴様達は、買つて自分のものにした土地と、斯うして開墾して自分のものにする土地の、価値の区別を知らねえんだもな。買つた土地つてもの、他人のものが自分のものになつただけぢやねえか? 開墾は、おめえ、開墾した分だけ世の中に土地が殖えるのだぞ。世の中の耕地を広くする仕事なんだぞ。開墾と云ふもの……」
佐平の、斯う云ふ話は、皆をよく感心させたり笑はせたりした。わけても吾亮の妻、即ち雄吾の母は、佐平の、さう云ふ話を欣ぶのだつた。が、又、一番ひどく郷愁の念に悩まされてゐるのも、雄吾の母だつたのだ。佐平の考へでは、皆の淋しさを忘れさせ、郷愁の念から解かうとして嘘をつき、出鱈目を云ふのであつたが、それが、何時か佐平を、開墾場一の嘘つきの名人と云ふことにして了つた。併し佐平は依然として嘘をつくことを止めなかつた。
全く、此方からは、小さな駅のある村里ヘ、一ケ月のうちに二度ほど、二三人の者が米と味噌と塩とを取りに行くだけだつた。先方からは郵便配達夫が二週間に一度の割でやつて来るだけだつた。巡査さへも廻つて来ないのだつた。そして秋になると、原始林の中からのこのこと熊が出て来た。開墾地には大騒ぎが始るのだつた。彼等四十に近い家族のすべての者が熊に対つて怒鳴り、叫び、闘ふのだつた。彼等の団結力が、この時ほど真剣に構成されて行動することはなかつた。――そのほか、殆んど外界との交渉の無い原始林の中なのだ。嘘と出鱈目と戀とが無くては暮らせる世界でなかつたのだ。
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三年の間と云ふもの、彼等は滅茶苦茶に開墾地域を掘り捲くつた。地主からの貸付食糧を補つて、纔に自分達の饑ゑを凌ぐのに足るだけの、蕎麦、馬鈴薯、南瓜などを作るだけで、それ以外の労働力はすべて開墾に注ぐのだつた。完全にその土地を自分達の所有にしようとの努力だつた。要するに処女地の皮を引剥がうとの三年間なのだつた。
兎に角、そして一通りの開墾が済むと、初めて地主の藤沢が其処へ顔を出した。そして彼等の小屋の近くに木造の事務所を建てた。今まで札幌の方で待合兼料理屋と云ふやうな稼業をして来てゐる藤沢は、自分の健康のために、夏から秋だけを此処で暮し、開墾場の収穫を売付けてやつたり、開墾場で必要なものは自分が代つて取寄せてやるなど、移住開墾者達と都会人との間に立つて彼等の売買、或ひは物物交換に、いろいろ面倒を見てやり度いと云ふのだつた。同時に、今まで貸付けて来た食糧を、その開墾地からあがる穀類で返納して貰つたり、自分も此処で養鶏をしたり園藝をして夏から秋を暮したいと云ふのだつた。
其頃から、原始林の中を抜けて、村里の所から、折折に巡査も廻つて来るやうになつた。ひどく毛蟲を怖がると云ふ噂のある巡査だつた。
或る真夏のことだつた。開墾場の人々は、事務所の前から原始林を過ぎて村里へ通ずる路の、路普請だつた。そして彼等の一団が、原始林の入口のところで休んでゐると、丁度其処へ、毛蟲を怖がると云ふ若い巡査が廻つて来た。肌を脱いで煙草を燻しながら語り合つてゐた彼等は、周章気味にそそくさと着物に手を通し、無言で深く腰を屈めた。そして其処へまた腰をおろした。
若い巡査は軽く頷いて、微笑みながら佐平の方へ歩み寄つて行つた。そして巡査は言つた。
「あの、佐平つて云ふのは、おまへかい?」
「はい。私が佐平で御座りますが……」
佐平は起上つて驚きの眼を巡査にむけた。ひくりと口尻を動かして微笑んだ。
「おまへは、この開墾場一の嘘つきの名人だと云ふ噂だが、僕の前で一つ、その名人振りをやつてみせないかい? おまへの噂は、浦幌の方でも知らない者が無いぞ。おい、僕の前で一つその嘘をついて見ろよ。」
「どうして、旦那様、旦那様の前でだけは……」
佐平は口尻を歪めて眼で媚笑ひをしながら言つた。
「誰の前だつていいぢやないか? うむ、一つやつてみろよ。その名人振りを……」
「私も、種々の罪のねえ嘘はつきますが、併し、旦那様の前でだけは、……他の人なら兎も角も……」
「構はんと言つたら、他の人につくのこそやめねばいかん。併し、僕の前で、どれだけうまくやるか、試みにやる分には構はん。」
皆は顔を見合せて、油を搾られてゐる佐平を静かに眺めた。
「どうぞ、旦那様、御免なすつて……」
佐平は巡査の背後へと逃げた。巡査は微笑みながら煙草に火をつけた。
「ほおつ!」
突然、佐平が叫んだ。佐平は巡査の背後から一間ばかりも、大狼狽に狼狽て後に退去つた。顔は驚きの表情で緊張してゐた。皆が一斉に佐平の方を見た。佐平は眼をむいて巡査の背中に視線をやつた。若い巡査は訝かつた。
「どうした? 佐平!」
「毛蟲でがす! 大つきな!」
佐平は眼を釣りあげて口尻を曲げた。
「毛蟲? どれ? 何処だ?」
「旦那様の背中でがす。こんな、おつそろしい毛蟲は、初めて見たな。何んて毛蟲だベ?」
佐平は巡査の背中を視詰めながらおそるおそる近寄つて行つた。
「なに、僕の背中に? 取つてくれ取つてくれ?」
若い巡査は佐平の方へ背中を持つて行つた。
「こんな、怖ろしい毛蟲、私はおつかなくつて、とても取られせん。服をお脱ぎなせえ。」
「そんなことを言はないで、早く取つてくれ、早く。」
「旦那様、服を脱がいん、服を……」
近くにゐた誰かがその背後に廻らうとしたが、巡査は狼狽て制服を脱いだ。
「何處にや? うむ、佐平、何もゐないぢやないか?」
若い巡査は服の上の毛蟲を見つけようとしながら言つた。
「これが旦那様、私の、嘘の初まり位のところで……」
皆は口から飛出さうとする笑ひを圧殺して、遠慮勝ちな微笑を投げ合つた。巡査は真赤になつた。「たうとうやられたなあ!」と笑つて済ませるには、彼はあまりに若かつた。あまりに融通性に乏しかつた。
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開墾地の耕作は容易でなかつた。若い荒荒しい土は、直ぐにも以前に還らうとするのだつた。唯唯土地を、完全に自分達の所有にして了へばいいとの考へから、荒皮を引剥いたばかりの畑は、他の方を耕してゐるうちに他の一方が熊笹や野茨や茅に埋められると云ふ有様だつた。彼等が、その草の中から刈取る秋の収穫は、最初の一二年間と云ふもの、彼等の食糧にかつかつだつた。
併し地主の藤沢は、この開墾地の緩慢な成長が待ちきれなかつた。彼は移住開墾者の代表格である岡本吾亮にまで自分の気待を伝へた。
「ね、岡本さん。開墾もこんで済んだのですし、そろそろ、あの食糧の方を戻して貰はれねえですかね。」
臆病な藤沢は、相談するやうな調子で、穏かに云ふのだつた。
「冗談言つちや困りますよ。皆んな食ふや食はずで働いてゐるぢやないですか。まあ、二三年は我慢して貰ふんですね。」
岡本は強情で掛引と云ふものを知らなかつた。
「だがね、無利子同様の安利子で何時までも貸してゐたんぢや、手前の方だつて堪りませんからね。何んとか一つ早く……」
「今、そんなことを言つたら、藤沢さん、あなたは殺されるよ。あの人達は、今やつと息がつけるやうになつたばかりぢやないですか…… 最初の約束だつて、開墾場から穀類があがるやうになつたらと云ふ話だつたし…… それは幾らかの牧穫はあるがね、自分達が食ふのにも足りない位なのだから……」
「いや、それはね、何も今直ぐ無理に頂くと云ふ話ぢやねえですがね。」
藤沢は、岡本吾亮の不機嫌な顔に媚笑ひをむけながら斯う言つて、其場を逃げたのだつた。
併し、地主の藤沢は、なかなかそれだけでは諦めきれなかつた。その翌年、彼は吾亮に隠れるやうにして移住開墾者の間を廻つた。彼等は苦しい中から、幾分かづつを返済することにしたのだつた。吾亮はそのことを後で聞いて、ひどく憤慨した。
「藤沢さん、そりやあんまりぢやないかね? もう一二年の間、あなた、待てないこと無かつたでせう。一体最初私になんと約束したんだ?」
吾亮は事務所へ出掛けて行つて地主に詰め寄つた。
「まあ岡本さん、穏かに……私は決して無理にと云ふのぢやなくて、出来るならと、まあ話の序に話したのが、うまく成功したやうなわけで……ですから、今度のところは、どうぞまあ、穏かに見逃して置いて下さいな。」
斯う言つて地主は、吾亮の鋭い詰問と憤激に燃える眼とから遁れて了ふのだつた。
併し藤沢は、抑へてゐる間は縮んでゐる機條のやうに、手を放すと直ぐに原状に戻つて、間もなく其時の恐怖感を忘れて了ふのだつた。彼は貸した食糧が順調に戻つて来るやうになると、また別の話を岡本吾亮にまで持つて来た。
「ね、岡本さん。この土地にも、そろそろ税金がかかるやうになつたんですがね。一つその、幾らでも一つその小作料を……」
話の途中で藤沢は吾亮の顔を見た。吾亮は何も言はずに、光る眼で藤沢の顔を視詰め続けた。そして吾亮は下唇を噛んだ。
「いや岡本さん、決して無理と云ふのぢやないんですがね。何しろその……」
「あなたは最初に私へなんて約束したです?」
吾亮は太い錆のある声で叫ぶやうに言つた。併し慾の深い人間に取つて、新しい慾気を満すためには、古い約束など全然問題ではないのだ。自尊心も道徳も愛情も、場合によつては自分の生命だつて投げ出しかねないやうな人間なのだから。
「前の話は、前の話ですがね。併しその……」
「あなたは、道庁から取上げられた積りで、開墾した人にやると言つたぢやないですか? 何も私等だつて、あなたから貰はなくたつて、あれだけの難儀をして開墾する積りなら、幾らでも貰はれたんです。唯、手続の面倒が省けるから、あなたが、自分の力で開墾が出来なくて、取上げられて了ふ土地を貰つただけぢやないですか。」
「その手続がね、なかなか金のかかる……」
「手続に使つた金ぐらゐ出しますよ。併し、小作料なら、一粒だつて、一銭だつて出せません。あなたが現在使用してゐる土地だつて、私達が開墾したからこそ、あなたのものになつたんだ。あなたは、それだけの広い土地を自分のものにしただけでも、よすぎる位ぢやないですか。あなたの、名義で貰つたから、あなたの所有地にはなつてゐても、開墾して耕地にしなかつたら、あなたのものにだつてならなかつたぢやないですか。道庁でだつて、開墾したものにくれる意志なんだし……」
「いいです。いいです。私が慾を出したから悪いので、皆さんに差上げますから、幾らにでも、気の向く値段で権利を買取つて下さいな。」
藤沢はさう言つてまた媚笑ひをした。
「金のある時にね。併し、権利は早く私等の方へ移してほしいですね。当然のことなんだから。」
「いいですとも、いいですとも。そんなこと明日にでも。」
言ひながら、藤沢は、岡本吾亮のために、長い間の計画が崩されて行くのを感じた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
開墾場の小屋を一通り廻り終ると、藤沢は落葉を踏付けて事務所へ戻つた。彼は窓際のテーブルに対つた。そして彼は直ぐに算盤を弾くのだつた。――いよいよ取り立てることになると、段当り七十銭の小作料としても、七百五十町歩だから750×7が五千二百五十円、それから農具の貸付けが十九軒だがら19×5が九十五円、そのほかに、食糧として貸付けた方から……
突然、硝子窓の彼方に固い兵隊靴の跫音がした。藤沢は算盤に手を置いたまま跫音の方へ視線をむけた。半分ほど開いてゐる硝子窓の彼方を、誰かが此方へむけて活発に歩いて来た。右上りの広い肩。眼深に冠つた羅紗の頭巾。宵闇の中に黒い口髭が判然と浮んで来た。
岡本吾亮だ! 藤沢はガンと眩暈を感じた。彼は立上りながらテーブルの横に手を伸した。臆病な胸が急に騒ぎ出した。彼奴のために又滅茶滅茶にされて了ふ! 藤沢はテーブルの横から取上げた猟銃を直ぐ動悸の激しい胸に構へた。そして銃口を窓から突出した。
「おい! 馬鹿なことを止せ!」
吾亮は右腕を顔に当てながら叫んだ。同時に鉄砲の音が響いた。吾亮は蹌踉めいてばたりと倒れた。
藤沢は部屋の隅から毛皮の外套を取つて出て行つた。彼は震へる手で、微かに動いてゐる吾亮に毛皮の外套を着せた。そして彼は溜息を吐いた。併し彼の全身の戦きは止まなかつた。彼は部屋の中に戻つて火箸を持つて出て行つた。胸の傷口のところヘ、外套にも穴を拵へるためだつた。彼が火箸を叢の中に抛つたとき、鉄砲の音で一人の作男が其処へ寄つて来た。
「おい! 駐在所へ行つて来てくれ。早くだ。駐在所へ行つて巡査を呼んで来てくれ。大急だぞ!」
藤沢は無我夢中に叫んだ。若者は声に追立てられて直ぐに駈出した。其処へ佐平が来た。
「あ、困つたことをして了つた。大変なことをして了つたよ。あ、あ……」
藤沢は斯う言ひながら溜息を吐いてゐた。
「どうしたのかね? 鉄砲の音がしたつけ。」
佐平はさう言つて屈み込んだ。
「あつ! 吾亮さんぢやねえか?」
叫んで佐平は跳び退いた。そして藤沢の顔を穴のあくほど視詰めた。
「なあにね、岡本さんは、私の居ねえところから、私のこの毛皮の外套を着て出たらしいんですよ。私は又それに気がつかなかつたもんでね。丁度、私は又その時、今年もそろそろ熊の出る時分だなあ、なんて考へてゐたんですよ。そこへ岡本さんがこの毛皮を着て来たもんで…… 兎に角、大変なことをして了つた。あ、あ……」
藤沢は溜息を続けた。佐平は、藤沢のその話の中から、将来に向けた秘密な計画を読み取ることが出来た。佐平は、だが、巡査の来るまでは、何も云ふべきではないと黙り続けてゐた。
巡査の来るまでには大分時間があつた。そのうちに、四辺の小屋から、一人寄り二人集り、がやがやと吾亮の屍を取巻いた。やがて焚火が始められた。其処から一番遠い地点にある吾亮の家には、知らせずに置く筈だつたのだが、何時の間にか嗅ぎつけて妻が出て来た。倅の雄吾は其頃、敏感な少年期に達してゐたのだが、其処へは駈出して来なかつた。沈着な彼の母が、其場を見せないために、近所へ預けたのだつた。そして吾亮の妻は、人々の背後の薄暗がりで、静かに泣いてゐた。
「東京から此処まで来て、こんなことになるなんて……私達は此先どうしたらいいんですか……子供だつてまだ働けやしないのに……」
斯う言つて雄吾の母は啜泣くのだつた。
「岡本の奥さん。其方の心配はしないで下さい。私に責任があるんですから。其方の心配はしないで下さい。私は責任を負ふですから。」
併し彼女の心がそんなことで穏かになる筈がなかつた。穏和な情緒を滅茶滅茶に掻立てられた彼女は、何もかも掻毟りたい興奮状態にあつた。彼女は尚も泣続けた。
巡査が来た時には夜が闌けてゐた。焚火の傍に立つて巡査は藤沢を訊問した。藤沢は、佐平に言つたと同じ理由を述べた。
「それでこの人は、おまへとは、おまへの外套を無断で借着して行くやうな間柄だつたのか?」
「はい。それは、十何年前からの友達で。」
「すると、全然、過失と云ふわけだな?」
「でも、私は、罰を受けないと気が済みません。」
斯う云ふ言葉が交されてゐる間に、佐平は、啜泣いてゐる吾亮の妻の方へ歩み寄つた。
「家を出るとき、あの毛皮を着てたかね?」
低声にさう言つて佐平は訊いてみた。
「今日は、朝出たきりでしたので……」
彼女は少しも藤沢を疑はなかつた。彼の表面を其まま受取つてゐるのだつた。佐平は巡査のところへ引返した。
「何にせ、熊だか人間だか、見分けのつかねえほど、まだ暗くなかつたがね。」
佐平は斯う彼等の会話の中に言葉を挿んだ。
「おい! おまへは黙つてゐろ。今此処でいいかげんな嘘をつかれちや困るぢやないか。」
巡査は佐平の方に眼を光らせて言つた。
「いや、いや、すつかり暗くなつてからで…」
「宜し。ぢや、兎に角、今夜のうちに駐在所まで来て、本署まで一緒に行つて貰はねばならんな。この外套を背負つて。」
「旦那様、私を證人に連れて行つてくだせえ。」
佐平は斯う言つて、滅多に下げたことの無い頭を下げて頼んだ。自分の見透してゐる藤沢の秘密な計画を、皆んな話してやる積りだつた。
「證人だと? おまへを證人に立てたら、どんな嘘を云ふかわからんぢやないか。嘘つきの名人を證人に立てるわけにはいかんな。」
「ぢや誰か他の人でも……」
「自首して出た者に證人がいるか。そんなことは後のことだ。――さあ、ぢや、その毛皮を背負つて。」
巡査は藤沢を促して其処を立去つた。
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藤沢の罪科は過失致死罪だつた。罰金刑で済んだ。そして吾亮の遺族である雄吾とその母とは藤沢の許に引取られた。
「いいえ、さうまでして頂かなくも、私は東京へ帰ります。東京ヘ帰つたら何んとかして食べて行けないことは無いでせうから。」
斯う吾亮の妻は言つた。併し藤沢は、其以前から五六人の作男を使つて自分も耕作をやつてゐたので、其人達のための炊事をしたり、自分の身辺の世話をしてくれる婦人を必要としてゐた。今までは開墾小屋から、百姓女が通つて来てくれてゐたが、吾亮の妻に其役をしてほしいと云ふのだつた。
「さうでもして貰はないと、私も気が済みませんからね。給金は、今までの倍にしますわ。」
藤沢が無理にさう云ふので、雄吾を伴れて彼の母は、開墾小屋から事務所に移つて行つた。同時に藤沢は札幌へ引上げて行つた。彼女は啜泣きの日の多い佗しい冬を送つた。
翌年の春、藤沢は例年よりも早く開墾地に出て来た。そして其夏中を、雄吾の母は、藤沢と一緒に事務所で寝起きをしなければならなかつた。勿論雄吾も一緒ではあつたが、五六人の作男は、以前から他の建物に寝起きをしてゐるのだつた。
藤沢は、その年はどう云ふものか、ひどく燥いでゐた。何事にも活発だつた。秋になると、貸付けてあつた食糧費をぴしぴしと取立てた。そして、今年からはいよいよ小作料をも取立てると提言してそれの実行に取掛つた。
「小作料をね? この土地は、開墾すれば頂戴出来る筈ぢや無かつたんですかね。」
佐平は斯う呆れた者の調子で言つた。
「冗談ぢやねえ。この土地だつて資本金が掛つてんですぜ。」
「ぢや、道庁から直接貰つて開墾するんだつたな。今頃は自分のものになつてたのに…」
斯う佐平は言つて見たが、それは既に遅い気の付きやうだつた。
藤沢は二夏を雄吾の母とその事務所で暮したのであつたが、初雪が来て、その年もいよいよ札幌へ引上げるとなると、彼は彼女を伴れて帰つて行つたのだつた。――それから後の噂は、藤沢は最近に妻を亡くし、丁度子供が無かつたので、彼女を後妻に入れたのだと伝へた。
雄吾はその翌年の夏から作男の仲間に投げ込まれた。そして、藤沢の活溌な行動は加速度をもつて進んだ。小作料の取立は厳しく実行された。貸付けてあつた開墾中の費用の取立にも彼は決して手を緩めなかつた。何処の移住開墾者よりも貧しい一団の移住開墾者等は、暗い陰惨な日日の中で、子供が殖えるばかりだつた。
其頃、開墾地には美しい娘が三人ゐた。お糸。おせん。千代枝。その三人は次から次と五年の間に何れも同じやうにして札幌へ伴れて行かれた。――最初、彼女達は畑から事務所へと、炊事婦に傭はれて行つた。給金が頗るよかつた。彼女一人の働きによつて、その一家は十分に潤された。事務所で食べさせて貰つた上に、小作料と、借りた開墾費用を払つても、彼女の給金は尚いくらが残るのだつた。だからその貧しい親達は、娘が可哀相だとは思ひながらも、表面には不服な顔を見せなかつた。――併し、彼女達を目の前に愛することによつて、その開墾地の生活に明るい華やかな生甲斐を見出してゐた若者達は、それでは鎮らなかつた。彼等は開墾地を飛び出して行つた。そして、お糸の相手だつた耕吉は、浦幌の近くの小さな駅の駅夫をしてゐる。おせんの相手の平六は池田へ行つて馬車曳になつてゐる。佐平等が、自分達は食ふや食はずに働いてゐるのに収穫は皆んな持つて行かれると考へるやうに、若者達は、美しいものは皆んな持つて行かれて醜いもの穢いものばかりが残ると考へたのだつた。
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「意気地の無え野郎共さ。耕吉も平六も。彼奴等に貴様ほどの度胸があつたら、今頃は、皆んなが斯んな難儀をしなくて済んだのに……」
佐平爺は悠長に煙草を燻しながら語り続けた。
「貴様は矢張、雄吾、親父に似てゐるんだなあ。その度胸のいいところは……」
「度胸ぢやねえ。俺、我慢が出来ねえのだ。」
斯う言つて雄吾は、焚火に屈み込んで枯枝を重ね直した。白い煙があがつた。深い天井からばらばらと落葉がして来た。風が出て来たのだ。
「うむ、うむ。だからやるのさ。一ぺんで、親父の仇を取つて、開墾場の人達皆んなを助けて、その上自分の恨みを晴らせるのだもの……」
「あ、やつてやるとも?」
雄吾はさう言つて膝の上の猟銃を撫でた。
「その上、貴様、母親とも一緒に暮らせるやうになるぢやねえか。なあ、さうだらう?」
「あんな、人でなしの母親なんか、どうでもいい。」
「いや! しかしな、貴様からお母さんに話して、この開墾した土地を我々の所有にして貰はねえと困るからな。其処を頼むわけなのさ。」
「併し、世の中つてさう調子よく行くものかなあ。俺、やつつけたら、自分も死ぬ覚悟なのだ。」
「だからさ、馬車に乗つてゐる者を撃つちや、熊だとは言はれめえつてことさ。いいか。其処をよく考へて見ねばならねえんだ。」
落葉がまたばらばらと散つた。白い煙が横に漂うた。風が勢を得て来たのだ。そして原始林の中には静かに夕闇が迫つて来てゐた。
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開墾地には其年も、そろそろ熊の出て来る初冬が近付いてゐた。
闇夜だつた。まだ宵の口だ。開墾地に散在してゐる移住者の、木造の小屋からは、皆一様に夜業の淡い燈火の余光が洩れてゐた。拾何年を経ても、彼等は最初の仮小屋の中に夜業を続けなければならなかつた。拾何年前に変らない雨ざれた小屋は、壁板が割れて風が飛込み雪が吹き込んだ。屋根は腐つて雨が漏るのだつた。併し彼等は、最初の夢を裏切られた未来の光のないところで、希望を持たない陰惨な生活を送らなければならないのだつた。
原始林を背景にして散在した移住者の小屋から、事務所はやや難れたところにあつた。納屋と馬小屋と、作男達の寝る建物とが、その横に黒く並んでゐた。事務所からは明るい燈火が洩れてゐた。間もなく札幌へ伴れて行かれる筈の、おきんが裁縫をしてゐるのだつた。
事務所の燈火が消えた。おきんも寝たのだ。
「熊だあ! 熊だあ!」
若い声が突然叫んだ。暗がりに人影が動いた。
「熊だあ! 馬小屋を気を付けろ!」
移住者の小屋から炬火が出て来た。跫音が乱れ合つた。犬が吠え出した。
「熊だあ! 熊だあ!」
石油鑵が鳴り出した。板木を敲く音。バケツを打鳴す音。人々は叫び合つた。
「熊だあ! 熊だあ!」
「事務所の方へ逃げたぞう!」
炬火が四方八方から事務所へむけて駈け出した。黒い人影が続いた。犬が吠え合つた。石油鑵が鳴り、板木が響き、バケツが鳴つた。人々が叫び合うた。開墾地一帯が揺ぎ吠えるのだつた。
「熊だあ! 熊だあ!」
「熊だとう?」
炬火の薄明の中へ地主の藤沢が事務所から出て来た。鉄砲が鳴つた。藤沢は唸つて、蹌踉めいて、ばたりと倒れた。
「おつ! こりや熊でなくて藤沢さんだで。」
佐平爺が倒れて唸つてゐる藤沢に近付きながら言つた。
「善蔵、貴様誰かと駐在所へ行つて来う。熊が出たので追廻してゐたら、其処へひよつこり藤沢さんが出て来たので、熊だと思つて間違つて撃つて了ひましたつてな。解つたか。熊と間違つてだぞ。其処の理由をよく話すんだぞ。」
「誰が撃つたつて訊かれたら?」
「あ、俺が撃つたつて言つてくれ。」
雄吾は猟銃を杖にして傲然と言つた。
「雄吾、貴様は札幌さ行つて来ねえ気か? 俺が撃つたのだと言つて置いてくれ。」
佐平はこう言つて、雄吾から猟銃を奪つた。二人の若者達は駐在所へ駈け出した。
「この悪熊も、たうとう為留られたな。」
「何を、馬鹿なことを。――おい、火を焚かうぢやねえか。」
炬火が積重ねられた。上から枯木が加へられた。焚火は闇の中に高く焔光を上げた。人々はがやがやと其のまはりを囲んだ。犬は遠くから何時までも吠え止まなかつた。
(昭和四年三月五日)