つかまった編集者

 朝まだき、玄関の扉をたたく音がする。

 「朝日新聞の記者ですが……」

という声に、早起きの年寄りがドアを開けると、三人の男がドカドカと踏み込んで来て、私は寝込みを襲われた形になった。

 こちらから呈示を求めて、つきつけられた令状には「治安維持法違反の嫌疑により……」というような文句の末尾に、横浜地方検事局の山根某という検事の署名があった。

 有無をいわさず私はそのまま逮捕され、ひとかどの重大犯人扱いで、保土ヶ谷警察のうす暗い留置場にほうりこまれてしまった。送りつけられた荷物の品定めでもするような、卑しい目つきをした看守から所持品一切を取り上げられている折しも、空襲警報が鳴りわたった。その不気味なサイレンの響きは、遠くから近くから重なり合いながら、長く尾を引いた……。

 それは昭和十九(一九四四)年十一月二十七日のことであった。ちょうどその数日前に、B29六十機の初空襲があったばかりで、この再度の空襲は、開戦以来軍が国民の前に誇り、一時は太平洋の涯までひろがったかに見えた制空権が日に日に押し返されて、戦局の上におおいがたい転換が来たことを告げ知らせているように思われた。

 

 さっそく私は、警察の二階にある、ガランとした柔剣道場に引き出された。皮膚の青ぐろい、目つきの凶悪な、吉留という係警部補が、私をさし向いの椅子に坐らせ、押さえつけるような、ひややかな口調で「取調べ」を始めた。私は自分の姓名や住所などの、彼ら自身にも分かり切っている型通りの尋問に答えるのも待ち切れない気持で、なぜ自分が検挙されたのか、その理由を知らせてほしいといった。

 とたんに、警部補の声音が変わった。かれは私の前に棒立ちになり、

 「お客に呼んだんじゃねえんだぞ、この野郎! いい気なことをぬかしやがって、おい!」とどなり、私の肩を強くこづき、いきなりイスの足をけとばした。硬いリノリウムの床に、苦もなくひっくりかえった私の上に、きちがいじみたドラ声がおっかぶさってきた——「天皇陛下の名において、お前らは、いまここでぶち殺してもいいんだぞ! 戦争を何だと思ってるんだ!」

 もう十四年も前のことだ。あのころの記憶は大方うすれてきているが、この言葉だけは焼きごてを当てられたように、私の胸に残っている。「天皇陛下の名において」(!)彼ら特高の小役人どもをまで、まるで阿修羅のように居丈高にふるまわせ、無実の同胞に殺すぞとおどしをかけさせ、遂に現実に私たちの仲間の三人を殺させるに至ったこの呪文! この人殺しの一術を生み出した天皇制の「毒」を、私は決して忘れないであろう。

 私はそのころ、「取調べ」られるようなことは何もしていないはずであった。令状には、「治安維持法違反の嫌疑」によると書いてあったが、私は「国体変革」のための運動もしていなければ、「私有財産制度」をくつがえすような活動にもたずさわっていなかった。共産党員でもなく、むしろ意気地のない、善良な小市民——臆病なインテリの一人であると自分を思っていた。私は隣組の当番の夜はおとなしく夜警もしたし、近所から応召者が出れば人並みに見送りに出ることをいとわなかった。

 私が編集していた雑誌『日本評論』は、当時の権力によって強制的に「経済雑誌」部門に編入されており、その記事内容はすべて情報局の検閲を通過したものであったから、当然それは「戦争協力」のきびしいワクを越えるものではなかったし、越えられるものでもなかった。私はもう三年も続いている戦争が正しい戦争ではないこと、結局は日本の敗北を運命づける暴挙であることを、内心では確信していたが、そのことを公けに口にしたり、態度に現わしたりはしなかった。編集者としてなしうるぎりぎりの仕事は、「撃ちてし已まむ」式の、神がかり的な超国家主義にささえられた無謀な戦争政策に、ほんのわずかでもよい、合理的な制御と反省のきっかけを与え、目前に進行する惨禍を少しでも緩和することに役立つような示唆を、雑誌編集の上ににじみ出させようとすることであった。しかもそのささやかな努力すら、果してどれだけの力をもっていたことだろうか。かつて学んだことのある、きびしい弾圧のもとに書きつづられた革命家の「奴隷の言葉」のもつ偉力、ほのかに伝え聞いていた、フランスやイタリアにおける反ナチスの全人民的レジスタンスの業績——これらに比べると、私たち編集者の戦時下の仕事は、ものの数にもはいらない、はかない努力でしかなかったのだ。

 

 その私を、いま、神奈川県特高は「取調べ」はじめたわけである。当然それは「拷問」のほかの何ものでもなかった。あくる日から、私は署の裏手に当たる、刑事部屋風の、六畳くらいの和室に連れこまれた。窓には防空用の黒いカーテンをおろし、その真ん中に両手を後に縛り上げて坐らせられた私をめがけて、三人の「特高」たちがかわるがわる襲いかかった。竹刀でなぐり、根棒で突つき、頭を足げにして転倒させる。その息つぐ間もない、つるべ打ちの責め苦の合間を、聞くにたえない罵声、凌辱的なかけ声、恐喝と威嚇の叫びが埋める。私の視力は雷火を受けたあとのように昏迷し、私の心臓は早鐘のように乱打し、そして私の頭脳はジンジンとしびれて来た。一時間もたったあとに、暗紫色に腫れあがった両足を引きずり、痛む関節をそっと押さえながら、はらばうようにして私は留置場への廊下を歩かされた。

 拷問はそれから一週間、日課のようにつづけられた。私は、全然予期もせず、心構えもしていなかったこの暴力のもとに、自分の肉体と精神が屈辱にあえぎ、しかも日に日にくずおれて行くのを意識して、名状しがたいみじめさを味わわねばならなかった。

 

 この「拷問」は、いったい何のためであったのか。

 それは、私が自社で主宰していた編集会議が「共産党再建の謀議」であり、私の編集者としての仕事が「反戦活動」であることを強引に私に認めさせ、その上でそれを、かれらがでっち上げようとしていた一連の治安維持法違反事件——いわゆる「横浜事件」に結びつけるためであった。

 「事実をありのままに述べる」という私の言葉に、拷問は一応中止された。或る日、吉留警部補はさも得意気に私の前に一綴りの書類を出した。

 「つまらない意地を張るのはいい加減にしろよ。ほら、これはお前の仲間の調書だ。この調書さえあれば、お前が赤だってことははっきりしてるからな。」

 総合雑誌『中央公論』の編集者で、すでにこの年の春に捕えられていた小森田一記、私が親しくつきあっており、集会の席でも度々会っていたかれの署名のついたその書類に目を通したとき、私は驚いた。ひとかどの共産主義者としか思われないような左翼用語を使って、私も共にしたことのあるかつての会合や相談、いなお茶を飲みながらの雑談の模様までが、いかにももっともらしく書きしるされているではないか。小森田自身だけではない、そこに登場する私もまた、共産党の戦略戦術をよくわきまえて、当面の帝国主義戦争の段階における反戦と革命を推進するために、英雄的に行動する人物と認められてもおかしくないような書きぶりであった。

 多少とも小森田を知っている私には、この「作文」はばかげていた。こっけいですらあった。かれは私と同じように、編集者としてのぎりぎりの良心を失うまいと努力してはいたが、かれが編集していた『中央公論』もまた、ときどき軍からの批判は受けながら、「戦争協力」の軌道をはずれることはなかった。大政翼賛運動を通じて戦争政策を合理的な方向に向け変えようとする昭和研究会的な考え方に対して、かれは私よりも積極的であり、会えばそのことを熱心に話すことがあったが、そのかれの思想や行動は、どう見ても共産主義的といえるようなものではなかった。

 その友人がこんなものを書いている! ばからしさは腹立ちに変わった。しかし次の瞬間、まずしい、当り前の事実の上に、これほど「革命的」な脚色をさせられるに至ったまでの、かれに加えられたであろう無残な拷問のことに思い及んだとき、友人への腹立ちはまた別なものに変わった。

 一犬虚にほえて、万犬実を伝う、という古言がある。当時、「一億玉砕・焦土作戦」へと突進し、そのための足手まといとなるものであれば手当り次第に切りすてようともがいていた天皇制権力としては、まだ心から随順していると思えないジャーナリズムの領域で、あえて一つの「演出」をする必要があった。その演出のためには、「虚」を与えてこれに一犬をほえさせなければならぬ。そうすれば、ほかの犬どもに、これを「実」と認めさせることは、やさしい仕事なのだ。まずはじめに手頃な犠牲者を一人検挙して「ウソ」を書かせることだ。そのためには、拷問くらい何でもない、万一殺すことになったって、こういう時節だ、何とでも恰好はつけられる……。

 吉留警部補の、いかにもわが意を得たというような、ニヤニヤ笑いの裏に、このたくらみを読みとったとき、この目前の「特高」をすら端役として操っている「演出者」に対して、私の胸底に沸き立った、恐怖と憎悪のいれまじった、ほとんど生理的な発作に近い悪感を、私は顔に出さないように苦労しなければならなかった。

 

 「事実をありのままに書いた」私の手記は、たびたびつき返された。「これでは出版社の普通の編集会議の記録にすぎないではないか。もっと共産主義のイデオロギーを正直に出すようにしろ」という注文だった。

 こんな無理な注文があろうか。虚構とこじつけによるほかに、いったいかれらのおめがねにかなう、どんな文章が書けるというのだろう。もしかれらの強請どおりの作文を書いたとしたら、同じように検挙されている私の同僚である彦坂や渡辺や松本は、そのためにさらに一層苦しむことになるのではないか。

 私は悩んだ。たとえ敗北しても、踏みこたえるだけは踏みこたえなければならない。

 現に、かれらが私から力ずくでもぎ取った「証拠物件」には、証拠らしい何ものも見出されなかったし、押収された書物は何かといえば、河合栄治郎編『学生と教養』ほか数巻の、いわゆる「学生叢書」その他数冊にすぎなかったのだ!

 

 明くれば昭和二十(一九四五)年の春、ある日「新入り」があった。がっちりしたからだつきの三十代の男、看守の扱い方ですぐ「思想犯」だとわかった。かれもまた、はいったその日から「取調べ」を受けたらしく、毎日留置場から呼び出されては帰って来た。

 何日目かの日暮れどき、息づかいも荒く、顔一面を紫色に腫れあがらせて隣の一房に帰ったかれは、そのまま横に臥してうめき声を出しはじめた。その声は高くなり、低くなり、そしてまた一段と高くなり、狭い壁と檻の中によどんだ、臭気にみちた大気をふるわせた。

 同房の者たちが急にさわぎ出した。うめき声はとだえ、かれは絶命した。かれはなぐり殺されたのだ!

 さすがにあわてふためいた看守の指図で房の鉄扉が開けられ、同房者の手で遺骸が運び出されるとき、私は思わず起ち上り、檻の鉄棒を堅く握りしめ、その檻の間から黙礼をささげた。

 そのあくる日、心臓麻痺という、いい加減な警察医の見立てで、かれの遺骸がよびつけられた遺族の手にボロくずのように引渡されたことを聞いたとき、私にはあのうす暗い檻の間から見た、犠牲者の横顔の暗紫色の大きなアザがまざまざと思い出され、するどい怒りに胸を突きさされた。

(それから間もなく、私はかれがかつての四・一六事件の関係者で、そのころは板橋あたりで小工場を経営していた赤峰という男であったことを聞いた。したがってかれは、私たちの事件とは関係がなかったわけである。)

 

 春が深まるにつれて、私に「調書」をとらせるために訪れる特高の足が次第に間遠くなっていった。たまに来て、鉛筆と紙を私に渡して、起きた炭火の向うに陣取っていても、係の警部補の物腰には落着きがなく、「取調べ」にも一向熱意を見せず、ともすると急に筆記を止めさせて、そそくさと姿を消した。こうなると、却って私の方がいつまでもほったらかされて、釈放の見込みも立たないことにいらいらしなければならなかった。

 空襲警報は毎日、しかも何回も鳴りひびいた。新しくはいって来た経済犯の口から、すぐ近くの保土ヶ谷トンネルを出た列車に、敵の艦載機の集中掃射がおこなわれ、その乗客の悲惨な死傷のさまを聞かされた。

 B29の爆撃も頻繁になった。ある日投下された焼夷弾は、私たちの留置場の屋根に命中した。炎がひらめき、煙が房内に立ちこめ、留置人は総立ちになって、釈放してくれと騒いだが、錠はおろされたままだった。私はこのとき、明らかに近よってくる死の足音を聞いた。

 つづく横浜大空襲の際には、もう警察署そのものの安否が気づかわれるまでに、戦火が肉迫して来た。私は手錠をかけられたまま、署の前の広場に掘られた防空壕に待避させられた。その壕の中から、空の半ばを黒くして、地上の非力を無視するかのように整然たるV字形を保って飛翔する爆撃機群——その機上から、奇怪な甲虫の卵のようにひっきりなしに排出される焼夷弾が見えた。目を地上に移すと、横浜の町はもう大半が焼け落ちて、戦火は警察署の近くまで迫っていた。焦土と瓦礫の間を、大小の荷をせおった市民が、右往左往していた。

 やせた手首にあたる手錠の痛みに堪え、むせるような煙の中にうずくまりながら、私ははっきりと見た——この私を理由もなしに拘禁し、拷問し、死の一歩手前に追いやっている力、あの赤峰という青年をなぐり殺した力、そして今目の前に善良な市民たちを死地に駆り立てている力が、しょせんは同じ根元から発したものであることを。

 

 八月十五日が来た。正午、留置人もみな署のホールに連れ出され、署員とともに整列して最敬礼をし、「終戦の大詔」の放送を聞いた。妙な抑揚のある、漢語まじりの弱々しい録音を聞いているうちに、私は涙が出てきた。それはうれし涙でも、ありがた涙でもなかった。もちろん、くやし涙ではなかった。永い間のしかかっていた重みが急にとりのぞかれて、「自由」がそこまで来ているという手ごたえを伴なった、虚脱と安堵の涙であった。

 

 検挙されてからちょうど十カ月目、あの八月十五日から六週間目に、私は「不起訴」という名目で釈放された。それは、治安維持法の廃棄によって、共産主義者その他の思想犯が正式に解放された日よりも十日早かった。

 十カ月間、一度の入浴も許されず、時折り特高室に呼び出されるほかは運動も許されず、その上麺米というみじめな食事を三度三度とらされ、かてて加えて、しらみと南京虫に血を吸われた私のからだは、不潔と栄養失調のために、まるでささくれだっていた。下半身を蔽いつくしたカイセン(疥癬)は、腹から胸へひろがりはじめていたが、胸まで来たら皮膚呼吸困難のために死ぬだろうと、私はかねて思っていた。

 風呂敷包み一つを右脇にかかえて、私は雲を踏むような頼りない足つきで、国鉄の保土ヶ谷駅に向かった。きょう中に、家族の疎開先である熊谷の奥の村まで辿りつけるものかどうか。不安のまま乗り込んだ上り電車の混雑の中から、私は食い入るように窓外の景色を眺めた。

 見わたすかぎり、赤くただれたトタン屋根の壕舎のつらなり。その上に、敗戦の秋の空がひろびろと、さわやかな光をたたえて澄んでいた。