八 百二十八頁の新聞 (承前)

 父が、ワシントンのその大きな集会とデモ行進に参加したことを、久美子は、彼自身の口から聞いて知っていた。父が亡くなる二、三年まえのことだ。久美子が学校で教える教材にワシントンのことが出て来て、自分はワシントンには行ったことがないが、教えるにはそこに行った、そこを見たという実感がないとやはり駄目、という話を父としていたときに、ことのついでのようにして、お父さんは行かれたことがありますか、と訊ねた。訊ねてから、もちろん行かれているでしょうけど、と奇妙に慌ててつけ加えた。「もちろん行かれているよ」と、久美子の言い方をそのまま引き取って父は笑いながら答えた。「ただし、一度きりだがね。あんな、役人と外交官しか住んでいないような街に行っても仕方がないと思っていたので、最初に留学したときには行かなかった。二度目のときに初めて行った。」そこから話は、行っても仕方がないような街にどうして行ったのか、になる。久美子の問いに「デモに行ったんや」と父は照れたような口調と表情で答えた。

 それから父は、それがどんな集会とデモ行進であったかを少し話した。どんな意義があり、どんなに大きいものだったかについて。しかし、誰と行ったかは何も話さなかった。ただ、そのとき、見知らぬ女の人の家に二晩泊めてもらったことはしゃべっていた。ホテルに泊まるつもりでいたら、運動の仲間がこの人の家を見つけてくれたというのだ。その女の人の名前は言わなかったが、彼女にかかわって父はいくつかのことを話した。

 ひとつは、その三十歳前後と見えた若い彼女が、そこにひとりで住んでいたことだ。着いた日は夜遅かったから判らなかったが、次の日にはそれと判って、父は少しおどろいた。

 父にあてがわれた部屋は、壁に一枚の複製らしい大きな風景画がある以外には、何の家具も飾りつけもなかったが、ベッドには新しいシーツが敷いてあったし、バスタオルのたぐいも枕元に準備されていて、父はシャワーを浴びたあと、ワシントンでの最初の一夜を快適に過ごすことができた。翌朝は、前日の疲れもあって少し遅く起きた。もうそのときには、父の宿の主の女性は仕事に出たあとらしかった。きれいにかたづけられた台所の卓子の上に、何がどこにあると書いたメモが残されていて、父はそのメモの指示に従って自分で朝食をつくって食べた。

 父が彼女と「正式」に話したのは、偉大な大統領の巨大彫像がそそり立つ馬鹿でかい記念館を訪れたあと、航空機やら自動車やら恐竜やら泰西名画やら現代絵画やら世界最大のダイヤモンドやら歴代大統領夫人のドレスやらの、西洋文明とその集大成にして最先端であるアメリカ文明の発明物、製造物、発見物、獲得物を、これでもかこれでもかと誇示して見せてくれる、正しくは馬鹿でかいと言うより、馬鹿長い博物館(これらのことばはすべて父が口にした通りだ)を駆け巡っての、おきまりのおのぼりさんツアーを一日やってのけて、食事もすませて彼女の家に帰り着いたあとだったから、夜もかなり遅い時刻になっていた。「やっとおたがい正式に会いました。これで話もできます」と父は笑いながら言い、彼女も微笑し、父のちょっとした自己紹介に始まって、二人はいろいろ話し合った。それで判ったのは、彼女は元来ニューヨークに住んでいるのだが、今はワシントンに半年契約の仕事で来ていること、ここの住まいは本来の借り主の友人がメキシコに仕事で出ているあいだ又借りしていること、彼女はまだ独身で、ニューヨークに生まれ育った、というようなことなどだった。いや、判ったことはもうひとつあった。彼女が友人から又借りしているという平屋の一軒家に、今、父は彼女と二人きりでいる、ということだ。「これには、ちょっとおどろいたね。『ひとつ家に遊女も寝たり萩と月』とかいう芭蕉の俳句があるやろう、あれがひょいと思い出されて来たね。もちろん彼女は遊女じゃないが。」父は笑った。

 彼女はもの静かな女性だった。それが父の第一印象だった。べつに無口ではなかったし、アメリカ女性らしく自分の意見も遠慮なく述べたが、全体としてもの静かな感じがした。それに彼女には何かしら翳があった。父はそれも感じとっていた。

 見ようによっては美しい人だったが、見ようによっては、醜くはないが美しくもなかった。眼、鼻、口、耳は大きめで、何より目鼻立ちのはっきりした顔だった。その大きめの顔の造作にふさわしく背も高かった。髪は薄い栗色。

 父が久美子に、その女性の容貌についてことばを費やして語るあいだ、父の顔はふしぎなほど若やいで見えた。

 彼女はやがて、ころあいをみはからったように、自分の好物だと言って淹れてくれたジャスミン茶を二人で口にしながらだったが、あなたのここでの宿泊のことを電話で頼んできたアルから、あなたが日本でベトナム戦争に反対する運動に参加して来た人だと聞いている、それでお訊ねしたいのだが——と前おきをするように言い出したあと、少しためらったふうに黙り込んでから、「あなたはどうして反戦運動に参加されて来たのですか?」と、正面きった言い方で訊ねた。

「この質問にはおどろいたね。こちらはそろそろ話を切り上げて寝ようと思っていた矢先やったから、余計おどろいた。」父はそのときの記憶が強くよみがえって来たのか、ほんとうに困ったような表情をしながら久美子に言った。

 彼女は真剣だった。そう見えた。「もう今夜は遅いから明日にしよう」とはぐらかしたり、適当に答えてその場を切り抜けたりするには、あまりにつきつめた表情をして父をみつめていた。「彼女は、あとで判ったのだが、少し近視だ。ただでさえ物を懸命にじっとみつめるように見る。そうされると余計みつめられた気になる。」父は軽く笑いながら、必要な注釈をつけ加えるように言った。

 父も真剣に答えた。父は久美子にそう言った。「お父さん、憶えていらっしやる?」と久美子は訊ねた。彼女が「高校留学」で初めてアメリカに出かけようとするまえに、その女性とまったく同じ質問を父にしたことがあった。「そのとき、お父さんは、あの戦争はまともな人間なら、まともな精神と心を持つ人間なら、黙って見ていられない戦争だからだ……そうおっしゃったことをまだよく憶えている。それから、あの戦争に反対するのに、人は左翼である必要もなければ、偉大な思想を持つ必要もない……そうおっしゃったことも、よく憶えている。これは私のほうのことだけど、お父さんはご自分がおっしゃったこと、憶えていらっしやる?」

「もちろん憶えているよ。」父はゆっくり答えた。「じゃあ、その女の人にも同じことをおっしゃった?」久美子もゆっくり訊ねた。「もちろん話したが、あの戦争に黙っていられなかった、そのまともさの根にあるようなことももう少し、私は彼女に言った。」「それはどんなこと?」と、当然の質問を久美子はつづけた。

「ひとつは、テレビのニュース番組で見た米軍機の『北爆』の画面だったと、私は彼女に言った。久美子、お前は知っているかね、『北爆』が何か?」久美子はうなずいたが、父はかまわず「『北爆』というのは、ベトナム戦争でアメリカが一九六五年二月に始めた、当時の北ベトナムの都市に対する爆撃のことだ。初めはハイフォン、そのうちハノイ」と、自分のことばに自分で解説をつけるように言ってから、「お前に私は、私が子供のとき受けた空襲のことはあまり話したことはなかったやろう。彼女に私が話したことは、お前にとっても初耳かも知れない」とつづけた。

 ……画面は、要するに、地上を覆ってぶ厚い雲のように大きく広がる煙、黒煙と白煙だった。それがテレビを点けたとたん、画面いっぱいに出てきた。たぶんハイフォンだったにちがいない、画面は爆撃を行なうB=52爆撃機から撮ったものらしかったが、はるか下に地図状に見える市街の大半を、すでに黒煙と白煙のダンダラ縞のぶ厚い雲が覆いつくしていた。いや、それを見ているうちにも、上空のB=52爆撃機から爆弾は新たに、次から次に投下される。みるみる爆弾が小さくなって行くのが見えたが、すぐ消失、次の瞬間には地図状の市街に黒煙、白煙が上がったかと思うと、それはそのままぶ厚い雲の一部となって広がる。わずか四、五秒のことだったが、画面を見ていられなくなって私は眼をそらせた。

「私は彼女にそう話した。」口調をあらためて久美子にそう言った父は、「おまえには私がなぜ画面を見ていられなくなったか、判るか?」と訊ねた。「おまえにとってはそのまま見過ごしてしまうような画面でしかないだろう。しかし、私は正視していられなくなった。」

 久美子が黙っていると、それは、同じような黒煙、白煙のぶ厚い雲の広がりのなかに自分がいたことがあるからだと、父は口調をもっと落ちついたものに変えて言った。

 ……私がそのころ両親とともに住んでいた大阪は、戦争末期、一九四五年三月の夜間空襲に始まって、六月からは、もう日本には抵抗する力はなくなったとみきわめをつけたにちがいない、昼間空襲に切り替わった米軍機による爆撃を何度も受けた。日本近海まで来た機動部隊の艦載機による空襲もあったが、大阪の市街を根こそぎ破壊し、焼き尽くし、住民を殺戮したのは、「北爆」のB=52爆撃機の先行機に当たる、当時の世界最大、最強のB=29「超空の要塞」爆撃機が三百機、四百機、五百機と来襲しての大規模爆撃だった。結果として地上を覆う黒煙、白煙のダンダラ縞のぶ厚い雲の広がりだ。それは、上空の爆撃機から見ていればただの雲だが、そう見えたにちがいなかったが、なかは火焔が燃えさかり、渦巻き、建物が破壊され、焼け落ち、人が倒れ、焼け死ぬ現場だった。

「久美子、戦争は対立する、敵対する勢力が、おたがいの持つ武力を使って戦うことだ。しかし、もうそのときには、日本はアメリカ軍のその爆撃に対するだけの武力、戦力を完全なまでに失っていた。初めのうちこそ、少しは高射砲を射ち、戦闘機も舞い上がっていたようだったが、じきに、そうしたはかない抵抗はすべて姿を消した。あれは、もう戦争ではなかった。ただの一方的な破壊と殺戮だった。私はその一方的な破壊と殺戮のなかにいた。なかは、久美子、当然、地獄だ。」

 それだけ切れ目なしに、ひと息にしゃべった父は、二人が話していた居間から奥の自室に姿を消したかと思うと、大きな新聞の束を抱えて戻って来た。「『ニューヨーク・タイムズ』の日曜版だ。ただし、現物ではない。コピーだ」と早口に解説をつける言い方をしながら、食卓用のテーブルの上に乱暴に投げ出すようにして置いた。(どうしてこんなものを)と久美子が訊ね返すまえに、父は解説を重ねた。「アメリカに一年いたからお前も知っているだろう、アメリカの新聞は日曜日にはこんなに抱えきれないぐらいの頁数のものを出す。この『ニューヨーク・タイムズ』は、これですべてじゃない。もっといろんな内容の頁や印刷物が付いていたのを捨てて、本紙と付録の日曜版誌と書評誌だけ、私のいたロングアイランドの大学の図書館にあったマイクロ・フィルムからコピーをつくってもらったのが、これだけでも、いつかためしに数えてみたのだが、本紙五十六頁、付録の日曜版雑誌四十八頁、書評雑誌二十四頁、総計百二十八頁の大部のものだ。」

 父はテーブルの上の新聞の束を手ぎわよく三つに分けながら、少し口調を硬くして、「しかし久美子、お前に今ここで言っておきたいのは、この日曜版の日付だ」と、一面の紙名の下の日付を指差した。「一九四五年六月一七日」——確認するように言った。

「そのころが日本人にとってどんな時代だったか、私はさっきからお前に言って来た。あれはもう戦争ではなかった。一方的な破壊と殺戮だったとも言った。その同じときに、平時とまったく変わらないこうしたものが、私らに一方的な破壊と殺戮をもたらしたほうの国では、日曜ごとに発行されていた。この事実を私らはどう考えたらいいのかね? 日本では小さなタブロイド判のを一枚、新聞各社が共同で出していたころだ。私は原爆投下も敗戦も、粗悪な紙切れ一枚の新聞で知った。」

 その小さな紙切れ一枚の新聞には、もちろん広告はまったくなかったが、一方、総頁数百二十八頁の「ニューヨーク・タイムズ」は、女性のファッションであれ下着であれ装身具であれ食器であれ家具であれ、広告にあふれていた。

 父は本紙五十六頁のコピーの束を繰りながら話した。まさか戦時中とは見えない派手な広告が一頁一頁に充満していて、そのあいだに記事が遠慮がちに顔を出している。本紙のコピーを受け取って、久美子は自分で頁を繰った。広告はおろか記事にしても、戦争関連は初めの何頁かにあるだけで、あとはたいてい戦争に関係ない記事だった。誰それが誰それと、あるいは誰それのお嬢さんが誰それの子息と婚約した、結婚式を挙げた——の社交欄も死亡広告欄も何頁にわたって当たり前にあったし、もちろん、株式頁もスポーツ頁も、これらも何頁にもわたっていた。スポーツ頁の第一頁目に大きく出ていたのは、どこかの競馬の大きな写真だ。その下には「メジャー・リーグ」のこれまでの結果の大きな表が出ている。

 久美子が貢を繰っているうちに息苦しくなって来たのは、そこにはまったく戦争が姿を現していなかったからだ。すべてが変わらず平和だった。世はこともなしで進行していた。

「久美子は、もうこのころにはアメリカは戦時生産をやめて、平時生産に戻していたのを知っているかね。」久美子の内心の動きを的確に読み取ったように父は訊ね、久美子は「知りませんでした」とうなずきながら正直に答えた。

 たしかに最初の何頁かには、戦争も姿を出していた。二面の最上部に、見慣れた地図があると思ったら、沖縄本島最南端の地図だった。沖縄へ観光旅行に出かけておきまりの「戦跡巡り」をすれば、かならず同じ地域の地図をくれる。久美子も生徒を連れての修学旅行で行ったときにもらった。ただ、この「ニューヨーク・タイムズ」日曜本紙二面の地図は「戦跡巡り」の地図ではなかった。日本軍壊滅によるその「戦跡」を今、現につくり出しつつあるアメリカ軍の、戦闘現場の地図だ。地図の下に記事が短くついていた。写真はなかった。沖縄戦はそのころ、もう最終段階にさしかかっている。久美子は記事を拾い読みした。「《Yeju・Dake》の急斜面の東端を歩兵部隊が五百ヤード前進中。」記事のなかのこの地名は見当がつかなかったが、地図に出ている《Mabuni》が「摩文仁」であることはすぐ判った。修学旅行の生徒の一団を連れての「戦跡巡り」で、いやでもおなじみになった地名だが、その地名のある一角めがけて、米軍の進撃を示す太い矢印が三方から伸び、一角を逃げ場のない袋小路に仕立て上げつつある——そのさまを第二面の小さな地図はよく示していた。

 久美子は見ていられない気持になった。しかし、もっとやりきれなくさせられたのは、地図と記事の横にズラリと上から並んだ婦人用の帽子、靴、スーツ、さらに鞄の専門店、百貨店の広告だった。久美子が顔をあげると、父は「この記事を読んでごらん」と、また久美子の内心の動きを読み取ったように、四面を開いて中ほどの「日本女性は戦えと命じられた」という見出しの記事を指差した。気は進まなかったが、久美子は読んだ。それがどんなものなのか、実際あったものなのか、まったく知らないが、「民兵義勇軍」の《ウシジマ》司令官が、「女性も老人も、すべての民間人は連合国軍の上陸に対して戦え」と、ラジオ放送を通じて命じた、というのだ。「女性も、必要あらば沖縄の女性のごとく、赤子を腕に抱いて銃を持って戦え。」《ウシジマ》司令官は、そうも述べていた。

 息苦しくなって久美子がまた顔をあげたのは、記事のためだけではなかった。この記事の横にも、紙面の右半分以上を上から下まで潰して、ワンピース、ツーピース、ビーチウエア、さらにはブラジャーとショーツだけの女性が元気よく踊る、百貨店の大広告が出ていて、それがほんとうに耐えがたかったからだ。

「今、私がこの新聞を持って来たのは、二国の国力の絶対的なちがいを今さらお前に示そうとしてのことではない。」しばらく黙っていた父は口調をあらため、ゆっくりとことばをつづけながら、今度は日曜版雑誌を取り上げてなかほどの頁を開き、その全面をつぶしてあった写真を指差した。

 あきらかに、上空の爆撃機から空爆中に撮った、都市爆撃の下界の写真だった。父がさっき、異常に熱意を込めて説明してくれた、テレビ・ニュースの米軍機による「北爆」の画面と同様に、地図状に見える市街地を覆って黒煙と白煙のダンダラ縞のぶ厚い雲が拡がる。写真の下方、そこには大きな港があるにちがいない、突堤らしいのが何本も、黒白のダンダラ縞のぶ厚い拡がりから突出して見えている。

「久美子、お前にこれがどこの写真か判るかね?」父は低い声で訊ねた。久美子はかぶりをふった。「大阪やで。」父は同じ低い声で続けた。「一九四五年六月十五日の大阪。私はこのあたりにいた。」父は左上方のひときわ黒い部分を指した。「午前の空襲やったが、そのぶ厚い煙の雲で覆われて深夜のように真っ暗闇やったね。真っ暗闇の中を、火焔がこの世ならぬ音と風を立てて渦巻く。さっきも言ったが、あれはまさに地獄やったね。それがどんな爆撃やったか、これを読むといい。」

 久美子は、父が指し示した写真右下の説明文を声に出して読んだ。父は黙って聞いていた。

「一都市、一都市、日本帝国の中心都市は焼夷弾と爆発物によって破壊されつつある。人口密集の火災を引き起こしやすい工業都市は、大阪(上図)はなかで最大だが、今、われらの巨大な超空の要塞機が工場と労働者の家屋に何千トンにわたって注入しつつあるゼリー状ガソリンの完璧な目標である。他の日本の都市の大きな部分は、東京、横浜、神戸、名古屋をふくんで、日本のラジオ放送によれば、われわれの戦略爆撃開始の第一年度において消滅したと言われている。そして、この攻撃は、日本が破壊されつくすか、降伏するまでつづけられ、強化される。」

「ここで言うゼリー状ガソリンというのは、のちにナパーム弾と言われたものの原型だったらしいね。お前が今読んでくれた説明文で、『投下ドロップ』と言わずに『注入ポア』と言っているのは、ガソリンをゼリー状にしてそのまま上空から私ら地上の人間の上に、それこそ注ぎ入れたからだと思う。」

 父は、久美子の「朗読」のあとを受けるようにそう言い、つづけて、アメリカで知り合った、昔ヨーロッパ戦線で爆撃手として活躍し、各地に爆弾を落として回ったという男が語ったことだが、と次のように話した。男自身は捕虜になってドイツの収容所に入っていたときに行なわれたその爆撃に、実際に参加した友人から後に男が聞いたことだ。友人も爆撃手だったらしいが、戦争末期、友人らは、フランスのある小さな避暑地の都市にドイツ兵が千人余集結している、爆撃せよ、の命を受けて、ヨーロッパ戦線で使われていたB=17爆撃機千三百機が出動、ドイツ兵の頭上に開発されたばかりのゼリー状ガソリン四十六万ガロンを投下、いや、注入した。しかし、ドイツ兵たちはすでに降伏の意思表示をして、ただそこにいただけのことだ。米軍当局はもちろん、その事実を知っていた。知っていて、攻撃、殺戮を行なったのはなぜか。いろんな理由があったにせよ、まちがいなくひとつは、新型兵器の効果実験だった。その効果実験で、ドイツ兵とともに小都市の住民も多数死んだ。殺された。

「その効果実験のあと実戦で使われたのが大阪の爆撃やった。それは、ここにある通りのことや。」父は写真の下の解説文を指して言った。「もうひとつ、この解説通りのことがあったね。それは、ここや。」父は解説文の最後の「そして、この攻撃は、日本が破壊されつくすか、降伏するまでつづけられ、強化される」の一行を指差した。

 八月十五日の日本の降伏、敗戦の前日十四日の午後、天皇がポツダム宣言受諾を告げる二十時間ほどまえに——と、父は記憶をたしかめるようなゆっくりした言い方でつづけた。大阪はそれまで受けたなかでも最大級の空爆を受けた。その爆撃で大阪城のそばの、私が子供のころ東洋一の規模だとよく聞かされていた、造兵廠という名の広大な兵器工場は完璧に破壊されたのだが、当時の私の家は、その巨大な兵器工場からほど遠くないところにあった。工場破壊の目的をもったその日の空爆で投下されたのは、いつもの焼夷弾ではなく、当時、原爆を除けば最大の破壊力を持った一トン爆弾だった。それは工場の外の住宅地にも落下した。うちのつい近くにも一発落ちて殺戮と破壊を行なったが、落下の方向がもう少しずれていれば、私はここで今こうしてはいない。私はそのとき十三歳、中学一年生。

「お父さんは疎開はしていなかったの?」

「していた。学童疎開というやつで半年、吉野の山のなかにいた。しかし、国民学校卒業で私の疎開は終り、大阪に帰って来て中学生になった。中学生からは大人で、疎開はない。ひとつ、いいことがあったよ。」父は久美子の顔をいたずらっぽい眼で見て、軽く笑った。

「大阪への最初の大空襲があったのは三月で、中学入試の直前のことや。試験問題があちこちで燃え上がってしまいよったのか、大阪の中心部が焼け野原となった事態に役人が対応し切れなかったのか、無試験で、志願者全員が入学できることになった。私も無試験で中学に入った。これは、久美子、秩序や前例好きの役人たちがやったことにしては、画期的で革命的なことだったと思わんかね。おかげで私はそのとき以来、すべての秩序はいつかは崩壊する、という度しがたい革命的信条の持ち主になった。」父はまた軽く笑った。

「しかし、久美子、今お前に言っておきたいのは、こうしたことだけやない。」父は口調を変えて前おきをつけるように言ったあと、その八月十四日午後の大空襲で、上空のB=29爆撃機から撒かれたビラについてつづけて話した。一家総がかりで掘ったお手製の穴をトタン板一枚で覆って土を載せただけのお粗末な防空壕のなかで、両親とともに震えながら数時間を過ごしたあと、地上に出た父は泥まみれになったビラを拾った。何気なく拾って呆然と立ちすくんだのは、そこに日本語で「お国の政府は降伏して、戦争は終りました」と書いてあったからだ。「超空の要塞機」はそのビラを上空から一トン爆弾とともに投下して行った。

「アメリカが、ここに書いていたことを、まちがいなく実行して行ったことが判るだろう。」父は黒白のダンダラ縞の拡がりの下の写真の説明文を指で小突いて言った。「テレビの『北爆』の場面を観ているうちに、正視していられない気になって眼をそらせてしまったのは、私が受けた空襲のことだけを考えたからではない。もうひとつ、久美子、私の記憶によみがえって来たことがあったね。」

 ……同じくそれも、上空からの空爆の状景の記憶だったが、テレビの画面ではなかった。子供のころ私が映画館で何度か眼にしたニュース映画の場面で、日本の爆撃機が重慶かどこか中国の都市を空爆しながら撮ったものだったが、記憶は場面そのものの記憶ではなかった。同じように、黒白のダンダラ縞のぶ厚い煙の雲が地上の地図状の市街地を覆って拡がる場面を、何の気なしに見ていた自分自身のことが、「北爆」のテレビの画面を見る私によみがえってきた。

 子供の私は、べつにその光景で、皇軍爆撃の勝利に興奮していたのではない。まったく何の感動もなく、ただ画面を見ていた。爆撃機から投下された爆弾がみるみる小さくなって地上に落下したあと、地図状に広がって見える市街を黒煙、白煙のぶ厚い雲が覆う——その光景を眺めていた。

 このことにかかわって、もうひとつ、私にはこだわりがあった。私はまだ幼くて新聞を読む年齢に達していなかったので、この当時の新聞の記憶はない。しかし、もし読んでいたとすれば、私が手にした日本の新聞には、もちろんアメリカの新聞ほどの豪華、富裕はないにしても、やはり、いくさとは何の関係もない記事と広告の平和がそれなりに充満していて、その平和の充満のすぐ横に、皇軍の「荒鷲」の重慶爆撃の記事が出ていたところで、私はたいして関心も持たずに読み過ごしていたにちがいない……。

「私は、アメリカは『北爆』をやめるべきだと思った。もうひとつ、日本はこの戦争に協力してはならないと思った。」父は久美子にむきなおって言った。久美子はうなずいて、「お父さんはその女の人に、そうおっしゃったの?」と訊ね返した。軽くうなずいた父は、「今お前に言ったようなくわしい話はしていない。しかし、かんじんなことは言った。そのつもりだ」とつけ加えてから、「いや、もうひとつある。そのことも私は彼女に言った」とつづけた。

 それは、ルメイ——カーティス・ルメイのことだと言って、少し考えをまとめるように黙り込んでから、父は久美子に「お前はこの人物のことを知っているかね?」と訊ねた。久美子はかぶりをふった。「名前を聞いたことがあるかね?」父は畳み掛けるように訊ねなおしたが、久美子はまたかぶりをふった。「やっぱり知らんかねえ」と、父は予期していたようにも、意外で失望したようにもとれる言い方で応じた。

「ルメイ——カーティス・ルメイは、私がさっきからしゃべって来た日本空襲のアメリカ空軍の現地司令官だった男だ」と、父は少しきおい立った感じのする口調で言った。いつも穏やかなもの言いをする父には珍しいことだったが、その口調は心のたかぶりを見せたものになっていた。「彼はヨーロッパ戦線で戦果を挙げて、ということは、破壊と殺戮で功績を挙げて、ということやが、抜擢されて新任の日本爆撃軍の司令官になった。ルメイは、それまでの作戦方法では効果が上がらないと見て取り、根本的、革命的に方法を変えたんやね。それまでのB=29爆撃機を使っての爆撃は、一万メートルというような超高度から軍事目標めがけてのもので、あまり爆弾が命中しなくて戦果を挙げられなかった。ルメイはこれを、高度千メートル、千五百メートルの超低空から無差別、無目標、無数に焼夷弾を投下して都市の住宅地を焼き尽くす作戦に切り替えたんや。明瞭に国際法違反のことやが、久美子、これはさっきも言ったやろう、中国相手に日本がやっていたことだ。ルメイはそれを大規模に、徹底的にやってのけた。一九四五年三月の東京、名古屋、大阪、神戸への空襲を皮切りにした破壊と殺戮を各地に広げて、日本の都市という都市を焼き尽くした。それについては、今、もう十分にしゃべった。」

 久美子はうなずいた。父は彼女がうなずくのを確認するように黙って見てから、少したかぶった口調でつづけた。「ルメイは戦後、回想録を書き、そのなかで『戦争に敗れていれば、自分はまちがいなく戦犯として裁かれていただろう。幸いなことに、われわれは勝つ側にいた』と言っていたそうや。私は残念なことに読んでいないが、そう教えてくれた人がいた。もうひとつ、その人が教えてくれたルメイのことばがある。『戦争はすべて非道徳インモラルだ。道徳モラルを考えたら、戦争は勝てない』。」

 ……日本空襲で自分たちが地上の女、子供、老人を殺している事実を、上空のB=29爆撃機の搭乗員はよく知っていた。千数百メートルの低空からの爆撃だ、人間が焼かれる臭いを彼らは嗅いだ。下界のさまも見えた。「あれはほんとうに地獄だった」と、搭乗員だった男が書いているのを私は読んだことがある。「あの火焔は永遠におれにつきまとうだろう」と彼はつづけ、「あれは世界でもっとも恐るべき光景だった。神よ、許したまえ、しかし、仕方がなかったのだ」と結んだ。他のひとりはこう書いた。「あれは戦争だった。しかし、B=29機の搭乗員は以後二、三年、ひとりひとり夜中に目覚めてふるえ出すことと思う。攻撃はたしかに成功した、恐るべきものとして。」

「戦後、ルメイはアメリカ合州国空軍大将、空軍参謀長として日本に来た。一九六四年も押し詰まった十二月のことだ。来日の目的は、航空自衛隊の育成に貢献した功績によって日本政府が彼に授与した勲一等旭日大綬章を受領することだった。天皇は手ずから彼にこの日本の最高位に近い勲章を授与した。」父は新聞記事でも棒読みするようにつづけた。「それからすぐ、一九六五年二月、ルメイは命令を下して当時の北ベトナムに対する爆撃——『北爆』を始めた。そのとき彼が公言したことばを、久美子、私は忘れることはできないね。ベトナムを破壊しつくして、石器時代に戻してやる。彼はそう言った。許しがたいと思った。アメリカに戦争をやめさせなければならないと思った。日本を戦争に加担させてはならないと思った。」急き込んだ口調でひと息に言ったあと、父は語調をゆるめて、「私は彼女に、これがベトナム戦争に反対する運動に、自分なりに参加して来た理由だと言った」と、ここまでの話にしめくくりをつけた。

「女の人はどう言いましたか?」久美子は唐突に訊ねた。そのつもりはなかったが、質問は久美子自身の耳にも唐突に聞こえた。父も不意を衝かれたように一瞬久美子を見返したが、「判りました、強めのdoを入れて、アイ・ドゥー・アンダースタンド、そう彼女は短く言った」と、父自身も短く答えた。

 父の言ったことでほんとうに納得したのか、その「判りました。アイ・ドゥー・アンダースタンド」のあと父とその女性は、彼女が新しく淹れなおしてくれたジャスミン茶を飲みながら少し話したが、それはただの雑談で、彼女はもうベトナム戦争についても、反戦運動についても何ひとつ言わなかったし、訊ねなかった。ことさらに避けているふうでもなかった。ただあたりさわりのない雑談をしながら、何かしきりに考え込んでいるように見えた。

 翌日の朝、出勤まえの彼女を呼び止めて、父は二夜の宿を提供してくれたお礼に、一昨日アルたちと食事をした中国料理店での夕食にあなたを招きたいと申し出た。招待を受けてくれれば、午後のバスで発つ予定だったのを夜行にして、ニューヨークに早朝着き、そのまま列車でロングアイランドに帰る、と彼女が訊ねもしないことまで父が口にしてしまったのは、招待が口先だけの儀礼的なものでないことを示したかったからだった。父は彼女に心ひかれるものを感じ始めていた。そう父は、久美子にこだわりのない言い方で言って、彼女にはふつうのアメリカ女性にない、感じとれない翳があった、それが私の心をひきつけたのかも知れないと、父は少し弁解がましくつづけた。断るかと、誘いながら父は危倶したそうだが、彼女は丁重に礼を言って、父の招待を受けた。

 中国料理店でも彼女は、ベトナム戦争のことも反戦運動のことも口にしなかった。二人はまた雑談をした。それで判ったのは、新聞広告で見つけた彼女のワシントンでの半年契約の、小さな建築会社の社長秘書の仕事はまもなく終る、社長は彼女が気に入って、これまで試用の契約だったのを正式のものにしてもっと長くいてくれと言われているのだが、やはりワシントンは、昨夜あなたがおっしゃっていたようにお役人と外交官の街、ニューヨークっ子の自分には肌が合わないところがある、あと一月でニューヨークに帰る——だった。

「だったら、また会えるね。ニューヨークならば私はロングアイランドから列車で簡単に出かけられる。」思わずそう言い出してから、父は慌てて「あなたがまた私に会う気になられての話だが……」とつけ加えた。「ええ、その気になったら、お知らせします。」彼女は軽く笑いながら父のことばに応じた。

 父はそんなことまで久美子に話した。

 最後の話は、食事のすんだあと彼女の車でモールのあたりを走った夜のドライブのことだ。ポトマック川の入江のタイダル・ベイスンの水面の拡がりのむこうに、照明に照らし出されて派手に豪勢に、全体が夜空に明るく輝いて浮き上がって見える、トーマス・ジェファーソン記念堂の巨大な白亜の殿堂を眺めながら車を走らせているとき、彼女は殿堂内部の壁に刻み込まれた「独立宣言」のあまりにも有名な一節を、「すべて人は生まれながらにして平等であり、創造者より生命、自由、幸福の追求などの侵しえない権利を付与されている」と小声でつぶやいた。そのあと、もう車が白亜の殿堂から遠く離れたころ、「この一節を、自分の国の『独立宣言』の冒頭に使った小さな国を、私の大きな国が今、攻撃して潰しにかかっている」と同じ小声で、自分で自分に言うようにつぶやいた。

「『小さな国』は、久美子、もちろん、ベトナムのことだ。」

 父は、彼女との夜のドライブの話にしめくくりをつけるように言った。

──続く 九 以下割愛──