追憶の太宰治

その一

「人間失格」を書くために、作者が熱海へ出かけたのは、三月七日だったかと思う。この作品に賭けようとする作者の情熱は大きく、これを裏切ろうとする肉体の衰えは、はたの目にもはっきり見えていたので、例によって明るい表情をよそおって冗談など言い合っていたが、僕はこの作者の行く手にただならぬものを感じていた。今になったからいうのではない。行く手などといっても、漠然とした将来などというのではなく、この秋ごろ、だいたい九月ごろはあぶないぞと思い、何とか方法を講じねばならぬと、自分ひとりの心のなかで警戒していた。相手の女性についてはいろいろ知っていたが、その時の僕の予感は、女性などとはまったくの無関係であった。
 九月というのは、「人間失格」がだいたい五月中ぐらいに出来あがって、つづいて七月から連載するはずの新聞のための「グッド・バイ」を書きあげてしまう時期に当るわけだが、その時があぶないぞという気がしてならなかった。
 だいたい今年になってから、この作者は、自分に与えられている命の残りの部分が、はっきり意識されてきていたのではないかという気がした。これはいろいろのことで察せられたが、たとえば、今まであれほど弱気にてれていて、同じ世代の作家のなかでは、おそらくまともな教養を積みあげておりながら、評論一つ書こうとせず、まして主張や抗議の一片も書くことがなく、死の歌をうたいつづけ、世間に頭をさげてわびるような小説だけを書きつづけてきたこの作家が、「如是我聞」で提出しはじめた捨て身の抗議と糾弾の激しさにも現れていたし、同時に、「人間失格」を書きあげることに、異常に切迫した情熱をこめていることにも、それは察せられた。
 そういう痛々しいものを感じていた際でもあったので、「人間失格」の構想がどんなものであるかは、立ちいって聞こうとはしなかったし、作者もまたあまり語ろうとはしなかった。
 ただ、ネガティヴのドン・ファンを書きたいといった言葉と、もう一つ、太宰は女しか書けないと臼井が軽蔑したから、今度は男を書く。ぜひ臼井に読んでもらいたいといってくれ、というような、例の冗談にまじえた親愛の言づてがあったぐらいだが、それから察しても、近頃の作品には、女を主人公にしたものが多く、女を藉りて逆説的に小出しに自己を語ってきていたが、今度は、いよいよ真正面から全面的に自己を語るのではなかろうか。太宰を出しきった作品になるのではないかという気がしていた。だから、僕としては、「人間失格」で太宰自身を語りつくしてしまってから、衰弱が目に見えて進んできている肉体にむちうってまで、ひきつづいて予定されている新聞小説では、いったい何を書こうというのだろう? そのところに僕には測りかねるものがあった。それにしても、「グッド・バイ」という題名にもひどく気にかかった。


 「人間失格」の第一回分、百三枚を書きあげて、熱海から帰ってきたのは、三月の終りだったかと思う。そして、この作品は、果して僕の予想していたとおりのものだった。作家が自身の文学の最高のかたちで書きあげた遺書にちがいなかった。
 芥川龍之介は、「ある阿呆の一生」から、むろんはみ出している。だが、「人間失格」は太宰治そのものである。自然主義的私小説に反抗しつづけた太宰が、それとはまったく次元のちがった場所で、生活と文学に一分のすきもないものとして、自身を文学に化した作品が、「人間失格」であろう。
 「人間失格」はまた、太宰自身によって書かれた最高の太宰治論でもある。おおかたの太宰論は、この作品の前にはすでに無用であり、これから現れる太宰論も、この作品の解説か、またはこの作品への讃歌なり、反撥なりを語る以外に出ることはむずかしいだろう。彼がなぜ自ら死んで行ったか? その死になぜ女性を伴ったか? 最後の瞬間においても、死を共にした女性に対して、どんな考えをいだいたかも、この作品は語っている。
 いかに死を共にした女性であろうとも、「人間失格」で吐露した彼の女性観をくつがえすものであるはずはなく、それどころか、逆に彼女の存在、彼女との交渉そのものが、一層強く「人間失格」の女性観となってほとばしったであろうことも疑いない。
 太宰の死の道づれになった女性の詳しい日記があるというが、たといそれが発表されることがあっても、おそらく「人間失格」の真実とは遠いものだろう。彼女は彼女なりに太宰を理解したにちがいないからである。

(一九四八年六月)

その二

「人間失格」のモティフは、 にわかに思いついたものでないことは、「ヒューマン・ロスト」のような作品のあることでもわかるわけだが、構想がはっきりした形をとって浮んできたらしいのは、「斜陽」を書きおえた頃のように思う。「人間失格」という「スゲエ傑作」を書くから、「展望」に出してくれないかと作者のほうから話があったくらい、たいへんな意気ごみだった。 そのとき、僕には何ということもないが、 これはいい作品になりそうだという予感があった。

「人間失格」の稿を起すために、太宰が熱海へ出かけたのは、咋年の三月七日だったと思う。翌八日から書きはじめたらしく、途中で一度帰京したが、第一回発表の分、つまり「第二の手記」まで百三枚を書きあげて、熱海から帰ってきたのは三月の終りだった。原稿を渡され、二三日たって三鷹へたずね、「千草」で飲んだとき、彼は、「第二の手記」の最後の行の、「背後の高い窓からタ焼けの空が見え、鷗が『女』という字みたいな形で飛んでいました。」とあるところを、ここの「女」という一字は、 一番うまい大事なところなんだから、校正をまちがえてくれるな、気をつけてくれ、頼むよ、この「女」が、「へ」になったり、「ん」にでもなったら、泣いても泣ききれないからなあ、大丈夫かね、と幾度も念をおした。いつものような冗談めかした口調でなく、へんにまじめな表情だったので、僕はちょっととまどいの気味だった。
 僕はそのとき、「どうもありがとう」と原稿のお礼をいって、握手しただけで、批評がましいことは一言もいわなかった。彼は、僕がそれをいい出すのを待っていたこともわかったが、 いい出さなかった。 これはこの場合にかぎらず、僕のくせのひとつで、自分の雑誌のために、作者が骨折って書いてくれたことを考えると、気のきいた、あるいは気のきかぬ批評めいたいいぐさなどをその場でいい出す気になれぬという、 ひどく古風な気持があるからである。 このため、この場合にかぎらず、 かえって作者にいくらか不満な気持を抱かせるかもしれないこともわかっているのだが、どうもそういう古風な気持にひっかかってこまるのである。だが、 この場合はそれだけではなかった。 というのは、「第二の手記」までの調子なら、「人間失格」は大丈夫いい作品になるということはわかっていたが、それを書きおえるや否や、新聞のために、「グッド・バイ」を書かねばならないことになっていたので、僕としては、何としても、大変だなあ、という気持が強かったわけで、この衰えた肉体で、「人間失格」を書きあげ、つづいて新聞の連載を書きあげねばならぬという、これから先のことを考えると、 この場合、「人間失格」の第一回分だけで、傑作だなどと軽々しくほめる気にはどうしてもなれなかったのである。彼は、ついに僕に読後感を要求したが、これを書きあげて、新聞の連載が終ったら、その時いう。それまでは何もいわない。とにかく大変だなあ、と僕はヘんにかたくなに口を噤んでいた。太宰は、そうすると、まあいいわけだな、出来がよかったと考えていいわけだな、などといっていた。帰途、同行の友人が、お前は薄情なやつだ。なんだってあの時ほめないんだ。大変だなあ、ばかりいっていたが、太宰みたいな才能には、何も大変じゃないんだ。とひどく不満らしく僕を非難した。僕は、あのからだで、あの人気の頂上で、新聞の仕事は大変だなあ、という気持は強まる一方だった。太宰のような才能にはというが、太宰のような才能だから、新聞小説は大変だと思ったのだ。さっき書いたように、熱海から途中で一度帰って、もう一度出かけてゆく折、東京駅で見送ったのであるが、例のサッチャンと二人で乗りこんでいる彼と発車まで無駄口をたたき合った末、「人間失格」のほうはともかく、新聞は大変だね、と思わず暗い顔をすると、新聞小説である以上、読者にうけないことには、はじまらないからね。いま載っているのの評判はどうなんだろう。と彼もひどくしんみりしてしまった。僕は人気の頂上にいる作家というもののいたましさをつくづく感じさせられたことだった。

(一九四九年十一月)

その三

やはり思い出すのは、あの日のことだ。太宰が世を去ったのは、二十三年の六月十三日だが、その二十日ほど前かと思う。「人間失格」の「第三の手記」の前半は三鷹で書き、残りの五十枚を書くため、大宮の宿屋へ出かける二、三日前だった。たしか日曜日だった。当時、僕は本郷の赤門前の筑摩書房の二階に、 一人で寝起きしていた。昼すぎ電話が鳴って、いま豊島与志雄氏の宅に来ているが、よかったら遊びに来ないかというのである。もはや、かなり酔っているらしい声だった。僕は豊島さんに面識はあったが、お宅へは伺ったことがなかったので、気が進まなかった。日曜日のこととて、どこへも連絡できないままに、僕などを呼び出したに相違ないと思ったから、神田の某所へ頼んでウィスキーを一本都合してもらい、 出かけて行った。当時、酒類は容易には入手できなかったからだ。肴町の停留場から団子坂の方へ、ぶらぶらやって行くと、向うから、サッチャンらしき女が小走りに近づいてくる。サッチャンとは、太宰と死の道づれになった女性の通称で、太宰は、「スタコラのサッチャン」という愛称で呼んでいた。いかにもスタコラやってくる。僕は立ちどまって、待ち受けたが、すれちがうようになっても気がつかない様子だった。彼女は強度の近眼だったが、太宰がめがねをきらっていたので、滅多にはかけなかった。呼びかけて聞くと、太宰の今夜服用するくすりを買いに行くのだという。「早く行ってあげてください」と、いそいそと小走りに立ち去った。
 豊島さんは、自慢の鶏料理の腕前をふるっている最中だった。御両人とも大分酔いがまわっていて、甚だ御機嫌だった。僕が意外に思ったのは、 太宰は、このとき豊島さんと初対面だったらしいことだ。太宰の全集が八雲書店から出ることになって、その第一巻が出たばかりだったが、各巻の解説を豊島さんが執筆することになったので、その御礼に出かけてきたものらしかった。僕の察したところでは、当時八雲書店にKという、向う気の強い、はったりの若い編集者がいて、 これが太宰と豊島さんとの双方に近づいていたが、豊島さんが、太宰に好意をもっているようなことを伝えたに相違ない。戦後、青森の疎開先から上京して、人気の頂上に立ち、若い崇拝者にとりかこまれていた太宰は、どういうものか、長い間面倒をかけてきた井伏さんから遠ざかるような姿勢を示したり、例の「如是我聞」で、志賀さんに悲壮な反撃を加えたりしていた頃だったので、人づてに聞き知った豊島さんの好意に、うれしくてたまらなかったのではなかろうか? 花形作家として、人気を集め、若い崇拝者たちにとりかこまれていた彼にとって、井伏さんは苦手だったにちがいなく、一種の反撥さえ感じていたように僕は察している。志賀さんに対しても、彼はかねがね尊敬していただけに、自分の作品を酷評されて、猛然反撃に燃えたったというのが真相ではないかと思う。作家は誰だってほめられることの嫌いな者はないが、太宰ほど、ほめられることの好きな者もなかった。処女作ともいうべき短篇「葉」 の冒頭に、「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」というヴェルレエヌの言葉を書きつけている彼は、すでに、「ヴィヨンの妻」や「斜陽」の作者として、より多く「恍惚」を感じていたであろうが、同時にまた井伏さんの容赦のない目や志賀さんの手きびしい批評に対して、一種の「不安」もあったかと思われる。それだけに、たとい人づてにせよ、豊島さんの好意を知って、無条件にうれしかったにちがいない。
 サッチャンも戻ってきて、いよいよ酒席はにぎやかになった。僕は師匠の選択をまちがった。僕は豊島先生の作品が昔から大好きだったのに、先生を師匠にしなかったのは残念だ。というようなオベンチャラを太宰は繰返した。豊島さんは豊島さんで、このオベンチャラに、しごく御機嫌のように見受けられた。僕はこの雰囲気に居たたまらないようなものを感じたので、いいかげんのところで逃げることにした。外へ出ると、サッチャンが追っかけてきて、太宰さんのからだがひどく悪くて、今日など歩くのさえ苦痛らしい。病院へ入って、そこで気のむいた時だけ書くというのが一番いいと思うが、わたしというものがついてるでしょう。奥さんにすぐわかってしまうし、だからどんなに勧めても入院なんかしないと言っているし、……というようなことをせきこむように話しかけて来た。僕は変なことをいう女だナ。「わたしというものがついてるでしょう」とは何だ。入院すれば看護婦でも家政婦でも頼めるわけであり、何も「わたしというもの」などくっついている必要など、どこにあるんだと思ったので、怒ったようにふん、ふんと聞きとっただけで、彼女と別れた。これはどうしても、入院させなくちゃならない。少なくとも新聞小説を書くなどは無茶だと思い、あれこれと対策を考えながら帰ってきた。


 気になったので、翌日、夕刻になって、もう一度豊島さんのところへ出かけ、太宰を連れ出して、サッチャンと三人づれで帰ってきた。彼はあれから飲みつづけて、豊島さんの宅に一泊し、朝からまた酒になったものらしい。僕は自分ながら不興げな顔で、君は昔から豊島さんの小説が大好きだったというが、いったいどんなのが好きなんだ。と聞くと、にやりと笑って、頰を撫でて、「いやア、じつは何にも読んでいないんだよ」と答えた。こいつと思って、僕はそれきり口をきかなかった。
 途中で筑摩書房へ寄るという。書房には、ちょうど唐木順三も来合せており、編集者のおおかたは残っていた。階下の応接室で、若い編集者たちにとりかこまれると、にわかに元気づき、ひどくはしゃいだ。少し、若い者どもを教育しなくちゃ、などといって、大気焰で、彼らをからかった。いつのまにか、酒もはじまるという始末だった。その時の太宰の気焰はなかなか、おもしろかったが、特に忘れられないのは、自分は決しておりないという説だった。花札をやる場合に、手が悪いとおりるだろう。小説だって手が悪いとおりてしまう。井伏さんだってそうだよ。あんなのは話にならんね。手が悪けりゃおりる。楽なことだよ。僕あ、どんなに手が悪くたって決しておりないね。というような気焰だった。これは、今のからだの状態で新聞小説は無理ではないかという、さっきの帰り道に僕が遠まわしにいったことを勘定に入れての言葉にちがいないと僕は思っていた。唐木氏なども、しきりに、おりるときにはおりるのがいいんだ。君も時々おりろよ。というようなことをいっていた。僕の愁いは、旅に出たり、釣りに行って慰まるようなものじゃないよ。井伏さんの愁いなどは、釣り竿をかつぎ出せば、消えちまうものなんだからなア。というようなこともいっていた。変に井伏さんにこだわっているのが気になった。しかし、彼が陽気にはしゃげばはしゃぐほど、さびしげな影がつきまとうような感じだった。まもなく、彼としては珍しいほど、がっくり酔って倒れてしまい、動かすことさえできない状態だった。僕の蒲団を二階からおろして、板の間に敷き、 みんなで彼を運びこんだ。 僕は妻子を疎開させて、ここの二階で一人で暮していたので、一組しかない蒲団を太宰にゆずって、その夜は知合いの家へ行って泊った。翌朝行ってみると、太宰はひどく上機嫌で、若い編集者をつかまえて、「井伏鱒二選集」第四巻のあとがきを口述していた。
 「人間の一生は、旅である。私なども、女房の傍に居ても、子供と遊んで居ても、恋人と街を歩いても、それが自分の所謂ついに落着くことを得ないのであるが、この旅にもまた、旅行上手というものと、旅行下手というものと両者が存するようである。旅行下手というものは、旅行の第一日に於て、既に旅行をいやになるほど満喫し、二日目は、旅費の殆んど全部を失っていることに気がつき、 旅の風景を享楽するどころか、まことに俗な、金銭の心配だけで、へとへとになり、旅行も地獄、這うようにして、女房の許に帰り、そうして女房に怒られているものである。旅行上手の者に到っては事情がまるで正反対である。ここで具体的に井伏さんの旅行のしかたを紹介しよう……」と、井伏さんがいかに旅行上手であるかを語りつづけた。僕はこの淀みない口述を聞きながら、改めて太宰のけんらんたる才華と、したたかな精神に驚嘆した。昨夜の彼の井伏論をこのようにメタモルホーゼして、そ知らぬ顔で述べているわけである。彼は、僕のほうをちらっと見て、いたずらっ子らしく笑い、どう君、ゆうべの議論とまるで反対だろうといった。こいつめと思いながら、とにかくこの異常な才能に僕は舌をまいた。昨夜使ったらしいヴィタミンやら、眠りぐすりやらのアンプルのからがどっさりころがっているのを目にしながら。

(一九五三年十二月)

 哀願のメロデイ

太宰治の文学というのは、結局のところ、亡びの旋律をひびかせた、哀願のメロデイというようなものではないだろうか? 彼の小説は、散文というよりは、本質的には、メロデイのように思えてならない。いずれにせよ、造型への努力は最初から放棄している。
 高校時代に、プロレタリア文学に感染し、大学時代に、どの程度左翼の運動にコミットしたかはしらないが、マルキシズムが、彼の精神に痕跡を残したとは思えない。コミュニズムからの逃げが、負い目になったなぞとは、とうてい考えられない。作品や随想に、そんなけはいをちらつかせてはいるが、あくまで彼の文学のサワリではないだろうか? バイブルにしても、彼にとっては、恰好なサワリ文句集であって、彼は作品のなかに、随時効果的に、それから引用しているのである。とかく読者はそれを深読みしているかと思うが、作者もそれを期待していたかとも思う。
 太宰治の思想的基調というような、しかつめらしいことを持ち出すなら、やはりアナーキズムということになるだろう。彼が疎開さきの青森の生家から僕にくれた便りには、せつせつと、その思いが綴られていた。戦後の作品に、もっぱら、その思いのこめられていることは改めていうこともないだろう。情緒としてのアナーキズムというべきかもしれない。
 どこまでも部屋住みの身として、あっちにも、こっちにも、気がねをして、不出来だがゆるしてくれ、という哀願のメロデイを、精いっぱいひびかせたのが太宰治の文学だと思うのだが、どうだろう?

それにしても、彼が、せめて七十歳ぐらいまで生きのびて、上質無類の滑𥡴文学の大成に、天稟の才能を存分に発揮してもらいたかったと思うのだが、これも、とんちんかんな妄想だろうか?

(一九七八年四月)