古き名に風車通りと呼ばれゐる路地に住まひてひと月を経ぬ
しばしばも夫と離るるわが歩み森洩るる陽を胸にうつして
新婚の妻なるわれに異国びと問ひかくるなり不幸せかと
何ゆゑにかくもしきりに憶はるる幼くわれの住みし雪国
あらはなる憎しみ顔に浮かぶかと立ち上がりざま鏡をのぞく
夫を措きて帰らむとこころ決めたる日われに医師告ぐ妊娠と
嫁ぐとも子は産さずよしといひし母に書きてやるなり身籠りたりと
このわれの母とならむを訝しみ朝の窓辺に髪梳きてゐる
毒薬の説明の箇所とばしつつ古き小説を読みをりひとり
降るごとく新年の鐘ぞ鳴りひびく星空凍つるハーグの街に
ゆゑもなく悲しみ湧きて手袋のわが手重ねつ夫の手の上に
生れこむ子にふるさとと在るハーグの運河に沿へるしばしの歩み
ゲート越しにくちづけをわが受けしのち見返ることもなく歩むなり
産みしより一時間ののち対面せるわが子はもすでに一人の他人
生みし子にその父親の訪れぬわれは噂のなかにかあらむ
話題としてcyberneticsの理論ありき妻とならむ未来を描くこともなく
ギア入るるときのま悔いは確かなる形をとりぬ走りに走る
母われの不安は子にも伝はるか夢にしばしば迷子なりとぞ
あたたかき肌ならぬゆゑロボットは駄目といひつつ子のとりすがる
水のやうに空気のやうにあらむとぞ言ひし心を忘れざりけり
和まざる心にわれは真夜中に湯をたぎらしめ髪洗ひをり
くちなしの香は夜の闇に充ちきたり乳房疼きぬわが掌のうちに
日曜ぞパパ来る日ぞと言ひて待つ子に抗はむすべなしわれは
みづからの声に出しつつ文字に書くそのたびに何かがこぼれゆくなり
魔女となりわが子の夢に入りゆかむ楽しき不思議数かず見せむ
忘れむと努めこし名を子は呼べりかくのごとくに復讐さるるか
夜を起きて見張れるものを子は数ふフクロウ、ミミズク、それにママ
風の中を帰り来て子は流れゆく雲の速さを両手にまねぶ
白足袋のこはぜを外すみづからの仕草に知りぬ底深き疲れ
とりとめもなく傾ける心もて唇触れにけりブロンズの首に
氷河湖をいくつめぐりて来つるわれ町に素焼きのブローチ買へる
小学の児童なる子は空港の見取図つけぬその旅行記に
来む冬の替への上衣を買ふといひ男連れだてり別れし夫
人間は死ぬべきものと知りし子の「わざと死ぬな」とこのごろ言へる
パン二斤胸に抱きて戻りきぬ牡丹雪しきり舞ひくるなかを
誘惑に勝ちてさびしきわれかなと水ぬるむ夜に指見てゐつ
乱れたる髪かきあげてくれし手の来よとぞ願ふ物を書きつつ
悲しみのあぢさゐの青冴えかへる曇れる街に身は透きてゆく
傘立てに濡れたるかさをさし入るる憂ひのありて今日も暮れたり
どくだみの香のする蔵の裏に来ていとけなき日のごとうづくまる
蔵の二階にひそみて読みし『緋文字』の何に怯えしや少女のわれは
投げキッスして去る吾子の学童帽その頭にはすでに小さき
楡の木の陰より遠くわれは見るプールに泳ぐ人またその子
窓のなき小部屋に息をひそめたる花は起爆のとき待つごとし
抱へらるるかぎり小菊を切りてきぬなほもさびしき心と知りつつ
埋れたる礎石の透きて見ゆるごとよみがへりくる愛の初めぞ
すり硝子の窓を閉ざして籠りゐる微熱ある身のおぼつかなけれ
気だるげに壁の鏡によりそへる土耳古桔梗の花のむらさき
「鐘が聞えてゐたね」と子はいへり聴きゐしわれを知るがごとくに
めづらしく人前にきみのわれを呼ぶに思はずわれも声あげて応ふ
移ろへる黄菊の色のたぐひなき午後の家居に髪結ひ上げむ
テーブルも薔薇も呑みこみ夜の闇は洪水なせりわが身を任す
後より刺されてなほも立ちてゐる夢の阿修羅はわれにしありけり
行先を断たるるレールいく筋の光りて絡む夜の操車場
一週間と期限を切るそれまでに癒えよと君は無理をいふなり
キリストは実在せしやといく度も子は問ふ何を知らむとすらむ
不思議なる薄くれなゐに百合の咲けり裏ぎられゆく予兆のごとく
今宵ひと夜あづけてよしといひたれば君の片手を持ち帰るなり
風のなき夏の土用の昼ふけて『イワン・デニソーヴィッチの一日』を閉づ
夜の更けを耳輪つぎつぎと取り替へてみるなど一人珈琲沸す
編集者の眼をして人と向ひゐるその眼見てをり酒場の隅より
いく人のわれをわが内に棲まはせて生きてゆかむ身の置きどころなし
眠りつつもわが手を強く握る手のこのごろかくも細りたりけり
かたへなる鏡にわれの空ろにもゐるを消さむと声を上げたり
格子戸にやもり貼りつく影二つやさしきいのち近くありけり
小雪散る街にバス待つ列のなかの一人となれば心落ちつく
うさぎ当番に行きていつまで帰り来ぬ子は遊べるか兎とともに
半ばづつ生き分けえざる人生と女主人公がいふくだり読みをり
降る雪に香はあり味もありとこそかなしき言葉いひ出づる吾子
耐へしのぶともあらなくに雪明りする厨辺に大根を洗ふ
断ち割れば林檎の芯の透き通れりひとりか生きむわが爽やかに
定家かづら地に低く咲きひとりごと日ごとに多くなりゆくわれぞ
もう寝よといたはりくるるこゑ聞ゆ夜更けて軒を雨たたくなり
うつむきて人に叱られゐしわれの素直さをかし夢覚めにけり
小花散る陶のスプーンに掬ふかな淡あはとひとり想ひゐし死を
潔ぎよく一生ぞあらめ黒塗りの箪笥の環に指をかけたり
ひとを呼ぶこゑ遠くよりするごとし待つはひとつの賭にも似たる
握りゐし手のほどかれていつのまに水草繁き湖をただよふ
つきつめて霊魂の有無思ふとき動悸がすると吾子のいふかな
いかならむときに想はるるわが身かと消えゆく虹を見上げてゐたり
物蔭に身を隠しつつ後を追ふ夢にしてさへやかくあるわれか
日の暮も待ちてゐるなり待つことに疲れ果てたる鴉のごとく
シャルトルの繪硝子に見し聖母像雪の日病めば恋しかりけり
人参を花形に切るわが手もと明るみ雨のあがりくるなり
いづこへも本とノートを携ふる癖あるわれをみづから笑ふ
花の芽の一つ一つに水かけて子はのどかなり学年果てぬ
仰ぎみておぼろ月夜といふ時に思はざりけるさびしさはくる
明け方の夢の中なりしそのこゑがパン焼くわれをまた呼ぶごとし
梅雨の路地歩みゆくとき「身のほど」も「宿世」もここに生まなまとして
急速に茜消えゆく空の下もはやだまされてならぬわれあり
処方箋書きつつ笑ふ人間は心と躰の有機体とぞ
人前もかまはず胸にすがりては声あげてゐき夢にしあれば
絶望を確かめむため逢ひて来し身をはこぶなり古書店街を
求め得ぬものにあくがれほろびゆく己れを見据えゆけとしいふか
救ひにも似たる声にていふ聞ゆこのままでは廃人になるとこそいへ
無断にてわれのこころのひだ深く入りくる吾子にした脅えつつ
逢はぬまに九月の空は澄み澄みぬこころ日増しに細りゆくべし
身をやつしゆきて逢ひたる夢の中われなりとしも告げず目覚めぬ
立ち話するわが声のそらぞらしくなんと明るく響くなるらむ
歩む夜の街にむなしさ募りたりディスコのマッチ手渡されをり
窓占めて黒き森ただに繁りたり逢ひがたきかな人を思へば
芯までさびしき一人になりてありとふたたび逢はば告げむかわれは
みづからの髪に捲かれて苦しみて夢より覚めて髪豊かなり
子はわれをわれはわが子を探るなり見えぬ境を守り合ひつつ
なまぬるき風吹き荒るる街にあり核抜かれたる果実のごとく
いつまでも美しくあれといはれけり日を経て思へばむごき言葉ぞ
自転車のきしむ音して朝刊の三和土に落つるまでの時の間
離婚せしわれはいささか不幸なる女として子の心に住める
ちぎりたる首を抱へて「うれしうれし」と鬼はいふなり振向きざまに
満月の夜に笛吹きて呼ぶといふ魔女は子連れの女ならずや
逢ふことは思ひ捨てたる身なれども韓国の記事あれば切り抜く
野いばらの花むら白し子の帰るころには母にもどらむわれに
樟の香のただよひきたるゆふぐれに耳輪と腕輪身より外しぬ
口の辺に髭ほのかなる子がわれに保護者のやうなものいひなせる
ガス自殺する女主人公の表情を浮かぶる顔と子は評したり
仮死のまま生まれしことは知らぬ子が冬空の星見よと誘ふ
夕茜ほのかにさせる空よぎり鴉のとべり晴るる気配す
(『線描の魚』1983年より 118首)
点描のむらさきの斑のやはらかく春のプシケの舞ひたつごとし
報ひられぬ苦役もあらむわがプシケよ麦を選りつつ迷ひはなきや
もち歩くペンギン・ブックス一冊の軽さが愉しさくらの街に
笑ひつつ異議唱へゐるわれありきあとさきわかぬ夢の一こま
月桂樹の葉青きを浮かべにはとりのスープが鍋に煮えて日暮るる
好き嫌ひあからさまにして人いふに対くわれの身のややに透きゆく
つま別れしたる夫婦が兄妹のごとく暮しし古記録ひとつ
短剣をかざすメディアを演じたるマリア・カラスの肌荒れてゐき
生なましきを好まぬわれら母子ゆゑ仮面をつけて一つ家に棲む
薄荷入りの細巻き煙草をさりげなくわれに勧めぬ子は片手にて
女友達よりまきあげてきし腕輪を子はその祖母につけよと贈る
モディリアーニ展見にゆきしわれを「変なもの好きなんだな」といへり息子は
もう一つの棲みかが息子にあるらしく新鮮な顔をしてもどりくる
朝の紅茶熱きをつげば香にたちてただよふことば mariage blanc
緑濃き下蔭を舞ひ黒揚羽 危険な関係を愉しむごとし
水色の櫛もも色のブラッシなどワゴンにあふれ夏 plastic
革命のなかに息づく女らの記録読みつつ息づくわれも
家族とはいかなるものぞ子とわれを別れし夫が食事に誘ふ
夢にわれ頭をあげて群集の前に立ちゐし何なさむとぞ
私生活には満足せりとうそぶける男のこころ少しはわかる
包丁にて大き南瓜を断ち割りていきいきと売れり真昼の路地に
良寛もゴッホも激し遺したるもの読みつぎて疲れはてたり
ラベンダーの花の色せるTシャツに子は執しつつ夏も去ぬめり
誰をわが待つとしもなき夕暮を蜘蛛はかそけく巣を張り終へぬ
細く高きうたごゑ聞ゆ喪ふべきものを知りたる少年ならむ
呆気なきものかなひとり苦しみて忘れしのちのふたたびの逢ひ
香の高き寒水仙の売られをり贋ナルシスのあふるる街に
フッサールはあるかと真夜にたづねきて息子はウイスキー・ボンボンをくれぬ
ゴルゴダの丘の処刑は真昼とぞ四月七日よわが誕生日
銀髪にふさはしからむと勧めをり子はその祖母にギター習へと
白き根の網の目なすが盛り上り素焼の鉢の割れむばかりぞ
「先生……」と小さく呼びて背後よりいたちのごとく少年がくる
いくつもの川を渡りぬまさびしき心を野辺に運ぶ電車は
夜をこめて物書きをればブラウスの更紗にふれて胸乳張りくる
桃色の息を吐きつつひらきゆく薔薇と思へばなまぐさきかな
別れたる夫の電話を受くる子が「奥さん、元気」などと問ひゐる
ワッフルに蜜そそがんと壺をもつ息子の指の小蛇のごとし
口紅はつけぬがよきと人のいふ同じことをわが幼子も言ひき
階段をすれちがふとき子とわれと互みに体をわづかに避けぬ
あるときにママ、あるときにあなたと呼ばれつつわれは息子の何者ならむ
冬苺ミルクに浸すわれは子をひしと抱きしことなどはなし
父のゐぬ子にせがまれて青き凧あげしより死は延ばしきたりぬ
友だち一人、にはとり、仔猫死にたりと幼女は指を折り折り数ふ
産みし子のはたちとなれりわが生の猶予期間も終りとおもふ
雨しぶくなかを走れば自動車の室内次第に密度増しゆく
たのしかりし思ひほのかに残れどもあとかたもなし夢のディテイル
イラストに見し異星人の顔に似て鏡の中を息子がよぎる
いささかなりといへどゆめゆめわが心他人の自由にさせたくはなし
猫のためのあらを買ひもち夕暮るる駅前に逢ふ半時がほど
わが内に竜よめざめよ風はいま若葉青葉をゆらし過ぎたり
ノンセンスにもシステムありと明快なりわれも生気を取りもどしたり
つるくさのからみて茂る柵を過ぎ此の世の外をわが想ふなり
祇園祭は今日ぞとふともいひ出でてなに思ふらむわれのかたへに
何をもとめ何を告げむとゆきにしや皇子は伊勢まで姉をたづねて
ただ一度こころ安らぎやはらかき肩のくぼみに頬うめしこと
読書カードの裏を返して歌ひとつ書きとめむとす昼の深みに
人と歩むわれのかたへを幽かなる合図とともに子は過ぎゆきぬ
川明りする中空にかうもりの一つとぶ見ゆ物語のごとくに
恨むのも恨まるるのも好まねど言葉は人間の恨みならずや
命けづるごとくに書物を読みゐしもはかなき恋の過程なりけむ
捨つるべき思ひひとつを捨て切れずわが歳月の過ぎてまた冬
果ての世の鏡にうつるわが顔かエゴン・シーレの尼僧の顔は
膝がしら立てたる上に顎をのせ心の洞を覗かむとする
誓ひてしことばをつひに呪ふまで変る過程をみづからに見き
風のごと旅立つすべはなきものか西空とほく緋に染まりつつ
雨のなかすれちがひしは灰色のマントに銜へ煙草の息子
胸あつくわがなすべきを思ふなり神はねたむと読みたる夜半は
薔薇模様の色あせたれどオランダに買ひしガウンをこの冬も着る
枯枝にとまれる鳩の胸あたりめがけて朝のひかり射しきぬ
子を産まぬ者にはわからぬことありと百年ののち女もいふや
たつた一人の世の中それも愉しけれエスカルゴいくつ買ひてもどれる
ぬばたまの夜闇に香りくちなしの語るを聞きぬわれもくちなし
ひと房の葡萄の重さこの胸に堪へかねて子を産みし日を憶ふ
樹の下にみどりの木馬置かれゐてこの世ならざる風が吹きをり
かきくらし時雨るる空と見るうちにはや波立てり湖のおもては
おのもおのも湖水の色のたがへると見つつしゆけばきざす悲しみ
不意にわが顔上げしとき暗き淵のぞけるごとき子の眼にぞ遇ふ
矛の先より落つるしたたり国生みの神話はつねに猥りがはしき
うつつには逢はざる人と夢に食ふ落ち鮎舌に苦かりしかな
満月の夜の不可思議ペンをもつわが手の指のしびれはじめぬ
護国寺の森はくらみてたちまちに音羽の谷をみだれとぶ雪
他界にも共の棲家やあるならむたましひとても寒しきものを
曾祖母の寝物語の山姥はかほ美しくやさしかりけり
狼の吠ゆるごとくに泣き放つ舞台の女優を羨しこそ見れ
やはらかく老いたる典侍に憑きしもの思へば春の雨降りしきる
(『音楽』1988年より 85首)