明治の与謝野晶子短歌(抄)

 『乱れ髪』

 

その子二十はたちくしに流るる黒髪のおごりの春の美しきかな

 

清水きよみづ祇園ぎをんをよぎる花月夜こよひ逢ふ人みな美しき

 

きやうにがし春のゆふべを奥の院の二十五菩薩ぼさつ歌受けたまへ

 

みぎは来る牛かひ男歌あれな秋のみづうみあまりさびしき

 

やは肌のあつき血潮に触れも見でさびしからずや道を説く君

 

たまくらにびんの一すぢ切れし小琴をごととききし春の夜の夢

 

ほととぎす嵯峨さがへは一里京へ三里水の清滝きよたき夜の明けやすき

 

なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな

 

ゆあみして泉を出でし我が肌に触るるは苦るし人の世のきぬ

 

三月みつきおかぬ琴に音立てぬ触れしそぞろの我が乱れ髪

 

かたみぞと風なつかしむ小扇こあふぎかなめあやふくなりにけるかな

 

四条橋しでうばしおしろい厚き舞姫のぬかささやかに打つあられかな

 

いとせめてもゆるがままに燃えしめよかくぞ覚ゆる暮れて行く春

 

昨日きのふをば千とせの前の世と思ひ御手なほ肩にありとも思ふ

 

 

 『小扇』

 

おもだかは少女をとめかいに乗りこえぬ君の歌へる七尺の舟

 

めしひなれば道と教へで往かしめよ荊棘おどろ変じて百合となる道

 

君さらばさらば二十はたちを石に寝て春のひかりを悲しみたまへ

 

人恨みわれと泣かるる日の多き里居さとゐしぬれば衰へぬれば

 

春の夜に小雨そぼ降る大原や花にきつねの出でてなく寺

 

ひとすぢにあやなく君が指おちて乱れなんとす夜のくろ髪

 

ゆきずりの丁子ちやうじゆかしや明方の夢に見に来ん山下小家やましたこいへ

 

日の限り春の雲殿とのにおよそ百人牡丹ぼたんに似たり

 

をとめなれば姿はぢて君にるこころあめ行く日もありぬべし

 

あめつちの恋は御歌にかたどられまつたかるべく桜花咲く

 

 『毒草』

 

友染いうぜんそで十あまりまるくより千鳥きく夜を雪降りいでぬ

 

我が春の笑みを讃ぜよ麗人れいじんの泣くを見ずやとひまなきものか

 

この君を思ひやしつる身やでし恋はおごりに添ひて燃えし火

 

相見んと待つ間も早く今日の来て我れのみ物は思ふおとろへ

 

君に似る白と真紅しんくと重なりて牡丹散りたる悲しきかたち

 

 

 『恋ごろも』

 

春曙抄しゆんじよせうに伊勢をかさねてかさ足らぬ枕はやがてくづれけるかな

ほととぎすきたまひしか聴かざりき水のおとするよき寐覚ねざめかな

 

海恋ししほの遠鳴りかぞへてはをとめとなりし父母ちちははの家

 

鎌倉や御仏みほとけなれど釈迦牟尼しやかむに美男びなんにおはす夏木立かな

 

ほととぎす治承寿永ぢしようじゆえいのおん国母こくも三十にして入りませる寺

 

よすれば香るいきはく石の獅子ししふたつむなる夏木立かな

 

髪にせばかくやくと射る夏の日や王者わうしやの花のこがねひぐるま

 

黒ずみの春さめふれば傘さして君とわが植う海棠かいだうの苗

 

ほととぎす過ぎぬたまたま王孫わうそんきんよろひを矢すべるものか

 

はすひしの実とりし盥舟たらひぶねその水いかに秋の長雨ながあめ

 

才なさけ似ざるあまたの少女見んわれをためしに引くと聞くゆゑ

 

花に見ませわうのごとくもただなかにをつつむうるはしきしべ

 

ややひろくひさし出したる母屋もやづくり木の香にまじるたちばなの花

 

祭の日葵橋あふひばしゆく花がさのなかにも似たる人を見ざりし

 

精好せいがうあけと白茶の金襴きんらんのはりまぜ箱に住みし小鼓こつづみ

 

たなばたをやりつるあとの天の川しろくも見えて風する夜かな

 

われを問ふやみづからおごる名を誇る二十四ときを人をし恋ふる

 

ここすぎてゆふだち走る川むかひ柳千株せんじしゆに夏雲のぼる

 

誰が子かわれにをしへし橋納涼はしすずみ十九の夏の浪華風流なにはふうりう

 

ななたりの美なる人ありすだれして船は御料ごれうの蓮きりに行く

 

水にさく花のやうなるうすものに白き帯する浪華の子かな

 

まる山のをとめも比叡の大徳だいとこも柳のいろにあさみどりする

 

金色こんじきのちひさき鳥のかたちして銀杏いてふちるなり岡の夕日に

 

ぢからのよわや十歩とあしに鐘やみて桜ちるなり山の夜の寺

 

兼好を語るあたひに伽羅きやらたかん京の法師の麻のころも

 

 

 『舞姫』

 

うたたねの夢路に人のひにこし蓮歩れんぽのあとを思ふ雨かな

 

家七室いへななま霧にみな貸す初秋はつあきを山の素湯さゆめでこしやまろうど

 

思ふとやすまじきものの物懲ものごりにみだれはててし髪にやはあらぬ

 

白百合しろゆりのしろき畑のうへわたる青鷺あをさぎづれのをかしきゆふべ

 

わかき日のやむごとなさは王城わうじやうのごとしと知りぬ流離りうりの国に

 

日輪にちりん礼拝らいはいしたる獅子王のとぞたたへんうらわかき君

 

かざしたる牡丹ぼたんとなり海燃えぬ思ひみだるる人の子の夢

 

われと燃え情火じやうくわたまきに身をきぬ心はいづら行方ゆくへ知らずも

 

山山に赤丹あかにぬるなるあけぼののわらはでしと染まりける

 

花草の満地まんちに白とむらさきの陣立ててこし秋の風かな

 

木蓮もくれん落花らくくわひろひてみほとけの指とおもひぬ十二の智円

 

春雨はるさめやわがおち髪を巣に編みてそだちしひなうぐひすの鳴く

 

軒ちかき御座みざと月光のなかにいざよふよるの黒髪

 

廻廊くわいらうを西へならびぬ騎者たちの三十人は赤丹あかにして

 

きぬぎぬや雪のかさする舞ごろもうしろで見よと橋こえてきぬ

 

高きに君とのぼれば春の国河とほじろし朝の鐘鳴る

 

保津川ほづがはの水に沿ふなる女松山めまつやまみきむらさきに東明しののめするも

 

萌野もえのゆきむらさき野ゆく行人かうじんあられふるなりきさらぎの春

 

わが宿の春はあけぼの紫の糸のやうなるをちかたの川

 

ゆるしたまへ二人を恋ふと君泣くや聖母にあらぬおのれのまへに

 

春いにて夏きにけりと手ふるれば玉はしるなり三十五のいと

 

すぐれて恋ひすぐれて君をうとまんともとより人の云ひしならねど

 

ふるさとのしほ遠音とほねのわが胸にひびくをおぼゆ初夏の雲

 

梅雨晴つゆばれの日はわかこえきらきらとおん髪にこそ青う照りたれ

 

紫と黄いろと白と土橋つちばし小蝶こてふならびてわたりこしかな

 

円山まるやまの南のすその竹原たかはらにうぐひす住めり御寺みてらに聞けば

 

をちかたに星のながれし道と見し川のみぎはに出でにけるかな

 

物思へばものみなものううたた寐に玉の螺鈿らでんの枕をするも

 

おとうとはをかしおどけしあかきに涙ながして笛ならふさま

 

沙羅双樹さらさうじゆしろき花ちる夕風に人の子おもふ凡下ぼんげのこころ

 

五月雨さつきあめ春がちたる幽暗いうあんの世界のさまに降りつづきけり

 

君にをしふなわすれ草の種まきによと云ひなばおどろきて来ん

 

京のしゆ初音はつねまゐろと家ごとにうぐひす飼ひぬ愛宕をたぎこほり

 

あやまちは君が牡丹とのみ云はで花に似し子をかぞへけるかな

 

鳴滝なるたきや庭なめらかに椿つばきちる伯母をば御寺みてらのうぐひすのこゑ

 

六月みなづきのおなじゆふべにすだれしぬ娘かしづく絹屋と木屋と

 

大堰川おほゐがは山は雄松おまつ紺青こんじやうとうすきかへでのありあけ月夜

 

夏のかぜ山よりきたり三百のまきのわか馬耳吹かれけり

 

香盤かうばん白檀びやくだんそへて五月雨さみだれの晴間を告げぬさもらひびとは

 

君まさぬ端居はしゐやあまり数おほき星に夜寒よさむをおぼえけるかな

 

朝ぼらけ羽ごろもじろあめの子が乱舞するなり八重桜ちる

 

春の海いまをちかたの波かげにむつがたりする鰐鮫わにざめおもふ

 

梅の花たき火によばれしら髪をかきたれなる隣の君よ

 

ほととぎす水ゆくらんにわれすゑてものの涼しき色めづる君

 

うらさびしわがのあとにつくると青埴あをはに盛るを見たるここちに

 

夏まつりよき帯むすび舞姫に似しやを思ふ日のうれしさよ

 

うすいろを著よと申すや物焚ものたきしかをるころものうれしきゆふべ

 

相人さうにんよ愛慾せちに面痩おもやせて美しき子にきことを云へ

 

公孫樹こうそんじゆ黄にして立つにふためきて野の霧くだる秋の夕暮

 

ほととぎす安房あは下総しもふさの海上に七人ななたりききぬ少女子をとめごまじり

 

大赤城おほあかぎ北上きたかみつ毛の中空にそびやぐ肩をあきの風吹く

 

うつら病む春くれがたやわが母は薬に琴をけよと云へど

 

やはらかにぬる夜ねぬ夜を雨知らずうぐひすまぜてそぼふる三日みつか

 

牡丹ぼたんうゑ君まつ家と金字きんじしてかどに書きたる昼の夢かな

 

冬の日の疾風はやちするにも似て赤きさみだれ晴の海の夕雲

 

春の水船にたりのさくらびと鼓うつなり月のぼる時

 

水引のあけ三尺の花ひきてやらじと云ひし朝つゆのみち

 

春の雨高野かうやの山におんちご得度とくどの日かや鐘おほくなる

 

しらかば折木おれきを秋の雨うてば山どよみしてかささぎの鳴く

 

御胸みむねにと心はおきぬ運命の何すと更におそれぬきはに

 

舞ごろもいつたりあけ草履ざうりして河原に出でぬ千鳥のなかに

 

君とわれあふひに似たる水くさの花のうへなる橋に涼みぬ

 

いとかすけくくはが子のすそ杜鵑とけん待つなるうすくらがりに

 

春のかぜ加茂川こえてうたたねのすだれのなかに山吹き入れよ

 

いそ松の幹のあひだに大うみのいさり船見ゆ下総しもふさの浦

 

十余人縁にならびぬ春の月八坂やさかの塔のひさしはなると

 

さくら貝遠つ島べの花ひとつ得つとゆふべの磯ゆくわれは

 

かきつばた扇つかへる手のしろき人に夕の歌書かせまし

 

富士の山浜名のうみ葦原あしはらの夜明の水はむらさきにして

 

傘ふかうさして君ゆくをちかたはうすむらさきにつつじ花さく

 

いつの世かまたは相見ん知らねどもただごと云ひて別るる君よ

 

橋のもと尺をあまさぬひたひたの出水でみずをわたりかみに入る

 

石まろぶ音にまじりて深山鳥みやまどり大雨たいうのなかをくがわびしき

 

みづうみに濁流おつるの音をおそれてねぬ山の雨かな

 

秋雨あきさめは別れにりしそのかみの柱のごとくなつかしきかな

 

画師ゑしの君わが歌よみし京洛の山は黄金こがねでいしてけな

 

やはらかき少女をとめが胸の春草に飼はるるわかきこまとこそ思へ

 

わが哀慕あいぼ雨とふる日にいとど死ぬ蝉死ぬとしも暦をつくれ

  

天人てんにん飛行ひぎやう自在にしたまふとひとしきほどのものたのむなり

 

にさむき涙つたふに言葉のみはなやぐ人を忘れたまふな

 

半身にうすくれなゐのうすもののころもまとひて月見るといへ

 

 

 『夢之華』

 

おそろしき恋ざめごころ何を見るわれをとらへん牢舎ひとやは無きや

 

今日もなほうらわか草の牧を恋ひ駒は野ごころ忘れかねつも

 

水のくまうすくれなゐは河郎かはらう夜床よどこにすらんなでしこの花

 

山をちこち遊行ゆぎやうの僧の御袈裟みけさとも見えてはだらに雪ときにけり

 

君めでたしこれは破船はせんのかたはれの終りを待ちぬただよひながら

 

物おもへばなかにみじかき額髪しばしば濡れてくせづきしかな

 

三月は柳いとよし舞姫の玉のすがたをかくすといへど

 

まろうどは野田の稲生いなふをまろびこし風あまたゐるにおはしませ

 

雲のぼる西の方かなあまあがり赤城平あかぎだひら百合ゆりしろうして

 

春の磯こひしき人の網もれし小鯛こだひかくれて潮けぶりしぬ

 

いくよろづあめ御厩みまやのおん馬は白毛のみなり春の夜の星

 

たちばなのかぐ木蔭こかげを行かねども皐月さつきは恋し遠居とほゐる人よ

 

柱云ひぬれ待ちたまふ春の夜を君はなよらに身じろぎがちに

 

地はひとつ大白蓮だいびやくれんの花と見ぬ雪のなかより日ののぼる時

 

三吉野みよしののさくら咲きけり帝王のかみなきに似る春の花かな

 

あるゆふべしよくとりわらは雨雲のかなたにかくれ皐月となりぬ

 

恋人は現身げんしん後生ごしやうよしあしもわかたず知らず君をこそたのめ

 

夕にはゆきあふ子なき山なかに人のすなりむらさきの藤

 

遠き目に比叡ひえとも見たるいただきや大文字だいもんじあるおぼろ夜の山

 

わが鏡たわつくらせし手枕たまくらを夢見るらしき髪うつるかな

 

水仙を華鬘けまんにしたるなな少女をとめ氷まもりぬ山のみづうみ

 

わが肩に春の世界のもの一つくづれしやと御手みてをおもひし

 

ほととぎす赤城の山のすそにして野高き草の夕月夜かな

 

君乗せし大馬おほうまとわが驢馬ろばとならべて春の水見る夕

 

黒けぶり青きけぶりとまろび出ぬ大船たいせんくると島のかげより

 

八月の湯槽ゆぶねに聞きしうぐひすの山をおもひぬ朝霧のまち

 

思はるるわれとは無しにゆえもなくむつまじかりし日もありしかな

 

天地あめつちのいみじき大事一人いちにんのわたくしごととかけて思はず

 

あらし山名所の橋のはつ雪に七人ななたりわたる舞ごろもかな

 

遠き火事見るとしもなきのろのろの人声すなりの刻のまち

 

ほととぎす東明しののめどきの乱声らんじやうに湖水は白き波立つらしも

 

かたはらにみづから知らぬひろき野のありて隠るるまぼろしの人

 

何鳥か羽音はおとしてきぬあかつきのあかねのなかを使つかひのやうに

 

まじものも夢も寄りこぬ白日はくじつに涙ながれぬ血のぼせければ

 

誰れ留めて春の名残なごりの歌かかんこきくれなゐの七人の帯

 

ませばこそ生きたるものは幸ひと心めでたく今日もありけれ

 

われに似て玉の夜床よどこにぬるものと鶯をこそ思ひやりけれ

 

をなごをかし近衛このゑづかさはえい巻きて供奉ぐぶにぞまゐる伊勢物語

 

はねじろの桜の童子ねぶりたり春の御国みくにのあけぼののさま

 

こき梅をよしと思はぬ人の子をとらへてまゐれ紅衣こういわらは

 

かへり見て母にならひしやまひすなとも云はず木太刀きだち

 

戸をくればくりやの水にありあけのうす月さしぬ山ざくら花

 

夏の花原の黄菅きすげはあけぼのの山頂よりもやや明くして

 

名なし草蚕子かふこまゆに似る花を春雨ぬらし暮れにけるかな

 

 

 『常夏』

 

つややかに春のならぶ円山へのりの灯ともる音羽おとはの山へ

 

河がらす水む赤き大牛をうつくしむごと飛びかふ夕

 

わが心さびしき色に染むと見き火のごとしてふことのはじめに

 

ものほしききたな心の附きそめしひとみと早も知りたまひけん

 

ふと思ふとせの昔海見れば足のよろめく少女をとめなりし日

 

むらさきの蝶夜てふよの夢に飛びかひぬふるさとにちる藤の見えけん

 

すすきの穂矢にひく神か川くまのされ木を濡らす秋の日の雨

 

十五じふご来ぬをしの雄鳥をとりの羽のごとき髪にむすばれわれは袖ふる

 

かぬを小雨ふる日はうぐひすも玉手さしかへるやと思ふ

 

これ天馬うち見るところのろ馬埴馬はにまのごときをかしさなれど

 

一瞬にあめに帰らん気色けそくすと云へども波は消えゆくものを

 

少女子をとめご御胸みむねに入りて一天下治むるごときこと執り申す

 

上卿じやうけいはけうらのをとこひげ黒に藤傘するは山しろづかひ

 

生れける新しき日にあらずして忘れて得たる新しき時

 

朝の雲いざよふもとにしきしまの天子の花の山ざくら咲く

 

臘月らふげつの来ると野寺のうしろやぶ穂すすきばかり雪かづくかな

 

ずてさびし三四の灯をうつす柱のもとのまろかがみかな

 

いつしかとえせ幸ひになづさひてあらん心とわれ思はねど

 

花ぐさの原のいづくに金の家銀の家すや月夜こほろぎ

 

風吹けば馬に乗れるも乗らざるもまばらにわしる秋の日の原

 

梅雨つゆさりぬ先づはなだ草初夏の瞳を上げてよろこびを云ふ

 

天竺てんぢく流沙りうしやに行くや春のみづ浪華なにはまちを西すみなみす

 

ふるさとを恋ふるそれよりややあつき涙ながれきその初めの日

 

二三騎はしたかげにはたはたと扇つかへり下賀茂の宮

 

あぢきなく古き戸口にしぬかをころもはかづくと云へど

 

しらしらと涙のつたふをうつし鏡はありぬ春の夕に

 

粉黛ふんたいかりといのちのある人と二あるがごとき生涯に入る

 

思ふ人ある身はかなし雲わきて尽くる色なき大ぞらのもと

いづくにかき酒もとめ食らへるにあらずやしきわが心ども

 

高き屋にのぼる月夜のはださむみ髪の上よりをさらに著ぬ

 

朝がほのあけむらさきをひといろに染めぬわりなき秋の雨かな

 

若き日の火中ほなかに立ちて相問ひしその極熱ごくねつのさかひにあらず

 

起きよと云ふいづれの王ぞこたふらく鶯飼へる御内みうち少女をとめ

 

白き菊ややおとろへぬ夕には明眸めいぼううるむ人のごとくに

 

仁和寺にんなじのついぢのもとの青よもぎふやと君の問ひたまふかな

 

紫の藤ばな散りぬ青の羽よきつばくらのづさ入るさに

 

火の中のきはめて熱き火の一つ枕にするがごとくもえぬ

 

加茂川の石みな濡るるむつかしと人を呼ぶなり夏の日の雨

 

いのち死なぬ神のむすめは知らねどもこの世にながくちぎりこしかな

 

わが産屋うぶや野馬やばのあそびに来ぬやうにさくつくらせぬしら菊の花

 

ももいろのもやのなかより春二日竜王のぢよの涙ふるかな

 

あかつきのあめの藤原ほの見えてわか紫のたな雲立つも

 

押しへされ野ばらの花はありきとよあづけし人にたまふことづて

 

あしうみいく杉むらの紺青こんじやうの下にはつかにわが見てし時

 

みづうみの底よりふる杉むらにひぐらし鳴きぬ箱根路くれば

 

 

 『佐保姫』

 

ばちに似るもの胸に来てかきたたきかきみだすこそくるしかりけれ

 

男にてはちたたきにもならましをしともかこちうらめしと云ふ

 

ものがたりなき上手じやうずの話よりもののあはれを思ひ知りにき

 

見るかぎり絵などに書きておきたまへひといろならぬ心の人を

 

あさましく雨のやうにも花おちぬわがつまづきし一もと椿つばき

 

わが前にあかき旗もつ禁衛きんゑいの一人と君をゆるしそめにし

 

朝顔のつるきて髪に花咲かば寐てありなまし秋暮るるまで

 

三尺さんじやくのたななし小舟をぶね大洋おほわだにおのれ浮沈す人あづからず

 

恋をしていたづらになる命より髪の落つるは惜しくこそあれ

 

やごとなき君王くんわうにひとしきは我がごと一人思はるること

 

夕風やすすのやうなる生きもののかはほり飛べる東大寺かな

 

むらさきの水したたりぬ手を重ね我がある岩の前の岩より

 

かなしさに枕も呼ばずわがれば畳のれつ初秋の昼

 

あざやかにさざなみうごくしののめの水のやうなるうすものを著ぬ

 

白蘭びやくらんの園に麒麟きりんを放つ日ももののはかなきなげきをぞする

 

秋の雨わたり二間にけんのわたどののほらの中より灯を執りてきぬ

 

冬の夜を半夜はんやいねざるあかつきのこころは君にしたしくなりぬ

 

人捨つるわれと思はずこの人に今重き罪申しおこなふ

 

美しき大阪人おほさかびととただ二人ふたり乗りたる汽車の二駅ふたえきのほど

 

見えぬもの来てわれ教ふ朝夕に閻浮えんぶ檀金だごんの戸のすきまより

 

ゆきかへり八幡筋はちまんすぢのかがみやの鏡に帯をうつす子なりし

 

秋立つや鶏頭けいとうのはな二三本まじる草生くさふに蛇打つおきな

 

ちかひごとわが守る日は神に似ぬすこし忘れてあれば魔に似る

 

さきに恋ひさきにおとろへ先に死ぬをみなの道にたがはじとする

 

大寺の石の御廊みらうにひざまづく瞽女ごぜのやうにも指組むゆふべ

 

水無月みなづきのあつき日中ひなかの大寺の屋根より落ちぬ土のかたまり

 

月見草つきみぐさ花のしをれし原行けば日のなきがらを踏むここちする

 

水へだてねずみつばなの花投ぐることばかりして飽かざりしかな

 

元朝ぐわんてうや馬に乗りたるここちしてわれはみやこの日本橋ゆく

 

いただきの松の雪ふるあらし山春の初めに君と見るかな

 

焼鉛やきなまり背にそそがれしいにしへの刑にもまさるこらしめを受く

 

左にて小刀つかひなど彫りける兄とはやく別れき

 

いつやらんわがためしき人生みし天地あめつちおもひ涙ながるる

 

牡蠣かきくだく人の十人とたりも並べるは夢想むさう兵衛びやうゑのものがたりめく

 

むつかしき謎をもてこし憎さより君と遊ばずなりにけるかな

 

うまごやしこれらの低き草も吹く秋風なれば身にみにけり

 

さうび散る君恋ふる人やまひしてひそかに知りぬ死の趣を

 

静かなる相模さがみの海の底にさへふかむと云ふなほよりがたし

 

子らのきぬ皆あたらしく美しき皐月さつき一日ついたち花あやめ咲く

 

おどけたる一寸法師舞ひいでよ秋のゆふべのてのひらの上

 

わがひぢに血ぬるはちさき蚊のぞうもするとかたきをさそひけるかな

 

花かをる園に覚めたる少女子をとめごは君が心におくれてむくゆ

 

てぐるま宣旨せんじこれらの世の人のうらやむものをわれもうらやむ

 

白麻しらあさに千鳥染めたる夜のものをあさましからずかづける少女をとめ

 

ある時のありのすさびもあはれなるもの思ひとはなりにけるかな

 

雨がへる手まりの花のかたまりの下にくなるすずしき夕

 

男きてれがほに寄る日を思ひ恋することはものうくなりぬ

 

うき指にうすずみちりぬ思ふこと恨むことなど書きやめて寐ん

 

たをやめはおもがはりせず死ぬ毒と云ふ薬見て心まよひぬ

 

わが心ひと時あまり青めりと聞かんばかりにそむきしや彼れ

 

長椅子にひざをならべて何するや恋しき人と物おもひする

 

君にふみ書かんと借りしみよし野の竹林院ちくりんゐん大硯おほすずりかな

 

夏の日もありのすさびと云ふことを知らぬやからは毛ごろもを著る

 

一しずく髪に落つれば全身の濡れとほるらん水にたへたり

 

踏むところ沙阪すなさかにして松はみな黒きかげおく有明月夜ありあけづくよ

 

はかなごと七つばかりも重なればはなれがたかり朝の小床をどこ

 

朝顔の枯葉を引けば山茶花さざんくわのつぼみぞ見ゆる秋のくれがた

 

いもうとと七夕たなばたの笹二つ三つながるる川の橋を行くかな

 

島のいへひと木草きくさもくろからんかく思ひけり黒き島見て

 

神ありて結ぶと云ふは二人居て心のかよふことを云ふらん

 

ことばもてそしりありきぬそむくとはすこしはげしく思ふことかな

 

いとあつき火の伽具かぐつちのことばとも知らずほのかに心染めてき

 

人の世にまた無しと云ふそこばくの時の中なる君とおのれと

 

たとへなばさしひきも無きみち潮の上にのどかに君はある船

 

いにしへの和泉式部いづみしきぶにもの云ひし加茂のはふりはわれを見知らず

 

いただきにありあけ月の残りたるいとほのかなるあらし山かな

 

手にちかくたやすきは皆人とりぬひろの底の玉はがこと

 

うすべにの楕円の貝を七つつてのひらに載せものを思へる

 

君きぬといつつの指にたくはへしとんぼはなちぬ秋の夕ぐれ

 

ほのかにもかねて心にありし絵のもの云ひにこし夜とおもひぬ

 

わが髪のすそにさやさや風かよふ八畳の間の秋の夕ぐれ

 

文のから君の心をいと多くたくはへつると涙こぼれぬ

 

 

 『春泥集』

 

一人いちにんはなほよしものを思へるが二人ふたりあるより悲しきは無し

 

楽しみはつねに変ると云ふ如く桃いろのきぬうはじろみつつ

 

遠方をちかたのものの声よりおぼつかなみどりの中のひるがほの花

 

さてもなほ余所よそにならじと頼むこと古きならひとなりにけるかな

 

秋くれば腹立つことも苦しきも少ししづまるうつし世ながら

 

あかつきの竹の色こそめでたけれ水の中なる髪に似たれば

 

雨雲のややとぎれたる日に見出づ草の中なる白菊の花

 

男をも灰の中より拾ひつるくぎのたぐひに思ひなすこと

 

朝顔の小さき花はうらがなし恋しき人の三十路みそぢするより

 

赤蜻蛉あかあきつ風に吹かれてとをあまりまがきの中に渦巻を描く

 

ひんがしに月の出づれば一人いちにんの秋の男は帆ばしらを

 

たでの花簾すだれにさすと寐ておもふ日のくれ方の夏のにじかな

 

よそごとに涙こぼれぬある時のありのすさびにひき合せつつ

 

戸あくればニコライの壁わがねやにしろく入りくる朝ぼらけかな

 

起きしに悩むはかなき心より萩などのいとつよげなるかな

 

山の上こほれる池をかこみたる常磐木ときはぎを吹く初春のかぜ

 

はかなかるうつし世びとの一人をば何にも我れは換へじと思へる

 

大鏡ひとつある間に初秋のあかつきの風しのびきたりぬ

 

残りなく皆ことごとく忘れんと苦しきことを思ひ立ちにき

 

獅子王に君はほまれをひとしくすよろこぶ時も悲しむ時も

 

わがよはひ盛りになれどいまだかの源氏の君の問ひまさぬかな

 

夏の夜は馬車して君にひにきぬ無官の人のむすめなれども

 

十月は思ふ男の定まれるあとの如くにのどかなるかな

 

たえず来て石のつちもて胸を打つ強きこころの君におもはる

 

むらさきと白と菖蒲あやめは池に居ぬこころ解けたるまじらひもせで

 

なほ人に逢はんと待つやわが心夕ゆふべとなれば黄なるともる

 

ほととぎす白きあはせの裾ならべ五人いつたりいます法華寺ほっけじの衆

 

朝顔は一つなれども多く咲く明星みやうじやういろの金盞花きんせんくわかな

 

蜂蜜はちみつの青める玻璃はりのうつはより初秋きたりきりぎりす鳴く

 

わが机袖そでにはらへどほろろ散る女郎花をみなへしこそうらさびしけれ

 

相よりてものの哀れを語りつとほのかに覚ゆそのかみのこと

 

あなさびしともしごろのくりいろのわたどのを吹くなり初秋のかぜ

 

あらかじめ思はぬことに共に泣くかるはずみこそうれしかりけれ

 

わが頼む男の心うごくより寂しきはなし目には見えねど

 

山中のはりがね橋も露に濡れはつ夏の夜の明けにけるかな

 

夏の花みな水晶にならんとすかはたれ時の夕立のなか

 

火のありと障子を川に投げ入るる人のはしこき秋の夕ぐれ

 

うすぐらき鉄格子てつがうしより熊の子が桃いろの足いだす雪の日

 

いつしかと紫の藤ちるごとくおとろふること今にいたりぬ

 

水仙は白妙しろたへごろもきよそへど恋人持たずかうのみを

 

春の日となりて暮れまし緑金りよくこん孔雀くじやくの羽となりて散らまし

 

 

 『青海波せいがいは

 

菊の助きくの模様のふり袖の肩がぬまに幕となれかし

 

うとましやまぎるることの日に多く恋もねたみも姿さだめず

 

この年の春より夏へかはる時病やまひののちのおち髪ぞする

 

こずゑより音して落つるほほの花白く夜明くるここちこそすれ

 

水いろの麻のしとねにあけがたのいたづらぶしの手も指も

 

やはらかに心の濡るる三月の雪解ゆきげの日よりむらさきを著る

 

椿つばき踏む思へるところある如く大き音たて落つる憎さに

 

初秋は王の画廊に立つごとし木にも花にも金粉きんぷんを塗る

 

水色に塗りたる如きおほぞらと白き野菊のつづくみちかな

 

ことごとく因縁いんえん和合わがふなしつると思へる家もときに寂しき

 

見て足らず取れども足らず我が恋は失ひてのち思ひ知るらん

 

七八ななやとせ京大阪を見ずなりぬ遠き島にも住まなくにわれ

 

花引きて一たびげばおとろへぬ少女心をとめごころの月見草かな

 

東京に雪雲くればをちかたをふたがるるごと急ぎ文かく

 

もとに落ちて青める白椿われの湯浴ゆあみに耳をかたぶく

 

三尺のやなぎを折れば大馬に春はおなごものらまほしけれ

 

やうやくに思ひあたれる事ありやくものをとふ秋の夕風

 

雲流るおほくの人にのぞかれてはやがきをする文の如くに

 

あながちに忍びて書きしあと見ればわが文ながら涙こぼるる

 

寛弘くわんこうの女房達にあたひすとしばしば聞けばそれもうとまし

 

めでたきもいみじきことも知りながら君とあらむと思ふ欲勝つ

 

あけくれのうぐひすの声きさらぎの春のおもてにうきぼりをする

 

何ごとに思ひ入りたる白露しらつゆぞ高き枝よりわななきてちる

 

吉原の火事のあかりを人あまた見る夜のまちの青柳あをやぎの枝

 

てふひとつ土ぼこりより現れて前に舞ふ時君をおもひぬ

 

水草に風の吹く時緋目高ひめだかは焼けたる釘のここちして散る

 

枝などを髪の如くにうち乱し流るる木あり大河のあめ

 

人並ひとなみに父母を持つ身のやうにわがふるさとをとひ給ふかな

 

幾とせもあふがでありし心地しぬ翡翠ひすいの色の初秋のそら

 

すずとなりしろがねとなりうす赤きあかぎの原を水の流るる

 

秋の夜のかげに一人ものへば小き虫のここちこそすれ

 

大世界あをき空より来るごとつぼみをつけぬ春の木蓮もくれん

 

天王寺田舎の人の一つく鐘の下よりすずかぜの吹く

 

なぎさなるすたれし船に水みちてしろくうつれる初秋のそら

 

すすびたる太き柱にりわたす蚊帳かやに入りくる水の音かな

 

見つつなほもの哀れなる日もありぬ逢はで気あがる日もありぬわれ

 

芝居よりかへれば君が文つきぬわが世もたのしかくの如くば

 

藤の花わが手にひけばこぼれたりたよりなき身の二人あるごと

 

うき草の中よりうをのいづるごと夏木立なつこだちをばのぼりくる月

 

せはしげにきんのとんぼのとびかへる空ひややかに日のくれて行く

 

しろき月木立にありぬうらわかき男の顔のぬれし心地ここち

 

飽くをもて恋の終と思ひしにこのさびしさも恋のつづきぞ

 

あひあるを天変さとし人騒ぎ君は泣く泣く海わたりけん

 

いと重き病するなりわが心君ありし日に思ひくらべて

 

ねがはくば君かへるまで石としてわれ眠らしめメヅサの神よ

 

おのれこそ旅ごこちすれ一人ゐる昼のはかなさのあぢきなさ

 

おなじ世のこととは何のはしにさへ思はれがたき日をも見るかな

 

(『乱れ髪』明治34年7月 14首/『小扇』明治37年1月 10首/『毒草』明治37年5月 5首/『恋ごろも』明治37年7月 25首/『舞姫』明治39年1月 81首/『夢之華』明治39年9月 44首/『常夏』明治41年7月 45首/『佐保姫』明治42年5月 72首/『春泥集』明治44年1月 41首/『青海波』明治45年1月 47首)

与謝野晶子記念館