主権在民の平和憲法
今や戦後六十年、日本は戦前とは全く違った姿になってしまい、戦前のことを想像できない人が多くなりました。戦争前から生き、戦争を体験した者にとっては、戦争は遥か六十年前の歴史の一コマとも思えるし、身近な昨日の出来事とも思えるのです。
飛行服姿の私は飛行場の愛機の側で、これから搭乗する映画の一コマが眼に映るような気がいたします。共に話をしていた友はいない。これが現実の私なのです。
戦前、日本には軍隊があり、徴兵制度というものがありました。満二十歳になると、日本男子は全部の人が決して拒否することができない徴兵検査を受け、合格した者は軍隊に入隊することを義務づけられておりました。その時、不合格で入隊しなかった人でも再検査があり、戦争が激しくなると、合格の基準も段々と下げられてほとんどの男子が軍隊に入ったのです。また、在隊年数が経って除隊した後も戦争の進み具合でさらに召集を受け、何度でも軍隊に入りました。太平洋戦争ではその数、初期では三百万人、後期になると五百万人を越す兵隊さんが軍隊に在隊したことになります。
年齢は満二十歳から一歳引き下げられて満十九歳からとなり、再召集や再検査入隊では満四十歳までの人がその適用を受けたのでした。現在、このことを知っている政治家はほとんどいないのではないでしょうか。
「我が国の軍隊は代々天皇の統率したまふところにぞある」に始まり、「一、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」とあります。これは『軍人勅諭』という明治天皇が軍人(軍隊)に下された言葉の一節ですが、この「一」というのが五つあり、それぞれに説明文があるので相当に長い文章であって、初年兵が軍隊に入って一番最初に丸暗記しなければならないものです。丸暗記できないと古年兵から制裁のネタにされ、当時よく言われた初年兵イヂメが始まるのです。今ではそんなことを知っている人は少なくなってしまいました。今や六十年も経って、私にも軍人勅諭など全く忘れてしまった遠い昔の思い出となっております。
忠節を尽くすとは、天皇に忠義の心をもってお仕えせよということです。日本国民は天皇の臣民(家来)であり、戦前、日本という国は大日本帝国と称して、天皇が臣民を支配する国であったのです。今の日本人にはとても理解できないことだと思います。
戦後、首相となった幣原喜重郎、その後に首相になった吉田茂の二人はリベラリストであったが故に戦時中は政府や軍部から排斥されていたのですが、この二人の首相でさえも「天皇と臣民」との関係を依然として強固に持ち続けておりました。
大日本帝国憲法が軍国主義、反民主主義憲法であるから至急に新憲法を作成せよ、という連合国からの日本政府への命令に対し、幣原首相は「大日本帝国憲法の大部分は民主主義に違反しない、一部変更するだけで充分」との立場を取っておりました。
次の吉田首相は内閣告示をする時の署名に「臣 茂」と書いて、自分は、天皇と臣民との関係であることを強調しました。すでに戦後の当時、私はそこまで自分を天皇の臣とは思っていなかったので「臣 茂」の署名には驚いた記憶があります。リベラリストである幣原、吉田の両首相でさえも、日本の歴史の強固なしがらみから抜け出すことはできなかったのです。
大日本帝国憲法
第一条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」
第三条「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」
神代の時代から天皇は万世一系を続けて今日まで百二十五代続いているといいますが、歴史家の中には神武天皇から十数代目までは、その存在は証明できないという説をとなえている人もおります。ただ言えることは、天皇の存在は明治時代になってからと、それ以前とは全く違ったものになったのではないでしょうか。明治以前の天皇は、国民にとっては国のすみずみまで知られているものではなく、天子様という宗教上の神、つまり形而上(形のないもの)としてあがめられていたと考えられるし、人間天皇が天子様であるという考えはなかったのではないかと思います。
明治時代になって天皇制全体主義国家を推進させるために、大日本帝国憲法により天皇と天子様を結びつけることになった、と私は考えております。このことは考えようによっては明治天皇以後、天皇にとっては迷惑なことになりました。大正天皇は精神に異常を来たしたし、昭和天皇は戦争責任の最高責任者にならざるを得なくなりました。現在でも現天皇や皇太子、それに美智子さんや雅子さんも非常な苦労を味わされているのではないでしょうか。
それと言うのも大日本帝国憲法が消滅した後でも、昭和期を生きてきた日本人は日本の歴史のしがらみから抜け出すことができないでいるからだと思います。それにしても大日本帝国憲法がなくなり、天皇制全体主義国家が日本国憲法による民主国家になったのは日本人にとって幸せなことでした。
日本国憲法
第一条「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」
この象徴天皇制については疑問は残りますが、昭和期に生きた年代の人が未だ健在である限り、あと二十年ぐらいは慎重な研究の時間が必要かもしれません。
何故かと言いますと、このことは最高戦争責任者であった昭和天皇の地位をいかにするか、そして日本国民の総意はいかなるものか、という問題から始まりました。つまり大日本帝国憲法によれば、昭和天皇の最高戦争責任はまぬがれないものであり、それでは皇民教育にすっかり染まっていた当時の日本の国民感情では絶対に承服できないことであったのです。
「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある以上、軽々に論ずることは憲法尊重の意義から見ても、よくないことと思います。ただ私としては、波乱の生涯を終えられた昭和天皇亡き後になったのですから、天皇家も早く象徴天皇制から解放されて普通の国民になるべきではないかと考えております。恐らく天皇家の現実は象徴天皇制になった今でも、大日本帝国憲法下と同様な環境下に置かれているのではないでしょうか。
現在、政府は皇室典範を改正して、女性天皇を認めようという末恐ろしい作業をしているようですが、これは天皇家に不幸をもたらすのではと私は心配しております。
天皇も国民の一人であることは当然のことであり、国民の一人としての幸せを得る権利があると思います。日本の歴史のしがらみ、大日本帝国憲法の亡霊が今でも象徴天皇の周りにうごめいている有様が感ぜられます。
一番警戒すべきことは、天皇制を利用しようとする政治家、天皇家をとりまく人々、あるいは伝統や歴史のしがらみから抜け出せない人々が、いつ天皇制を昔に戻したり、悪用したりしないかということです。
政府や政治家というものは自分たちの意見を推進するために、常に自分たちの考えに近い人を集めて検討する場合が多いのは今までの常でした。憲法論議にしても皇室典範論議にしても恐らく、そうなってゆくことでしょう。私たちはそれを見逃すことなく、正しい論議が進められているかどうかを、常に見つめてゆく必要があると思います。
今(二○○五年一月)から六十年前、正確に言うと、七十五年前から六十年前まで続いた十五年戦争、満州事変以来の日本の戦争の状態を知っている人は非常に少なくなってしまいました。
昭和十年(一九三五)、私が小学校六年生の時、満洲国皇帝が初来日、その時、小学校視察も日程に組まれており、東京では現在港区に包含されている旧麻布区にある麻布小学校が選ばれました。そして麻布区内の六校の小学校の六年生が皇帝歓迎のため麻布小学校に集まって、満洲国国歌を中国語で唱うことになり、その猛練習をさせられました。このことが満州事変から始まる日本の戦争と、私との最初の接点になったと考えております。
昭和十二年(一九三七)、中学二年生の時、日支事変(日本と中国との戦争)が始まります。「これは戦争に非ず、事変である」という日本政府の声明が記憶に残っております。この日支事変の泥沼化が続いたあげく、昭和十六年(一九四一)十二月八日、私が大学予科一年の時、太平洋戦争が始まりました。翌昭和十七年(一九四二)四月、予科二年の時、私は神奈川県日吉にある大学の校庭の芝生の上に寝ころんで空を見上げていて、見慣れない双発の爆撃機が、すぐ真近の上空五百米ぐらいの所を西に飛んで行くのを見つけました。その時には何事かわからなかったのですが、ラジオ放送や新聞により、これが日本初空襲、アメリカ空母から発進したドーリットル爆撃隊の中の一機であったことがわかったのでした。あるいはこの時のことが私の航空隊入隊との接点となったのでしょうか。そして昭和十八年(一九四三)十二月一日、学徒出陣(満二十歳以上の学生)となり、私は軍隊にはいることになりました。
「過去の戦争が誤っていたと言うならば、戦争を、軍隊に入ることをも拒否すればよかったではないか。拒否しなかった今の老人たちが、すべて間違いを起こしたのだ。それは今の老人たちの責任である」という若い人たちの言葉が現在あることはよくわかります。
それは事実、その通りなのです。
命令を拒否できない憲法、それが大日本帝国憲法であったのです。政府が国民に命令し、国民は拒否する事ができない世の中でした。現在の日本国憲法は、それとは全く違います。国民は政府から命令されないし、政府の方針に堂々と反対することもできるのです。その憲法を政府、政治家は変えると言っているのです。命令される世の中になったら、もう遅いのです。戦争にも、徴兵制度にも反対することはできません。それが、今日現在の日本の危機というものなのです。
第九条こそ平和の理想――日本国憲法を護る――
護憲か改憲かという問題が、今後にかけて日本人の生活を左右する重大問題になることは間違いないところですが、現在、政府を始め政治家の大半が改憲を当たり前のように考え、言論、報道界の護憲の意志も、反戦平和運動への国民の関心も弱く、日本の今後の動向は今やまことに心配な事態になっております。
憲法第九条「戦争の放棄、戦力及交戦権の否認」という条文が、戦後、敗戦国日本が連合国から押しつけられたものであるから、これを日本独自の憲法に改めようというのが政治家の大半の改憲理由であるのは間違いないことですが、この第九条の内容の意味を全く理解しようとしないで押しつけ憲法ということ自体がおかしいのではないでしょうか。この条文は日本一国のみならず全世界、全人類の理想とするものであり、全人類の進むべき道であることは間違いのないところではないでしょうか。また、一国平和主義で世界に貢献できないではないかという意見もおかしいと思います。全人類の平和を目的とする以上、決して日本一国だけの平和主義でないことは当然であります。
憲法前文にも「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである」と書かれております。「人類普遍の原理」とは世界中の国々に住む各民族に共通する原理ということであり、「戦争放棄、戦力及交戦権の否認」こそが世界の平和を維持することになると言っているのです。
新憲法草案が日本政府の内部で未だ完成されない昭和二十一年一月、幣原首相はマッカーサー司令官を訪ね会談した時、これからは非武装、戦争放棄こそ世界の平和を維持する唯一のものと思うと語り、これに対してマッカーサー司令官が感動して幣原首相の手を握ったという話は多くの書物に書かれていることなので間違いないことと思いますが、そうであるなら第九条の発案者は幣原首相ということも考えられます。しかし幣原首相の言葉は全人類(世界)の進むべき「人類普遍の原理」として語ったのであって、これを憲法九条という形で日本国憲法に取り入れることまで考えていたとは思えません。何故なら、その後の日本政府案は依然として大日本帝国憲法に固執して、その一部手直し作業だけに終わっていたからです。そこで日本政府案に失望した連合国は日本政府に新しく指示して現在の日本国憲法が成立したのです。
その日本国憲法は日本人にとっても、世界中の国々にとっても全く初めての理想的なものであり、各国は日本国憲法に対し敬意を表することになりました。
ここで今日の日本人は考えるべきではないでしょうか。世界中の国々が戦争のない世界の平和を求めながら、自国の安全を考えた時、軍備を持たないわけにはいかないとすべての国々が考えているのに、日本国憲法第九条を日本はすでに持ち続けているのです。日本一国だけでも、それを護り続け、そして世界に先駆けて、この精神を推進するべきではないでしょうか。世界の究極の目的である戦争なき世界平和は、この第九条の理想なくしてはあり得ないのです。アメリカが進めている武力により平和を勝ち取るという考えでは、世界に平和をもたらすことは絶対にあり得ません。戦争で人を殺せば必ず報復が続いてゆきます。現在のイラクでの戦争、それは殺人につぐ殺人であり、テロにつぐテロである様相を示しております。第九条の推進以外に平和を維持することは不可能なのです。
このことを日本人がはっきり認識しないことには、護憲を推進してゆくことは不可能に終わってしまいます。
それでは第九条の条文を書いて考えてみましょう。
第一項「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
第二項「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
改憲政治家の主眼点はこの第二項を変えて、憲法上の機関として自衛隊をきちんと位置づけるということにあると思います。しかしそれは陸海空の強大な軍隊を持つことを意味するのであって、第一項の理念に違反することになります。そして政治家のみならず、言論、報道界の論議が改憲論に押されるのは、「戦争は悪」という一番重要なことを理解できていないからです。戦争には「良い戦争」と「悪い戦争」の区別があるのではないか、国連がやる国連軍の戦争は「良い戦争」ではないのか、ということが判断を迷わせているのです。殺し、殺される戦争に「良い戦争」などあるはずはありません。すべて戦争は悪なのです。国連がこの「戦争は悪」をしっかり認識していれば国連軍の存在理由など全くないことになります。その国連とは武器輸出主要国が中心になって構成されている連盟なのですから、「戦争は悪」ということを理解できるはずがないのです。このことをもってしても、日本国憲法に絶対的な価値があることを日本は自覚し、誇りにすべきではないでしょうか。
改憲政治家や言論報道界のもう一つの誤りは、戦争とは自分たちに直接関係がなく、戦争は若い兵隊たちがやることという認識しかないことからくるのだと思います。つまり自分たちは殺し、殺される立場にないという無知で自分勝手な考えを作りあげているのです。自分が、その若い兵隊の立場に立つという意識が全くない空虚な理論を振り廻しているのです。私が初めに書いた徴兵制度のこと、十九歳から四十歳までの大部分の男子が五百万人以上も徴兵動員されたこと、そして空襲で亡くなった一般国民を含めて、あの戦争では三百万人もの戦没者が居られたことなど、彼らは全く考えたことがないのでしょうか。
戦時中のことを知ろうとしない政治家、言論人たちは、徴兵制度というものが実際にどういうものであったか想像することはできないと思いますが、戦争とは今の自衛隊のようにわずか十五万人から二十万人の人数でやれるものと思っているのでしょうか。いかに兵器が進歩したからと言っても、それでは少い、そこで徴兵制度を作らないと自発的に志願する人などあり得ません。改憲家たちは徴兵制度のことまで考えているのでしょうか。徴兵制度が個人の自由と人権を無視するものであることまで頭に入れて、よくお考えになるべきと思います。
自衛隊を災害救助などへ活用するということであるなら、これは警察、消防、海上保安庁に所属させればよいのであって、憲法上に位置づける必要は全くないことです。その場合、当然今後は強大な戦力の縮減、つまり逐次、軍縮から、戦力のない警察予備隊、消防予備隊、海上予備隊という形になるべきであります。
「それでは有事になったら、どうする。日本が攻められたら、どうする」と改憲政治家たちは言うことでしょう。
ここでよく考えてみて下さい。
この「それでは有事になったら、どうする。日本が攻められたら、どうする」ということが、今の政界、言論界が国をあげての改憲に向かいつつある原因の主要課題となっているのです。そして護憲の力が段々と減少しつつある姿となっております。しかし、この言葉は全く無意味な言葉でしかないのです。
「日本に有事が発生する、日本が攻められる」、これは全くあり得ないことなのです。
現在、アメリカの世界最強の軍事力が有事を発生させ続けているだけなのです。アメリカは戦争に勝つことによって平和を勝ち取ると言っております。しかしアメリカ以外の各国は戦争による平和は求めておりません。戦争なき平和を求めているのです。世界中が戦争なき平和を求めているのに、何故、日本に有事が発生するのでしょうか。何故、日本が攻められるのでしょうか。
憲法第九条を持っているという意味での先進国である日本は、その第九条を何が何でも護り続けるという考えを世界に表明し、アメリカの属国のような関係を切り捨てるならば、日本に有事が発生することはありません。
かつての世界の有力国アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、オランダなどが自国の利益のために植民地を求めて侵略した戦争、そして日本がそれらを見習って満州に侵出して始まった戦争など、現在ではそのような植民地戦争など、どこにも存在し得ないのです。それは戦争をして得ることなど何もないからです。戦争とは殺し、殺されるだけで得をすることなど何もないことを各国は知ったのです。六十年前に世界中はそのことを知り得たはずなのですが、未だに侵略戦争が有り得るという恐怖から抜け切れないだけなのです。
それが五大国を始めとする原爆の保有という形であらわれております。
よく考えてみて下さい。その原爆は、いつ、なんのために、使うのでしょうか。世界平和のために使うのでしょうか。それとも世界の終末のために使うのでしょうか。
原爆保有国で、この問いに答えられる国は有り得ないと私は思います。
日本の改憲政治家たちが「有事になったら、どうする。攻められたら、どうする」と言っているのは、日本の政府がすでに第九条違反をやっていることを自認しているからです。本来、第九条をもっている日本は「世界の平和を守るには、どうする」ということに努力するべきではないでしょうか。
アメリカのイラク戦争開始に際し、日本はアメリカとの信義を重んずるならば、アメリカのやりかたに対し、忠告すべきであって、賛同するべきではなかったのは当然です。ましてや自衛隊派遣という憲法違反をやるに及んでは言語道断です。そして、このイラクへの自衛隊派遣という憲法違反が恐ろしいのは、今後の派遣の先鞭をつけてしまった、ということです。即ち、アメリカの次の戦争の時もまたもや行動を共にしなければならなくなるということです。アメリカの方針に対して無条件に賛同する日本はアメリカの属国だと見なされても当然だと思います。
ここに初めて、日本は「有事になったら、どうする。攻められたら、どうする」という問題に向き合うことになるのです。
今や諸外国から尊敬の念をもって迎えられていた日本国憲法は、その信用を全く喪失してしまいました。日本人の外国旅行中や日本の国内で、いつテロが発生するかわからない危険な状態になってしまいました。そして日本国内でテロはすでに発生していたのです。北朝鮮による拉致問題、これはテロなのです。二十数年前から日本国内でテロが発生していたのでした。
アジアで日本にもっとも身近な国といえば、中国、韓国、北朝鮮が常識的に考えられますが、ここでも日本はアメリカの属国のような行動を続けているために、これらの国々から警戒の目をもって見られて参りました。
三国が日本を見る目はアメリカと行動を共にする国、アメリカの威を借りているだけの国、金持ちが貧乏人を見下す国としか見ていないのです。日本が謙虚に積極的に友好を結ぶことに努力しない限り、三国の方から日本に声をかけることはあり得ないと、思わなければいけないのではないでしょうか。
北朝鮮がせっかく拉致を認め謝罪したにもかかわらず、その後の処置が全く進捗しないのは外交のまずさ、つまり中国や韓国ともっと友好の輪を拡げていたならば、これらの国々の協力も得られたし、将来の四か国友好へのチャンスであったにもかかわらず、アメリカの助勢にばかり頼る日本の政府はそれをやらなかった、できなかった。これが拉致問題の実体ではないでしょうか。小泉首相の靖国問題など何をやっているんだ、と言いたいと思います。お気の毒なのは拉致被害者とそのご家族です。恐らく日本政府や政治家たちに憤懣やる方ないお気持ちではないでしょうか。
さて先の大戦において負けた日本はもちろんですが、勝った連合国も国民個々人の生命を守ることはできず、多くの死傷者を出してしまいました。国家という「人間がとりきめて作った集合体」が戦争をするということは、国民という個人の生命を守ることではない、ということになるのです。
日本に限って言うならば、南方では餓死、病死、あるいは軍艦、輸送船での沈没による水死、そして空襲、原爆による民間人、それは子ども幼児に至るまでの大量殺人を見ることになりました。沖縄で行われた戦争では沖縄県民という民間人が日本の軍隊により避難していた壕の中から追い出され、あるいは自決を強制されたりして何万人もの方々が亡くなりました。満州では終戦時、日本の婦女子は日本の軍隊に見捨てられ、殺されたり、自決したりしました。
今、ここに私が書いた戦争の悲劇など、今までに刊行された本の万分の一にもあたらない、ほんの数行の記述にしか過ぎないのですが、今の政治家たちは果たして、これら戦争の悲劇を書いた本の一冊でも読んだことがあるのでしょうか。
さて、私が所属した特攻隊のことです。戦争末期になって日本の戦争指導者たちは一億総特攻という言葉を私たち特攻隊員に呼びかけ、「決して、お前たちだけを死なせはしない、私たちもお前たちの特攻に続くものである」と言明しておりました。しかし特攻を実行したのは戦死した若い兵士たちだけだったのです。「天皇のおんために」とか「大日本帝国を守るために」とかいう言葉は死の直前には存在しません。死の直前には自分の家族、愛する人々のことしか頭にはないのです。特攻戦死した特攻隊員は国家のためにではなく、純粋に国民の生命を守るために突入戦死したのでした。わが軍の艦隊も飛行機もほとんど壊滅してしまったようだ。ことここに至っては、自分の家族や愛する人々を守るためには、自分一人で敵の戦力を破壊する以外にはないという決意が、特攻突入を決断させたのでした。
私はここに戦死した特攻隊員のことを取り立ててお話しするつもりはありません。しかし現在の日本の風潮、国家のために特攻隊員が喜んで特攻突入をしたという間違った考え方は正したいと思います。特攻隊員といえども特攻で死ぬ以外に道はないのかと迷いました。戦争を知らない現代の人にとって、何故特攻隊というものがあって、それに志願したのか、何故特攻突入して死んでしまったのか、このような疑問は当然と思います。
しかし敵の飛行機と空中戦で闘うとか、敵艦を爆撃するとか、当時の若い特攻隊員の訓練では未だそんなことができる技術点には達していませんでした。日本には、もはやガソリンが少なく、訓練が思うようにできなかったからです。それで戦果を挙げる攻撃方法は唯一、敵に体当たりする特攻以外にはありませんでした。そうなれば、特攻隊員にとって自分の人生の道はとざされてしまう以外にはなく、残された家族や愛する人々の幸せだけを祈るしかありませんでした。それは戦死した特攻隊員だけではありません。いずことも知れぬ南方のジャングルで餓死し、疾病でたおれた若い兵士たちも、遥か日本の方向の空を見上げながら、誰に別れを告げることもなく息を引き取ったことでありましょう。
戦場で、内地の空襲で、日本人の戦没者の総数は三百万人にも達したのです。このことは戦争を知らない現代の若い人たちにも、どうしても知って頂きたいと思います。
「今の政治家たちよ、そして言論報道の冗舌家たちよ、君たちは、そのような事実を考えて、ものを言っているのか」と私は言いたいのです。国家のためとは何だと言いたいのです。人間は国家のためにあるのではないと言いたいのです。国家は私たちの親子、夫婦、兄弟姉妹の間を引き裂き、軍隊に徴兵し、そして殺してしまったではないか、日本中を滅茶々々にしてしまったではないか、と私は言いたいのです。
日本国憲法の前文には次のように書かれております。
「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」
また、第十三条には「すべて国民は、個人として尊重される」とあります。
特攻を命令したのは参謀とか軍司令官という上級将校であり、彼らは我々下級者に特攻を命令しただけで自分たちは特攻と行を共にしておりません。一億総特攻などと言いながら、それを実行した者などいないのです。何千人という特攻戦死者を見捨てて自分たちは生き残ったのです。日本精神とか大和魂とか愛国心とかを国民に強要しておきながら、大臣、政治家、上級軍人など皆、恥をさらけ出して戦争は終ったのです。そして、それ以上に彼らは国民の死に対する責任など全く感じていないのです。これこそ国家という人工的な集合体が国民という個人の生命を守ることができない事実を物語っているのではないでしょうか。まさに、今の政治家、言論報道界が戦争について無知であり、戦争とは若者たちがやることであって、自分たちには関係がないという立場から発言していることを私は痛切に感じております。そして、かつての戦時中の政治家、上級軍人たちが国民の死に対する責任を感じない、逃げ出すということをやったのと同じく、現在の戦争を知らない政治家たちが再び無責任な言動をしていることを私は恐れているのです。
現在、六十五歳以下の方々は太平洋戦争の実態というものは体験としては全くわからないことですが、書物でお読みになった方でも過去の歴史的事実としてしか考えられないと思います。十年前の阪神大震災と最近の新潟中越大地震、それに台風による大水害が各地で発生しましたが、これらの自然現象は現段階では避けることのできない惨状をもたらします。これらのことをお考え下さるなら、いくらか過去の戦争の実体を想像することができるのではないでしょうか。
この二つの大地震と大水害は大きな被害をもたらせました。建築物だけでなく、交通機関も滅茶々々になりました。多勢の死傷者が悲劇を生み出しました。差し当たっての救援にも食糧、医薬品、毛布などが大量に必要になりました。ボランティアを始め、多くの人員が救援にかけつけなければなりませんでした。
一つの地域で発生した大地震や大水害たけで、これほどまでにも大変な物資や人力が必要であることを、日本中の人々はテレビや新聞を通じて知ることになりました。さて、このことから過去の戦争を想像してみてください。
大地震や大水害は一つ、あるいは数個所の地域の問題でしたが、戦争では、これが何百個所で同時に発生することになるのです。食糧、医薬品、毛布など何百個所に配給しなければならないのです。しかし、それはとても不可能です。すべての物資が不足してしまうのです。貯蔵してあった在庫品も戦争で滅茶々々になってしまうのです。そして大地震、大水害の何千倍、何万倍という死傷者が続出するのです。当然、救援に向かう人びとも死傷してしまいますので救援ということは不可能です。あの戦争中、各都市の空襲、広島、長崎の原爆、医薬品、医療施設も医者も足らず、負傷後、どんなに多くの人が死んでいったかを考えてみて下さい。
これが過去の太平洋戦争だったのです。その時には国家というものも、自治体というものも何もできません。できるのは家族というもの、個人というものが、自分自身で生きるための手段を見つける以外にはなかったのです。そんな戦争が今後、起こったらどうなりますか。今や独居老人や老夫婦だけの生活も多くなりました。介護を要する老人も身障者も一人で路頭に迷うことになります。
このようなことは今の政治家ではほとんどの人が考えたこともないと思います。何故なら彼らはアメリカの属国意識で、何でもアメリカが助けてくれると考えているだけだからです。
戦争における大量の死傷者、国家が戦争を始める、国民に愛国心を強要する、これは弱者切り捨てということなのです。地位の高い者、強者だけが生き残ればよいということと同じです。こういうことを各大臣や改憲を主張する政治家たち、それに公務員たちは果たして知っているのでしょうか。
記録によると八月十五日の敗戦の日からの三か月間で、六大都市だけで千人にも及ぶ餓死者があったとあります。そして十一月以降、外地からの軍人、軍属、民間人の内地への引き揚げが始まりました。その総数は九百万人に及び、家なし、職なし、食い物なしの日本に帰って、どのように生き延びることができたのでしょうか。
当時、私たちは食い物を求めて、と言っても米などありようもなく、芋などを求めてリュックサック(多くは手製)を担ぎ、知人の知人、そのまた知人のつてで農家を訪ね、何がしかの食糧を高いお金や物々交換のような形で求めていたのであり、他人の生活など考えることはできませんでした。その時、政治家、元軍人、公務員などに何ができたと言うのでしょうか。
小泉首相は首相就任以来、毎年、広島、長崎の原爆慰霊祭に参列しておりますが、彼はそこで何を見、何を思ったのでしょうか。発展した市街地を見て、「日本がこんなに立派に発展することができたのは皆様の尊い犠牲のおかげです」とでも考えたのでしょうか。「悪魔の兵器、原爆、戦争は悪」ということに思いをはせることがあったのでしょうか。原爆でも各都市の空襲でも、その悲惨な死のあとに生き残った人々の苦しみまで考えたことがあるのでしょうか。原爆被爆者など後遺症に苦しみながら次々と亡くなってゆきました。原爆による広島、長崎での即死者は約二十万人と言われますが、十年以内に亡くなった方は即死したのと同じです。その数を加えればさらに恐るべき数になります。それ程、原爆というものは罪悪に充ちた兵器であることを、小泉首相は考えたことがあるのでしょうか。そして原爆は世界を滅亡させてしまいます。それでも「戦争は悪」ではないと言うのでしょうか。
私たち戦争体験者も日露戦争のことは全くと言ってよいほど、その戦争における真実というものは知りません。もちろん、歴史上の大きな事実、「旅順攻撃」とか「日本海海戦」とかいうことだけしか知らないのです。戦死者や戦死者の家族に思いをはせるということは、遠い過去の歴史の中に埋没してしまっております。しかし太平洋戦争については過去を埋没させるわけにはいかないのです。それは「原爆――世界の破滅」という次世代全体の存亡にかかわっているからです。
太平洋戦争の惨状から日本が復興するには大変な年月がかかりました。私の生活の場である麻布十番商店街では、一望すべて焼野が原です。商店街だけでなく周辺の住宅地なども見える限りのところまで、すべての建物が瓦礫と化しております。戦後五年たった昭和二十五年(一九五○)、見渡す限りの地点にポツンポツンと全体の十分の一ぐらい建物ができたでしょうか。それも大部分は一階だけの平屋です。周辺の家が全部建ち並んだな、と思えるようになったのは戦後十年たった昭和三十年(一九五五)頃のことでした。それでも二階建ての家は半分もなく、まだまだ平屋のままが多くありました。鉄筋鉄骨のコンクリート造りの建物が建ち始めたのは、戦後二十年以上経った昭和四十年(一九六五)代になってからでした。
国家というものが国民を守るためと称して戦争を始めることは、国民の生活を滅茶々々にすることなのです。どんなに戦力を増強しても国家が戦争を始めれば、必ず多くの自国民を殺すことになります。
昭和二十年八月十五日に終わった日本の戦争、日本が敗戦したことは間違いないことですが、私はこれを終戦、つまり日本はこの日をもって以後、決して戦争をしない日としたいと思いました。そして憲法第九条が日本の目的理想であり、人類はすべて、これを目的理想とすべきと思いました。
それが、どうでしょうか。
日本は間もなく安保という日米同盟を結び、戦力を増強してアメリカの属国のような形で進み始めました。これは明らかに憲法違反を政府が堂々とやっていることなのです。そして今度は憲法を変えればよいじゃないかと言っているのです。人類の平和目的の理想を変えればよいじゃないかと言っているのと同じです。これは絶対に許すべからざることではないでしょうか。改憲政治家の目的とは第九条のみならず、国民の動向を規制する方向にもって行こうとしていることに注目して下さい。これは許すべからざる重大事と思います。これこそ大日本帝国憲法下の戦前に戻ることになるのです。国旗、国歌法制や愛国心教育などが、その現われです。
私たち戦時を生きてきた者は大日本帝国憲法と教育勅語、それに軍人勅諭で育てられました。つまり徹底的な愛国心教育です。国民は国家に奉仕せよという教育です。国家は国民の上に立つという教育です。
そして戦争が始まりました。日本が始めた戦争とは何であったのでしょうか。戦後になって、その検証が始まりました。しかし、その検証は天皇を守るためのもので、それに成功すると終了してしまったのではないでしょうか。無責任な戦争指導がきびしく検証されないままになったことが、今日の靖国問題に尾を引いていると思います。そして日本がやった戦争は正しかったという主張まで出現してしまいました。
こんな主張をやっていては、アジアの三国との友好が正しく行われないことぐらい政治家たちは気がつかないのでしょうか。たとえ正面きって言わないまでも潜在的に政治家たちが、そう思っているからこそ、アジアの三国は日本を警戒の目をもって見ているのです。
日本が憲法第九条をもっているということは、世界に戦争なき平和と友好の輪を広げるということ、そしてその先導をするという意味があるのではないでしょうか。戦争なき平和と友好を目指すところに、戦争が発生することはあり得ないのは当然のことではないでしょうか。
このことが日本の政治家は、どうしてもわかっていない、そして「防衛計画の大綱」とか「防衛力整備計画」とか決めて、日本の安全を守ると言っております。これはまさに第九条と逆の道を歩んでいるのです。このことは戦後六十年が第九条を正しく運用してこなかった、ということになります。今こそ、このことを正しく振り返り、政治家も国民も目覚めなければならないと思います。
日本国民が世界に向って、戦争なき平和と友好を真に求めるならば、「攻められたら、どうする」という防衛計画など不必要なものであることに気づかれることになると思います。そもそも防衛計画なるものを作文した人たちは「殺し、殺される」戦争体験や空襲体験の全く無い人たちであり、感覚的にも理解できない人たちです。「殺し、殺される」戦争とは国民一人ひとりが「今日は生命が助かったけれど、明日は死ぬかもしれない」ということと向き合うことなのです。もはや、それは六十年前に終わったことなのです。これから先、決して繰り返されてはいけないことなのです。それが第九条であり、戦争なき平和と友好に向って進むということなのです。
今や、私たちが進むべき道は「戦争は悪」ということを世界に向かって強調することであり、日本国憲法を絶対に護り続けることではないでしょうか。
怖れよ時代の後戻り――平和憲法が殺される――
昭和二十年八月十五日に終了した戦争と、その前に終わったヨーロッパでの戦争で、五千万人以上の人命が失われました。これは世界中で戦争があったということです。「戦争は悪」であること、そのために亡くなった人々の鎮魂のため世界中の各地に慰霊碑が建立されたと思われます。
日本でも、これまでの戦争の常識をこえた原子爆弾による死者を慰霊するため、広島、長崎では慰霊碑を建て、毎年の命日には慰霊祭が挙行され、多くの参列者が霊前に参列することで日本中で知れ渡っております。
それでは二〇〇四年(平成十六年)八月六日、広島、八月九日、長崎と、原爆慰霊式典に於ける秋葉忠利広島市長と、伊藤一長長崎市長の平和宣言文の中から抜粋して書かせて頂きます。
秋葉忠利広島市長のことば。
「米国の自己中心主義はその極に達しています。国連に代表される法の支配を無視し、核兵器を小型化し日常的に使うための研究を再開しています。また世界各地における暴力と報復の連鎖はやむところを知らず、暴力を増幅するテロへの依存――人類の危機を、私たちは人類史という文脈の中で認識し直さなくてはなりません。人間社会と自然との織り成す循環が振り出しに戻る被爆六十周年を前に、私たちは今こそ、人類未曽有の経験であった被爆という原点に戻り、この一年の間に新たな希望の種を蒔き、未来に向かう流れを創らなくてはなりません。――
日本国政府は、私たちの代表として、世界に誇るべき平和憲法を擁護し、国内外で顕著になりつつある戦争並びに核兵器容認の風潮を匡すべきです。また唯一の被爆国の責務として、平和市長会議の提唱する緊急行動を全面的に支持し、核兵器廃絶のため世界のリーダーとなり、大きなうねりを創るよう強く要望します。――
ヒロシマ、ナガサキの記憶を呼び覚ましつつ力を尽くし行動することを誓い、すべての原爆犠牲者の御霊に哀悼の誠を捧げます。」
次ぎに伊藤一長長崎市長のことば。
「このまちには、高齢に達した今もなお、原爆後障害や被爆体験のストレスによる健康障害に苦しみ続けている多くの人々がいるのです。――
アメリカ市民の皆さん。五十九年間にわたって原爆がもたらし続けているこの悲惨な現実を直視してください。
世界の超大国が、核兵器に依存する姿勢を変えない限り、他の国の核拡散を阻止できないことは明かです。アメリカ市民の皆さん、私たち人類の生存のために残された道は、核兵器の廃絶しかないのです。今こそ、ともに手を携えてその道を歩みはじめようではありませんか。
世界の皆さん。今、世界では、イラク戦争やテロの頻発など、人間の生命を軽んじる行為が日常的に繰り返されています。私たちは、英知を集め、武力ではなく外交的努力によって国際紛争を解決するために、国連の機能を充実・強化すべきです。――
日本政府に求めます。日本国憲法の平和理念を守り、唯一の被爆国として、非核三原則を法制化すべきです。――
一人ひとりが平和の問題に関心を持ち、身近なところから行動することが、核兵器の廃絶と世界平和の実現につながるのです。」
この二人の市長さんの宣言文はそれぞれ、広島、長崎の市民の心を代表するものであります。それは原爆による戦争犠牲者への心からなる哀悼の誠を捧げるものであり、原爆と戦争の悪を追求するものとして、世界中に訴え、世界の平和を心より願うものと考えられます。そして日本政府に対して、世界に誇るべき平和憲法の理念を守ることを強調しております。
小泉首相を初めとする改憲政治家たちは、原爆犠牲者や慰霊祭について真剣に考えたことがあるのでしょうか。国会答弁と同じように「それは、それぞれ、いろいろな考え方があって当然」とでも繰り返すのでしょうか。
この広島、長崎の場合と同じく、空襲により大きな被害を受けた各都市には、その存在は余り知られてはおりませんが、小さな慰霊碑が各地に建てられて、それぞれ慰霊の行事が行われているものと思われます。この各地の空襲による慰霊碑並びに慰霊祭と対照的なのが、これも特殊な戦法として世界中を驚かせた特攻隊の戦死者のための特攻慰霊碑が九州各地に建てられており、毎年、慰霊祭が行われております。これが何故、対照的と書いたのかと言いますと、原爆、空襲による慰霊祭と特攻慰霊祭とでは、その慰霊碑建立の主旨も、慰霊祭そのものの主旨も、最初は全く違っていたのではないかと思われるからです。
これは慰霊碑建立者、慰霊祭主催者、それに参列者の慰霊に対する考え方が人によっても違うと思われるし、また、初期の頃と現在とでは心境の変化もあり、一括りで言うことはできませんが、大別すると、国家が始めた戦争のために戦死、あるいは空襲による思わざる死を悼む、即ち、戦争さえなければ死なずにすんだことを悼む、「戦争は悪」を追求し、反省する慰霊祭と、初期の頃は特に顕著でありました特攻慰霊祭などの、戦死者の忠勇義烈、勇猛果敢を顕彰する慰霊祭とになると思います。もちろん、忠勇義烈、勇猛果敢を顕彰する慰霊祭に於いても、最近になると、何故戦争で死なねばならなかったのか、と国家、政府の責任を追及する人々も次第に多くなってきております。そして、この人類の未来、世界の進むべき道を考える時、悪である戦争で亡くなった人々はすべて、この時代の犠牲者であるとして、すべての人が戦争犠牲者を鎮魂する姿を示すべきではないかと私は思うのです。
かつての戦争を悪と考える人々が多くなれば戦争など起こるわけはないし、起こることは悪であるということがわかることになると思います。それは日本国、日本人だけでなく、世界中の人々が、そう思うようになればという祈りにつながって行くのです。これがこの「日本国憲法を護る」ということの意義でもあるのです。
慰霊という問題の中で、靖国神社とは何か、ということを考えてみます。
靖国神社という神社が戦没者を祀るということについては各地に存在する慰霊碑と同じ立場でなければならないし、戦没者を祀るということに於いては同じ精神であらねばならないと思います。しかし、靖国神社は独立した宗教法人であっても、神社神道による神社であり、各地にある慰霊碑とは違いがあります。各地にある慰霊碑は宗教に左右されてはおりません。
靖国神社が祀っている戦死者も、そのご遺族も宗教については神道だけでなく、佛教、キリスト教、その他の種々あると思いますが、靖国神社はそれを無視してすべての戦死者を祀ることによって、全国の慰霊碑の総元締めのような立場を自認しております。当然、祀られては困る、拒否するというご遺族の言葉もでて参りますが、靖国神社はすべて無視して総元締めとしての当然の行為としております。しかし空襲、原爆による戦没者は祀っていないのにA級戦犯は祀るという矛盾したことをやっています。私は「死者を鞭打つことなかれ」とか「善人でも、悪人でも死ねば皆、同じ佛になる」という宗教上の原理に異をとなえるものではありません。
また、靖国が問題とされないように、靖国神社とは別に戦没者全員の慰霊の場を造ろうという動きもありますが、これも国家が造るとなると結局、靖国神社と同じようなものになると思いますので、私は賛成できません。要は慰霊の真の意味を、どうするかにあるのではないでしょうか。
全国から東京観光に来る人たちが、有名神社である靖国神社を拝礼する時には、おそらく空襲や原爆死の人が祀られていないことも、A級戦犯が祀られていることも、全く問題にしないで、単純に戦争で亡くなった人への拝礼をしていると思います。何故なら記帳簿の中に名前が書かれているだけで、本体のない霊ということを承知しているからです。
霊の本体は故郷の墓の中にある、家の佛壇の中にある、あるいは戦地の土の中にあると考えるのが普通であっても、靖国神社の中にあるとは誰も考えてはいないのではないでしょうか。もちろん、神社神道による霊は、お社の中、あるいはお社の上空にあると靖国神社が考えることには別に異をとなえる必要はありません。また、一般国民は忠勇義烈、勇猛果敢の兵士の顕彰を靖国神社がしていることすら考えてはいないで、戦争のため亡くなった人の霊を慰めるためだけに拝礼していることと思います。
一般の国民の拝礼はこれでよいのですが、小泉首相の場合は、これだけでは許されません。
「心ならずも戦場に赴き、亡くなられた方への哀悼の誠をささげる、不戦の誓いをするということで靖国神社を参拝している。」
これは去る(平成十六年〈二○○四〉)十一月二十二日、小泉首相が中国の胡錦濤国家主席と会談した時に、靖国問題について発言した言葉の全文であります。
「心ならずも」とか「不戦の誓い」とかいう言葉だけを取り上げれば、これは護憲の立場の人の言う言葉であって、言葉の上だけで相手をあざむくという考え方もできないことではないですが、所詮、小泉首相は靖国神社のことも、憲法のことも、慰霊のことも、何一つわかっていないということになると思います。
「悪である戦争」に「心ならずも」参加させられて、亡くなられた方々を慰霊し、憲法第九条をしっかりと護り通して「不戦の誓い」をする、これが護憲の立場であり、小泉首相はこのことを全くわかっていないのです。
ただし、靖国神社が戦死者を祀り、その忠勇義烈、勇猛果敢の霊を顕彰するということは靖国神社の戦前からの考え方であり、それに異をとなえるということは現在、それを大事に思うご遺族の方も居られることであるので適切ではありません。このことは特攻慰霊祭に於いても全く同じで、ご遺族の方は特攻戦死者の忠勇義烈、勇猛果敢を讃美しておられます。
戦時体制下にあった時代、戦死者は国家に尽くした名誉の戦死として、すべての国民が考えるのが当然の世の中でしたので、忠勇義烈の意味を尊ぶご遺族がそのお気持ちで靖国神社を礼拝することは自然であり、あえて異をとなえるなど、してはならないことと思っております。それは「戦争は悪」以前のこととして考えればよいのではないでしょうか。また、靖国神社のことがよくわからないまま、戦争には反対だが靖国神社も大事にしたい、そして戦争に反対だからこそ靖国神社にお参りするという一般国民も多勢いると思います。
小泉首相の場合は一般国民と違って首相としての主義主張を問われているのですから、無知から出た言葉というわけにはゆきません。それでも結局のところ、小泉首相は憲法、靖国神社、慰霊について無知のまま、今日まできてしまったということではないでしょうか。
その無知から日本という国が諸外国から誤った見方をされるとしたならば、これは問題です。「戦争は悪」という立場に立って「不戦の誓い」をと言うならばよい、それなら改憲などあり得ないことなのです。靖国問題は中国の発言だけの問題ではありません。アメリカ以外の諸外国は憲法第九条を持つ日本が、それを護り続けることができるか、どうか、世界中の有力国が望むべくも実行不可能であった人類普遍の原理を、日本が如何に護り続けることができるかどうかを注目しているのです。小泉首相はそこまで考えたことがあるのでしょうか。改憲と靖国問題は不可分のこととして、早急にその信条を内外に示すべきではないのでしょうか。
憲法第十三条「すべての国民は、個人として尊重される。」、第十九条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」
靖国問題と同じような問題が、東京都教育委員会(最高指令者は石原都知事)による国歌、国旗法制の学校への強制に見られました。従わなかった先生たちの処分が大々的に行われましたが、これは第十三条、第十九条違反になるのではないでしょうか。これも石原知事の無知で済まされることでしょうか。
公務員たる者は、憲法違反をしてまでも上級職の命令に従わなければならないのでしょうか。会議、討論も全くなく、ただ黙って上級職の命令で動いてゆく、それは戦前戦中の日本中の姿と全く変わりません。
今や、うろ覚えになった軍人勅諭に次のような文章があるのを断片的に書いてみます。
「朕(天皇)は汝等軍人の大元帥なるぞ」
「上官の命令は朕が命令と心得よ」
絶対に拒否することのできない徴兵制度で軍隊に入隊すると、上官の命令には絶対服従です。これは天皇の命令と同じだと言っているのです。軍隊のみならず、一般社会でも、政府、自治体、警察の命令に国民は絶対服従を強制されました。これも天皇の命令と同じなのです。
少し戦後の時代を振り返ってみると、戦後も長い間、昭和三十年代頃までは新しい憲法の世の中になったにもかかわらず、戦前の役人根性が未だ残っておりました。警察はもちろんのこと、役所にも書類をもらいに行ったり、相談ごとをしても、役人(公務員)の態度は横柄、不親切が当たり前でした。「公務員は国民の公僕」ということが実行されるようになったのは、それ以後のことです。
今や、このような大日本帝国憲法下の天皇の存在はなくなり、公務員が国民の上に立つような態度は見られなくなりました。ですから、戦前のことを知らない年代の人には戦前の現実のことがわからないのは当然かもしれません。
天皇制全体主義国家日本は、民主主義国家になったはずです。しかるに公務員の上下関係の中では命令系統は依然として続いていると思わなくてはなりません。
石原都知事の言動とは、まさにそれです。
このように今や憲法蔑視が政治家たちの中で当たり前のように行われ、そして改憲にまで行きつこうとしております。
戦前に生きた年代の人にとって恐ろしいのは、改憲が戦前と同じ状態、即ち政府、自治体、警察というものが再び国民を下に見て、国民の行動を規制することになることです。
国旗を飾る、国歌を唱う、戦前はそれに教育勅語というものを校長先生が奉読することが義務づけられておりました。生徒も長文の教育勅語を秀才ならずとも全員、丸暗記させられたものです。しかし戦後、これは憲法違反にふれるとして取り止めになりました。それをまた、復活させてしまったのです。
憲法とは政府が国民に命令するものではなく、国民が政府の行動を規制するものであるのに、国民は政府の下にあるものと錯誤しているのでしょうか。
言論、報道の無力といいましょうか、体制寄りと言いましょうか、かつて戦時の反省をしていた新聞は、またもや同じようなことをやっているのではないでしょうか。靖国問題も、イラクへの自衛隊派遣の問題も、小泉首相の無知を容認、国旗国歌法制の学校への強制も石原都知事の無知を容認、そして第九条では国の防衛には不安だ、改憲する必要があるのではないか、この声が多くなるにつれ、新聞もテレビも護憲ということを言わなくなりました。すべて時代が変ったという感があります。政治家も言論人も戦争を知らない人ばかりになってしまったという感があります。
かつて言論、報道によって私たち戦時中の人が体制に動かされてしまった過去を踏まえて、今後も私たちは充分気をつけて世の中の動きを見つめて行くべきではないでしょうか。
特に若い人に望みたいと思います。もう一度戦争のことを、戦争が何故悪であるのかを考えてみて下さい。何千万人という人命が失われた過去を考えてみて下さい。「戦争は悪」と叫ばない限り、この次には何億人の人命が失われるかもしれないのです。
護憲か、改憲か、ということは、この岐路に立っていることなのです。
改憲を主張する政治家たちは、かつての戦争を知らない人たちです。あるいは人を命令で動かすことを当たり前と考える権力者たちです。私たち普通の人は普通の生活、つまり権力に脅かされることのない生活を求めているのではないでしょうか。
平和な生活、それは人類普遍の原理であり、昔からそれを求めて人間は生きてきたはずであったのです。それが常に脅かされ続けました。戦争は武力の増大を生み、そしてその武力は原子爆弾にまで到達してしまいました。それに終止符を打つ最後の手段であり、第一歩であるのが、日本国憲法を護るということだと思います。
私はこれまで戦争を知らない世代の方々にお話して参りました。そこで最後に私と同じ戦中を生き、そして戦後の焼土の中を生き抜いた方々にお話したいと思います。
戦後六十年、ということは私たち二十歳の青春のあと、六十年経過したということです。二十年対六十年、それは青春時代の三倍の年数を生き抜いてきたということです。それは戦後が私たちの人生の大半ということになります。戦後、食い物さがしの後、やっと職を得ても新調することのない服装、休日のない労働、うさ晴らしの洒と言っても正規の日本酒などない時代、あやしげなカストリ焼酎を屋台で呑むのが精一杯でした。
「今は平和じゃないか、今、みんな幸せに暮らしているじゃないか。もう、この歳になって先がないんだ、これから先は若い人がうまくやればいいんじゃないのか、俺たちの人生はここまででいいと思うよ」
事実その通りです。
しかし時代の流れは「歴史は繰り返す」という方向に向かっております。上から命令される世の中になってはならないのです。若い人たちは戦前、戦中のことを知りません。それを知っているのは私たち戦前戦中の年代の人たちだけなのです。今、私たちが立ち上がる、もちろん体力的には無理な人たちばかりですが、一人から一人へ戦争の悲惨な事実を語り続けてゆくことはできる、それをやるべきではないでしょうか。
今こそ、日本国民は改憲を目指す政府、政治家の動きに終止符を与えるべきではないでしょうか。
「こんな戦争をやってはいけないのだ」という叫びが世界中にあるのに、いまだに戦争はなくなりません。その戦争に参加して生き残り、「戦争は悪」を心底知り尽くした人たちもすでに過半数以上が今日までに亡くなり、現在生存されておられる方々もすべて老人となって社会の第一線から引退してしまいました。私もその中の一人であり、今の私の声は、ほんの小さな声でしかないかもしれません。しかし、それは多くの共鳴を得て大きな合唱になることもできる、そうあって欲しい、今はささやかな願望のもと、書いてみました。
一年一年を最期の一年として私の八十一歳の遺書とさせて頂きます。
二〇〇五年一月 松浦 喜一