春 心ありて風のにほはす梅のそのまづ鶯の問はずやあるべき
香り来る、花のたよりに皆人の、はるばると問ふ梅の園、いづれおとらぬにぎはひに、人の心も興ずめり、茲ハ都に程近き、亀井戸村に其名さへ、老松と聴へたる、みやび造りの料理店、離れ座敷の庭先に、あじろのかきをやりちがへ、思はせぶりなかくれみの、しよんぼりと立つ枝折戸ぎは、いく千代かけてちぎりけん、こけむす石の燈籠に、障子のなきハあかしをバ、ともさぬ物と覚えられぬ、漸暮れかゝる夕まぐれ、いづれよりか入りたりけん、くるひながらに庭先を、あらす小犬の声きゝつけ、
《あれ又ぶちが
と声高に、叱れどどこか愛らしき、声音と共にあく障子火影にほんのり二人の姿、
あれ御らうじましあのすばしこい事ハ
《せツかく楽しく遊んでゐるもの捨て置てやれバよいに
《ほんにさうで御座りましたな
と云と諸共見かはす顔、ぱツといろざす薄もみぢ、
《ほんに私ハうかうかと戴きすぎたと見えかツかと致してまゐりました
《まだそんなに呑もせずと……どれも一ツついでもらはう
と猪口さし出す手をおさへ
《若旦那様あなたその様にめし上ツても宜しう御座いますか
《まだ二合にも足らぬ酒別に障りになりもしまい
《お障りにさへなりませずバなんぼめし上りましても宜しう御座いますが……もし若旦那様あなたハなんぞお心にすまぬ事でも出来ましたかお顔色と云ひいつになくおすごしになる御様子と云ひどうも不審でなりませぬとてもお力になれるきづかひハ御座りませぬがおかまいなくバお気晴しにどうぞおきかせ下さいませぬか
と問へども何の答へもなく、腕こまねきて思案のさま、一としほ、心さわがれて
《もしお聴かせなされてハ被下ませぬか
とひざ進ませて一心に、まもりつめたる有様を、見るに此方もあはれに思ひ、
《其様に血相かへて聴く程の事でもない大層らしく考へ込んでつひ云はなかツたのがわるかツた実ハ今日ぎりおまへにハ音信をたつも知れぬ故心計りのいとまごひをしに来たからそれでつひ云ひ出し兼ねてふさいだのさ……実にいま迄ハあとさきも考へぬ事をしてをツてそれが為めおまへに迄気の毒な思ひをしなけれバならないのもみんな自身のつゝしみのないからの事是だけハ只平あやまりにあやまるより外ハない腹も立ふが心中を察してゆるして下さい
と聴てはツとハ思へども、元より其身のいたづらから、かくなりゆきしことなれバ、今更何と悔ゆるともかへらぬ事とかれこれを、恨みつらみて彼の人の、心を悪しくせん事ハ、好ましからずと心をなほし、
《大ていおさツし申ましたそれハ何よりおめでたい事共にお祝ひ申まする
と云ひし計りに其後ハ、さすがに迫る胸の中、察しハすれどなまじいに、やさしき言かけもせバ、却て後の思ひをバ、ましもやせんとゑみをつくり、
《そう事もなげに云ふて呉れバわしも何より心嬉しい此事さへ云ふてしまヘバもう気にかゝる事ハないもう日もたつぷりと暮れた様子一とまづ帰る事としませう
《一とまづならバまたいつかお出での時をたのしみに待くらしもいたしませうが只今お別れ申上れバお目にもかゝれず私もお目にかゝらうとも存じませぬ故……
とあとハ何やら口の中、思はぬ罪を作りしと、心に詫びて立上り、
《サアも何も云ふて呉れるなもうわしハ帰るから
とそろへし下駄をはきかけしが、さすがふびんと振廻れバ、此方も同じ園の梅、にほはす風にさそはれて我を忘れてきなく鶯。
夏 こゑハせで身をのみ焦す螢こそいふよりまさる思ひなるらん
夏の夜の、月ハさえてもさえやらぬ、心の中のもやくやを、たれに語らんすべもなく只うつうつとねやの中、漸消え残る燈を、かい立ながらくりかへす、文字ハ定かに見えねども、をりをりよする眉ぎはの、波に憂しとハ知られたり、よそをはゞかる口の中
《心ならぬ此書状……我夫が御容体如何に渡らせ玉ふにやをさなき頃より親々が云ひなづけして二人の、成人日を楽しみて互に障りなき様にと、心に心つけ玉ひし、其の甲斐さへもあなうれし、来る五月の始めにハ、めでとう縁を組ませんと、のたまひたりし其の日より、一ト日をまつハ千秋の思ひハ同じくおはさんなれバ、わづかな病にさへぎられ、伉儷の期を延バせよと、のたまふ事ハよもあらじ、さすれバ手足もきかぬまで、いたうやみつき玉ひしか、若しさもあらバ舅姑御が、来よと迎の御文もあるべきものをさもなきハ、親しくしてもどこやらに、隔て心のある故か……否々、諸事に拙なき妾より、彼方をしたふ心根に、引くらべしハ心のおごり、よくよく思めぐらせバ、身ハ片田舎に人となり父の導き母様の、教によりてやうやうと、女子の道ハ知る物の、才拙くて夫さへも、全ふハをさめ得ず彼方ハ都に育ち玉ひ、見聞も広く其上に、まだ年若くましませど、才ある故に人々に持囃され玉とハ、都にゆきしひとの言、何一つとて彼の人に、ふさはしからぬ妾をバ、いつ迄思ひ居玉ふべき、若しやこ度の御病気ハ、いつわりにてハあらざるか、妾をいとひ玉ひての、延期とあらバ其様に、あから様にのたまふともはしなく恨みハなさぬもの、いツそ父上母公に、こひて今より都へ行き、事の様子を問ひ申て、しぎによツてハ我心定めんものかさるにても、此身ばかりが云ひしとて、舅姑御のやすやすと、うけがひハしたまはじ、こハ如何してよからんと、さすがをとめの
一とすぢに夫のことをおもひつめ末ハみだるゝをだまきの、いとも果敢なきことどもを、思ひまはすぞ無理ならぬ、となりの室にふし居たる、侍女のお玉ハかくぞとも、こゝろ付かねバ真夜中頃、ふと目を醒し、坐敷の火影に驚かされ、早夜明しかとあたりを見れど、窓よりさし入る日影もなし、さてハ又もや嬢君の、思ひにくしてろくろくに、いねも得やらず居玉ふなるか、かくてハ終に御身の上に、恙もあらんさりとてハ、おそばをまもる我身の不かく、まづともかくも心をバ、なぐさめ申あげなんと、主を思ひのたのもしく、そと起上りてきぬをかへ、しはぶきすれバ座敷にハ、ひろげし文をおし隠し、ありあふ草紙取り上げて、余念もなげに打眺めぬ、お玉ハ襖おしひらき、ていちやうに手をつきて、
《こハ嬢君にハ、まだいね玉はではおはせしか、かく真夜中過迄も、いね玉はでハ御身の為めに、必らず悪しふ候ぞ、父母公の見玉はゞ、又如何様に案じ玉はん思しめし煩はさるゝ事も、さはにてハおはさんなれど、何ごとも父母公の、御計らひにまかし玉ひて、一人きなきなおぼされな、嬢君のむづかり玉ひてハ、妾迄が心ぐるしく、かなしふおぼえ候ぞ、努思ひ煩らひ玉ひそ、夜あくる迄ハ一と休み、やすみ玉ふひまもあり、まづいね玉へよ
とかたへなる、みだれ箱をバ引寄れバ、嬢ハ是非なく立上り、衣かゆるさへ力なく、猶ももつるゝ乱れ髪、心の中になでつけて、
《どふぞ母公へ、今夜の事ハお耳へ入れず置きてたべ、卿のまめやかなる言葉にて、早胸ハとけたれバ心安ふいねてよ
と、きぬ打かづけバ安堵なし、
《さらバおやすみあれかし、
と言を跡におのが室、下りしあとハしんとして、早一と言も声ハせで、思ひに身をば、こがすほたる火。
秋 風さわぎむら雲まよふ夕にもわするゝまなくわすられぬ君
いつしかに、萩の下露ぬれ初めて、楽しくすだく鈴虫の、宿をあらしてあともなき、野分の朝の心地しつ、恋する人をまつ虫の、音にのみなけど甲斐もなく、思ひますほの篠すゝき、互のきゞくかはらずとも、此の世の縁きりぎりす、はかなき身ぞといたづらに、人を思ひに身もやせて、力なくなくよりかゝる、れんじのそとに影しげく、松の木の間をもる月も、心と共におぼろなり、折柄さツとふく風に、つれて聞ゆる人声ハしのびやかなる男の声、我名をよぶハ心得ずと、よくよく聴バこハいかに、朝夕恋ひし其人の、茲に我身のあるぞとも知るよしなきにおとのふハ、心のまよひさもなくバ、狐狸のわざなるか、それかあらぬかと計りに、ためらふ処へ案内もなく、入り来し人の顔見るより、あツと計りの打驚き、二た足三足タヂタヂと、物さへ云はで引下り、どツとすわりて茫然たり、此方ハさこそと近くより、
《あゝよく茲にゐて呉れたな、
と云はれて始めて己にかへり、
《あゝよく茲迄……
と取縋らんと為したがるが、何思ひけん形をあらため、
《どふしてあなたハ此処へ、お尋ねなされて下さりました、日頃噂に聴た程の、見上げたお心とハ思はれませぬ、お別れ申す其をりに、再びお目にかゝらうとハ存じませぬと申したを、無下にお聴下さりましたか、一旦賎しいはしためを、つとめてハをりましたれど、心迄が其通り、賎しうなりハ致しませぬ、か様に申上ましたら、何ぞや是迄受けました、御恩を忘れてしまふたかと、おいかりも御座りませうが、あの時受けた御恩の程ハ、たとへ如何なる事があツても、決して忘れハいたしませぬ、わすれねバこそ此様に、むきつ気にも申まする、……お腹を立て下さりますな、……もし若旦那様、どうぞ今夜ハ此まゝに、他へやどりをお取り遊ばし、あすにもならバ一時も早く、東京へお帰り下さいまし、私しの身に取りましてハ、其方がどの様に、うれしい事か知れませぬ、……逐立る様でハ御座りますが、かうして二人御一所に、入まじらずにをる事ハ、心がどうもすみませぬどうぞどうぞと、涙ながら、畳に顔をすり付けて、たのみつわびつひたすらに、帰るをうながす心の気なげさ、こなたハいたく恥入りて、
《若し御身にて非らざりせバ、我身ハくさりはてなんに、よくぞいけんを為し呉れし、礼をのぶべき時もあらん、今日も此まゝ別れんと、云ふかと見れバ忽ちに、姿ハ見えず成りしかバ、今は人目もいとふべき、声をかぎりにふり立て、
《数ならぬ身をあく迄に、なさけをかけて玉はる事有難しともゝつたいなしとも、心にハ一日とて、忘れし時ハなき物を、たまたま尋ね玉ハりし、お礼も申さず過分なる、異見立せしはしたなさ、うわべハ何気なき様に、おほせられても心にハ、嘸恩義をも知らぬぞと、さげすみ玉ひし事ならん、切なき情を打捨て、つれなく云ふもお身の上、大事と思ふ一とすぢより、……他に心ハ候ハず、ゆるし玉へ、
と、斗りにて、わツと斗りになき立つる、声きゝつけて此家の老婆、
《もしもし、夢でもごらんなされたか、……ひどうないて御座る様子、……お湯を一つめし上れと、
ゆり起されて目をひらき、
《有難う存じます、……何だか妙な夢を見ました故それでないたので御座いませう、
と体よく前ハつくろへど、つくろひ兼る我が胸ハ、常に思の満ち満ちて、わするゝ間なくわすられぬ君、
冬 あげまきにながき契をむすびこめおなじところによりも合はさん
山辺にも、野辺にも敷くやしろがねの、実にうるはしき雪気色いとゞ眺めも広庭の、池に遊びて愛らしき、おしのつがひのそれよりも、猶睦まじき若夫婦
《実に月雪花ともてはやす程有りて、美はしき眺ならずや、
《屋敷とちがひ、此処ハ、となれる家もはべらねバ、又一しほに候ぞかし、
《あれ見よ、寒さ知らぬかあの様に、楽しう遊びて居る事ハ……それそれ、道太郎ハいづれへ行きしか、見せなバ定めてよろこぶならん、
《道太郎ハ米事が、さきの頃に鳥見せんとて、離れの方へつれゆきはべりき、
云ひつゝあたり見廻して、夫のそばに膝すりよせ、
《いつぞや夫のおほせも候ひしまゝに、今日米をよびよせて、嫁入の事を進め候ひしが、一向に受引申さず、さまざまにまをせし処、操を破ぶるをおそれてと迄、申出候ひし故、妾も強ふるに強兼ねて、其まゝにもだし侍りぬ、
と聴て此方ハ何思ひけん、ハーとゝいきをつきしかど、妻ハ是に心付かずや、再び、小声に言をつぎ
《彼事ハ下婢にも似ず、心まめやかに見えしまゝ、老松とやらん云ふ料理店より、主人に乞ひて連れまゐりしが、妾が見しにたがはずして、心まめなるのみならず、よみかきの道も暗からで、女子の道にも総て通じ、通常の教をバ、受けし者すらおさおさに、及ばぬ程にて侍るなれバ、道太郎を守らするにハ、誠に心安う候程に、永々妾が手許にさしおきたく、……いつぞや夫にハ、若し嫁入の義を否と云はバ、ひま取らせよとのたまひしなれどそハ夫のお言とも覚えはべらず、まげて彼ハ留め置き玉はれかし、
《左迄卿の心にかなひしならバ、心まかせに為し玉へ、
《それにて安堵なしはべり、
余念もあらず両人が語らひありし次の間に、ひそかにむせぶ女の声、聴くに不審と立上り、襖の方へとあゆみ行くを、夫ハ何かあわたゞしく、
《雪……雪
夫の声の耳に入らずや、雪子ハ襖おし開けバ、外にハお米が正体なく、声も涙にひれふして、まろぶが如く室に入り、
《もし旦那様、……、道夫様、私しハ奥様へ、お顔向がなりませぬ、
《さ云ふハ奥が我等の事を、……
《御存じあツてのお取計らひ、
と聴て今更面目も、ハツと計りにさしうつむき更に言も無かりけり、お米ハ少しく頭を上げ、
《去る七月の廿五日天満宮のお帰りがけ奥様が老松へお寄り遊ばした其なりに私事ハ病気の為め体の労れに二階ハ廻らず座敷をあづかツて居りましたがあなた様のお内方とハ存じもよらずお給事に出たが御縁と思ひの外あとにて聴けバあのをりに次の室にてほうばい衆が私しの病に附きもツたいないあなた様のお噂を申たとやらそれをバお聴遊ばして不びんとおぼしてのお計らひ有がたすぎてお恨らめしいそれと知ツたらどの様にどなたがお進め遊バそうとも一旦誓ふた言に向ひ決して動きハいたしませぬ物……上ツて調度三日目にあなた様にお目どほりいたしました時の其苦さ直におひまを願ふてハ奥様のおぼしめし如何と思ふたも浅どひ考へ一日二日とのびる中奥様ハ何やかと新参の様にもなくお目をかけて下さりますし道太郎様ハ追々と米よ米よとおなつき遊ばし恩と愛とに引かされてようおいとまも願ひませなんだ……
《あゝこれ米妾が知らぬ顔せしハ悪かれとてにハあらぬぞかし夫のおためそなたの為め我心から引くらべて思ひ過ごした妾があやまり底意ありての事にハあらねバ夫にも必らず妾をバさげすみて玉ふな
とさかしけれどもどこやらが、まだおぼこげにきこゆるハ、年のゆかぬ故なるべし、道夫ハたれし顔を上
《左迄事実を知りながら只の一度もみぶりをバ見せぬもみんな卿がたしなみ何条我が下すむべき我こそハ如何様に心くさりししれ者と云ひけなさるゝも是非なきに卿等二人の赤心より人にも知られで過ぎし事礼のぶるべき様もなし過ぎ来し事ハわびもせん此後共に我道夫を追々大事を取るに付け保佐をたのむハ妻なるぞ只をしきハ米が身の上かゝる貞婦を只一人……
《是もかくなる約定にや……ア妾さへあらなくバ……
《左様な事ハ露程もおぼし召て下さりますな……勿体ない様でハ御座りますが私ハ道太郎様があの様にしとふて被下ます故に我子の様に思はれましておひとゝなり遊ばすを待遠しう存じまする……勝手がましい申分ながらぶてうはふも御座りませうがあなたの御成長遊バす迄おそバにお置き下さりませ
《そなたさへよきならバ道太郎が事ハ云ふ迄ものう妾が為めのかたうでに一生つとめて玉へかし
語るなかバへ道太郎、乳母におはれて室に来り、三人の顔をかはるがはる、見つゝしきりに笑みつくり、雪子の方に身をのり出せバ、雪子ハ是をいだきとり、あやせバわらふ愛らしさに、三人ハいつか憂き事も、とけて楽しきあげまきの、いとより長き契をバ、むすびこめたるいもとせに、つながる縁の主従が、心の程や如何ならん、
初出: 『読売新聞』明22・10・６、７、８