とちぎ綾織り(抄) 〜下野の歴史と伝説を訪ねて〜

大谷にて(神に出会う異界の入り口)

 この秋、久しぶりに宇都宮市の大谷を訪れた。

 幼なじみの嫁ぎ先がその地にあって、かつて何度か訪ねたことはあったのだが、もう数年来、無沙汰ぶさたをしたままである。大谷ときくと真っ先にその友の顔が浮かび「元気にしているかな」といつも思ってしまう。言葉や文字だけでなく、心の中の想いも、その人に伝わったらいいのに……、とその時ばかりは本気で考える私にとって、その友はずっとそんな存在なのだ。

 今回、大谷を訪れた目的は、地下の採石場跡である大谷資料館の見学と、大谷寺の磨崖仏まがいぶつの参拝であった。二万平方メートルという巨大な地下空間の存在をまざまざと想起させる資料館の内部。ひんやりと冷たい空気は、清浄で心地よい。大谷石の中には、ゼオライトという消臭物質も含まれているという。だから、こんな地下にあってもカビ臭さなど、一切しないのだ。

 もう二十年も前の話になるが、この地下採石場跡を舞台に「山海塾」という前衛舞踊団の公演があった。

 当時、宇都宮に住んでいた私は、海外、特にヨーロッパでの評価が高いその踊りを一目見ようと興味津々で出かけたが、駐車場には栃木ナンバーより東京ナンバーの方が圧倒的に多かったのには驚いた。

 地下空間の舞台は、幻想的な舞踊のテーマにマッチして、深い印象の残るものとなった。広い採石場跡の階段を上がりながら、鮮明にその時の情景が網膜によみがえり、一瞬時間の感覚を失った。

 音響もよいこの場所で、合唱劇や音楽劇などできたらどんなによいだろう、などという妄想がふと脳裏をよぎる。

 大谷寺へ向かう途中で通った景観公園の白い岩壁には、赤く紅葉したツタの葉がその岩肌をい、コントラストが見事だった。

 そしていよいよ磨崖仏との対面である。本尊とされる千手観音を始めとして、三体ずつ三種、計十体の岩肌に彫られた仏たちは、いったい何を物語るのであろうか。

 もちろん、そこには仏教――特に千手観音に代表される密教的な要素が強いもの――への深い信仰があった事は間違いない。しかしなぜ大谷なのか、ただ単に大谷石が彫刻しやすいからか……、否、それだけではないだろう。

 久しぶりに訪れて改めて感じたことだが、ここは〝異界〟への入り口なのだ。地下採石場も、異空間であることを充分に感じさせるものではあったが、地下まで降りずとも、むき出しになった凝灰岩の岩壁を一目見ただけで、そこがこの世にあらざる美しさと気高さを感じさせるものであることは、誰しも認めることだろう。赤いツタをあしらうまでもなく、白い岩肌だけでも充分に美しい。

 人々はそこに神の存在を見いだし、神と仏を共にまつり、両者の力をたたえ、救いを求めたのではなかったのか。特に仏教の修行者たちは岩肌に仏の姿を刻むことで人々を更なる祈りへと導いたに違いない。

「観音信仰とは、西洋のマドンナ(聖母)信仰とも通ずるものですよ」

 大谷に詳しい考古学者の橋本澄朗氏から聞いた言葉が私の胸に留まっている。確かに、性別を超越した存在とされる観音菩薩ぼさつはむしろ、圧倒的に深い母性を感じさせる。マリア観音という仏像さえ何かの写真で見た記憶もある。

 聖母マリアは、つまりマドンナである。歌手岩崎宏美の歌う『聖母たちのララバイ(子守歌)』は、女性の中の大いなる母性をテーマにした名曲だろう。

 先の私の幼な友達は、ある病いの後遺症で、両足の自由と視力のほとんどを失った。しかし彼女は持ち前の懸命さで、二人の子供たちを育て上げた。

 その想像を絶する苦労を思う時、私は大好きな『聖母たちのララバイ』を思い出す。できることなら、彼女のために歌いたい曲なのである。

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思川――上流編(残る伝説に思い馳せ)

そんな美しい呼び名があるとは、知らなかった。

子供の頃の私にとって、目の前を流れるそれは、ただ「大川」でしかなかった。

もっとも、東京人(江戸っ子)にとっては「大川とは隅田川」であることも大人になってから知った。

「大川でカジカ捕りをすること」が、子供時代の最高の楽しみの一つだった。

 川底の岩や石にへばりつくようにしているその小さな川魚は、子供でもちょっとしたコツさえ覚えれば、容易に捕まえることができたのだ。

 水中眼鏡をかけ、手網を持って水の中にもぐるのである。岩の隙間すきまに追い込んで捕えたそれは、ちょうど海にいるハゼに似て、目玉がキョロンとして愛くるしいことこの上ない。

 河原の石ころを集めて、水際をき止め、小さな池を作るとそこに捕まえたカジカを放した。石の隙間に頭を突っ込もうとするその必死なしぐさを、じっと見ているだけでも飽きることを知らなかった。

 いっそ、この夏の日が永遠に終わらないでほしいと心の底から思った。

 思川――上流部を粕尾川とも呼ぶが、その源流は海抜一二七四メートルの地蔵岳という。

 山のふもとからきだした清水が、いくつもの小さな流れと合流しつつ、徐々に水量を増し、谷々を削りながら流れ下る様を思うと、何やらドラマチックな気分になる(そういえば「大河ドラマ」という言い方もあるくらいだ)。

 いつか「思川の源流をさかのぼる旅」を企ててみたいと心の中で思っていても、結局計画倒れで終わりそうである。

 さて、思川の上流部には下流部にも負けないくらいドラマチックな伝説が残されている。

 思川を下っていくと、小山の方へ出ることはよく知られているが、逆に思川を遡上そじょうすると旧粟野町の粕尾の里に出るのである。

 その中粕尾の河原の一つに、昔から「赤石河原」と呼ばれているところがあった。中学生の頃、友達と一緒に一度だけ、そこで遊んだ記憶がある。

 その名の通り、赤い――というより赤褐色の石が、ゴロゴロと白い小玉石(花崗岩)の中に混じっていたのを思い出す。

「この赤い石って、血の色なんだってね」

 突然、友の一人が言い、他のみんながギョッとなって固まった。祖父から聞いたという伝説を友が語るところによれば、「昔々、遠いところから大勢の侍が敵に追われてここまで逃げてきた。でも逃げきれなくて、とうとうこの河原で全員一緒に切腹したんだって」と、その友はおなかの辺りに手を当てて、苦しそうな表情で言った。

 それだけでも充分に怖かったが、大人になってちゃんと調べてみると、さらに背筋が冷たくなった。

《今から約六百年前の康暦二(一三八〇)年、南北朝の争いに巻き込まれた小山氏の祇園城が、関東管領足利氏満の大軍に攻められて落城し、主の小山義政は思川の川伝いに逃れて、上流の粕尾城に立てこもった。しかし、粕尾城も破られ、この赤石河原で一族と共に自害して果てた》(『下野の伝説』『栃木の伝説』他より)

 そういえば、城があったという切り立った岩山の近くに、私の実家の畑もあって、子供の頃、父母や祖母がそこで仕事をしている時、私は城跡などとはついぞ知らずに、無心に遊んでいたものだった。

 夫を追って小山から逃げてきた義政夫人の芳姫もその侍女じじょも、違う道筋から思川のすぐそこまで来ていながら、その水音を耳にしつつ山中で殺されたという。

 城跡の近くに幾つも並んでいた石仏たちは、もしかしたらその供養のために建てられたものだったのか……。

 子供時代の記憶を辿たどりながら「知らぬが仏」とはいえ、様々な人々の無念の思いが込められているであろうこの思川に、改めて思いをせるのである。

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聖地・日光〈一〉(開山挑戦三度目の謎)

 日光の春は、まだまだ遠い。まさか四月に入って大雪に見舞われるとは……。

 去年の四月一日は、思いがけない肩すかしで、オーバーコートが却って邪魔なほどだった。二度目の今年は日光駅に下り立った時、手にしていたコートを慌てて羽織った。

 なぜなら、みぞれ混じりのぼたん雪が、重たげに舞い落ちていたのだから。

 毎年、新暦の四月一日は「開山」と言って、日光開山の祖・勝道上人の祥月命日に当たる。上人の座像のある開山堂の中で、法要を営むのである。

「輪王寺門跡導師のもと一山僧侶総出仕により」との説明の通り、日光山内十五の寺院の住職が総出でお経を唱和することとなる。

 二人の声が重なっただけでも読経の重みはいや増すのに、十人以上ともなるとそれこそ荘厳である。

 あたかも、モーツァルトの「レクイエム」か、「第九」の合唱を聴いているのに近いような、音楽的陶酔さえ覚える。

 風が死者の魂なら、声は生者の魂だと兼ねてから私は感じていた。経文の意味は一切分からずとも、魂の擦れ合う音楽を聴いているだけで、心が落ち着き徐々に満たされて行くような気がしてくる。

 名前を呼ばれて焼香台の前に立つ。香をつまもうとして指先が震えた。緊張感のためだけではない。肌寒い御堂の外は、激しい吹雪に変わっていた。

 つくづく、山の気候の過酷さを思う。

 今から約千二百四十年前の春、若き勝道は二荒山(日光男体山)の頂を目指して初登頂を試みた。しかし、天候の激烈な変化に阻まれて、志を遂げられぬまま下山となったのだった。

 その様子は、一般に『二荒山碑』と呼ばれる空海作の碑文に描かれている。(以下み下し文)。

《神護景雲元年四月上旬をってみ上る、雪深く岩けわしくして雲霧雷迷し、上ることあたわざるなり……》

 旧暦の四月上旬は、新暦では五月に入っているとはいえ、山にはまだ残雪が深く岩肌は凍っている。濃霧となり、また雷さえ鳴ったというのだから、とんでもない悪天候だったことになる。

 それから十四年後の同じ時期に、勝道は再度登頂を試みるが、これも失敗。そして更に一年後の三月(新暦四月)に三度目の挑戦でようやく志しを遂げるのである。

《まさに山頂に至りて、神の為に供養し、以て神威をあがめ、群生の福をゆたかにすべし(中略)我もし山頂にいたらざれば、また菩提ぼだいに至らじ……》

 男体山頂に神を奉ることによってこの世の人々に幸福をもたらしたい。もしそれが叶わなければ、自分はすべてを捨て去るとまでの悲壮な決意でもって、勝道は三度山に挑んだのである。

 しかし、ここで不思議に思うのは、なぜ前二回で失敗した五月上旬よりも、更に過酷であろう四月を選んだかということである。確か二、三年前だったと思うが四月に入ってから日光連山で遭難事故が複数あった。そのニュースを聞きながら改めて冬山の厳しさを思い知った。それにしてもなぜ冬山より容易に登頂できるであろう夏山を勝道一行は選ばなかったのか……。 

 そして更に疑問なのは、そもそもなぜ、十五年という年月を費やさなければならなかったのかということである。――「空白の十余年」と、呼ぶ人もいる。

 これは、勝道にれ込みその事蹟じせきを碑文に記録した弘法大師・空海でさえ、あずかり知らぬことであったのか。

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