水蜜桃
冷えた水蜜桃は
少女の頃のわたしの足のうら
冷えた水蜜桃の産毛は
若い母のうなじにそっくり
冷えた水蜜桃のかなたに
さびれた海浜の貝殻たちの呟き
冷えた水蜜桃のうす皮には
退色していく家族の写真
冷蔵庫のほのぐらい丸い空間には
水蜜桃の夢のなごり
ああ 隠れて食べてしまいました
ローズピンクのおおきな水蜜桃を
夏の終わりのことでした
真夜中のキッチンであの水蜜桃に
するどいナイフの刃を当てたのは
死んだふりして
ここに住み続けて大人になったのだけれど
いつか知らないうちに
出石町から西大井に変わり
素直に郵便番号を手紙に記さなければならなくなり
消された記憶がふいに
飛び出してさまよう日暮れのとき
もの想いに耽りたいのに
夕食の支度だわ
誰が感謝してくれるの
誰が喜んでくれるの
そんな不満はうすぎたないわね
一日のうちでいちばん素敵で
ロマンチックな雰囲気の終わりの風に吹かれ
ときには料理当番の修道女のように
わたしはキャベツをもてあましている
キューリもトマトもレタスもなんでもあるわ
八百屋を開けるほどじゃないけど
レストランのメニューに載る料理も出来ないけど
なにしろなんか作らなければならない
地球の自転に逆らえないのと同じ
日常には正確さと確実さが必要なのよ
食欲がなくても家族のために
この大切な一生を捧げるなんて
バカみたい
そう想うとき
私は死んだ人たちを思い浮かべることにしている
もう なにも出来なくなった人たち
彼らと語らい笑いあい
ともに食したお料理など
色どり豊かに思い浮かべるなんてことは
出来ないけど
なんだかセンチメンタルな気分で
きざんだキャベツは
しょっぱいかもしれない
爆発したい気持をエプロンに包んで
こうして穏やかで落ち着いた大人の女でいるのって
実は大変な努力がいるのよ
死んだふりしていると知っているのは
いまきざんだキャベツかもしれない
そら ガスに火をつけたわ
フライパンの機嫌をうかがい
平凡なキャベツを
盛大なご馳走に仕上げてみせますわ
時代は変わる
風呂屋が消えた
煙突も消えた
赤い ゆ の字の
のれんも消えた
疲れを流した場所には
マンションが建った
何十個か百個かバスタブが
横にずらり縦にも浮いていて
ひとびとは
てんでんばらばらに入浴している
赤い ゆ の字の
のれんは
夕焼け空ではためく
むなしい気持を雲に語る
充分に役目を果したよと
慰めて欲しいから
オレンジの花の香り
すべての人が愛しあっているような
バルセロナの初夏の黄昏どき
街角で
一本のオレンジの木が葉を繁らせ
近づく宵闇に
浮く白い花
清楚な色とは異なる強烈な甘い香りが
あたり一面に漂っていたわ
夜が恋そのもので
神さまも黙認せざるを得ない
十字架に縛り付けられていますから
人間は
神に似せて創られたそうですが
わたしは修道女にはなれない
殉教なんて怖いから
普通の女でいいんです
すぐそばにはカフェやバーの灯りが
うずくまる猫の目の光のように
気持の裏側を刺戟するんです
教会のロウソクの炎とは
どこか違う光で
入りたかったんですけど
女がひとりで入っていけない時代でした
若い私は
きれいな男と恋をしてみたかったけれど
午後六時には家に居るべき
まともな家の娘はね・・・と
下宿の管理人に言われていたので
それだけではないわ
何かあったら責任は娘のほうよともね
見えない掟があったわ
あのころのスペインには
私の恋は
オレンジの白い花の香り
異国の思い出にしては
清らかすぎて嘘みたい
ジプシーにもなれない
ギターも弾けない
強烈な出来事がなにもない一年間でした
けれども
思い返せば
それは鮮烈な一冊の詩集のような日々でした
少年の日
なんで生まれてきたの
どうして死ぬの
かあさんに聞いたら
大人になったらわかるわよ だってさ
とうさんに聞いたら
おばあちゃんにきいてごらん だってさ
おばあちゃんちへいくときはリュック持ってく
帰りはパンパンにお菓子が入ってる
おじいちゃんのひざにのっかってテレビ見てたら
大きくなったら映画みようねっていった
大きくなっておじいちゃんと映画にいった
トラックがバンバン走る映画でさ
よく こういうの作れるね なんて感心してた
小学校から帰るとき
ぼくの家じゃなくて
おじいちゃんちに行ったら
びっくりしてたよ
電車にのってだからさ
よくいっしょにごはんたべた
すきやきと塩鮭が大好きだったから
子どものくせにぼくもすきやきと塩鮭が大好き
二輪車に乗れた日
おじいちゃんに電話したら
えらい えらいってほめてくれた
おとうとが生まれて
ぼくはおにいちゃんになった
どうして生まれたのってかあさんにきいたら
かみさまの贈り物よ だって
おとうとがわらうと
みんなが かわいいって
ほっぺに チュするんだ
ぼくもよくやられたから・・・ためしにチュしたら
おとうとのほっぺはぷるぷるしてやわらかいんだ
おにいちゃんになって絵本からお話だけの本になった
絵本はおとうとにあげたんだ
ぼくが大泣きしたのは
おじいちゃんが死んだ日
ほんとうはその日おじいちゃんちへ行くはずだったけど
ぼくが熱だして行かれなかったんだ
ごめんね‥‥‥ずっとそう思ってる
腕時計
「いま 何時?」
と聞かれると反射的に腕時計を見る
なんの疑いもなく
二本の針が示す数字を知らせる
聞いたひとも
素直に信じる
重要な意味を持つナンバーを
信じないのなら
あなたは変人
約束の時間に遅れないようにと
駅の改札口を抜けたとたんに
電車が走り去ったりする
・・・ああ 今日は 運が悪い・・・
ぐちる目付きで恨めしそうに
腕時計を見る
そういうときには
身を縮めているように見える
ただ気分を紛らわせたいだけで
本当は
もう少し早めに出て来ればいいだけなのに
腕に何かを
付けるのが嫌いな人は
いつもすっきりと
正確に現れる
頭がいいのかもしれない
数字を信じていないのかもしれない
わたしは心も感情もない品を
なんで分身のように身につけているのかしら
それをしないで外出すると
大きな忘れ物をしたようで落ち着かない
もしかしたら
遅刻を確認するための道具として
好きなのかもしれない
それにしても
銀座四丁目の大きな丸時計はいつも堂々としている
風の腕時計のつもり?
残念ながら自然の方が
時の流れを熟知している
冷ややかな風のひとふきで
「ああ 秋ね」と知らされるじゃない
それにしても遅いわね
いつも時間に正確なひとが
あのひとのは狂っているのかもしれないわ・・・
少女時代
幼児のように眠るあなたをそのままに
わたしはするするとシフォンのワンピース着て
バックベルトのハイヒール突っかけ
小振りの黒いエナメルのショルダーを肩に部屋を出たわ
ホテルはいいわね無責任で
知人にも合わないしさ
みんなが働いているお昼過ぎだもの
浮気者なのわたしは
そんな自分が好きなの
小さい時からいい子できたから
大きくなって悪い大人になったのかしら
当たり前だわ
いい子なんて大人にはなんの魅力もない
ところで話は変わるけど
いい子だった時代も好きなの
*
父さんが帰って来るかどうかも解らないのに
夕方には
駅の改札口に居たわ何時間も
とても愛くるしかったから
近所のおじさんが連れて帰ってくれた
母さんは言った
「お父さんはね 何時になるか解らないの 帰って来る時間は」
そうなんだ 電話なんかしてきたりもしなかったし
父さんの帰って来る時間は知らないんだ
でも
わたしは夕方になると改札口で待ったんだ
あれが 父さんかしら 違う
こんどの男の人は また 違う
少女のころに夕焼け空を眺めながら
失望の感覚をこころの中庭に
植え付けてしまったんだ
だから失望するのにも慣れたし
勝手に期待するのは楽しい独り遊びをしているふり
孤独だったのかな
そうだ
孤独という感覚もすでに
味わっていたんだ
すごく切ないわたしの小さいとき
いま どこかの駅の改札口に立っていたら
あの頃の父さんがさ
現れたりして
「おかえんなさい」なんて飛びついたりして
そんな自分を
いい子 いい子と抱き締めてやりたい
妖精みたいな服を着せてさ
魔法使いの子どもが履く靴をはかせてさ
一緒に映画館で父さんが撮った映画観るんだ
父さんは映画監督だったから
封切りすると家族六人で浅草の国際劇場へ行った
父さんはお客の入り工合を
わたしたちはスクリーンを観た
かくべつに感想も言わずに映画館を出て
父さんを先頭に来集軒というラーメンやさんに行った
これが我が家族のお決まりのコース
みんな過ぎた時代遅れのシーン
父さんはかっこ良かった シャイでね
ファザコンでいいじゃない
女の子はほとんどがそうなんだから
*
ホテルにあなたを残してさっさっと出て来たのは
少女のころ待っても来ないという落胆への復讐
でも大人のわたしは悪女だけど罪人ではない
罪のタネはすでに少女時代に生まれていたのだから
月光のオートバイ
夜の古寺
お勤めを終えた僧侶たちが
祈りの檻から解放されて眠りに落ちると
誰も居ない座敷の金襖に画かれている
牡丹や虎がうごめきはじめる
精悍な虎の両眼からいな光りが放電され
だんだら模様の毛並がはげしく沸き立ち
襖を蹴破りジャンプするけもの
熟睡している山腹の寺がゆさぶられる
発光する虎を見送って
大輪の牡丹が呼びかける
夜明け前には帰ってきてね
わたしたち ここで踊っているから
無人のオートバイが飛ぶ
月光の森を
あっさり破られた信仰の闇
穴の奥から千年の時を抱いたエンジンが
轟音を鳴り響かせ
黄金のオートバイが宙へ駆けあがる
月光を満身に浴び
無人のオートバイが旋回する
座敷では決して散らない花びらをひらめかせて
牡丹は舞う
朝陽でふもとの町が目をさます少し前
オートバイに変身し
自由に疾走し満足した虎は
踊り疲れた牡丹と金襖に溶け込んでゆく
いつものように夜が明けて
古刹巡りの観光客が姿を見せるころ
金襖の絵の由来を
僧侶が説明する慣れた口調で
小鳥さえ止りに来ない木
生まれて 死ぬ
幸福だ 天寿をまっとうしたのなら
だが新聞 テレビには
ホラードラマがしっぽを巻く残酷な事件ばかりだ
それがありのままの現実だが
詩はなんの力にもなれない
いつかわたしだって理由も解らないまま
死者のお仲間に入っているかもしれない
だからといって
世の中はこんなものさと
他人の死に知らないふりをするのは傲慢だろうか
戸籍の名を×のしるしで消されたひとたちは
みなそれぞれの人生を謳歌したのだ
と思いたいのも無力者のひとりよがりだが
もっと思い知らされている人びとがいるはずだ
歯ぎしりの音があちこちに響くが
泣いても叫んでも
取り返しがつかないことが
降りかかったのだ
そう慰めるために
弔うというしきたりが生まれた
教会も寺も 墓石も生者のため
日常のリズムに組み込まれ
通夜や葬儀につきあわない人間は
冷たいやつと陰口を言われたりするが
それがいちばんいいことかもしれない
肉体の未来は死で
たましいは天のきわみに同化するとしても
生涯が完結し
群れを抜けてひとりの自分に帰る
いつも生活の先には必ず死が青白い翼をたたんで
待っているのだ
あるとき その翼がはばたくと
気持の良い風が吹き
うららかな新しい朝が訪れ
小鳥さえ止りに来ない一本の木が
雲もない真っ青な空の下に立つ
まるで枯れ木のようだが
枝には過したその人の日々が
かがやき ひらめいているのだ
銀色がかった虹いろの葉のように
長い時を経て 木は天への祈りになり
跡形も無くなり
真ッ平らな見知らぬ場所が
不意に あなたの目の前に広がるのだ
魂の自画像――あとがきにかえて
レオナルド・ダ・ヴィンチは一五〇三年、五十一才で『モナ・リザ』の制作に取りかかった。モデルはジョコンド夫人だとか母親だとかの諸説があり、精神性と肉体の魅惑がマッチした非常に神秘的な女性像としてフィレンツェ派の古典様式に多大な影響を与えた。特にその神秘的な表情と、何か物言いたげな薄い微笑が、人々を惹き付ける。しかし、わたしはこの絵を初めて観たとき、実物を観た満足感はあったものの、感動出来なかった。ところが、「モナ・リザ盗難事件」の犯人としてアポリネールとピカソが疑われたことで、一挙にわたしのなかで『モナ・リザ』がクローズ・アップされてきた。そして、時とともにこの絵がわたしになにかを語りかけるようになった。もっと観なさい、しっかり観なさいと。レオナルドがこの絵に込めたものを。その上、なぜ、注文主に渡さず、死ぬまで筆を入れ続けたのか。それも現在使われているチューブ入りの絵具が考案されたのが一八四〇年で、それまでは油で溶いた瓶入りの顔料か、溶いた絵具を豚などの膀胱に入れて持ち歩かなければならなかった。現代では考えられない不便さで他の画家たちも名作を遺したのかと感無量だ。気難しいレオナルドもこのような環境で『モナ・リザ』を描いたのだ。
いま書いている事柄は、全くわたしの勝手な妄想にすぎないが常に目の前のリモージュの絵皿に焼きつけられたこの絵を観るたびに、哀しい眼差しに想えてならない。若くして逝った母親が幼子を見守っているかのようなまなざし。背景には現実を、人物には自己の永遠の憧憬を描いているかのようだ。片方には薄い微笑を片方には寂しさをたたえた顔。レオナルドは物の輪郭がぼやける薄暮の時が一番美しいと称したそうだが、きっと、その時刻に彼の心はもっとも平安な状態で居られたからかもしれない。この絵に漂う寂しさには、父親への屈折した反発心からの同性愛、反社会的な行動などの感情が込められているのだろう。彼が『モナ・リザ』を手放せなかったのは、自分の魂を売るような気分になったからかもしれない。彼は人間としての自分を観たときに、宿命的な罪の意識を抜け、神により近い存在としての天使をも、この女性に含ませたかったのかもしれない。
以上のような感慨を込めて改めて『モナ・リザ』を観ると、彼女は意地悪さや冷淡さの奥から、暖かな慈愛のサインを送ってくれているようだ。人間の内面を司る精神、そのコアである魂が宿る絵。だから最初、逢った、あえて観たとは言いたくなくなった、あのとき目を背けたくなったのは、自分では気がつかないわたしの精神の闇を見せつけられたからか、とも思える。レオナルドのような超大天才さえ、苦しみ悩み恨んだりしたかと思うと、なぜかほっとする。そして詩を書く者のひとりとして、このささやかな詩集の中の一編、いや、一行でも読者の心に伝わればと願い、また、そのような詩が書ける詩人になりたいと思う。
二〇〇六年九月
堀内みちこ