安愚楽鍋

   初編自序

 

世界各国の諺に。仏蘭西の着倒れ。英吉利のくひだふれと。食台ていぶるに並べていへど。衣は肌を覆ふのうつわ。食は命を繋ぐの鎖。心の猿の意馬止こまとめて。咲いた桜の花より団子。色即是空色気より。餐気くひけさきの佳美肉食。牛にひかれて膳好ぜんかう方便。仏徒家ほとけの五戒さらんパア。うそまこと内外ないぐわいを西洋風味に索混あへまぜて。世に克熟よくなれし甘口とは。作者が例の自己味噌てまへみそ家言かげんもあしの不果放行はかどらぬかの小便の十八町。慢々だらだら急案即席調理。刻葱きざみねぶかの五分ほどもすか測量つもりのタレ按排。生肉なまの替りは後輯あとにして、一帙ひとなべはしとり給へと。文明開化開店の。告條ひきふだめかして演述のぶるになん

  明治四歳よつのとし辛未の卯月初の五日

  東京とうけい本石街ほんこくちやう萬笈閣ばんきうかくの隠居に於て

                     牛の煉薬黒牡丹の製主

                        假名垣魯文題 印

 

  標目へうもく従初編至貳編

 

○西洋好の聴取    ○商個の胸会計

○堕落個の廓話    ○藪医の不養生

○鄙武士の独盃    ○文盲の無茶論

○野幇間の諂言    ○半可の浮世談

○諸工人の侠言    ○人車の引力言

○生文人の会談    ○話家の楽屋落

   是に洩れたるは嗣編おひおひに著すべし

 

牛店雑談 安愚楽鍋初編全 一名いちみやう 奴論建どろんけん

 

                  東京市隠 假名垣魯文戯著

 

  開 場

 

天地は万物ばんもつの父母。人は万物の霊。かるがゆゑに五穀草木鳥獣魚肉。是が食となるは自然の理にして。これを食ふこと人の性なり。昔々の里諺ことわざに。盲文爺ももんぢゝいのたぬき汁。因果応報けがれを浄むる。かちかち山の切火打きりびうち。あら玉うさぎも吸物で。味をしめこの喰初くひぞめに。そろそろ開化ひらけし西洋料理。その功能も深見草ふかみぐさ。牡丹紅葉のときをきらはず。しゝよりさきへだらだら歩行あるき。よし遅くとも怠らず。往来ゆきき絶ざる浅草通行どほり。御蔵前に定舗ぢやうみせの。名も高籏たかはたの牛肉鍋。十人よれば十種といろの注文。昨晩ゆうべもてたる味噌をあげ。たれをきかせる朝帰り。生のかはりのいきがり連中。西洋書生漢学者流。劉訓に似た儒者あれば。肖柏めかす僧もあり。士農工商老若男女。賢愚貧福おしなべて。牛鍋うしなべ食はねば開化不進奴ひらけぬやつと鳥なきさとの蝙蝠傘。鳶合羽とんびがつぱつばさをひろげて遠からん者は人力車。近くは銭帰り。薬喰くすりぐひ牛乳みるく乾酪かんらく(=洋名チーズ)。乳油ちゝあぶら(=洋名バター)牛陽たけりはことに勇潔いさぎよくかの肉陣の兵粮ひやうらうと。土産に買ふもいと多き。人の出入の賑はしく込合こみあひの節前後御用捨。御懐中物御用心。銚子のおかはり。お会計。お帰ンなさい入ラツしやい。に流行は昼夜をおかず繁昌かくの如くになん。されば牛はうしづれの同気もとむる肉食群集ぐんじゆ席を区別わかちしありさまを。一個ひとり々々に穿うがちて云はゞ まづざつとしたところがこんなものでもあらうか

 

  ○西洋ずき聴取きゝとり

 

▲ 年ごろは三十四五の男いろあさぐろけれどシヤボンをあさゆふつかふと見えてあくぬけていろつやよくあたまはなでつけかそうはつにでもなるところが百日このかたはやしたるを右のかたへなでつけもつともヲーテコロリといへる香水をつかふとみえてかみのけのつやよくわげはかくべつおほきからずきぬごろのみちゆきぶりにたう糸二タ子のわたいれまがひさらさの下タ着うらははりかへしのがくうらなるべしカナキンではりたるかうもりがさをかたはらへおきくるしいさんだんにてもとめたる袖時計のやすものをえりからはづしてときどきときを見るはそつちのけじつはほかのものへ見せかけなりたゞしくさりはきんのてんぷらと見えたり○となりにうしをくひてゐるきやくにはなしをしかける 「モシあなたヱぎう至極高味しごくかうみでごすネ此肉がひらけちやアぼたんや紅葉もみぢはくへやせんこんな清潔なものをなぜいままで喰はなかつたのでごウせう西洋では干六百二三十年前からもつぱら喰ふやうになりやしたがそのまへは牛や羊はその国の王か全権と云ツて家老のやうな人でなけりやア平人の口へは這入はいりやせんのサ追々我国も文明開化とツてひらけてきやしたから我々までが喰ふやうになつたのは実にありがたいわけでごスそれを未だに野蛮の弊習へいしうと云ツてネひらけねへ奴等が肉食をすりやア神仏しんぶつへ手が合はされねへのヤレけがれるのとわからねへ野暮やぼをいふのは究理学をわきまへねへからのことでげスそんなゑびすに福澤のかいた肉食の説でも読せてへネモシ西洋にやアそんなことはごウせんこの人ござりませんをごウせんござりますをげスなどいふくせあり彼土あつちはすべて理でおしてゆく国がらだから蒸気のふねや車のしかけなんざアおそれいつたもんだネ既にごらうじろ伝信機てれがらふの針の先で新聞紙の銅板をほつたり風舩ふうせんで空から風をもつてくる工風くふうは妙じやアごうせんかあれはネモシかういふ訳でごぜヘス地球の図の中に暖帯と書てありやす国があるがネ彼所あすこが赤道といツて日の照りの近イ土地だからあついことはたまらねへそこで以テ国の人が日にやけてみんなくろん坊サそれだからその国の王がいろいろ工風をして風舩といふものを造ツて大きな円い袋の中へ風をはらませて空からおろすとそのふくろの口をひらきやすネ。すると大きなふくろへ一ぱいはらませてきた風だから四はう八方へひろがツて国の内がすゞしくなるといふ工風でごスまだ奇妙なことがありやす魯西亜をろしやなンぞといふごく寒い国へゆくと寒中は勿論夏でも雪が降ツたり氷がはるので往来ができやせんそこでかの蒸気車といふものを工風しやしたが感心なものサネ一体いつてへ蒸気車といふものは地獄の火の車からかんがへ出したのださうだが大勢をくるまへのせて車の下へ火筒ひづゝをつけてそのなかで石炭をどんどんたくからくるまの上に乗てゐる大勢は寒気をわすれて遠道とほみちの通行ができやせうナント考へたものサネ。何サこのくれへな工風は彼土あつちてあひはちやぶちやぶ前でげスこの大千世界の形象かたちせへ混沌としてまりの如しと考へたはサ。その以前は釈迦如來が須弥山しゆみせんなづけたところが西洋人はまんまんたる海上を渡ツて世界のはてからはてまでを見きはめたのだから釈迦坊も後悔したさうサそこで以て海をわたる工風を西洋じやア後悔術といひやすはナヲヤモウ御帰路おかへりかハイさやうならヲイヲイねへさんなまで一合。ごぶも一処にたのむたのむ

 

   ○堕落個なまけもの廓話くるわばなし

 

▲ 年は二十四五いろなましろくあたまのかみはたくさんにていてうにゆひはなしかの圓てうまがひおめしのあゐみぢんの小そで一ツどう着はさだめし女の物をなほしたりとおもはれ二三日ゐつゞけでぼんやりしたすがたすこしやつれを見せるたちなりぎんぐさり十六ほんのたばこいれしやうのあやしきにしちどやきぢよしんばりのきせるねつけはぞうげのかゞみぶたにてこれも仕いれものとみへたりときどきうでをまくりてうでまもりのぎんかな具をひけらかしつれとふたりさしつおさへつのみかけ目のふちをあかくしてきいろいこゑをたかてうし 「半ちやんゆふべの世界はおいらはじつにふさいだヨ彼楼あすこへは三四さんよたび登楼あがつたことのあるのだからけんのんだといふのに竹坊がむやみにあがらうといふからおめへは一件のとこへ脱走してしまうしおいら一人ほかへあがるのもおもしろくねへから野面のづであがりこんだところがあひにくと二会うらまでいつた遊女をんながおいらに出ツくわせたらうじやアねへかこいつは不見識だとおもつたけれどひきつけのときごまかしてわきを向いてゐたからお茶屋が気をきかしてヘイおめしかヘトはやく切あげたのでその場はきりぬけたが番新ばんしんめがおいらの顔を見おぼへてゐやアがつて。ひけて座しきへ這入るとすぐにモシヱぬしやアよくきなました人がわるウざんすヨこれサお茶屋の人このきやくじんはあとの月の三日に田町の弁天平野から三人一座で二会うらに来なましたお客だますヨト敵にこゑかけられたからうしろを見せるのも外聞げへぶんがわるいとはおもつたが馴染金散財にやアかへられねへこれをきくがいなや小便にいつて。その帰り足にはしごをトントン。はきものヲトみづからこゑをかけて茶屋の女を。おきざりまいねんさつサとござれやといふ身で飛出して茶屋まですたすたけへツたところが女中が跡から追ツかけて来てなにかお気にさはツたことでもございましたかは。ヱヽコウ。いゝじやアねへか。ダガノおいらのやうに年びやく年中吉原なかばかりはいりこんでゐちやアかほがわるくなつてさきがこわがつて相手にしねへから嶋ばらへでも巣をかへやうとおもツてゐるのサなんだツても丸三年といふもの一トばんもかゝしたことがあるめへじやアねへかそれだから宝槌楼さのづちのことばの「かうなんしあゝなんし」から鶴泉つるいづみの「くされてゐる」「だしきつてゐる」平泉ひらいづみじやア客を古風にぬしといひサ、「なんだます」「ぢれツてへ」といふことから松田屋のつの字ことば。かどゑびのはやことに岡本の「くるはヨ」「ゆくはヨ」金瓶大黒きんべいだいこくじやア「あゝやだヨ」といふことばをふうじられたシ尾彦をひこの朝のむかひのはやいのヤ大文字屋たいもんじやの気のかるいの。伊勢六の大見識だいけんしきの内ゆるみまでを知ツてゐるシ。岡田屋のおいらんたちは傾城水滸伝けいせいすいこでんの種本で甲子屋きのへねやのしん造衆ぞうしゆが客のくるかこねへかを茶屋に念をおすことまでしようちしちやア楽屋が見どほしで客になつてもおもしろいあそびはできねへからずつと世界せけへを見やぶつて新造買しんぞうかひもして見たが次の間あそびはがうせい気ぼねのをれるものだしいまの壮年わかサにあんまり老人やきまはりじみるからそれもして藝者と出かけたが組で八十はつゞかねへ。うら茶屋ばいりの汐待しほまちもたいぎだからグツト色気を去ツて幇間をとこのこを買ツてあそんでも見たが彼奴等きやつらはどうも友を呼でならねヘヨこのあひだも新孝しんかうをさそツて金子へ夕飯やしよくを喰ひにいくとあとから喜代寿に正孝しやうかう序作じよさく露八ろはちなんぞといふ流行はやりツ子がどかどかとおしこんで来てかけがへのねへ大楮幣おほさつをとうとう一枚こすらせられたぜモウモウなか(吉原)はごめんごめん。しかし今夜はさとの名残に。かの一件のとこへ出かけるつもりだが。もうひとばん附合ふべしサなに又株ダ。イヤサ実にこんやで根ツきり葉ツ切りほんとうにこれぎりこれぎりさておてうしもおつもりダ

 

   ○鄙武士ゐなかぶし独盃ひとりのみ

 

▲ としごろは三十ばかりいろあくまでくろくあたまは自びんのくさたばねもつともそうがみの火のつきそうなみだれがみくろもめんのもんつきとんつくぬの子に小くらのよごれくさつたるはかまみぢかき一ぽんがたなのつかのよごれをいとふかあるひはつかいとのほつれをかくさんためかしろもめんにてぐるぐるとまきつけつんつるてんのきものをうでまくりしてしやにかまへよほどゑひがまはりしと見へてわりばしのさきにたれのつきたるを二ほんつかみて手びやうしをうちながら大きなどすごゑにて 詩「衣はかんにいたりイそではアわんにいたるウ腰間えうかん秋水しうすゐ。鉄をきるべしイ。人ふるれば人をきり。馬ふるれば馬を斬るウ。十八まじはりをむすぶ健児の社ア引。ヤ是ヤ女子をなご酒ヱもてこずかイ。こやこやそしてナなま和味やつこいのをいま一皿いちめへくれンカ。アヽ愉快じや愉快じや トあたりをきよろきよろみまはしてとなりにゐたるさむらひをじろり見やりくづしたるひざをたてなほし ハア失敬ごめんコヤ女子をなごなにを因循いんじゆん(=マゴマゴ)してをるか勉強(=ツトメ)して神速しんそく(=スミヤカ)にせい トいひながら又こちらのさむらひにうちむかひ 君牛肉は至極御好物とすゐさつのウつかまつるが僕なぞも誠実せいじつ(=マコトニ)賞味いたすでござるイヤかゝる物価沸騰の時勢に及ンで割烹店かつぽうてん(=リヤウリヤ)などへまかりこすなんちふ義は所謂激発げきはつ(=ヤケニナル)の徒でござる此牛肉チウ物は高味極まるのみならず開化滋養の食料でござるテ。イヤ何かとまうして失敬。御めんコヤコヤ女子をなご一寸来ンかコヤ。あのうナ生肉せいにくをナ一斤ばかり持参いたすンで。至極の正味を周旋いたイてくれイアヽ酩酊きはまツたヲヽ生肉かゑゝはゑゝは会計はなんぼか じんく「愉快きはまる陣屋のしゆゑんなかにますら雄美少年引 トはなうたをうたひながらあらあらしくかたなをさげたけのかはづゝみをつかにかけて女子をなごまたくるぞ トほうの木ばのはきものがらがらおもてへたちいで うた「しきしまのやまとごゝろを人とはゞアヽヽヽヽあさひにイ匂ふウ山さくら花アヽヽヽ引

 

   ○野幇間のだいこ諂諛おべツか

 

▲としごろは三十二三かほほそながくせいのひよろりとしたをとこあゐみぢんのおめしちりめんたうざらさはへりばかりの下タ着にそろへきぬちゞみのくりうめにそめたはおりへちひさく五ツところもんをつけ上しうはかたのふながうしのりのつよいおびをしめまがひさんごじゆのをじめをつけたるくろざんの一ツさげねつけは角にてからしゝをつくりたる古風なさいくきせるは石州ばりのてんぷらなりときどきまゆげをあげさげしてくちをつぼめて物をいふくせ有 ○つれはかねてとくいのきやくとおぼしくあさくさの地内あたりでゆきあひとりまきてはなれぬやうす のづ八「モシ若旦那どうでげスこのせつはでへぶ柳橋辺りうきやうへんでおうかれすぢじやアごぜへせんかヱヽモシあまりまよはせすぎると罪になりやすぜ柳のすぢはたれでごぜへスはくじやうはくじやうヲツト忘れたり忘れたり二三日めへに嶋原の晩花から飛札ひさつ到來すなはちたねはこゝ有馬ありまの人形筆ツ トくわいちうのかみいれよりうやうやしくふみをだしてみせかけ ヱモシあの娼妓らんはあなたにやアつとめをはなれた仕うちでげスぜイヱサ油をかけるなんぞといふのはひととほりのお客でげスあなたとせつがその中はきのふやけふのことじやないツマアおきゝなせへし此間このあひだ内證の千臆ちおくさん 晩花楼主人の俳名をしかいふ へ甘海かんかい宗匠からの伝言をたのまれやしたから一寸顔を出したつひでに楼上おにかいめへツたところがわちきを見るとおいらんが野図八さんうきさんと同伴いつしよかへと次の間へかけだしてきなすツたからわちきがいちばんだまをくらはせてヘイ浮さんはいまさめや 清元栄喜の宅引手茶やなり へよつておいでなさるからすぐに跡からモシおいらん御愉快ごゆくわい。なんぞお饗応おごんなさいと十八番おはこてつをきめるとアヽまつてくんなヨとなにかそはそはしながら新造しゆうに耳こすりサわちきは尾車さんや連山さんのところをまはつてくるうちに金花楼の珎味たつぷり手形の「びいる」が一ぽんとあらはれやした。ところでしやアしやアと御馳走てうだいの間がおよそ西洋時計一字三ミニウトばかりのひまだから娼妓らんいはく。のづ八さんうきさんはどうしなましたらうあんまりひまがとれるのだヨといはれてハツと胸にくぎ露顕あらはれぬうちこつちからきりあげ揚貝あげがひちよんちよんまく。ちよツくらわちきがおむかひに。ゆきますさいづちたばねのし廊下とんびもをのしてスタスタにげてきたさのサツサ。モシこんどはあなたとでもおともでねへと見つかりやアどんなめにあふかしれやせんヨアヽあんまりしやべツてのどがひつゝくやうになりやしたいきつぎにちやわんで一杯いつぺいいたゞき女郎衆ぢよろしゆはよい女郎衆チト時代だがヲツトヽヽヽヽヽごぜへすごぜへす トぐつとのんであたまをたゝきなべのうしをむちやむちやくひまたはしをしたへおき わかだんなわかだんなちよつとごらんなせへやしとなりの年間としまはサちよつとあくぬけた風俗こしれへだがぎうをば平気岡本でしめる達者サはありやアたゞものじやアごぜへせんぜ。なんでも北里なかのお茶屋の妻君かさもなけりやア山谷ほりあたりの舩宿の女房したばうかしらん堀じやア見かけねへかほだがどうもわからねへヲツトほりと云やア紫玉しぎよくとこへ絵短冊を客さきからたのまれやしたから今戸の弁次郎へ風炉の注文ながら一昨日おとゝひちよつくらよりやしたらおもてを藝の有明楼行ゆうめいろうゆくが二タ組ほど通りやす。たそやと見ればあにはからんモシそれ一件のネ。お猫サそらいつか大七からはしけて浜中やへ連出した藝サ。ホンニおめへさんほど罪作りなみやうりのわるいお方はごぜへませんぜ彼奴きやつわちきを見ると紫玉おんそうの敷居をまたいで若だんなはどうなさいましたあれぎりじやアあんまりでスからモウ一ぺん後生でございますヨとあたりをはゞかつて手をあはしてわかれやしたネモシあなたはどういふ腕を出して婦人をおころしなさるのでげス実にふしぎ妙でごぜへす。アヽおそれべおそれべ

 

   ○諸工人しよくにん侠言ちうツぱら

 

▲ としごろは四十ぐらゐ大工か左官らしきふうぞくしるしばんてんもゝひきはらかけ三尺おびはよごれたれど白木のそろばんぞめよどばしまがひのたばこいれにあつばりのしんちうぎせるかみはしのをたばねたるごとくつれも同じくしよくにんながらこのじんぶつはとしかさといひことにあにでしにてもあらんかと思はれたるはなしぶりよほどゑひがまはりしとみへてまきじたのたかごゑにてゐばりをつけるくせあり 「ヱヽコウ松やきいてくれあの勘次の野郎ほど附合つきあひのねへまぬけは西東にしひがしの神田三界さんがへにやアおらアあるめへとおもふぜまアかういふわけだきいてくりや夕辺ゆうべ仕事のことで八右衛門さんのとこへつらア出すとてうど棟梁とうりうがきてゐて酒がはじまツてゐるンだらう手めへのめへだけれどおらだつて世話やきだとかいんのくそだとかいはれてるからだゝから酒を見かけちやアにげられねへだらうしかたがねへからつツぱへりこんで一杯いつぺゑやツつけたがなんぼさきが棟梁とうりうでゑくでもごちそうにばかりなツちやア外聞げへぶんがみつともねへからさかづきをうけておいてヨ小便をたれにゆくふりでおもてへ飛出して横町の魚政うをまさとけいつてきはだのさしみをまづ一分いちぶとあつらへこんで内田へはしけて一升とおごつたはおらアしらんかほの半兵へでヘツてくると間もなく酒と肴がきたとツから棟梁とうりうもうかれ出して新道しんみちの小美代をよんでこいとかなんとかいツたからたまらねへ藝妓ねこが一めへとびこむと八右衛門がしらまで浮気うはきになつてがなりだすとノ勘次のやらうがいゝげい人のふりよをしやアがつて二上にあがりだとか湯あがりだとか蛸坊主が湯気ゆけにあがつたやうなつらアしやアがって狼のとほぼへでさんざツぱらさわぎちらしやアがつてそのあげ句が人力車ちよんきな小塚原こつへおしだそうとなるとかん次のしみツたれめへおさらばずゐとくじをきめたもんだから棟梁も八さんもそれなりになつてしまツたがヱヽコウおもしろくもねへ細工せへくびんばうひとだからだあのやらうのやうに銭金ぜにかねををしみやアがつて仲間附合をはづすしみつたれた了簡なら職人をさらべやめて人力じんりき車力しやりきにでもなりやアがればいゝひとをつけこちとらア四十づらアさげて色気もそツけもねへけれど附合とくりやアよるが夜中よなかやりがふらうとも唐天からてんぢよくからあめりかのばつたん国までもゆくつもりだアあいつらとは職人のたてがちがはゝ口はゞツてへいひぶんだがうちにやア七十になるばゝアにかゝアと孩児がきで以上七人ぐらしで壱升の米は一日いちんちねへし夜があけてからすがガアと啼きやア二分にぶの札がなけりやアびんばうゆるぎもできねへからだで年中十の字のけつを右へぴん曲るが半商売だけれど南京米なんきんめへとかての飯は喰ツたことがねへ男だあいつらのやうにかゝアに人仕事をさせやアがつてうぬは仕事からけへツてくると並木へ出てやすみにでつちておいた塵取ごみとりなんぞヲならべて売りやアがるのだアすツぽんにお月さま下駄にやき味噌ほどちがふおしよくにんさまだアぐずぐずしやアがりやアすのうてん(=素脳天)をたゝきわつて西瓜の立売にくれてやらアはゞかりながらほんのこつたが矢でも銕砲てつぱうでももつてこいおそれるのじやアねへはヘトいひがゝりやアいひたくなるだらうのウ松てめへにしたところがさうじやアねへかヲイヲイあンねへ(女)熱くしてモウ二合ふたつそして生肉なまもかはりだアはやくしろウヱヽ

 

   ○生文人なまぶんじん會話くわいばなし

 

▲ ちかごろりうかうの書画会れん中としごろ三十一二ぐらゐやぼなるこしらへ身なりもさのみわろきにはあらねど世を見やぶつたつもりにてきものも上下ふぞろひなるをいくぢもなくきなしくろのはおりむらさきのふとひもをむなだかにむすびてけんしきははなばしらとともにたかくかたはらにたう紙のまきたると扇子のつかねたるをあめりかざらさのふろしきにつゝみかけておき下タ地よほどさけの匂いのあるはなかむらやか萬八あたりの会くづれと見えつれはさそひてつれゆきたるたゞの人物とみえたりもつともをりをりうけこたへありとしるべし 「アヽけふの会はよわつたよわつたあのやうに唐紙扇面の攻道具でとりまかれてはさすがの僕もがつかりだこれだから近頃はどのやうにまねかれても謝義ばかりもたせて書画会へは出ぬことゝきめたがけふは南溟老人が喜寿のゑんといひ殊に南湖翁の三十三回の追福じやから先生が出て給はらなければ枕山松塘芦洲雪江東寧帆雨柳圃随庵桂洲波山の諸先生たちが不承知じやからぜひに出席をねがふとわざわざせんめん亭の善公と広小路の一庭が使者に来たのでやむ不得えず出かけたところが肴札さかなふだ五枚がけの一局へ合併して一杯のむが否やどうか先生おあとでねがひますと左右から扇面の鎗ぶすまサさてうるさいことだとギヨツとしたがかねてしたことでアヽ是も会主への義理じやと観念して書画の注文でも扇面が貳百ぴき唐紙なら五百疋と極札きはめふだがついてある腕を一言ひとことの礼のみでまづ四五本かゝせられたと思ひなさい僕がからだの居まはりを雲霞のごとく取巻てお跡で一本どうか諸先生の合作でござりますから一寸ねがひますのヤレ遠国ゑんごくからたのまれました書画帖だのとたちまち扇紙せんしの山をなしたは実にうるさいはやく切あげて脱しやうと身じんまくをしてゐる最中隣の方で生酔なまゑひがけんくわをはじめた騒ぎで人々が奔走するに早々下タヘ来ると膳所ぜんしよ琴雅乙彦きんが・をとひこなどいふ風流雄みやびを内食ないしよくをきめてゐるむかふの隅には諏訪町の松本がヱ何サ楓湖先生がサ藝者の房八を合手あひておほなまゑひでこれから舩で上手うはてへ出かけるから是非附合つきあへとこまらせるのでこゝにも足をとめることがならんそれはたまの附合だからやむを得ぬが明日あすは大藩の知事公から召されてお席に於て絹地三幅対さんぷくつい山水さんすゐを即席にしたゝめンければならんからチトつきあひははづすじやが後日ごじつとして尊公そんこうのそでをひいてぬけ出したがなにかのみたらんやうじやによつて牛店ぎうてんときめたは中村のかまびすきところより落ついてのめるから妙だてナさてまづ春木うじの義理もすんだがエヽまた来月の朔日ついたちは萬八で虚堂の展覧会二日がカウト寺嶋てらじまの梅隣亭で席画の約速アヽうるさいうるさい実に高名家かうめいかにはたれがしたモウモウ名聞めうもんは廃すべし廃すべしヲツトヽヽヽこぼれるこぼれる