火の柱(抄)

十四 承前)

 と篠田はお花をはげましつ「まことに世の中は不幸なる人の集合あつまりと云うても差支さしつかへない程です、現に今まこゝ団欒よつてる五人を御覧なさい、皆な社会よのなかの不具者です、渡辺の老女おばさんは、旦那様が鹿児島の戦争(=西南戦争)で討死うちじにをなされた後は、賃機ちんはた織つて一人の御子息を教育なされたのが、愈々いよいよ学校卒業と云ふ時に肺結核で御亡おなくなり、――大和君の家はと越後の豪農です、阿父おとつさんが国会開設の運動に、地所も家も打ち込んで仕舞ひなすつたので、今の議員などの中には、大和君のうちの厄介になつた人が幾人あるとも知れないが、今ま一人でも其の遺児を顧るものは無い、かし大和君は我も殆ど乞食同様の貧しき苦痛をめたから、同じ境遇の者を救はねばならぬと、此の近所の貧乏人の子女こどもの為め今度学校を開いたので、今夜のクリスマスを以て其の開校式を挙げた積りのです、――兼吉君のことは花さん、既に御聞になつたでせう、兼吉君の阿父おとつさんが、自分の財産しんだいを挙げて保証うけにんの義務を果たすと云ふ律義な人でなかつたならば、老婆おばあさんも今頃は塩問屋の後室おふくろさまで、兼吉君は立派によねさんと云ふ方の良人をつととして居られるのでせう、――私自身を言うて見ても、秩父ちゝぶ暴動と云ふことは、明治の舞台を飾る小さき花輪になつて居るけれ共、其犠牲になつた無名氏の一人の遺児かたみが、父母より譲受ゆづりうけた手と足とを力に、亜米利加アメリカから欧羅巴ヨウロツパまで、荒き浮世の波風をしのぎ廻つて、今日コヽに同じ境遇の人達とへだてなく語り合つて居るのです、私の近き血縁を云へばたつた一人の伯母がある、今でも訪ふ人なき秩父の山中に孤独ひとりで居る、世の中は不人情なものだと断念してどうしても出て来ない、――花さん、屈辱はぢを言へば、貴女一人の生涯ではない、だ屈辱の真味を知るものが、始めてひとを屈辱から救ふことが出来るのです」

 一座しんみりとかしらを垂れぬ、

「御覧なさい、救世主として崇敬うやまはるゝ耶蘇イエスの御生涯を」と篠田は壁上の扁額がくを指しつ「馬槽うまぶねに始まつて、十字架に終り給うたではありませんか」

 

     十五

 

 多事多難なりける明治三十六年も今日に尽きて、今は其の夜にさへなりにけり、寺々には百八煩悩の鐘鳴り響き、各教会には除夜の集会あつまり開かる、

 永阪教会には、過般篠田長二除名の騒擾さうぜうありし以来、信徒の心も離れ離れとなりて、日常つね例会あつまりもはかばかしからず、信徒の希望のぞみなる基督降誕祭クリスマスさへ極めて寂蓼せきれうなりし程なれば、除夜の集会あつまり人足稀ひとあしまれなるも道理ことわりなりけり、

 時刻ときにはひまあり、まうで来し人も多くは牧師館に赴きて、広き会堂電燈いたづらに寂しき光を放つのみなるに、不思議やへなる洋琴オルガン調しらべ、美しき讃歌の声、固くとざせる玻璃窓はりまどをかすかに洩れて、暗夜の寒風にふるへて急ぐ憂き世の人の足をさへ、ばしとゞめしむ、

 洋琴の前に座したるは山木梅子、かたへに聴きれたるは渡辺の老女、

「今度は老女おばさんのお好きな歌を弾きませう」と、梅子が譜本繰り返へすを、老女はジツと見やりて思はず酸鼻はなすゝりぬ、

うかなさいまして、老女おばさん」

 老女は袖口に瞼拭まぶたぬぐひつ「何ネ、――又た貴嬢あなた亡母おつかさんのこと思ひ出したのですよ、――斯様こんな立派な貴嬢の御容子ごようすを一目亡奥様せんのおくさんにお見せ申したい様な気がしましてネ、――」

 答へんすべもなくて、だ鍵盤にうつぶける梅子の横顔を、老女はくとながめ「どうして、梅子さん、貴嬢はうまで奥様に似て居らつしやるでせう、さうして居らつしやる御容子ツたら、亡母おつかさん其儘そのまゝらつしやるんですもの――此の洋琴オルガンはゼームスさんが亡母さんの為めに寄附なされたのですから、貴嬢が之をお弾きなされば、奥様おくさんみたま何程どんなに喜んで聴いてらつしやるかと思ひましてネ――オホヽ梅子さん、又た年老としよりの愚痴話、御免遊ばせ――」

「アラ、老女おばさん、そんなこと――此の教会で亡はゝのこと知つてて下ださるのは、今は最早もう老女さん御一人でせう、うちでもネ、乳母ばあやが亡母のこと言ひ出しては泣きます時にネ、きツと老女さんのこと申すのですよ、わたし、老女さんに抱いて戴いて、亡はゝ永訣おしまひの挨拶をしたのですとネ、――私、老女さん、此の洋琴に向ひますとネ、うやら亡母が背後うしろから手を取つて、弾いてでも呉れる様な気が致しましてネ、不図ふと、振り向いて見たりなどすることがあるんですよ、――私ネ、老女さん、此の教会を棄てることの出来ないのは、こればかりなんです――」

「まア、貴嬢あなた、飛んでも無いことおつしやいます、此上貴嬢が退会でもなさろものなら、教会はまるで闇ですよ、篠田さんの御退会で――」

 思はず言ひ掛けて、老女はにはかに口に手を当てぬ、

「ほんとに老女おばさん、篠田さんのことでは私、皆様にお顔向けがならないのです、――老女さん、近く篠田さんに御面会おあひなさいまして――」

「ついネ、此の廿五日にも参上あがつたのですよ、御近所の貧乏人の子女こども御招およびなすつて、クリスマスの御祝をなさいましてネ、――其れに余りお広くもない御家おうちに築地の女殺をんなごろし八釜やかましかつた男のおやだの、自由廃業した藝妓げいしやだのツて御世話なすつて居らつしやるんですよ、ほんとに感心な方ですことネ――」

「其の藝妓げいしやのことで、老女おばさん、新聞などには大層、篠田さんの悪口が書いてあつたぢやありませんか」梅子の声は低く震へり、

左様さうですツてネ、貴嬢あなた、篠田さんが自分の妾になさるんだとか何とかかきましたつてネ、まり、馬鹿々々しいぢやありませんか、ナニ、皆な自分の心でひとを計るのですよ、クリスマスの翌日、の慈愛館へれておいでになりましたがネ、――貴嬢、私のせがれが生きてると丁度ちやうど篠田さんと同年のですよ、私、の方を見ると何時いつでも涙が出ましてネ」

 梅子はホツと面赧かほあからめつ「何と云ふ失礼な新聞でせうねエ」

 此時、ベンチにはボツボツ人の顔見えぬ、長谷川牧師は扉を排して入り来れり、浅き微笑を頬辺けふへんに浮べて、

 

     十六の一

 

 午後五時三十分、東海道のぼり汽車、正に大磯駅を発せんとする刹那せつな、プラットホームににはかに足音いそがはしく、駅長自ら戦々兢々せんせんきようきようとして、一等室の扉をひらけば、厚き外套に身を固めたる一個の老紳士、平たきおもてに半白の疎髯そぜんヒネリつゝ傲然がうぜんとして乗り入るうしろより、だ十七八の盛装せる島田髷しまだまげの少女、肥満ふとつちようなる体をゆすぶりつゝゑみかたむけて従へり、

 発車の笛、寒きゆふべの潮風に響きて、汽車は「ガイ」とりして進行を始めぬ、駅長は鞠躬如きくきゆうじよとして窓外に平身低頭せり、れど車中の客は元より一瞥いちべつだも与へず、

 未だ座には着くに至らざりし彼の少女は、突如たる汽車の動揺に「オヽ、ワ」と、言ひつゝ老紳士の膝に倒れぬ、

 紳士は其儘そのまゝかきいだきて、其の白きものほどこせる額を恍惚うつとりと眺めつ「どうぢや、浜子、嬉しいかナ」と言ふ顔、少女はこびたゝへしに見上げつゝ「御前ごぜん、奥様に御睨おにらまれ申すのがこはくてなりませんの」

「ハヽヽヽヽ何に奥が怖いことあるものか、あれは梅干婆と云ふのぢやから、最早もうくのうのと云ふ年ぢや無いわい、安心しちよるがい、——其れよりも世の中に野暮やぼなは、其方そちの伯父ぢや、昔時むかしは壮士ぢやらうが、浪人ぢやらうが、今は兎に角藝人の片端かたはしぢや、此頃の乱暴はうぢや、めひを売つて権門にへつらふと世間に言はれては、新俳優の名誉にかゝはるから、其方そちを取り戻すなどと、イヤ、飛んだ活劇をし居つたわイ、第一其方そち心中こゝろを察しない不粋ぶすゐな仕打ぢや、ナ、浜子」

「あの時は、御前、うなることかとわたし、ほんとにこはう御座いましたよ、けども御前、伯父も本心から彼様あんなこと致したのでは御座いませぬでせうと思ひますの、御前の御贔屓ごひいきに甘えまして一寸ちよつと狂言を仕組んで見たので御座いますよ」

「ウム、其方そちの方が余程物が解つちよる、――アヽ、僅かの間でも旅と思へば、浜子、誰憚はゞからず、気が晴々としをるわイハヽヽヽヽ」

「ほんたうに左様さうで御座いますのねエ、ホヽヽヽヽ」

 人なき一室を我が世と楽みて、又た他事もなき折こそあれ、「バタリ」響ける物音に、何事と彼方かなたを見れば、今しも便所の扉開きて現はれたる一客あり、陽春三月の花のそら遽然きよぜん電光きらめけるかとばかり眉打ちひそめたる老紳士のかほを、見るより早くの一客は、殆どはんばかりに腰打ちかゞめつ、

「是れは是れは伊藤侯爵閣下――」

 伊藤と呼ばれし老紳士は、膝より浜子を下ろしつゝ「ウム、山木か――」

「閣下、久しく拝謁はいえつを見ませんでしたが、相変らず御盛ごさかんなことで恐れ入りまする」

「山木、隠居役になると、貴公等には用が無くなるからナ」

 と侯爵のひやゝかに笑ふを、山木剛造は額撫でつゝ「れは閣下、決して左様な次第では御座りませぬが――、併し今日こんにちは誠にい所で拝謁を得ました、実は是非共閣下の御権威おちからを拝借せねばならぬ義が御座りまして――」

 空嘯そらうそぶける侯爵「金儲かねまうけのことなら、我輩わがはいの所では、山木、チト方角が違ふ様ぢや――新年早々から齷齪あくせくとして、金儲も骨の折れたものぢやの」

「閣下、実は旧冬から九州へ出掛けましたので――或は新聞上で御覧になりましたことかとも愚察つかまつりまするが、此度このたび愈々いよいよ炭山坑夫の同盟罷工が始まりさうなので御座りまして――」

「ふウむ」と侯爵は葉巻シガーけむよりも淡々あはあはしき鼻挨拶はなあしらひ、心は遠き坑夫より、直ぐ目の前の浜子の後姿にぞ傾くめり、

 浜子は彼方あちら向いて、はるか窓外の雪の富士をや詮方せんかたなしに眺むらん、

 

     十六の二

 

「閣下、近来社会党がナカナカ跋扈ばつこ致しまして、今回坑夫の同盟なども全く、社会党の煽動せんどうから起つたので御座ります、此分では将来何の事業でも発達上、非常な妨碍ばうがいかうむりまするわけで、何卒なにとぞ此際厳重に撲滅策を執らるゝ様、閣下より一言、政府へ御指図下ださる義を懇願致しますので――」

 伊藤侯爵は空吹く風と聞き流しつ「二三の書生輩の空理空論を、左迄さまで恐るゝにも足らぬぢやないか、して労働者などグヅグヅ言ふなら、構まはずに棄てて置け、直ぐ食へなくなつて、先方むかうから降参して来をらう」

「所が閣下、うやら亜米利加アメリカの労働者などから、内々運動費を輸送し来るらしいので御座りまして、――し外国の勢力が斯様かやうなことから日本へ這入はいつて来るやうになりませうならば、国体上容易ならぬ義かと心得まするので」

「ナニ、山木、別段不思議無いではないか、労働者が労働者の金を輸入するのと、君等実業家連が外資輸入をり居るのと、何の違もあるまいではないか」

「では御座りまするが、閣下」と、山木は額を撫でつ「探知致しましたる所では、近々東京に労働者等の大会を開いて、何か穏かならぬ運動を企てまする様子で、うせ食ふことが出来ぬ乱暴漢らんばうものの集りで御座りまするから、何事が出来しゆつたいせんもはかられませぬ次第で――それに新聞と云ふ程のものでも御座りませぬが、兎に角同胞新聞など申す毒筆専門の機関を所持致し居りまするから、無智無学の貧民共は、ツイ誘惑されぬとは限りませぬ、もつとも警察が少こし確乎しつかりして居りまするならば彼れ等程のものに別段心配も御座りませぬが、何分にも閣下が総理の御時代とは違ひまして、警察の方なども緩慢きはまつて居りまするから――」

 薄き眉ピリと動くと共に、葉巻シガーの灰ふるひ落としたる侯爵「山木、其の同胞新聞と云ふのは、篠田何とか云ふ奴の書き居るのぢやないか」

「ハ、篠田長二と申すので、閣下御存ごぞんじで御座りまするか」

や、顔は見たことないが、実にしからん奴ぢや、我輩のことなど公私に関はらず、攻撃を――」

 と言ひさして、浜子を見やれば、浜子はなまめかしく仰ぎ見つ、「御前ごぜん、あのわたしのこと悪口書いた新聞でせう、御前、何卒どうぞ讐討かたきうつて下ださいな」

「ウム」と首肯うなづきたる侯爵「先年、彼等が社会民主党を組織した時、我輩わがはいは末松にいひつけてたゞちに禁止させたのぢや、我輩が憲法取調の為め独逸ドイツに居た頃、丁度ちやうどビスマルクがさかんに社会党鎮圧をりおつた、然るに現時いまの内閣の者共が何も知らないから、少しも取締が届かない――可矣よし、山木、早速桂に申し付けよう」

「閣下、誠に有難う御座ります」と山木は足の爪先まで両手を下げつ、「イヤどうも、政府の大小、御世話なされまするので、御静養と申すこともお出来なされず、御推察致しまする」

「ウム、何かと云ふと、直ぐ元老が呼び出されるので、てもかなはん――美姫びきさいはひわが労をするに足るものありぢや、ハヽヽヽヽ、なア浜子」

 汽車は早くも大船に着けり、一海軍将校、鷹揚おうやうとして一等室に乗り込みしが、たちまち姿勢をたゞしうして「侯爵閣下」

 おもむろに顧みたる侯爵「やア、松島大佐か——何処どこへ」

「横須賀からの」

 

     十六の三

 

「松島さん」と慇懃いんぎんに挨拶する山木剛造を、大佐は軽く受け流しつ、伊藤侯爵と相対して腰打ち掛けぬ、

 夕陽せきやうほ濃き影を遠き沖中おきなかの雲にとゞめ、汽車は既に淡き燈火ともしびを背負うて急ぐ、

 ポケットより巻莨たばこ取り出して大佐は点火しつ「閣下、又た近日元老会議ださうで御座りまして、御苦労に存じます」

「松島、実に困らせをるぞ、(山本)権兵衛にこし確乎しつかりせいと言うて呉れ」

「閣下、其れは私共の方で申上げたいと存じまする所です、ヤ、モウ、先刻も横須賀へ参れば、艦隊の連中からは、大臣が弱いの、軍令部が腰抜だのと勝手な攻撃を受けます、元老方からは様々御注文が御座りまする、民間からは出法題ではふだいな非難を持ち掛ける、斯様こんな割の悪い役廻りは御座りませぬ」と言ひつゝ、烟草たばこの煙の間より、浜子の姿をチラリチラリと横目ににらむ、

 大佐の目遣めづかひに気つきたる侯爵「や、松島、こゝに居る山木は君のしうとさうぢやナ、——先頃誰やらが来てしきりに其のうはさし居つた、の様子ではても尊氏を長追ひする勇気があるまいなどと嫉妬し居ったぞ、非常な美人さうぢやな、何時いつぢや合衾がふきんの式は――山木、何時ぢや、我輩も是非客にならう」

 山木は頭掻きながら「ハ、未だ何時いつと確定致す所にも運び兼て居りまする様な次第で——何分にも時局の解決が着きませぬでは――」

「ハヽヽヽヽ、時局と女とは何の関係もあるまい、戦争いくさ門出かどで祝言しうげんするなど云ふことあるぢやないか、松島も久しい鰥暮やもめくらしぢや、可哀さうぢやに早くして遣れ――それに一体、山木、誰ぢや、媒酌ばいしやくは」

「ハ、表面おもて立つた媒酌人と申すも、いまだ取り定めたと申す儀にも御座りませぬ、いづれ其節何殿どなたかに御依頼致しまする心得で――」

「フム、りやさいはひぢや、我輩一つ媒酌人にならう、軍人と実業家の縁談を我輩がする、みんな毛色が変つてて面白ろからう、山木、どうぢや」

「ハ、閣下が御媒酌下ださりまするならば、之に越したる光栄は御座りませぬが――」

「松島、君の方はどうぢや」

 苦笑しつゝけむり吹かし居たる大佐「御厚意は感謝致しまするが、其れは最早もう御無用です」

「ナニ、無用ぢや、松島」

 大佐はひやゝかに片頬かたほに笑みつ「はア、閣下、山木には無骨ぶこつな軍人などは駄目ださうです、既に三国一の恋婿こひむこ内定きまつて居るんださうですから」

「フウ、ほかに在るのか、其りや一ときは面白い、山木、誰ぢや、君の恋婿と云ふのは」

 剛造は顔中撫で廻はして「閣下、其れは松島さんのお戯れで、決してほかに約束など有る義では御座りませぬが——」

 殆ど困却の山木を、松島は愉快げに尻目に掛けつ「然らば閣下、山木の恋婿をば自分から御披露に及びませう――日本社会党の領袖りやうしう、無政府主義の張本ちやうほん、同胞新聞主筆篠田長二君と仰せられるのださうでツ」

「ヤ、松島さん」と色を失つて周章する剛造を、侯爵は稍々やゝ垂れたる目尻にキツと角立てて一睨いちげいせり、

「閣下、其れを御信用下だされましては、遺憾ゐかん千万に御座りまする、全く松島様の誤解で御座りますから――」

「松島、事実相違ないか、うぢや」

 大佐は冷然たり「閣下、私も帝国軍人で御座りまする」

「フム」と軽く首肯うなづきて侯爵は又た山木のおもてにらめり、

「閣下、其れは余りに残酷なことで御座りまする、私が社会党などに娘をることが出来まするものか出来ませぬものか、少し御賢察を願はしう存じまする、――近い御話が、閣下、今回このたび炭山の坑夫同盟でも明かでは御座りませぬか、九州の方へは菱川だとか何だとか云ふ二三人の書生を遣つて奇激な演説などさせて、無智曚昧もうまいな坑夫等を煽動させ、自分は東京に居て総ての作戦計画をして居るので御座りまする、皆な篠田長二の方寸から出でまするので――非戦論などとなへて見ても誰も相手に致しませぬ所から、今度は石炭と云ふ唯一の糧道を絶つほかないと目星を着けて、到底たうてい相談のならない法外な給料増加の請求を坑夫等に教唆けうさし、其の請求の貫徹をはかると云ふ口実のもとに、同盟罷工ひこうらせると云ふのが、篠田の最初からの目的なので御座りまする、悪党とも国賊とも、名の付けられた次第では御座りませぬ、——閣下、どうして私が其様そんなものへ娘を遣ることが出来ませう――其れで坑夫共の生活を支へる為めに亜米利加アメリカの社会党から運動費を取り寄せる手筈をする、其ればかりでは駄目ぢやと申すので、近々東京に全国労働者の大会を開く計画する、いづれも其の張本はの篠田で御座りまする、ればこそ先刻も、閣下、彼奴等きやつら取締とりしまりに就て、御尽力を歎願したでは御座りませぬか――」

「ウム」と思案せる侯爵「成程――うぢや松島、山木の言ふ所道埋至極しごくと聞かれるでは無いか」松島はたばこくゆらしつゝ「かし、閣下、御本尊がきたいと申すものを、之を束縛する親の権力も無いでは御座りませぬか」

 山木は顔突き出し「其れは閣下、全く松島様の御聞き誤りで御座りまする、先頃迄は娘共の参る教会に篠田も居たので御座りました、其れで何かとあらぬ風評を致すものもあつたらしいで御座りまするが、の様な不都合な漢子ものを置くのは、国体上容易ならぬことと心着きまして、わたくしから教会へ指図して放逐致した次第で御座りまする——承りますれば、彼奴等きやつら平生、露西亜ロシヤの虚無党などとも通信し合つて居るさうに御座りまするし、其れに彼奴かやつ、教会を放逐された後は、何でも駿河台のニコライなどへ出入ではひりするとか申すので、警視庁でも、露西亜の探偵ではあるまいかなど、内々注意して居られるとか聞きまして御座りまする」

 侯爵はしきりに首肯うなづきつ「左様さうぢやらう、松島、別段疑惑する点も無いでは無いか――何うぢや、我輩がはからずかる話を聞くと云ふも何かの因縁ぢやらうから、一つ改めて我輩が媒酌人にならう、山木、貴公の娘にも必ず異存あるまいナ」

 

     十六の四

 

 山木剛造は平身低頭「御念ごねんには及びませぬ、閣下、是迄の所、何を申すも我儘育ちの処女きむすめで御座りまする為めに、自然決心もなり兼ねましたる点も御座りましたが、旧冬、私出発の前夜もく利害を申聞まうしきけ心中既に理会致して居りまする、兎に角私帰宅の上、挨拶致す様にと猶予を与へ置きましたるやうの始末、帰京次第今晩にも判然致す筈で御座りまして——特に閣下が表面御媒酌下ださると申聞けましたならば、一身の名誉、一家の光栄、如何いかばかり喜びませうか」

「ハヽヽヽ松島と篠田、こりや必竟ひつきやう帝国主義と、社会主義との衝突ぢや、松島、確乎しつかりせんとならんぞ」と侯爵は得意満面に松島を見やりつ「然かし松島、才色兼備の花嫁を周旋する以上は、チト品行をつゝしまんぢや困まるぞ、此頃はしきりと新春野屋の花吉に熱中しをると云ふぢやないか」

 浜子は侯爵の顔さしのぞき「御前ごぜん、其の花吉と申す藝妓げいしやは先頃廃業したさうで御座んすよ」

 侯爵は打ち驚き「オ、廃業しをつた――新聞に在つたと、浜子、其方そちう新聞を見ちよるな、感心ぢや――松島、其の根引きぬしは貴公ぢや無いか、白状せい」

 松島のがり切つたる容子ようすに、山木は気の毒顔に口を開きつ「——実は、閣下、其れも矢張篠田の奸策で御座りまする」

「ナニ、花吉を篠田が落籍ひかせをつたと――フム、自由廃業、社会党のりさうなことぢや――彼女あれには我輩も多少の関係がある、不埒ふらちな奴、松島、篠田ちふ奴は我輩に取つても敵ぢや、可也よし、此上は山木のむすめは何事があるとも、必ず松島へらねば、我輩の名誉にかゝはるわい」

 意気軒昂けんかう面色めんしよく朱をそゝぎたる侯爵は忽然こつぜんとして山木を顧みつ「然かし山木、君もナカナカひどい男ぢやぞ、どうぢや、ぽん子は相変らず奇麗ぢやろナ、今を蕾の花の見頃と云ふ所を、突如だしぬけに横合から根こぎにするなどは、乱暴極まるぢやないか、松島のは社会主義に対する帝国主義の敗北、我輩のは金力に対する権力の失敗ぢや」

 頭掻きつゝ山木の困却のていに、侯爵は愈々興を催ふしつ「何程なんぼ花婿が放蕩はうたうして、大切だいじな娘が泣きをつても、苦情を申入れる権利があるまい、ハヽヽヽヽ山木、君の様なおやぢの機嫌取つて日蔭の花で暮らさせるは、ぽん子の為めに可哀さうでならぬぢや」

 剛造は只だ赤面恐縮、

 大佐はニヤリと浜子を一瞥しつ「が、閣下、山木は閣下に比ぶれば、未だ十幾つと云ふおとゝださうですよ」

 剛造ほツと一道の活路を得つ「大きに松島様のおほせの通りで、へヽヽヽヽ」

 侯爵も頭撫でて大笑しつゝ「ヤ、松島、最早もうしうとの援兵か、余り現金過ぎるぞ」

「品川々々」と呼ぶ駅夫の声と共に汽車は停りぬ、

「オヽ、もう品川ぢや、浜子」と侯爵は少女の手を採りて急がしつ「今夜は杉田の別荘に一泊するから失敬する」と言ひ棄てたるまゝ悠然降り立ちて、闇のうちへと影を没せり、

 窓にりて見送り居たる松島は舌打ちつ「淫乱爺いんらんおやぢ耄碌まうろくツ」

 

     十七の一

 

 麹町は三番丁なる清風女学校には、今日しも新年親睦会、

 校友の控所にてられたる階上の一室には、盛装せる丸髷まるまげ束髪そくはつのいろいろ居並びて、立てこめられたる空気の、きぬの香に薫りて百花咲ききそふ春ともいふべかりける、

 中央の椅子にかゝりたる年既に五十にも近からんと思はるゝ麦沢教授、小皺見ゆる頬辺ほゝのあたりゑみの波寄せつ「皆さんが立派な奥様におなりなすつたり、阿母おつかさんにおなりなすつた御容子ごようすを拝見する程、私共わたしどもに取つて楽しみは御座んせんのね、之を思ふと私などはくまア腰がまがつて仕舞はないと感心致しますの――いゝエ、此頃は、もう、ネ、老い込んで仕様しやうがありませんの、自分ながら愛想が尽きる程なんですよ――う御見受け申した所、夏野様の旦那様は内務の参事官、秋葉様のは衆議院議員、冬田様のは日本銀行の課長さん、春山様のは陸軍中尉、蓮池様のは大学教授、何殿どなたも国家の大任ですねエ、桜井様のは留学中で御帰朝の後は医学博士、松村様のは弁護士さん」

 と、次第に読み上げ行きしが、さて其次席に列なれる山木梅子が例の質素の容子を見て、しば躊躇ためらひつ「山木様は独立で、婦人社会の為に御働おはたらきなさらうと云ふ御志願で、こと阿父おとつさんは屈指の紳商でいらつしやるのですから」

 と、相当なる理由を発見して、頌徳表しようとくへうを呈したる時、春山と呼ばれたる陸軍中尉の妻女「あら、麦沢先生、山木様はくに御約束で、最早もう近々に御輿入おこしいれになるんですよ」と、黄色な声してくちれぬ。

左様さうですか」と、麦沢女教授はまるくしたるまなこを、忽ち細くして笑みつくろひ、「山木様、まア、お目出度めでたう御座います、存じませんでしたもんですから、ツイ、失礼致しましてネ、――シテ、春山様、何殿どなた

「先生が御存無ごぞんじなかつたとは驚きましたねエ」と春山は容子つくろひ「あの、海軍大佐の松島様へ」

「オヽ、あの松島さんへ」と女教授は驚きしが「実権海軍大臣などと新聞で拝見する松島さんへ——左様さうですか、山木様、貴嬢あなたにはほんとに御似合の御縁組ですよ」

 一座の視線は皆な沈黙せる梅子の面上に集まりぬ、

 松村と言へる弁護士の妻女は、独り初めより怪しげに打ちもり居たりしが「先生、わたしも山木様の御縁談の御噂をお聞き申しましたが、只今の御話とはこし違ふ様ですよ」

「エ、松村様、ぢや何殿どなたおつしやるのです」

 松村は梅子の顔恐る恐る見やりながら「間違ひましたら山木様、御免下ださいな――あの、同胞新聞社の篠田様へ――」

 麦沢教授は反歯そつぱき出してハツハと打ち笑へり「松村様、何を仰しやる、山木様が何で彼様男あんなひとの所などへおでになるもんですか、わたし何時いつでしたか、何かの席で篠田と云ふ人見ましたがネ、貴女あなたあれは壮士ですよ、どうして彼様あんな貧乏人と山木様が御結婚出来ますか」

「いゝえネ、先生、只だ私は山木様の教会と関係のある人から聞いたのですから――」

 と松村の穏かに弁疏するを、の春山はシヤちやりでつ「わたし良人やどから聞きましたのです、現に松島様が御自分で御披露になりましたさうで、軍人社会では誰知らぬものも無いので御座います」

 曰く松島自身の披露、曰く軍人社会の輿論よろんしかして之を言ふものは、現に陸軍中尉の妻女、何人なんぴとか又た之を疑はん「山木様はタシカ軍人はおきらひの筈でしたがネ」「独身主義の御講義を拝聴した様にも記憶致しますが」「オールド、ミスも余り立派なものでありませんからね」、など、聞えよがしの私語さゝやきも洩れぬ、

 梅子が余りの沈黙に、一座いたくシラけ渡りぬ、

 扉開かれて、歴年の老小使、腰打ちかゞめつ「山木様——菅原の奥様が五号室に御待ち受けで御座います」

 之を機会に梅子は椅子を離れつ「失礼」と一揖いちいふして温柔しとやかに出で行けり、

 

     十七の二

 

 第五号教室のピヤノのわきに人待ち顔なる大丸髷おほまるまげの若き婦人は、外務書記官菅原道時の妻君さいくん銀子なり、扉しとやかに開かれて現はれたる美しき姿を見るより早く、嬉しげに立ち上がりつ、「オヽ梅子さん」

「銀子さん」

 相見て嫣然えんぜん、膝つき合はして椅子に座せり、

「梅子さん、ほんとに久闊しばらくですことねエ、私、貴嬢あなたに御目にかゝりたくてならなかつたんですよ、手紙でとも思ひましたけれどもね、其れではどうやら物足らない心地しましてネ――今日も少こし他に用事があつたんですけれども、多分、貴嬢が御来会おいでになると思ひましたからネ、差繰さしくつて参りましたの」

「私もネ、銀子さん、此頃しきりに貴女あなたが懐しくて堪らないで居ましたの、いつそ御邪魔に上らうかと考へましたけれどネ、外交のことが困難むつかしいさうですから、菅原様も定めて御多用でいらつしやらうし、貴嬢にしても矢張やつぱり御屈托でいらつしやらうと遠慮しましてネ」

「あら、梅子さん、いやですことねエ、――結婚すると御友達と疎遠になるなんて皆様仰しやるんですけれど、貴嬢まで矢張やつぱり其様そんな事を仰つしやらうとは思ひも寄りませんでしたよ」

「銀子さん、左様さうぢやありませんよ」

 銀子は熟々つくづくと梅子のかほ打ちまもり居たりしが「梅子さん、貴嬢ほんとに御憔悴おやつれなすツたのねエ、如何どうかなすつて――」

いゝえ、別に如どうも致しませんの」

「けども、何か御心配でもおありなさらなくて」

いゝえ――心配と云ふ程のこともありませんがネ――」

「心配と云ふ程で無くとも、何か御在おありなさるでせう」

 と銀子は顔差し付けて声打ちひそめ「わたし貴嬢あなた御聴おきゝせねば安心ならぬことがあるんですよ――梅子さん、貴嬢、ほんとにの海軍の松島さんと御約束なさいまして――」

 梅子は目を閉ぢて無言なり、

「梅子さん、私ネ、其を道時から聴きましても、貴嬢から直接に聴かなければ安心が出来ないんですもの」

「銀子さん、貴女まで其様そんな風評を御信用下ださるんですか――」涙ハラハラと膝に落ちぬ、

 銀子は梅子の手を握れり「梅子さん、貴嬢あなたは私が、其様そんな風評を信用するものと御疑ひ下ださいますの――」

 梅子は握られし銀子の手を一ときは力をめて握り返へしつ「いゝえ、銀子さん、私は学校こゝに居た時と少しも変らず、貴嬢を真実の姉とおもつて居るんです」

「梅子さん、有難う――うしたわけか、初めて入学した時から貴嬢とは心が合つて、私が一つ年上ばかりに貴嬢の姉と呼ばれる様になつたことは、何程嬉しいとも知れないのです、道時が何か私の非難など致します時には、かし私のいもとに山木梅子と云ふ真の女丈夫ぢよぢやうぶが在りますよと誇つて居るのです――丁度昨年の十月頃でしたよ、外交問題が八釜敷やかましくなり掛けた頃と思ひますから――道時が晩餐ばんさんの時、冷笑わらひながら、お前の御自慢の梅子さんも、到頭たうとう海軍の松島の所へ行くことになつたと言ひますからネ、私は断然之を打ち消したのです、梅子さんも御自分で是れならばと信じなさる男子ひとを得なすツたならば、すゝんで御約束もなさらうし、又た強ひても御勧め申すけれど、軍人は人道の敵だとまで思つて居なさる梅子さんが、ことに不品行不道徳な松島様などに御承諾なさる筈が無い、又たし其れが真実ならば必ず梅子さんから、御報知おしらせがある筈だと頑張ぐわんばつたのですよ、スルとくらしいぢやありませんか、道時が揶揄からかひ半分に、仮令たとヘ梅子さんからの御報知は無くとも、松島の口から出たのだから仕様しやうが在るまいなどと言ひますからネ、彼様あんな松島様などの言ふことが何の証拠になりますと拒絶はねつけて遣りましたの、それツきり道時も何も言ひませんでしたがネ、昨日ですよ、外務省やくしよから帰りましてネ、服もあらためずに言ふんです、梅子さんの結婚談も愈々いよいよ進んで、伊藤侯が媒介者となられ、近日中に式を挙げらるゝさうだと、大威張にいふぢやありませんか、私には如どうしても解らないのです、相手が松島様で、媒介が伊藤侯と云ふんでせう、梅子さん、貴嬢あなたが地獄の子にでも生れ変つて来なすつたのを見た上でなくては、私は仮令たとひ道時の言葉でも、信用することが出来ないんです」

「銀子さん、姉さん、――有難う――」梅子は目を閉ぢて涙をきぬ、

 

     十七の三

 

「けどもネ、梅子さん、」と銀子はかたちを改めつ「貴嬢あなたは飽く迄も独身主義をとほさうと云ふ御決心なの」

 梅子は只だ首肯うなづきつ、

わたしネ、梅子さん、貴嬢あなたの独身主義には、心から同情を持つてるんですよ――貴嬢の家庭の御事情は私もようく存じて居るんですからネ――けれど私、梅子さん、怒りなすつちや厭よ、日常いつもさうおもふんですの、貴嬢の深い心の底にほんとに恋といふものがないんだらうかと――学校こゝに居た頃の貴嬢のことは私、く知つててよ、貴嬢の御心は、只だ亡き阿母おつかさんおもうるはしききよき愛に溢れて、ほかには何物をも容れる余地のなかつたことを——皆さんが各々てんでに理想のひとを描いて泣いたり笑つたり、うつしたりして騒いで居なさる時にでも、真正ほんたうに貴嬢ばかりは別だつたワ――他人様ひとさんのことばかり言へないの、私だつてもネ、梅子さん、笑つちや厭よ、道時のことでは何程どんなに貴嬢の御世話様になつたか知れないワ、私、貴嬢の御恩を忘れたこと有りませんよ――彼頃あのころの貴嬢の御面おかほは全く天女でしたのねエ――けれど梅子さん、ま貴嬢を見ると、何処どことも無くうれひの雲がかゝつて、時雨しぐれでも降りはせぬかの様に、憂欝の色が見えるんですもの、そりや梅子さん貴嬢ばかりぢやない、誰でも、としと共に苦労も増すにきまつて居ますがネ、只だ私、貴嬢あなたの色に見ゆる憂愁の底には、女性をんなの誰もまぬがれない愛情のひそんで居るのぢや無からうかと思ふんですよ――私などは斯様こんな軽卒がさつなもんですから、直ぐ挙動にあらはして仕舞しまひますがネ、貴嬢の様に強意しつかりした方は、自ら抑へるだけ、苦痛も一倍ひどいだらうと祭しますの――」

 うつむける梅子に、銀子は身をスリ寄せつ「し、梅子さん、御気にさはつたならゆるして頂戴な、私只だ気になつて堪らないもんですから、心の有りたけを言ふのですよ――私だつて道時のことでは何程どんな恥づかしいことでも皆な打ち明けて、貴嬢に御相談したでせう、其れでこそ始めて姉妹きやうだいの契約のじつがあると言ふんですわねエ――梅子さん後生ごしやうですから貴嬢の現時いまの心中を語つて下ださいませんか」

「銀子さん」と良久しばしありて梅子は声ふるはしつ「四年前の貴女あなたの苦痛を、今になつて始めて知ることが出来ました――」

く言うて下ださいました梅子さん」と銀子は嬉しげに、「今度は私が先年の御恩返しに何様どんな奔走でも致しますよ――梅子さん、ツイ、御名を知らして下ださいな」

「銀子さん、貴女の御親切は御礼の申しやうもありませんが、到底事情の許さないのですから、只だ此れだけは私に取つて秘密の一ツに許して下ださいませんか――貴女に打ち明けないと云ふのは、私も何様どんなに心苦しいか知れないのですけれど――」梅子は唇を噛んで声を呑みぬ、

 銀子はばし思案に暮れしが、独り心に首肯うなづきつ「――梅子さん、私知つてますよ」

 梅子は愕然として銀子を見たり、

「若し梅子さん、間違つてたなら勘弁して下ださいな――あの、篠田長二さんて方ぢやありませんか――」言ひつゝ銀子は凝乎じつと梅子を見たり、梅子は胸を押へてた只だうつむきぬ、

「梅子さん、私、それを或る方から聞いたのですよ――ほんとに不思議なものですねエ、自分では夢にも洩らしたことの無い秘密を、世間が何時いつか知つてゐるんですもの――たしかに宇宙の神秘ミステリーなのねエ――私、梅子さん、此の風説は心に信じたの、何故なぜと云ふに篠田さんて方の御性質や其の御行動が、如何にも貴嬢あなた嗜好しかうに適合してるんですもの――梅子さん、私は未だ篠田さんをお見掛け申したことが無いのです、けども私それと無く道時に尋ねて見ましたの、道時はれ迄もく御目に懸るさうでしてね、大層讃めて居りましたの、恐るべき偉い人物であると敬服して居るんですよ――けれど梅子さん、私何程どれほど一人で心を痛めたかしれないワ――貴嬢の阿父おとつさんは篠田さんをかたきの如く憎んで居らつしやるんですとねエ――まア、うしたらいんでせう――梅子さん」

「銀子さん、皆様みなさんは私の独身主義を全然まるで砂原の心かの様に思つて下ださいますけれど、――すべては神様が御承知です」梅子はハンケチもて眼をおほひつ「銀子さん貴女とお別れして三年の心の歴史を、私の為めに聞いて下ださいますか」

 

     十七の四

 

「梅子さん、何卒どうぞ聴かして頂戴」

 梅子はばし心に談話の次序整へつ、「学校時代の私は、銀子さん、貴女能く御存ごぞんじ下ださいますわねエ――一時いつときバイロン流行の頃など、貴女を始め皆様みなさんしきりに恋をお語りなさいましたが、どうしたわけか私には、其の興味を感ずることが出来ませんでしたの、貴女に疑はれたことなども私く記憶して居りますよ――私も折々自分で自分を怪しんだこともありますの、私の心が不健全であるのでは無からうか、愛情と云ふものを宿どさない一種の精神病のではあるまいかと――けれど私はだ亡き母をおもひ、慕ひ想像する以外に、如何にしても私の心を転ずることが成らなかつたのです――皆様能く男子の集会などへ行らつしやいましたわねエ――あら、銀子さん、貴女のこと言ふのぢやなくてよ――けれど私の楽しみは日曜に、青山の母の墓に参詣して、其れから永阪の教会へ行つて、母の弾いた洋琴オルガンの前にわることの外は無かつたのです、私の文章も歌も何時いつも母のことばかりなんですから、貴嬢の思想は余り単調だと、先生におこゞとうけましたの——其れから学校を卒業する、貴女は菅原さんいらつしやる、ほか人々かたがたも其れれ方向をおさだめになるのを見て、私も何が自分に適当した職分であらうかと考へたのです――貴女に御相談したことがあつたでせう――貴女も賛成して下だすつたもんですから、私は貧民の児女こどもを教育して見たいと思ひましてネ――亡はゝの日記などの中にも同じ教育をるならば、貧乏人の児女を教へて見たいと云ふことが沢山書いてあるもんですからネ——其れを父に懇願したのです、けれど銀子さん、貴女も御承知の如き私の家庭でせう、父は私が実母はゝの顔さへ知らないのを気の毒に思つて居ます所から、余程私の願ひに傾いて呉れましたけれど……後には父から私に頼む様にして、其れを思ひ止まつて呉れよと言ふのですもの――私は、銀子さん其時そのとき始めて世の中に失望と云ふことの存在を実験したのです」

「銀子さん」と梅子は語を継ぎつ「其頃私は貴女あなたかつての傷心なげきに同情しましたの、何時でしたか、貴女は夜中に私の寄宿室へやいらしつておつしやつたことがありませう、――し如どうしても菅原様へくことが出来ないならば、私は一旦菅原様へ献げた此のきよ生命いのちの愛情を、少しも破毀やぶらるゝことなしにいだいた儘、深山幽谷へ行つてしま心算つもりだつて――」

「あら梅子さん」と銀子は面赧かほあからめつ「貴女も思ひのほか、人が悪くつてネ――」

左様さうぢやありませんよ」と、梅子も思はず片頬かたほに笑みつ「只だ私も其時始めて、貴女と同じ様な痛苦を感じたと云ふ迄のことお話するんぢやありませんか――それで銀子さん、私は全然まるで砂漠の中にでも居る様な寂寞せきばくに堪へないでせう、さうすると又た良心は私の甚だ薄弱であることを責めるでせう、墓所はかまゐりましても、教会へ参りましても、私の意気地いくぢないことを叱る様な亡はゝの声が聞えるぢやありませんか、ああいつそ死んだならば、斯様こんな不愉快な苦境から脱れることが出来ようなどと、幾度思ひ浮んだか知れませんよ――う云ふ厭な月日を送つて、夜も安然に夢さへ結ぶことなしに思ひ悩んで居た時、私は――銀子さん――何とも知れない一種の感動に打たれましたの——」

 言ひ渋ぶる梅子の容子ようすに銀子は嫣然えんぜん一笑しつ「篠田さんに御会ひなすつたとおつしやるんでせうツ」手を挙げて思ふさま、ビシヤリと梅子の膝を打てり、

 梅子は真紅まつかになりてうつむきぬ、

 

     十七の五

 

「それから梅子さん、如どうなすつて」

 と銀子はホヽ笑みつゝ促がすを梅子は首打ち振りつ、「私、いや、貴女あなたはおなぶりなさるんだもの――」

 上気せる美くしき梅子のあどけなきかほを銀子は女ながらに惚れれと眺め「私が悪るかつたの、梅子さん、何卒どうぞ聴かして下ださいな」

「何だか可笑をかしいのねエ」と、梅子ははづかしげにホヽ笑みつ「一昨々年の四月の初め、丁度ちやうど桜の咲きめた頃なの、日曜日の夜の説教をなすつたのが――銀子さん、私、何だか――」

 とかほ背反そむくるを、銀子は声低くめて「其方そのかたが篠田様であつたんでせう」

 梅子は俯目ふしめ首肯うなづききつ「左様さうなんです、長く米国に留学なされた方で、今度永阪教会へ転会なされたと云ふんでせう、何様どんかたであらうと思つて居ますとネ、やがて講壇へお立ちになつたのが、筒袖つゝそでの極めて質朴な風采で、華奢はでな洋行がへり容子ようすとは表裏の相違ぢやありませんか、其晩の説教の題は『基督キリストの社会観』といふのでしてネ、地上に建つべき天国に就て、基督の理想を御述べになつたのです、今の社会の組織は全く基督の主義と反対の、利己主義を原則とするので、之を根本から破壊して新時代を造るのが、基督教の目的だと仰しやるのです――初め私は、現在の社会の罪悪を攻撃なさる議論の余り恐ろしいので、殆ど身体からだ戦慄ふるへる様でしたがネ、基督の平和、博愛、犠牲の御精神を、火焔ほのほの様な雄弁でおべなすつた時には、何故なにゆえとも知らず聴衆きゝての多くは涙に暮れて、二時間ばかりの説教が終つた時には、満場只だ酔へる如き有様でした、――の時の説教は私、今でも音楽の如く耳に残つて居ますの——其晩は私、一睡もせずに考へましたの、そして基督の十字架の意味が始めて心の奥に理解された様に思はれましてネ、嬉しいとも、勇ましいともわからずに、心がゾクゾク躍り立つて、思ふさま有りたけの涙を流したんですよ、インスピレーションと云ふのは、彼様あゝした状態さまを言ふのぢやないか知らと思ひますの、其れからと云ふもの、昨日迄の無情の世の中とはうつかはつて、たしかに希望のある楽しき我が身と生れ替つたのです、――そして日曜日が誠に待ち遠くて、教会が一層つかしくて――彼人あのかたの影が見えると只嬉しく、如どうかして御来会おいでなさらぬ時には、非常な寂寞せきばくを感じましてネ、私始めは何のこととも気がつかなかつたのですが、或夜、何でも五月雨さみだれの寂しい夜でしたがネ、余り徒然つれづれまゝ、誰やらの詩集を見てる時不図ふと、アヽわたしヤ恋してるんぢや無いか知らんと、始めて自分でさとりましたの、――」

 涙に満てる梅子の眼は熱情に輝きつ、ありし心の経過一時に燃え出でて恍然くわうぜんとして夢路を辿たどるものの如し、

 銀子も我がかつての実験と思ひくらべて、そゞろに同情の涙へ難く「梅子さん貴嬢あなたの御心中は私能く知ることが出来ますの」

「けれど銀子さん」と梅子はうな垂れつ、「其の心のうちの喜びもつかの間で、苦痛くるしみの矢は忽ち私の胸に立つたのです、其れは貴女も御聞き及びになりましたやうに、私の父と篠田さんとが、仇敵かたきの如き関係になつたことです、けれど——銀子さん、私は篠田様の御議論が至当だと思ひました、私は常に父などの営利事業に不愉快を感じて居たのです、決して道理にも徳義にもかなつたこととは思ひませんでしたが、篠田様の御議論を拝見して、始めて能く父等の事業の不道理不徳義なる、説明を得たのでした、其れで私は、彼人あのかた良人をつとにすると云ふことは事情のるさないものと思ひ諦め、又た一つには、私の様な不束ふつゝかな者が、彼様あのやうな偉い方の妻となりたいなど思ふのは、身の程を知らぬものと悟りましてネ、其れに彼人あのかたは既に家庭の幸福など云ふ問題は打ち忘れて、只だひとへに主義の為めに御尽くしなさるのを知りましたものですから、私は心中に理想の良人と奉仕かしづいて、此身は最早もはや彼人の前にさゝげましたと云ふことをたしかに神様に誓つたのですよ」

 彼女かれは心押ししづめつ「ですから銀子さん、私の心は決して孤独ひとりではありません、――節操は女性をんなの生命ですもの、王の権力も父の威力も、此の神聖なる愛情の花園を犯すことは出来ません、――此頃父が九州からの帰途で、伊藤侯と同車したとやらで、侯爵が媒酌人になられるからと、父が申すのです、まア何と云ふけがらはしいことでせう、伊藤侯と云ふものは我々婦人に取つては共同の讐敵かたきではありませんか、銀子さん、私が松島様の申込を拒絶する為めに、仮令たとへ私の父が破産する如き不幸に逢ひませうとも、私は決して節操をけがすやうな弱い心は起しません、父の財産は不義の結果です、私は富める不義の家に悩める心をいだいてあるよりも、貧しき清き家に楽しき団欒だんらんを望むで居るのです——銀子さん、何卒安心して下ださいな」

 梅子の美しきおもては日の如く輝けり、   ——以下・割愛——