黒蜥蜴

    一

 

 年齢としごろ廿五六の男、風體ふうていは職人。や暮れんとせる夏の日の、暑熱あつさ尚ほ堪へ難くてや、記章袢天しるしばんてんの胸を開きて、浅黄の色褪せし手拭に汗を拭きつつ、腿より脛には蔽ふものもなくて、表も鼻緒も砂塵ほこりに古びたる麻裏を、突掛つつかけ草履のあゆみいそがしげなり。

 身材せいひくかたにて、肉肥満ししこえたり。憎気にくげなき丸顔の色白く、鼻は高からねど形恰かつかう好く、細く長き眼は常にめるが如く、口はと結びたれど、むつかしげならず、耳を蔽ふばかりに伸びし頭髪かみは、垢づき乱れたり。

 日本橋区濱町三丁目を傍目わきめもふらず、かしらは重げなれどあしはせはしげなり。ふとかほを上げて我ながら呆れし風情ふぜい

「何の事だ。おやおや。」と呟きつあしを返し、右側なる薬種屋やくしゆやの横手の露路へ入りたり。

 露路を入れば、裏には三軒だちの棟割長屋。取付とりつきには相用あひもちの井戸あり。井戸に沿ひし長屋の一軒ひとつより、足音を聞付けしにや顔をいだせしは、霜降しもふり頭の老婆なり。

與太よたさん。」と、老婆は通掛とほりかゝりし男を呼び掛け、「如何どうだつたい。産婆ばアさんは居たかい。」と、眉根まゆひそめて返辞を伺ふてい

 與太郎は上眼に老婆を見て、点頭うなづく様に会釈し、「あゝ、直きに行くツて。」

「そりや塩梅あんばいだ。早く来て呉れねえぢや、何だか心細くツて。それもね、私に経験おぼえがありやア訳やねえんだが、はらはらするばッかしで、役に立ちやねえ。どツちにしたツて早く来て貰ひてえよ。それにおめえ、困ツちまふよ、れこにも。」と、拇指おやゆびを出して眼を丸くし、「一方にやアお都賀つがさんが、今にも出産とびだしさうに陣痛かぶるツて、うんうん吁鳴うなつてるのに、徳利と首引くびツぴきか何かで、怒鳴りツ通しだらうぢやないか。お都賀さんが可哀想だから、私もお前の歸宅けえる迄ともつて、今し方迄介抱ついてたんだけれどね、しめえにや私に喰つて掛るんだよ。お都賀さんにや気の毒だが、仕様がねえから、いま引上げたところさ。お前早く歸宅かえつてんねえ、お都賀さんがお前を待つて泣いてるわな、可哀想に。」

「すまねえ、すまねえ。叔母さん勘忍して呉んねえ。」と、與太郎は気の毒さうに打詫うちわびつゝ嘆息す。訴へ顔せし老婆も今は慰め顔。「なにおめえ、お前にやほんに気の毒さ。性来しやうぶんだから為様しやうがねえが、お前のとツさんだけれど、彼様あんな人はえよ。お前は親孝行だし、お都賀さんはやさしくするんだし、なんにも不足アあるめえに、如何して彼様あんなだらうかねえ。」

「どうも為様がねえ。叔母さん、お前にやほんに済まねえ。」

「あれ、また怒鳴つてるよ。早く歸宅かえつてお遣りよ。」

ほんに為様がねえなア。」

 與太郎は老婆にわかれ、空屋あきやを一軒隔てし長屋の奥隣、我家の門口かどぐちを入るより早く、小言こごとは脳天へ落掛りぬ。

「やい、與太、與太ン兵衛、何処を魔誤まごついてやがるんでえ。かゝあの事だと云やア、鼻汁はなツ垂しめツ、二つ返辞でアクセキ(=表記できない)しやアがツて、親にや構やアがらねえんだな。お都賀と共謀ぐるになつて、親に当りやアがるんだな。当るなら当つて見ろい、ヘん年はつたツて鍾馗しようき吉五郎きちごらうだ。さア何とでもて見やアがれ。」

 與太郎の父吉五郎と云へるは、年六十に近けれども、骨太く肉脂にくあぶらづきたり。太く高き鼻の先垂れて鳶のはしの如く、大なる眼は白眼がちてぎよろ付き、唇厚くして且つりたり。あかく禿げて光りたる頭上あたまには、十筋ばかりの白髪しらがを集めてつとを落し、刷毛先はけさきを散らしたるは、鉞銀杏まさかりいてふの昔を尚ほ今に忍べるにや。明衣ゆかたは脱ぎて投出し、年には羞しかるべき鍾馗の文身いれずみを、素裸になりて胡坐あぐらをかきたり。前には鮪の刺身を竹の皮のまま、膳をもいださで畳に置き、右手めてには五合徳利、左手ゆんでには、盃に湯呑をさへ面倒なりとや、飯茶碗をとりたり。

 家は土間、炊場ながしをも合せて六畳の一間。壁と壁との一隅かたすみなきだに小暗をぐらきを半屏風に囲ひつ、他の一隅かたすみには、大工を家業なりはひの道具箱を押寄せあり。押入の奥は見えねど、一棹ひとさを箪笥たんすだになく、長火鉢とへつつひとの二つが、僅かに家の飾りとぞ見ゆめる。

 中央まんなかに胡坐をかきたる吉五郎、や青くなるまでにひ、口はヘの字結び、瞳子ひとみ上眼うはめすわり、まだ土間に立ちたる與太郎をきつと睨みて、

「さア如何どうでもやアがれ。年は老つたッて鍾馗の吉五郎でい。箆棒べらぼうめツ、與太、手前てめえなんぞにや指一本ささせねえぞ。さア何とでも為やアがれ。」

 與太郎は上にあがりて、「家爺ちやんお前如何どうたてえんだよ。おいらは何とも云つてやア為ねえよ。お前を如何しろてツたツて、串戯じやうだんぢやアねえ、如何なるもんかね。腹ア立つ事があつたら、おいら謝罪あやまるからねえ、家爺、勘忍して呉んねえな。」と、父をなだめて、屏風の傍に立寄らんとするを、「與太待てツ。」と、呼止むる吉五郎。

「何だよ、家爺。」と、振返る與太郎をはたと睨み、「何だよたア何でえ。此処へ来い。えゝ、何故来やがらねえんだ。」

 父のことばに詮方なけれど、與太郎は産になやめる女房の上気遣きづかはしく、立ちながら屏風の内をさし覗けば、枕にしがみ付きて、苦痛を耐へ忍べるお都賀、顔もあげで、乱れたる頭髪かみ打顫うちふるへり。

愚頭々々ぐづぐづしねえで、来いと云つたら来ねえか。」と、噛付くが如く罵る吉五郎。

「お前さん、は、は、早く、お出でよ。」と、云ふ声の断続きれぎれ苦痛くるしさおもはれ、蟲の音なる女房が言葉に、與太郎は尚ほ一歩ひとあし進み寄りて、「今直きに産婆ばアさんが来るからな、耐忍がまんして居ねえよ。」

「あ! 心配してお呉れでない。もう、なアに、苦しかア……何ともありやしないよ。あたしとかいから、は、は、早く、お出でよ、お家父とツさんが呼んでお居でだから。」

耐忍がまんしねえ。もう直きに来るんだから。」と、女房を慰め置きつ、與太郎は腕打組みて、吉五郎が前へ坐りたり。

「おい與太。手前何だな、乃公おいらと話すひまもねえんだな。」と、茶碗に八分目の酒を一息に飲み乾し、長き息をふうツと吐く。

 與太郎は眼を閉ぢて垂頭うなづき、「其様そんな事アありやしねえよ。今帰宅けえつた所なんで、鳥渡ちよいといま……。」

「今帰宅つたなア、手前から聞かねえでも知つてらア。手前何の用があつて、何処へ行きやアがツたんでい。」

「何処へツて、産婆ばアさんを呼びに。お都賀が陣痛むしがかぶつて、今にも飛出しさうなんで。見ねえな……。」と、吉五郎が顔をきツと見て、其目に産婦を見返り、「如何あんなせつながりやがるから、産婆ばアさんを呼びに行つて、今帰宅けえつて、鳥渡ちよいとお都賀の……。」

「だから云はねえ事か。一人前いちにんめえの腕も持たねえで、孩がきこせえて、手前それ如何どうする積りなんでい。」

「如何するツたツて、お前、今更其様そんな……為様しやうがねえよ。」

「為様がねえものを、何故こせえやがツたんでい。」

「だツて…。困ツちまはア。」

「何だと、困ツちまふだア。」と、乗出すが如く顔を進めて眼を怒らし、「生意気なことを抜かしやアがるない。箆棒べらぼうめツ、手前の様な意気地なしにや、かかアてねえツて、最初はじめツから云つてるんだ。嚊を有ちやアがきが出来るてえなア、手前の様な没分暁漢わからずやにだツて、分らねえ事はあるめえ。今でせえ、箆棒めツ、たツた一人の親の口をしやがるぢやねえか。」

家爺ちやん、静かに云つて呉んねえな。」と、與太郎は家外おもてを見返り、「外聞げえぶんが悪いやね、親の口を乾すだなんて。」父を見る眼もおのづと力む。

 吉五郎はからになりし徳利とツくりを板の間にはふり出し、「其面そのつら何でい。其様面ア為やがつて、如何為ようと云ふんでい。やい與太ツ、手前外聞げえぶんわりいてえ事知つてる気か。よう、與太ツ。」

 與太郎は相手にならざるこそけれ、とは思へども立ちもならず、今はなかなかに尻を据ゑつ、腰の煙草いれを取りいだし、伏目になりて煙草をむ、其眉頭まゆにはひそみも見ゆ。

 吉五郎は徳利を取上げ、これ見よがしに振揺ふりうごかしつ。「六十近い老親おやの口に、うめ酒一杯いつぺえ宛行あてがへねえで箆棒めツ、外聞が悪いたア、何吐ぬかしやがんでい。年つて楽がたけりやこそ、手前の様な無気力いくぢなし野郎を、馴れねえ男の手一つで人間並に為て遣つたんだ。職業しごと碌素法ろくすツぱふ出来ねえ木葉大工こツぱでえくの癖しやがツて、きに嚊の詮索よ。親へ楽な思ひもさせやがらねえで、嚊の御託ごたくすさまじいや。初めツから云はねえこツちやねえんだぞ。お都賀が来やがツてから、口が殖えたの何のツて漸々だんだん乃公おいらの口を絞りやアがつて、此頃ぢやア五合ごんつくと相場をめツちまやアがつたぢやねえか。此上孩がきなんぞ出産ひりだされて、おたまり小法師こぼしがあるもんかい。孩兒が生れりやア、乃公はどんな目に会はされるかも知れやしねえ。ヘん、老人ぢぢい乾物ひものなんざア、何処どけへ持つてツたツて、銭にやなるめえぜ。加之おまけ無塩ぶえんの脂ツ気なしと来ちや、與太、手前捨所すてどころにも魔誤つくだらうぜ。」と云ひんで、空徳利をうつむけて茶碗へつがんとし、「ヘん、何の事アねえ、のの字を書いたツて初まらねえ奴よ。」と、又もや徳利を投出しぬ。

えんだねえ。なけりや今つて来るよ。済まねえけれど、産婆ばアさんが来る迄だ、鳥渡ちよいと待つて呉んねえよ。お前の云ふ通り、お都賀をもらつたなア、自分おいらが悪かつたから勘忍して呉んねえ。今更追出されるもんでもねえし、それに孩がきが出来ちやア、もう詮方しやうがねえよ。お前が年老とるとしで、四肢からだ漸々だんだんきかなくなるし、其世話をさせてえと思つたから、お都賀をんだ様なものの、如何どうした訳だか、おめえの気にや入らねえし、自分おいらア実に後悔してるんだ。だがね家爺ちやん、お前だッて孫だ。自分おいらだッて自分てめえの孩兒のつら初めて見るんだから、今日は先づ目出度めでてえんだ。子よりも孫は可愛いとさへ云ふくれえだから、お前も耐忍がまんして機嫌を直して呉んねえよ。今日一日––孩兒が出産とびだしやアがるまで、後生だから機嫌を直して温和おとなし飲酒のんで居て呉んねえ。産婆ばアさんが来せいすりや、自分おいらが大阪屋へ行つて、お前の飲みてえだけ、一升だツて二升だツてつて来ようよ。後生だ、孩兒が出産とびだすまで、家爺ちやん耐忍がまんして居て呉んねえ。」

「箆棒めッ、世間の奴等ア知らねえが、おらア孫の面なんざア見たくもねえんだ。お都賀の腹から出やがるんぢや、どうせ人間並の面アして居めえよ。手前産婆とりあげばばアなんざ呼ばねえで、香具師やしでも呼んで来やアがりやいんだ。其方が余程よツぽど儲けづくだぜ。」

 屏風の内には忍びかねてや、吁鳴うなる声のいと苦しげなり。

 與太郎は屏風のかたを見返り、また父の方へむかひて、「まアいやね。どうせ碌な孩がきや出来めえよ。種々いろんな事を聞いちやア血が上るめえとも……。」と、静かに立ちて屏風に立寄る。

 吉五郎は見送りて冷笑あざわらひ、「へん、かかアとなりや彼様あんな阿魔あまでも、憎くもねえさうだ。はゝはゝゝゝ。とりまち売残うれのこりなら強勢がうせいだが、蟾蜍ひきがへる隻目はんめと来ちやア、昔なら兩国だが、今ぢやア奥山おくやまもんだ。生れた其子が蛇男、親の因果が子に報う、やア評判ぢや評判ぢや」と、空徳利もて板の間を打ちたたく。

 女房の手前てまへ気の毒さは云ふにも足らず、萬一もし血の上る事ありもせばと、與太郎はむしりたき程切なき胸を、斯かるおやちし身の不勝ふしよう押鎮おししづめても、流石さすがに涙ぐみたる眼に、屏風の中をさし覗けば、お都賀は枕に顔を押当て、岳父しうと悪口あくこうに裂けなんず胸の苦しさに、時をつて催し来る陣痛を、声立てまじと身を悶えて忍べるてい。與太郎は見るに眼を閉ぢ、枕頭まくらもとに坐りし膝はわななきたり。

 お都賀の肩に手を掛けたる與太郎、「お都賀。」「え。」と、お都賀は顔も得あげで、僅かに漏らす返事だに、忍音しのびねにしてなんだをもちたり。

「辛棒して呉んねえ、よう。今なァ、産婆ばアさんも今来るから、霎時ちツとの辛棒だ。耐忍がまんしてなア、自分おいらが知つてらア、手前が心配しんぺえすることアねえんだ。能いか。恨むない。恨んで呉れるな、よう。お願ひだ。」と、耳に口を寄せつつ云へば、「あー、なアに、あたしや恨む––人を恨む事はねえよ、自分てめえを恨むばかりなんだよ。だがね與太さん、あたしや実に因果なんだね。考へると……。」と云ひかけて、さぐり手に夫の手をしかと握り、身を顫はしつつ泣く。

 

    二

 

 お都賀は俗に厄年と云ふ十九。細面ほそおもてにして下品げすならぬ面貌かほだちも、名から松皮まつかはばるる黒痘痕くろあばた、眼さへ左には星りたり、鼻も口も尋常ながら、眉毛まゆ赤土あかつちの土手に、枯木の扶疎まばらなるも斯くや。髪はいぼじり巻のびんたぼも、火のくばかりあぶらなく乱れぬ。苦痛くるしみしんつかれ気衰ヘ、結びし唇頭くちびる打顫ひ、夫を見上げし眼は、白眼しろめに血さへ走りたり。

 おもては人の花、眼はまたおもての花なるべし。色の白きにも七難はかくすと云ふに、かほの色は黒きが上に赭味あかみち、薄痘うすいもさへ可厭いやなるを、目に釘する松皮痘痕はうそう、吉五郎が口癖として、隻目はんめ蟾蜍ひきがへると罵れるも、憎きが上の悪口あくこうのみにはあらざりけり。

 なべての上に美しきをづるは、自然おのづからなる人情ひとごころして百年偕老かいらうの妻をえらまんに、美人漢と眠れるが多き世に、如何いかなれば一つならず二つまで、花の色香なきをばりたりし、與太郎が意中こそ不審いぶかしけれ。

 與太郎と吉五郎とは、血を分ちし親子にはあらざりけり。吉五郎が女房われに子なきを悲しみ、世話する者あるに任せ、親知らずの約束して、腹も痛めず我子となせしは、與太郎が二歳ふたつの秋の暮なりきと云ふ。

 雛人形はおろか、ちん猫さへまうけし子の心になりて愛づること、石女うまずめには多きためしなれば、して神かけ欲しかりし兒の、われを親とし馴染なじむに、他家よその親には笑はるるまで、限りもなう鍾愛かはいがりし與太郎が養母は、今より十年以前むかし、春三月雪降りし年の、其月の上旬はじめより余寒にてられ、さちなく余病さへ起りて、半月とは臥しもせで、散るを櫻花さくらの盛りなる頃脆くも世を捨てたりき。かりしより後、與太郎は吉五郎が手に成人ひととなりて、やがてぞ小腕こうでながら父には勝り、朝夕てうせきに追はれざる迄にはなりけるなり。似た者夫婦のみにはあらざりけり。吉五郎は其妻にかはりて、與太郎を子とし愛せるならねば、女房世を去りし後は、職業しごと思はしからずとて、我のみ酒臭き息を吐きても、與太郎へは朝夕てうせきを缺かしめし事も多かりき。斯くしつつも尚ほ與太郎を養ひ、螟蛉やしなひごなる由をも知らしめざりしは、思ひのほか小腕の利きて、あはれ一人前の大工となりなん見込あれば、これに依りて老後を安くせんと思ひたればなりけり。養母が與太郎の螟蛉やしなひごなる由を、彼のみにはあらず、世間へも深く包みし上、度々住居すまひへたれば、與太郎はを知らん機会をりなかりき。父の辛きにつけては、飢にられざる夜半よはの枕に、亡母愛懐なきははなつかしの涙は注げど、さて父を恨まん心はなく、命とし好きなる酒なるを、何程なにほど飲まれたればとて、何程の事かあるべき、稼ぐに追付く貧乏なしとさへ云ふものを、老後を樂しくさせてこそ、養育の恩の萬分まんぶ一をも報ずるなれと、日毎の賃金かせぎは我手へ留めずして、ことごとく父にわたし、尚ほ酒料のみしろ不足たらざることを憂ヘ、おのれは粗衣粗食を分とし、花街いろざとは云ふもおろか、つい鼻のさきなる郡代の矢場さへ覗きしことなかりき。されば、仲間の若者等には、交際つきあひを知らざる唐偏朴たうへんぼく、さては愚頭ぐづ與太と綽号あだなせられて、列外のけものにされたれども、我は我なり、人並にはづるればとて何かあるべきと、口惜くちをしと思ふ気色けしきだにあらざりき。

 されども、ほどを知らず飽くことを知らず、はかりなき酒料のみしろばかりかは、吉五郎が贅沢三昧に、與太郎一箇ひとりの腕に油を絞ればとて、いかでかささふることを得べき。稼いでも稼いでも、朝夕てうせき出入でいりに不足を責められ、たまたま病気或は職業しごとなきため家に在れば、其日のれうにも追はるる不始末。酒なければ瞬時しばしもあり難き、父が不機嫌を見るが可厭いやさに、四苦八苦の算段さんだんも尽きがてなり。加之そのうへ朝夕の炊事みごしも其手にすなれば、四六時中心も骨も折れ果てんとし、怠るとにはあらねど、自然おのづ職業しごとに身の入らざる日さへあり。職業に身を入れねば、得意場とくいば思惑うけ悪く、うけ悪ければ賃銭かせぎすくなく、結局つまりは父の不機嫌を見るこそ辛けれ。世をも人をも無情あぢきなく覚えて、今は根気も尽果てたるを棟梁のなにがし見かねて、が内幕を聞きもし協議さうだんをも遂げたる末、是を救はんには、女房をつの外あるまじと勧めけるを、肉身分けし親子差向さしむかひにてさヘ、円滑まるくは行き難き中ヘ、他人が入りてはと、與太郎最初はじめうち謝絶ことわりたれども、女房は家を治むる道具、これなくては如何いかでか家をさまるべき、家治まらずば、いかでか世に立つことを得ベき、殊に父御おやごの介抱をたのみ置かば、後やすく心も長閑のどかに、職業にも充分みツちり身を入れらるべし。さすれば、自然おのづ生活くらしも楽になりて、父御ててごへの孝養も出来る道理にはあらずやと、真心ある勧めに承伏しようふくし、似合にあはしき縁もあらばと頼み置き、喜ばせんものをと、父へ其由を告げけるに、吉五郎は心中面白からず、嫁とは云へど心置かれて従来これまでの我儘はなるまじ、云はばかたきを二人にするも同じこと、今でさへ酒料のみしろ不足勝たらずがちなるに、人一箇ひとり殖えるだけ影響わりを食うて溜るものかと、兎角に難じてうんと云はねば、與太郎は板挟みになりてこうじ果て、父不承知なるを如何にせん、押してめとらば却つて風波ごたごたの起る種ぞと、棟梁には謝絶ことわりけるに、其様そんな没分暁漢わからずやの親があるものぞ、乃公おれに任せよと、吉五郎に会ひて理害を諭しけるに、道理には横紙も破れず、渋面つくりながらも承伏しければ、相談はなしは早く嫁を迎ふるばかりに進みたりき。

 斯くて、棟梁が媒酌なかうどに迎へしは、何処へ出しても羞しからぬ容女をんなぶり、色白にて眼に権をもち、口尻あがり小股しまりて、半天を引掛ひツか吾妻下駄あづまげた突掛つツかけし姿は、與太には惜しきと仲間に評判うはさされ、羨まるる迄夫婦なかは睦まじかりしに、何とかしけん廿三日目に逃帰りて、彼方むかうより無理離縁ひまりぬ。次に迎へしは、むツちりした丸顔、眼の下に黒子ほくろありて愛嬌ぽたぽたと落ちなん風情、年も十七咲出でし花に比べたりしに、或夜泣明せし次の日、吉五郎が洗へ行きし留守の間に見えずなりぬ。六人目迄は三十日とは辛棒せず、何れも逃帰りたれば、後には、何か有るまじき評判うはささへ立ちて、媒酌なかうどせんと云ふ者さへあらずなりき。七人目に来りしは、今の女房お都賀なりける。

 與太郎は六人の女房に懲り果て、此上は一生独身ひとりにて暮すの外なし、父を見送りし上ならば、また御相談をも願ひませうが、先づそれまではと、たまたま、世話せんと云ふ者あるをも謝絶ことわりたりき。さるに、不思議なるは父の吉五郎、さきに嫁を迎ふるは不承知なりしに似ず、頻りに與太郎を促し、一日も早く七人目を迎へよと云ふ。萬事に父のことばを背かざる與太郎なれども、懲りる仔細ありて懲りたりし今日こんにち容易たやすくは承引うけひかざりしに、餘りに迫らるる事の切なるより、又同じ事を繰返すも可厭いやなれど、詮方しかたなきまま無益だめと思ひながらも、七人目を迎ふることとはなしけり。

 生来うまれつき不具かたはならねば、容姿きりやうには望みなし、気立素直にして実意深く、難物むつかしや岳父しうとの機嫌を損ねざらん女をとの希望のぞみ。親ある身には道理ある希望なれども、何かが隠れなき評判となりたれば、與太さん一人の処ならば、望んでも遣りたきものなれども、あの岳父殿がと、うしろを見するもののみなりしに、去る人の世話にてお都賀と見合せし時は、いかに容姿きりやうに望みなしとは云ひながら、與太郎は此はと二の足を踏みたりしが、女らしき女にはや懲り果てたり、此女ならば去る事もあるまじ、花ありても実なくば何かせん、外見はかはらこいしなりとも、内に金玉きんぎよくを包みたらんこそ、家に取りての宝なるべけれと、即座にお都賀を娶るべしと約したりき。斯くと聞きたる吉五郎、喜ぶかと思へば不承知を唱へて、一つには家の飾りともなるべき女房、醉興にも程こそあれと難ずるを、一旦約せしを犬猫同様、てのうちかへす違約へんがへもなるまじ、兎角とかくに私が望みなればとて、つひにお都賀をめとりたりき。前々ぜんぜんの六人の嫁にはかはりて、お都賀が輿入こしいれの其夜より、吉五郎莞爾にこりともせざれば、岳父しうとは辛き者とは聞きたれども、これほど迄とは思ひ掛けざりき。とは云ヘ、兩親ふたおやには幼時はやく死別わかれ、頼みにすべき兄弟もなければ、親戚しんるゐとても構つて呉れざる、生来うまれつきならねど不具かたはに等しく、色も香もなき此身を、縁ものとは云ひながら、女房につて呉れたる夫の志こそかたじけなけれ、岳父の何程も辛くば辛かれ、見事に辛棒遂げて、鬼を佛に為しなんこと、我心の持ちやう一つなるべしと、お都賀は健気けなげにも思ひ定めつ、留守勝なる夫、家にのみ在る岳父しうといづれへも、陰陽かげひなたなく真心もて仕へけるにぞ、今度こそはと、與太郎が頼母たのもしく思へるには引更ひきかヘ、吉五郎は朝から酒びたしの我儘三昧、下女同様に追使へど、はいはいと柳のしなひには、野分のわきもすさぶに張合なく、兎角して一月余りは過ぎたりき。

 或日の夕暮なりき。與太郎は例の職業しごとに出でて留守なりしが、何事のおこれるにや、お都賀は俄然にはかに泣声立てつ、家外おもてへ逃出しぬ。一軒きて隣家となりの老婆、其声を聞付けて馳来はせきたり、何事ぞと問へども、お都賀は仔細を云はで唯泣くのみ。家内やうちをさし覗けば、吉五郎眼を怒らして突立つツたちたるが、家外おもてまで追出でんとするにもあらず、老婆が来りしを見て、何とやらん手持無沙汰の気色けしき見ゆ。

 老婆は解けかかりしお都賀が帯を引締め遣りつ、「泣いてちやア見ツともねえよ。まア如何どうしたてえんだね。お都賀さん、私に理由わけを話しなさるがい。吉さん、お前さんも、様子は知らねえけれど、まア勘忍して遣つて呉んなせいよ。與太さんは留守ゐねえし、まア静かに。……お都賀さん、如何どうしたてえんだよ。」と、雙方を押和おしなだめ、様子を聞糺ききたださんとすれども、お都賀は尚ほ泣入りて言葉はなし。

「おさん、放棄うツちやツといて呉んねえ。太い阿魔だ。其様そんなつらアしてやアがつて、生意気をぬかすない。與太が帰宅けえつたら、何だとかぬかしやアがつたな。うす野呂の與太兵衛よたんべえを誤魔化しやアがつて、能い加減な作言うそきやアがると承知しねえぞ。何だッ、其面そのつらア。隻目はんめ蟾蜍ひきがへるよろしくてえ面アやアがつて生意気な事吐ぬかすない。作言うそつきやアがると、生かしちや置かねえから、さう思つてやアがれ。おさん、放棄うつちやツといて呉んねえ。此様こんな強情な……太い阿魔ツちやねえ。與太に何とでも云つて見ろい。作言うそをつくなら吐いて見ろい。」

 いざと云はば、打ちも掛りなん吉五郎が見脈けんまくに、老婆は仔細は知らねど、また例の一件ではあるまいか、まさか今度のに其様そんな事はと、尚ほ疑ひを存しつつお都賀を問詰むれど、泣入りて仔細を語らず、僅かに口を開きて、「何様どんな面ア為て居たツて、心まで……。」と、云掛くれば、吉五郎が噛付く如き怒声どせいに、云はんとしては云ひかぬる風情ふぜいなり。老婆はいよいそれさとれど、知らず顔に吉五郎をなだめつ、お都賀を慰めつ、兎角しける処ヘ、與太郎帰宅かへりたりき。

 老婆は與太郎にむかひ、おのれが見し様子ままを語りて、仔細しさいは知らねど、お都賀どの悪きものなれば、悪き様に詫の為様しやうはお前の心に在るべし、なまじひに他人が入つたなら、そこには蓋もる道理、親子夫婦三人水入らずの和合なかなほりをと、よき機会しほにして帰り去りぬ。

 與太郎は詫をするにも、謝せしむるにも、さし当つて迷惑したれど、何がなしに酒の事と、泣居るお都賀を叱りて酒屋へと走らせ、何事もこれに免じてと、膳を賑はす下物さかなも二三ぴんらぬ口ながら其身も唇をうるほし、仔細は不言いはず不語かたらず、一場の段落をさまりはつきたりき。

 此よりの後、お都賀は岳父の顔を見れば、浅猿あさましやと思ふ心の動きて、包むとすれど色に出づれば、吉五郎は口続けに隻目はんめ蟾蜍ひきがへると罵りつ、酒に怒を漏らして夫婦ふたりに当れば、與太郎が眉間みけんひそみ、お都賀が眼のあかからざる日とてはなかりき。

 斯かる中にお都賀は妊娠みごもりたりしが、他家よそにては打祝ふべきを、吉五郎と云ふものあればこそ、因果を宿せしかの如く打歎く、夫婦ふたり意中こころこそ哀れなれ。

 

     三

 

 僥倖さいはひにして血も上らず、胎兒はらのこにもつつがなく、お都賀は夫の優しき心を塩釜しほがま守札まもりともすがりて、産婆来りし後は思ひの外に産もかろく、身二つになりし嬉しさ何物にかたぐふべき。

 産声うぶごゑにも力あり、男兒をのこなりと聞くに、與太郎が喜ぶ顔を見るより、産婆も手柄顔に吉五郎がそばへさし付け、「御覧なさいまし。御器量好しでいらツしやいます。丸々とお肥りなすつて、このお可愛いこと。まア笑ひさうな顔をなさつて。」と、ゑみを含みつ、「さアお爺ちやんですよ。」と、愛想を花に孩兒みどりごを見せけるに、此時までも徳利を放さざりし吉五郎、振向きだにせざれば、産婆は継ぐべき言葉を失ひて呆れたり。

 與太郎は斯くと見て、産婆が思はん所も気の毒さに、「家爺ちやん鳥渡ちよいと見て遣つて呉んねえ。折角産婆をばさんが連れてッて呉れたんだよ。可愛くもあるめえけれど、ねえ家爺。」と、促されたる吉五郎、「何だ見て呉んねえだ。何を見るんでい。」と、漸くにして朦朧たる醉眼を此方こなたへ向けたり。

「何だ、孩がきか。見ろてえな、此か。はゝはゝ、不思議だなア。此でも人間並の面アしてやアがるから、変梃来へんてこらいだなア。生れねえでも好いんだに……。痘痕面あばたづらもしねえで、眼も雙方ふたつある処がまア儲けもんだ。何だッて。可愛かろだア。産婆をばさん、串戯じやうだん云ひツこなしだぜ。自分おいらは此奴の方が、余程よつぽど可愛いや。なア、手前てめえとが一番気が合つてらア。何時見ても憎くねえな、手前てめえばかりだ。さア、もう一ぺえ可愛がつて遣るべい。」

 吉五郎が言葉の終れる途端に、屏風の中なるお都賀、はアと声立てつつ泣く。産婆は驚き呆れながら萬一の事ありてはと、與太郎へ眼顔めがほの指図に、與太郎はお都賀が手をきツと握りしめ、耳に口を寄せて、「今始まつたこつちやアねえや。耐忍がまんして。いか。気を落付けてなア。何と云つたッて能いや。今手前てめえ如何どうつて見ろ、おいらが困るばかりぢやアねえや、何にも知らねえ孩がきが、第一でえいち可哀想かええさうだ。耐忍がまんして呉んねえ。能いか。さア気を落付けねえ。な、な、な! 能いか。」と、吉五郎へ聞えざる程に慰め励ますなり。

 お都賀は夫の心配するが気の毒さに漸う涙を拭ひつ、袖より僅かに顔をはづし、與太郎を見て言葉なく首肯うなづきしが、見まじとすれど見ゆる屏風越の岳父しうとの顔の、悪鬼羅刹あくきらせつよりも尚ほ怖ろしさと、当座の口惜くちをしさと、行末の覚束おぼつかなさとに、忍べども降りかかる身を知る雨に、又もや袖を蔽ひて泣く。

 斯くて其日は暮れぬ。次の日より與太郎は職業しごとやすみて、お都賀が傍に付添ひ介抱なす。産婆への礼物こころづけを始め種々いろいろ費用ものいり準備おもひしより二倍の上となりたるに、職業をやすめる事とて、吉五郎が酒料のみしろを云ふ儘に應ぜざればとて、不足のたらたらを、朝まだきより怒鳴り立つるに、與太郎がこうじ果つるよりも、そばに聴く身のお都賀の辛さ。夫の志の難有きに付けても、少しも早く床を上げてと、心急ぎのみせらるれど、重病の後に等しき疲労つかれに起きんとはもがけど、眼くらみ頭ふらつき、思ふ儘になり難きこそ術なけれ。

 遠慮会釈もなき父に追使はれ、酒屋其外への走り使ひ、孩兒あかを懐にしての炊事みづしごと、男の身にはなるまじき事を、いやな顔一つ見せず、朝から晩まで煙草む間もなき與太郎が骨折心配こころづかひに、お都賀は耐へ兼ね、剽輕かるはずみしてはと止めらるるを、最早もう何の事もなければと起出で、足元の危うきを見せじと踏みしめ踏みしめ、まだ鉢巻はらで台所ながしもとに立働くを、岳父が例の悪口は例の癖と耳にも止めず、其日より夫を勧めて、職業しごとへといだし遣りぬ。後髪ひかるる心安からで、與太郎は一軒きし隣家となりの老婆に留守の間を注意きをつけてと、萬事を頼み置きて、漸く職業に出づることとなしけり。

 一日も気の晴々せいせいすると云ふ事はなけれど、孩兒あか命名日しちやも昨日と過ぎ、昨夜ゆうべからは與吉よきち々々と、日に夜に可愛さの勝りて、宮参みやまゐりをも身分相応に済ましぬ。此頃はやそろそろ笑ひ掛くるに、食初くひぞめ百日そのひも明日となれば、贅沢らしうはあれどもあかの膳と朱の椀、真似ごとに等しき形ばかりのものならば、高価たかきことはあるまじ、今日の帰宅掛かへりがけに、お前さんの見繕ひにて、調ととのへて下されと女房の頼みに與太郎も首肯うなづきて出行いでゆきたれば、お都賀は心嬉しく、夫の帰宅を午前ひるまへより待受けたりき。

 秋の日の暮れ易くて、隣家となり質商しちやの土蔵に日影なくなりければ、お都賀は門に立ちて、夫の帰宅を今やと待ちける後に、大欠伸おほあくびしつつ午睡ひるねより目ざめし吉五郎、「げーい。あッあー、あー厭な気持だ。何だ、もう暮れるのか。暮れようが暮れめえが、夜が明けようが明けめえが、其様そんな事にやア用はねえ。やい、お都賀。居ねえのか。何だ、其様そんなとけ茫然ぼんやり突立つツたつてやアがッて、如何どうしたてえんだ。さア早く燗をねえか。いや、燗するめえに、大阪屋へ行つて来るんだ。愚頭愚頭ぐづぐづしねえで、早くしろい。」と、しツするが如きは岳父しうといつもの調子。

「おや、お起きなすつたの。今行つて来ますよ。」と、お都賀は内に入りて、財布を出して中を探れば、さても不思議、今朝までたしかに在りたる銀銅合せて二十何銭、何時の間に何人だれが出せしか、数を尽して失せたるに胆をつぶし、驚き呆れて言葉も出でず。

 吉五郎はぎよろりと見つ、「如何したてえんだ。何だ、其様そんな面ア為やがッて。無えのか。酒買ふぜにが無えのか。」

「無い筈はないんだけれど……。」

「無えんだけれど、如何したてえんだ。」

「どうも不思議だ事。如何したてえんだろ。まア。」

「不思議だ。何が不思議なんでい。財布へ入れてえたのが、無えてんだな。」

「えー、たしかに、私が入れといたのに……。」と、お都賀は首を一趣かしげたり。

 吉五郎はお都賀を睨みし眼を光らし、「なにをぬかしやがるんでい。乃公おれ窃取どろばうしたてえのか。」

「あれ、お家とツさん。さうぢやアありませんよ。」

「さうぢやねえ。さうでなきや、如何したてえんだ。やい、お都賀。考へて見ろい。いか。此家うちに居るものア、手前てめえ乃公おれと其孩兒がきと三人だ。能いか。其孩兒がよもや……手前の腹から出やアがつたんだが、手も足も動けねえで、眞逆まさか窃盗ぬすツとめえよ。能いか。して見りやア手前誰が盗んだてえんだ。ふざけたことぬかしやがると、承知しねえぞ。」

「あれ、まあ、お家とツさん、何ですねえ。其様事が……。何人だれが其様事を思ふもんですかね。」

「思はれて溜るかい。阿多福おたふくめ。やい、隻目はん。手前能くも其様事をぬかしやアがつたな。其様事を吐すからにや、手前手證てしようを見たてえんだな。面白おもしれえや。さア何処へでも引張つてけ。警察へでも、何処へでも突出して見ろい。」

 お都賀は今は泣声になり、「まア如何したら能いだらうねえ。お家とツさん、気に触つたら勘忍して下さいよ、何も其様そんな事を思つて云つたんぢやないんですから。本統ほんとうに飛んでもない。何様どんなにでも謝罪あやまりますから。」と、吉五郎が前へ手をき、詫言わびごとしつつ涙はらはらと落しぬ。

「ぢやア何だな。手前が譌言うそきやアがつて、其を乃公おれ所為せゐにする積りだつたんだな。」

「あれ、其様そんな……。如何してお家爺さんに……。其様可おそろしい事を…。」

「いや、さうだ。其にちげえねえ。うぬッ、如何するか見やアがれ。」

 吉五郎あはや立掛らんとするに、お都賀は與吉に怪我あらせてはと、「お家爺さん、勘忍して下さい。」と、叫びつつ與吉を抱へて、水口みづぐちより家外おもてへ逃出しけるに、折能くも與太郎帰り来りければ、お都賀は嬉しく、「お前さん。」と、ひしと夫に縋りて、遂に声を立てて泣出したり。

 與太郎は驚きながらも、また例の一件かと、ことさらに落付きて、其仔細をたづねんともせず、目まぜにお都賀を制し、静かに家内うちに入り、股引足袋の塵埃ごみを手拭もて払ひなどして、さて父吉五郎へ会釈しぬ。吉五郎は與太郎が落付過ぎたるに、一入ひとしお怒気いかりを加ヘ、「與太ツ、隻目はんめを追出しちまヘ。彼様あんな阿魔をうちに置くことアならねえぞ。」

「えッ。」と、與太郎は父の顔を仰ぎて、「追出しちまヘッて。何だか知らねえが、家爺ちやん勘忍して遣つて呉んねえ。お都賀、手前早く来て謝罪あやまつちまヘ。不可いけねえぢやアねえか。此から気を付けろい。」

「謝罪つたッて承知出来ねえんだ。親に向やアがつて、窃盗どろぼう呼ばはり為やがつたんだ。」

「何だッて。家爺ちやんを窃盗だツて。お都賀、手前何を云つたんだ。家爺を窃盗なんて。他の事たア一処にされねえ。如何したんだ。如何した訳なんだ。さア其訳を話して見ろ。次第に依つちやア、おいらも承知出来ねえぞ、さア早く云はねえか。」

 夫にまで誤解まちがへられて何となるべき、とお都賀は先刻の始終を述べ了り、「いくら私が気が利かないからと云つて、お家とツさんを窃盗どろぼうだなんて如何して其様事を云やアしません。其様可おそろしい……。」と、云掛けて又もや泣声になり、末はしかと聞取難し。

「はゝはゝゝ。」と、與太郎は笑ひ出し、「こりやア大失敗おほしくじりだ。家爺、勘忍して呉んねえ。お都賀、手前が悪いんでもねえんだ。おいらの大失敗なんだ。今朝手前が與吉ばうず食初くれえぞめの祝の、膳と椀と欲しいてえから、今日帰路けえりに買つて来て遣りてえと思つたんだが、懐合ふところぐええが悪いから、手前の財布をはたいて行つたんだ。云つて置かうと思つたんだがつい忘れツちまつて……。」と、頭をきつつ父にむかひ、「さう云ふ次第なんだから、家爺ちやん勘忍して遣つて呉んねえ。おいらが大失敗おほしくじりだ。」

 夫の言葉に胸撫下せしお都賀が眼前めさきへ、與太郎は買来りし註文の品々を列べたり。

 お都賀は膳と椀を手に取上げ、「お前さんが持つてくなら持つてくと、さう云つて置いてお呉れだと、此様こんな事にやならないのに。其を聞いて、実に安心したよ。」と、云ひつつ手にせし物をつくづく視て、嬉しさは色に見えて莞爾につこりし、「好い事ね、可愛らしくツて。」と、ひねくりや余念なげなり。

「塗がいから、思つたよりか散財おごつて来た。財布の底をはたいちまつて、これ此通りだ。」與太郎財布をはたき見すれば、お都賀は心に驚き、ぢツと夫の顔を見る。與太郎もそれと気付きて、失敗しくじりたりと思へば、自然おのづ眉間みけんも曇るめり。

 様子を見居たる吉五郎、「與太、そりや何でい、鳥渡ちよツと見せな。何だ、孩兒がきいええの膳椀だと。馬鹿野郎め、何の真似やがるんでい。大事の親の口を乾しやアがつて、其様こんな真似為て見てえんだな。えーツ。」と、罵るかと見る間に、足を上げてお都賀がかたへ蹴付けたり。

 あなやとばかりお都賀身をかはせば、膳は飛んで柱に当りてふち離れ、椀は不運にも與吉が頭をはたと打つ。わツとばかり泣出せば、余りの事に與太郎も、「家爺ちやん、お前もあんまり……。」と、云掛けしが思返し、さし垂頭うつむきて眼をねむれば、お都賀は我も共音ともねに泣きつ、「ええ、たがよたがよ。」と、與吉が頭を撫でつさすりつ。

 

     四

 

如何どうだの、お都賀さん。今日はちツたアいかの。」

 水を汲みにとて、井戸端に来りし隣家となりの老婆、どぶを前にして小兒せうに襁褓むつき洗浄きよめ居るお都賀に声掛け、背に負ひたる與吉が顔をさし覗き、「睡眠ねんねだね。あれ笑ふよ、夢を見てるさうな。ほゝほ。まアなんてい可愛い顔だらう。あれ、また笑ふよ。きちさんにや可愛くねえのかの。可哀さうに、ひでい事を。まだ熱はれねえかい。飛んでもねえお祖父さんだなう。」

「あ−、まだめねえで困るのさ。」と、お都賀は老婆の顔を仰ぎ見、「詮方しかたがねえやね、なげいものにや巻かれろてえから。だがね、此兒このこも可哀想だよ。罪もねえ、何にも知らねえものを……いツそ死んぢまつた方が、此兒の幸_しあはせかも知れねえよ。ねえ、をばさん。」と、さし垂頭うつむきて眼には涙見ゆ。

戯言じやうだんお云ひでないよ。おめえ其様そんなぢや為様しやうがねえよ。なにお前、何時まで生きてられるもんでねえやね。其中そのうちにや楽にならアね。短気を出さねえで、辛棒してお居でよ。御覧な、また笑つてるよ、孩兒あかんぼは本統に仏様だなう。與太さんもつれこツたらう。お待ちよ、私が汲んで遣るから、早くけてお仕舞ひよ。さアいかい。」

「はい、難有ありがたうよ。はばかり様。本統だよ、與太さんが可哀想さ。自分てめえの亭主をめるんぢやねえけれど、彼様あんな好人物いいひとは滅多にありやしねえよ。本統に可哀想かええさうだよ。ねえおさん。大概てえげえの人なら、いくら親だッて、如彼あんなせちやア置かねえやね。自分てめえ勝手を云ふんぢやねえけれど、お家とツさんが居なかツたら、與太さんも何程いくら楽だか知れやアねえよ。與吉坊だツて、此様こんな酷い……。」

「本統にさ。だがね、憎まれ者何とかとやらでね、自由ままにやならねえもんさ。もうなげい事もあるめえよ。」

勿體もツてえねえけれど、あんまつれい時や、其様そんな感情かんげえも出るのさ、與太さんを楽にしてえと思ふとね。」

 お都賀は洗ひし襁褓むつきしぼらんと腰をし、露路ろじより見ゆる本街ほんどほり往来ゆききざわつけるを見て、「おさん、何かあるのかねえ。往来が大層賑かぢやアないかね。」

「うー、あれかい。ありやおめえ葬送おともれえがあるんさ。」

何家どこから出るんだらう。何人だれが死んだんだらうねえ。」

「私も今聞いたんだがね、それ此先の呉服屋の甲州屋さんね。彼家あすこの旦那が一昨日をとてえの朝死んでたんだツて。其をお前、同室おんなじとけえ寝てえたお_さんが、ちツとも知らなかつたてえんで、世間ぢや種々いろんな事を云つてるんさ。可哀想かええさうのお_さんが、彼様あんな可愛らしい顔をしてえて、眞逆まさか其様そんな……。情人いろをとこがあるの何のツて、世間ぢやア云つてるんだが、眞逆其様そんな事アありやめえよ。」

「おや、まア。眞逆ねえ。其になんだてえぢやないかね。今ぢや厳重やかましくツて、薬種屋だツてお上の規則があるてえから。」

「そりやアさうだがね。さうばかりも云へねえやね。『亭主投げるにや、の手が好かろ、青い蜥蜴とかげ蝿虎はえとりぐもまぜて』ツて、唄にせえあらアね。」

「おや、其様そんな唄が。」

「お前なんざア知るめえよ。わしの娘の時代じでえ流行はやつた唄なんだよ。『青い蜥蜴に蝿虎まぜて』、そのあとア何とか云つたツけ。中々流行つたもんさ。」

「青い蜥蜴に蝿虎まぜてツて。可怖こはい唄だ。あゝ、慄然ぞツとする。」

 折から甲州屋の葬送とむらひ露路前を通ると聞くより、老婆は其を見物せんとて、溝板どぶいたに下駄踏み返しつつ走り行く。お都賀は小唄を聞きてより、身柱ちりげ寒き心地し、顔色さへ変りて、葬送を見んともぜず、少時しばしは茫然として立ちたりしが、吉五郎に呼ばれて、急ぎ我家に入りたり

     *   *   *

 四五日過ぎての午後ひるすぎ、お都賀は井戸端に、我が夫幼兒をさなご衣服きものを洗濯しけるに例の老婆も濯物すすぎものせんとて出来いできたり、何時も話種はなしは盡きぬものにや、世間話に余念なし。

「おさん、何の事もありやア為ねえよ。唄なんか虚譌うそなんだね。」

 お都賀は斯く云ひて何気なにげなきてい。老婆は聞くより吃驚びツくりし、覚えずお都賀の顔を見詰めたり。

「唄なんかうそだツて。お都賀さん、お前……。」と、丸くせし眼に前後あとさきを見廻し、小声になりて、「お前、ためしでもたのかい。」

「なアに。ほゝほゝゝゝ。おさん戯言じやうだん云つちやア不可いやだよ。」とは云へども面色めんしよくかはり、無理笑の声淋しげなり。

そんならいけれども、私や吃驚しッちまつたよ。」

「なアにね、唄なんかに在ることア、大概てえげえうそだから、青蜥蜴なんか何にもなりやめえともつて。云はねえでも好いことを。ほゝほゝほゝ。」

「そりやさうさ、其様そんな事があつちやア溜らねえよ。お前のとこの吉さんなんざ、何を食はしたツて効くめえよ。青蜥蜴で無効いかなきやア、黒蜥蜴でも食はして遣るさ。はゝはゝゝゝ。」

「おさん。其様そんな事を。あゝ、可怖こはいこツた。」

「さうさね。串戯じやうだんにも此様こんな事は。おや、もう暮れるよ。」

「私ももう止さうよ。お婆さん、また明日あした。」

「あー。與吉坊又熟睡ねんねだね、ぢやアお去らば。與太さんがけえつたら遊びにお出でよ。」

「えー、難有ありがたう。」

     *    *    *

 或夜の事、與太郎は仲間の集会よりあひに夜をかし、帰宅せしは十二時余程過ぎし頃なりき。

 戸外おもてより声を掛くれども答なく、戸をたたけども返辞なし。詮方せんかたなさに戸をこぢ明けて内に入れば、燈火ともしび消えたり。不審ながら尚ほお都賀を呼びけるに、鼾声いびきだに聞ゆることなし。加之かのうへ可厭いやな臭の胸を突くばかりなれば、心驚きせられて、火鉢を探り当てて燧木マツチ取出し、火を擦るより打驚きて、覚えず尻居しりゐに倒れたり。父吉五郎耳口より血を吐き、こぶしを握りて死し居たるに、與太郎はあッ一声ひとこゑ吃驚おどろきに打たれて何事としもわきまへず。お都賀も見えねば、與吉も見えず、如何いかにせしやらんと、これにも思ひ惑へる折しも、隣家となりの老婆入り来り、懐には與吉をいだきたるに、與太郎は一層疑ひ起りつつ、様子や知りたると問へば、老婆も吉五郎が様に胆を潰して、少時しばしは息をもつかざりき。

 老婆も様子は知らねど、今より一時間ばかり前にお都賀来りて、買物に行きて帰り来る中、與吉これを預りてと云ふに、今宵に限らず幾度も先例ためしあり、何の仔細もあるまじと預りたりしが、今しも與太さんの声聞えしより、與吉ばうを返さんとて来り見れば、此有様に胆を潰せしなりと云ふ。

 與太郎は早くも手洋燈てランプともし、四辺そこら見廻せば、今しも我が引出せし火鉢の抽匣ひきだしにや挟まれたりし、手紙らしきものの落ちてあり。手早く取上げ見れば、お都賀より與太郎へ残したる遺書かきおきなりき。與太郎は此にも胆をつぶし、遺書を見詰め、読めども其意をり得ず、持ちし手の戦慄うちふるはるるのみ。

 

 ……自分ながら自分の気がわかりませぬ、何を為たのか、唯夢の様な気が致し候、怖くて居ても立つても居られませぬ、死にに参り申候、私は気が違つたのだから、気違ひだと思つて、何卒どうぞ勘忍して下さいよ、お前さまを楽にしたい、ほかに願ふ事は何にもないのです、あたしちたいでせう、殺したいでせう、私も殺されたいのがねがひに候、お前様のお帰りを待ち候へども、待つて居るうちも怖くツて、家内うちに居る事が出来ず候、坊はお隣のをばさんに預け置き候、可哀想なのは坊に候、坊に別れるのは悲しいけれど、生きては居られない私は悪人、人を、家爺おとツさんを、勘忍し下されたく候、悪人の子だけれどもお前さんの子だから、可愛がつて下され度候、私は死にに行きます、達者で居て下さい、坊も達者で居て下さい、あー書きたい、種々いろいろな事が書きたい、もう書けませぬ、まだ忘れた事が澤山あり候、坊を頼み候、悪いけれども勘忍して下されたく、どうか察して下されたく、こればかりが願ひに候、もう紙が……

 

 紙尽きて筆も亦尽きたり。尽きざるは與太郎が遺憾うらみなんだとなり。傍より差覗く老婆も涙禁なんだとどあへねば、懐中ふところなる與吉も何におびえてか、わツとばかりに泣出なきいだしぬ。

 人を頼みて警察署へ訴ヘ、検視を受け手続きをも済し、其夜は父のかばねを守り明し、心には掛りながら、お都賀が行方は探しかねたりき。

 翌朝まだきに、警察署よりの召喚せうくわんに出頭し見れば、濱町河岸がしの杭に流れ掛りし水死の女あり、人相其方そのはうさいに似たればとの申渡しに、それはと駈付け見れば、面影も変らざるお都賀の死骸に、與太郎は人目も羞ぢず泣き倒れたり。

 嫁と舅なれどもかたき同士を、同じ日にもされまじと、二日引続いて二箇の棺桶に、施主せしゆは與太郎と與吉と一日づつ、知れると知らざると、見る者泣かざるはなかりき。

 昼間は乳を貰ひにとて、夜間よるは泣く子をすかさんとて、あるは人の門に立ち、或は子守歌うたひ歩く、物の哀れは與太郎が上にぞ止めたりける。

 

(明治二十八年五月)