ゆふだすき

     一

 

 いや、驚いたよ君、何ものほほんで歩いて居た訳ぢやなかツたが、不意に横ツ手から、

「あら、まア、梅原さんぢやアありませんの。」

 とかんの高い、調子の走ツた、化生けしやうの者の叫び声だ。何者と振返ツて見ると、銀鼠ぎんねず頭巾づきんを深く黒のコートに羽衣ショール、ひしよろツて居るのだから、正味は解らなかツたが、しやなりとした姿からう、只者ではない。見たやうだが、思出せないで居ると、向うは馴れ馴れしく、

「まア、お珍らしいぢやアありませんか。」

 と近く、ぱツちりとした涼しい眼でぢツと見る。此方こちらは少からず狼狽まごついた形、変な調子で、

「失礼だが誰方だツたか……。」

「あら、お忘れなすツたの。じつが無いのねえ。私は下谷したや若狭屋わかさやに居ました時分……。」

「むゝ、今ちやんか。」

「おほゝゝゝ、昔の名を仰有おツしやると恥かしうござんすわ。」

「や、うだツたかい。様子が変ツて了ツたから、すツかり見違へたよ。」

 たゞに様子ばかりぢやない、何から何まで変ツて了ツたのだがら、見違へる方が至当もつともだ。僕がそれや、の時には君にも苦い異見を喰ツたが、お笑ひ草さ、例の小房こふさね、彼女あれと一つうちに抱かゝへで居た、其時分は小今こいまと言ツた女だ。

 古い談話はなしで、何しろう一昔前、今ぢや夢さへも見た事がない。跡形もなく忘れて居たのが不意に這麼こんな出幕でまくになツたので、何だか妙な心持になツたが、しか廻遇めぐりあツた処で、うのうのといふ仲ぢやないのだから、其儘別れる気で、当座の挨拶をして居ると、

矢張やツぱし気が差したんですね。今日は朝ツから、何だか嬉しい事が有るやうな心持がしてならなかツたんですが、此処處で突如だしぬけにお目に掛られようとは思ひもしませんでしたわ。本当に何年振でせう。でも思ひは届くものですねえ。」

 とうだ。妙な事を言ふとは思ツたが、寄らず障らず、

「いや全く此処ではうとは思掛けなかツたよ。不思議な処で珍らしい人に遇ツたもんだね。」

 と言ツて、別に人目もなかツたから、

「今ぢや何処の奥様おくさんだね。」

 とわざと言ツた。すると訳もなく笑出して、

「おほゝゝゝ、這麼こんなで奥様に見えますかね。生憎と未だ独り者よ。」

「はて、う間違ツたのだ。其様子で独り者なぞとは、勿体なさ過ぎて本当にされないぢやないか。」

「まア、いゝやうな事を仰有ること、それはね、相手は降るほど有りは有りますけれどもね……。」

「ふむ、あんまりお高いんで……。」

「とでもして置きませうか。未だ御存じないうちは、何とでも言ツて置けますからね。おほゝゝゝ。まア、それはそれとして、あの不意に這麼こんな事を言ふのも何ですけれど、実は貴方には、種々いろいろとお談話はなしもしお願ひもしたい事が前から有るのですが、何うでせう御迷惑でも一寸、宅へお寄りなすツて下さる訳には参りますまいか。あの、つい此先なんですが。」

「え、家へ。」

 と何だか様子が知れぬから、流石さすがに少し躊躇した。それと見て取ツたか直ぐに、

「なに些少ちツともお心遣ひの要るやうな家ぢやありませんの。ほかにお差合ひもなんにもありません。貴方、本当に後生ですが……。」

「だが私に何の用だね。」

「まア、那様そんな事を仰有らないで、お馴染甲斐がひ一寸ちよつとねえ、あら、何を考へていらツしやるの。」

「なにそりや、幸ひ用もないんだから、寄るには寄ツてもいがね……。」

 と少しは好奇心を先に立ツた。相手は舌を置かせず、

「まア、有難い事。本当に、這麼こんな嬉しい事はありませんわ。何しろ路中みちなかでお談話はなしも出来ません。それぢや御案内を致しませう。さア入らしツて下さいまし。」

 といそいそ先に立つ。何だか訳が解らない。少々つままれの姿ぢやあツたが、丁度身體からだは明いて居たし、内々面白づくが手伝ツて、何も談話はなしの種位の気で、一処に出掛けたと思ひたまヘ。何でも五六町、只有とあ新開しんかいへ入ツて、二度ばかり曲ツたと思ふと、未だ真新らしい門構への、庭に小広く、手の入ツた植込を越して、奥に気の利いた二階家が見える。其処だ。表の標札に大川いま。

 見た処でういふ向きの住居すまひとは思はれぬ。それも案外だ。さては被囲かこはれだな、と早合点に見渡した途端、

「此処でございますよ。本当に汚穢むさくるしい処で。」

「や、恐入ツた。大方這麼こんな始末だらうとは思ツたが、大分いゝ者を捉まへて居るね。」

「あら那様そんなのぢやアないのですよ。これでも今度、自分で買ツて入ツたのですよ。」

「ふむ、自分で、と言ふと?」

「おほゝゝ。まァ、お話申しますからお入りなすツて。」

 潜門くゞりを開けると、花崗みかげ短册石たんざくいしに、左右を敷松葉、掃除が届いて、塵一つない。ばらばらと出迎へに来た十三ばかりの小婢こをんなと、三十一二の見苦しからぬ女中、

「お帰りなさいまし。」

 続いて、

「お帰りなさいまし。」

 此方こなたは心易げに、軽く、

「はい只今。あの、お客様をおつれ申したよ。」

 と振返ツて僕に、

「さア、何うぞ此方こちらへ。」

 少々処か、いよいよつまされの姿になツて来た。玄関、中の間、座敷の模様全く不相応な普請のさまに、猶更不思議立ツてもあれ導かれるまゝに座に着くと、やがて上の物を脱捨てゝ来たお今は、座敷へ入るからはや走込かけこむやうにして、

「本当に能く入らしツて下すツた事。いゝえねえ、這麼こんな時が何うかしたら来る事があるだらうかとあてにしないやうにしてもつい当にして居たのですが、うして思掛けなく来て戴かれる事にならうとは、全く思ツて居ませんでしたの。貴方は御存じありますまいけれど、私う、這麼嬉しい事はありませんわ。」

 見ると裁下したておろしの黒縮緬の羽織に、深川鼠の縞御召しまおめしの小袖、銀杏返いてふがへしに薄化粧して、年は三つ四つも若く、何処となく垢抜けのしたのに、昔の影を残しては居るが、見馴れた其頃のおもかげとは、さながら別の人のやうに変ツて居る。

 いづれにしても腑に落ちないので、

「併し私には何だかまる了解のみこめないね。」

「おや何がえ。」

 とお今は先づ微笑みながら訊く。

「何がと言ツて、何から何まで解らないづくめだ。第一まアお今さんの今の身からしてまるで読めないね。」

「おほゝゝ、まア何に見えませう。」

「然うさね、萬更堅気でもなしと言ッた処で此のていだらう。そりやぬしのあるには決まツちやア居るが……。」

「あら、先刻さツきも独り者だと言ツたぢやありませんか。」

「むゝ、う言はれると猶の事だ。何だか野暮の事を訊くやうだが、全體今何をしておいでだね。」

あすんで居ますのさ。御覧の通りで。」

「はてね、そして。」

「それツきりなの。なんにも有りはしませんわ。」

「さアいよいよ解らないね。」

「何もむつかしい事は有りはしますまい。兎に角うして暮して居るんですもの。これでも御覧なさるよりは生帳面きちやうめんですよ。そりやア泥水上りにしちや可哀想な位で。おほゝゝゝ。」

「解らない。矢張り解らない。」

「おほゝゝ、大層気になさるのねえ、居心がお悪いやうなら申しますがね、しやうは最う後家さんで……。」

「むゝ、少し当りが付き出したね。」

「今ぢや元の素人しろうとですの。お差障りはないのですから、其処だけは御安心なすツて下さい。おほゝゝゝ。」

「なに、然ういふ訳なら、有ツた処で仔細はない。むゝ、それぢやうに足を洗ツて了ツたのだね。併し折角然うなツたに、あんまり早い別れやうぢやないかね。今の若さに何といふ事だらう。様子は知らないが、お気の毒の事だね。」

「はい、まア然う仰有おつしやられて見れば那様そんなものですけれど、なに、然うまで思合ツた仲ぢやなし、言はゞお互ひの便利で同棲いツしよになツた人なんです、いゝ塩梅あんばいに仕事が当ツて、めきめき、儲けたのを其儘で残してツてくれたのですから、お蔭は、十分に受けて居ますがね、なに、亡くなる時にも、ほかにくれて遣る先もないから、残らず貴様に譲ツて遣る。無理に俺ん処へ来た埋合せに、これから浮気の仕放題をしろ。うせ又、濡れ手で掴んだ泡沫錢あぶくぜにだ。つかへるだけ面白く遣つて見ろ。と恁う言ツて逝ツた位なんです。一咋年をとゝしですよ。台湾熱でね、急に取られて了ツたのです。貴方、私は台湾までも流れて行ツたんですよ。此方こツちへ舞戻ツて来たのはつい此頃の事です。」

「それぢや其迄の間には、随分面白い芝居も打ツた事だらうね。」

「はア、そりや種々いろいろの風にも吹かれましたよ。相応の苦労もしましたわ。何しろう十年越しですからね。」

「むゝ、訳のありたけ仕尽してかね。」

「おほゝゝ、飛んだお綱ですね、なに、気の利いた事は一つだツて有りやしませんよ。御覧なさい。未だに恁うツて一人ぼツちで居る位ですもの。」

「ではう跡釜を探して居るといふのかね。」

「いえ最う其方そつちは沢山ですから……。」

「当分お休みかね。」

「さア、昨日までは然うでしたがね……。」

「先は請合はれないのかい。や、油断がならない。」

「本当に御用心なさいよ。おほゝゝゝ。」

「はゝゝ、なに、此方には那様そんな心配はないから安心さ。」

 と這麼こんな事にはなツたが、全體何で此処へ招かれたのか、其方は未だ一向に解らない。僕は只旗色を見て居たのだ。

 

     二

 

 其中そのうちに酒が出る。さかなは並ぶ。何か手を尽した事で、一寸は帰れないやうな始末になツて来た。それにしても、何を言はれるのか、様子が更に知れないので、それとなく切ツ掛けを待ツて居ると、お今は其中そのうちやや改まツた形で、

「まア、何からお話し申しませうね。」

 と少し考へて居るやうに見えたが、

「貴方も御存じの通り、以前の商売にも不向ふむきな位でしたから、這麼こんな時に巧く訳なしに出て来ないから困るんですよ。なにね、厚顔あつかましい段に掛けちやア、相応に場数も踏んで来たんですから、随分阿婆摺あばずれの気ぢやア居るんですけれど、うかすると地金が出て来るもんですからねえ……。」

 と何か怪しく言にくい様子で、不意に、

「まア一つ戴きませう。」

 と進んで盃を受けて、其儘と干した。

 此方こツちを見て、笑ひながら、

「何だか酷くむつかしいやうだね。」

「はア、一寸出やうがないもんですからね。」

「むゝ、全體何の事だい。」

「待ツていらツしやいよ。せかれちや猶仕様がありませんわ。おほほゝゝ、何だか生娘きむすめのやうに、極りが悪いから可笑しいぢやありませんか。」

 と言ツて急に投げ出したやうに、

「馬鹿々々しい、這麼こんな事におこついて何うなりませう。恁うして焼継やけつぎだらけの身體からだでもツて、那様そんなお人柄な事を言はれた義理ぢやありませんね。面倒ですから最う、色を付けないで露出むきだしに言ツて了ひませう。」

「むゝ、何だか口上が馬鹿に長いが、全體これから何うしようと言ふのだね。」

 言ふと事もなげに、

「これから貴方を口説くどかうと言ふのですよ。」

「なに、口説く?」

「はア、飛んだお談話はなしでせう。」

「然うさね、何う間違ツたか知らないが、此方こツちにやとんと支度したくがないのだから、何とも挨拶の仕様がないね。」

「ですから取付きやうがないので、這麼こんなにうぢついて居るぢやありませんか。」

「第一口説かれる覚えがないからね。」

「おほゝゝゝ、でも此方に覚えがあるんですもの。仕様がありませんね。」

「はゝゝ、冗談ぢやない、調戯からかひやうが些少ちとくど過ぎるね。」

「あれ、本当なんですよ、これでも。」

「最ういゝ加減にしないかい。馬鹿々々しくツて談話はなしにもならないぢやないか、いくら火移りが早いと言ツたからツて、昔は只の見知りごし、今の先不意とツて、未だ、久し振の挨拶さへ切れない中に、あんまり手軽過ぎて、其方そツち御了簡方ごりやうけんかたつもられるやうな談話はなしだ。まさかに那様さう安ツぽいのでも無からうと思ふが、余り盛付けられると此方もつい言ひたくならうぢやないかね。」

 と笑ひに紛らしながら、少し突込んで言ツて見た。聞くと居住居ゐずまひがら、何も冗談でないやうな風で、

「然うでせう、そちらぢや御存じない事ですから、然うお思ひなさるのも御無理はありません。ですが貴方、此事は、昨日や今日に始まツたのぢやないのですよ。今になツて這麼こんな事を言ふと、取ツて付けたやうにもお思ひなさるでせう。身體はさんざんに持崩して了ツて、勝手な時に這麼事を言はれた義理ぢやないのですけれど、可哀想だと思ツて下さい、これでもねえ、の時十六の、未だなんにも知らない時分から、うして思込んで未だ忘れずに居るのです、折がなかツたし、縁がなかツたので、打明ける間もなくツて居るうちに、何うでせう、貴方、最う一昔になツて了ひましたわ。」

 と何か知らず俯向うつむいた。最う口先ではなくなツて来たので、流石さすがに又驚いたが、言はれるほど猶更に了解のみこめない。

「むゝ、変な、思ひも付かない事になツて来たぜ。訳は解らないが兎も角承らう。今も言ツた通り、覚えのない事だから、何とも御返事は出来かねるがね、一體まア何うしたといふのだい。然うまで言ふからにはまさか冗談ではあるまいがね。」

「冗談処ですか……冗談なら貴方、もツと気の利いた言ひやうが有りますわね。本当に先刻さツきお目に掛つた時は、あゝ未だ縁が尽きなかツたかと、心ぢやそれこそ手を合はさないばツかりでした。来て下さると仰有ツた時、これをしほに、とてもと胸に思ツて居た事を、出来るなら何うかして、と直ぐに思付きはしましたものの、お目に掛ツた今日が今日、最う、恁う言出されようとも思ツて居ませんでしたが、余り長い事胸にたゝまツて居たもんですから、ついこらへられないで口に出して了ひました。貴方、恁うなると愚に返ツてねえ、何だかわくわくするばかりで、思ふ事の十一もまるで言へませんの。笑ツて下さい。これで二十六ですよ。おまけに相応に塩も踏んで来たのぢやありませんか、何だかれツたくて癇癪が起ツて来さうですわ。」

「だがね、其方そちらぢやまア然うでもあらうがね、聞く身の此方こツちぢやアまるで初耳だからね、いきなり然う無暗に浴せ掛けられちやア、面喰ふばかりで全で始末が付かないさ。考へなくツても知れて居る。全で此方の気も知らないで、だしぬけに那様そんな事を言出すのは、あんまり醉興が強過ぎるぢやないか。」

 お今は其儘にぢツと見たが、

「あゝ、貴方は私がほんの浮気で這麼こんな事を言ツて居ると思ツていらツしやるのですね。」

「よしんば、然うでないにした処がさ。」

「そんなら最う少し身を入れて下さるだらうに、いくら這麼こんな身だからと言ツて、貴方も又余りですわ。」

「まア何方どちらにしろさ、てんで本当にはされないぢやないかね。」

「いゝえ、そりや御無理とは言ひませんよ。何うせそれは然うでせうけれど、些少ちツとは、些少だけでも此方の気が知れさうなもんだのに、矢張やツぱり思ひやうが足りないのかしら。」

「むゝ、仰有る事は大分殊勝だがね。」

「貴方、何うしたらござんせう。」

「然うさ。まアいゝ加減に笑ツて了ふのだね。」

「まア、何故然うでせう。最う浮かれてお談話はなしをしては居ない積りですが、まさか底にたくみでもあるやうにはお取りなさいますまい。」

「なに、那様そんな事より、実は頭からまるで解らないのだよ。」

「ですから、最初から今初まツた事ぢやないと言ツたではありませんか。それでなくて這麼こんな事が、なんぼ何でも遇ツたばかりで言はれるもんですか。何の、出来心なら貴方、這麼餘計な氣を揉まないでも、何処にでも好きな者が選取よりどりのやうに転がツて居ようではありませんか。為ようと思ツたら那様そんな事に不自由をする身ではありません。」

「勿論然うさ。言ふがものはない。何も物好きに、這麼こんな処へお鉢を廻して来るには当らないと思ふ。何か以前からとかお言ひだツたが、これと取留めた談話はなしすらした事のない私に、何うの恁うのといふそれからして解らないぢやないかね。」

「それですよ、今から言ふと可笑しいやうですがね、最初お面識ちかづきになツた時から、貴方は最う人の物、手を出す事も出来はしませんでしたし、羨ましいとは思ツても、那様そんな方の気は出もしませんでしたが、忘れもしませんの房ちやんの亡くなツた晩私も見舞ひに行合はして居ましたが、の時貴方が枕元で、臨終いまはの房ちやんに仰有ツたお言葉を聞いてからの事なんです。あゝ、思合ツたとは言ひながら、恁うまで真実の方があるものかと、涙がこぼれるやうに真から身にみましたが、あれから以来自分でも何うかしたのかと思ふやうに、貴方の事を思はない日はなかツたのです。それは最う本当に自分でも抑へきれないで居たのですが、場合が場合で、それに未だ十六になツたばかりのずぶ子供で居た時なんでせう、一人で気ばかり揉んで居るうちに、貴方は最う遠くなツてお了ひなさる、私は濱の方へ行ツて了ふやうな事になツて、それから先は、自分で自由にならない身で、彼方あツちへ縛られ、此方へ縛られて、到頭今までお目に掛れなかツたのですもの、覚えが無いと仰有るのも御至当ごもつともで、此方には又、無理にも強く出られない引け身があるのですから、本当に何うしたらば、此事が、貴方のおなかに入るやうに出来るだらうかと、実は先刻さツきからそればツかりに気を尽して居るのです。」

「むゝ、まアそれにした処がさ、大抵最うかびが生えるまで、一途に那様そんな事を思ツて居る柄でもなからうぢやないか。知らないで言ふのも不躾だが、それからこれまでには、那様事よりはもツとのある面白い達入たていれがの位あツたか知れないと思ふがね。」

「はア、それは最う何も隠すには当らないから申しますが、随分浮気も仕尽しましたから、思ツたよりは種々いろいろな目にも遇ひました。けれども其度たんびに思出されるのは貴方の事ばかり、貴方だツたら恁うぢやあるまい、あゝ、這麼こんな焦躁あせりながら何故う貴方に遠くばかりなツて行く事だらうといつも思はない事はないのです。と恁ういふと何だか、勝手な事を言ツて居るやうに聞えますが、あゝ何うしたら私の真の心を言ツて見る事が出来るでせうねえ。」

 変ぢやないか。これまで類のないのにも随分出遇ツたが、未だ這麼こんな目に遇ツた事はない。冗談には応答あしらツて居ながら、先刻さツきから見て居ると、何も飾ツて居ない確かな影が何処にも動いて居る。此処に至ツてやゝ退避たじろがざるを得ないのだ。それとはなしに、

「そこで結局、何うしようと言ふのだね。」

「まア、何をお聞きなさるの。解ツて居るぢやありませんか。お察しなさいよ。」

 と言ツて不意と見て、

「ですが然う言ツたら、さぞ厚顔あつかましいやうにお思ひなさるでせうね。」

「はゝゝ、ひどく又其方そのはうを遠慮するぢやないかね。なアに、今更那様そんな事を洗立てした処が仕様があるものか。」

「あら、本当に。」

「だが返事には少し狼狽まごつくよ。」

「だからさ、察して下さいと言ふのですわね。」

「まアさ、それにしてもさ、些少ちツと此方こツちの了簡も見据ゑるがいぢやないか。何しろ些少ちツと向不見むかうみずだぜ。第一那様そんな事を言出すには、相手の気心を最う少し知ツてからにするが可いぢやないか。私が今甚麼どんなに変ツて居るか知りもしないで、那様そんな安價やすねで思切ツておろして了ツて飛んだ器量を下げたら何うするのだ。」

「いゝえ、それは外の人になら、何で這麼こんな事を言ふものですか。貴方にだからこそ何も最う考へないで言ふのですわ。それは私のやうな這麼者ですけれど、誰にもこれまで、此方から手を下げた事はありはしません。思込んだ弱身といふものは這麼ものだらうかと、自分ながら口惜しくもなる位ですもの。いゝえ、正味を言ひますがね、あんまり此方の気を汲んで下さらないと、実の処腹が立つやうな気にもなるのですわ。いゝ加減最う目は見えないんですからねえ。」

「なに、此方だツて浮気で行くなら文句はないのだ。二つ返事でお辞儀は不躾、御意ぎよいしさ、何の事はありやしないがね、最う那様そんな上づツた方は、今ぢやまるで気がなくなツて居るからね、一寸融通がむづかしいのさね。なんなら異見の一つも様子によツちやア言ひたい位に、うから質実ぢみになり切ツて居るのだからねえ。」

「それこそ猶更ですわ、私の願ふのも最う、那様そんな空ツ調子で行かれる事ぢやないんですもの。」

「ふむ、それも一つ聞いて置かう。」

「はア、聞いて戴きませう。ですが貴方、私がねえ、しか顧ひが叶ツたら、此先何うするとまア思ツていらツしやるの。」

「解るものかね、それが解る位なら、這麼こんな餘計な口を利いて居るものかね。」

「おほゝゝ、まア、それから先へ言ふのでしたわね。」

「はゝゝ、何だか独りで了解のみこんで居るぜ。性が知れないだけに気味が悪いね。併し兎も角地道に聞かう。で何うするといふのだね。」

「聞いて下さい、私はね、假令たとひ此思ひが此儘届いたからと言ツて、まるで其上の慾は何も有りはしないのです。貴方も勿論最うお一人の身ではお有んなさるまいし、外にお楽みのかたもないとは思ツて居もしません。其中そのなかへまア割込んで、無理な願ひを押付けにするのですもの、それも這麼こんな身でなかツたなら、何とか取りやうもあるでせうけれど、今更何が言はれませう。貴方、此場になツて這麼事を言ツたら何う又お思ひなさるかは知りませんが、私はこれまでに、それこそ数ばかりは掛けましたが、真から思込んでうと言ツたのは、遂に一度ありはしないのです。貴方の事を思出すのも只それなので、いつでもねえ、たゞの一日でもいゝから、何うかして貴方のやうな方に一言ひとこと優しい事を言はれて見たいと、それなのです、今の願ひも只それなのです、同棲いつしよにならうの、一人占めにしようのと、那様そんな大それた事を何思ひますものか。様子がうの気前が何うのと、那様事も最う通過ぎた昔で、只最う今迄一度も受けた事のない人の真実を、一度は身に受けて見たいばかりなのです。あゝ何だか理に落ちて、お聞きなさるのも厭におなりでせう。自分ながらも愚癡ぐちツぽくなツて、言ふ事がみんなこれですもの。平素ふだん這麼こんな私でもないのですが、何うしたのでせう、何を言ツて居るのか解らないやうな事がありますわ。」

 ぢツと其儘に眼を着けて居た僕は、其時思はず知らず、

「最う可い。何も能く解ツた。それほどまでに思ツて居てくれたとは、聞くまで全く知らなかツたよ。併し此私が那様そんなに思込んで居るほどの者だか、何うだか、請合ふ事が少しむづかしい談話はなしだ。」

「いゝえそれは最う、何と仰有ツたツて聞くのぢやありません。それでなくツて誰が貴方、下谷したやの時から今迄も思続けて居られるものですか。」

「用心おし、間違ふぜ。」

「えゝ、那様そんな事なら何とでも仰有いまし。あゝ併しまアこれだけ言ツたので安心しました。百分一ひやくぶいちでも私の心が通じたと思へば、最う昨日とは、心持が違ひますからね。さア最う一ツきり息を抜きませう。貴方、お一つ。」

 と小盃こさかづき、銚子を取りながら、

「貴方も併しお変りなすツたのねえ。此頃の土地へは」

「最う一向いつかうさ。なに彼處あすこばかりぢやない。然ういふ方はとんと知らずに居る。」

「何ですねえ。御卑怯な、お隠しなさるだけ罪が深いわ。」

「はゝゝ、それ処か。此頃は後生願ごしやうねがひだ。だから今の談話はなしだツて内々珠数を繰ツて聞いて居た位だ。」

「おほゝゝゝ、那様そんな珠数なら、いつでも切ツて見せますわ。」

「や、恐ろしい。まア精々お手柔かに願はうよ。」

「呆れますね。那様そんな風ぢやア、まるで本当の事は仰有いますまいね。」

「何をさ。」

「お佯惚とぼけなさるな。それだから先刻さツきも、人が一生懸命になツて居る傍から、那麼そんな事ばかり言ツていらしツたのだわ、憎らしい。」

「はゝゝ、那様そんなに気が付いて居るのなら、の時何とか言ツて教ヘてくれるが可い。此方こツちは何も知らないから、まごつきながら間の抜けた返事ばかりして居たのだ。」

「仰有いよ。本当に人の悪い。」

「はゝゝ、這麼こんな事ばかり言ッて居れば罪はないが、何しろ今日は思ひも付かない事で、何だか恁う昔の夢を見て居るやうな気持がする。全くね、何処で誰に遇ふか解らないもんだね。」

「其上飛んでもない事を言はれたんですもの。ですが、たまには這麼こんな目にもお遇ひなさるのが可いのですよ。平素ふだん罪滅つみほろぼしにね。」

「はゝゝ、這麼こんな罪滅しならいくらあツても可いね。」

「おほゝゝ、宜しければいくらでも持合はして居ますから。」

「では腹一杯にまア頂戴して見ようか。意地の汚い処で。」

那様そんな事を仰有ると又持出しますよ。今度は最う、はぐらかしだけぢや聞きやアしませんから、其積りで些少ちツとは御用心をしてお置きなさいまし。」

「や、又続け打ちか、今度は最う討死だ。」

「巧い事を。何うして手に負へるもんですか。間際へ行ツたら、又逃げられるは決ツて居ますわ。」

「なに、いつまでも那様そんな逃げを張ツて置られるものか。第一其方様そちらさまが承知が出来まいと思ふがね。」

「あれ、私が最う、何うもがいたツて仕様がありますものか。残ツて居るのは貴方の御挨拶だけぢやありませんか。」

「むゝ、それぢやし、聞かなかツたとしたら何うするね、綺麗に笑ツて了ツてくれるかね。」

「まア、貴方は那様そんなに訳なしに見ていらツしやるの。聞かれなかツたらそれまでで引下れるやうな、那様そんな根の浅いのぢやないのですよ。貴方、口でかう言ひますけれど、恁うまで十年越し思続けて、何う思切る事が出来ませうか。勝手なやうですが、察して下さいましと、言ツたのはそれなんです。」

「むゝ、併しこればかりは無理押し付けに出来る事ぢやない。何うでも又聞かれなかツた暁には……。」

「えゝツ、そ、そんなら貴方は……。」

「なにさ、なにさ、此方こツちは未だ、何とも挨拶をしたのぢやないぢやないか。其暁は何うすると聞いて居るのだ。」

「まア、那様そんな事を聞いて何うなさるんです。」

「可いから考へだけを聞かして貰ひたい。さア何うする其時は。」

「なに、然うすりや此儘で。」

 と無理に微笑むと見せて、沈んだ影を眼縁まぶちに隠したが、

「死ぬまで片思ひで居るばかりですわね。」

「むゝ。」

 と僕はやゝ行詰ツた形で、思はず目を下にした。途端に耳を打ツて、さながら思入ツた声音こわねに、

「あゝ貴方、本当に最う、何処まで人をおいぢめなさるの。」

 時の拍子であツたか何か知らぬが、僕は此時、言ふ事の出来ぬ心地を覚えた。敢て其悽婉せいえん目眦まなじりが、例の蘭燈らんとうもとに恐ろしい力を持つ那様そんなはう肌合はだあひのものぢやない。顔を見合せたが、最う冗談口も利かれない気になると、調子も妙に変ツて、

し、お前の心持は十分に腹へ入ツた。さアそれぢや、本気になツて些少ちツと話合はう。」

「えッ、本当。」

 と声に迫ツて、躍立つ気勢けはひに、お今は眼を輝かしたが、何を言ふかと思ふと不意に、

「貴方、今日はうお帰し申しませんよ。」

    *   *   *

 事情が通じまいと思ふから、有りの儘を君に話したのだ。去年の春の事だがね、其処で些少ちと妙だが、久し振で上京して来た君に改めて僕のさいを紹介する。此室ここへ連れて来るが、君今言ツた女がそれだよ。

 待ちたまヘ。恐らく僕もめとる筈で居た、桐原家の令嬢の事を君は必ず何とか言ふだらう。地位と言ひ、才藝と言ひ、殊に品性の上に何の缺點もないの人を捨てゝ、何で物好きに這麼こんな古物ふるものを拾ツたのか。兎に角にまア見てくれたまヘ。

 指には絲道が着いて居るだらう。首に枕胼胝くるまだこもあるだらうがね、談話はなしで想像したやうな女だか何うだか、見ての上で聞かうぢやないか。なに、馬鹿な、何処どこに酔興でかかあを呼ぶ奴があるものか。

 

(明治三十九年二月}