瞳 湖

東海道新幹線を米原から北陸本線に乗り換え、しばらく行くと、左側に小さな湖が見えてくる。余呉湖である。水上勉は小説「湖の琴」を、ここから書きはじめている。――余呉の湖は滋賀県伊香郡余呉村にある。琵琶湖の北端にそびえる賤ヶ岳を越えて、約一キロ半ばかり、山を分け入った地点である――と。

 この湖を知ったのは、高校二年の夏休みだった。ふるさとの大垣駅から学校までのバスを見送り、級友と共に補習をズルして電車に乗った。石川啄木に憧れ、短歌や詩を雑誌に投稿したりして、自分の時間を文学の方向へ傾けようとしていた頃だった。

 正面に賤ヶ岳、その山裾に抱かれるように余呉湖はあった。ふたりのほか誰もいない駅に降り立つと、いちめんの稲田のなかに、空の青を映して湖面が浮き上がって見えた。岸辺の公園に一本の柳の樹、「羽衣伝説」を記す朽ちかけた木札、湖をふちどる濃い緑の繁みには、灯を点すように白い木槿の花が咲いていた。しずかな水面にときおり水鳥が波紋をつくる。確かな未来も見えず、さして語る言葉もなく、私たちは湖を一周しただけで帰途に就いた。

 余呉湖は湖面が穏やかなことから、別名「鏡湖」とも呼ばれている。しかし私はこの日以来、密かに「瞳湖」と名付け、訪れるたびにその瞳の色を窺っている。夕暮れ時の湖は、まさに愛を秘めた瞳のように深いふかい藍色になるのだ。

 平成も終わりに近い冬の日、今は滋賀県長浜市余呉町となる余呉の湖に向かう。いつもの年ならこの季節、余呉は雪に覆われ白い眠りに就いているはずである。しかし、関ケ原を過ぎたあたりの車窓から虹が見えた。予期した通り、人影のない真新しい駅舎の前には残雪すらなく、雨上がりの光の粒を眩しいほどに浮かべた湖が、空を仰いで視界いっぱいに輝いていた。

 かつて旅行誌に余呉湖を紹介したことがある。短詩以外の文章が活字になったのはこのときが初めてで、私にとって本格的な文学への原点となった場所でもある。

 駅前に置かれた観光パンフレットを手に、左の岸辺へと歩きはじめる。四方を山々に囲まれ、湖周道路に輪郭を描く隙間だけを許して、湖は相変わらず閉じることのない大地の瞳。奥へ行くほど山は深くなり、右側にずっと見えている湖面の色も濃くなってゆく。

 手にしたイラスト地図は、上から見た余呉湖をソラマメの形に描いている。豆のくちびる「お歯黒」のあたりに、山並みの途切れる部分がわずかにある。そこを北陸本線が通りぬけ、余呉駅がある。ビジターセンターや観光館もここにある。両脇から湖に向けて、ワカサギ釣りの桟橋がのびている。

 いいえ、この湖はソラマメなどではなく、余呉の里にパッチリと見開いた大きな瞳。いまも真っ青に晴れ上がった冬の空を、またたきもせず見つめている。遊歩道をアイラインにして、先ほど降り立った駅は目がしらの涙丘のそば、私は下まぶたに沿って歩いているのだ。周囲七キロ、二時間もあれば瞳を一周できる。閉じることのない上のまぶたの縁を通れば、迷わず目がしらの駅に戻れる。

 茨木好子に「群青の湖」という余呉湖を舞台にした小説がある。平岩弓枝も「彩の女」の後半にこの湖を書いている。また、桜並木の岸辺にも、紫陽花の公園にも、多くの句碑が建てられている。感動を文字にする術を知っている者は皆、この湖に見つめられて心動かされるのであろう。

 けれど、余呉湖は誰も見てはいない。ただ黙って空を見つめているだけなのだ。はるか平安の昔からその瞳を逸らすことなく、昨日も今日も、そしてこれからもずっと。